2018年1月アーカイブ

ロボットコミュニケーターという職業

──吉藤さんの肩書きは「ロボットコミュニケーター」ですが、そう名乗っているのはおそらく吉藤さんだけですよね。この肩書きにした理由は?

吉藤健太朗-近影1

まず、私はロボットを作りたいわけでもないし、ロボットの研究をしているわけでもないので、ロボットクリエイターでもロボット研究者でもないなと。私が本質的に取り組みたいことは「対人コミュニケーション」にまつわることなんですよね。私がミッションに掲げている孤独を解消するということは、人の間に入っていく方法を考えるということ。

つまり今までコミュニケーションがうまくできなかった人が何らかのツールを使うことによってできるようにしたい。私はコミュニケーターであり、人と人をつなぐ役割を担いたいと思ってこの肩書を作りました。

それに、「ロボットコミュニケーター」なんて名乗っているのは確かに私だけですが、職業だってこれからどんどん作っていけばいいと思うんですよ。単純に自分のやってることを正しく表現する職業が世の中になかったので作っただけ。「ないなら作る」が子どもの頃からの信条で、実際にやってきたことなので。

分身ロボット、OriHime

──吉藤さんが開発したOriHime(オリヒメ)とはどのようなものなのですか?

分身ロボット・OriHime 分身ロボット・OriHime

分身ロボット・OriHime

ひと言で言うと孤独の解消を目的に作った分身ロボットです。OriHimeにはカメラ・マイク・スピーカーが搭載されており、スマホやタブレット、PCなどからインターネットを介して操作して、会話したり、置かれた場所の様子を見たり、写真を撮ったりできます。また、首を上下左右に動かしたり、手を挙げたりと感情を表す簡単な動作もできます。つまり、このOriHimeを行きたいところに置いておくと、操作する人は家にいながらにしてあたかもその場にいるように会話ができ、その場にいる人たちもその人の存在を感じることができるんです。だからこのOriHimeは距離や身体的問題によって行きたいところに行けない人にとってのもう一つの身体なんです。

コンセプトは「心を運ぶ車椅子」。私は、身体は心を運ぶ乗り物だと認識していて、高校時代に車椅子を作っていたこともあって、そう表現しています。

孤独の定義

──OriHimeは孤独の解消を目的に作ったということですが、孤独といっても人によって違いますよね?

吉藤健太朗-近影2

確かに「孤独の解消」と言うからにはまず、孤独の定義が必要です。私にとっての孤独とは物理的に1人ぼっちであることは関係なく、自分は誰からも理解されない、必要とされていないと感じて、孤独だと思ってしまっている状態のことです。このような精神異常状態に陥らないために、また、陥ってしまっても、孤独を癒やしてそこから脱出すために何か方法を探そうと思ったのがOriHime開発の原点です。


──OriHimeという名称の由来は?

遠くにいる2人が繋がる織り姫と彦星になぞらえて名づけました。一番わかりやすいかなと。最初はノスタルジックデバイスとかいろいろ考えたんですがやめてよかったです(笑)。ただ、私の愛称がオリィなので、みんなOriHimeのことをオリィと呼ぶんですよね。これは私のミスです(笑)。


──どのような場所でどのような人に使われているんですか?

OriHimeが設置されているのは主に全国の特別支援学校、フリースクール、会社などで、操作しているのは問題を抱えて自宅から出られない子どもや難病で寝たきりになっている患者さんなどですが、最近は、育児や介護などで会社に行けない人が在宅テレワークで使用するケースが急激に増えています。あとは結婚式に出席できない人にもよく使われています。また、大学の研究室との産学連携、海外、トルコのシリア人大学、デンマーク大使館などでも使用されています。

結婚式(左上)、海外旅行(右上)、授業(左下)、飲み会(右下)など、さまざまなシーンで使用されている

結婚式(左上)、海外旅行(右上)、授業(左下)、飲み会(右下)など、さまざまなシーンで使用されている

テレビ電話との違い

──離れていてもお互いの顔が見られてコミュニケーションができるインタラクティブなツールとしては、すでにテレビ電話やスカイプなどがありますがそれらとの違いは?

