2014年12月アーカイブ

ゆるやかな共同体を目指して

──農園やワイナリーなどいろいろな事業者が集まっている「食の杜」とはどんな場所なのですか?

これまで私は雲南の仲間たちと自給自足ができる小規模多品目複合経営を目指してきました。酪農と乳業だけでなく、農家と加工営農を含めたネットワークを作り、地域的広がりのなかで多面的な生産をしていきたい。そうしたうえで消費者と直結した流通、生産活動ができれば、とても幸せだと思います。

その私たちの思いを形にするため、1993年、地域の仲間たちと「ゆるやかな共同体」を作ってかつてあった集落共同体を再現しようと雲南市木次町の山間部に「食の杜」を作りました。そもそもは、合併前の町長だった田中町長が私たちの思いに賛同してくれて、町が事業主体となり山間部の荒れた農地を整備し、それを生産者や消費者、研究者、医療関係者など職業も年齢も越えた人々が基金を出し合って自分たちの農場にしたいとの思いで買い取ったのが始まりです。

現在、「食の杜」にはワイナリー「奥出雲葡萄園」、有機野菜を作る「室山農園」、無農薬による葡萄栽培に取り組む「大石葡萄園」、国産丸大豆と天然塩のにがりを原料とする豆腐を作る「豆腐工房しろうさぎ」、国産小麦粉、木次牛乳などを原料とするパンを作る「杜のパン屋」などが入植しています。そしてここを拠点に平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワークして、これらの食品を宅配便で消費者に送る事業もしています。

また、「食の杜」の敷地内にあるゲストハウスには、農業に関心のある青年や大学生に加え、社会学や経済学を学ぶ人たちも集まってきて、汗を流しています。土に親しむ人が増え、それぞれの地域で新しい核になってもらえたらいいと思っています。

地域は活性化ではなく沈静化がふさわしい

小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた社会。すなわち、かつての日本にたくさんあった「地域自給に基づいた集落共同体」を見直したいと考えています。こうした共同体が、日本民族固有の文化を維持し、健やかな社会、人間蘇生の社会への「回帰」を可能にする。近年、国を挙げて「地域活性」とか「地域おこし」という言葉が叫ばれていますが、ほとんどが経済、つまり金儲けが主目的になっています。そうではなく、小さな共同体で小規模でいいから自給自足することを考えた方がいい。地域は活性化より沈静化がふさわしい時代だと考えています。


──佐藤さん、あるいは木次乳業としては食の杜の中ではどのような活動をしているのですか?

木次乳業としては室山農園と奥出雲葡萄園の経営に関わっています。奥出雲葡萄園にはレストランもあり、農園で作った無農薬野菜、ブラウンスイス種の肉、木次乳業のチーズなどが味わえます。室山農園には無農薬有機栽培による酒米を使った「どぶろく製造所」があり、私もときどきどぶろく造りに参加しています。これも作るのはごく少量です。

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食の杜、室山農園の無農薬有機栽培による酒米を使った、どぶろく製造所

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地域で採れた食材を食べるイベントや宿泊もできる茅葺の家

奥出雲葡萄園で作るワインももちろん無農薬で作ったブドウを使っています。自分が飲むことを考えた時、農薬をたっぷり含んだブドウで作ったワインは飲みたくない。だからたくさんは作りません。この食の杜はこの地域の自給自足のために作った共同体ですから、作り手である自分たちが飲んだり食べたりする分が基本で、それにプラスして消費者の分を少し作る程度です。利益優先の大量生産ではどうしてもごまかしが入ります。それが嫌なんです。

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イスラエルのキブツに学ぶ

共同体はよっぽど上手に運営しないと不平不満が出てすぐ壊れてしまいます。国内にはあまり例がないので、イスラエルの共同体「キブツ」を参考にしようとイスラエルに行きました。湾岸戦争が終わる頃だったこともあり、フランクフルトからテルアビブに飛ぶ飛行機に乗るとき、ものすごく厳重な警備で、厳しいチェックを受けました。真っ裸になって身体検査を受けて、タラップに上がって振り返ったら戦車の砲門がこちらに向いていたのを覚えています(笑)。

キブツに入って数週間実際に生活をしてみることで、共同体は細かいルールや規約を決めて窮屈にしてしまうと個が埋没してしまい、うまくいかないということがわかりました。それで食の杜も日本に多い「組織ありき」という考え方ではなしに、まずは自分も相手も不完全だと認めることから始め、おおらかな共同体にすることにしました。だから規約やルールなどは決めず、月に1回メンバーで集まって協議会をやる程度です。各メンバーが自立しているから問題はありません。

食の杜に広がる無農薬農園

「農業」ではなく、「農」

──佐藤さんがこれまで百姓として生きてこられて大切にしてきたものは?

