2015年3月アーカイブ

原発避難者の支援に取り組む[後編]

外資系コンサルティング会社からスタート

──前編では主にSAFLANの活動についておうかがいしましたが、本業の弁護士としての仕事について教えてください。そもそもどうして弁護士になろうと思ったのですか?

学生の頃から弁護士になりたかったわけではないんですよ。早稲田大学を卒業して最初に務めた会社は現在のアクセンチュア株式会社、当時アンダーセンコンサルティングという経営コンサルティング会社でした。

これも偶然というかなりゆきで、私は大学生のときから最初はどこかの企業に就職してもいずれは独立して働きたいと思っていました。中でも記者やジャーナリストにあこがれていたので、就職活動のときに新聞社や出版社などをいくつか受けたのですが全部落ちたんです。そっちの方面には才能がないのかなと思い就職関係の資料を読んでいたら、あいうえお順で一番最初にあったアンダーセンコンサルティングが目に入りました。当時は経営コンサルティングなんて全くイメージも湧きませんでしたが、何かおもしろそうだなと応募してみたところ、面接官と意気投合して通ってしまったんですね。

私は大学時代、まじめな学生ではありませんでした。授業に出ないで麻雀ばかりやっていたので成績も悪いし、ザック担いでアジアやアフリカをふらふら旅していたら留年もしてしまったので、何が評価されたのか不思議でした(笑)。ただ、そうした経験の中で考えたことを、自分なりの言葉で語ったことが面接官にはおもしろいと映ったのかもしれません。選考の過程で出会った人たちが魅力的だったし、外資系のコンサルティング会社の人は一生勤めるという風土でもないと聞いたので、これもご縁と思って入社したんです。


──入社後はどんな仕事を?

「人」の観点に着目して経営革新を支援するコンサルティングの部署に所属していました。企業が何か変わらなくてはならないというときに、経営戦略や業務のやり方、あるいは情報システムなどさまざまな観点からのアプローチが考えられますが、いずれにしても働くのは「人」ですよね。人事制度や組織の設計、あるいはナレッジと呼ばれるような仕事のコツのようなものを、どうやって組織の共有財産として活用していくかというプロジェクトなどにも取り組みました。大企業同士の合併の際に両社の業務のやり方を統合しながらよりよいものに変えていくにはどうすればよいか、といったプロジェクトもありました。ハードワークな会社だったので、いつも深夜まで働いていましたね。大変でしたがやりがいもありおもしろかったですよ。

早稲田大学法科大学院へ

──ではなぜ辞めて弁護士の道へ?

先ほどもお話した通り、元々独立志向が強く、そう長くは会社にいるつもりはありませんでした。入社5年目くらいのときに30歳を目前にして、さて、どうしようかなと思っていたところ、法科大学院、いわゆるロースクールが創設されることを知り、興味を引かれました。というのも、例えば企業再生のプロジェクトに関わったとき、不良債権処理の現場の最も重要なシーンで弁護士や会計士が力を発揮しているのを目の当たりにしまして、経営コンサルティングに取り組む上での法的な問題解決の重要性を痛感していたからです。

また、世間ではこれまで弁護士は敷居が高いというイメージでしたが、ロースクール教育を通じてもっと庶民の間に法的なサービスを広げていこうという司法制度改革の理念もおもしろいと感じました。自分が弁護士になるかどうかは別としても、法律家を目指す優秀な集団の中で切磋琢磨することは、人脈を広げるという意味で価値があると思ったのです。それで取りあえず法律の世界に飛び込んでみようと、2004年に早稲田大学法科大学院の第一期生として入学しました。入ってみると予想以上におもしろく、のめり込みまして、法科大学院では三年間学び、2007年に修了し、司法試験に合格。一年間の司法修習を経て、2009年から東京駿河台法律事務所という事務所で弁護士として働き始めました。

生の事件に触れて弁護士に

──ビジネスのために法律を学ぶ目的でロースクールに入学したのに弁護士になったのはなぜですか?

ロースクールで色々な人に刺激を受けて、やはり自分が弁護士になりたいと思ったからです。これはロースクールに入学してよかったと思う点なのですが、ロースクールは法曹(法律を扱う専門職として実務に携わる者)を育てる教育機関なので、在学中から実務に触れる機会を与えてくれるんです。臨床法学教育というんですが、実際に現役の弁護士が扱っている生の事件に関わって、学生も一緒に依頼者の方から聞き取りをしたり訴状を作る手伝いをしたりするんです。例えば不当に勾留されていた人を釈放したり、お金を騙し取られて困ってる人にお金を取り返してあげたりすると、依頼者の方はやはりすごく喜ばれるんですね。私自身は学生ですから大したことはやっていないのですが、困っている人を助けることに少しでも関われたことがうれしかった。

このような経験を通じて、弁護士には、目の前の人が困難に直面していて、自分が手を差し伸べなければこの人は死んでしまう、大変な目にあってしまうという局面があるということを実体験として知りました。そこで弁護士っておもしろいなと思ったんです。これが弁護士になりたいと思った直接のきっかけであり、今振り返ると大きな転機ですね。

いきなり貧困問題に取り組む

──弁護士になってからは主にどのような分野を?

弁護士登録をしたのが2008年の末ころで、就職先の東京駿河台法律事務所には年明けの1月6日から勤務することになっていました。それまでの2週間ほどはやることもなく、正月にテレビで箱根駅伝を見てたんですね。そのとき、緊急速報のテロップが流れました。前年に起こったリーマンショックの影響で大手メーカーなどから解雇されたたくさんの派遣労働者が日比谷公園に集まっていて、支援するボランティアがテントを設営して政府と交渉をしているというニュースでした。当時大きな話題となった派遣村です。

日比谷公園は司法修習で1年間通った東京地裁の目の前だし、気になったので現地に見に行ったんです。もう弁護士資格はあるわけだし、何かできることもあるだろうと。その流れで巻き込まれるように活動に参加することになりました。派遣村の村長をしていた「NPO法人 自立生活サポートセンター もやい」の代表(当時)の湯浅誠さんとは、その後も何かと一緒に活動しています。