根本的に、我々は電話やテレビ電話は用事がある時しか使わないんですよ。これは極めて重要なことです。電話するとまず「どうした? 何の用?」って聞かれますよね。以前、遠く離れた人とでも顔を見ながら話せるから寂しくないというテレビ電話のCMがありましたが、実際にやると30分も続かないんですよ。その場に一緒にいない場合、目的のない会話ってそうそう続くものではありません。

つまり、コミュニケーションにも用がある時と用がない時の2種類があって、学校でいえば用があるコミュニケーションは授業中、用がないコミュニケーションは休み時間や放課後ですよね。そこで友達と適当に遊んだり雑談したりする。そこにみんながいるから特に目的がなくても何かをするわけです。これまでの人生を思い返した時に、印象に残っている思い出って、意外と友達や家族と雑談したり遊んだりといった他愛もない時間だったりするんですよね。つまり用がないコミュニケーション、日常にこそ価値があるんです。

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作りたかったのは居場所

吉藤健太朗-近影3

私がほしかったのは自分がリビングにいる状態です。リビングではみんなが特に用事がなくても好きなことをやってますよね。例えば漫画を読む私のそばでピアノを弾く妹がいたり、テレビを見ている父親がいたり、食器を洗っている母親がいたりと、それぞれ好きなことをやってて、その中で誰かが「そういえばさあ、今日こんなことがあってね」というところから雑談が始まったりする。その場にいる人が何を喋っているかがわかって、私も希望したらその会話に入っていける。つまり、そのような、必要がなくてもそこにいていいと思える場所がその人にとっての居場所なんですよね。

会社も同じで、会社にいるときって社員同士、仕事の話ばかりじゃなくて雑談もしますよね。それが雰囲気作りとかお互いの信頼関係の醸成のために大事だったりします。当社でもテレワークにOriHimeを使っているのですが、繋ぎっぱなしにしてるんです。デスクで仕事をしてて、その場にいない社員にちょっと聞きたいことがあった時、OriHimeが横にいればすぐ聞けるんです。その気楽さが極めて重要だと思うんですよ。もちろん、普通に雑談もできます。こんな感じで、その人の身体はオフィスにはいないけど、OriHimeを置くことで、そこに一緒に働いてるメンバーがいると感じることができるんです。

そう考えた場合、電話やテレビ電話はまさに用がある時にしか使わないコミュニケーションツールであって、自分がそこにいることによって生まれるコミュニケーションを実現するためには不十分です。だからOriHimeのようなツールを作ったわけです。つまりOriHimeはコミュニケーションのハードルを下げるというツールでもあり、そこがテレビ電話との最大の違いなんです。

デザインの理由

──OriHimeはなぜのっぺりとした一見無個性、無機質なデザインになっているのですか?

OriHime

OriHimeを見た人から「OriHimeを操作する人の顔が見えた方がいいんじゃないですか?」とか、「これから顔が見えるようにするのですか?」とよく聞かれるんですが、それが逆なんですよ。実は、OriHimeを開発する過程で、操作する人の顔がわかるモニターがあった方がいいかもと思ってつけたこともあるのですが、全然使われませんでした。なぜかというと、OriHimeを操作するシチュエーションって基本的に自宅や病院にいる時。家にいる時ってだいたい部屋着で、髪もボサボサで女性ならすっぴんじゃないですか。あと、本人の顔だけじゃなくて、子どもや散らかっている部屋の中の様子なども一緒に写っちゃう。それって嫌ですよね。だからモニター付きのOriHimeは全然使われなかったんです。

ならばとモニターじゃなくてなるべく人の顔をイメージさせようと私の顔をレーザースキャンして、シリコンマスクを作ってかぶせてみたりもしました。でも人間に近づけると、今度は本物の人間との違いが気になり始めて、その人がそこにいるという感じがしなくなったんです。

吉藤さんの顔バージョンのOriHime

吉藤さんの顔バージョンのOriHime

その一方で、我々は命のない物に対して命を感じることができます。例えば実際の命を宿していないアニメのキャラクターや演劇の主人公が死んだ時、我々は涙を流すことができる。AIのsiriやペッパーですらまだ命があるようには感じられないこの現代において、アニメや演劇は命を作ることに成功しているわけです。でも生身の人間であっても見ず知らずの人が死んだ時は、「かわいそうに」と思うくらいで涙は流しませんよね。この差は一体なんだろうと考えた時、我々は架空の命を脳内で作ってしまうことが可能だからなんですよね。また、ぬいぐるみとか愛車なども使い続けて愛着が湧いてくると「この子」とか「こいつ」とかまるで人間のように扱いますよね。これも同じ理屈です。

