2016年9月アーカイブ

昼は仕事、夜は授業

──大学卒業後、金沢の高校で国語の教師として勤務した後、上京したということですが、東京に来てからはどのような仕事をしたのですか?

中村吉基-近影1

農業系の新聞社に転職し、整理記者として紙面レイアウトの仕事を始めました。そもそも父親が新聞記者だったのでメディアの仕事には興味があり、就職を考える時、マスコミ業界も選択肢の1つとしてあったんです。それに通っていた大阪芸術大学では媒体編集も学んだので、編集の仕事もしてみたいと思い、その新聞社に入ったというわけです。

こうして昼間は新聞社でのレイアウトの仕事、夜は宗教科の教師の免許を取るために上智大学の講座で授業を受けるという二足のわらじ生活が始まりました。


──上京してからも教会には通っていたのですか?

はい。上京した家の近くに教会があったので。というかそれで住む家を決めたんですけどね(笑)。農業系の新聞社で3年勤めた後、キリスト教系の出版社に転職して、書籍編集の仕事を始めました。

実はこの頃、またほのかに神父になりたいという気持ちが沸き上がってきたんですよ。あれだけ封印していたのに。それで通っていた教会で神父になるための指導を受け始めました。しかし、その頃、カトリックの信仰そのものに行き詰まりを感じていました。教義に同性愛は禁じられているとはっきり書いてありましたし、周りにもセクシュアリティのことを話題にする人はいませんでしたから、非常に疎外感を感じていたんです。

また、教会に通っていた信徒の多くがインテリ・富裕層だったことにも違和感を覚えていました。若さゆえの潔癖だったのかもしれません。本来、キリスト教はお金持ちの人のための宗教ではなくて、貧しい人たちのための宗教だろうと。それと、昼間の仕事場もキリスト教系の出版社だし、夜も大学でキリスト教のことを勉強していたのでキリスト教漬けの毎日に何となく嫌気が差して教会から徐々に足が遠のいてしまったのです。

人生を変えたニューヨークへの旅

初めてニューヨークに行った時の写真(1995年)

初めてニューヨークに行った時の写真(1995年)

──それからはキリスト教とは全く無縁の生活に?

はい。教会に行かなくなって半年くらい経った1995年の夏、27歳の時にニューヨークへ1人で行きました。10日間ほどの旅であったのですが、この旅がその後の私の人生を大きく変えるきっかけになったんです。

現地の教会にゴスペルを聴きに行くオプショナルツアーに参加した時のことでした。ツアーに添乗していた日本人の現地ガイドが各スポットでキリスト教に関する解説をしていたのですが、それがことごとく誤った情報で、私が代わりに解説したいという気持ちを抑えるのに必死でした(笑)。

20年前に牧師になる志を与えられたニューヨーク聖ヨハネ大聖堂

20年前に牧師になる志を与えられたニューヨーク聖ヨハネ大聖堂

コロンビア大学の近くにある聖ヨハネ大聖堂に来たときに、その日本人ガイドが「この教会はユニークな礼拝をしているけど、社会奉仕にもすごく熱心で、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っているんです」と解説しました。当時はアメリカのみならず世界中でエイズが猛威を奮っていて、たくさんの人が亡くなっていた時代です。その話を聞いて、「では他の教会ではエイズで亡くなった人の葬儀をしてくれないのだろうか?」と疑問に思い、日本に帰ってから自分で調べようと心に決めました。

その他に印象深かったのは、ニューヨークにもLGBTの集まるエリアがあって、そこにある教会には"All are Welcome."と書いてあったこと。これこそが日本の教会とは違って本来のキリストの精神だ、こういうクリスチャンたちもいるんだと大いに感銘を受けたのを覚えています。

帰国後、再びキリスト教の世界へ

──帰国後はどういう行動に?

このニューヨークでの経験はかなり衝撃的だったので、帰国後すぐにキリスト教とエイズの関わりを調べ始めました。本や雑誌などの資料を読み込むだけではなくて、実際にエイズ患者の支援活動をしている神父や牧師や修道女などに会いに行って直接話を聞きました。その結果、あのガイドが話していたことは正しいということがわかりました。

エイズが流行し始めた1980年代は、エイズ患者やHIVウイルスの感染者にゲイの人たちが多かったので、彼らは社会のあらゆる場所でいわれなき迫害や差別を受けていました。中には「神の罰が下ったんだ」などとひどいことを言う人々も多くて。それは教会も例外ではなく、「当教会の信徒にはエイズ患者はいません」とか「エイズは同性愛者しかかからない病気だ。したがって教会には同性愛者がいないからエイズ患者もいない」などとずっと主張してたのです。だから確かに聖ヨハネ大聖堂やごく少数の教会だけがエイズ患者を受け入れていたし、エイズで亡くなった人の葬儀を積極的に行っていたんです。

もちろんエイズは、HIVウイルスによって引き起こされる病気で、同性愛者だけが罹患する病気ではありません。ウイルスは人を選びませんからね。でも当時の科学的根拠のない偏見で患者のケアや原因究明、感染予防対策などが遅れたのです。アメリカはレーガン政権の時にエイズ対策が後手に回されていました。予算もつけなかったし、役所も対策に消極的だったと聞きます。あの時にきちんと対策を取っていればこれほど世界に広がることはなかったでしょう。

中村吉基-近影2

このようなキリスト教とエイズの関わりを調べる過程で、知り合った神父や牧師に「実は日本でもエイズ患者と一緒に歩もうというキリスト教のグループが立ち上がるから君も参加しないか」と誘われて、彼らと一緒に活動を始めました。私たちの教会ではエイズ患者のための活動もしているとお話ししましたが、それはこの時のことがきっかけだったんです(※前編参照)。こういうわけで、いったんは距離を置いていた教会にまた引き戻されていきました。

また、ちょうど同じ頃にLGBTのクリスチャンたちが東京で、シークレットで教会を借りて集会を始めたという話を聞いて参加したのですが、このことで日本にもゲイのクリスチャンが少なからず存在することがわかりました。彼らが大手を振って教会に行くために、シークレットにしなければならないという状況に理不尽さを覚え、彼らがLGBTであることを隠さなくても普通に来られる教会をつくりたいと思うようになったんです。

だからニューヨークに行って、あのガイドさんのいるバスに乗らなかったら教会に戻らなかったし、牧師になって教会を設立することもなかったかもしれないんです(笑)。この時にもやっぱり神様はいるんだなと思いましたね。

生死の境をさまよう

──それから牧師にはどのようにしてなったのですか?

