2016年5月アーカイブ

女流しの生きる道[後編]

漫画家を目指して

──後編ではこれまでの人生の歩みを聞かせてください。子ども時代になりたかったものは?

ちえ-近影1

小学生の頃から漫画家になりたいとずっと思っていました。当時から当事者意識が欠けているというか、身の回りで起こる出来事は全部ネタだと思っていて、何事も距離を置いて「これ漫画にしたらおもしろいかな」といつも考えているような子どもでした。

母に漫画家になりたいと話すと「手塚治虫は医者になれるほど勉強したんだから、漫画家になりたければもっと勉強しなきゃ」と言われました。それ以来、ずっと哲学や宗教関係の本を読み、高校卒業後は大学の哲学科の通信コースに入りました。


──学生時代から漫画を描いていたのですか?

作画風景

作画風景

はい。20歳くらいの時に某女性漫画雑誌の漫画賞に応募して、期待新人賞をいただきました。初めて本格的に描いた漫画だったのでとてもうれしかったですね。当時好きだった漫画家は手塚治虫や白土三平など昭和の漫画を作った人たちでした。日本を代表する漫画原作者の小池一夫先生原作の「子連れ狼」も大好きでした。

それで、大好きな作家の元でプロの漫画家を目指したいと思い、小池一夫先生の「小池一夫塾」に一期生として入り、1年間、名古屋から毎週東京に通いました。小池塾では絵のクオリティよりも締め切りまでに決められた枚数の漫画を描くということを徹底的に叩きこまれました。それができない人はどんどん脱落して、最初に60名いた塾生も最後は10名ちょっとしか残りませんでした。私は絶対に漫画家になると思っていたので毎回きちんと課題をこなし、修了しましたが、小池塾が終わった後は漫画を描くのが嫌になったんです。


──それはなぜですか?

ちえ-近影2

小池先生の教えは、まず売れる漫画を決められた期限までに描けるようになることが最優先で、自分が描きたいものはそれができるようになってから描けというものでした。その教えは今なら確かにおっしゃる通りだと思えるのですが、当時は若かったのでとにかく売れることを考えて漫画を描くのが嫌になり、自分が本当に描きたいと思うものを好きなように描きたいという欲求が抑えきれなくなったんです。それで小池塾を修了した後、名古屋にある芸術系の大学に入り直しました。


──やはり専攻したのは絵ですか?

いえ、白黒の2次元の漫画の世界から逃げたかったので、極彩色の映像や立体作品の制作、3次元のパフォーマンスなどに没頭しました。プロはギャラに見合ったものを締め切りまでに創らなければなりませんが、学生は好きなものを好きなように創ればいいのですごく楽しかったですね。

芸大時代のパフォーマンス(左)、鍛金作品(中)、針金アート(右)

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24歳で漫画家デビュー

──漫画の方は全然描いてなかったのですか?

ちえ-近影3

いえ、それが24歳の時、知り合いの紹介で、ある情報誌で連載することになったんです。それまで漫画を載せたことがない媒体だったので自由に描けて楽しかったですね。ジャンルはストーリー漫画で3年間連載したのですが、このとき小池塾で学んだことがすごく役に立ちました。


──特にどういう点が役に立ったのですか?

一番役に立ったのは先ほどお話した、クライアントから求められている枠の中でおもしろいものを締め切りまでに毎月きっちり描くということです。だから締め切りが苦しいと感じたことは1度もありませんでした。

また、小池先生の漫画制作の哲学は、「漫画はキャラクターが命だからキャラクターづくりが一番重要であり、キャラが立った主役さえ生み出せれば、あとは勝手に動いてくれる。だから漫画家はカメラマンに徹して追っていけばいい」というものでした。それを忠実に実践したおかげで1度もアイディアに詰まったこともないんです。

連載を重ねていくうちに読者もついてきたのですが、連載から2年半ほど経った時に情報誌の発行元の事情で打ち切りの話が出ました。でも私の漫画を楽しみにしているファンのために原稿料はいらないから最終回まで描かせてほしいと頼み込んで最後まで描ききったんです。これは1つの大きな自信になりましたね。

漫画を生み出す作業机(左)と作品(右)

上京を決意

──大学を卒業後はどうしたのですか?