食べるということは、地球上の生物の「いのち」をいただくこと。そして、生命の源としての食べ物を考えていけば、どう作られているかが重要になる。

「農業」なのか「農」なのかが大事。農は自分と家族が生きるために必要なものを生産すること。それが原点で、「業」がつくと商売になる。業の方へ傾くと大量生産、大量販売のため、どうしても農薬や化学肥料などの「ごまかし」が入ります。我々は原点に立ち返ってそのごまかしを極力排除したい。だから有機農法にこだわるわけです。

とはいえ農業を全くしないということも現代の貨幣経済社会では難しいので、そこのバランスをどの程度にするかが大事。我々は極力農に近いスタイルを選択しています。つまり、自分たちが安心して食べられる物を、我々が生きていける分を基本としてプラスアルファで必要最低限の現金収入を得られる分を作っているんです。

あくまでも自分のためにどう生きるかということを中心に考える。我々はこの地球上に存在する有形無形のすべてのものの関係性の中で存在しています。そう考えたら、あなたは私であり、私はあなた。あなたがあって私は存在していて、逆もまたしかり。そうすると私のためということは結局あなたのためということになる。

逆に人のためと言っている人は信用できません。事実、「人」の「為」と書いて「偽り」でしょ。いくら上手に人のためといっても、内心は自分が一番かわいいと思っている。一番よくわかるのは、戦争で敵と対面したとき。本当に人のためだと言うのなら、相手が引き金を引くまで待って自分が先にあの世へ行く。でもそんな人はいない。いくら人のためと言ってる人でも、自分が先に引き金を引くでしょう。

だから経営者だった頃から会社を大きくしようとも思わないし、作物の反収も牧場の乳量も平均以下でいい。ただ、作るからにはまっとうなものを作る。しかも都市の加工業者や流通業者の奴隷にならず、自分たちで自主独立した経営をやろうという方針でやってきました。それが本当の食べ物をつくる生産者の姿だと考えています。

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虚と実を考える

食の杜・室山農園にある研修施設「忠庵」

──都市の奴隷にならないとはどういうことですか?

基本的に都会で行われているのは消費だけです。食べ物もエネルギーも自分たちでは何も生み出してはいません。消費だけということは環境に負荷を与えるということ。子どもたちに残すべき資源をどんどん浪費する。生活がよくなるということはそういうことでしょう。生産の伴わない生活者というのは広い意味での犯罪者です。

これまでの日本では農村は都会を支えるためにあるという位置づけですが、それは少々傲慢だと思います。我々田舎は都会の人が生きるために食料や原料などを生産して提供することができるけど、都会から田舎へ来るものはなくてもいいものばかり。

東京の多く人は原発反対と言ってますが、そのために自分の生活をスローダウンして、品位のある簡素な生活を送ることができるでしょうか。それを食の杜で構築しようというのが仲間の共同理念ですよ。何も特別なことではありません。

だから何が虚で何が実かということを改めて考え、今の生活を非常識と見て、問題を正していくことが今必要じゃないかと思います。

親の背中を見て子は育つ

──近年食育という言葉が注目されていますが佐藤さんが考える食育とは?

食育の基本は「生命の本質」を見つめ直し、真の豊かさとは何かを訴えていくことでしょうね。しかし本来は食育という言葉なんて使う必要はないはずです。親の背中を見て子は育つといいますが、親がきちんとした食生活をしていないから食育という言葉がもてはやされる。例えば母親が手抜きして食事をジュースとパンなどすると、子どもの知力や性格に悪影響を及ぼします。今一度、大人が食生活を見つめ直すことが必要だと思います。


──どんな食事を心がければよいのでしょう?