大きなきっかけとなった出来事がもう1つあるんです。30歳の時に肺炎にかかって、生死の境をさまよいました。肺炎で亡くなる人も多いですし、病院で胸のレントゲンを撮ったら真っ白だったので一時は本当に死んでしまうんじゃないかと不安にさいなまれました。

3週間ほど寝込んでいたのですが、ある日、なぜかある1点に視点が固定されて動かなくなりました。それは私がその頃働いていたキリスト教系の出版社で発行されたカレンダーの写真だったのですが、緑の平原の中に小さくぽつんと白い教会が建っているのが見えたんです。自分で編集してる時には全く気づかなかったのに。

その時、何となく神様がすぐそばにいるように感じたんですよ。それで、これまであっちへ行ったりこっちへ行ったりふらふらしてきましたが、もし命を助けていただいたら、神様に私の一生を捧げて、神様のために働きますと心の中で誓ったのです。そしてその後、幸いにも肺炎は快復したので、本気で牧師になって、LGBTの人でも自分のセクシュアリティを隠さずに、堂々と来られる教会をつくろうと決意したのです。

そのために、カトリックからプロテスタントに戻る決意をしました。現在カトリック教会はLGBTをはじめとする性的マイノリティを受け入れようと心を砕いています。今年(2016年)、ローマ教皇フランシスコは「キリスト教は同性愛者に謝罪すべき」との発言もして、変化の兆しが見られるようになってきましたが、当時は、そのような気配さえ感じ取ることができませんでした。それで、比較的自由なプロテスタントの牧師を目指し、教会の設立に備えたのです。

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宗教科の教員免許取得、教師に

中村吉基-近影3

この翌年の1999年、31歳の時には上京以来通っていた上智大学の夜間講座で宗教科の教員免許をようやく取得できました。取得に7年間もかかってしまったわけですが、上京して最初に就職した農業系の新聞社は夜遅くまで仕事をせざるをえず、ほとんど授業に行けなかったんです。その後転職したキリスト教系の出版社はカトリック系の出版社だったので、早退が認められたり、授業料を支援していただいたりして授業に通えるようになり、たいへん助かりました。

そのあと1999年の春に出版社を退職して、千葉県のキリスト教系高校で非常勤講師として勤務し、1年間だけですが聖書の授業を担当することができました。同時に、非常勤だったので、授業のない日はプロテスタント系の出版社で編集補助の仕事をし始めました。

神学校に入学

───牧師の資格の方は?

千葉の高校での非常勤講師の仕事が終わった2000年、32歳の時に東京・目白にある日本聖書神学校に入学しました。社会人向けの夜間の授業だったので、授業は毎日18時から22時まで。昼間は引き続きプロテスタント系の出版社で編集の仕事をしていました。


───神学校に通っている頃は、ご自身のセクシュアリティについてオープンにしていたのですか?

自分がゲイであることは一部の親友を除き、隠していました。というのは、当時牧師になろうとしていたある人が同性愛者であることをカミングアウトしたのですが、これは教団にとってはセンセーショナルな事件で、教団内に激震が走ったんです。当時、同性愛者の牧師を受容する雰囲気はありませんでしたから。その時、私の周囲の先生や友人たちは、「黙って闘うことも闘いなのだ」「事態が落ち着くまで絶対に隠しておけ」と助言してくれたこともあり、公言しなかったのです。それと、将来はLGBTの人でも受け入れる教会を立ち上げたいということも、事前に知られたら認められないだろうと思ったので絶対に言いませんでした。

また、周りには、神学校を卒業したら一般の教会で安定した牧師人生を歩んだ方がいいと言う人もいました。もちろん私には確固たる目標があったので、そういう言葉は全く心に響きませんでした。

決意を新たにしたカナダ研修

──神学校時代に印象に残っている出来事はありますか?

神学校に入って3年目の夏にカナダの教会に実習に赴きました。カナダは世界で最も同性愛者のための法整備が進んでいる国で、カナダ合同教会では、LGBTの人も正式なメンバーとして迎えるという宣言をしていて、実際にたくさんのLGBTの牧師も活躍しているんですね。

そのカナダでの実習でいろいろな人から話を聞いた時に、1つとても印象に残っている話があります。LGBTの人は、子どもの頃は日曜学校などで教会に頻繁に通うけど、10代になり性のことを考えるナイーブな年代になると、教会の中でLGBT拒否のメッセージを受けることで自然と教会に来なくなる。でも、カナダ合同教会はLGBTを正式なメンバーとして受け入れるという宣言をしたことで教会に戻ってくる人が増えて、さらに教団の本部で働いている人たちなども、自身のセクシュアリティをカミングアウトし始めるようになった。それを目の当たりにしたカナダ人の牧師が「今までの教会はどこか欠けていた。でも、LGBTの人たちが教会に戻ってきてくれたことで、欠けていた部分が補われて、より理想的な形になってきたんだ」と喜んでいました。その時に、日本にもそういう教会を作らなければいけないと改めて強く決意したんです。

母の死

中村吉基-近影4

ちょうどこの頃、もう1つ、私の人生に大きな影響を及ぼした出来事があります。それは母の死です。私は一人っ子で小さい頃から病弱だったので、親より先には死ねないと思っていました(父親は私が16歳の時に51歳で他界)。ですので、2002年4月に母ががんで亡くなり、天涯孤独になった時には、大きな悲しみや喪失感はありました。しかしそれと同時に、自分が親より長く生きられたということで少し安堵したところもありました。親不孝しなくてよかったなと。

そして、一人きりになったことで、進むべき道、つまりゲイの牧師としてLGBTの人にも寄り添える教会をつくるという道が最終的に定まったわけです。私は両親に自分のセクシュアリティをカミングアウトしていなかったので、もし親が生きていたら自分のセクシュアリティを公表して、新宿コミュティー教会のような教会を立ち上げて活動することはできなかったかもしれません。


──ご両親にカミングアウトしなかったのはなぜですか?

もしカミングアウトしたら大きなショックを受けるかもしれませんでしたし、そのことで他人から後ろ指をさされかねないと危惧していたからです。

新宿コミュニティー教会設立

──その後、教会はどのようにして設立したのですか?

2004年3月に神学校を卒業して牧師の資格を取得して、その翌月に日本キリスト教団新宿コミュティー教会を設立しました。御存知の通り、新宿二丁目はLGBTが集まる日本有数の街なので、教会の本拠地はここ以外には考えられませんでした。「新宿コミュティー教会」という名称も、この地域の持つ課題と一緒に寄り添う教会になりたいという思いからつけました。

どういう形の教会にするか、例えば新宿二丁目付近に広めの家を借りて住居兼教会として使用しようかなど、いろいろ考えたのですが、とてもそんな資金はなかったので、取りあえず最初はマンションの一室を借りて始めることにしました。新宿二丁目近くにある広さ20平米、家賃月8万円のワンルームで、敷金礼金などの初期費用や教会として必要な備品など全部で150万円ほどを貯金から捻出しました。立ち上げ当初のメンバーは私の他には、私のパートナーただ1人。2人でスタートしたのですが、最初の礼拝には十数名の方々が出席してくれました。

実は設立当初はLGBTだけではなくて、ホームレスの方々も支援したいという思いで衣服や食物を配布していました。その活動を通じて、ホームレスの人たちが野宿している新宿二丁目近辺の公園に10代のゲイやレズビアンが集まっていることがわかったんです。話を聞くと、親にセクシュアリティのことが知られて家にいられなくなり、この近辺で野宿をしながら売春をしているという子も中にはいました。このような現状を目の当たりにして、ティーンズのLGBTへの支援も行うようになったんです。

僧侶の研修会で講演を行う中村さん

僧侶の研修会で講演を行う中村さん

最初のマンションでは3年ほど活動したのですが、徐々に他の教会から籍を移してくださる信徒の方々が増えてきて手狭になったので、新宿御苑前にある40平米くらいのマンションに引っ越しました。広さが2倍になった分、家賃も2倍になったのですが、使用するのは主に日曜日の礼拝だけでしたので、3年後には引き払いました。それ以来、常設の教会は持たず、日曜の礼拝だけ新宿二丁目近くにあるホテルの会議室を借りて行うという現在のスタイルになったんです。

減速して生きる40代に

──牧師になってからも編集者の仕事はずっと続けていたのですか?

