2017年4月アーカイブ

"社会共助"で誰もが生き生きと輝ける社会に[第4回]

「子育てシェア」ローンチの経緯

──「子育てシェア」のアプリ・システム開発の方はどうやって進めていったのですか?

甲田恵子-近影1

保険のめどが立ったのと同じ頃、知人に教えてもらった開発会社に行ってこんなシステムを作ってほしいと言ったら、「その前に、ちゃんと続けられるビジネスなのか、続ける覚悟があるのかがわからないと開発業務は受けられない。それがわかるまでは何回でも話を聞きますよ」というので、それから半年間毎週水曜日にその会社に行って2時間みっちり代表2人を拘束して、こんな社会を実現するためにこんなシステムを作りたいんだという話から、製作費の細かい部分まで詰めていきました。そして翌2013年2月に正式に開発をお願いしますと発注したんです。ちなみにその開発会社ではいまだに私とのお見合い期間が1番長いらしいです(笑)。


──半年間みっちり話し合って理想のものができたわけですか?

開発の仕方自体が通常とは違っていたというか、一般的にインターネットサービスを作る場合、最初から設計をきちんとして、システムをしっかり作り込んで完成してからローンチするのですが、そのやり方では開発にもすごく時間がかかるので、まずは最低限の機能だけ作ってリリースして、その後は細かい機能ができたらその都度追加したり削除したりを繰り返す、リーンスタートアップという方式で開発していきました。

ローンチで潮目が変わった

その子育てシェアの最初のローンチが2013年4月で、顔見知りとしかつながらない、1時間ワンコインのお礼ルールで登録料も手数料も一切かからないのに保険付きの頼り合いの仕組みという仕様でローンチした瞬間が、AsMamaの歴史の中で最初に潮目が変わったと感じた瞬間ですね。

これまで行政や地域の活動家に子育てに困っている人たちのために一緒に何かやりませんかと話をしても、「頼り合いなんて勧めて、万が一事故でも起こったら誰が責任を取るんですか?」とか「イベント屋さん?」とか、いろいろ言われてきました。でもこの子育てシェアが完成したことで、「支援したいと思う人たちもこの仕組みを使えば、万が一の時でも保険がついてるので生活が脅かされることはありません」とか「イベントをたくさん開催しているのも、この仕組みを知ってもらう機会をつくるのと同時に、私たちは支援したいと思う企業と生活者の方々の出会いの場もつくり、人々の生活が豊かになることに貢献したいと思っているからです」としっかり言えるようになったんです。さらに、経産省からは経済的・経営的支援を得られたり、横浜市のウーマンビジネスプランコンテストで最優秀賞を獲得するなど、世の中の注目度合いも変わってきたんです。

子育てシェアをローンチしてから登録者数も右肩上がりに増えていきました。それに伴い、より多岐にわたるユーザーのニーズがわかるようになり、その都度システム変更も繰り返してきました。登録者は現在も順調に増え続けています。

集団託児の様子

集団託児の様子

逆境を乗り越えられる理由

──1人で1000人分のアンケートや保険導入の件など、一般常識では不可能だと思うようなことにチャレンジし、高い壁にぶつかってもう無理かもと思ったこともありましたよね。なぜ最後まであきらめずに乗り越えられたのでしょう。

甲田恵子-近影3

それは、この仕事に限った話ではなくて、私自身、何かをあきらめるとか我慢するという機能が壊れてるんだと思うんですよね(笑)。一度何かをやり始めたらトコトンやるか、一瞬にして飽きるかのどちらか。不可能に思えることでも絶対やってできないことはないはずだとか、針の穴を通すようなチャレンジでも絶対どこかに穴はあるはずだと思うと、そう簡単にあきらめられないんです。無駄や非効率なことが嫌いなので、そういうことには一切やる気が出ないですけどね(笑)。


──その性格はどのように育まれたのでしょうか。

親の育て方の影響は大きいかもしれませんね。幼い頃からいったん何かをやり始めたら、中途半端なところでやめることをよしとはされませんでした。また、小学4年生から高校生まで、剣道をやっていたことで精神的にも体力的にも鍛えられたことも大きかったと思います。中学生の頃、地区大会で優勝したあとも、強くなりたい一心で警察道場を回り続けたこともありました。女子中学生の私が男性の警察剣士に勝てるわけないんですが、何度も挑んでは跳ね飛ばされながら、そのたびに立って泣き声になりながらでも「お願いします!」とかかっていく。お相手も2、3時間稽古をつけてくださると、最後は竹刀をおろして打たせてくれるんです。稽古が終わると、もう手も足も上がらない状態なこともたびたびでしたが、こういう稽古を通して自分の限界を自分で決めない、という思考や、ど根性やあきらめない心が培われたんじゃないかと。だから剣道が今の私を作ってくれた原点だと思いますね。それ以前は、言いたいことも言えない子だった、と叔母から聞いたことがありました。


──仕事のやりがいはどんなところにありますか?

クロックス親子フェアにて。愛娘の愛珠ちゃんと

クロックス親子フェアにて。愛娘の愛珠ちゃんと

いろいろありますが、最大のやりがいは従業員がAsMamaで働いててよかったと思ってくれること。その次は子育てシェアを利用している人たちの生活が豊かになってると感じられることですね。あとはAsMamaのクライアント企業って、私たちのポテンシャルを信じて、先行投資的に付き合ってくださっている企業が多いと思うんですが、彼らからAsMamaと一緒に何かをやりたいと言われることですね。

いつでも、どこでも自由に、自律して働く

──現在の甲田さんの働き方について教えてください。

当社はフレックス制度で、リモートワークOKなので、出社の義務はなく、事務所にもいたりいなかったりだし、外にいる時間も長いです。よく「典型的な一日の過ごし方は?」などと聞かれますが、日によってやってることも全然違うんです。

そもそもどこまでが仕事でどこからがプライベートなのかわからないというか、オンもオフもない生活です。仕事は仕事で思いっきり集中してやるよう心掛けていますし、プライベートで遊ぶときは思いっきり遊びます。でも、仕事をしながらでも家事や子どものことを考えてはいるし、その逆もまたしかりで、家でテレビを見ていても頭の片隅には常に仕事のことを考えているので、一日中寸暇を惜しんで仕事と家事、育児と趣味、遊びをしてるという感じですね。これだけ仕事をしてたら家事や育児はしないのでは? と聞かれることもありますが、基本的に毎日3食自炊でお昼も会食でもない限りお弁当持ちです。娘も給食がない学校なので、幼稚園のときから毎日、手作りのお弁当を持たせていて、お弁当作りは一日の始まりの張り合いでもあります。


──では現在のご自身の働き方は理想的だと言えますか?

そうですね。ただ、今年で42歳になるんですが、若いころに比べると体力の衰えは正直感じますし、社長の私自身がフル稼働という状態ではなく、もっとうまく社員教育や育成に時間と労力を割いていきたいと考えています。また、創業者が、多様なライフスタイルや価値観、ライフステージの人でも受け入れたいと願っているにも関わらず、自身の働き方が社員へのプレッシャーになるようでは困るので、最近は夜中に仕事のメールを書いても下書きフォルダに入れて朝に送るようにするとか、土日はパソコンを閉じて子どもと向き合う時間を増やしたり、プライベートだけの時間もしっかり取るように意識してますね。

AsMamaの働き方

──会社としての働き方のポリシーは?

甲田恵子-近影5

現在、全国各地にフルタイム社員が23人いて、パート・アルバイト・業務委託等で同じミッション・ビジョンを共有して活躍する認定サポーターが600人以上いますが、みんな私と同じく日々のタイムスケジュールはバラバラで、住むところも全国各地バラバラ。何時から何時まで働くというのは比較的自由で、基本的に個人の裁量に任せています。リモートワークも子連れで出社もOKなので、「子どもが熱を出したので在宅にします」とか「今日は息子を連れて出社します」なんていうメールも頻繁に飛び交ってます。オフィスに1度も来たことがないスタッフも半数以上いるし、海外在住のスタッフもいます。その人たちは自宅で普通に仕事をしてます。だから大きなオフィスも必要なく、遠方スタッフが上京した時には宿泊ができたり、子連れの打ち合わせもしやすいようにとマンション最上階でメゾネット付きの小さな家のようなオフィスにしてるんです。最初は小さなオフィスに私自身が恐縮していましたが、大企業の大きなオフィスビルからご来社いただく方々からも「明るくて素敵なオフィスですね」と言っていただくことも多く、今のところ気に入っています。社員が増えてきて、集まってミーティングをするときなどはちょっと手狭になってきましたが(笑)。

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誰もが働きやすい職場を作りたい

──正社員なのに出社の義務も勤務時間の制約もないってすごく働きやすそうですね。

甲田恵子-近影6

こういうルールにしているのは誰もがやる気さえあれば働き続けられる会社を作りたかったからです。私自身、会社員時代には、子どもが熱を出すとその日は欠勤にしながらも家で仕事をすることがあったりすると、「やることがあまりない日でもとにかく会社に行ったら『勤務』とみなされ、出社できないとこんなに働いていても『欠勤』、って変じゃないか」と思っていました。もともと、無駄や非効率、理不尽なことが嫌いな性分なので、会社を創業した時には、既存の働き方で不都合、理不尽だと思うことは自然に排除していきました。その上で参画していただく社員には「自分の時間を社会課題解決か、そのための活動資金獲得に稼働時間を全部使ってほしい。効率的に稼働できてさえいれば、無駄に満員電車に揺られてヘロヘロになって出社してもらわなくてOK! 時間もコアタイム(10時~15時)以外は自由に調整してください」というルールにしたんです。

ただ、出社不要、子連れOKというと、「楽そうだな」と思われる方もいるようですが実態はそうでもありません。かなりの自己管理能力を必要とされますし、基本的にお互いを信用・信頼し合わなければ成り立たない働き方なので、当社の社員は一人ひとりが自立し、自主性をものすごくもっていると思います。「社長が見てないと働かないのでは?」と他の経営者に聞かれることもありますがむしろ逆で、「働きすぎないように気をつけておいてあげなければいけない」と思っています。そのあたりの時間管理も、自己管理の一つだということや、長時間労働より短時間で効率的に仕事をする方を高く評価する、ということは社員にははっきりと伝えていますので、18時頃になるとオフィスに誰もいなくなることもしょっちゅうです(笑)。

また、「子連れワーク」というのも言うほど楽ではないので、フルタイムの社員は普段は子どもを保育園や幼稚園に預けている人がほとんどです。同行してくる時も、小学生以上は「頑張って働く親の姿を見せてあげよう」と子連れワークを推奨していますが、小学生未満の子どもはじっと座っていることがむしろ苦痛ですので、子育てシェアを使って「預けて働く」を推奨しています。子育てシェアの利用は、もちろん会社で補助しています。

従業員との時間を1番取りたい

──甲田さんの役割、日々の業務は?

