2015年12月アーカイブ

Share金沢

雄谷良成-近影1

──「Share金沢」は安倍首相も視察に来るなど、大きな注目を集めています。Share金沢とはどういうものなのでしょうか。

コンセプトは「高齢者も、若者も、子どもも、障害のある方もない方も、ごちゃ混ぜで楽しく暮らせる町」。約1万1000坪の敷地の中に、サービス付き高齢者向け住宅や訪問介護施設、知的障害児童の入所施設などの福祉施設、アトリエ付き学生向け住宅を設置。また、共同売店、天然温泉、レストラン、ライブハウスなどのアミューズメント施設や農園、クッキング教室など人と人との交流を楽しむ施設や機能もあります。また、クリーニング店、全天候型グラウンド、ドッグラン、アルパカ牧場などを設置し、住人同士の交流はもちろん、地域の住民たちが楽しく集える町となっています。また、各施設やお店では障害をもつ人たちが元気に働いているんです。ドッグランは近隣住民の要望で設置しました。我々が町づくりをするときは、計画段階から必ず町の中にどういう機能があればいいかを近隣住民と相談しながら作っているんです。

Share金沢は政府が推進している日本版CCRC構想のモデル事業になっています。安倍首相をはじめ、政府やいろんな地方自治体の関係者が視察に来るのもそのためです。日本版CCRCは「生涯活躍のまち」と定義付けされて、高齢者の移住先という解釈をされていますが、正確な解釈ではありません。ここが日本版CCRCのモデルになってるのは高齢者ばかりじゃなくて障害者も子どもたちも、それぞれ存在自体に意味があって、関わることでみんな元気になっていくという意味なんです。日本版CCRCのモデルはいくつかありますが、あらゆる世代にまたがって、障害のある人たちまで巻き込んで町づくりをしているのはここ、Share金沢が初めてだと思いますね。


Share金沢概要[総面積/約11,000坪]

──障害の有無に関わらず、いろんな人がごちゃ混ぜで生活するということのメリットはどういうところにあるのでしょうか。

知的障害児や高齢者たちにとっても、様々な人たちと関わることがすごく大事なんですよ。例えば障害児たちはただでさえ上手に人間関係を作るのが難しいのですが、いろんな人と自然と関われる環境においてあげるとそれがうまくできるようになる。そうすると社会に出ても周りの人びととうまくやっていける可能性が高まるんです。

また、認知症の高齢者の方にしても特別養護老人ホームのような施設に入れてしまうことが必ずしも最適な解決策であるとは思えません。なぜなら、毎日のスケジュールが決まっていて、職員に指示されるがまま日常生活をこなすというのはかなりのストレスで、一般の人が入ったら一週間も通常の精神状態ではいられないと思うからです。国や社会はそこに気づいていなくて、これから特別養護老人ホームをどんどん増やしていく方向に進んでいますが、どこかで大きなひずみが生じてくると思いますね。

それに、ひと口に認知症といっても、人によって強弱があって、この部分は認知できないけどこの部分は一般の人と同じように十分認知できるという人がたくさんいるんですよ。でも介護度によっては、全部できない人のように扱われてしまい、どんどん症状が悪化していくわけです。

梅ジュースの作成のほか、天然温泉やレストランのスタッフ、ショップでの陳列・販売など、楽しく仕事をしている利用者もたくさんいる

梅ジュースの作成のほか、天然温泉やレストランのスタッフ、ショップでの陳列・販売など、楽しく仕事をしている利用者もたくさんいる

佛子園は元々障害者施設から出発しているので、例えば下肢麻痺の人の場合は、その人が下肢以外を使ってなるべく自力で生活していくにはどうすればいいかを一所懸命考えるんですね。その考え方を応用すると、認知症の高齢者の方でもまだまだできることはたくさんあるわけです。そういう能力や得意技を探すのも私たちの役目なんですよね。例えばShare金沢のデイサービスに来ている認知症の方で、梅ジュースを作るのが上手な方がいたので、それを仕事にしてお給料をもらっている方もいます。デイサービスに来てお給料をもらう認知症の高齢者ってすごいと思いませんか? 全国的にもなかなかいませんよね(笑)。

そこに存在していること自体に価値がある

もちろん、通常の高齢者デイサービスのような過ごし方でいい人もいます。でもそうじゃない人もいる。「認知症」という病気で全員ひとくくりにして同じ扱いを受けさせることに問題があると思うんです。例えば同じ障害をもつ人でも軽度の人は自分よりも重い障害をもつ人に対して力になってあげたいと思って、元気が出たりするんです。認知症の人でも子どもと一緒にいると元気になったりするんです。それを長年、実際に見てきているので、認知症になったからといって認知症の人しかいない空間で生活するのはいかがなものかと思うんですよね。

子どもたちにとってもメリットはあります。人は年をとると、認知症までいかなくても目が見にくくなったり、耳が遠くなったり、足腰が弱くなって早く歩いたり走ったりできなくなりますよね。でも今は核家族化が進んでそういう「老い」を身近で見て学ぶ機会が少なくなっている。だからおばあちゃんやおじいちゃんと住んだことのない子どもは、うまく歩けないお年寄りを見ると「おばあちゃん、ケガでもしたの?」と思う。年を取って足腰が弱っているということが理解できないから「おばあちゃんもだいぶ年を取ったんだな、大丈夫かな」というふうに相手を思いやることができない。これは昔では考えられないことですよね。

雄谷良成-近影2

多くの人間は元気な状態である日突然死ぬわけじゃないですよね。みんなそんなふうに生きて死にたいと思うでしょうが、実際は難しい。みんな年を取るにつれて何らかの問題点を抱えながら生きていく。それは体かもしれないし精神状態かもしれないし人間関係やお金のことかもしれないけれど、周りに似たような人ばかりではなく、いろんな人がいることで人って元気になると思うんですね。

知的障害の子はたまに大声を出したりするので、近所の人は最初のうちは「あの子、落ち着きがないけど大丈夫なの?」と心配顔で言うんですが、それが当たり前になってくると元気で天真爛漫な彼らを見ていると元気になると笑顔で言うんですよ。

そういう意味では障害のある人でも認知症の高齢者でも、誰もが「そこにいる」ということだけで役割を果たせるんです。何かができるという能力的なことじゃなくて存在自体が非常に社会の役に立つと考えれば、みんなが楽しく幸せに暮らせると思うんですね。


──敷地内にアルパカがいたのには驚きました。なぜアルパカを飼うことにしたのですか?