はい。牧師としての活動ではほとんど収入が得られないどころか赤字でしたからね。当時は出版社の雑誌編集部の主任になっていて、ある時は4人のスタッフで月刊誌を2誌、季刊誌を1誌編集していました。かなりの激務で、週日フルタイム+残業して働いていました。

2009年頃、40代になって身近に健康を害する人、病気から生命の終わりを迎えた人などがいて、改めて自分自身の働き方を見つめ直しました。これまで神学校に通っていた期間を含めると結局10年間は朝から晩まで休みなしで働いていたことになるんですよね。実際、40代に入った頃から、血圧がすごく高くなっていました。そうでなくても両親を病気で亡くしているので健康な家系ではないし、私自身も小学校2年の時にウイルス性の髄膜炎にかかったり、30歳の時に肺炎にかかったりして生死の境をさまよっているので丈夫な体ではありません。そんな中、せっかく頑張って念願の牧師になったのだから、短命で終わってしまったら元も子もない。だからこれからは自分の体も大事にして健康面にもっと気を配らなければと考え方を変えたのです。

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新宿二丁目にバーを開店

新宿二丁目で「牧師Bar」を開店(2010年)

新宿二丁目で「牧師Bar」を開店(2010年)

──でも牧師の仕事だけでは生活していけませんよね。

そうなんですよ。しばらくは貯金で何とかなっていたのですが、半年ほど経つ頃にはそれも心もとなくなってきました。でももう激務の仕事には就きたくなかったんですね。ではどういう仕事をしようかと考えた時、私は夜型人間でお酒も好き、そして近所の四谷三丁目にはお坊さんが経営する坊主バーがあって、歌舞伎町にはフランス人の神父さんが始められたバーがありました。ならば牧師でもバーができるんじゃないかと思い、2010年7月、残りの貯金をはたいて教会の近くの新宿二丁目にバーを開店したんです。でもいわゆるゲイバーではなくて、一般の人や女性たち、牧師仲間など、いろいろな人が来てくれていました。

おかげさまでけっこう賑わっていたのですが、開店から7カ月後の2011年3月11日に東日本大震災が起こってからは状況が一変しました。私の店はビルの3階にあったのでかなり揺れて、ボトルや食器が全部割れてしまいました。それよりつらかったのは自粛ムードが続いたこと。仕事が終わったら早く家に帰るという人が増えて、ぱったりと客足は途絶えてしまったんです。おそらくその影響で歌舞伎町のフランス人の神父さんが始められたバーも震災から半年後に閉店。私のバーも経営が苦しくなり、翌年の2012年9月に閉店せざるをえませんでした。

再び編集の世界へ

──当時は震災の影響でたくさんのお店が閉店に追い込まれたと聞きます。その後はどうしたのですか?

いろいろなアルバイトや単発の派遣の仕事をしましたが、2014年、またフルタイムで編集の仕事をするようになりました。


──でも以前の出版社を辞めた後は、編集の仕事はしたくないと思っていたのですよね? それなのに戻ったのはなぜですか?

中村吉基-近影5

そのきっかけとなった出来事がありました。アルバイトをしている時に、行きつけのバーで出会ったある会社の経営者の人が「受け身で待っていても仕事は来ない。自分ができることをどんどん周りにアピールしていろいろな人に伝えることが大事だよ」と話してくれたんですね。これを聞いたことで、私の中でちょっとした変化が起こりました。

これまでの人生、いろいろなピンチや困ったことがあった時でも、必ずいつも誰かが手を差し延べてくれました。だからその当時も、本当に困ったら誰かがきっと助けてくれるはずと、高をくくっていたところがあったのです。自分では何にもしていないにも関わらず。でもそんな状況ではやっぱり仕事の話は来なくて、たまにやりたいと思う案件が来ても運悪くできなかったりしてうまくいかなかったんです。それでその言葉を聞いた時、受け身でいたことは非常によくないと反省し、今まで避けてきたけれど、やっぱり自分ができること、人の役に立てることは「編集の仕事」において他にないと思い、その日以降、一念発起して「編集でもライターでも校正でも何でもやります」という意志表示を開始。するとそのとたんにいくつも仕事の依頼が舞い込んできたんです。これには自分でもびっくりしましたね。実はいろいろな人が私のことを見ていてくれて、「こういうことができます!」と自分から手を挙げることによって、声をかけてくれたわけです。

その中の1つに資格の学校が出版するテキストの校正の仕事があったので、月曜日から金曜日はフルタイムでその仕事をし、帰宅後の夜間や休日には在宅でキリスト教雑誌の編集の仕事などを請け負うようになりました。そして今年(2016年)の6月からは牧師としての活動を増やすため、少し働き方を変えたというのは冒頭にお話した通りです。(※前編参照)


──将来的には牧師としての仕事だけで生きていきたいという思いはありますか?

いえ、編集や執筆の技術を習得したのも神様のご計画だと思いますし、この仕事が好きですし、それをもって誰かのお役に立てる部分もあると思います。また、一昨年(2014年)には自らが教会の礼拝で話してきたメッセージ集を出版しているのですが、これもキリスト教を知ってもらう活動の一環です。だから今後も何かしら出版の世界には関わっていきたいですね。

ゲイとして生きるということ

──中村さんは10代の頃からご自身のセクシュアリティについて自覚的で、25歳頃にはゲイとして生きることを覚悟したそうですが、これまでゲイであることで生きづらさを感じたことはありますか?

前にもお話した通り、初めてLGBT以外の人にカミングアウトした27、8歳以降、徐々に信頼できる人にカミングアウトしていったのですが、幸いにしてそれによって私との友情が壊れたという人はいません。みんな受け入れてくれたし、差別や偏見を受けたことはないので、基本的に生きづらさを感じたことはないですね。

中村吉基-近影6

会社員時代は自分からカミングアウトすることはなかったですが、ゲイですかと聞かれたら「はい、そうです」と答えるというスタンスでした。面と向かって聞かれたこともあまりないですけどね。現在はFacebookなどのSNSでゲイであることは公表していますし、取材などでもそう発言しています。

昨年(2015年)は、メディアにインタビューされることが多かったのですが、その記事が出ると、今年久々に高校時代の恩師に会った時、それまでは会う度に「まだ結婚しないのか」と言われ続けていたのに、言われませんでした(笑)。中高大学時代は誰にもカミングアウトしてなかったんですよねと言ったら、同じ記事を読んだ私の高校時代の同級生は、みんな(セクシュアリティのことを)分かっていたよね、と言っていたそうです。その頃は一切隠してたのに、やっぱりわかってしまうものなんですね(笑)。

ヘイトスピーチも

──ではゲイであることで誹謗中傷を受けたこともないのですね。

日常生活ではそういうことはないですね。ただ、今私がけっこうメディアに出ているで、見ず知らずの人からのヘイトスピーチがなくはないです。特に今年(2016年)のゴールデンウィークの「東京レインボープライド」はけっこうきつかったですね。一般人になりすましたアメリカ人の宣教師が寄ってきて友好的に話しかけてきたんですが、最後にはゲイが「治った」人の体験談のビラをブースの前で撒かれました。また、あるアフリカ系の女性が「あなたたちは間違っている!」と大声で演説して来て私と口論になることもありました。そういうアンチの人もLGBTのフェスティバルには来るんですよね。逆にパレードでは牧師の正装をして行進するのですが、外国人が(好意的に)日本にもゲイの牧師がいるのだとすごく関心を持って近づいてきます。

それから、私たちの教会の礼拝にアンチLGBTの人が潜り込んでくる場合もあるんです。開口一番「ここは変わり者が集まる教会ですか!」と叫ぶ人がいたり、私が話している間は神妙に聞くのですが、その後、心ない言葉をまくし立てたりする人もいます。そういう人たちはLGBTを認めない教会から送り込まれてきているのですが、今年に入ってから増えましたね。

長崎県・鎮西学院で諫早市民を対象にした講演にて(2016年)