プレゼン中の甲田さん

プレゼン中の甲田さん

ベンチャー社長なので何でも屋ですよ(笑)。最近は、既存事業は社員に任せて、半歩先のことを考えたり仕掛けたりしていることが多いですが、まだまだ営業が足りないとなれば営業をやりますし、議事録を取ったり、オフィス備品の買い物をしたり、会食や懇親会の手配も基本は私がやります。社長じゃなきゃできない仕事としては人・モノ・金の調達ルートの開拓や、今世の中にないものを創るとか、ある制度を変えるなどの渉外関係、講演や今回のような取材も多いです。でも、一番好きで、一番時間を取りたいと思っているのが従業員と向き合う時間だとは思っているんです。「いつもいないじゃないか!」という社員の声が聞こえてきそうですが(笑)


──それはなぜですか?

やっぱり、従業員が自立しているから働き方は各自に任せても安心とはいえ、リモートワークだとあまり顔を合わせていないわけなので、従業員は今、社長が何を考えているんだろうとか、どっちの方向に向かっているんだろうという根幹の部分の情報共有が薄くなりかねませんし、顔を見ればすぐにわかる近況の変化や悩み事、それに対して隣にいて教えてあげたり一緒にやってみせてあげれば一瞬にして教えられることもたくさんあるからです。社員がひとりで孤軍奮闘する状態を作らないことや、悩んでいる時間をなるべく短くして行動のスピードを上げるために、私自身がどうあるべきか考えなければいけないと思っています。

甲田恵子-近影8

当社は社会課題解決と事業性の両立という大義を抱えたベンチャー企業なので、世の中の変化に敏感に反応して、素早く対応を変えていかないと生き残っていけません。今朝見たテレビのニュースから得た情報で、昨日までとは全然違う方向に舵を切りたくなることはよくあります。だから私自身、昨日言っていたことと今日言うことが違う、なんていう朝令暮改は日常的にやってしまっていると思います。だから社員は私が、突然突拍子もないことを言い出すたびに「また始まった!」と思っているかもしれません(笑)。そういう奇想天外話もメール一つでの連絡ではなく、直接顔を見て話すことで安心してもらえることは多々ありますし、お互いに安心感さえもてれば、全速力で走れると思うんです。社員との信頼関係や、一人ひとりの成長こそが、事業の成長速度も速まるだろうということもあり、社員との時間をもっと取りたいんです。

余談ですが、アフリカの諺に「早く行きたいんだったら1人で行け。遠くに行きたいんだったらみんなで行け」というのがあります。私自身は寝る間も惜しんでやるほど仕事が大好きで、起業して3、4年ほどは誰かに頼むより自分でやった方が早いんじゃないかという考え方で、足らない部分を助けてもらうというやり方だったんですが、今は考え方が逆なんです。私ができることなんてたかが知れているということを日々痛感しています。むしろ私1人で200点取れるように頑張るよりも、仮に1人が50点しか取れなかったとしても20人に頑張ってもらったらトータルでは1000点になる。だから私が独りでがむしゃらにやるより、優秀な人を増やしていける会社にしようと思っています。

仕事は最大のチャレンジ

──甲田さんにとって仕事とはどういうものですか?

甲田恵子-近影9

自分が生まれてきて地球の裏側にまで影響を及ぼせるかもしれない唯一のチャンスであり手段が仕事だと思うんですよ。だから仕事は自分の人生の中でも最たるチャレンジだと思ってますね。また、最高のエンターテインメントでもあります。仕事ってものすごく楽しいですから。今も社会をよりよく変えるために働いているわけですが、それがすごくおもしろい。だから仕事、大好きです(笑)。


──現代の人々の働き方について感じていることは?

私が社会に出て働き始めた頃は、長時間労働当たり前という感じでした。その後働きすぎはよくないからプライベートも充実させましょうとか、ワークライフバランスが大事ですから皆さん17時には帰りましょうとか、朝活だ、プレミアムフライデーだ、などと様々な指針が国主導で叫ばれ、大企業が追随していますが、私個人的には「大きなお世話では? その人、その家庭の価値観でいいじゃないか」と思ってきました。人や会社に強制されることが窮屈です。

そもそも働き方って、人それぞれライフステージによって違うじゃないですか。今は子どもをどこかに預けてでも夫婦で頑張って働いてお金を稼ぐんだという家庭があってもいいし、逆にそんなに裕福な家庭じゃないけど子どもが小さいうちは一緒に過ごしたいから夫婦のどちらかは家にいるというやり方を選択する家庭があってもいいですよね。今はこれだけ多様化が許されている時代のはずなのに、なぜどこかの誰かが決めた働き方で右往左往しなければならないんだろうと、そこがすごく疑問です。

長時間労働は悪だ! とか、女性の活躍のために残業はダメだから朝活だ! などと叫ばれてますけど、残業代あっての家計形成だという家庭や、じゃあいったい誰が子どもを朝預かってくれるんだと思っているご家族はたくさんいると思いますよ。そんな無茶苦茶な指針を勝手に作るなと言いたい。むしろ一人ひとりの生き方のニーズに全員が合わせていくというか、多様性を受け入れることができない限り、豊かな社会を維持していくことはできないと思うんですよね。

もう人口減少が止まることはありえません。同じくGDPが右肩上がりに上がるとか、企業が、従業員の所得が上がり続けることを保証するとか、地方自治体が社会インフラを整えるとか、質の高い公共サービスを提供し続けるという時代は終わったんですよ。だとすれば一人ひとりが望む生き方をどう実現するかということしかできないはず。

そのためには行政や企業の管理職が変わるだけではなくて、働いている側も変わらないとダメ。なんで会社は自分を認めてくれないんだとか、なんで自治体は保育園をもっと作ってくれないんだとか、なんで放課後保育が4年生になったらなくなるんだなどと、自己努力そっちのけで、いつまでも誰かが何かをやってくれるものだと思い込み、それができないと不平不満をぶちまけるのではなく、自分たちのほしいものは自分たちで何とかしなきゃいけない時代なんだという自覚をもち、そのためにはどうしたらいいのか、何をするのかを主体的に考え、具体的に自ら行動することがすごく大事だと思うんです。

親子学級にて

親子学級にて

海外進出も視野に

──今後の展望・目標は?

最初は子育ての分野から始めましたが、そもそも私が最終的に目指しているのは、多様なニーズを身近な人同士で頼り合う「社会共助の実現」です。究極的には子育て世代でも高齢者でも障害者でも「これに困ってるから助けて!」と手を挙げれば、それに興味関心のある人達が「助けてあげるよ」と手を差し伸べられる仕組みを作りたいと思っているので、その延長線上で今年(2017年)2月には、中高齢者の生活支援サービス「寄り合い」をスタートしました。

システムとしては基本的に子育てシェアと同じで、頼みたい人と支援したい人は登録して、お互いにやりとりしてもらいます。サービス内容が「他人の子どもの世話」から、「高齢者の日常の困り事の代行」に変わる、という感じですね。具体的には、電球の交換や荷物の運搬、部屋や庭の掃除、買い物代行、病院同行など。料金は子育てシェアと同じようにワンコインにしていますが、今後はサービスの形態によっていろんな料金体系が生まれてくるかもしれません。

愛珠ちゃんと

愛珠ちゃんと

こんな感じで今年、ようやく子育ての次に中高齢者向けのサービスをローンチできましたが、今後は障害者支援や物の借し貸り、知識の共有など、「知ってる人じゃないと不安で頼めない」ということを頼り合える仕組みを作りたいので、どんどん他分野、多展開したいと思っています。

このような、行政や企業のリソースだけに頼らず、自分たち自身がサービスの受給者であり提供者になるという取り組みは、少子高齢化の時代を迎えている日本だけじゃなくて、韓国やシンガポール、台湾、中国や、やがて人口が減っていく先進国でも今後絶対に必要とされるので、海外に進出して事業を展開していきたいとも思っています。その後は娘がその続きをきちんと継いでくれることを期待しています(笑)。


"社会共助"で誰もが生き生きと輝ける社会に[第3回]

転機となった起業塾

──スタッフがほぼ全員辞めて会社が空中分解状態になった時、厚待遇でスカウトしてきた企業に入らなかったのはなぜですか?

甲田恵子-近影1

起業した翌年、NPO団体が主宰する「社会起業塾」にこの事業を応募していたのですが、ちょうどこの頃(2010年9月末)、合格通知が来たんです。この社会起業塾出身の中には有名な社会起業家の方が多数いらっしゃるので、入塾すれば社会起業家になるための虎の巻があって、講師がプロデュースしてくれて、私も有名社会起業家になれるのかな、なんて最初は思っていました。

ところがその考えは言うまでもなく甘すぎました(笑)。いざ講座が始まると、虎の巻なんか何もなくて、「起業塾」という名前の割には事業計画書を作るとかPRリリースを打つということも全然学びません。担当のメンターが一人ついてくれるんですが、とにかく「誰の、何を、いつまでに、どのくらい変えたら社会は変わるのか」ということを尋問のように問われ続けました。「誰の」は「支援してほしいお母さんと支援したい世の中一般の人です」とさらりと答えると、「その人たちはどこの誰で、何歳で、何人くらいの子どもがいて、年収いくらで、何をしてどのように育った人なんですか? どんな時に困ってなぜ頼らないんですか?」などという具体的な人物像についてひたすら突っ込んだ質問が矢継ぎ早に飛んできます。

最初は思いつきでバンバン答えるんですが、「では5人ほど支援してもらいたい人、支援したい人の名前を挙げてください」なんて言われると、さすがに出てこない。返答に窮していると、メンターから「マーケティングの経験がある甲田さんから見て、その人物像を調べようと思ったら、どのくらいの人に尋ねたらおおよその傾向が見えますかね?」と聞かれたので、何も考えず「1000人くらいですかね」と答えると、「じゃあ1000人の人に聞いてきたらどうでしょう」と言われたんです。アンケートってただの主婦が道端で聞いてみんなが答えてくれるようなものじゃありません。10人に1人なら1000人、100人に1人なら10万人に聞かないといけない算段です。咄嗟に「嫌だ...」と思いましたが、メンターは「頑張りましょう!」って。頑張りましょうじゃないですよ、他人事だと思って、みたいな(笑)。

地獄の1000人アンケート

重い腰を上げてニーズ調査をすることになったわけですが、2人に1人が答えてくれるとしたら1日に200人聞ければ10日で終わる、と自分に言い聞かせて、印刷した1000枚のアンケート用紙を全部持って、朝7時くらいから駅前や保育園の前で子連れのお母さんたちに声を掛けまくりました。でも、当たり前ですが朝、子どもを預けた後、通勤に急ぐお母さんが足を止めてくれるはずがありません。全然答えてくれなくて、これはダメだと思い、昼間にスーパーや図書館、子育てサロンに行って声を掛けるんですが、これまた警戒されまくりで誰も答えてくれないんですよ。初日に200人くらいに声を掛けたんですが、答えてくれたのって何人だと思います? たったの2人ですよ。まさに100人に1人。