まず、一つのものを根も葉もすべて食べること。これを「一物皆食」といいます。また、その土地で取れた旬のものをその土地の料理法で作って食べるのが一番いい。これを「土産土法」といいます。こういうことを手間を惜しまず心がければ心身ともに健康になり、結果食料自給率も上がると思います。

同時にこれらは地産地消の根本にある考え方です。地産地消とはどのくらいの範囲のことをいうか知っていますか? そもそもは日帰りのできる範囲のものを食べることです。私は夜這いができる範囲だと言っています(笑)。


──今はどんな生活を?

もう94歳なので木次乳業や牧場の経営から引退して一切タッチしていませんが、多少の緊張感がないと人間ダメになるし、朝、今日の用事があるかないかで人の健康が変わってくるので、時々食の杜に来てどぶろくを作ったりしています。食の杜にいるといろんな人が訪ねて来ますからね。

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勉強よりも体で覚えることが大事

──94歳とは思えないほどエネルギッシュですね。元気の元は?

食の杜にて

元気の元は楽しむことです。どぶろく作りも楽しいですよ。酒造りといえば今から20年ほど前、アル添酒じゃなくて本物の酒を作ろうと3人の仲間と3年かけて純米酒を作りました。NHKのディレクターと島根大学の北川学長と斐伊川の流域経済活性化のために、斐伊川の上流で米を作って、中流の伏流水で酒を作って、下流に住む町の人々に飲ませるというひとつの物語をこしらえたんです。これが本格的な純米酒の発祥じゃないかなあ。それが今に続いとる。今はイベントになっていて運動性はなくなりましたけどね。最初の1年はどぶろくを作ったのですが、米も無化学肥料、無農薬の田んぼで作った。除草剤をまいたら酒にしたときの香りがなくなるんですよ。そういうことはやってみんとわからんわけです。

そういうことは親父に叩きこまれました。親父が変わり者で、「学校で習ったことや本で読んだことは生きる上で何の役にも立たん。役に立つのは体で覚えたことだけだ」というのが口癖で、とにかく実践の人でした。だから勉強なんかしなくていいと、私は小学校しか行かせてもらえなかったですが、それでよかったと思っています。変に知識がないから人がやったことのないことに何の迷いもなく取り組めるし、実践することで覚えたことがどんどん頭の中に入ってくる。バカでよかったです(笑)。


──今の世の中の人に伝えたいことがあればお願いします。

昔から日本に伝わる祝い事などの行事には意味があります。春の彼岸には土地の神様にこれから農作業をさせてくださいと挨拶する。秋の彼岸はこれから山に入らせてくださいという挨拶する。その時は必ずあずきが出る。春の彼岸はぼたもち、秋の彼岸はおはぎ。同じぼたもちでも春と秋では違う。昔の日本人はそれだけ自然に対する謙虚な気持ちを行事として現していた。我々はそういう日本人の子孫だということを多くの人に知ってもらいたいですね。

いい顔で死にたい

──佐藤さんが生きる上で大切にしていることは何でしょう。

人間常に目標がないといけません。目標がなくなったときにその人の人生は終わる。この世におる以上は死ぬまで人として仕事をしていないといけないと思いますね。


──佐藤さんの今の目標は何ですか?

そのときにおもしろいと思えることがあればそれでいいですよ。変化が止まったときは、進歩が終わったとき。進歩が終わったということは、死を意味すると思っています。

もうこの歳になったらいかに死ぬか。どういう顔で死ぬかということしか考えていません。自身の人生というのは死んだ顔に現れると思っています。その人の死に顔を見て、ああ、この人は納得した人生だったんだな、この人は苦渋の人生だったんだなというのはわかる。私の仲間だった大坂君が牧場で事故死したとき、その死に顔は笑みをたたえていました。本当に納得した人生だったんでしょうね。

私も残りの人生をやりたいことをやるだけです。そうすればいい顔で死ねると思いますから。

日本で初めて有機農法に取り組む

──佐藤さんは日本の有機農法の草分けとして、「有機農業マイスター」の称号持ち、日本有機農業研究会のメンバーとして、現在も有機畜産の推進に関わっているそうですね。有機農法に取り組まれた経緯を教えてください。

私は大正9年(1920年)に雲南市木次町の農家の長男として生まれました。小学生の時から農作業を手伝い、卒業後、父の「農家の長男に学問はいらない」という方針から本格的に農作業をやるようになりました。