長崎県・鎮西学院で諫早市民を対象にした講演にて(2016年)

ダブルマイノリティのつらさ

──クリスチャンのゲイという点がその原因なのでしょうか。

前にもお話した通り、自虐的に言うわけじゃないのですが、私のような人のことは「ダブルマイノリティ」と呼ばれています。つまり、クリスチャンは日本の全人口の0.8%、LGBTは5%しかいないので2つのマイノリティであることを背負ってして生きなきゃいけない。かといって毎日苦しい思いをしながら生きているという感じでもないんですけどね(笑)。


──ここ数年でLGBTの社会的認知度、理解度は上がってきているような気がしますが、教会は変わっていないのでしょうか。

そもそも教会の方が世の中より10年遅れていると言われていますし、日本のキリスト教もアメリカのキリスト教よりも10年遅れていると言われています。また、キリスト教界の中でもLGB(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル)とT(トランスジェンダー)とは理解が少し異なっているんです。LGBは「自分が好きでそのセクシュアリティを選んでいる」とされ、トランスジェンダーは、性同一性障害とひとくくりにされて、それは自分が好きでなっているのとは違うから「お気の毒」にという理解をする人もいるくらいです。これもひどい誤解なんですけどね。

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パートナーのこと

──プライベートについてお聞きしたいのですが、現在、パートナーの方はいらっしゃるのですか?

中村吉基-近影7

はい、結婚式も挙げています。なれそめから申し上げますと、前に母が亡くなったことはお話しましたが、私が神学校に入学する少し前に、母が肺がんと診断されました。高校生の時に父を亡くしているので、これでとうとう天涯孤独になってしまうなと思っていた頃、現在のパートナーと出会ったんです。彼は私から洗礼を受けてクリスチャンになり、教会のWebサイトをつくってくれるなど、教会を支えてくれています。

当時私は、昼は出版社で働いて、夜は神学校で勉強して帰宅は深夜という日々だったので、なかなか母の看病ができなかったのですが、代わりにパートナーが母を看てくれていました。よく会社帰りに母の好きなものを買って様子を見に来てくれていたので、母もすっかり彼と仲よくなっていました(笑)。

そんなある日、母は私がいないときに彼に「この子をよろしくお願いしますね」と言ったらしいのです。母には私がゲイであることを告白していなかったので、友だちとして言ったのか、パートナーとして言ったのかわからないのですが......。また、母がもういよいよ危篤という時、病室に来ていた従兄弟が私に「彼女はいないのか?」と聞いたんです。母はそれが聞こえていたらしくて、最期に、息を引き取る直前、吸入マスクを外して「吉基には男のお嫁さんがいるの」とパートナーの名前を言ったんです。

そのパートナーとは母が亡くなって6年後、新宿コミュニティー教会を設立して4年後の2008年に結婚式を挙げて、自分の公正証書を渡しています。母の看病をしてくれていた頃は近所に暮らしていたのですが、その後パートナーが電車で片道1時間ほどの場所に引っ越しました。それほど離れていると何かと不便なので、2013年に私も彼が暮らすマンションの近所に移転。以来、お互いの合鍵をもって行き来しています。


──一緒に暮らさないのはどうしてですか?

パートナーが仕事上でも、家族にもゲイであることをカミングアウトしていないからです。彼の家は家族や友だちがよく訪ねてくる上に、パートナーも私と同じく自宅で仕事をすることが多いんですね。だからそれぞれにプライベートな空間があった方がいいということで別々に暮らしているというわけです。


──現在の関係性に不安はないですか?

中村吉基-近影8

先程もお話した通り、私の方には家族、親戚縁者がいないので、私が亡くなった時の葬儀のことや遺産はパートナーが自由にできるように公正証書を渡しています。だからその点は心配ないのですが、ただ、確かに私たちの住んでいる区はパートナーシップ条例もないし、パートナーは家族にカミングアウトしていないので、現状のままでは、彼が突然病気やケガで手術が必要になったときに同意書にサインできないとか、臨終の際に病室に入れてもらえず、死に目に会えないということもあることと思います。いろいろと問題はあるのですが、私たちはまだいざという時の細かな点について至るまでは、お互いきちんと話し合ってはいません。現段階ではまだ答えが出ておらず、プライベートにおける課題のひとつですね。

パートナーシップ条例といえば、昨年、施行された際に、新聞や雑誌の記者たちから「中村さんは渋谷区とか世田谷区に引っ越さないんですか?」とよく聞かれました。でもLGBTの当事者たちがみんな、パートナーシップ条例ができたからといって、すぐ渋谷区や世田谷区に移るかといったらそうではないんですよね。そもそもあのパートナーシップ条例もいろいろ問題があって、区によって違うし、それぞれの個人が抱えている事情だってありますから。何よりやっぱり自分の住んでいる場所を変えなければならない。それは言うほど簡単なことではありません。だからそういう質問をするマスコミの姿勢こそ安易だと思いますね。

伝えたいメッセージ

──一般の人たちへ伝えたいことは?

中村吉基-近影9

教会には孤独な人もたくさん来るのですが、そこから心の病になる人も少なからずいます。そういう人たちに一番言いたいのは「あなたは独りではない」ということ。神様も私も仲間もついている。寂しいと思ったら教会に来て、悩みがあるなら相談してほしいですね。人は絶対に独りでは生きていけないですから。


──一般の人たちに、LGBTの人たちを受け入れてほしいという思いは?

みんなにLGBTに対して「偏見をもたないでください」「差別しないでください」「LGBTを好きになってください」とは言えませんよ。どうしても生理的に受け付けられない人もいるでしょうからね。ただ、社会の中にはLGBTのような人たちもいるんだ、ということを知ってほしいというのはあります。いろいろな違いをもつ人たちが共存するのが社会というものだと思うので。あとはLGBTを排除するためにヘイトスピーチをしたり、暴力に訴えるのは絶対にやめてほしいと思います。


──LGBTの皆さんに伝えたいことは?

まず、彼ら・彼女らに伝えたいのは、あなたたちは「何も間違っていないんですよ」「そのままでいいんですよ」ということ。以前の私にようにずっと受け身でうずくまったままでは状況は決して好転しないから、自分自身の力で立ち上がってほしい、その人はその人にしかない持ち味で生き生きと生きてほしいということです。

それから、これはいつも講義や講演をするときに話しているのですが、一番伝えたいのは〈いのち〉を大事にしてほしいということですね。自分のセクシュアリティって、自分で決めたわけではないですよね。決して悪いことをしているわけでもない。だけど、それを苦にして自殺する人がすごく多いんです。

あるカウンセラーの方が打ち明けてくれたのですが、東日本大震災の際に男性同士のカップルが仮設住宅に入ろうとしたところ、周りの被災者に「あの人たちは友人同士ではなく、ゲイなんじゃないか」と噂され、入居できなくて近くの民間アパートに入らざるを得なかったのだそうです。ある日曜日にカウンセラーが彼らのアパートの近くを通った時に、救急車と消防車が止まっていて、なにかあったのかと不安に思ったらそこで2人とも自殺してしまっていたというんですね......。おそらくアパートでもいわれのない差別を受けたのでしょう。だけど彼らが誰に迷惑かけたというんですか。自分のセクシュアリティで絶対に死ぬことはないですよ。自分の〈いのち〉は大事にしてほしいですね。

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「同性婚」を考えるシンポジウムで憲法学者の木村草太さんと(2015年4月)

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教会を訪れた社会学者・上野千鶴子さんと。金沢でお互いの家族同士の交流があった(2016年6月)