甲田恵子-近影2

その後もアンケート用紙を抱えて街に繰り出したのですが、2日目、3日目は確かほとんどゼロ。4日目は雨が降っていて、それでも傘をさしながら相変わらず「地域の頼り合い子育てに取り組んでいるAsMamaです! 今、課題対象者ニーズ調査を行っています!」と声を掛けるんですが、とにかく逃げられる。怪しいことをしているわけじゃないのにと思いつつ「すいません、ちょっと待って下さい!」と、逃げるお母さんを追いかけるんですが、「うっとうしんですけど!」とか「恐いんですけど!」とか言われる始末。お母さんたちの後ろ姿を呆然と眺めながらふと紙袋を見ると998枚のアンケート用紙が雨に濡れてへにゃってなっていました。それを見た瞬間、情けなさと不甲斐なさで、ポロポロ涙がこぼれてきて。私、いったい何やってるんだろうって。

バリキャリ目指して10年間、死ぬほど仕事してきて、今でもうちの会社で働きませんかと好条件で声が掛かるのを、いや、私は誰もが自己実現できるための頼り合いのインフラを作るんだと頑なに断り、1人こんな雨の町の中で手あたり次第に子連れのお母さんたちを追いかけ回して頭下げながら声を掛けて、ことごとく無視されて逃げられて。片手には雨に濡れてくちゃくちゃになりかけたアンケート用紙の山。これまでの日々を思い返しても、お金にはならない交流会の人集めを必死にしながらも参加者からお金をもらうのは申し訳ないと思い、企業に協賛してもらおうとしたものの、その企業さんには怒られる──というのはついこの間の記憶。一緒にやってたメンバーには罵倒されて愛想を尽かされて、結局一人ぼっちに。そういう状況にはたと気づいたとき、もう無理だという思いがこみ上げてきました。

「根性ないんですね」で復活

甲田恵子-近影3

完全に心が折れかかり、起業塾のメンターに電話をして、「この3日間だけでも1000人に声を掛けて2枚しか集まりません。1000人分の声を集める街頭アンケートなんてほんと無理です」と言いました。そしたらメンターから、「甲田さんてバリバリ仕事されてきた方で、起業してからも1年間も実際に事業を続けてこられていて、それでもそんなこともできないんですね。意外と根性ないですね。そんなんで、どうして社会的な事業なんてしようと思われたんですか?」というようなことを優しい声で言われたんですよ。「そうですか~、あきらめちゃうんですか~」と話は聞いてくださりながら。

それを聞いた瞬間、「くっそ~、なんでこんなことを言われなきゃいけないんだ」とさっきまでとは違う、別の悔しさがこみ上げてきて、「わかりました。大丈夫です。1000枚集めてみせますのでご心配なく!」と電話を切って、1000人とにかく集めてやるぞと闘志がメラメラ燃えてきたんです。


──まさにドラマとか漫画のような話ですね。それからどうやって集めたのですか?

とはいえ、今までと同じやり方だと結果は同じなので、まず怪しまれないためにどうしたらいいかを考えました。駅前を見回したところ、募金活動をやってる人たちは怪しまれていなかったので、「頼り合いこそが豊かな社会を作ります! 子育ての頼り合いに関する調査を行ってます! ご協力よろしくお願いします」とボードにアンケート用紙を張り付けたものを地面に並べながら、「(近寄ってくれる人を)待ち作戦」で叫び始めたんですね。当然、物珍しそうな目で見られるわけですが、スーパーの店長がやってきて「何やってんの?」と声を掛けられて、事情を説明すると、「そんなところでやってても怪しまれるだけだから、ここでやりなよ」とたくさんの人が出入りするスーパーの入り口でやらせてくれたりもしました。

甲田恵子-近影4

地元の横浜だけじゃなくて東京などいろんな地域でもニーズ調査をしなきゃいけないと思ったのですが、そこでも怪しまれたらアンケートは集まりません。募金活動作戦だけではなく、選挙時期に駅前に立って街頭演説をしている立候補者や議員さんは怪しく見えないからその真似をしようと、ドンキホーテでタスキと拡声器を買ってきて、駅前に立って「みなさん、おはようございます! 地域の頼り合い活動に取り組んでおりますAsMamaの甲田恵子と申します! 皆様方の生活をよくするためにアンケートのお願いをしております。今からお配りしますのでお断りになられないようにお願いいたします!」って叫びながらアンケート用紙を配ったら、けっこう受け取ってもらえた、なんてこともありました。


──うまいことを考えましたね。やり方を変えてからは順調にアンケート用紙が集まるようになったのですか?

いえ、やっている最中もやっぱり嫌で嫌でしょうがなかったですね。最初のうちは通りすがる人に怒られたり怪しまれたりしましたし、警察官に職務質問されて派出所に連行されたこともありました。あちこちでとにかく必死に怪しいものではありません! と説明していたのを憶えています(笑)。

甲田恵子-近影5

毎日同じ場所に立って叫んでいたので、最近あそこに変な人がいると噂になったり、これまですごく仲良かった保育園のお母さんさえ、私が変な宗教とかマルチ商法にハマったと勘違いして、「最近の甲田さんはお鍋とか売り出したらしいよ」とか、あらぬ噂を立て始めたこともありました。なんでそれがわかったかというと、保育園に娘を迎えに行った時、娘が私に「ママはお鍋を売り始めたの?」って聞いてきたんです。「ママはお鍋なんて売ってないよ~」と言うと「そうだよね~うちにはお鍋が4つしかないもんね~」って。「なんでそんなこと言うの?」って聞くと、「○○ちゃんのママがおうちでお鍋を売ってるの? とかシャンプーを売ってるの? とすごく聞いてきたの」って言うんです。

アンケート調査をしている間に、娘を自転車の後ろに乗せていたら道中で偶然同じ保育園の親子と出会った時があって、娘がその子の名前を呼ぶとそのお母さんが「あの子とお話しちゃダメ! 帰るよ」という声が聞こえたこともありました。自転車に乗りながら何度涙を流したかわかりません。娘には泣いている母親の姿を見せたくないので、自転車のペダルを漕ぎながら、前から歩いてくる人の怪訝な顔を気にしつつも、ドラえもんとかアンパンマンの歌を大きな声で歌ったことも数え切れないほどありました。

予想が確信に変わった

──それも涙なしには聞けない話ですね。自分自身より子どもに影響が及ぶのが何よりつらいでしょうね。

そうですね。子どもにマイナスの影響があるかもしれないということが一番つらかったです。それでも歯を食いしばりながら続けていくうちに、娘が通う保育園の先生や子育てサロンの施設長が協力してくれるといった機会が増えてきて徐々に集めやすくなりました。400枚くらい集まったころには少しコツがつかめてきた感じでした。


──それはなぜですか?

そのあたりから、いつ、どこに助けを求めているお母さんや、助けてくれそうなお母さんがいるかということがわかってきたんですよ。例えば毎日保育園の前に立っていたら、週に何回か閉園時間間際に飛び込んで来くるお母さんが常習でいるんですよね。そういうお母さんに毎回声を掛けて、私自身の会社員時代の経験を話しているうちに打ち解けて、心の内を語ってくれるようになったんです。会社からも保育園からも子どもからもちゃんとしたお母さんだと思われたくて、そのために日々精神をすり減らすような思いをして頑張っている。そういう話をしているうちに、どうしてここまでして頑張らなきゃいけないんでしょうね、と私もそのお母さんも泣けてきちゃったりして。そんなとき頼れる知り合いがいたらすごく助かりますよねと言うと、みんながみんな、大きく縦に首を振りました。やっぱりみんな思っていることは同じなんだと徐々に毛穴からみんなの思いが染み込んでくるような気がしました。

甲田恵子-近影6

また、公園などでは、自分の子どもをあやしながらも明らかに他の子どもにも目配り気配りをしている人がいたりするんですよね。しかも、子どもに対して明らかに他のお母さんと違う動きをする。話しかけてみると、やっぱり元保育士さんとか幼稚園の先生とかなんです。「出産を機に、子どもが小さいうちは自分で子どもを見たいから(仕事は)辞めてしまったけれど、自分の子どもだけを育てていると専門知識をもっている自分でさえ息が詰まるときがある。普通のお母さんたちだったらもっとそうかもしれないと思うと少しでも役に立てればと思うし、他の子どもと接している方が自分も楽しいので」と。こういう話を直接本人から聞くと、起業前からデータ等で調べて知っていたとはいえ、他人事からジブンゴトになっていくのが自分でもよくわかり、いっそう何とかしなければという思いが強くなったんです。

そしてアンケートを取り始めて4ヵ月、ついに1000人分の声を集めることができました。その頃にはこれは無限の可能性を秘めたものすごいビジネスモデルになるという確信と同時に、絶対に目の前の人たちが自分らしく生きられる環境整備をしなきゃいけないという使命感・責任感がより強固になりました。社会起業塾で学んだこと一つひとつが、今の礎になっていると思っています。

収益モデルを確立

この1000人アンケートで子育て世代のお母さんたちと話しているうちに、子どもを預けたい、預かりたいという頼り事以外に、多様な子育てや生活に役に立つ情報を求めていたり、子どもと一緒に出掛けられる場所をいつも探していることがわかりました。でも、周りに聞きたいことを教えてくれる専門知識をもっている知り合いがいる人は少ない。どうしているかというと、周りの人たちに聞きまくったり、インターネットで闇雲に情報収集していたんですね。子育てや生活に関する正しい情報を得たり、比較検討する機会をもてていませんでした。ここにビジネスチャンスを感じたんです。


──どういうことですか?

甲田恵子-近影7

私自身、仕事として広報やマーケティングに携わってきた経験から、企業は自社商品やサービスの周知に何千万、時には何億というお金を使うんですが、その広告宣伝費を投入する場所に必ずしもドンピシャのターゲットばかりがいるわけじゃないんですよね。むしろ数%いるかいないか。それがマス広告というものなのですが、それに何億も使うくらいなら、広告を打ちたいエリアにどういう人たちがいるのかを地の利がある人たちを集めてあらかじめ調べておき、直接一定数の人に顔を見て伝えたり、関心のある人たちだけを集めて企業が直接会って情報訴求できる機会を創出したりすることは全関係者にとってWINだと思ったんです。

つまり、子育てを応援したい、自分たちの商品や施設を知ってほしいと思っている企業と、そういう商品や施設があればいいなと思っている生活者が出会う機会を、同じ関心ごとがある人たち同志の交流イベント機会づくりを両立させる、ということですね。

このアイデアをいろんな企業に提案してみたところ、アンケート調査を通じて私が子育て世帯のニーズを臨場感を伴って説明できるほどになっていたということもあり、直接のターゲット訴求が本当に可能ならばぜひやりたいと数社から正式にオファーをいただけました。最初のクライアントは横浜の商業施設なのですが、そこで実施したイベントがテレビで取り上げられると、活動理念に共感する有志の声掛けによる広報・マーケティング手法に興味をもって、ぜひ一緒に協働したいという企業さんからの問い合わせが日増しに増えていきました。やがては商業施設やメーカー、保険会社などのエリアマーケティングや集客支援、顧客獲得のためのPR支援を、広報のためのツール制作から広報戦略の立案・実施まですべてワンストップでやらせていただくようになりました。こうして2011年4月頃、ようやく収益モデルが確立できたわけです。でも創業から18ヵ月もかかってるんですよね。その後は、順調に収益が伸びていきました。

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頼りたい人、支援したい人の見える化

──子育てを頼りたい、支援したいという会員はどうやって増やしていったのですか?