1937年に始まった日中戦争で、20歳くらいのときに兵士として中国本土へと派遣され、約6年間、中国本土で軍隊生活を送りました。戦争が終結して7カ月少し経って故郷の木次に帰り、再び百姓として農作業をやるようになりました。しかし戦後、養蚕や炭焼きの需要が激減したので、35歳のとき家督を受け継いだのを機に農作物を作るかたわら、3人の仲間と一緒に酪農も始めることにしたんです。

しかし、単なる食材の生産だけでは都市の奴隷になり、農民が自立できません。そこで酪農を一緒に始めた仲間を含む6人で、木次町内の牛乳販売組合と業務提携し、生産から加工処理までを一貫して手がける木次乳業を設立し、「木次牛乳」の名称で販売することを始めました。

酪農を始めるにあたっては、確かに牛乳は昔から日本人が飲んでいたものではないけれど、日本人にはカルシウムとタンパク質が不足しているので必要な飲み物だろう、ならばできるだけ雲南の風土にふさわしい健康な酪農をやってみようと思いました。

元々飼っていた4頭の和牛と一緒にホルスタインを購入し酪農を始めました。しかし、当時は農薬や化学肥料を大量に使う最先端の近代農業の手法を導入していたのですが、牛たちが次々と乳房炎、繁殖障害、起立不能などの原因不明の病気になり、死んでいったんです。

木次乳業が運営している日登牧場

当時一緒に農業や酪農をやっていた大坂貞利君が、この原因は牛に食べさせる牧草を化学肥料で栽培しているからじゃないかと指摘しました。私たちは小規模経営で毎日牛の様子をよく見ていたので、そういう変化に比較的早く気づけたんです。

確かに化学肥料を使うと、農作業は楽になり、あぜの草も青々して人の目からはおいしそうに見えます。ところがその草を食べた牛が病気になったり、母乳から残留性のある農薬が検出されるなど、いろいろな問題が見えてきました。

それで1960年頃、牧草は化学肥料や農薬を一切使わない自然栽培に戻すことにしました。無農薬の有機農法に変えてから、病気にかかる牛は激減し、とても元気になって安定して高い品質の牛乳をたくさん出すようになりました。同時に米作りも無農薬の有機農法に切り替えました。


──やはり有機農法で作った作物はそこまで味が違うのでしょうか。

本来、土の中の栄養は無制限なので、栄養の奪い合いはありません。だから有機農法であまり土壌が肥沃になりすぎても作物はダメになります。あまり栄養がない土地で懸命に根を張り、栄養分を吸い上げようとするから作物の味も深くなります。だから作物に横着させず、多少努力させる。一方でストレスはなくす。そこの兼ね合いが百姓の腕の見せどころなんです。人間も苦労や困難を乗り越えることで成長し、強くなり、味わいも深くなります。それと同じです。

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未完の百姓として

──百姓といえば、佐藤さんの名刺の肩書にも百姓と書かれていますが、農家じゃなくて百姓なんですね。

百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作りはもとより、微生物学、栄養学、気象・天文学などに通じる知恵を駆使し、土作りに始まって炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までをこなす人間です。そうした百姓が集まり地域自給、村落共同体を再生しようと、木次の自然を大切にしながら仲間作りを続けてきたわけですが、私なぞはまだまだ未完の百姓です。

日本初のパスチャライズ牛乳

──佐藤さんは1978年、日本で初めて低温殺菌牛乳のパスチャライズ牛乳の開発・販売にも成功したそうですね。なぜパスチャライズ牛乳を作ろうと思ったのですか?

有機農法に取り組み始めた頃、牛乳が高熱処理で大量生産される現状に疑問を感じ始めました。まず、当時の行政の方針は、日本の牧場は高温多湿で細菌も多く、衛生観念もしっかりしていなかったので、牛乳は滅菌でなく高温で殺菌をしなくてはいけないというものでした。

また、そもそも牛乳の中にはさまざまな細菌が存在するので高熱殺菌処理をしないと長期保存がきかず、すぐ腐ります。これでは大量生産・大量販売できないので、保存性・流通性を高めるために120度の超高温で殺菌しているわけです。しかし、このような超高温熱処理をすると牛乳中のタンパク質やカルシウムなどの栄養素が変性し、飲んでもうまく消化吸収されなくなってしまいます。