今後の目標

──今後の目標を教えてください。

これまでささやかながら関わってきた中で得たものを活かしながら、LGBTに関することを書いて本として出版したいですね。今、いくつもの本の企画を考えています。

新宿コミュニティー教会の牧師としては、LGBTであるかどうかに関わらずいろいろな人と関わりながら、多くの幸せに立ち会いたいと思ってます。それから、死別ではなくて親との関係性が切れてしまっているLGBTがたくさんいて、そういう人たちは亡くなっても家族にお骨を受け取ってもらえない人も多いんですね。お寺では無縁仏として引き取ってもらえますが、教会ではやってくれません。教会や牧師の存在意義は人々に安心を与えることにあると思うので、いつかは身寄りのないLGBTが安心して入れる納骨堂(合祀墓)ができたらいいですね。

また、まさかLGBTがこんなに社会で話題にされ、認知されるようになろうとは夢にも思っていませんでした。そんな社会になるのは自分が死んでしばらく経ってからだと思っていたので。私のパートナーは自分のセクシュアリティをカミングアウトすることには消極的でしたので、私がカミングアウトするときにもずっと反対していました。それは彼が社会人になってから会社の飲み会の席で「お前はホモなんじゃないか」と3時間も4時間も詰問された経験があるので、カミングアウトしてもひとつもいいことはないんだ、というトラウマをもっているからなんです。

中村吉基-近影10

私が社会に対してカミングアウトする時、反対していたパートナーに「今、私がカミングアウトすることで報われなくてもいい。100年後の性的マイノリティの人たちが『自分たちが生きやすい社会になったのは、100年前に当事者が権利獲得のために活動を頑張ってくれたからだ』と言ってもらえたらそれだけでうれしい。そのためにカミングアウトする」といって説得したんですね。

今も実際に少しずつ変わってきています。例えばトランスジェンダーの人たちの多くは、しばらく前までは夜の世界の飲食業などでしか働き口がなかったのですが、今は議員としても大学教員としても活躍している人がいます。それだけでなく活躍の場は多岐にわたっています。こういった例は次の世代への力になることです。キリスト教もいつか「性的マイノリティの牧師や神父がいて普通」になってくれたらいいですね。

だから今後もさまざまな活動を通して、人の性的指向や個性、長所が生かされるような多様性のある社会になることに少しでも貢献していきたいと思っています。


インタビュー前編はこちら

日本キリスト教団 新宿コミュニティー教会とは

──現在の活動を教えてください。

中村吉基-近影1

大きくわけて、日本キリスト教団 新宿コミュニティー教会の牧師としての活動と、フリーランスの編集者・ライターとしての仕事の2つがあります。


──日本キリスト教団 新宿コミュニティー教会とはどのような教会なのですか?

日本国内のプロテスタント33教派が「合同」して成立した日本キリスト教団に属する教会で、2004年に私が牧師の資格を取得すると同時に設立しました。私自身のセクシュアリティがゲイだということもあり、一般の方々はもちろん、性的マイノリティの方々も歓迎しています。現在、会堂は持っておらず、礼拝などの集会は新宿5丁目にあるビジネスホテルの会議室の一室をお借りして行っています。礼拝に来てくださった方々に、こちらからセクシュアリティについてお尋ねすることは決してありませんが、感覚としては性的マイノリティの方々とその他の方々の比率は半々といったところでしょうか。


──何となくキリスト教は同性愛を禁じているというイメージがあったのですが、そうではないのですね。

確かに今でもカトリックを中心とした大多数のキリスト教は同性愛に対して嫌悪感を持っていて、特に右派や保守派の中には、聖書では同性愛を禁じていると固く信じている人たちが多いんですね。だから、「ゲイの牧師って大丈夫なの?」と疑問に思う人もたくさんいます。でも私たちはそのように聖書を読みません。事実、聖書には現代の同性愛について指すような記述が一切ありません。にも関わらず、少しでも関連のありそうなことを全く違う文脈で同性愛のこととして抽出して、「聖書では同性愛を禁じている」と読み違えをしているんです。

日本キリスト教団に関しては、そもそも第2次大戦中、国の政策によっていろいろなプロテスタントの教派がひとつにまとめられた教団なので、リベラルで同性愛に関して寛容な人たちもいれば、ガチガチの保守派で絶対ダメだという人びともいるので、教団としての公式見解はありません。だから私たちの教会は教団から何となく容認されているという感じで、ある意味恵まれているような立場です。

ただ、おそらくカトリック、プロテスタント含めて日本のキリスト教の中で、LGBT(レズビアン〈女性同性愛者〉、ゲイ〈男性同性愛者〉、バイセクシュアル〈両性愛者〉、トランスジェンダー〈性同一性障害など心と体の性が一致しない人〉の頭文字を取った性的マイノリティを表す言葉)が自分のセクシュアリティを公言して活動できるのは、かなり限られた教団・教会だと思います。自分がLGBTだと発言しただけで牧師の資格を剥奪されたり、排除される可能性もあります。

私は教会を設立してからも、自分がゲイであることを社会に対して積極的に公言していたわけではなかったので、あまり注目を浴びていませんでした。しかし2014年頃から、社会で少しずつ「LGBT」や「性的マイノリティ」という言葉が認知されるようになってきたことで、LGBTの当事者、しかもそれを公言している牧師はほとんどいないので、いろいろなメディアから取材依頼が増えてきました。2015年には東京・世田谷区と渋谷区で同性パートナーシップ条例が施行されたことで世の中の関心がより高まり、取材依頼がもっと増えました。その背景にはその他にも、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、社会のダイバーシティ化をより推進したいという自治体や政治家の思惑があり、私だけではなくてLGBTであることを公にしているさまざまな人たちがメディアに登場し始めた年だったと思います。


──現在、教会のメンバーはどのくらいいるのですか?

私たちの教会に籍を置いているのは私を除いて12名です(2016年8月現在)。教会員になると教会への経済的な支援、いわゆる献金をします。その額は自由で、牧師1人の活動を支えるためには、最低でも20人くらいは必要だと言われています。当教会のように小規模だと、牧師が副業しなければならないということになります。

私は他に出版関係の仕事をしているのですが、私のようにキリスト教と全く関係ないところで仕事をしているという牧師は少なく、たいていは教会付属幼稚園の園長を兼任しているとか、キリスト教系の学校で教えているとか、牧師という職業の延長線上で仕事をして副収入を得ているという人がほとんどですね。

"副業"ではなく"複業"として

──編集者としてはどのように働いているのですか?

中村吉基-近影2

現在は週日の3日間フルタイムで、通信社で勤務しています。最近までは資格試験のテキストを出版する会社で校正の仕事と、在宅でキリスト教の月刊誌の編集をしていたのですが、牧師としての仕事は毎週日曜日の礼拝と月に1度の「学びと祈り」以外は、時間が決められているわけではなくて、お葬式や来会者の相談など、急に入ってくるものが多いんですね。そういう時にフルタイムで仕事をしていると対応が難しいので少し減らそうと、現在の働き方に変えたわけです。

二足のわらじ状態なので「どちらが本業でどちらが副業なんですか?」とよく質問されるんですが、実は編集・ライターの仕事は牧師になる前から20年以上しているんです。牧師給を補うかたちで編集・ライターの仕事を継続して行っているというのが正直なところです。でも、編集・ライターも大切な仕事ですし、それなりのニーズもあります。牧師としての仕事以外でも自分ができることで社会に貢献していきたいので、「私にとってはどちらも本業で、"副"業ではなく"複"業です」と答えるようにしています。

牧師としての仕事

──牧師としては具体的にどのような仕事をしているのですか?