私が実際に担当したのは、解雇されて住む家もお金もない大勢の派遣労働者の方々を一人ひとり福祉につなげるお手伝いをする仕事でした。彼らと一緒に役所に行って生活保護申請をし、ちゃんと生活保護費を受給できるように役所の担当者に意見書を提出したりして交渉するんです。弁護士といっても新人でズブの素人です。先輩弁護士のやり方を見ながら、六法全書と生活保護手帳を携えて現場で必死に考えました。それが私の弁護士としての初めての仕事になったんです。

このとき集まっていたボランティアの人たちと知り合いになり、その後、東京の山谷で無料法律相談を実施するなどホームレスや生活困窮者の支援活動に関わるようになりました。2013年からは山谷に集まる生活困窮者の支援団体である「NPO法人 山友会」の理事も務めています。

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高校生のころの原体験

──SAFLANにしても生活困窮者支援にしても、そもそも河﨑さんは目の前に困ってる人や苦しんでいる人がいれば放っておけないという気持ちが強いのでしょうね。

みんなそうだと思いますよ。特別私が善意にあふれているわけじゃなくて。


──でも困ってる人の力になりたいと思っても実際に行動に移せない人もいるじゃないですか。もっと若いころからそういう気持ちがあったわけではないのですか?

そう言われて思い出してみればいくつか原体験みたいなのがあります。1つは高校生のときに、O君という友人と駅のホームを歩いていたときに、後ろの方でドスンと大きな音がしました。振り向いたらお婆さんが階段から転げ落ちていました。あまりの突然のことにびっくりして私は動けなかったのですが、彼はいち早く駆けつけて「大丈夫ですか」と声をかけ、駅員さんに連絡して対処したんですね。

もう1つ、同じくO君とショッピングセンターのアイスクリーム屋で受験勉強をサボって話をしていたときのことです。隣のテーブルにすごく体格のいい強面の父親とおとなしそうな母親と4~5歳くらいの男の子の家族連れが座りました。男の子が父親に何かを言ったとき、父親が思いっきりその子を殴り、その子は吹っ飛んで柱に頭をぶつけて泣き出しました。母親は顔をそむけています。いわゆるDV家庭でした。そのときも私は何が起きたんだろうとびっくりして動けなかったのですが、O君がすぐに立ち上がって「子どもに何をしてんだ!」とその父親に抗議したんです。見るとO君自身も涙を流してるんですよ。悔しかったんでしょうね。今思い出しても涙ぐんてしまうんですが、あのとき彼は立派だったなあと思いますね。

2つとも20年以上前の何気ない思い出なのですが、あいつは動けて俺は動けなかったなと思ったことを今でも覚えています。先にお話した阪神大震災も含めて(※前編参照)、こういった何かが起こった現場で自分自身は何もできなくて悔しい思いをしたという経験が自分の中にいくつかあって、だからできるときは何かをしないといけない、そしてそういうことができる立場になりたいと思ったことも最終的に弁護士という仕事を選んだ動機の1つとしてあるんじゃないかと思いますね。

弁護士の本能

そもそも弁護士という職業は目の前の困っている人のために取れる手段が多いし、それが社会から期待されている役割だからそうしているだけだと思いますね。医師なら目の前にケガや病気で苦しんでいる人がいれば本能的に治療しようとするでしょう。それと同じことなんですよ。

もちろん事務所を維持し、生活をしていくためには一定の収入が必要です。その、何とか生活していける程度の経営基盤を得られているのは、アクセンチュア時代にコンサルタントの仕事を通じて経営の基本的な知識を身につけていたことが大きいかもしれません。当時の人脈でいまだに仕事を紹介してくれる方が多いのも助かっています。

独立して法律事務所を立ち上げる

──最初に入った東京駿河台法律事務所では他にどんな仕事を?

もちろん生活困窮者支援だけをやっていたわけではなく、企業の経営相談全般、民事、刑事、家事などなんでも取り組みました。約4年間弁護士としての修行を積んだ後、同世代のこれはと思う弁護士に声を掛けて、2013年3月、現在の早稲田リーガルコモンズ法律事務所を設立したんです。


──なぜ自分たちで事務所を設立したいと?

東京駿河台法律事務所もすごくいい事務所だったのですが、自分たちで好きなようにゼロから新しい事務所を作り上げたいという気持ちが強かったんです。多分性格的に何でも1から自分でやってみたいんですね。今回取材いただいたこのスペースも、コモンズスペースと名付けていますが、リラックスできる空間になっているのではないかと思います。通常の法律事務所にはこういうものは作らないと思うんですが、例えばデザイン事務所とかスタートアップ企業なんかだったら珍しくないですよね。法律事務所という枠を取っ払って、事務所を設計してみたかったんです。それと、社会に対して何か新しい物事を発信していくための基地のようなものを作りたかったというのもあります。


──なぜ九段下にあるのに「早稲田リーガルコモンズ法律事務所」という名称なのですか?

早稲田ロースクールと提携関係にある法律事務所だからです。私や事務所設立メンバーの多くは早稲田ロースクールの一期生だったので、弁護士になった後も、後輩の指導をしたりと、早稲田ロースクールと良好な関係を続けていました。早稲田ロースクールで教授をしていた遠藤賢治教授が退任するにあたり、弁護士登録をして、後進の指導のための事務所を作りたいと話しているのを知り、私たちの世代のメンバーがそれに合流する形で、早稲田ロースクールの実務教育に協力する法律事務所として立ち上がった。それがこの事務所の発祥の経緯なんです。

なお、「コモンズ」というのは共有財、入会地などといった意味で、誰のものでもなく、みんなのもの、受け継がれていく価値、という意味合いをもっています。私たちがロースクールで学ばせてもらった先人の知恵やリーガルスキルを、次の世代に伝えていくための基盤のようなものを作れたら、という事務所設立の理念を込めてこのように名づけました。

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弁護士事務所の代表として

早稲田リーガルコモンズ法律事務所のメンバーのみなさん

──弁護士事務所の代表としてはどのような仕事・役割があるのですか?