Share金沢で飼育されているアルパカ。彼らにも立派な役目がある
Share金沢で飼育されているアルパカ。彼らにも立派な役目がある

Share金沢で飼育されているアルパカ。彼らにも立派な役目がある

元々はうちの職員の提案なんですよ。佛子園では職員から新規事業などのやりたいことを募集して、採用されれば予算も人も付ける「新規事業提案プロジェクト」という制度があります。アルパカ牧場もその1つです。

重い障害をもつ人や高齢者はどうしても他人から指示されることが多いのですが、常にそういう環境にいるとどうしても心が塞ぎがちになります。でも役割をもって少しでも他人から喜ばれることができたり、社会に貢献できる実感をもてるようになると元気になるから、そういう活動をぜひ彼らにやってもらいたい。その活動の一環として、動物の世話をしてもらうのがいいんじゃないかというのが職員からの提案だったんです。重い障害をもっていても病気であっても年を取っていてもその人自身の存在価値はある。それを私たちも忘れないでやろうということですんなり採用となり、2頭購入しました。アルパカを選んだのはおとなしくてあまり悪さをしないので飼いやすいからです。

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設計時のこだわり

雄谷良成-近影3

──雄谷さんはShare金沢の設計段階から関わったということですが、こだわった点は?

例えば住宅地の中に広い駐車場があって、夜、怪しげな車が停まっていると恐いですよね。生活の場の真ん中に恐い場所をつくると住民が安心して暮らせません。また、車が住宅地の中を頻繁に走ると子どもが道路で思いっきり遊べません。だから大きな駐車場を町の中に作らずに、入り口に作っているんです。

また、町としてはある程度統一感がないとおしゃれな感じにならないのですが、同じような建物ばかりが並んでいたら温かみがなくなるので、そうならないように工夫してほしいと建築家にオーダーしました。あとは整然と区画するのではなく、あえて裏道のようなものを作ってもらったことで、表情豊かな町になってよかったです。


──今インタビューさせていただいているこのスペースは全面ガラス張りになっていて町の様子が一望できていいですね。

ここもこだわった場所の一つです。この「ニューももや」が入っている建物は町の入口の高台にあって、ほかに天然温泉や高齢者デイサービスなどが入っています。多くの方々にここで食べたり飲んだりしながら、ここから見える町の風景を楽しんでほしいと思って建てました。ほら、今、ものすごい勢いで走っていったのがここに住んでいる知的障害の子どもです。住宅街であんなに思いっきり走ってる子ども、最近はあまり見ないでしょう? 車が走ってないからあんなに思いっきり走れるわけです。あっちのランドセルを背負った子どもはここの住民じゃなくて近所の小学校に通ってる子です。あの子たちはここが通学路とか遊び場になっているんですね。学校もここを通っていいよと子どもらに言っています。車があまり通らないからほかの道を通るよりも断然安全ですからね。その向こうに犬と一緒に歩いているのが最近、ご主人が亡くなったのを機にオーストラリアから犬と帰国してサービス付き高齢者住宅に入ってきたおばあちゃんです。人生の最期は日本で暮らしたいとインターネットで調べてShare金沢を知り、余生を過ごすにはすごくいいと思って来たそうです。今入って来た方は近所に住んでいる方ですね。ここは多くの方の散歩コースになっていて、ここを歩くと気持ちがいいとみなさんおっしゃいます。それは環境もありますが、人との関係性、適度な距離感、雰囲気、表現できないやさしさのようなものを感じ取っているからだと思います。

高台に建つロケーションを活かし、大きな窓から眼下に町の景色を楽しめる「ニューももや」。お風呂上がりのビールやお酒、おつまみも充実している

高台に建つロケーションを活かし、大きな窓から眼下に町の景色を楽しめる「ニューももや」。お風呂上がりのビールやお酒、おつまみも充実している

町の中心部には共同売店があって、いつも同じ店員がいるんですが、住民にとってその安心感はすごく大きいんです。店内にはテーブルと椅子があるのでだいたいいつもあそこで住民たちが歓談しています。ほら、今も売店内で高齢者や学生が一緒に何か話してますよね。これが日常的な風景なんです。この共同売店は離島振興の手法です。沖縄の離島ではみんなでお金を出しあって売店に自分の好きな泡盛や食品、お菓子、雑誌などを置く。つまり自分たちのためのお店を作るわけです。同時にそこが島民たちの社交場としても機能します。離島だけじゃなくて昔の日本は共同売店が各地にあってああいう光景が普通に見られていました。あの売店はそれを復元するために作ったわけです。

Share金沢 共同売店

こんな感じで、老若男女、障害をもってる人、もっていない人、ここに住んでる人、近所の人など、いろんな人たちが、特に密に関わるわけでもなく同じ空間に自然に混在している。このこと自体がすごく大事で、この風景をコーヒーを飲みながら眺めるのが好きなんです。ずーっと見ていても飽きないんですよね。この町から子どもがいなくなるとここのよさは失われます。同じく高齢者、学生など、今Share金沢にいるどれか一つが欠けてもダメ。ここのよさはみんながいるからこそ出ているんです。


──これだけの広い土地にいろいろな施設を建設して温泉まで掘るためには莫大なお金が必要ですよね。

私たちはたくさんお金をもっていたからShare金沢をつくれたわけではありません。全部借金なんです。私と常務が銀行の借用書に判子を押してますが、一生かかってもこんな大金は返せません。お金がなくても実現可能な方法をいろいろ考えて実行した結果なんです。


お母さんと乳幼児をサポートする「産前・産後 ケア金沢 子育て応援 1.2.SUN」
自然体験を通して子どもたちと青少年への心の教育を行っている「NPO法人ガイア自然学校」