ちえ-近影4

3年間の漫画連載をやり遂げたことで再び漫画への情熱が燃え上がりました。当時、小池一夫先生が神奈川工科大学で漫画の作り方を教えていたので、もう一度漫画を勉強し直そうと聴講生として毎週通い始めたんです。その時、講義の場以外でも漫画家が集まる会に積極的に参加して、第一線で活躍している漫画家の話を聞いて刺激をもらって名古屋に帰っていました。

また、名古屋でも東京でもいろんなパーティーや異業種交流会などに参加して名刺を配りつつ「漫画家です。仕事をください」と営業活動をしたり、アルバイト先の飲食店で知り合ったお客さんに売り込んで時々イラストや漫画の仕事をいただいて描いてました。でもそれだけでは全然生活していけず、メインの収入源はアルバイトでした。自分でも向いていると思っていたしけっこう稼げていたのですが、目標はあくまでも漫画で食べられるようになることだったので、このままではいけないと悩んでいました。そんな時、東京の知り合いの漫画家が、漫画家を集めて会社を作るから一緒にやらないかと誘ってくださったので、東京に出ることにしたんです。

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上京して漫画系制作会社に就職

──上京後は具体的にどういう仕事をしていたのですか?

ちえ-近影5

知り合いの漫画家が作った会社は漫画を使った結婚式ムービーや企業紹介ムービーを作る会社でした。漫画家は内気な人が多いから主に企業に漫画を売り込む営業としても働いてほしいと頼まれ、漫画家兼営業職として働き始めました。その時、名古屋で個人的にやっていた営業活動の経験が生きたんです。東京でもいろんな会社に行っては、営業活動して仕事を取っていました。でも完全歩合制で、その割合も低かったのでお小遣い程度の収入しか得られませんでした。当然とてもそれだけでは生活はできなかったので、繁華街の飲食店でアルバイトを始めました。

少しでも人脈を増やそうと、漫画家や編集者、記者などのマスコミ関係者が集まる店に通って、営業活動もしていたのですが、そんなある日、漫画家の東陽片岡先生の店のイベントに参加しました。私は東陽先生の作品は全巻持っているほどの大ファンだったので実際にお会いできて大感激。いろいろとお話させていただいて、そのお店で昭和歌謡を歌ったら東陽先生に気に入っていただけて、それ以来よくご一緒させていただくようになったんです。そしてある晩、東陽先生が新太郎師匠と引き会わせてくださって、弟子にしていただいたんです(※詳細は前編参照)。

東陽片岡氏のイベントにて

東陽片岡氏のイベントにて

ただ、流しになるタイミングはあまりよろしくなくて。というのはちょうどその頃、同業他社に転職して、新しく名刺を作ってスーツも新調して、社長と一緒に得意先の挨拶回りを済ませたところだったんです。でも絶対に師匠と一緒に流しをしたかったので、社長に「大変申し訳ないのですが、流しになるから会社を辞めます」と辞意を伝えました。

温かい社長

──社長の反応は?

第一声は「何だって? もう一回言ってごらん?」でした(笑)。でもその経緯や私の思いを話したら、「君はスポットライトを浴びる側の人間だから裏方の営業なんてやってる場合じゃない。流しを頑張りなさい」と認めてくれて、応援までしてくれたんです。でもせっかく新しい名刺をたくさん作っていただいたので、その分は配り切ろうといろんな会社を回って全部担当者に渡してきました。その会社から来た漫画の問い合わせは全部社長に繋いでいました。


ちえ-近影6

──一応筋は通したわけですね。しかし社長はいい人ですね。

本当にいい人なんです。私が流しになってから荒木町に何回も来てくれたり、いろんな人を紹介してくれたりといまだにかわいがってもらってます。私は人の縁でここまで来たんですよね。自分がやりたいことをやるだけではなく、出会った人を大事にして頼まれたことを地道にやっていけばいろいろと繋がって、結局自分の行きたいところにたどり着けるということに気がつきました。それは財産ですよね。


──元々漫画家になるのが夢だったわけですが流しになったことについては?

実は漫画家になりたいと思う前、幼稚園の頃の夢は歌手になることだったんです。よく自宅のテーブルの上で歌っていたのですが、家族や友だちにほめられて喜んでいました。だから今は歌と似顔絵をやれているので、2つの夢が同時に叶っている最高な状態なんです。

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流し以外の活動

毎週第二日曜日に「かふぇオハナ」で開催されているながしカフェにて

──現在、流し以外に取り組んでいる活動は?