定期的に行ってる仕事としては毎週日曜日の午前中に開催している礼拝があります。先ほどお話したとおり、私たちの教会には専用の建物がないので、会場を借りています。礼拝の内容はそれぞれの教会によって微妙に違うのですが、基本的にクリスチャンが聖書に書かれてあること、つまり神様の言葉に耳を傾ける日なんですね。それを牧師がわかりやすく噛み砕いてお話しします。基本的には聖書の話なのですが、それに絡めて今社会で起こっていることや、自分の経験談や出会った人の話などいろんなエピソードを話します。聖書は数千年前に書かれたものですが、悩みや問題を抱えた人たちがその話を聞いて癒やされたり、励まされるのです。

教会の日曜日の礼拝の様子

教会の日曜日の礼拝の様子

礼拝は毎週行っているので、説教の内容も同じ話ばかりというわけにはいけません。それがけっこう大変ですね。私の場合は説教の内容を前日までに4000字ほどの原稿にまとめているのですが、お恥ずかしいことに他の仕事で忙しい時は日曜日の朝にようやく完成するということもあります(笑)。その原稿は礼拝で話し終わったらメンバーのメーリングリストで配信しています。その他に賛美歌を歌ったり、お祈りをしたりします。トータルで1時間程度ですね。

その後、参列者の皆さんでお茶をともにしながら談話をします。礼拝にはクリスチャンでなくても誰でも歓迎していますので、初めて参加したという人や教会自体に初めて来たという人も多いんですね。他の教会では初めて来た人に来会者カードを渡して住所、氏名などを記入してもらうこともありますが、私たちの教会では一切していません。聞くとしてもお名前くらいです。昨今は個人情報の扱いが厳しくなっていますし、話せない事情を抱えた人もいらっしゃるからです。先ほどもお話しましたが、もちろんこちらからセクシュアリティのことについても絶対にお尋ねしません。そんなことをしたらこの教会に来にくくなるし、そもそも失礼ですからね。

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「ダブルマイノリティ」の孤独

──教会に来るのはどのような人なのですか?

中村吉基-近影3

昔の教会には、その日に食べるものにも困るという貧しい人や深刻な病気を抱えた人が多く集まっていたと聞きます。しかし、今は様相が全く違っています。貧しいから宗教に救いを求めようとか、病気を治したいから教会に行ってお祈りしてみようという人はほとんどおられません。私はこの教会を立ち上げてLGBTの人たちだけで500人以上と向き合ってきたのですが、私が感じる彼らの最大の苦悩は「孤独」ですね。孤独は自分ひとりでは癒やせません。といっても友人や家族がいないというわけではなく、そういう人でも孤独を抱えているんです。


───その孤独感とは具体的にはどういうものなのですか?

まず、クリスチャン自体、日本の人口比の0.8%しかいないんですね。また、性的マイノリティは8%しかいません。つまり性的マイノリティのクリスチャンというダブル・マイノリティなわけです。これは相当の孤独感、疎外感ですよ。しかも欧米などと違い日本の教会では自分が性的マイノリティだということをカミングアウトしづらい雰囲気があります。実際に自分が性的マイノリティであることを牧師に告白したら「あなたは罪を犯しているから、もう教会には来ないでください」と排斥された人もたくさんいるんです。イエス・キリストは「あなたの隣人を愛しなさい」と教えているのにも関わらず。こんなことが現実に教会ではたくさんあるんですよ。

それでどこか性的マイノリティでも通える教会はないかとインターネットでいろいろ探したら、新宿コミュティー教会は性的マイノリティを受け入れると書いているし、中村牧師もゲイらしい、じゃあ一回行ってみようと来て、その後移籍して来る人もいます。


───その他の活動は?

月に1度、「学びと祈り」という少し深く踏み込んだ聖書やキリスト教の歴史の勉強会を開いています。また、個人的に聖書を勉強したいという方々の要請に対応することもあります。もちろん、一般の牧師と同じように、結婚式やお葬式を挙げています。

1人だけの結婚式

──特に印象に残っている結婚式は?

以前、私たちの教会に、Aさんがやってきました。Aさんは何年も一緒に暮らしていた同性のパートナーを病気で亡くしたのですが、お互いの両親や親族に自分たちの関係を話していなかったので、パートナーの臨終に立ち会えず、その後もたくさんの不都合なことが起きました。ただ、亡くなる日の早朝、誰もいない病室でパートナーと2人だけで結婚の誓いをしました。その数時間後にパートナーは亡くなってしまったのですが、その誓いは果たして正しかったのだろうかと、Aさんは教会に来て私に問い続けたんです。

でもその質問に対して私は即答できませんでした。誓いをしたこと自体は間違いじゃない、でも神様の前で正しかったのですかと聞かれると答えに窮したんです。でもAさんと話し始めて10分くらいして「わかりました。改めて結婚式をやりましょう」と言っている自分がいました。


──パートナーが亡くなっているのになぜ結婚式を提案したのですか?。

式を「やり直しましょう」という意味ではなく、結婚式をすることによってダメージを受けたAさんの心が癒やされると思ったんですね。グリーフケアの一環としてやった方がいいんじゃないかと思ったわけです。

でも、自分から提案しておいて、これは困ったなと。今まで牧師としていろんな結婚式を執り行ってきましたが、亡くなった人と生きている人との結婚式なんてもちろんしたことはないし、結婚式の式文も定められていて、当然それらにも亡くなった人との結婚式で読む式文なんてないわけで、どうやればいいのかと頭を抱えました。それでいろいろな牧師仲間に事情を話して相談して知恵を借りて、都内の教会でその2人を知っている人、パートナーが亡くなった後に遺されたAさんを支えている周りの福祉関係者など20人くらいを集めて結婚式をしたんです。教会のメンバーも手伝ってくれました。


──どのように執り行ったのですか?

Aさんが1人で、亡くなったパートナーの遺影を持ってバージンロードを歩き、Aさんの手にリングを2つはめて指輪交換としました。もちろん相手方の親族に知られてはいけないので完全シークレットで、表向きには追悼集会のように、これまでAさんたち2人で歩めたことを感謝するようなエピソードも織り交ぜながら行いました。葬儀と結婚式が一緒になったような感じで、私としても得難い経験となりました。

式自体は参列者から祝福されてとってもいい式になりました。当人は、皆さんからの祝福があまりにもすごかったし、結婚式をすることでそれまで抱えていたもやもやした思いが吹っ切れた部分もあったのでしょうか、元気になって、明日から「なるべく後ろを振り返らないように生きて行きます」と言っていました。Aさんは今、同じようにパートナーを亡くした人、あるいは近しい人を亡くしたLGBTのためにNPOを立ち上げようとしています。

アメリカ・オーランドの銃撃事件の追悼集会で祈りを捧げる(2016.6 渋谷駅前)
アメリカ・オーランドの銃撃事件の追悼集会で祈りを捧げる(2016.6 渋谷駅前)

アメリカ・オーランドの銃撃事件の追悼集会で祈りを捧げる(2016.6 渋谷駅前)

カウンセリング

また、悩み相談やカウンセリングも重要な仕事の1つです。性的マイノリティの人たちは匿名性が高く、メールや電話が多いですね。実際に会ったことがない人の方が多いです。でも何度かやり取りをして信頼関係ができて、向こうから会って話がしたいと言われたら、教会やカフェなどその人のご希望の場所で実際に対面してお話をうかがいます。

私たちの教会には会堂がないので、どこかに牧師が常駐するということができないんですね。でも逆にこれはいいことだと思っていて、牧師が教会でふんぞり返って待つのではなく、牧師のほうが自ら動く教会になって、どこにでも行くというスタイルの方がよりその人に寄り添えるかなと思っています。


──具体的にはどのような相談が多いのですか?