Share金沢にはさまざまな施設が入っている。左/お母さんと乳幼児をサポートする「産前・産後 ケア金沢 子育て応援 1.2.SUN」 右/自然体験を通して子どもたちと青少年への心の教育を行っている「NPO法人ガイア自然学校」

雨天でも遊べる全天候型グラウンド
アトリエ付き学生向け住宅。金沢美大生がアメリカ製キャンピングトレーラー、エアーストリームで生活してつつ創作に打ち込んでいる。住人にも開放されていて、作家のたまごたちのアートワークを応援できる

左/雨天でも遊べる全天候型グラウンド 右/アトリエ付き学生向け住宅。金沢美大生がアメリカ製キャンピングトレーラー、エアーストリームで生活してつつ創作に打ち込んでいる。住人にも開放されていて、作家のたまごたちのアートワークを応援できる

手に負えないことがうれしい

──Share金沢を作ってよかったと思うことは?

予想もしなかったことが次々起こることがすごくうれしいですね。例えば、先日もShare金沢内にあるレストランでジャズのコンサートが開かれてみんな一緒にお酒を飲んだんですが、ここに住んでる人が「いつものやつお願い」と言って頼んでいる飲み物がメニューにないんですよ。いつの間にかレストランのオーナーと住民が仲良くなって住民独特の裏メニューみたいなものが生まれてるんですよね。あと、お願いしてないのに住民の人たちが子どもたちに卓球を教えてたり。今までの施設では考えられないことが起こっているんです。

佛子園だけではなく、いろいろなNPOやボランティア団体、住民の方々がこの町の運営に主体的に関わって、自分たちで新しい町を作っている。この町は生き物のように常にどんどん変化しているので、もう私たちがコントロールしようなんてことは不可能。その私たちの手に負えなくなっていることがおもしろいしすごくうれしいんですよね。

──手に負えないのがうれしいとはどういうことですか?

雄谷良成-近影4

私たちは長年、たくさんの福祉施設を運営してきた福祉のプロなので、施設内で起こることはだいたいわかったつもりになっていたのですが、Share金沢では知らなかったことがどんどん起こる。それは単純におもしろいし、私たちにとっても新しい知見になるからです。

また、住民からは「挨拶してくれる人がたくさんいることがうれしい」という声をよく聞きます。30年ほど東京の高層マンションに住んでいてここに移って来た人は、東京ではマンションのエレベーターで偶然一緒になった人に挨拶すると怪訝な顔をされていたんだけど、ここに来たらいろんな人に挨拶されるからすごいうれしいと言っていました。でも、近所の人と挨拶するのって普通のことじゃないですか。それがうれしいという社会ってどうなのだろうって思いますよね。確かにこの社会はどんどん便利になっていますが、その一方で社会が遮断されて、人と人との繋がりや思いやりなどの大事なものが壊れていると感じます。

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本部周辺再開発プロジェクト

──現在取り組んでいる町づくりについて教えてください。

雄谷良成-近影5

Share金沢は確かにうまくいっていますが、これだけのものを次々と作っていくのは土地の確保や資金的にも不可能です。そこで、すでにある町の中に、障害者や高齢者、子ども向けのいろいろな施設を点在させて、町全体をいろんな人が一緒に暮らせるShare金沢のようにしてしまおうというのが、現在取り組んでいる佛子園の本部周辺の再開発プロジェクトです。

10年前から始まったプロジェクトで、コンセプトは「人(の二乗)=街」。老若男女、いろんな人が自然に集まる場所を中心とした町づくりで、人と人が関わることで町になる、住民みんなで町を作っていくという、基本的にはこれまで私たちが取り組んできたコミュニティづくりと同じ考え方ですね。

中心となるのが今年(2015年)4月に完成した「三草二木 行善寺」です。ここでも温泉を堀って入浴施設を作り、近隣住民の入浴料は無料としています。飲食施設も併設していて、近隣住民が気軽に集える場となっています。これまで佛子園が手がけてきた事業同様、日常の中で人のつながりをつくりだすことで地域を元気にしようというのが狙いです。行善寺周辺には障害児が暮らすグループホームやサービス付き高齢者向け住宅、病院などを設置。来年(2016年)秋には、クリニックやスイミングプール、乳児保育園などが入る複合施設「B's」が竣工する予定です。

町の中に学生向けのシェアハウスも作っているのですが、ここに自治室ができて学生や地元の人や私たちが集まってこの町をどうしていくかを話し合うなど、住民自治を積極的に進める場所になっています。これは、Share金沢よりもさらにもう一歩進んでいる点ですね。Share金沢はゆるやかな形で住民自治が行われていますが、ここは市と連携して3000人規模の町を徹底的に作り直そうとしています。これも日本版CCRCの一つのモデルになるんじゃないかなと思っています。


行善寺計画図

行善寺計画図(行善寺パンフレットより)


行善寺の温泉

行善寺の温泉

でもすんなりとここまで来たわけではありません。10年前にはグループホームの建設を計画した際、反対する近隣住民も少なからずいました。そこでまずは職員と一緒に町内会の会合や地域の清掃に参加したり、お葬式を手伝ったりと、町の人たちと積極的に交流を図りました。加えて、グループホームに入る知的障害の人の生活の様子をビデオに撮って、町の人たちに見せました。一番時間と労力をかけたのは、この知的障害の人の実態を知って理解してもらうことです。町の人が反対する理由は彼らが近くに住むと問題が起こるんじゃないかと思っているから。ただ闇雲に知的障害者たちを受け入れてくださいと言っても無理なので、知的障害者とはどういう存在で日々どういう感じで生活しているのかをきちんと説明したんです。知的障害者は急に泣いたり怒ったりすることもありますが、そういうシーンも全部見せて、こうなっている理由と、彼らは感情をうまくコントロールできないときもあることを説明すると、ああ、そうだったのかと納得してくれたんです。そうやってグループホームを1軒1軒増やしていったのですが、10年経った今では反対していた人たちが一番の応援団になってくれています。「この10年間でグループホームに入っている知的障害者が問題を引き起こすことなど全くなかったし、毎日おはようと大きな声で言ってくれるし、みんなで公園清掃もまじめにやるし、今ではいないと寂しい。あのとき反対して本当に申し訳なかった」とまで言ってくれているんです。