一方、太古の昔から牛乳を飲む文化があるヨーロッパでは、パスチャライズ牛乳が主流です。パスチャライズ牛乳とは、フランスの細菌学者パスツールが発明した殺菌法によるもので、牛乳中の栄養成分や風味を損なうことなく、有害な細菌だけを死滅させることができます。この製法をパスチャリゼーションといいます。

酪農の先進地である北欧のように、できるだけ生に近い牛乳を提供したいという思いが強くなり、1975年(昭和50年)、本格的にパスチャライズ牛乳の開発をスタートしました。

自らの体で実験して安全性を証明

──日本では誰もやったことのないことなだけにご苦労もたくさんあったと思いますが、どんなことがたいへんでしたか?

言うまでもないことですが、一番の問題は品質と安全性との両立でした。栄養素を変性させず、悪い菌だけを取り除くのがかなり難しかった。

パスチャリゼーションは単に低い温度で滅菌するという方法ではありません。超高温熱処理は120℃以上で2~3秒ですが、国際乳業連盟の定めた方法は63℃で30分、あるいは72℃で15秒です。しかし、この方法ではどうしても100分の1程度は細菌が残ってしまう。善良な乳酸菌なら多ければ多いいほどいいのですが、何かの間違いで悪い菌が残ってしまったらたいへんなことになります。そのためには原乳をそのまま飲んでも問題ないくらいに、原乳の質を向上させることに全力で取り組みました。

まずは3年間、自分たちの体で生体実験をしました。牛から取った生乳を原料に、いろいろな条件でパスチャリゼーション処理したものを孵卵器で二昼夜48時間発酵させたものを毎日飲んで味や安全性を確かめました。その結果、原乳の質には、エサ、水、牛舎の衛生、飼い主の心の動きまで現れてくるほど、微妙な問題だと分かったので、提携していた酪農家には飼料から水、乳搾りの仕方、牛舎の管理法まで徹底して改善してもらい、細菌数を細かく調べてさらなる乳質向上に尽力しました。仲間の一人の大坂君は自分の赤子にも原乳を飲ませていました。それほど自信のある原乳になっていたのです。その結果、消費者にも安全性と味が認められ、開発開始から3年後の1975年(昭和50年)、日本で初めてパスチャライズ牛乳の流通化に成功したわけです。

でも基本的に日本人は牛乳を飲まなくていいと思っています。牛乳不要論が出るのは当たり前のことです。

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日本人は無理して牛乳を飲む必要はない

──日本人は牛乳を飲まなくていいとはどういうことですか?

日本人は遊牧民族ではなく定住民族だからです。定住民族として長い時間を生活する過程で腸管が長くなったりして体の構造が牛乳に合わないようになっているんです。日本人の中には牛乳を飲んだらお腹を壊してしまう人もたくさんいるでしょう。

人の赤ちゃんにとって一番いいのは言うまでもなく母乳です。母乳は殺菌処理なんかしないで生でそのまま飲みますよね。でも中には母乳が出ないお母さんもいるし、戦後急速にグローバル化が進んで食文化が多様化していく中で一般的に牛乳を飲む機会が増えました。たまたま酪農を始めた以上は、まっとうなものを出しましょうというのが私の基本的な方針です。そこをわきまえていないと、まがい物を人に強要することになります。それだけはしたくない。だから作る際も、まず自分自身や自分の子どもが食べ、飲むものならどう作るべきかを考えます。

だからパスチャライズ牛乳を作った当時も今も「パスチャライズ牛乳は大量生産できません」「日本で一番うすくて美味しくない感じの牛乳です」とうたっているし、製品のパックにも「赤ちゃんには母乳を」「お母さん方へ お母さん 赤ちゃんにはあなたの母乳を差し上げてください。母乳こそ赤ちゃんの最高の食べ物です。」と、刷り込み、牛乳を運ぶ車にも書いているのです。


──普通はそれだけ苦労して作った牛乳ならできるだけたくさん売ろうとしますよね。

だから乳牛で会社を大きくしようなんて思ってないんです。もしそれが普通だと思うなら、あなたの考え方が間違っとるんです(笑)。

山で牛を育てる

──その牛乳を作る牛も日本では珍しい山地酪農で育てているということですが、山地酪農とはどのようなものなのですか?