師匠が第二日曜日の15時から17時まで荒木町のお隣町にあるかふぇオハナさんで「流しカフェ」をやっているので、私も時間が許す限りサポートに行っています。お客さんが歌わないときの穴埋めに歌ったり、似顔絵を描いたりしています。

個人的な活動としては、たまにビジネス用のイラストや漫画を描いています。それも流しで出会ったお客さんから依頼をいただくことが多いんです。例えば名刺に掲載するカットから、1ページもののイラスト、数ページの漫画までさまざまですね。会社のキャタクターデザインを頼まれることもあります。これまでカフェなどでイラストの個展をやったこともあるんですよ。

ちえさんの作画風景とイラスト作品。お客さんの要望に応えようとした結果、劇画からゆるい漫画まで、描けるタッチのバリエーションが増えた。これまで数回個展を開催している。さらに切り絵も得意としており、その腕はプロ級

でもイラスト・漫画の仕事は趣味に近いですね。縁があって依頼が来たもの以外は描くつもりはなくて、これから絵の仕事を増やしていこうとも思っていません。あくまでも本業は流しなので、絵に時間を取られて流しがおそろかになったら元も子もありませんからね。

あとは、これも趣味の範疇ですが、メンバー全員が猫耳をつけてライブをやる「猫バッカス」という音楽バンドを組んでボーカルを担当しています。ライブでは流しではやらないような曲、例えば昭和歌謡の中でも新しいものや、ジャズ、シャンソンなどを歌っています。基本的に不定期で、お店からライブをやってほしいという要望があったときにメンバーと日程を調整して出演しています。メンバーは全員プログラマーや大工など本職をもっていて、ライブのときだけ集まります。「大人の部活動」のようなコンセプトでやっているんです。今は好きなことをやれているので精神的なストレスは全くないですね。

バンド「猫バッカス」

バンド「猫バッカス」

師匠の漫画を描きたい

──今後の夢や目標は?

流しの様子

可能なかぎり新太郎師匠と一緒に流しを続けたいと思っています。でも親しい人からは、「師匠は74歳だから今後そんなに長く流しを続けるのは難しい。年齢や体力的な問題で流しができなくなった時どうするか、身の振り方を考えておきなさい」と言われてるんですよね。まだ真剣には考えていないのですが、もし本当にそうなったら師匠の後を継いで1人でも流しを続けたいと思っています。芸の幅を増やすために三味線も習い始めました。本当にできるかどうかはわかりませんが挑戦したいんです。


──流しを後世に遺していかなきゃという使命感はあるのですか?

新太郎師匠72歳の誕生日記念に描いた似顔絵

新太郎師匠72歳の誕生日記念に描いた似顔絵

それは全くないです。本当に流しが好きだから、もっとやりたいという気持ちだけです。この世界に入る前は、こんなに好きになるとは思っていませんでした。それに、「遺していかなきゃ」というような大上段に構えた偉そうな心持ちでいると誰も寄り付かなくなるので、変な使命感なんてもたない方がいいと思うんです。師匠のように生きていくためには流しをするしかなかった、それで気がついたら60年近く経っていた、というのが理想で、そうしてみんなに愛されるといいなぁと思います。

もう1つの夢は師匠の漫画を描くことです。戦争孤児から始まって、戦後の動乱期をギター1本で独りで生き抜いてきた激動の人生を漫画にしたら絶対おもしろいと思うんですよね。それができるのは、長い間師匠の一番近くで話を聞いている私しかいません。師匠が元気なうちに絶対描きたいですね。


インタビュー前編はこちら

女流しの生きる道[前編]

流しという仕事

──ちえさんは「流し」になって4年目だそうですが、流しとして日々どのような活動をしているのですか?

師匠の新太郎さんと一緒に(東京四谷荒木町の小料理屋「ばんしゃく奈美」にて)

師匠の新太郎さんと一緒に(東京四谷荒木町の小料理屋「ばんしゃく奈美」にて)

「流し」とはギターなどの楽器を持って居酒屋やスナックなどの酒場を巡回し、お客さんのリクエストに応えて曲の伴奏をしたり、ギターを弾きながら歌を歌う芸人です。軒から軒へ流し歩くことから「流し」と呼ばれるようになりました。昭和初期には全国の飲み屋街にはたくさんの流しが存在し、北島三郎さん、五木ひろしさん、渥美二郎さん、小林幸子さんなど流しからプロ歌手になった著名人もたくさんいます。

最盛期には荒木町だけで百人からの流しがいたようですが、昭和40年代にカラオケの登場で激減して、今や東京でも数人ほどしか見られなくなってしまいました。

その中で東京の四谷荒木町を拠点に活動しているのが芸歴57年を誇る日本最高齢のギター流しである荒木新太郎(通称・流しの新ちゃん)師匠です。私は2012年7月から新太郎師匠に弟子入りし、歌う漫画家として新太郎師匠と一緒に荒木町を流し歩き、演歌歌謡曲を歌ったり、お客様の似顔絵を描いたりしています。


──流しを荒木町以外で行うこともあるのですか?