輪島KABULET

もう1つは輪島市と一緒に取り組んでいる町づくりです。白山市の本部周辺の再開発は「人と人が掛け合わされば街になる」というコンセプトですが、輪島の場合は人と漆が交わるとかぶれてしまう「人×漆=KABULET(かぶれ)」というコンセプトで取り組んでいます(笑)。プロジェクトの名称も「輪島KABULET(カブーレ)」。KABULET(カブーレ)とは町づくりで繋がる"かぶれ人"やイキイキした町の姿を表す言葉です。輪島の人たちと一緒に、工芸品としての漆はもちろん、気軽に触れ合える漆の活かし方をみんなで考え、日常的に漆があふれる町づくり、そして町の歴史や文化を新しい世代に受け継いでいく「人」を主役にした町づくりを目指しています。

根本的なコンセプトはShare金沢や本部周辺と同じで、高齢者や障害を持つ人、子育て世代や若者、移住者、外国人などがごちゃ混ぜになった、みんなで作る町です。このプロジェクトもShare金沢の進化型ですね。Share金沢は4年前のコンセプトなのですが、この4年間でいろいろ勉強したのでもうちょっと規模を拡大して市民全体に波及するにはどうしたらいいかを考えました。


輪島KABULET全体構想図。空き家を上手に利用しながら「今あるもの」を活かした町づくりを目指している。移住者は「緑に囲まれた静かな場所」や「朝市近くの賑やかな場所」など特色あるゾーンからライフスタイルに合わせ、住まいを選び、仕事をつくることが可能(輪島KABULET 公式Webサイトから)

輪島KABULET全体構想図。空き家を上手に利用しながら「今あるもの」を活かした町づくりを目指している。移住者は「緑に囲まれた静かな場所」や「朝市近くの賑やかな場所」など特色あるゾーンからライフスタイルに合わせ、住まいを選び、仕事をつくることが可能(輪島KABULET 公式Webサイトから)


──具体的にはどんな感じで進めているのですか?

空家などすでに町の中にあるものをリフォームして、温泉施設や蕎麦屋、外国人シェアハウス、相談センターなどの多世代交流拠点や住民自治拠点、販売所、障害者就労支援サービス、児童発達センター、サービス付き高齢者向け住宅、グループホームとして利用する予定です。

電動カート

電動カート

そして日本で初めて、移動手段としてゴルフ場などで使われている電動エコカートをナンバーを取得して走らせます。これにより、高齢者や障害者など車を運転できない方々の生活の足としての活用はもちろん、観光客など輪島に関わるすべての人々が積極的に町に繰り出せるようになります。

輪島市の代名詞的存在である輪島塗は高級美術工芸品で一般の人はなかなか買えないし使えませんが、漆塗り自体は4000年というものすごく長い歴史があって、昔は漆でいろんなものを加工していました。それを現代に蘇らせようと、高齢者のサービス付き住宅を皮切りに道路の看板や標識、電動カートも全部漆塗りにしていきます。道具も漆塗りのものをみんなで日常的に使い、いたんだら無償で直す。このように輪島の伝統である漆を身近なものにすることによって、輪島という町をみんなが誇りを持てる町にしたいと考えています。

そのためには漆についてのエキスパートをたくさん育てる必要があります。そこで「輪島KABULET」認証システムを作りました。輪島市の職員であっても漆の質問にきちんと答えられないと輪島KABULET認証はもらえません(笑)。そういう人を増やして、本物にこだわった町づくりを推進していきたいと考えています。


輪島KABULET認証システム

輪島KABULET認証システム


現在、町づくりの核である高齢者支援、障害者支援、子育て支援事業に関する仕事を通して地域づくりに一生をかけてみたいという熱い志をもった方を募集しています。移住者は「緑に囲まれた静かな場所」や「朝市近くの賑やかな場所」など特色あるゾーンからライフスタイルに合わせ、住まいを選び、仕事をつくることが可能です。特に青年海外協力隊の経験者など、地域おこしの経験があり、いろいろな特技をもった若者は大歓迎。私は青年海外協力協会の理事長でもあるし、私自身も元青年海外協力隊員ですので彼らと一緒に輪島を元気にしていきたいですね。

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青年海外協力隊時代の経験

──やはり町づくりにおいては青年海外協力隊員時代の経験は生きているのでしょうか?

輪島KABULET認証システム

ものすごく生きてますね。基本的にはShare金沢や輪島市の町づくりのノウハウの中にはPCM(プロジェクト・サイクル・マネジメント)という開発援助手法が入っています。それは必ず住民に当事者意識をもってもらって参加させながら地域おこしをしていくというものです。

一番いけないのは協力隊員が現地の人に何でも教え込むことです。このやり方では現地の人が協力隊員に依存してしまうのでどんなプロジェクトでもだいたい失敗します。青年海外協力隊はいつかその地を離れるので、その後も現地の人たちでプロジェクトを継続してやっていかなければならない。だから最初から現地の人と一緒に問題点を共有しながらどういうふうにやっていくかを考え、手を貸したくてもぐっとこらえ、最終的には地元の人間たちに自主的に判断させて実行させなければいけないんです。これが結果的に今、私たちが取り組んでいる町づくりに生きていると思います。

西圓寺(前編参照)でも、譲渡を受ける条件の1つとして、住民のみなさんが自分たちの施設として主体的に関わっていくことを挙げたのはこういうわけです。やっぱり町づくりって住民一人ひとりが主役なので、誰かにやってもらうという姿勢では長続きしないんですよね。Share金沢では温泉が今年(2015年)の4月にオープンしたのですが、オープニングセレモニーは運営側の社会福祉法人の人間は関わっていません。全部地元の人が企画して、我々の代表はひと言挨拶しただけです。Share金沢は住民が自分たちの手で守っていくと思ってくれています。