当事務所は複数の弁護士による共同経営で成り立っており、現在は私ともう1人の代表パートナー(前述の遠藤賢治弁護士)を含め16人のパートナーと2人のカウンセル、7人のアソシエイト、合わせて25名の弁護士が所属しています。パートナーは事務所を経営していくためのお金を出している出資者であり、経営の方向性について決定権をもっている共同経営者という位置づけです。それぞれ自分のクライアントをもっており、報酬も自分が働いた分だけ得ることができます。アソシエイトは経費負担のない弁護士で、主に弁護士経験2年以下の新人です。毎年早稲田ロースクールを修了して司法試験に合格した新人を数名採用しています。アソシエイトの所属期間は2年間で、その間に実力をつけて独立するなり、他の事務所に移るなり、次のステップへ進んでもらうということになります。

当事務所は個人事業主の集まりのような感じで、いわゆる一般の企業のようにトップに社長がいて、以下副社長、専務、部長、課長......というようなピラミッド型の組織にはなっていません。あえて例えるなら、パートナーがドーナツ状に広がって輪をなしていて、養成対象であるアソシエイトがその輪の真ん中でパートナーに包まれている、という感じでしょうか。極めてフラットな組織だと思います。

ですから私は経営者という立場ですがトップダウンではなく、経営方針など重要な議題は16人のパートナーで議論して決める合議制です。私の代表としての一番大きな役割はその場のコーディネーションですね。


──意見をまとめるのがなかなかたいへんそうですね。

そうなんですよ。最高裁の大法廷でも15人ですからね。16人もいれば当然考え方も多様ですから、合意形成にはどうしても時間がかかります。その辺りの苦労はありますが、花見やバーベキューなど定期的に事務所イベントを開催したり、部活動を推奨したり、お互いリラックスしてコミュニケーションを取れる場を設けるなど人間関係をしっかり作るような努力をしているので、今のところパートナー間で目立った対立があるわけでもなく、スムーズに運営できていると思います。

一弁護士としての仕事

──いわゆる一弁護士としての仕事もしていらっしゃるんですよね。

もちろん行っています。中小規模の事業者の方々の経営相談全般、いわゆる顧問弁護士としての仕事が多いのと、あとは相続や離婚、子どもの問題などの家事事件全般を扱うことが多いでしょうか。実際にクライアントと会って相談を受けたり、裁判所の法廷に立ったりもしていますが、事件を他の弁護士と2人で受け持つ共同受任が多いです。私自身が法廷に行くのは週に2~3回程度ですね。


──早稲田リーガルコモンズ法律事務所とSAFLANとは別なのですか?

はい。この事務所とSAFLANは別物です。ただ、SAFLANのメンバーの何名かが当事務所の弁護士で、SAFLAN副代表の福田健治弁護士や、栃木県北地域での集団ADR(代替的紛争解決手続)の団長を務めている尾谷恒治弁護士も当事務所に所属しています。

弁護士としてのモチベーション

──弁護士としての河﨑さんを突き動かしているモチベーションは何なのでしょう。

絶対にこれをやらなければならないという使命感はないんですよ。基本的には、目の前に来た球を打ち返すというスタンスです。この問題はやりすごしてはいけないなと思ったら調べてみて、自分にできることがあれば関わるという感じですね。

先にもお話しましたが、SAFLANの活動に取り組んでいるのもたまたまなんです。そもそも私は環境問題の専門家でもないし原発問題にも全然興味がなかった。もしこの時代に東京にいなかったら、また、幼い子どもがいなかったらここまで入れ込んでいなかったと思います。世の中にはたくさん問題があって、どれを選んでもいいわけですが、いまのテーマに取り組んでいるのはいくつかの偶然と人の縁が重なったからだと思います。

社会全体がこうあるべきという政治的な思想や設計主義的な考えも私の中にはほとんどありません。あるのは自分が親世代から受け継いだよいものをそのままに、悪いものはちょっとだけマシにして次の世代に繋げたいという思いだけなんですよね。だから私は自分を分類するなら「保守」だと思っているんです。周囲からはそう見られていないようですが(笑)。私たちは社会の一員なので社会をよりよい形で子どもたちの世代に伝えていくことは大人の責務だと思うんです。

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仕事のやりがい

──では仕事のやりがいはどんなところに感じますか?

何か自分にできることをして、その結果誰かが困っている状態から脱してよりよい状態になって喜んでくれることにやりがいを感じます。医師が治療した人がよくなってうれしいとか、先生が教育した子どもが成長してうれしいというのと同じで、成果がすごくわかりやすいので、自己実現感も得られやすい職業だと思います。

例えば山谷に流れ着いたあるホームレスの方は、私が法律相談を受けた時には、顔は垢で真っ黒、髪もヒゲも伸び放題で本当にボロボロの格好をしていました。それが生活保護を受給できるようになって3ヶ月もすると、髪の毛を切って髭も剃って血色もよくすごくこざっぱりした格好になって、わざわざ私のところに御礼を言いに来てくれました。あまりに様子が変わっているから、言われるまで誰だかわからないということもありました。また、そうやって復活した人が、支援する側に加わってくれることもあるんです。ボロボロの状態から立ち直って人としての尊厳を取り戻すだけでも十分うれしいのに、さらに困窮してる人を支援する側に回ってくれるというのは言葉にならないくらいうれしいことですよね。

また、先日も寒い夜に神保町の脇道で土下座するように倒れこんで固まっている40代半ばくらいの男性を見かけました。思わず声をかけてみると、1週間何も食べず街を放浪しているということでした。いくら日本も格差社会が広がっているといわれていても、行き倒れている人に実際に出くわすことがあるんだと驚きました。取りあえず近くのコンビニに連れて行って、おにぎりなどを買って食べてもらい、同時にもやいや山友会などのホームレス支援の団体に連絡。その日は、私の事務所の前のビジネスホテルに泊めて、翌朝もやいに連れて行って福祉に繋がりました。

こういうことができたのも、私が弁護士として生活困窮者支援に関わっていて、もやいや山友会などの福祉につなぐ場所を知っていたからです。そこでこのような人をたくさん見てきているので、どうすればこの人がこの後生きていけるかというイメージがわくんです。ものすごく寒い夜だったので、あのとき私たちがあの場所を通りかからなかったら彼は本当に死んでいたかもしれない。彼をなんとか福祉につなげられたというのはすごくうれしいですよね。こういうことも弁護士としてのやりがいなんじゃないかと思います。厳密にいえば弁護士の仕事かどうかはわかりませんけどね(笑)。

自由な働き方

──弁護士事務所の経営者として、また一弁護士としての仕事、SAFLANの仕事など、さまざまな活動をしていますが現在はどのような働き方をしているのですか?