甲田恵子-近影8

全国で交流会を開催してたくさんの人を集めても、誰が支援してほしい人で、誰が支援したい人なのかがなかなかわからないので結局自分の求める相手と仲良くなれなかったという声をその頃よく聞くようにもなり、そのタイプ別を見える化しようと思いました。まずは支援したい人だけを募って、活動理念に共感してもらえたり、いざお預かりをするときに必要最低限な託児やコミュニケーションの研修を受けてもらい、「ママ業をサポートする人」というAsMama認定の地域支援者「ママサポーター」になってもらいました。このママサポーターを東名阪で100人くらいまで増やして、ママサポーターに会える集い、と題して交流会を開催したら子育てを頼りたいというお母さんたちがたくさん集まってきたんです。

また、これまでは私が一人で周知していた地域交流会も、自分たちが地域の子育て支援を担いたいというママサポーターたちに僅少ながら有償で、受付やチラシ配布を手伝ってもらいました。これによって主体性をもって一緒にAsMamaの活動を広げてくれる仲間、ファミリーが増えていき、おかげで何とか活動を維持、拡大できたわけです。そうしたかかわりの中から後に、正社員になった人が何人もいます。

無限大の可能性と使命感の賜物

全国で交流会を開催して会員を増やしていった

そしてもう1つ、活動を加速化させるにはどうしても実現したい、しなければいけないことがあったんです。それは保険の導入です。

最後の高い壁に挑む

──保険の導入とは?

甲田恵子-近影10

2009年に創業して以来、子育てはお互い頼り合った方がいいですよと訴えながら活動はしていましたが、もし大切なお子さんを預かっている間に何かあったら誰が責任を取るのかと言われたことは多々ありました。その時には「共助というものに対しては保険が存在しないので、各自保険に入ってもらって自己責任でやっていただくしかないです」としか答えられなかったんですね。世の中に共助に対する保険を第三者が掛けられる、なんていうものがありませんでしたから。

そういうものは残念ながら世の中にないんだと日々思い知らされつつも、私は企業広報の観点から、これだけ共助を推進、啓蒙しておきながら、主催する活動の中でもし事故が起こったら「当事者間の合意によるものです」「当社に運営上過失はありません」といくら言っても、まさに企業倫理を問われる状況になるだろうことは容易に想像できましたし、被害にあわれた方も、良かれと思って支援した人も救うことができない状態はないなという恐怖感はいつもありました。

この保険の問題は創業した時からの最大の悩みで、暇さえあれば保険会社をしらみ潰しに回り、「うちの会員の間で事故が起こった時に何とか保険を適用したいからそういう保険を作ってほしい」と相談していたんですが、相手にしてくれる保険会社は皆無でした。当然と言えば当然。この世の中に存在しない保険にはそれなりの理由があるわけですから。


──具体的にはどのような話をしたのですか?

保険会社の人にはよく「会員間のお預かりの場合、その子どもを預ける側と預かる側のお二人がどんな方かを把握していらっしゃいますか?」とか、「預かる方は御社のスタッフですか?」などと聞かれました。ところが、会員全員を把握しているような組織体制にもしていなければ、社員や認定者だけが預かるわけでもありません。こうした事業での保険適用依頼は前例がなさすぎる中で「これから会員は1万、2万と増やしていきたいのでわからないです」と答えるしかありませんでした。すると保険会社は「あなたバカですか? どこのどなたかわからない人同士が頼り合う仕組みになぜあなたが保険料を払うんですか? 預かる側は保育士などの有資格者でもなければ、AsMamaの社員でもない知らない人なんですよね?  しかも明日事故が起こるかもしれないんですよね? その時いくら保険料がほしいんですか? 10万円ですか? 100万円ですか?」と言ってきたので、「いやいや、万一の重篤な事故が起こった時のためのものですから何千万単位で保険つけてほしいです」「ではあなたは月にいくら保険料を払えるんですか?」「いやぁ、月に10万とかも無理かも......」「あなた本当にバカですか? 計算できます? 年120万円の保険料も払えない会社が万一、1回でも事故を起こったら5000万ほしいって、そんな保険受ける会社なんてこの地球上のどこを探してもないですよ」「そうですね」「そうですね、ですよね(苦笑)。では(ガチャンと電話を切られる)」

とまあこんな感じで全国の保険会社を訪ね歩いてどれだけお願いしても、最終的には怒られるかあきれられるかして追い返されるという繰り返し。当時は保険会社と会員を守りたい義務感みたいなものとの間の板挟みになっていました。自分のやりたいことが実現できないもどかしさや、志ありながらも責任感があるからこその事故リスクに対する不安を解消できない自分のふがいなさで悶々としていました。最終的には自分で保険会社を作ろうかなと思ったくらいです。でもそれには当然莫大なお金が必要なので非現実的もいいところ。完全に出口のない袋小路に入り込んでしまったという感じでした。

イギリス人に「アー・ユー・クレイジー?」

そんな時、ある人が「世の中に流通している保険商品っていうのは、そもそもロイズというイギリスの保険会社が作っていて、それを日本でいろんなストーリーをつけて売ってるんだよ」と教えてくれました。これだけ日本の保険会社を回ってお願いしても断られるのはお金の問題じゃなくて、ロイズがそういう保険を作ってないからなんだ、だったらロイズに頼んで保険を作ってもらおうと思って、ロイズのイギリス本社に英語で電話してみたんですよ。

甲田恵子-近影11

そしたら担当者は最初は紳士的に対応してくださってたんですが、話しているうちにどんどん話が噛み合わなくなっていきまして(笑)。「私は日本で頼り合える社会を作ろうと思ってるアントレプレナーです。頼り合える保険をつくりたいと思ってる」と言ったら、相手もふんふんと相槌をうちながらも何か要領を得ない様子。それでも必死に、「とにかく頼り合いの保険をつくってほしいんだ」と熱弁していたら「君は保険会社の人間か?」と聞かれたんです。だから改めて、「違う。私は保険会社じゃなくて日本で子育ての頼り合えるインフラを作って広めるための活動をしようとしている会社だ」と言うと、「アー・ユー・クレイジー?」って(笑)。

一筋の蜘蛛の糸が降りてきた

──すごい度胸と行動力というほかないですね。それからどうしたんですか?

前の会社に勤務している時、PR協会の仕事でお世話になった方で、その後は某大手保険会社の常務役員になっていた上席の方から、ある日異動のお知らせハガキが届きました。しかも異動先がAsMamaの事務所のすぐ近くだった。もちろん私宛に個人的に来たわけではなくて、秘書の方がこれまで少しでも関わりのあった方全員に送った中の1つだったのですが、それを見た時、「これだ! これを逃すともうない!」と天から蜘蛛の糸が降りてきたような気持ちになりました。実はこの保険会社の一般窓口にはすでに問い合わせをしていて、箸にも棒にもかからないという感じだったんです。

それですぐに異動のお祝いにうかがいますと連絡して行ったら、先方も私のことを覚えていてくれて、軽く近況報告をした後、「実は御社で保険をつくってほしいんです」と切り出しました。するとやはり「え? 保険に入りたいの?」と聞かれたので、いやそうじゃなくてこれこれこうでこういう保険をつくってほしいんですと説明をしました。そしたらやはり「いやぁ......さすがにそれは難しいよ」と丁寧かつ丁重にお断りされそうになっちゃって。それでももう他に頼りどころはない! と背水の陣のつもりでいましたから、これから会議だと言われても「何時に終わりますか? 終わったらまた来ます」とか、「外出がお車ならご一緒させていただいていいですか!」と食らいつきました。私も相当必死だったんだと思います。

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それ以降も、何度もご相談にうかがいました。今考えると嫌がられても仕方がない、半ばストーカーですね(笑)。ある日、またその人を訪ねて役員室でいかにこの保険が世の中に必要であるかを延々と話していた時、「もうすぐ役員会議があるからもうそろそろ......」と離席を促されたことがありました。それはグッドタイミングだと「その会議の席で相談させていただけませんか」と満面の笑みでお願いしたら「さすがにそれは無理だよ」と、言いながらどこかに電話して誰かを呼んでいらっしゃったんです。そうこうしているうちにいろんな方が役員室に入れ代わり立ち代わり入られてきて、「何とかするから今日はとにかく帰りなさい」と言ったんです。よし! やった! と思いましたね。「え! 何とかしてくれるんですか! ありがとうございます!」と、もうルンルン気分で帰りました(笑)。

ついに保険が実現

──本当にすごい。甲田さんの粘り勝ちですね。

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今思うとよく本気で嫌われなかったな、と。今でもその役員とは定期的にお会いしてるんですが、この話になると、「あの時は本当に驚いたし、大変だったよ~」なんて言われます(笑)。私は覚えていないんですが、直訴している時に「そもそも事故なんか知人友人の子を預かっていてそう簡単に起きませんよ。でも何かあったときに困らないために保険会社があると思うんです!」とすごい勢いで詰め寄っていたらしくて。いや、ほんとにその時どんな形相だったかなんて覚えてないんですよ。必死だったことは確かですが。

こうして2013年に子育てシェアを利用する全支援者に損害賠償責任保険を以下のとおり適用することが決まったんです。

・お預かりしているお子さんにケガをさせてしまった場合、5,000万円
・お預かりするお子さんの親から預った物を破損させた場合、5,000万円
・預かっているお子さんに食べさせた食事で万が一食中毒を起こした場合、1,000万円


──これだけの保険をよく実現できましたね。

やっぱりこれまで世の中に存在していない、共助に対しての保険商品って大きな保険会社の中でもなかなか理解を得られなかったらしいのですが、その常務が率先して理解者を集めてくださったみたいです。


──それ以来、年間の保険料は利用者からは徴収せず、御社が全額支払っているんですか?