この、住民に当事者意識をもたせることが一番重要で難しいんです。Share金沢のロゴマークは、町の中にある要素を全部入れ込んでいて、それを外から見ている黒衣が小さく描かれているのですが、これが我々。つまり、表には出ないで裏で支える黒衣役。介護に関しても、福祉の人間が自分でいろいろやっちゃう方が簡単で楽なのですが、それだと要介護者がどんどんダメになっていってしまう。要介護者が身の回りのことは極力自分でやるという気持ちを大切にして、それを見守る方がずっとレベルの高い介護なんです。

Share金沢ロゴマーク

Share金沢ロゴマーク。外の右下にいる小さな黒衣が雄谷さんたち運営者

多岐にわたる活動

──今、雄谷さんは、社会福祉法人佛子園の理事長、日蓮宗普香山蓮昌寺の住職、Share金沢の理事長などいろんな肩書、職務がありますが、日々どういう働き方をされているのでしょうか。

雄谷良成-近影4

最近は活動が多岐にわたっており、講演依頼も多いので、全国各地を飛び回る毎日です。月の3分の1は県外でしょうか。東京も多いですね。講演のテーマはやっぱり地方創生や町づくりについてですね。地方創生といっても何をしていいかわからないという自治体が多いんですよ。Share金沢のようなケースも他にないですしね。

出張がない日は、お寺の住職として毎朝5時くらいに起きて準備をして、6時くらいから1時間ほど朝のお勤め、お堂でお経を上げます。その後掃除をして朝ごはんを食べて、檀家さんのお月参りに行きます。もちろんお葬式や法事、お寺の行事の際には住職としての務めを果たします。その後10時頃から白山市の佛子園本部に出勤して理事長としての仕事をします。各施設、部署から上がってくるいろいろな議題・申請に対する決済や経営の方向性の決定、進行中のプロジェクトの確認、新しい企画の検討、職員の採用などいわゆる一般企業の経営者と同じような仕事ですね。職員がやりたいことを自由にのびのびやってもらう環境をつくるのが私の役目なので、基本的に仕事は職員の自由意志に任せています。それから全国の市町村や政府から視察に来るのでその対応も重要な仕事です。

20を超える施設を経営しているので、いろんな人から商売上手ですねとよくいわれるんですが、そうじゃないんです。お金儲けのノウハウなんて全くありません。私たちは人集めのプロというか、人と人を関わらせていい場を生み出すプロで、結果として売り上げが上がるのはそこにいい人材が集まってくるからなんです。言い方を変えれば、大人も子ども認知症の人も障害者の人もみんなが自由に集まって一所懸命になれるような仕組みや環境をつくることが私たちの仕事で、結果としてそこに消費が生まれるんです。


──そこまで忙しいと休みやプライベートの時間はあるんですか?

雄谷良成-近影5

基本的にないですね。私のスケジュールは法人内で公開されているので、空白があるとすぐに埋められてしまってます。あまりにもびっしりなので、よくみんなから大丈夫なんですか? と聞かれるんですが大丈夫なんですよね(笑)。毎朝お寺でお経を上げるときは、お香が焚かれた場所で、難しい経本を目で追い、木柾(もくしょう)を叩きながら、声を出すわけなので、人の五官を全部使います。それで心身ともに元気になるんです。お坊さんは長生きする人が多いのですが、このおかげだと思いますよ。

お経を上げる効能はもう1つあります。いろんな人から「どうしてそんなにアイデアが次々と浮かぶんですか?」とよく聞かれるんですが、お経を上げた後、お風呂につかっている間にほとんどの発想が生まれるんです。たぶんお経を上げて五官をフルに使うことで脳がすごく活性化してるんでしょうね。大きな声を出すのもすごく大切なことだと思いますね。前はそれほどでもなかったのですが、最近はとみにそう感じます。ありがたいことです。


──働くことや働き方に関して大事にしてきたことは?

例えば社会福祉法人の理事長としては、人を育てられる人を育てたいと思ってずっとやってきました。能力をもった人を育てるのはそんなに難しいことじゃない。例えば社会福祉法人の事業をうまくやれる人を育てるのはそれほど難しくはありません。大抵のことは教えればできるので。一方、人を育てるというのはその人自身の人格や話し方などいろんな要素が必要とされるから非常に難しい。その結果が出るまでにはものすごく長い時間がかかりますしね。佛子園の常務がきちんと人を育てられて、後継者を作れるようになった時に初めて私は評価されると思ってます。気の長い話ですが、それでも事業よりも人を育てたい。それが私の変わらない思いですね。


インタビュー前編はこちら

多岐にわたる活動

Share金沢にて

Share金沢にて

──まずは雄谷さんが現在取り組んでいる活動について簡単に教えてください。

大きくわけて「社会福祉法人 佛子園(ぶっしえん)」の理事長と、「公益社団法人 青年海外協力協会」理事長、「日蓮宗 普香山 蓮昌寺」の住職という3つの職務があります。佛子園は「高齢」「障害」「児童」の領域でさまざまな社会福祉事業を行っています。例えば地域のコミュニティの拠点となっている「三草二木 西圓寺」、広い敷地内にさまざまな人が働き、生活できる1つの町「Share金沢」の運営のほか、白山市にある佛子園本部周辺での地域住民の皆さんが共存する町づくりや、輪島市の活性化、町おこしも手がけています。それらすべてに共通する理念は、老若男女、障害のあるなしに関わらずいろんな人が楽しく生き生きと暮らせる町を作るということです。


──なぜそのような多岐にわたる社会福祉活動に取り組むようになったのですか?