こんな感じでいろいろ実験を繰り返した結果、我々には命のない物に命を感じられる想像力があるので、むしろ顔や背景などの余計でリアルな情報を与えない方が、周りが想像してくれる上に、その場にその人がいるような感じがする。そして使い続けていくうちに愛着が湧いてくる。だから、あえて能面のようなデザインを採用したわけです。

販売ではなくサービスを

──御社のWebサイトを見たらOriHimeはレンタルだけのようですが、販売はしないのですか?

OriHime

はい。レンタルだけで販売するつもりはありません。世の中に流通している物の大半は販売ですが、私は販売というものがあまり好きじゃないんです。なぜならば、本当に顧客のことを考えているとは思えないからです。私は患者さんのところへよく行くんですが、意思伝達装置やコンピュータを買っても、使い方がよくわからず、購入元のメーカーに聞いても丁寧にサポートしてくれない。その結果、せっかく高いお金を出して買った製品が埃をかぶって隅っこに放置されている、という光景をけっこう見てきました。

私は物を作って何をするかが重要だと思っています。つまり私が提供したいのは、OriHimeという製品そのものではなく、その場にその人の身体はなくても、本当に実在するかのような状況や、大事な人、会いたい人と一緒にいられるという時間を提供するサービスなのです。あくまでもロボットはそのためのツールに過ぎず、ロボットだけ売っても意味がないんですよ。

OriHimeを手に入れて、思い通りにちゃんと使いこなしてもらうために、アフターフォローをしっかりしたい。そのためにレンタルにしているんです。


──月額使用料はいくらくらいなんですか?

吉藤さんの秘書の番田雄太さん。OriHimeを駆使して盛岡の自宅から仕事をしている

吉藤さんの秘書の番田雄太さん。OriHimeを駆使して盛岡の自宅から仕事をしている

契約内容によっても違いますが、1ヵ月3万円程度です。1台のOriHimeには1人だけじゃなくていろんな人が入れるので、オフィスや会議室にOriHimeを1台置いておくと便利ですよ。私の秘書は難病のため寝たきりなのですが、OriHimeで問題なく仕事をこなし、講演なども一緒にしています。また、会議をする際、顧問やアドバイザーや弁理士の先生方にはOriHimeで参加してもらっています。いちいち当社まで生身で来ていただかなくても自宅で子どもの世話をしながら会議に参加できるので好評です。移動の時間もバカにならないですからね。


──どのくらいの台数が使用されているのですか?

現在導入しているのが60社、使用されているOriHimeは200台ほどです。当社から営業はしておらず、すべて問い合わせなのですが、近年、働き方改革やテレワークの普及で特に会社からの問い合わせが急増しています。また、徐々に体が動かせなくなるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんからも毎日のように問い合わせが来ています。

生産に関しては、たくさん注文が来てもかなりのところまで耐えうるような体制を構築しているので問題ありません。むしろこれから台数が増えるとサポートの方を充実させていかなければと考えています。


インタビュー第2回はこちら

医師になりたかったわけではない

──ここからは人生の歩みについて教えてください。そもそも医師になりたいと思ったきっかけは?

岩田雅裕-近影1

その質問、取材を受けるたびに必ず受けて、何かないですかと聞かれるんですが、確たるエピソードがないんですよ。身内に医療者は誰もいないし。他の医者は具体的なきっかけがあるのかなあ。僕はそれがないんですよ。だからその質問が一番困るんです(笑)。本当にどうしても医者になりたかったわけじゃないんですよ。ただ、子どもの頃から動物が好きだったことだけは確かです。原点があるとしたらそこで、そこから実際に何になろうかと考えた過程で医者が出てきたんだと思うんですよね。医学も広く言えば生物学の中の1つですから。


──でもそこからなぜ医師の方に行ったのでしょうね。

そうなんですよね。その方向で順当に行けば動物学者とか獣医とか動物園の飼育員とかペットショップの店員とか動物にダイレクトに関わる職業だと思うのですが、どこかのタイミングで医療に変わったんでしょうね。それは解明できてません(笑)。


──高校生の頃は?