それこそ師匠は昔は日本全国の酒場を流していましたし、今もお声がかかればどこにでも行きます。その際は必ず私が師匠に同行し、パーティーの時は司会役や営業役もしています。歌や似顔絵描き以外にも、師匠のサポート役、マネージャー役、付き人役、営業など何でもやらなければならないので、器用貧乏のためにある仕事だなと思いますね(笑)。

奈良にて
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奈良にて

銀座にて
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銀座にて

夜の荒木町を流す新太郎さんとちえさん。こういう光景は東京でも滅多に見られない

夜の荒木町を流す新太郎さんとちえさん。こういう光景は東京でも滅多に見られない

──流しをする日のスケジュールは?

流しをしているのは火・水・木・金の4日間です。朝は毎日8時半頃に起床して散歩。帰宅してお昼ごはんを食べたり、家のことをいろいろやります。16時くらいから18時まで化粧、着物の着付け、日本髪を結うなどの支度をしてから荒木町に出勤します。19時からお店を回り始め、23時45分頃で終了。帰宅します。おじゃまするお店はだいたい20軒くらいですね。決まったお店が12、3軒ほどあり、基本的にそのお店を中心に流します。事前に予約が入ったり、流している最中にお客さんから携帯に「どこそこの店にいるから来てほしい」と電話がかかってくることもあります。リクエストが全くない日もあれば、電話が鳴り止まない日もあるので、忙しさは日によって全然違うんですよ。


──夜の仕事なのに朝早いんですね。

あえて朝早く起きるようにしているんです。というのは流しを始めて体内リズムが狂って重い自律神経失調症になってしまったからです。流しになって1年目はそういう意味でもつらかったんですよ。それを改善しようと朝にちゃんと起きて朝日を浴びながら散歩したり、お昼も極力どこかに出かけるようにしました。そして夜も以前は夜中の2時3時まで流しをやっていたのですが、必ず終電で帰ると決めて、帰宅したらすぐ化粧を落として2時までには寝るようにしました。その結果自律神経失調症が治って今はすこぶる快調です。この仕事を長く続けるためにも自己管理は大事なんですよね。

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非現実のエンターテインメント

似顔絵を描くちえさん。お客さんからそっくりと好評

似顔絵を描くちえさん。お客さんからそっくりと好評

──流しの料金は?

歌が3曲1000円から。お心づけ大歓迎です(笑)。だいたいみなさん3曲でも1000円以上は払ってくださっています。似顔絵はお一人1000円です。


──流しだけで生計は立てられているのですか?

今のところはギリギリ生活していけてます。師匠のおかげですね。流しが好きなので最低限食べられる分だけ稼げればいいので今は幸せです。


──流しをする上で心がけている点は

ちえ-近影1

流しはその時々に合った着物を選んで着て髪も日本髪を結って行う「非現実のエンターテインメント」です。芸を披露することでお客様からお代をいただく商売なので、自分自身が商品と言っても過言ではありません。特に私は女性なので、芸と同じくらい見た目も重要です。同じ1曲歌うにしても見た目でその価値が全く違ってくると思うんですね。ですからプロ意識をもって、お客様に私を応援したいと思っていただけるように容姿や身なりを整えることを心がけています。自分がお客様からどう見えるか、つまり、セルフプロデュースに一番力を入れているんです。

そのために日本髪の結い髪の会に参加して勉強したり、自分でうまく結えるように練習したりしています。また、流し2年目から本格的にダイエットに取り組み、15キロの減量に成功しました。あとは日頃からカゼを引かないように体調管理に気を配ったり、適度な運動をしたり食生活に気をつけたりしてます。

こういうことも師匠から学んだんです。流しはスターだから身だしなみが大事で、かっこよく見えるように自己演出できないとだめなんだといつも言っています。見た目には強いこだわりをもっていて、着物や髪の毛もいつもしっかり整えてますからね。これらのことを通して、自分がやりたいようにするだけじゃなくて、他人のアドバイスを素直に受け取って頑張れば失敗しないということを学びました。


──流しの世界に入ってよかったと思うことは?