当事務所には出社時間やコアタイムなどはありません。何時に来て何時に帰ってもいいし、1週間くらい事務所に来なくても事務所としては問題ありません。そういう意味では自由な勤務環境ですね。もちろん仕事をきっちりやることは大前提ですが。

私の場合はどちらかといえば朝方なので早めに出社して午前中にメールチェックや裁判所に提出する書類作成などやらなきゃいけない仕事はできるだけ終わらせるようにしています。午後は裁判所に行ったり、各種打ち合わせや会議をしたり、書き物をしたり。夕方以降は勉強会や懇親会に出席していることが多いですね。週のうち1日はいわゆるノー残業デーを設け、家で家族と夕食をとれるようにと心がけていますが、達成率は半々くらいでしょうか。なかなか理想通りにはいきませんね。


──ワークライフバランスについてはどうお考えですか?

私は仕事とプライベートのバランスが取れてないと無理なので、いろいろな仕事はみんなで分担して、きっちり休日と余暇の時間を取るようにしています。基本的には土日が休みなのですが、主に子どもと遊んでいます。オートキャンプなどにもよく行きますね。もっとも、SAFLANの活動などで土日に法律相談会や集会、学会などが入ることもあるので毎週必ずというわけにはいきませんが。

自分で時間をコントロールしたい

──働き方に関して大事にしていることは?

自分で自分の時間をコントロールしたいということですね。そもそも学生時代から独立したいと思っていた最大の理由はこれなんです。会社組織の中にいると収入は保障されますが、どうしてもこの点が難しくなりますよね。だから最初に人の動きが流動的な外資系企業に入ったし、その後に弁護士になって事務所を立ち上げたわけです。おかげさまで今はそういう働き方、生き方が実現できているので幸せです。


──いわゆる組織の一員として決められたルールの元で働くというのが性に合わないということでしょうか。

というよりも、基本的に他人にああしろこうしろとあまり強制・干渉したくないし、されたくもないんです。ただ、強制・干渉を拒むということは裏を返せば手厚く手助けしてもらえないということ。私はその方がいいのですが、言われたことはきっちりやって判断自体も相手に委ねる代わりに、もっと手取り足取り面倒を見てもらいたいというタイプの人はうちの事務所は合わないかもしれないですね。弁護士として自立してやっていける人じゃないと厳しい。個人事業主の集まりですからね。


──今後の夢や目標を教えてください。

自分自身の夢や目標、これから成長したいとか何かを成し遂げたいというのはあまりないんですよね。これからも目の前に来た球を打ち返すようなスタンスは変わらないと思います。結果的にはその繰り返しの中で多くの人と出会い、自分の成長にもつながってきたんじゃないかと感じています。ただ最近特に思うのは、先ほども少し触れましたが、「再生産」には意識的に関わっていきたいということです。長男が小学生になったからもしれませんが、自分の次の世代が生きていく世界が気になるんです。

というのは、オウム事件や阪神淡路大震災が起こった1995年くらいから世の中がどんどん悪くなっている、具体的には社会が不寛容になっている気がしているからです。私の子ども時代、1980年代の日本って史上空前のいい時代だったんじゃないかなと思うんですよ。あの空気感を次の世代に少しでも残したいと思うし、その中で平等に成長の機会を与えられて、よりよい社会を作っていけるように健全に育ってほしい。そのお手伝いが少しでもできればいいなと思っています。

原発避難者の支援に取り組む[前編]

原発被災者の支援活動に取り組む

──まず現在の仕事について教えて下さい。

細かいものを含めればいろいろありますが、大きくわけて2つあります。1つは弁護士としての通常の仕事、もう1つは原発事故の被災者の方々への支援活動です。


──弁護士としての仕事については後ほどうかがうとして、まずは原発被災者の支援活動について教えてください。

2011年7月に有志の法律家で「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク(SAve Fukushima children LAwyers'Network)」通称SAFLAN(サフラン)を立ち上げ、政府指示による避難区域外の避難者(区域外避難、あるいはいわゆる「自主」避難)の方々の支援活動に取り組んでいます。現在(2015年2月)、約50名の法律家がSAFLANに参加しています。

SAFLANには大きく分けて4つの活動があります。1つ目は福島県の内外で原発事故に不安を抱える人や賠償を求める方々のための無料の法律相談会やセミナーの開催です。2つ目は、主に区域外避難の方々を対象に、原子力損害賠償紛争解決センターへのADR(代替的紛争解決手続)の申し立てを代理しています。3つ目は、区域外避難者の方々の声を踏まえて、法律的な意見書や立法提言を作成しています。政府や原子力賠償紛争審査会、国会議員への情報提供(ロビイング)を重ねることで、私たちの主張する「被曝を避ける権利」実現のための働きかけを行なっています。4つ目はウェブサイトやツイッター、YouTubeを活用して、原発事故に関連する損害賠償や、対策立法を求める動き、区域外避難に関する情報を提供する広報活動です。


──どういう経緯で原発被災者の支援活動を始めたのですか?

私自身は、原発事故が発生してすぐ避難者の支援活動に取り組んだわけではありませんでした。むしろ最初に関わったのは津波被災地の支援でした。3月の中頃に、知人から「津波で被災した病院に医療物資を届けに行くんだけど、一緒に行くか」と声をかけてもらって、もちろん行くと即答しました。とにかく自分にできることがしたいという思いと、あまりにも巨大で未曾有の災害なので現地の状況を自分の目で見ないことには始まらないと思ったからです。それで3月の終わりに医療支援団の末席に加えてもらって気仙沼、陸前高田、南三陸、石巻などの被災地を回りました。

被災地でのボランティア活動

──壊滅的な被害を受けたところばかりですね。被災地を見てどう感じましたか?