日登牧場の山の中に牛たちが放牧されている

1989年、有機農業を一緒にやっていた農家仲間と一緒に山の中に日登牧場を開設しました。元々は、戦後、良質な土や草のある耕地の大部分は道路になったり工場が建てられたりとどんどん少なくなっていってしまったので、牛を育てる場所が山しかなかった。それにそもそもは牛も野山にいた生き物なので、山で育てることにしたんです。

始める際は北欧の酪農思想からも大きな影響を受けました。彼らは食文化の伝統をものすごく大事にしています。7、80頭の牛を山で飼いながら、林業や農業もやるという複合経営で、牛から絞った牛乳は生にこだわっていました。

日登牧場の牛舎にいるブラウンスイス牛

牛を牛舎でつなぎ飼いにする場合、主なエサはトウモロコシなどの穀類です。そのエサはほとんどがアメリカなどからの輸入に頼っており、国際相場でトウモロコシ価格が上がればエサ代も跳ね上がります。以前もトウモロコシ価格の急騰で窮地に立たされた畜産農家がたくさんいたでしょう。そうなったときでも輸入飼料に頼らない、自給できる酪農を目指して、牛を山に放牧し草を中心に食べさせる山地酪農を始めたわけです。

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日本で初めてブラウンスイス牛を導入

ブラウンスイス牛

そのため、山地酪農に適した牛を探しました。世界には牛を野山に放牧している国がたくさんあるので、ヨーロッパを中心に世界のあちこちを訪ね歩いてみた結果、山にいたのはブラウンスイスという種類の牛でした。ブラウンスイス牛はヨーロッパで育成された品種で、足が長く乳の位置が高いから地面にすれないし、斜面の登り降りが得意なので山地酪農に適しているんです。それに牛乳の栄養のバランスがものすごくよくて、チーズを作ると歩留まりもとてもいいので、ブラウンスイス牛を飼いたかったのですが、当時日本でブラウンスイス牛を飼っている畜産農家はいませんでした。当時は農水省の規制が厳しく、乳牛としてはホルスタインしか認めていなかったのです。そこで農水省に輸入飼料に頼らない山地酪農を行いたいからブラウンスイス牛を輸入したいと話したところ、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場として認めてもらい、15頭導入しました。

牛舎は山の中腹の平地にあり、その上が急勾配の山地になっていて、朝、搾乳を終えて牛舎を出た牛は山に登って草を食み、夕刻になるとまた自分で牛舎に帰ってきます。牛一頭一頭の世話がおろそかになるので、規模を大きくするつもりはありません。目が行き届く規模がちょうどいいのです。また、あまり過保護には育てません。ある程度のひもじさ、寒さ、難儀を与えることで心身ともに健康な牛が育つのです。

また、日登牧場は障害者とお年寄りの共同就業の場にしています。一緒に牧場を作った大坂くんはクリスチャンだから、牧場を作るとき、「人は生まれてきたからには存在する意味が必ずあるから障害者と年寄りの働く場として牧場を作ろう」と言ったからです。大坂君は仕事中の事故で亡くなりましたが、牧場の入り口には「闇夜に当てどのない旅人がはるか向こうに見える灯火のような牧場にしたい」という彼の言葉が刻まれた石碑を建てました。大坂君がいなかったら今の日登牧場はありません。

たいへんなことも楽しみに変わる

──有機農法から始まり、パスチャライズ牛乳やブラウンスイス牛の導入など、日本で初めて取り組んで成功させたことがこれだけ多いってすごいですね。

日本初だからどうこうという意識は全然ありません。今ここで私は何をすべきか。それだけを考え、出した答えが有機農法でありパスチャライズ牛乳。それだけのことです。


──でも誰もやったことのないことに挑戦するのはたいへんなこともたくさんあると思うのですが、途中でやめようと思ったことはないのですか?

誰もやったことのないことをやろうと思ったら、最低10年はかかると思わなければいけません。10年するとやっと入り口が見えてくる。初めからそういう覚悟で臨みます。こらえ性がなければできないでしょうな。ただ、本当に必要なことだと思えれば、たいへんなことも楽しみに変わるもんです。


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