はい。もちろんです。実際には当社が多種多様な企業の広報・マーケティング・宣伝や共助コミュニティづくりなどの業務を受託することで(クライアント企業から)いただいている報酬、つまり当社の売り上げから支払っています。そこまでしても保険は絶対に外せなかったんです。保険があるのとないのとでは利用者の安心感が全然違いますからね。


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"社会共助"で誰もが生き生きと輝ける社会に[第2回]

復帰後は未経験の部署へ

──産休明けで職場復帰した後の仕事はどうでしたか?

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会社に復帰した時には元の海外の部署に戻るつもりだったのですが、上司から会社がこれから上場準備に入るということでIRへの配属を命じれられました。投資家向けの広報だというのを知って、これまでやってきたこととは全然関係ないし、知識もゼロだったから無理と思ったんですが、乳飲み子を抱えて海外の仕事に戻ることに不安もありましたし、とりあえずやってみようかな、と。でも周りで飛び交ってる言葉が全然わからない。仕事人としてもらっている給料分働けてない、これはヤバイと思って、復職して猛勉強して半年間でIRプランナーの上級資格を取得したり、証券アナリストの勉強をしたりしました。

半年間でIRの仕事は一通りできるようになって、社長が社会に対して会社のビジョンなどの重要な情報を発信しているのをそばで聞いているうちに、この広報力はこれからサービスをゼロから立ち上げるようなベンチャー企業にこそ必要だと思ったんです。そんなことを思いつつ、復帰して2年が経った頃に、人材紹介会社のヘッドハンターにベンチャー投資会社のIR室長の求人案件を紹介されました。ニフティの中でもIRの主担当をずっとやっていたし、このまま大企業で働くよりも、社会の声を聞いて企業トップが判断していくことに貢献できるような会社に行きたいと思い、その投資会社に転職したんです。

寝耳に水のクビ宣告、そして修羅場へ

──その投資会社に転職してみてどうでしたか?

いざ入社したら広報部がなかったので、入社してすぐ社長に広報の重要性を進言すると認められて、広報室兼IR室長もやることになったんです。その上社長室が私の席の真後ろだったこともあり、社長秘書的な役回りもやらせていただくことになり、ニフティ時代を超える忙しさとなりました。


──仕事の方は順調だったのですか?

いや、それがですね、入ってしばらくは再びやりがいのある仕事に就けてバリバリ働いていたのですが、入社2年後に想像もしてなかった大事件が起こりました。リーマンショックの翌年、2009年の年明け早々に全社員、会議室に集められまして、経営陣からいきなり「深刻な業績悪化に陥ったため、社長交代、そしてここに集まっているみなさんには退職してもらいます」と言われたんです。集められた社員全員、目が点になりました。

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そもそも社長交代って、上場企業の場合は正式発表前に公開しなければならない最重要情報なんですね。ある日突然、社員が会議室で知るという情報じゃないんですよ。特に私は広報IR室長を務めていたので、そうした情報は、社長、役員、その次には知ることができる立場のはずでした。なので、会議室にみんな集められて発表された時に一番信じてなかったのは私だったと思うんですね。「もう正月明け早々笑えない冗談やめて~」って手を叩いて笑ったくらいですもん(笑)。

でも冗談じゃなかった。退職手続きの書類が配られ始めると、段々会議室内がざわついてきて最後の方には喧騒に包まれました。嘘でしょ~と思って自席に戻って東証の情報公開サイトを調べたら確かにさっき発表された情報が公開されてるわけですよ。このリリース、いつの間に誰が作ったんだと。そういうIR情報ってこれまでは当然、IR室で作ったものを私も全部目を通して、連絡先をIR室として公開していたんですが、その公開情報の連絡先にはIR室担当者の連絡先ではなく別の人の署名があったんです。会社に残留する一握りの役員がわざわざこのリリース文書を作って内容を確認して公開したんだということがわかるとサーッと血の気が引いて、これってリアルなんだ、これから私たちどうなるんだろうと目の前が真っ暗になりました。

でも呆然としている暇なんてなくて、その瞬間から職場は修羅場と化しました。オフィス中の電話という電話が鳴り響き始めたんです。個人投資家やアナリストやメディアなどからの問い合わせの電話でした。私の机の上に保留になってる電話機やメモが次から次へと並べられて、全部に出る優先順位と時間が書いてある付箋が貼られていて、うそー、私の方こそ知りたいっていう状態なのにこれどうしよう、とパニック状態に陥りかけていたことをすごくよく覚えてます。

ドキドキしながらも優先順位に従って電話に出ると、「これってどういうことですか?」「上場廃止ですか?」みたいなことを矢継ぎ早に聞かれて。でも私自身何もわかってないので、正確なことは何も答えられないんですよ。「今は多くのことは申し上げられませんが...」という感じで、とにかく自分の知ってる範囲の言葉で説明して炎上しないように対応していました。

この火消し処理に丸2ヵ月かかったんですが、この間は満足に自宅にも帰れないというカオスな日々でした。そしてようやく落ち着いた3月末で退職したんです。

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転職の誘いも乗り切れず

──退職するまでに次の勤務先は決めなかったのですか?

やっと火消しが終わって3月末に私自身も辞めるという時に、辞めたらぜひうちの会社に来てほしいと誘ってくださる方も何人かいらっしゃいました。私はその会社で広報IR室長をやっている間、PR協会の幹事も担当していたので、いろんな大企業の広報の方々とつながりがありました。今回のような事態はもちろん初めてだったので、その広報の先輩方に片っ端から電話して、対応策を教えていただいていたんですね。そういう修羅場を何とかして乗り越えようとしている姿を多くのみなさんが見てくださっていたからかもしれません。でもその時はカオスな2ヵ月を過ごして疲労困憊になっていたのと、人間不信といいますか、会社不信に陥っていたのですぐにそれらの誘いをお受けすることができなかったんです。


──どういうことですか?

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突然の解雇宣言で社内は喧々諤々、殺到する問い合わせの電話への対応で、心身ともに消耗していたのですが、職責上、会社の評判や評価を落としかねないようなことや私自身も悩んでいることなどは誰にも言えませんでした。しかも離職宣言が出てから実際に退職するまでのあいだは、解雇されるのは決定しているにもかかわらず、処理をしていくわけです。 これまでは娘の将来のためにと奮起していたわけですが、「私っていったい何のために働いてるのかな」とか「大きな会社にぶら下がってれば安泰とはいえない時代がまさに来てるんだな」という考えが頭の中を巡るようになりました。娘がもうすぐ4歳になるという頃だったんですが、最も著しく成長するかわいい盛りの時に、子どもそっちのけで死に物狂いで仕事をしてきた私って、いったい何をやってたんだろう、この先もまた10年間仕事ばかりしてたら娘がいつ歩けるようになったのか、いつ箸を持てるようになったのかはっきりわからないような生活をまた繰り返してしまうかもしれない。そんなことで私の人生、本当にいいのかと思うと、「ぜひうちの会社に」と誘われても「はい行きます」とはなかなか答えられなかったんです。

どこにも就職しなかったことで人生が激変

──ではそれからどうしたんですか?

とりあえず職業訓練校に行くことにしました。インターネット業界で10年間働きましたが、 Web制作やシステム開発系のことは全然できませんでした。少しは自分でもそれらができるようになった方が広報パーソンとしての価値が上がるんじゃないかと思って、Web制作系の講座を選択したのですが、私にはそのセンスが全くないことに気づきました(笑)。それで授業そのものよりも周りの人たちに興味をもち始めました。他の受講者に元々やってた仕事や職業訓練校に来た理由を聞いてみると、「元々は職業人としてバリバリ働いてたんですが、結婚や出産をしたら以前のように働けなくなって、会社を辞めることにしたんですが、やはり手に職をつけて仕事はしなくては、と思って」というような女性がたくさんいたんです。

その話を聞いて学歴や職歴を男性と同じように積み上げてきた専門職、技術職の女性たちが、結婚や出産したら会社を辞めなきゃいけないなんて、社会的にも企業側的にももったいない話だなと思いました。テレビなどのメディアでは、連日のように政府や学者のような人たちが、少子高齢化でこれからは女性が活躍する時代だとか、次世代労働力の確保が増え続ける社会保障を維持しながらの日本経済維持には不可欠だとかいろいろ言ってるのに、眼の前には優秀で働く気があるにもかかわらず、失業保険をもらいながら働けずにいる人たちがいっぱいいる。世の中の困りごとと今、目の前で起こってることがかけ離れすぎてると思ったんです。

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一方で、世の中にはまだまだ元気そうな高齢者や、会社を辞めても様々な社会活動をしている主婦もたくさんいる。こうした「社会の役に立ちたい」と思っている人たちと、困りごとを抱えていながらもちょっと助けてもらえればやりたいことがかなうという人たちをつなぐことができれば、どっちもうれしいし、さらにそれがボランティアじゃなくてお金のやりとりの仕組みができればお互いハッピーになると思ったんです。これが後の起業につながる問題意識を感じ、基礎となる仕組みを思いついた最初の瞬間ですね。

それで、何気なくそんなようなことをブログとかSNSに書いてアップしたら、普段、コメントは1、2件なのですが、この日記には何十件もついてたんです。恐る恐るコメント欄を見てみたら、困りごとややりたいことはいろいろあっても助けてくれる人がいないから我慢してるという人たちからのコメントがずらーっとついてたんです。それらを読みながら、実は世の中には明るみに出ていない同じような思いをしている人がたくさんいるんじゃないか、私の考えている頼り合いの仕組みにはニーズがあるんじゃないかと思って、いろいろ調べ始めたんです。

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あるお母さんとの会話でニーズを確信

──具体的にはどういうふうにして調べたのですか?