まだ高校1年生の時は生物系を引きずっていたので、ぼんやりと農学部に行きたいと思ってました。受験する時は医学部、歯学部、薬学部などいろんな学部を受けました。でも歯学部などには全く興味なかったです。


──それなのになぜ歯学部を受けたのですか?

それは当時の教育事情というか進路指導事情によるところが大きいですね。僕みたいに行きたい大学、学部が明確に決まってない人は、当時の偏差値で先生からここなら受かると言われたところをいろいろ受けるしかなかった。その中で岡山大学歯学部に合格したから行ったというのが正直なところです。


──そもそも医者になりたいと思っていなかった岩田さんが誰よりも医療の原点を大事にして海外で医療ボランティアをしているというのは非常に興味深いですね。

そうですね。もし農学部へ行ってたら絶対にこんな活動はやってないし、もしかしたらもっとリッチな暮らしをしてるかもしれませんよね(笑)。でも今の方がお金はなくても満足度や幸福度は上だと思うので、よかったと思います。

個人医院から大学へ戻る

──岡山大学歯学部を卒業してからは?

岩田雅裕-近影2

実は卒業後は自分の病院を開業するのが普通だと思っていたので、個人経営の歯科医院に就職したんです。当時は研修医制度もなかったですしね。そこに1年半勤務したのですが、将来開業するつもりなら親知らずも抜けないのはまずいと思い、岡山大学に戻って口腔外科を勉強しました。学生の頃は外科が嫌いだったので、抜歯の臨床実習も全然してなかったんです。だからまさか大学に戻って外科を勉強するとは思ってなかったし、今のようにいつも手術をやるようになるつもりで大学に戻ったわけでは全くないんです。

大学に戻った頃は口腔外科の技術を身につけるために必死で頑張っていました。でも最初は嫌いだった手術もやっていくうちに徐々におもしろくなっていきました。それと同時に、そもそも大学に戻ったのは、将来開業するために勉強しようという思いからだったのですが、手術がおもしろくなってきたので開業への意欲は薄らいで、このままずっと大学病院で口腔外科をやっていってもいいかなと思うようになったんです。

当時はやれることは何でもやっていこうと思っていたので、臨床と同時に研究にも力を入れていました。大学には研究、臨床、教育という大きな3つの柱があって、研究をやるようになると臨床から離れる人が多いのですが、僕はそれは医者としてどうなんだろうと疑問に思っていました。だからいつも昼間は他の先生と同じく外来で手術をやって、それが終わって17時くらいからやっと研究を始めて、深夜までやってたんですよ。当時はすごく忙しかったですが、充実してましたね。手術も年間100回以上やれてましたし。

驚異的な手術回数

岩田雅裕-近影3

そんな感じで岡山大学病院には6年くらい勤めて、33歳の時、その系列の広島市民病院に口腔外科部長として異動になりました。その病院で10年くらい勤務したのですが、カンボジアに初めて行ったのはこの時代、8年目の2000年6月です。2003年、また系列の岡山赤十字病院に派遣されたのですが、2005年、こんな口腔外科を作りたいから来てくれないかと請われて琵琶湖大橋病院に移籍しました。この病院からは大学とは関係のない病院です。2006年からは岸和田徳洲会病院で、ここでも口腔外科部長を務めていました。一番多く手術をしていたのがこの時代ですね。年間300回はしていました。


──部長でありながらですか? そういう医師ってあんまりいないのでは。

部長が一番働いていました(笑)。大学病院は手術日も少ないし、医師も多いので手術をする機会はそれほど多くないんですよね。といっても年間100回はしてましたが。

2013年に辞めるまでの最後の1年間は宇治徳洲会病院にも週に3日ほど通って手術をしていました。2000年から病院に勤務しながらカンボジアなどに通っていたのは先ほど申し上げた通りです。ちなみに宇治徳洲会病院にはフリーランスになってからも週3回は通っています。


──フリーランスになったのは病院勤務に不満や疑問があったことも理由の1つなのかなと思ったのですが、そういうわけでもないのですね。

不満なんて全くなかったですよ。外の病院も含めると、手術を年間何百件もやりながら、学会発表のための研究もしていました。多忙ではありましたが充実はしていましたから。

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医師としてのポリシー

──岩田さんが生きる上、働く上で大事にしてきたのはどのようなことですか?