流しをしていなかったら絶対に会えなかったであろういろいろな人に会えることですね。いろんな人の人生に触れられて毎晩がドラマのような感じなので飽きるということがありません。中には長い付き合いになる人もいて、それもおもしろいんですよね。

お客さんと一緒に歌うことも

お客さんと一緒に歌うことも

師匠がよく言っていたのが、大企業の社長や弁護士、医師など、社会的地位が高いとされる人たちは普段、他人に弱みを見せられないし、はめもあまり外せないけれど、流しとは利害関係が全くないから素の自分に戻って心の底からその場を楽しむことができる。そこでぎゅっと距離が縮まって仲良くなることもよくあって、そういう普通ではありえない人間関係が体験できたときに流しになってよかったなと思います。


──お客さんと一緒にお酒を飲むこともよくあるんですか?

もちろんあります。歌を歌ったり似顔絵を描いたりした後にお客さんに勧められて一緒にお酒を飲みながら話すこともよくあります。それも仕事のうちなんです。師匠の場合は特にテレビに出演した後は、わざわざ遠方や海外から師匠に会いに来る人もいるくらいです。

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人付き合いが大事

流しの様子

──流しの難しい点は?

流しを始めてしばらくは右も左もわからないし、酒場での礼儀作法など覚えることが多すぎてとても大変でした。それに慣れたのはつい最近ですね。例えば初めてお会いするお客さんとも仲良くできなければいけないのですが、あくまでもお客さんなので一歩引いてお客さんをうまく立てなければいけません。お客さんが複数の場合は、その中でどの人が一番立場が上なのかを瞬時に見極める必要があるし、お客さんのキャラクターも正確に判断しなければなりません。例えば最初の頃はものすごく恐いし当たりもきついけど実はすごくいい人だと読めるようになるまでにかなり時間がかかりました。

最大の目的はお客さんに気持よくなってもらうこと。そのためにどうすればいいか。自分のポジションをどこに置いてどう振る舞えばいいか。流しになって以来、そんなことばかりずっと考えてきました。だから実は流しで一番大変なのは歌うことや絵を描くことじゃなくて人付き合いなんですよね。私は何でも人の言葉を額面通りに受け取ってしまうタイプなのですが、それでお客さんを怒らせてしまったこともあります。だから「行間を読む」的なことも重要なんですよね。そういう意味でもこれまでお店の経営者や師匠、お客さんに随分いろんなことを教えていただいたのでとても感謝しています。

義理人情に厚い師匠

──師匠にはかなり細かく指導してもらっているんですか?

いえ、基本的にはあまり細かい指導は受けません。叱られたこともほとんどないですが、本当にダメなことをやっちゃったときは、店を出たときに「あれはよくない」と静かに言われる程度です。自分ではわかっていないことも多いので勉強になります。


──師匠の好きなところは?

何と言っても義理人情に厚いところですね。人の縁をすごく大事にしているのは日々実感していますし、私も見習わないといけないと思っています。師匠だけじゃなくて、荒木町界隈にはまだ人情が息づいていて、私もすごくお世話になっています。例えば「ばんしゃく奈美」の女将さんは私のことも実の娘のようにかわいがってくださっていて、間違ったことをするとちゃんと叱ってくれます。日々人情の厚さを感じられる町ですね。

新太郎師匠との出会い

──ちえさんはどういう経緯で新太郎師匠に弟子入りしたのですか?

ちえさんの師匠は国内最高齢流し、「流しのしんちゃん」として全国的に有名。流し界の生ける伝説である

ちえさんの師匠は国内最高齢流し、「流しのしんちゃん」として全国的に有名。流し界の生ける伝説である

ひょんなことから漫画家の東陽片岡先生と知り合ったのですが、それ以来気に入ってもらい、よく遊びに連れていってもらうようになりました。ある晩、東陽先生と荒木町のスナックで飲んでいるとき、「おもしろい人を呼んでやる」と言って誰かに電話をしました。しばらくして登場したのが"流しの新ちゃん"こと新太郎師匠だったんです。それが師匠との初めての出会いでした。