河﨑さんが被災地にボランティアで入ったときの様子(河﨑さん撮影)

それまで街があったところが何にもない状態になっていて、あちこちで煙が上がっていて、ひどい匂いが立ち込めていました。海から遠く離れた道路の真ん中に大型の船が乗り上げていたり、山の上に車が突き刺さっていたり、空を見上げれば何機もの自衛隊機や防災ヘリ、報道ヘリが空を飛び交っていました。これまで見たこともない、想像を絶する惨状をこの目で見た時はあまりの衝撃にうまく言葉にすることができませんでした。この惨状を前にこの後東京に帰って何事もなかったように日常生活を送ることできるんだろうか、と漠然と思ったことは記憶に残っていますね。

このときは1泊2日で医療物資を運ぶ手伝いなどをしたのですが、同時に大きな無力感も覚えました。弁護士ってああいう局面では何もできないんですよね。活躍できるのは医師や自衛隊、消防、警察、電気・ガス・水道のインフラ関係者といった方々で。せめて一人の労働力として何か役に立ちたいと4月に泥かきやがれき撤去のボランティアをしに何回か被災地へ通いました。

このとき、すでに福島原発はメルトダウン、水素爆発などの深刻な事故を起こして周辺住民の避難も始まっていましたが、その問題にはあえて目をつぶっていました。福島市などの町中でもガイガーカウンターで放射線量を測定すると高い値を示していて、マスクをしている人も多いんだけど、だから福島は危ないんだとは言ってはいけない気がして。何となく放射能の問題には触れてはいけないような雰囲気でしたよね。

日本でここまでの原発事故が起こったのは初めてで、当時は国や専門家からもどこがどの程度危険なのかについて明確な発表がなかったので、私たちも何が起こっているのかわからない、何だかわからないけど恐いという認識で、だから頭から排除していたという感じだったんです。


──では福島原発の問題に関わるようになったのはいつ頃、どのようなきっかけで?

ゴールデンウイーク明けに梓澤和幸という先輩弁護士(後のSAFLAN共同代表)から福島で現地の人のための無料法律相談会を実施するから参加しないかと誘われました。それまで福島の原発事故の問題をよくわからないからとシャットアウトしていたので、自分に何ができるかわからないとは思いつつ、せっかくの機会だから参加することにしました。

その相談会では横でお医者さんたちの支援グループも相談を受けていました。そのお医者さんが「今、この地の線量はこれだけあります。被曝の健康影響はよくわかっていないところも多いが、妊婦や子どもには影響が大きいのは確か。この線量が続くのであれば、少なくとも子どもや妊婦は、一時的にでも避難すべきと言わざるをえない。避難は大変な決断だし、最後は自分で判断するしかない」というような発言をしていました。当時は専門家の責任が厳しく問われていたころで、ここまで言う人がほとんどいなかっただけに、そこまで言うんだ、けっこう踏み込んだ発言をするんだなと感じました。

幼子を抱えたお母さんの一言がきっかけに

──当時は福島の人びとや県外でも原発からそれほど離れていないところに住んでいる人たちは不安だったでしょうね。

政府から避難指示が出ている区域の人びとは避難を後押しされますが、その区域外だけど被曝の危険性のあるエリアに住んでいる人びとは政府からは何の指示も支援もなかったので、本当に住み続けていいのか、避難するべきじゃないのか、とどまるにしてもその後被曝を避けてどうやって暮らしたらいいのか、などといろいろ悩んでいたわけです。しかも小さな子どもを連れた親はなおさらその不安や苦悩は大きいでしょう。その会場にもそういう不安や苦悩を抱えた人たちがたくさん詰めかけていました。

そのうちの小さなお子さんを連れたお母さんに「お医者さんは私たちのためにこれだけ踏み込んだ発言をしてくれているのに、弁護士さんは何もしてくれないんですか」と言われたんですね。決して私たちを責めるというような口ぶりではなくて、純粋に悩んでいてポロッと口から言葉がこぼれた、という感じでした。ただ、そのお母さんの言葉が僕の心に突き刺さって、すぐには何も答えられずうーんと考えこんでしまったんです。これがこの人たちのために何かしたいと思った最初のきっかけです。

大人はまだ自分で何とかできますが、子どもは無力ですからね。僕自身もその当時0才児と4歳児の父親だったのでなおさら何とかしなきゃ、ここで何か行動しなかったら人の親として、法律家としてダメなんじゃないかと思ったんです。

もう1つは、素朴な後ろめたさもありました。というのも、福島原発でつくっていた電気のほとんどは福島の人たちではなく、首都圏に住んでいる僕らが使っていたわけですね。首都圏のための電気を作っていたのに、事故が起きて苦しんでいるのは福島の人たちなわけです。その後ろめたさです。

ネットではむしろ逆方向の言説も目立っていました。「これくらいなら体に影響ない」「放射能恐怖症がむしろ福島を壊している」などと書き立てるわけです。しかし、現地で悩んでいる人たちの声を聴くと、そんな単純な二項対立の問題ではないわけです。安全地帯にいながら前線の人の悩みを揶揄する言説の不誠実さに、素朴な憤りを感じましたし、そういった憤りや後ろめたさのようなものも、今の活動に取り組み始めた動機の1つといえるかもしれません。

そんな気持ちを知り合いの法律家たちに率直に話したら、特に僕と同じような子育て世代には響いたようで、ぜひやろう! とすぐに20~30人ほどのメンバーが集まりました。その仲間たちと2011年7月にSAFLANを結成したというわけです。

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原点は阪神淡路大震災

──弁護士の中には震災の問題に関わっていない人もたくさんいますよね。河﨑さんの中に震災で困っている人を何とか助けたいという思いが強くあるということなんですか?

そうですね。ただ、それは誰もがもっている気持ちなんだろうと思います。私の場合は弁護士という仕事をしているので、それが表に出やすいというだけで。

それと僕の場合、突き詰めていくと、原点は1995年に起きた阪神淡路大震災にあるのかなと思います。震災発生時は私はまだ18歳でしたが、震災発生から半年後、多少自分にも何かできることがあるだろうと神戸の被災地にボランティアとして入ったことがあります。そこで1ヵ月ほど滞在して手伝いのようなことをしたのですが、まだ世間も知りませんし、たいしたことはできないんですね。自分としてはほとんど何も役立つことはできなかったという思いがあるんです。己の無力さを痛感し、すごく悔しかったし歯がゆかったんです。

その思いはずっと僕の中に残っていて、3.11の東日本大震災が起こったとき、大人になった今、人の親になった今の僕ならあのとき以上のことができるはずだ、やりたいと思ったんです。だから阪神淡路大震災のときに感じた無力感があるから、今、原発事故の避難者支援に取り組んでいるといえるかもしれません。

こうした体験は僕だけじゃないみたいなんですね。SAFLANの活動をしていく過程でいろいろな場所でたくさんの方々に出会うのですが、リーダーシップをとっている人の中には僕と同世代の30代後半から40代前半の人たちが多いんです。いろいろ話を聞いてみるとやっぱり阪神淡路大震災で多かれ少なかれ、僕と同じような経験をしているんですよ。若いころの経験が今に繋がっている。だからみんな同じなんだなと思って。

最近は講演に呼ばれて子どもたちの前で話すことも多いのですが、そのとき、この話をするんです。いま、震災を前にして自分には何もできなくて悔しい思いをしている人はたくさんいると思うけど、落ち込む必要はない。自分の目で見た災害の風景や今感じている悔しい気持、無力感がいつかどこかであなたの出番というときに役に立ってくれる。そのときの原動力になる。というような話をしているんです。

法律家としてできることを

──弁護士としてどういうスタンスで行動を起こしたのですか?