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ネットを使っていろんなデータを調べたり、直接いろんな人に会ったりして、会社を辞めた人の退職理由やリタイアした人たちの社会参画したい思いなどを聞き取り調査したりという、いわゆるニーズマーケティングをやりました。

その中で結果的に起業を後押しするすごく印象的な出来事がありました。通ってた職業訓練校の横に幼児教室があって、建物内の共用コミュニティスペースがあったのですが、ある日私の娘と同じ年頃の子を連れたお母さんがおやつを食べてたんです。これまでも2、3回見かけたことのある親子で、私は自分の子どもとお昼にデパ地下で買ってきたスイーツをのんびり一緒に食べるなんていう経験がなかったので、「この時間にお子さんとスイーツを食べられて優雅でいいですね」と話しかけたらすごい嫌そうな顔をされて「何の嫌味ですか」と。「いやいや全然嫌味とかそんなつもりじゃなくて、同じくらいの年の子どもがいるんですが私はそんな経験したことがなくて」と言ったら、「あなたこそ自分でお仕事なさって好きな時間に好きなもの食べられていいじゃないですか」と言われて。

「いやいやいやいや、むしろ自由な時間なんてなくて、会社が終わったら電車の中でも走りそうな勢いで子どもを迎えに行ったり、しょうもない会議の時は無駄な時間だと思いながらも1時間3000円のベビーシッター代を払って子どもを預けたりしてたんですよ(苦笑)」と言うと、ベビーシッターについて聞かれたので、本を読み聞かせてくれたり、私が作ったごはんをレンジで温めて食べさせてくれたりという程度だと教えると、「え、たったそれだけのことために1時間3000円も払ってるんですか? 家が近かったら1000円でも500円でも行ってあげられるのに。そういうことを頼める人、近くにいないんですか?」と。私はそもそも誰かにお願いすることがすごく苦手だし、周りの友だちもみんな働いている人ばっかりだからお願いするのも悪いと思ってしょうがなくベビーシッターに頼んでいたのでそう答えると「近くに頼れる人がいたら私だって頼りたいし、子どもにも友だちできるし助かりますよね~」って言われて、「そうそう、助かる助かる!」って意気投合しちゃって。

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このお母さんとの会話で、「世の中には自分の子どもだけでも大変なのに他人の子どもまで見てあげたいという人が確実に存在する。しかも格安の料金で」ということがわかったんですね。で、その時ふと、こういう人はもっともっといるんじゃないかと思ったんです。疑問に思うことはすぐ調べるというのがこれまでの職業人生で身に染み付いているので、いろいろと調べはじめたんです。すると、国民生活白書によると世の中の80%の人が社会貢献をしたいと答えているし、子育てに焦点を当てて支援希望者を募ってみただけでも、元保育士とか幼稚園教諭とか、PTAや保護者会の役員を率先してやっているような方がたくさん立候補してくださったんです。同時に子育てを頼れる人が誰もいないから会社を辞めちゃったとか、鬱になったとか、2人目を産むのが恐くなってあきらめている人もたくさんいることがわかってきました。こういう頼りたい人と進んで支援したい人たちが間違いなく存在しているのにつながってないってますますもったいないじゃないですか。これは絶対に誰かが何とかつなぎ役をしなきゃいけないと思い、何をどうしたらいいのかはわからないけど、まずは小さい子どもをもつ親同士の頼り合いから始めたらどうだろう! と思ったんです。

その時、子どもは自分の命よりも大事な存在なので誰でもいいというわけにはいかないものの、知っている人がそもそもいない人が多い中で、まずは「近所の人と仲良くなる」というリアルな機会と、知ってる人たち同士で頼り合える便利で安全な仕組みをインターネットの力で作りたい、つまりリアルとネットの両輪でやろうと思ったんです。この時の思いは今も昔も変わってないんですよ。

起業するつもりはなかった

──そこから起業するわけですね。具体的にはどう動き始めたのですか?

いえ、それが元々自分で起業してこのような事業をやるつもりなんて毛頭なかったんですよ。なので、前職の元同僚や新規事業に興味がありそうな人たちに「子育てを頼り合えることを事業化するってすごく大きなマクロニーズを捉えてると思うんだけど」という話をしたりしていたのですが、「それってお金になるの?」みたいなことをすごく言われて。

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お金になるかならないかという観点で言えば、当時からベビーシッターを利用するような人たちではなくて、いわゆる普通の主婦が電車やバスに乗るような感覚で使えるようなものでないと意味がないと思っていたので、女性の平均時給が1500円ということを考えるとそれ以下の料金で子ども一人、二人を預けてもまだ給与が残るような価格帯でのサービスでなければいけないとは思っていましたし、そうなるとその金額から仲介料をとったところでたかが知れているな、ということは容易に想像できたわけです。しかも、知人友人を頼るのに手数料を取られる、ということにも違和感があるだろうなという感覚もありました。一方で、広告モデルが成り立つとも思えなかったし、会員費を払ってまで使うかどうかわからないサービスの会員に多くの人がなるとも思えなかった。つまるところ、自分でもこの事業でどうやれば利益を生み出せるかというところまではまだ答えを見つけられていなかったんです。だったらこれは公共性が高いであろう事業だからと、行政の窓口に行って提案したこともありましたが、いきなりの招かれざる客状態で延々トンチン感な対応をされちゃって(笑)。

でも子育てを頼りたい人と助けてあげたい人の両方を繋げることには絶対にニーズがある。ユーザー調査をすることでそれが見えていた。これってビジネスのシーズ、種だと思ったんですよ。ニフティでもビジネスモデルを考えて特許を取ったり新規事業を考えたり、投資会社で広報をやっていた経験から、これから伸びるサービスは世の中のニーズがあるということが絶対条件なんですね。そのニーズがあるということがわかった瞬間、ビジネスモデルは今は見つからないけれどそれさえ見つかれば絶対なんとかなると確信したんです。当時は何の確証もない確信、直感に近いような感じでしたが。

結局、頼り合いができないってこんなに大きな社会問題で、こんなに世の中ニーズがあるのに誰も自分事としてやらないのであればいっそ自分でやるしかないと決意したわけです。この時、2009年7月末、33歳の時から起業に向かって動き出したんです。

退職金を資本金にしてスタート

無限大の可能性と使命感の賜物

──自分で起業するしかないと決めてから、具体的にはどのように動いたのですか?

事業ってミッション、ビジョンに共感する人たちが集ってこそできると思ってたので、まだ何にもないところから一所懸命、社名やミッション・ビジョンを考えて、「共助社会のインフラをつくる」ということに共感する創業メンバーを全国から集いながら、11月の頭には自分で作った定款を役所に提出して「株式会社AsMama」を立ち上げたんです。

スタッフはブログとSNSで募集しました。200人ほど応募があったのですが、収益モデルもできていない状態ですし、すぐに給料が払えるという状況でもないということを理解した上で、それでも一緒に作り上げていくんだという気概のある人たちと一緒に始めたいという思いがあったので、参画希望者とは面談をしながら、創業メンバーを一人、二人と集めていきました。結局、50人ほどの方と面談して、最終的に12人の方々と一緒に事業をやることになりました。メンバーは埼玉や大阪、佐賀などいろんなところに住んでいました。 そもそも優秀な人材を募集するなら地域限定で人材を募集する意味もないと思っていたので、創業当時から(現在もですが)就労は全国どこからでもリモートワーク(在宅勤務)スタイルで参画できる環境でやりたいと思っていたんです。

人件費も時間拘束で給料が払える余裕はないので、やってもらった成果で払いますというレベニューシェア方式で始めました。創業資金は金融機関から借りたら当たり前ですが計画通りに返すということを優先せねばならず、投資を受ければ株主のリターン最大化を優先せねばならなくなります。それでは共助インフラを創る、というミッション・ビジョンを最優先することができない状況を生みかねず本末転倒なので、立ち上げ時は私の退職金だけで始めました。


──具体的にはどういう活動から始めたのですか?

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最初は支援したい人と支援してほしい人が出会う機会を作ることと、出会った人たちが頼りあえるネットの仕組みを作ることから取り掛かりました。人は「子育てを頼りたい人と支援したいと思っている人たちが集まって仲良くなる機会を作ります!今回は、○○をテーマに一緒に楽しみましょう」といったチラシを作って町内会の掲示板に貼り付けたり、SNSを使って集めました。数十人が集うこともあれば、一人も集まらないこともありましたが、創業して3ヵ月で100回ほど東京、大阪、名古屋、横浜と各地で交流会を開催しました。

交流会では1人ずつ自己紹介をした後、支援してほしい人としたい人にわかれて、支援したい人を囲んだグループワークをしたり、住んでる地域でわかれて地域情報を共有したりしていました。

当時、こうした交流会は参加者から数百円から数千円の参加費をいただいて成り立たせていたんです。でも実施していくうちに、そもそもあまり経済的に決して余裕があるわけではない子育て世帯こそが近所に友達を作って頼りあえるようにしたいと思って始めたのに、そういう参加者からお金をもらって運営し続けるというやり方では、やりたいことができていない、これは全くやりたかったことと違う、と気づいちゃうわけです。

一方で、一緒にこの事業を立ち上げて協力してくれている創業メンバーに早くお給料を払えるようになりたいとも強く思っていたので、もっとまとまったお金を得る方法も考えなくてはいけませんでした。そこで交流会に企業スポンサーをつけようと大規模イベントを企画し始めたんです。例えば「0歳からのクラシックコンサート」や「親子で楽しむ夏祭り」みたいなイベントを開催してたくさんの親子連れを集め、協賛してくれる企業は参加者にチラシを配ったりアンケートを取るなどのマーケティング活動ができるという仕組みです。

企業から罵声を浴びる

しかし、あらゆる意味でこれもうまくいきませんでした。音楽イベントではコンサート会場で友達を作りたいと思う人なんていないので、参加者同士が友達になるということにはなりませんでした。「私たちは頼り合える社会をつくりたいと思って本日みなさんに集まっていただきました。ぜひ隣の人たちと交流してみてください」と言っても、会場中が「は?」という感じになる、みたいな。「今回このようなイベントを無料でやらせていただいているのは本日協賛いただいている企業様のおかげなので、アンケートのご協力やブースの立ち寄りをお願いします」と協力を呼びかけても、参加者は音楽を聞きに来たり、夏祭りを楽しみに来てるだけなので、いきなり企業紹介なんてし始めると逆に不信感でいっぱいになるばかり。会場でチラシを配ったりアンケートを書いてくださいとお願いしても協力なんてしてくれません。

企業にしても、1000人の参加者に対して自社のサービスや商品を快くPRできたりマーケティングができるというから高い協賛金を出しているのに、イベント当日、出展企業に興味をもって近づいていく人なんていませんからアンケートをお願いしても片手枚数くらいしか回収できなかったり、商品が売れるなんてことも当然ありません。だからご協賛企業からも「話が違うじゃないか!」「これじゃ詐欺だ」とかなり怒られたこともあります。こちらとしては「申し訳ありません」とただひたすら謝るしかありませんでした。

このようなことが続いたことで、私ってイベント参加者に嫌がられる企業紹介と、企業にとって何のメリットもない出展提案をコーディネートするイカサマイベント屋みたいになっちゃっていると自分でも思いました。その瞬間、これは絶対違う、誰もハッピーではないこんなことはもうしちゃいけないと思ったんです。かといって次に何をしていいかわからない。完全に袋小路に迷い込み、暗中模索という状況に陥りました。

メンバーからも罵倒、絶望的な状況

それで一緒にやってるメンバーに「私たちって頼り合える社会を作ることで社会課題を解決したかったはずなのに、今は単なるイベント屋のようになっている。でもこれって違うよね」という話をしました。メンバーからは「それはわかるけど、じゃあこれからどうするの?」って聞かれたんですが、「いや、私にもわかんない」って答えるしかなくて。そしたら当然ながら「わかんないってどういうこと? あなたが成長の軌跡を描く事業をリードするっていうからここまで一緒にやってきたんだけど」と、激怒されました。