やはり自分のセクシュアリティをカミングアウトすべきかどうかという相談がすごく多いですね。そういう人には、自分がしたいと思ったらすればいいし、したくないと思ったら無理にする必要はないですよと答えています。私自身も両親はすでに他界していましたし、神学校に通っていた頃は、ゲイであることはごく一部の親友を除き、話していませんでした。それはカミングアウトすることのデメリットの方が大きいと感じたからです。周囲の人に迷惑をかけてしまう場合もありますしね。例えば私は10代の早い時期に自分がゲイであることに気が付いていましたが、3、40代になってすでに家庭を持っていて妻(夫)子もいる状態で、自分が同性愛者だと気付く人もいるんですね。知り合いの家庭で、父親が性別適合手術を受け、その家庭には母親が2人になったという例もあります。

レズビアンの方々の中には自分の意志でセクシュアリティを公にできずにやむなく男性と結婚して子どもをもうけたけれど、その後離婚して、今は同性パートナーと子どもを一緒に育てている人もいます。これからもっと性的マイノリティのカップルが子どもを持つことへの議論が深まってくるだろうと思います。


──それらはすべて無料で行っているのですか?

中村吉基-近影4

はい。料金は一切いただいていません。教会を始めたばかりの頃、自費で北海道まで行ったことがあります。最初はメールと電話で対応していたのですが、その人は自殺しそうだったので、もう私では対応しきれないと思い、札幌まで飛んで地元の同性愛に理解のある牧師の教会につなげたのです。

相談者はカウンセリングによって、すっきりして元気になってくれるのはうれしいのですが、それで私の教会のメンバーになってくれる人はほぼいません。自分の所属している教会に帰っていく人や、それ以来私の教会に顔を見せないという人がほとんどです。


──それなのになぜカウンセリングを行うのですか?

やはり牧師として少しでもLGBTの方々の苦しみに寄り添いたいと思うからです。私自身、ゲイなので彼ら、彼女らの悩み、苦しみは我が事のようにわかりますから。それは理屈じゃないんですよね。

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講演・講義の中で

また、昨年(2015年)あたりから、同性愛者の牧師として講演に呼ばれたり、大学で講義をすることが増えてきました。

東京大学大学院でLGBTについての授業(2015年11月)

東京大学大学院でLGBTについての授業(2015年11月)

長崎県・鎮西学院での講演(諫早市民対象、2016年3月)

長崎県・鎮西学院での講演(諫早市民対象、2016年3月)

──講演・講義のテーマは?

それは話す場所によって違いますが、例えば大学で講義を行う場合、大学生たちは身近なところにLGBTの友人などがいるケースが多く、性的マイノリティについてかなり理解している場合も多く見受けられるため、いまさら基礎的な説明をする必要はありません。他方、一般に開かれた市民講座などで話す場合、お年寄りなども多数来られるので、人間のセクシュアリティにはいろいろな形があるということを図解で説明しています。また、教職員向けに講義を行うこともあります。やはり小・中学生の中にもLGBTは確実にいますから、教師の方々にはLGBTに関する知識は絶対に必要なのです。

教会として毎年参加している「東京レインボープライド」のパレード

教会として毎年参加している「東京レインボープライド」のパレード

それから、性的マイノリティに開かれた教会ということで、毎年ゴールデンウィークに開催されている「東京レインボープライド」というフェスティバルに教会の関係者全員で10年以上前から参加しています。2015年には日本のキリスト教会として初めてブースも出展しました。10年以上続けてきてようやく教会の存在を知られるようになってきました。

また、私たちの教会はHIV/エイズの人たちとともに歩むという方針を打ち出しているので、12月1日の世界エイズデーに最も近い日曜日に、エイズで亡くなった人たちの追悼礼拝を開いています。現在ではカトリック、聖公会、ルーテル教会と共催して「世界エイズデー記念礼拝」として行っています。

教会形成に対する思い

──どういう思いで教会を運営しているのですか?

そもそもこの教会は、信徒をたくさん増やしたいとか、教会組織を大きくしたいから立ち上げたわけではありません。特に性的マイノリティやHIV/エイズなどで、あらぬ誤解を受けて生きにくさを感じている社会的マイノリティの人たちの力に少しでもなりたいという思いでいます。


──牧師として活動する上で大切にしていることは?

自らも人としての弱さや欠けている部分をもちながらも、悩める人に寄り添っていきたいと思っています。何も言わなくても寄り添っているだけでその人の心がわかるようになれば本物ですよね。私はまだそこまでは到達できていないので、徹底的にその人の話を聞くことを心がけています。

やりがい

──牧師としてのやりがいを感じるのはどんな時ですか?

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私たちの教会に来た人に「新宿コミュニティー教会のような教会が日本に1つでもあってくれてよかった、救われた」と言っていただけるのが牧師をやっていて、教会を立ち上げて一番よかったと思う時です。そこにこそ、この教会の存在意義があると思います。

また、クリスチャンになるための洗礼式を行う時や教区で新しい牧師が誕生する時に、先輩牧師がみんなでその人の頭に手をおいてお祈りをするんですね。全員で一気にスクラムを組むようにして。その時に言い知れぬ喜びを感じます。

あるいは結婚式の時、当人たちの顔が見えているのは牧師だけなんですよね。参列している人からは式中の2人の顔は見えません。その時、幸せの絶頂にいる2人を見ると、「ああ、いい顔をしているな。人の幸せの瞬間に一番近くで立ち会えるいい仕事だな」と感じるんです。これが仕事としては一番うれしいですね。


──牧師という仕事は天職だと思いますか?

私を含めて、幼い頃から牧師になりたいと思っていた牧師はいないと思いますよ(笑)。以前、キリスト教系の出版社で働いていた頃に23名の牧師・神父の召命(しょうめい)記の本を作ったことがあるのですが、やはり子どもの頃の夢が牧師だったという人は誰ひとりいませんでした。牧師は基本的に代々世襲されていくものではないんです。カトリックの神父は生涯独身だから世襲はできないですしね。ただ、神学校には親が牧師だという人がある程度はいました。

ほとんどの人は人生のある途上でふっと牧師の世界に「引きずり込まれた」人なんですよ。私たちは牧師の道に入ったきっかけを、神からの呼びかけを受けたという意味の「召命」と呼んでいます。その召命も人それぞれで、マザー・テレサに直接声をかけられたことや、聖書に書いてある一句が、神さまが今の自分に語りかけられている言葉だと確信したことが召命につながった人もいれば、目の前で友人が飛び降り自殺をした時、自分はその現場にいたのになぜ止められなかったんだろうという後悔から牧師の道に入った人もいます。彼らも牧師が自分の天職だとは思ってないでしょうね。私の場合も何度か召命を感じた瞬間はありました。まだ自分には欠けているものがたくさんあるけれど、人々に神様の言葉を伝えながら、自分が人間として完成されていく途上を歩んでいるのが牧師なんじゃないかなと思いますね。

クリスチャンになった経緯

──中村さんが牧師になるまでの経緯について教えてください。キリスト教との最初の出合いは?