カンボジアの病院で

カンボジアの病院で

これはカンボジアに通うようになる前からそうなんですが、医師として必要とされる場所で仕事をするというのが僕の方針ですね。だからオファーが来ればどこでも行くわけです。

ただ今後、例えばカンボジアも発展していく過程で手術ができる医師も増えていけば、僕の活動の方向性も変わっていくでしょう。行く現場がもっと必要とされる国・地域へと移っていくかもしれません。

だから幾つになっても本当に必要とされるところで仕事をしていたい。また、ずっと停滞というのはよくないので、現地のニーズに合わせて常に変化しながら活動できればいいかなと思っています。

続けられるまでやる

──これから新しく始める活動などはありますか?

まだ具体化してないので詳しいことは話せないのですが、ミャンマー政府と新しい医療プロジェクトを進めています。どちらかといえば治療というよりも予防的なものです。

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ミャンマーの保健省の医療局長、副局長と一緒に。ミャンマーでの新しいプロジェクトについて話し合った時の一コマ

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ミャンマーの貧困地帯を視察。現地の子どもたちと一緒に

カンボジアやラオスで患者さんを見てきてつくづく思うのは、もうちょっと早く病院に来てくれたらなということ。そんな患者さんがたくさんいて、僕1人で治療するには限界があります。だから現地では専門医の育成に力を入れているわけですが、それでも全然追いつかない。中には病状が悪化しすぎてて日本でも治せないような、手遅れの患者さんがたくさんいるんです。そういう人をカンボジアで治せるわけがない。だから、育成も大事ですが、それよりもまず患者さんが病院に早く来てくれることが最優先。病気の早期発見という方向にもっていかないと治せるものも治せないですからね。もっと腫瘍が小さいうちに来てもらっていれば助けられた命もたくさんあるはずなので。こういうプロジェクトをミャンマーだけじゃなく、他の国でもやろうとしています。


──今後の目標は?

今の状態でいつまで体がもつかわからないけど、続くまでやるしかないのかなと(笑)。

小さくまとまるな

──若手医師へ伝えたいことは?

年を取ってから若い人に何か偉そうに言うつもりもないし、そうするのも好きじゃないんですが、伝えたいことがあるとすればもうちょっと広い視野をもった方がいいのかなということです。

スタディツアーなどでたくさんの若い医者と話す機会が多いのですが、夢がないというか、まあまあいい給料をもらって、ちょっといい生活ができたらそれでいいよねという、医者として無難な人生を送りたいという人が多いですよね。将来が読めない時代だから、それもしょうがないのかもしれませんが。

仕事を選ぶ時、楽してそこそこ稼げるとか、なるべくトラブルがない方がいいとか、そういう選び方になってるんですよ。例えば本当は外科をやりたいのに、患者さんと揉めることが多いからそういうのが少ない科にしようとかね。

チャレンジ精神をもてとまでは言わないけれど、もう少し夢をもってもいいのかなと思います。そのためにはもう少し視野を広げないといけないのかなと。

岩田雅裕-近影4

かく言う僕だって若い時はやりたいことがわからなかったわけで、最初から海外で医療活動をしてたわけじゃないのですが、海外にたくさん行った人間から言わせもらうと、もう少しいろんなところに行って、いろんなものを見た方がいいんじゃないのかなと思います。それは別に貧しい国じゃなくてもいいですよ。最先端のアメリカでもいい。とにかく、せっかく医者になったのだから、狭い視野で小さくまとまるのはもったいないと思いますね。

もう1つは、自分の人生を最初からあまり決めつけない方がいいんじゃないですかね。僕を見ればわかると思うのですが、なるようになるんですよ(笑)。そもそも最初からどうしても医者になりたかったわけじゃないし、外科をやろうなんて、ましてやカンボジアでボランティアで手術をするなんて全く考えたこともなかったですからね。まさかそんなことでメディアに取り上げられるなんて想像もしてなかったし。

だから何をやっても何とかなるから、何でもまずは1回やってみる。いいと思ったらそのまま続ければいいし、ダメだったらやめて方向転換すればいい。僕みたいに53歳からフリーランスの医師になれるんだからどうにかなるんですよ。医者に限らず、若い人はそのくらいでいいと思いますよ。


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