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ほぼ全メンバーから、「ふざけんな!」「人でなし!」「ろくでなし!」「嘘つき!」「イカサマ!」ってメールや電話で連日罵声を浴びせられました。そもそも最初にこういうことをやりたいと40ページもの事業計画書を作ってメンバーとビジョンを共有したのですが、最初の1ヵ月目から思い描いた通りにはなりません。でも、私を信じて一緒に時間や労力を投資してきてくれたメンバーです。しかも創業メンバーはプログラマーとかデザイナーとかフリーの人が多かったのですが、AsMamaの仕事をするために、他の仕事の依頼を断りながらかかわり続けてくれていたんです。だから私に対してふざけんな! という気持ちも至極当然です。今だからこそ言えるんですが、たとえ次の一手がわからなくなっても、これから何を目指すかの方向性さえ示せなくなったら経営者としての存在価値はありません。「社会のために役に立つインフラを作り、必ず経済的リターンも両立して求めよう。そのために力を貸して」と叫んでいた経営者が、これからのことなんてさっぱりわからないと開き直ったか、さじを投げたかのような言動をとれば、それはついてきてくれた人たちにしてみればたまったもんじゃないですよね。

資本金を崩してでも自分たちの労に対していくらかでも払えというような声すらありました。私としてもこれまでまともな給料さえ払えなくて本当に申し訳ないという思いから、そういう選択肢を取った方がいいのかな、とも迷いました。でも、それで得られるものは私が一時的に罪悪感から逃れるためだけの自己満足でしかなく、この先事業が続けられなくなることは明白です。私はもう一度だけ、と創業時の思いに立ち返り、社会のために誰もが気軽に頼り、頼られるインフラを作るんだ、いつかみんなに還元できるくらいにまで成長することがみんなへの感謝と恩返しになるんだと自分に言い聞かせて、事業の継続を優先しました。

その結果、1人を残して11人が怒号を飛ばして辞めていきました。それ以来5年以上にわたって、同じ季節が来るたびに体に帯状疱疹や蕁麻疹が出るようになりました、自分が思っていた以上にしんどかった日々だったんだろうと思います。これまでも、今でも、彼らに対する感謝の思いを、申し訳なさを忘れたことはありません。

やめるなら今だ

──かなり精神的にきつかったでしょうね。でも1人は残ってくれたんですね。

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残ってくれたのは、岐阜在住の今でも当社に在籍してくれている唯一の創業メンバーです。でも当時、2人目を妊娠していたので、実質私一人になっちゃった。この時、やめるなら今だなと思いました。すべてがうまくいかず、ついには一人ぼっちになり、お先真っ暗で出口が見えないという状況になっちゃったので。

それまで毎日ビシっとしたスーツと高いハイヒールで社内を闊歩して、毎月の給与振込が何日かさえ気にしたこともないような生活から、1年間お金が出ていく一方の状態になり、そんな中で届く前年度の年収に応じた納税の通達。家族にも申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

さらに追い打ちをかけるように、前職を辞めたタイミングで登録していた転職エージェントからは、高額給与でのヘッドハンティングのメールが頻繁に届いていました。気持ちが揺るがなかったといえばウソになります。この話を受けてその会社に入った方がいいんじゃないかと、本当に喉から手が出かけました。でもそのたびに、今はまだ...と、お断りしました。


──そこでその企業に入らなかったのはなぜですか?

私にはまだやるべきことがあったからです。


インタビュー第3回はこちら

"社会共助"で誰もが生き生きと輝ける社会に[第1回]

社会をよりよく

──まずは甲田さんが代表取締役を務めるAsMama(アズママ)とはどのような会社なのかを教えてください。

甲田恵子-近影1

一番根底にあるのは「社会をよりよく変えたい」という思いです。私たちはすべての人たちの能力が最大限生かされることが、社会をよりよく、豊かにすると信じているので、「子どものために親が何かを我慢したりあきらめたりすることは仕方がない」という常識を壊し、誰もが育児も仕事もやりたいことも思い通りにかなえられる社会の実現を目指しているんです。そのためには、お互いが頼り合い、助け合える「社会共助」の実現が必要不可欠。小さな悩みから大きな悩みまで、困った時、自分の苦手なこと、自分では賄えないことを他人の力を借りて解決できる社会的インフラを作りたいと思い、これまで活動してきました。

そのために、誰もが子育てを頼り支え合える、子育てをシェアするという環境をつくりたいという思いで開発したシステムが「子育てシェア」です。子育てを支援したい人と、支援を求める人が安心・安全につながり、気兼ねなく頼ったり頼られたりするためのネットの仕組みです。子育てシェアのアプリをスマホにインストール、登録して、支援してほしい時に呼びかければ、予め子育てシェア内でつながりを作っておいた気心知れた知人の誰かが答えてくれます。子育てシェア内でつながりをつくるには、友達申請の承認時に相手の携帯電話の下四桁を入力するリクエストにこたえられなければいけない仕組みになっていて、知ってる人以外に依頼内容を知られることがないので安心。

「子育てシェア」アプリの登録画面

「子育てシェア」アプリの登録画面

支援してもらった人へのお礼は気兼ねしないように1時間500円からというルールを設けていますが、仲介料がかかるわけでもなければ当日、現金精算も可能なのでお互いの合意金額でも大丈夫。両者のお礼のやりとりはクレジットカードでもできるようになっているので支援してくれる人と顔を合わさないような送迎の依頼も可能ですし、「私が朝あなたの子どもを送っていくから、帰り私の子どもを迎えにいってね」みたいな感じだったらもうお金のやりとりはいいよねとなるケースもあります。

登録料・手数料は無料。私たちは、支援すること・されることによって利用者の生活を豊かにしたい、という思いから、子育て世代のユーザーから費用は一切いただいていません。にもかかわらず、万が一、重篤な事故を起こしてしまった時のために、子育てシェアを利用する全支援者に損害賠償責任保険を適用しています。

2013年4月のローンチからたくさんのママ・パパの支持を得て、現在は会員数4万5000人を突破しています。

"ありがとう"の等価交換

──子育てシェアを使うメリットは?

預けた方は「うちの子を預かってもらって本当に助かりました、ありがとうございました」と感謝するのはもちろんですが、預かった方も「いやいや、うちも来てもらってうちの子の面倒を見てもらって、その上お礼までいただいてありがとね」という"ありがとう"の等価交換、みたいなやりとりが多く飛び交っているんですよ。


──ありがとうの等価交換、すごくいいですね。

他の家のお子さんを預かると、自分の子どもに兄弟・姉妹体験をさせてあげられるんですよ。それに、子どもって1人より2人でいる方が勝手に遊んでくれるから楽ということもあるんですよね。


──確かに顔見知りとか会ったことのある人はそうでない人に比べて安心感が全然違いますよね。でも近所に知り合いがいないという人はどうすれればいいんですか?

そんな人たちのために、年間1000回ほど全国で親子交流イベントを開催したり、「ママサポーター」と呼称している共助支援者を育成しています。ママサポーターは当社で8~40時間の研修を受けた、いわばセミプロの育児支援者。研修では託児に関する基本的な知識やビジネスマナー、コミュニケーションスキルを学び、地元の消防本部で救命講習も受けてもらっています。その後OJTとして実際にAsMama主催のイベントや交流会にファシリテーターとして参加してもらい、合格した方がママサポーターとして認定されます。保育士など育児のプロも多数いるんですよ。

子育てを頼れる知り合いがいない人の強い味方・ママサポーター

子育てを頼れる知り合いがいない人の強い味方・ママサポーター

収益は企業の広報やマーケティング支援などから

──ビジネスモデルについて教えてください。先ほど子育てシェアの利用者からは一切お金を取らないということでしたが、では会社としての収益はどのように得ているのですか?

先ほどお話した年間1000回開催している親子交流イベントのうち、300回ほどは広報や宣伝、マーケティングをしたいという企業と協働していて、そこからいただく報酬がAsMamaの収益の柱になっているんです。具体的には、例えば来館誘致のためにエリアマーケティングを実施したい商業施設とか、生活や子育てに役立つ商品、商材を製造しているメーカーさんなど、いわゆる衣食住・健康・教育・就職支援を手掛けている企業さんが多いですね。ほかには、ここ1、2年は、集合住宅内で住人同士が子育てシェアを使って頼ったり頼られたりすることで暮らしやすさを支援するという共助コミュニティ創生を行う業務を受託する協働も増えてきました。取り引きさせていただいている社数は約250社。まだまだです。

地方自治体ともコラボ

甲田恵子-近影5

もう1つのビジネスとしては、地方自治体との協働があります。自分の市町村でも子育て世代を応援して彼らが暮らしやすい環境を作りたいとは思っているんだけど、予算の関係でもうこれ以上は多様化する子育て世帯のニーズに合わせて保育施設や病児保育、夜間保育などの託児支援サービスを提供するのは非常に難しい。そこでソーシャル・キャピタルとして市民1人ひとりや思いのある人の力を借りて何とか問題を解決したいと思っている自治体さんから、支援者の掘り起こしからきちんと地域のつながりを作るというところまで協力してほしいというお声がけをいただくことが多いですね。今、こういう問い合わせをたくさんいただいていますが、実際に動いているのは秋田県湯沢市と奈良県生駒市の2つの自治体です。

熊本地震でも役立った

──子育てシェアの近所の顔見知りでつながるという仕組みは災害時にも非常に役に立ちそうですね。

まさに熊本地震の時がそうだったみたいですね。地震発生直後はそこら中に潰れかけの家や危険な瓦礫が散乱していて、多くの人が子どもにケガさせたらどうしようという緊張感が漂う中で、被災地の掃除をしたり家の中のものを片付けたりしていました。そういう状況を目にした子育てシェアの会員が子育てシェアのような仕組みがあるということを個別に教えてあげてくださいと全国の会員さんに呼びかけたり、私たちにAsMama主導でもっと周知してほしいと連絡がありました。それで私たちは被災地で子育てシェアを使ってもらえる声掛けを強化しました。


──子育てシェアを開発する時、こういうことも想定してたのですか?

甲田恵子-近影6

防犯や防災インフラとしても活用できる、というのはイメージしていました。というのも、今は個人情報保護の関係で家庭間の連絡網がないという学校がほとんどなので、地震や不審者が出たという情報が出回ると、保護者は全員学校に連絡をするしかないんですよ。そうすると大きな災害が起こった時パンクしちゃうんですが、自分の子どもの所在や安否の情報は絶対に多角的に繋がっている方が早く入ってきます。それで、自分の子どもの命くらいは親のネットワークで守りたいと思って、子育てシェアは幼稚園・保育園・小学校の親同士は自動的にグルーピングされるような仕組みを導入してるんです。

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原点となったアメリカ留学

甲田恵子-近影7

──ここからはなぜ甲田さんがAsMamaを起業して子育てシェアのようなサービスを始めたのか、その歩みをお聞かせください。学生時代からこういう社会をよりよくしたいという思いを持っていたのですか?