その原点は私が生まれた家にあります。私の祖父は日蓮宗 行善寺の住職で、宗教誌の販売をしながら孤児を引き取って育てていました。1960年に、知的障害児の入所施設である社会福祉法人仏子園を開設。私も生まれてから小学校中学年までは施設の中で障害児たちと一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、寝ていました。自分の家族よりも彼らと過ごす時間の方が圧倒的に多いという環境で育ったんです。両親は24時間365日、施設の仕事をしていましたから。

開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた 開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた

開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた

1部屋に10人くらいで寝起きしていたので、集団生活のいいところも悪いところも見てきました。落ち着きのない子に夜中の2時くらいによく頭を踏まれていたのであまりよく寝られませんでしたね(笑)。そういう環境だったので、集団行動に関しては物怖じしなくなりましたが、一方で疑問も感じていました。

例えば私は毎朝施設から小学校に通っていたわけですが、当時、彼らは学校に行かなくてもよかった。正確に言うと、彼らは障害をもっていることで就学免除という名のもとに授業を受けさせてもらえなかったわけです。障害者がまともに教育を受けられるようになったのは1979年、特別支援学校、いわゆる養護学校の制度ができてからです。それ以降も、養護学校がない地域では障害者は教育の場から排除されてきました。そういう時代が長かったんですよ。

でも小学生だった当時の私はそんなこととは露知らず、どうしてこの子たちは学校に行かなくていいんだろう、うらやましいなあと思っていました。そういう子ども時代を通して、どうして障害児たちは理解不能な行動を取るんだろうとか、たくさんの疑問があったので、その謎を解き明かしたいと金沢大学教育学部に入学して、障害者の心理について勉強しました。卒業したら特別支援学校の先生になる人が多いのですが、当時かわいがっていただいた教授に、「雄谷はどう転んでも先生になるタイプじゃないよな」とよく言われていて、自分でもそう思っていました(笑)。

実家の社会福祉法人は、いずれ継ぐつもりでしたが、まだまだやりたいことは山のようにありましたので、卒業してすぐに継ぐつもりはありませんでした。私は特別支援学校の教員免許を取っていたので、特別支援学級のカリキュラムをゼロから作って学級を立ち上げ、教師として1年半ほど勤務しました。

青年海外協力隊員としてドミニカへ

雄谷良成-近影2

その後、障害者教育のスペシャリストを育てたいと思い、青年海外協力隊に応募しました。当時、応募資格として「障害者施設での経験が5年以上」とされていたのですが、22年と書いて提出しました。するとやはり面接の時に面接官から「君が特別支援学校で勤務したのは1年半ですよね? 22年って何ですか?」と聞かれたので、「生まれてこのかた、朝から晩まで障害者と一緒に生活してきたので22年間と書きました。そこら辺の先生よりも障害者のことはよくわかってるつもりです」と生意気にも答えたら、採用されました(笑)。それから協力隊員としてのトレーニングやスペイン語の研修を受け、さらにメキシコでも訓練を受けた後、障害者教育の指導者を育てる教員として中米のカリブ海に浮かぶ島国、ドミニカ共和国に赴任しました。


──現地では具体的にどのような活動をしていたのですか?

教育うんぬん以前に、やらなければならないことが山のようにありました。私が赴任した学校には椅子も机も黒板などもないばかりか、電気や水など基本的なインフラも整備されていなかったんです。それで、まず学校の敷地を使って生徒や障害者と一緒に鶏小屋を作って鶏を育て、畑を耕してその鶏糞で野菜を作ったり、山で木を伐ってきて椅子などの家具を作りました。その鶏肉や野菜や家具を売ったお金で、電気や水を引いたり黒板を購入したんです。そうやって、受講者に指導らしい指導ができる環境が整うまでに1年半ほどかかりました。


──赴任して一番最初にしたのが養鶏ってすごいですね。

ドミニカには養鶏隊員として来たはずじゃないのに、なぜ私は一所懸命養鶏をしているのかなと思いながらやっていました。そのとき勉強したおかげで、今でも養鶏ができる自信はありますよ(笑)。

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病院まで立ち上げる

──障害者教育の指導者の育成はどのようにしたのですか?

雄谷良成-近影3

ドミニカはそもそも障害福祉という考え方がない国なので、まずは障害とは何かというところから教えていかなければなりませんでした。例えば学校の先生になろうとしている人が差別用語を使ったらダメですよね、といった至極基本的なことから始めたのですが、それが終わるまでに1年半くらい掛かりました。

青年海外協力隊の任期は基本的に2年間なのですが、地元から延長の要請があったので、その後もドミニカに留まりました。その間にサント・ドミンゴにあった大きな銀行の頭取から「自分の故郷に病院を作るために基金を立ち上げるから責任者になって病院を作ってくれ」と頼まれたので、3年弱で一度日本に戻ってまたドミニカに渡航。基金を運用しつつマイアミに行って中古ベッドを買ったり、青年海外協力隊のレントゲン医師を送り込んだりして医療過疎地に病院を立ち上げました。


──ドミニカでの経験で学んだことは?

ドミニカ共和国を含め、中南米には幸福度が高い国が多いのですが、その理由は、助け合いの精神が根付いているからなんです。私が指導していた学校には将来先生になる人や障害者などが通っていたのですが、ある人は下肢障害をもつ友人を毎日4時間かけて家と学校間の送り迎えをしていました。仕事ならともかく、日本では考えられないですよね。でもこれは別段珍しいことではなく、みんなが平気でやれる国なんですよ。

こんな信じられないこともありました。私が日本に帰るときに、全国から障害者教育の指導者が集まって成果を発表する集大成的な大会が開催されたのですが、なんと基調講演する人が会場に来なかったんです。本人にその理由を聞くと、隣の家の奥さんがカゼを引いたから看病していたと。これも日本ならバカじゃないのと言われそうなことですが、全国規模の大会で講演することよりも、隣の奥さんの方を優先することに疑問を感じないんですね。

また、ドミニカ人は割と気軽に離婚したり再婚したりするんですが、両方に連れ子がいる男女が再婚するとお互いの子どもが混ざって家族として一緒に生活することになります。これは日本でもありえる話なんですが、ドミニカ人の場合はお父さんとお母さん、どちらの血も引いていない子が家族の中にいたりするんです。それは子ども自身もわかっているけど、両親は別け隔てなく、みんな一緒に育てるのが当たり前なんです。

こんな感じでドミニカの人たちは貧しいのですが、その分やさしくて大らかで人情が厚く、仲間の連帯意識や地域コミュニティの結びつきが強いんです。私はそのまま一つ間違ったら住んでいたかもしれないと思うくらい、ドミニカが大好きになりました。日本でもこういうコミュニティを作りたいと思ったことが、後に立ち上げた三草二木西圓寺やShare金沢の原点になっているんです。

新聞社に就職

──帰国後はすぐに実家の社会福祉法人に入ったのですか?