僕たちは法律家であって医者でも科学者でもないので、どのくらいの放射線なら安全なのかあるいは危険なのか、その答えは出せません。だからこれまで社会がどういうルールを作って運用してきたかを考えました。そこで法令の条文を調べると、原発事故が起こる前の日本国内の一般人の年間の放射線被曝限度は1ミリシーベルトだったんですね。つまり、一般人の場合、年間1ミリシーベルトを上回る放射線被曝をしないように、とルールが決められていたのです。これは国際的な基準を参照した上で、国内で決められたルールだったわけです。しかしご存知のように、事故後、たとえば福島原発から60キロメートル以上離れた福島市でも、観測された線量はこの値を大きく超えていました。

しかし、事故後、政府は年間20ミリシーベルトという線量を基準に、避難指示を出すかどうか、政府として支援するかしないかを決めてきました。ですから例えば1ミリシーベルトを超える線量下にあった福島市に対しても、避難指示は出されなかったんです。一方で、除染の対象や食品の基準などは、従来通り年間1ミリシーベルトを基準に定められています。従来からの基準を完全に撤回したわけでもないんですね。つまり、政府はダブルスタンダードなんです。

避難指示を出すかどうかの基準を年間20ミリシーベルトに引き上げた政府の説明としては、「年間100ミリシーベルト以下の被曝量での健康への影響は疫学的に証明が難しい」からだとされています。でもその説明では、論点がかみ合っていないんです。1ミリシーベルト基準を守ってほしいと求めている市民の側が言っているのは、「従来のルールを守ってほしい」ということなんです。科学的な論争ではなくて、社会的な合意の有無を問題にしているんですね。

例えば20歳まではお酒を飲んではいけないという法律がありますよね。未成年者飲酒禁止法という法律の第1条にそう書いてある。仮にあるとき権威のある学者が「19歳でお酒を飲んでも健康に影響がないことがわかりました」と発表したとします。それが科学的に正しいんだと。しかしだからといって「なんだ、じゃあ19歳で飲酒してもいいんだ!」とはなりませんよね。ルールが決まっているわけだから。ルールを変えない限り、決まっているルールに従うわけです。あたりまえの話なんですが。

社会的な合意に基づいてルールを定めるというのは、そういうことなんです。一旦定まっているルールを変えるのであれば、ちゃんと民主的な手順を踏まなければならない。つまり法改正ですね。しかし政府はそれもしないわけです。除染や食品安全の基準は1ミリシーベルトのままですから、やろうと思っても難しいとも思いますが。

本当に年間20ミリシーベルトでよいという主張に自信があるなら、ちゃんとした根拠を元に議論を経た上で法令を変えるべきなんです。でもその議論をしないままに既存の法令を事実上骨抜きにして勝手に基準を変えようとしている。それは法律家としておかしいとこれまで散々言ってきたわけです。

社会問題化を目指して

──SAFLANを立ち上げてから具体的にはどのような活動を?

最初に取り組んだのは、政府が避難を指示した区域の外側の人たちも、原発事故の被害者なんだということを、社会問題化するという取り組みです。私たちがSAFLANとしての活動を始めた2011年の7月頃に、文科省の審査会が原発賠償の基本的な考え方の素案を公表したんですが、その中では、政府が避難指示を出した区域の外側の人たちが避難しても、全く賠償されないということになっていたんです。しかし私たちは外側の人たちも被害者なんだから賠償対象にするべきだと考え、手始めに区域外の方々411世帯の11億円ほどの損害賠償の請求書を作って提出するというアクションを行いました。これは大手の新聞にも報道されて、区域外避難という問題があるんだ、ということを世間に知ってもらう一つのきっかけになったように思います。

先ほど触れた原発賠償の基本的な考え方の素案というのは、文科省の中にある原子力損害賠償紛争審査会という学者の集まりで決めていたのですが、そのメンバーの多くは法学者だったんですね。そうした方々には私たちの考えをまとめた意見書を持参して、被害の実態と救済の必要性を個別に訴えていきました。その甲斐があったのかどうかは分かりませんが、結果的には2011年の終わりに審査会は「自主避難者の損害も相当因果関係がある場合は賠償の対象とする」という追加の指針を出すに至りました。また、避難指示区域から漏れた地域の中でも福島市、郡山市、白河市、いわき市などの隣接区域は「自主的避難等対象区域」という括りを新設して、大人一人あたり8万円、子どもと妊婦は一人あたり40万円を、避難した人もしなかった人にも全員に賠償することになったんです(のちに実際に避難した人には60万円)。これは区域外避難という問題が、国の予算決定にまで影響を及ぼした瞬間でした。

この頃になると「自主避難」という言葉が新聞紙上で大きく扱われるようになりました。社会問題化に成功したわけです。これこそが僕らが最初にやりたかったことで、実現できた達成感はありました。

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賠償は現在進行形の問題を解決しない

その時点で一定の成果を得たのでSAFLANの活動は一区切りつけようかとも考えました。ダラダラ活動を続けるのはよくない、とも思っていたんですね。

しかしよく考えてみると、問題は何も解決していないわけです。原発事故によって放射性物質が広範囲に拡散してしまった影響で、長期にわたる継続的な低線量被曝、という状況自体は継続してしまっているわけですね。低線量被曝にともなう健康に対する不安は続いています。損害賠償というのはあくまで終わったことに対して被害者が受けた損害を算出し賠償する問題解決の枠組みにすぎませんから、現在進行形で起きている問題、たとえば避難するかどうか迷っている人たちをどうケアしていくのかという問題の答えにはならないわけです。