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私は石川県金沢市で生まれ、ほどなく父の転勤で東京に移住し、近所のお寺が経営する幼稚園に通っていました。小学校の同じクラスに教会附属の幼稚園出身の子がたくさんいて、毎週日曜日に教会に通っていたんですね。私の祖父母がクリスチャンだったこともあり、何となく興味を持って、私もその子たちの行っている教会に通うようになったんです。それが教会との最初の出合いですね。

中学2年生からは再び金沢へ戻るのですが、転校先で友だちがすぐにできなくて非常に孤独を味わいました。そんな中、祖父母が通っていた教会に行くことで随分孤独を癒やされました。聖書も読むようになり、キリストも最後は人から見捨てられて、十字架にかけられて死んでいくというストーリーに共感しました。

高校時代に洗礼を受ける

高校に入学しても、教会が大好きでいつも学校が終わったら教会や牧師の家に遊びに行っていました。教会に行くと下は小学生、中学生、上は大学生のお兄さんお姉さんから若手の社会人、おじさん・おばさん、お年寄りまでいろんな人がいて、温かく楽しい時間を過ごせていました。そのおかげで私は一人っ子なのですが、さびしくなかったんです。彼らを自分の家族のように、教会は第二の実家のように思っていました。それで高校1年生の時に、当時通っていた日本キリスト教団金沢教会で洗礼を受けました。私にとって、洗礼を受けることは自然なことだったんです。そして、当初は英語の教師になりたいと思っていたのですが、17歳の頃には将来は牧師になりたいと思うようになっていました。


──きっかけとなった出来事はあったのですか?

聖書を読んでいた時、ある一節が心にとまりました。「さあ行きなさい。.........命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」(新約聖書・使徒行伝5章20節)。イエス・キリストの言葉を人々にもれなく伝えなさいという意味なのですが、この一節を読んで、神様は私にそうせよと語りかけていると、そうすることが神様の思し召しなのかなと確信していったのです。私にとってはこれが最初の「召命」だったと思います。

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カトリックに転向

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それで将来は神様の言葉を伝える牧師になろうと高校卒業後は、関西のキリスト教系の大学に入学し、キリスト教学を専攻しました。しかし、その大学では学ぶことの愉しさをどうしても見出せずに1年で退学をして、他大学に入学しました。3年生の時、書道の授業で出会った先生がカトリックの修道女(シスター)だったのですが、彼女はいつも精神を集中して字を書きましょうと、学生に瞑想をさせてから筆を持たせる先生でした。

実際にカトリックの教会の中には座禅を行うなど、いろいろな宗教の良いところを取り入れているんですね。歴史も非常に長いし、幅も広いのであこがれを抱き、大学3年生の時にその先生に知り合いの神父さんを紹介してもらって半年かけてプロテスタントからカトリックに転じました。

ただ、カトリックの世界を知って初めてわかったのですが、プロテスタントよりずっと厳しいんです。プロテスタントは牧師になるには4〜6年かかり、結婚も許可されていますが、カトリックの方は神父になるのに10年以上かかるし、生涯独身を貫かねばなりません。私は一人っ子で高校生の時に父親を亡くしており、母一人子一人の家族でした。そして当時はまだ自分の中の同性愛的な傾向は一過性であると信じ込んでいたので、母のためにもいずれは異性と結婚しなければならないと思っていました。だから完全独身制の世界には行けないと神父の道を選択しなかったのです。

セクシュアリティ自覚の経緯

──ご自身のセクシュアリティを自覚するまでの経緯を教えてください。

物心ついた頃から小学校3~4年生までは、言葉遣いや仕草が女性のようなところがありました。自分がそうなったのは父親が仕事に忙しく、ほとんど家におらず、母と過ごす時間が長かったからかもしれないと思っていました。同級生からは「おんなおとこ」とからかわれることも多かったですね。でも恋愛対象は女子で、小6までは好きな女の子がいたんです。

中学に上がり髪も短く切って詰め襟の学生服を着るようになってからは自分の中から女性的な意識がなくなってきました。「男性である自分」を受け入れられたんだと思います。とはいえ、物腰や雰囲気はまだまだ女性っぽく、当時は先生から「男は男らしくしろ」と言われる時代だったので、三者面談の時、先生から「もっと男らしくするために男子校に入学させたらどうですか?」などと親は言われていました。

恋愛対象は、なぜだか理由はわからないのですが、女性ではなく、男性に変わりました。男子の先輩のことが気になるようになったり、女性に人気の男性アイドルタレントが好きになったり。そんなことはそれまで思わなかったんですけどね。

高校の頃は完全に自分がゲイであるという自覚はありました。恋愛対象は男性だったのですが、誰かと付き合うということはありませんでした。周りにゲイがいるとは思っていませんでしたし。だから女子から告白された時は困りましたね。バレンタインデーの日などはひたすら逃げ回っていました(笑)。

でも当時はセクシュアリティのことをまだそれほど深刻に考えてはおらず、大人になれば他の一般的な男性のように女性が好きになると思っていました。というのは、当時よく読んでいた10代向けの雑誌に性の悩みを相談するコーナーがあって、同性愛に関する悩みもそこに寄せられていたのですが、回答者が「同性愛は20歳くらいまでには自然と治る」と答えていたので、そう信じ込んでいたんです。

大学に入ると状況が一変しました。大学時代に通っていた教会が大阪の堂山というゲイの街にあったので、ゲイの人たちを身近に見かけるようになりました。そういうこともあり、大学に入ってから徐々にゲイの人たちとの交流が増え、ゲイの街やゲイ雑誌の文通欄で知り合って実際に会ってみたり、付き合ってみたりもしました。でも、20歳を目前にしてゲイって本当に治るんだろうかとかなり焦っていましたが、まだこの時点でも将来は女性と結婚するんだと思っていました。

ただ、大学の講義ではキリスト教は同性愛を禁じていると教えられましたし、教会でも議論にすらならないタブーだったので肩身の狭い思いはしていました。

ゲイとして生きることを覚悟

──大学卒業後は?

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金沢に戻って高校の国語の教師になりました。金沢でもゲイの友だちがたくさんできて、ゲイバーで一緒に飲んだり、よくドライブして遊びに行ったりしていました。それがすごく楽しくて。だからそれまでずっとゲイはいつか治って異性と結婚して家庭を築くと思っていたのですが、25歳くらいの時に、自分は一生ゲイとして生きていく人生なんだなと確信したのです。


──ゲイであることを認めることに関して悩みとか苦しみはなかったのですか?

それほど感じなかったですね。ああ、やっぱり治らないのかという感じでした。


──カミングアウトのタイミングは? やはり悩みましたか?

初めてカミングアウトしたのは、ゲイであることを受け入れてから2、3年後の27、8歳の頃です。少なからず不安はありましたが、相手は年上の女性で長い付き合いだったので、この人なら言っても大丈夫だろうなという安心感はありました。結果は予想どおりで、関係性は何も変わらず、今でも変わらずよき友人として交流しています。それから徐々に信頼できる友人にだけカミングアウトしていきました。

国語教師時代

──高校の国語の教師の仕事にはやりがいを感じていたのですか?

私の勤めていた学校は公立の高校で、単に国語の授業をして定期テストを行い、成績をつけて終わりという仕事に段々辟易するようになりました。本当はもっと「こころの教育」がしたくて、実際にマザー・テレサの話やアウシュビッツで殺されたコルベ神父の話などを授業の合間によくしていました。そういうときには生徒がとても興味をもって聞いてくれるようになって、普段国語の授業は全然聞かないのに(笑)、それは驚きの出来事でした。

その頃から、受験や就職のための教育じゃなくて、子どもたちに心を教えるような教師になりたいという気持ちが徐々に強くなっていきました。といっても神父や牧師など、完全に聖職者の世界に行くのではなく、高校で宗教の話を堂々とできるような場所、例えばキリスト教系の学校で聖書(宗教)を担当する教師になりたいと思い、3年で勤めていた高校を辞めて宗教科の教師免許を取得するために東京に戻ってきました。


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