雄谷良成-近影4

いえ、ドミニカでは裸一貫で福祉施設を立ち上げることはできたのですが、もっと地域の人たちを応援したいのにできなかったこともたくさんあって、かなりつらい思いをしました。そのためには福祉だけではなく、社会全体の仕組みを作り変えないとダメなのだと痛感したのです。日本の場合は社会保障の仕組みはしっかりしているけれど、ドミニカのような住民同士が強く結びついた「地域力」がありません。その2つをうまく組み合わせて地域を再生するためには、地域の行政、風土、経済などの全体の仕組みを把握する必要がありました。そのためには地元の新聞社に入社するのが一番近道と思い、26歳のとき地元の新聞社の北國新聞社に入社したのです。

入社後はスペイン語の通訳をしながら記事を書いたりしていたのですが、すぐにメセナや地域おこしの責任者に任命され、いろいろなイベントを企画したり、能登を活性化するための協議会を作ったりしていました。青年海外協力隊上がりなので、そういう仕事は得意なんです。これらの仕事を通じて市町村の行政長と話す機会が増え、国や県の仕組みや地方行政の特殊性のようなものが学べてとても勉強になりました。当初の狙い通り、新聞社に入社して大正解でしたね。

ただ、仕事は激務でした。毎日家に帰るのがだいたい夜中の2時か3時くらいで、翌日出勤のため8時頃に家を出るという生活パターンだったので、毎日の睡眠時間は4時間くらいでした。毎朝、妻に車で新聞社まで送ってもらっていたのですが、その短い時間が幼い息子と一緒に過ごせる唯一の時間でした。そんなある日、21階建ての新聞社のビルに着いた時、息子が「お父さんのおうちすごく大きいねえ、何階に住んでるの?」って言ったんです。とてもショックでしたね。そのときの衝撃は今でも鮮明に覚えています。なんてことだろうって(笑)。結局新聞社には6年ほど勤務しました。

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実家の佛子園へ

──そのタイミングで新聞社を退職したのはなぜですか?

雄谷良成-近影4

当時、実家の佛子園が運営する障害児施設は1つだけ、私が幼少期に育った施設だけでした。その施設から出た知的障害の人は、町の中にあるグループホームに入ったり、軽度の障害の子は就職したりするんですが、中には職場で虐待を受けて施設に戻って来る子もいたんですね。家族同然に一緒に生活したり、自分を育ててくれたような人がそうなっていることに非常にショックを受けました。例えば園から出て牧場に就職したのですが、給料も支払われず、着ている洋服も園にいた頃のままという劣悪な環境でこき使われている子もいました。その上、雇用主から顔を強く叩かれて耳が聞こえなくなっていたり、かなり精神的に追い込まれていて。その人は私の兄のような存在だったのでかなりのショックを受けました。

こんなことがあって、もう実家に戻って障害をもってる人びとが安全に暮らせる場を作らなければいけないと思い、34歳のとき新聞社を退職して、実家の佛子園に入ったんです。新聞社で働いたことで、社会福祉施設を作る仕組みはわかっていたので、県や市、財団法人などに助成金を申請して、重度の障害者支援施設「星が岡牧場」を作りました。さらに障害のある人たちが安心して働ける場を作ろうと1998年に「日本海倶楽部」を設立。その後も必要とされる施設や事業をどんどん立ち上げていきました。その中で2008年に開設した「三草二木 西圓寺」は最初に町づくりに取り組んだ事業で、Share金沢や輪島市の町づくりの原型になりました。

障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」
障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」
障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」

障害をもつ人たちの生活・就労を支援する施設「星が丘牧場」と「日本海倶楽部」

三草二木 西圓寺

──西圓寺はどういうものなのですか?

そもそものきっかけは、10年ほど前に小松市の廃寺になっていた西圓寺の檀家の方から「このままではどんどんお寺が荒れていくので何とかしてくれないか」と相談を受けたことでした。私も実家のお寺の住職で、宗派が違うので最初は断ったのですが、それでもいいですと強くお願いされて。私の方はよくなかったのですが(笑)、他に住職も見つからないし、他の檀家の方は別のお寺に移っているから、お寺としての再生は不可能だったので、せめて昔のよういろいろな人が集まる場所にしようというところから話をしました。そして、条件といったらおかしいですが、障害のある人や高齢者を排除せずに一緒にやってほしいということと、そもそも近隣住民の皆さんがこのお寺を守ってきたので、私が運営するのではなく、今までどおり皆さんが主体的に運営に関わってほしいと提示しました。すると住民の皆さんにご快諾いただいたので、佛子園がお寺の譲渡を受け、障害者や高齢者のサポート施設として再生することになったんです。

まずは檀家の方々と大掃除や修繕から始め、また社会福祉施設にするということで財団や県や市に助成金を申請。このあたりは地下に温泉があるし、住民からもみんなが集まれる温泉を作ってほしいという要望があったので、温泉を掘り、近隣住民の利用料は無料にしました。お堂には昼はカフェ、夜は居酒屋になる飲食スペースも併設。こうして2008年に廃寺は高齢者デイサービス、生活介護、障害者の就労継続支援などのサービスが利用できる社会福祉施設にして、老若男女誰でも気軽に集まれるコミュニティセンター「三草二木 西圓寺」として生まれ変わったのです。

設立以来、老若男女、障害のある人もない人も、いろんな人が温泉につかって、お堂の中に集まって飲み食いしながらわいわい話すというのが日常風景になっています。地元の農産物が買える市も定期的に開催したり、お堂ではライブやコンサートも開いているので常に人びとで賑わっています。元々お寺なので子どもたちの遊び場にもなっています。昔、お寺は日常的に町の人たちが自然と集まり、さまざまな催しが行われる場所でした。住民同士が分け隔てなく、ともに支え合い、暮らしを営むための拠り所だったお寺が今に蘇ったという感じですね。

西圓寺のお堂で風呂上がりにラムネで乾杯する地元の子どもたち

西圓寺のお堂で風呂上がりにラムネで乾杯する地元の子どもたち

西圓寺は宗教法人としては解散して社会福祉法人にしたわけですが、元檀家さんは阿弥陀如来がご本尊として置かれていた場所で手を合わせています。今でもこの場所をスピリチュアルな場所というか、心の拠り所だと思っている人は少なからずいらっしゃるんです。

また、集まってくる人の数が増えただけではありません。例えば地域の中で孤立して長年人と話してなかった一人暮らしのお年寄りも頻繁に来るようになって交流を楽しんでいるんです。こういった人と人との関わりが増えて、密になっていることがとてもうれしいんです。


──すごいですね。そうなっているのはなぜなのでしょうか?