先程もお話したように同じ原発事故で損害を被ったといっても、原発からの距離や放射線量の高さによって、その損害のありようはさまざまです。被害に直面した当事者の考え方や個性といった要素も行動選択には影響を与えます。避難する人、そこにとどまる人、避難したもののその後帰ってくる人と、行動選択はさまざまなんですね。しかし、人は自分と違う選択をした人を受け入れない傾向があります。特に余裕がないときにはその傾向に拍車がかかります。同じ原発事故の被害者同士であるはずなのに、行動選択の違いによって、感情的な衝突が起きてしまう例も多くありました。子どもを連れて避難した母親に対し、「故郷を捨てた」「逃げた」などと筋違いな非難が向けられることも多かったのです。

僕らは彼らの支援活動をしているからよくわかるんですが、政府などの公的機関から何の支援もない中で避難を続けるのはものすごく大変なんですよ。多くのケースでは、父親はお金を稼ぐために線量の高い地元に残ったり別の土地に単身赴任したりして、母子で避難しています。長期にわたって家族が分断されるわけです。経済的にも安定していない中で、極度のストレスがかかる状態が継続すると、どうしても家庭内でのトラブルも増えがちです。子どもの安全のために取った避難行動がかえって子どもにストレスを感じさせてしまっているケースもあります。さりとて故郷に帰ったら帰ったで、「一度逃げたくせに」と責められることもあって、一度もつれた紐をほどくことは、簡単ではありません。

私は思うんですが、親が子どもの安全を考えて行動するのは当たり前のことで、そのこと自体が非難されるのはおかしいんですね。だから避難者の家庭が何かトラブルを抱えていたとしても、そうした行動自体を認めた上で寄り添いながら、今の状況を踏まえて一つひとつの個別の課題を丁寧にケアしていく必要があるんです。その人の家庭がどうあるのが一番いいのか、避難先で何らかの手当を受けて暮らしていくのがいいのか、地元に戻って何かをするのがいいのか、どこかに完全に移住するのがいいのか、それはその人の個性や考え方、さまざまな事情にもよるのでケースバイケースだと思うんですよ。政府は早期の帰還を強く促す方向性を明確に打ち出していますが、私はそれは間違っていると思います。

支援のための2つの方向性

政府の指定した避難区域の外側で悩める方々を支援するために何ができるのか。SAFLANでは2つの方向性があると考えました。1つはお金を集めて、避難しようとしている人たちに助成金として支給する方法です。しかしSAFLAN自体にお金はありませんし、企業や篤志家の方々とのコネクションがあるわけではありません。悩んでいたら、ソフトバンクの孫正義さんが立ち上げた東日本大震災復興支援財団が同じようなことを考えているということが分かり、その実現に協力するという形で、これは一部実現しました。

もう1つは立法という方法です。なんだかんだ言っても政府の影響力は大きい。なので国会に働きかけて被災者を支援する法律を作ろうと考えました。避難することも、その地にとどまりながらできるだけ被曝を避けて暮らすことも、いずれも選択できる個人の権利、すなわち「被曝を避ける権利」を具体化する法律を作るべきだという運動を始めました。手始めに、SAFLANで議論して法律の素案のようなものを作って当時の与野党の国会議員に送りました。

このような立法運動を2012年1月に始めたところ、同じ時期に、他にも複数の市民団体のグループや国会議員が、同じような立法に向けて活動をしていることを知りました。そうした方々と繋がり、連携しながら運動を進めていったら、その年のうちに「子ども被災者支援法」(東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律)が成立したんです。これには正直驚きました。こんなに早く法律ができるものかと。


──実際に法律を成立させてしまうなんてすごいですね。

陰に日向に多くの方が尽力されたのと、タイミングがとてもよかったのだと思います。でもその後がひどかったんです。法律はただ成立させただけはダメで、実効性をもたせるためには、具体的な基本方針を決めないと意味がありません。しかし、この法律の基本方針の策定は1年以上放置されたのです。しびれを切らした被害者の方々は、2013年8月に政府に対して「子ども被災者支援法」を具体化してくださいという訴訟を起こしました。私はその訴訟の代理人も務めたのですが、驚くことに、提訴から1週間もしないうちに、政府は基本方針案(復興庁「被災者生活支援等施策の推進に関する基本的な方針」)を出してきたんです。それまで1年以上放置していたものが、訴訟を起こしたらたった数日で出てくる。いったい今まで何をしていたんだ、と思いました。

そんな経緯で基本方針案は出されたのですが、作られるまでに時間がかかりすぎた上に、支援の対象になる地域が狭すぎたり、支援施策の内容もすでに実施されているものを寄せ集めたのがほとんどと、中身は全くダメなものでした。政権交代があったということも大きな理由の1つですが、もともと超党派の議員立法として全会一致で成立した法律だったのですから、本来は政権交代に影響されるようではダメなんですよね。どうしたらこの法律を動かしていくことができるのか、そこは我々の大きな課題です。

法律とはメッセージ

──法律はできたけど、原発避難者は何の恩恵も受けられてないってことですか?

この法律によって被害者の方々に何らかの具体的な金銭や支援サービスがもたらされたか、といわれれば、それはほぼゼロです。ただ私は法律にはメッセージという役割もあると思っているんです。法律は、この国の「主権者」としての国民が、この国の「構成員」としての国民に対して発するメッセージなんですよ。例えばある国で人種差別を禁止するという法律が成立したとしますよね。人種差別を禁止する法律が成立したからといって実際の人種差別はおそらく簡単にはなくなりません。でも、人種差別を禁止する法律ができたことによってその国の国民は人種差別をしないというメッセージを発しているんです。それが人種差別の抑止力になるし、社会の目指すべき方向を示すことにもなる。北極星のようなもので。だから意味がないわけではないんです。

それと同じように、「原発事故子ども・被災者支援法」が成立したことで、自主避難という選択は間違っていたんじゃないか、いけないことだったんじゃないかと思っていた人たちに、そうではない、あなたたちにはその場にとどまることもその場から一時的に避難したことも、避難先から帰ることも正当な権利なんだよということを明確に宣言したわけです。どんな選択も正当な権利だということが国によって公式に認められたことで、避難した人、しなかった人、戻ってきた人の対立や断絶の根拠を無効化したわけです。

そういう意味ではこの法律は、その役割の半分は果たしているとは思うのですが、避難者が実質的な恩恵を享受するところまでには至っていないのも事実で、私たちも忸怩たる思いを抱えています。ですので、法の掲げた理想を実現すべく、SAFLANも活動を続けているということになります。

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原発避難白書の作成

──現在、河﨑さんはSAFLANの共同代表として具体的にどのような活動をしているのですか?