正直、そこまでは考えていなかったです。ただ、大学進学を考える時には、せっかく親に高い学費を払ってまで大学に行かせてもらうのなら、私のその後の人生が劇的に変わるようなものを身につけられる大学に入ろうと思いました。いろいろ考えた結果、外国語大学に入ったら英語が喋れるようになって、自分の活躍できるフィールドが世界に広がるだろうと思ったのと、大阪にあった実家から通える範囲の大学ということで関西外国語大学に入りました。本気で英語を身につけたかったので、全学年で少数枠しかなかった推薦の留学生枠に入るために必死に勉強して合格し、3回生と4回生の1年強、アメリカの大学に留学しました。


──留学してどうでしたか?

すごくよかったですよ。というのは、アメリカの大学ではちょうどこれからの自分のキャリアを考える、という就職活動を迎えるころに、自分はこれからどんなキャリアを歩みたいか、どんなふうに生きていきたいかをみんなですごく議論するんですね。そういう環境にいたからこそ、どこの会社に入るかではなく、30、40、50歳になった時に世界を股にかけるような仕事、どこにいても生きていけるような仕事がしたいと思うようになりました。ところが当時は4回生の秋に帰ってきちゃうと内定を辞退した人を埋めるための若干名の募集しかなくて、今からでも受けられる、世界を飛び回れそうな会社を手当たり次第に受けて、3社から内定を得ました。

環境省の外郭団体に就職

──どのような会社に就職したのですか?

甲田恵子-近影8

留学時代、国連やユニセフにも興味を持っており、世界的な課題である環境問題に取り組む環境省の外郭団体に入社を決めました。入社後は秘書室に配属されて、役員秘書になりました。アメリカ帰りで、さてこれから大いに活躍してやるぞと頭から湯気が出てるような、かなり血気盛んな状態で入ったのですが、当然ながら官庁の外郭団体なので、男性優位の年功序列。秘書として最初に命じられた仕事はおしぼりを作るとか、タバコをそろえるとか、役員ごとに7紙の新聞を読む順番にそろえるというような仕事。毎日こんな仕事だけではとても満足できなかったので、上司に「国際協力室の仕事もやらせてほしいんです」と直談判したんです。すると「秘書室の仕事をちゃんとやるんだったら兼任してもいいよ」と認めていただけたので、とにかく国際協力室の仕事がしたいがために毎日集中して必死に秘書室の仕事を終わらせていました。


──国際協力室の仕事とは具体的にはどういうものだったのですか?

国際協力室は、JICA(国際協力機構)などと組んで、先進国で行われている環境問題の取り組みを発展途上国で実施できるような教育プログラムを考案する部署でした。当時私はまだまだ下っ端だったので企画をゼロから考えることはしなかったのですが、進行中の事業に関する資料を作ったり、マーケティング情報を集めたり、来日した海外の方々をご案内するという仕事をしていました。英語も使えるので楽しくてやりがいもあったのですが、もっとチャレンジングな仕事がしたいと、悶々とした日々を過ごしていました。

インターネットの会社に転職

そんなある日、当時国内のインターネット事業の最大手だったニフティが新たに海外事業部門を立ち上げて、海外からいろんなネットサービスを導入したり、日本のサービスを海外に売り込む新規事業を立ち上げ、新規メンバーを募集するという求人情報が目に飛び込んできました。それを見た瞬間、これはもう絶対にやりたいと思いその求人に応募して、めでたく採用となったんです。2000年、25歳の時でした。

甲田恵子-近影9

──ニフティではどのような仕事をしていたのですか?

海外事業を手がける新規事業部に入り、基本的にはいろんな海外の国に行ってはおもしろいサービスを見つけて、現地の大きな会社と業務提携を行うというビジネス渉外をしていました。海外出張が多く、会社に出勤して社長や役員と一緒に各国を転々と回ったりというケースもよくあったので、急な海外出張にも対応できるよう、常にパスポートを含めた2、3日分の旅セットを持ち歩いていました。

ずっとやりたいと思っていた、英語を使って世界を飛び回る仕事に就けたわけですから、もう本当に毎日食事しなくても大丈夫、寝る時間や遊ぶ暇がなくても全然平気、というくらい仕事に没頭しました。毎日が超充実してましたね。


──20代後半の頃って特に女性は結婚や出産について考える頃だと思うのですが、その辺はいかがでしたか?

当時はすごく仕事が大好きで毎日充実していたので、結婚願望も出産願望も人並みにはあったと思いますが、それほど深刻に考えていたわけでもありませんでした。

結婚したのは入社して3年後の2003年、28歳の時です。結婚後も同じく仕事ばっかりしてましたが(笑)。でも翌年の2004年7月に妊娠したんですがなかなか上司に言い出せなくて。海外を行き来する仕事だったので、どのタイミングで妊娠を伝えるべきかわからなかったんですよ。ひょっとして妊婦だからもう海外へは行かせられないとか仕事しなくていいと言われたらどうしようと思ってました。

それで安定期に入った頃、アトランタ出張で初めて胎動があり、最初だからこそ胎動だとわからなかった私は、お腹の中で赤ちゃんがおかしくなっちゃったと思って、その時ようやく上司に「実は私妊娠してまして......」と相談したんです。当然、上司は唖然呆然。「おめでとう」という言葉と同時に、黙っていたことをすごく怒られたのを覚えてますね(笑)。


──それだけ仕事が楽しくて充実した仕事人生を送っていたのなら、妊娠した時、もう少し仕事がしたかったのにな...という気持ちもありましたか?

確かにうれしいというよりこの先どうしよう、少なくとも海外には行きづらくなるなっていう動揺はありました。でも胎動がしてきたりお腹が出てきたり、そういう身体的な変化で不思議と母親になることを自然に受け入れていけたような気がします。勝手に子どもが私を母親にしてくれるんだなと思いました。

出産を機に生活が激変

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その後産休に入り、30歳で無事娘を出産しました。4月3日が予定日だったんですが結局3月まで仕事をして出産。4月生まれで、タイミングもいいので1年間しっかり育休を取って子どもと密着して過ごしました。1年後に職場復帰する時は、仕事と育児は両立できるものだと根拠のない自信があったので、意気揚々と復帰したのですが、全然そうはならなくて大変でした(笑)。


──どんな感じだったのですか?

復帰当日に子どもが肺炎になったんですよ。それで復帰日を1週間ずらしてもらったりといきなりつまづいたんです。これまでの仕事一筋のバリキャリ、ビジネスパーソンとしては復帰当日に子どもが熱を出したから1週間伸ばしてくださいなんていうのはもうほんとありえないわけですよ。これまでのビジネスウーマンとしての自分が焦りました。

今考えたら尋常ではない精神状態だったとしか思えないのですが、復帰日の2日前から子どもの熱が上がって体調が悪くなったので、とにかくこれ以上熱が上がらないでと祈っていました。ところがその後も体調はよくならず、復帰日になったら子どもがぐったりしてたんです。さすがにこれはまずいと病院に連れて行ったら肺炎と診断されて即日入院となりました。

病院に連れ行くまでの2日間は、娘に対して「とにかく元気になって」ではなくて、「ママは明後日からお仕事なんだから、お願いだからそれまでによくなって」という思いが強かった気がします。目の前でぐったりして点滴の針を入れられている娘の姿を眺めていた時、私って母親としてなんてひどいんだろう、母親失格だと思って涙がボロボロこぼれてきました。

その後も子どもを保育園に預けて仕事に行く時、まだ1歳になったばっかりの娘が保育園のゲートにしがみついて「ママー捨てないでー、置いてかないでー」って感じで泣きじゃくるんですよね。その泣き声を背中に浴びつつ、ごめんねごめんねと思いながら身を引き裂かれる思いで会社に向かう時なんかは、途中でポロポロ泣けてきて、仕事ってここまでしてしなきゃいけないものなのかと思ったことも何度もありました。

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会社に着いても、保育園からお熱がでてますとか元気がないですとかしょっちゅう連絡が来て、そのたびにまたぐったりしてたらどうしようと思って早退して保育園に迎えに行くわけですが、娘は想定外なほど元気だったりするんですよね。病院に連れて行ったら看護師さんに「今はお熱はないみたいですね」なんて言われることも多々あり、その都度「マジですかーっ」と何とも言えない思いも何度もしました。

しかも、そんな時は家に帰ってからも、娘が悪いわけじゃないのに、娘に対してもイライラしてしまったりして、そんな自分に子どもが寝てから凹むんですよね。仕事は仕事で会社に行ってもまた熱を出すかもしれないといつも不安と隣り合わせ。クライアントのところへ出向くにもあまり遠いところには行きたくないという気持ちが先走ってしまいました。気づけばいつも、仕事も中途半端、子育ても中途半端になっちゃっている気がしました。

娘のために人の10倍働く

そうこうしているうちに娘がもう一回肺炎になって入院生活に付き添ってしばらく休職して復職する、という経験をします。その時、このままでは仕事も子育ても両方中途半端のままになると思ったんですよ。それで1つの決心をしました。この子が将来医者になりたいとか海外留学したいと言っても、経済的な理由であきらめざるをえないということにならないように、とにかく早く偉くなって経済的にも時間的にも融通がきくレベルになるまで上り詰めようと心に決めたんです。そこからは目の色変えて本当に人の10倍働いたんじゃないかと思うくらい働きましたね。

例えば18時に会社を出て19時に保育園に迎えに行って、家に帰って晩ごはんを食べさせて、お風呂に入れて、本を読んで寝かしつけ、主人が帰ってくるのを待って今度は主人の夕食を作り、「じゃ!」と家を出て、会社へ戻ってそこからまた終電か朝まで仕事、なんていうこともありました。翌朝はまた、主人のお弁当を作り、娘の身支度をして朝ごはんを作って、夕飯の下ごしらえをして、私か主人のどちらかが娘を保育園に送って、また会社に行く、という生活をしてました。


──すごいですね。まさに寝る暇もない働きぶり。

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本当にゆっくり布団で寝るなんてことができなくて、行き帰りの電車の中で寝てました(笑)。今ほどスマホで移動中も仕事ができるような環境じゃなかったので、電車の中にいるときによく寝落ちしてました(笑)。


──それで体の方は大丈夫だったんですか?

私、元々すごい睡眠時間が短くても平気で、2、3時間で大丈夫なんですよ。むしろ6時間とか寝ると寝過ぎで頭痛がしたりします(笑)


──よくそこまで仕事と育児・家事の両方をやれてましたね。

1人ではどうにもならない時は主人はもちろん、夜間保育やベビーシッター、ファミリーサポートなど、使える支援は何でも使っていました。知り合いに頼るのが苦手だったので家族かお金に頼るしかない、という感じだったんですが。


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