西圓寺には銭湯の番台のような、いつも同じ場所に同じ人がいるから安心して行けるということと、重度の障害をもつ人や日常的に介護が必要な高齢者の人、子どももたくさんいるから、あまり緊張しないですむというか、自然体で人と関われる。だから近所の人とうまくやれない人にとっては自然と馴染める居心地のいい場になっているようです。

西圓寺は常に老若男女、いろいろな人がごちゃ混ぜに集う、地域のコミュニティスペースとして機能している

西圓寺は常に老若男女、いろいろな人がごちゃ混ぜに集う、地域のコミュニティスペースとして機能している


──「三草二木」にはどういう思いが込められているのでしょうか。

そもそもはお経の中にある言葉で、草木は同じように太陽の光や雨の恵みを受けていたとしても、大きいものや小さいもの、太いものや細いものなどあるけれど、いろいろな生き物たちが支え合って生きているのがこの世の中。だから障害をもって生まれた子、何の障害もない子、子どもからお年寄り、元気な人、病気の人など、世の中にはいろんな人がいるけど、だからこそ世の中がおもしろくて魅力的なものになる。それぞれ存在しているだけで価値があり、みんなで一緒に同じ場所に生きているということ自体に意味がある。そういう場でありたいという願いを込めてそう名づけました。名は体を表すというか、実際にそういうふうになってくれたのはうれしいことですよね。さらに西圓寺では私たちが予想もしなかったおもしろいことが起きているんですよ。

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西圓寺の奇跡

西圓寺ではライブなどさまざまなイベントが開催されている

西圓寺ではライブなどさまざまなイベントが開催されている

──どういうことが起きているんですか?

8年前、西圓寺が開設してすぐの頃、よく来る人の中に重度心身障害の男性と認知症のおばあちゃんがいました。重度心身障害の人は車椅子に乗っていて首は15度くらいしか動かないのですが、私たちが一所懸命リハビリをしても一向によくなりませんでした。そんなある日、認知症のおばあちゃんが、重度心身障害の彼にゼリーを食べさせようとしました。でも彼は首がほとんど動かないので、スプーンがうまく口の中に入らず、ゼリーが口の端から流れ落ちてしまいました。次の日、またそのおばあちゃんが来てゼリーを食べさせようとしたのですが、やはり同じ結果になりました。でも毎日繰り返していくうちに、1週間後にはゼリーが口の中に入るようになったんです。どうしてだろうとよく観察していたら、彼の方からも食べやすいように首を動かしていたのですが、その可動域が以前よりも増えているように見えました。おばあちゃんの方も上手になっていて、2、3週間もすると一発でスプーンが彼の口の中にすぽんと入るようになったんです。これには私や介護スタッフも非常に驚きました。

雄谷良成-近影6

さらにこのおばあちゃんの義理の娘さんから、「(おばあちゃんの)深夜徘徊が激減してとても助かっています。ありがとうございます」とお礼を言われたんです。どういうことかと聞くと、おばあちゃんは毎日障害者の彼にゼリーをあげないと彼が死んでしまうと思っているから毎朝早く起きて西圓寺に行くようになった。それからというもの夜はちゃんと寝るようになって、深夜徘徊が減ったということだったんです。

これにもびっくりしました。私たち福祉のプロがいくら頑張っても認知症のおばあちゃんの深夜徘徊癖を直せず、重度心身障害者の首の可動域も増やせなくて困っていたのを、2人の当事者が交わっただけで両方の問題が改善してしまった。この一件で、認知症の高齢者でも障害者でも自分たち福祉のプロに任せておけば大丈夫だなんて偉そうに言うのは思い上がりも甚だしいと痛感しました。当事者の方、それぞれに自分で直す力が備わっているのだから、私たちはただいろいろな人がごちゃ混ぜになって、関わりがもてる場を作るだけでいいんだと確信する大きなきっかけとなったのです。

人が集まるコミュニティのヒントを得る

もう1つ、みんなで驚嘆した出来事があります。西圓寺ができてから、その周辺地域は6年間で55世帯から69世帯に増えたんです。そこは田園地帯にある普通の集落で、それまで人口減少地帯だったのに、いきなり人が増えたことに驚きました。その理由を考えたところ、西圓寺にはいろんな人がいて、ほどよい距離で過ごせることがとても快適だった→若い人たちも地域外に流出しなくなって実家の近くで家を建てて住むようになった→それを見ていた他の地域の人も、このコミュニティは何だかおもしろそうだと思って住み始めた→世帯数増、ということではないかという結論に達しました。

普通、住む場所を決める際はいろんな条件を考慮するでしょうが、「快適にいろんな人と関わることができる場所」に惹かれて人びとが集まっているということに、私たちはこれからの町づくりのヒントを得たんです。ただ、これはコミュニティのコアとなる西圓寺という廃寺があったからこそ実現できたレアケースなので、今度はそれがないところで一から町を作ろうと思いました。それが2014年3月にオープンしたShare金沢です。


──より大きなコミュニティを作りたかったということですか?

いえ、根本にあったのが西圓寺のようなさまざまな人と関わる環境をどう作るかという視点だったので、規模を大きくしようという意識はありませんでした。本当は町の中に、障害児施設や高齢者施設、学生のアパートなどを点在させたかったのですが、法律的に難しかったので、いっそのこと町ごと作ろうかと考えたわけです。


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