私は子どもの頃から昭和の映画や音楽、漫画などの文化が好きな昭和マニアだったので、流しは映画の中でしか見たことがないまさしく憧れの存在。昔、荒木町にたくさんいたことは知っていましたが、本物の流しに会ったのは師匠が初めてなんです。中でも師匠は国内最高齢の流しなのでまさに昭和の酒場の生き証人という感じの本物中の本物。昭和マニアとしてはたまらないわけです。東陽先生に加えて師匠とまで知り合えるなんてすごく感激しました。例えていうなら現代のピアニストがショパンに会ったようなもの。その時は師匠の弾き語りを聞かせていただいたり、師匠のギターで美空ひばりの歌を歌ったりしました。まさに夢のような一夜でしたね。

その日以降も東陽先生がトークライブ会場でイベントを開催した時に師匠と一緒に歌ったりしていたのですが、それを見た東陽先生が「君たち2人の組み合わせはおもしろいから2人でユニットを組んで流しをやってみれば?」と言ってくださったんです。

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流しに弟子入り

──その時の気持ちは?

新太郎師匠55周年&ちえさんお披露目パーティーにて

新太郎師匠55周年&ちえさんお披露目パーティーにて

私にとっては願ってもない話でした。島倉千代子さんや小林幸子さんは子どもの時から流しに連れ歩いてもらって酒場でみかん箱の上で歌っていたわけじゃないですか。だからまさに流しは憧れのスタイルなんですよね。私も昭和初期に生まれて、子どもの頃にそういう経験をしたかったと思っていました(笑)。

でも師匠は弟子を取らない主義だったので、東陽先生が「新ちゃんはいつも1人で寂しそうだから若い女の子が一緒にいると安心だし、お客さんも喜ぶし、ちえ自身もいい勉強になるからみんなにメリットがある」と私を弟子にしてくれるように頼んでくださって。師匠は東陽先生にすごく恩義を感じているので、東陽先生の頼みでは断れないとしぶしぶ承諾してくれたんです。こうして師匠のマネージャー兼「歌う漫画家 ちえ」が生まれたんです。2012年の夏のことでした。だから今の私があるのは東陽先生のおかげなんですよ。あれからもうじき4年が経ちますが、今、まさにプロデューサー・東陽片岡先生の思惑通りになっていると感じます。本当にすごい人だと思います。

恩人・東陽片岡氏と

恩人・東陽片岡氏と

流しにならないという選択肢はなかった

──流しになるとき、少しも悩まなかったのですか?

いえ、やっぱり悩みましたよ。確かに昭和マニアなので流しに憧れてはいましたが、やはりファンとして好きというのと、自分自身が実際に流しになるのは全く次元の違う話ですからね。周りからも流しになると堅気じゃなくなるぞと散々脅かされて、故郷名古屋の知り合いみんなからも大反対されました。だから流しになるのは恐いという気持ちもあったのですが、憧れていた世界だし東陽先生を信じてやってみようと決意しました。

ただ、そもそも流しをやらないという選択肢は最初からなかったんですよね。名古屋から東京に出てきたのも、普通じゃない、おもしろい人生を送りたいと思ったからなので。そのためには何でもやるべきで、それで野垂れ死んだとしても後悔はないはずなんです。悩んでいたのも、ここから先はただの憧れではすまないという現実に怯えていただけ。例えばこれで一般的な昼間の世界に生きている人のところに嫁には行けないなとか、いろんなことをあきらめるというか、自分自身の気持ちの整理、覚悟を決めるまでに少し時間がかかったということです。

これまでの経験がすべて生きている

──師匠に弟子入りしてからは?

流しの様子

弟子入りが決まって2週間くらいは師匠のお宅に通って音合せやできる曲の確認を行いました。その後は本番で、師匠と一緒に酒場を巡りはじめました。


──最初から歌と似顔絵をやるつもりだったのですか?

はい。ただ、自分でも歌でお金を取れるレベルではないとわかっていたので、私にできることは何だろうと考え、得意な似顔絵をやろうと思ったわけです。


──似顔絵を描いたり歌を歌ったりというのは最初からうまくできたのですか?

師匠が1曲歌い上げる間に描く似顔絵はこれまで漫画やイラストをずっと描いていたので問題ありませんでした。歌の方は最初はひどくてお金を取れるレベルではないと師匠によく言われていたのですが、最近はたまに歌でお金をもらえてるときがあると言ってくれるようになりました。場数をこなすうちに呼吸や間を覚えていったように思います。

流しは、漫画、着付け、日本髪の結い方など、これまでやってきたことが全部役に立っているんです。当時は流しになるなんて露ほども思っていなかったわけなので、本当に人生に無駄なことなんて1つもないと思いますね。


インタビュー後編はこちら

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