SAFLANでは、2週間に1回くらいのペースで主要メンバーが集まって、運営会議を行っていて、その場での情報交換や議論がSAFLANの活動の一番の基本となっています。また、年に数回の総会や合宿は、より広い範囲でメンバーが参加して情報交換する貴重な機会となっています。原発被災地での無料法律相談会も継続して行ってきていますが、事故発生当初に比べると回数は減ってきましたね。一方で、さまざまな環境団体や市民団体、当事者団体などとの情報交換の場への参加は増えてきたという印象です。

共同代表といっても何か特別なことをしているわけではありませんが、個性の強い法律家が集まって活動しているので、みなが自由に持ち味を発揮できるように、調整役の役回りを意識しています。

現在も被災地での無料法律相談会を実施し、悩める人びとの話に耳を傾けている

この数年力を入れてきた活動としては大きく2つあります。1つは「原発避難白書」の編集作業です。原発事故から丸4年経っていろんなことがわかってきました。その中で大きな問題点は、原発事故にともなう避難の全体像を数字を含めて正確に把握している人が誰もいないということなんですよ。国すらも正確に把握していません。もちろん国は避難者人数を発表していますが、それは各都道府県から上がってきた数字を合計したものです。各都道府県は各市区町村から、その大元の各市区町村も避難者数をきっちりと調べて報告しているわけじゃないんです。

問題を解決するためにはまずその問題の実像を正しく認識しなければなりませんが、その大元のデータがあやふやでそれを集めて統計処理したって出てくる結果は当然あやふやなまま。それを使っても適正な対応策は打てませんよね。

だから僕らは国に原発避難者に総合的に対応する部署を作ってちゃんと調査をして正確な数字を出してくださいと何度も繰り返しお願いしているんですが、なかなかそうしてくれません。ならば、先に僕ら民間でやろうということで、SAFLANと関西学院大学の災害復興制度研究所、それに日本最大の震災支援のボランティアの連合団体である東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)の三者が共同して、原発避難白書の編集委員会を組織し、現在編集作業を進めています。今年(2015年)の6月21日、支援法ができて3年の節目を出版目標にしています。

これだけの大きな事故があってこれだけ多くの避難者が発生しているのにも関わらず、国は被害者の意見を聞いて政策を練るということをしないんですね。それがそもそもの間違いなんです。当事者抜きに問題解決ができるわけがない。逆にいえば、問題解決をする気がないから、当事者を政策形成にかかわらせないんだと思います。私たちは一貫して政策形成の過程に、被害当事者を参加させてほしいと要求しています。

福島県外の被災者の支援

──もう1つの活動は?

原発事故によって広範囲に拡散した放射性物質によって汚染されたのは福島県だけじゃないんですね。福島県の北にも南にも汚染されている地域がある。例えば宮城県の南端、飯舘村の隣にある丸森町は福島市よりもさらに放射線量が高いのですが、宮城県というだけで全く賠償の対象になってきませんでした。これはおかしいですよね。だから丸森町も損害賠償の対象にすべきというADR(代替的紛争解決手続)を一昨年(2013年)裁判所に申し立てました。こうしたADR申し立てには、SAFLANのメンバーである弁護士が、弁護団を組む形で取り組んでいます。このときは丸森町在住者の9割以上にあたる700人近くが参加して行政ぐるみで損害賠償請求を行い、去年全面的に勝ちが確定しました。福島県外でも原発事故の被災地と被災者がいるということを認めさせたわけです。

現在、同じような申し立てを栃木県の北部で行うことを考えており、その準備作業に入っています。こちらもすでに申し込みが2000世帯を越えています。このように福島県外の原発被災者支援も行っており、その範囲を広げるための活動もしているんです。

だからSAFLANは「"福島の"子どもたちを守る法律家ネットワーク」というよりも「"福島原発事故によって被害を受けた"子どもたちを守る法律家ネットワーク」という方が正確な名称という感じになっています。必ずしも福島県内の問題に限って扱っているわけではないのです。


──SAFLANとしてどのような思いで活動に取り組んでいるのですか?

僕らはこれまで原発事故の避難者にできる範囲で寄り添っていこうという思いで活動してきました。SAFLANが扱っている原発事故による「自主」避難の問題はこれまで日本に存在しなかった新しい問題です。極めて広範囲にわたって、目に見えない汚染物質が拡散し、被害は確率的なものである、という状況の中で、それを市民社会が自分の問題として受け止めてルールづくりをすることはこれまでなかったので、その1つのトライアルケースという位置づけができると思います。

現在の政治情勢では原発は再稼働する可能性が極めて高いですよね。そうすると国内で今後また原発事故が起こる可能性もあるということになります。また、国内だけではなく中国や韓国でも原発事故が起こる可能性もある。そうした近い外国での原発事故も、風向きなどを考えると決して他人事ではないですよね。私自身は、長期的なスパンで見たときには、かなりの確率で何らかの原発事故は起きるだろう、と考えています。

その懸念が現実のものとなり、日本が再び放射能に汚染されたとき、僕らが今取り組んでいるプラクティスは1つの先行事例になると思うんです。放射能という何だかよくわからない脅威に対して社会がどう対応するのかという議論そのものですから。そういう意味では過去に対するものとしてというよりも将来に対するものとしてしっかり形に残していかなきゃいけないなという意識もあって、原発避難白書などの作業に取り組んでいるという面もあります。

今後の目標というか課題という意味では、活動が長期化してきているので次の世代をどう育てるのかといった、継続して活動を続けていく上での組織づくりですね。


──SAFLANの仕事は河﨑さんの全体の仕事の中でどのくらいの割合を占めているのですか?

だいたい2~3割といったところでしょうか。残りが本業の弁護士としての仕事ですね。


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