2016年6月アーカイブ

長崎オランダ村

──長崎オランダ村は、どういう経緯で手がけられたのですか?

池田武邦-近影01

長崎とは海軍時代から深い縁があるんだよ。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻でアメリカにボロボロにやられても生きて帰ってきた母港が佐世保港だった。その時、近くにあった美しい大村湾が気に入って、いつか平和な時代が来たらこんなところに住みたいと思っていたんだ。戦後はすっかり忘れていたんだけどある縁でそのことを思い出して、大村湾に行ってみた。するとやっぱりすばらしいと感じて、当時地元の役所に勤めていた神近義邦さんという方(後のオランダ村とハウステンボスの社長)を通じて大村湾の入江を囲んでいる小さな岬の先端の土地を購入。プレハブの小屋を建てて、毎年休暇のたびに通っていたんだ。

その神近さんの友人が経営する「松の井」というレストランへよく食事に行ってたんだけど、その店主から店の改修をお願いしたいという依頼を受けたことが長崎オランダ村のそもそもの始まりなんだ。改修するにあたって考えたことは大村湾の自然に調和した店にすること。店は国道に面していてみんな車に乗って来る。だから陸側を表玄関として重視して、裏にあった海はゴミ捨て場になっていた。でも僕から見たら入江の海の方が自然環境としてはるかにすばらしくて価値があった。特に松の井は大村湾の入江の一番奥の最高のロケーションだったから、海の方をメインの表玄関にして、船で海からアプローチしようと提案したんだ。従来の都市計画とはまったく逆の発想だね。こうして松の井を改修してオープンしたのが長崎オランダ村の出発点なんだよ。

完成したオランダ村を視察する池田さん(写真中央)

完成したオランダ村を視察する池田さん(写真中央)

ここから「17世紀のオランダを再現する」という発想のもと、どんどん施設が増えていってテーマパークになっていくんだけど、この発想は神近さんのものだった。鎖国時代、長崎とオランダは密接な関係にあったから、長崎といえばオランダということだったんだろうね。それから僕も実際にオランダに視察に行ったり、専門家に聞いたりして本格的にオランダの建築や国造りを勉強した。するといろんなことがわかった。例えば、オランダの国土は元々低湿地帯で、海面より低い位置に国を作っている。だから台風や高潮に備えて堤防を作って守ろうとしたんだけど、嵐が来るたびに堤防が決壊して町が何度も水害にあっている。それでもオランダは自然を人為的に排除するのではなく、共存するという思想で自然を非常に大事にして国造りを行ってきた。だから今でもオランダはあんまり近代化は進んでいないんだけど、非常に豊かな生態系が残されているんだよ。

それでオランダ村を造るときにね、こういうオランダの思想で造るべきだと提言したの。オランダの大使にもこういう話をしたらとても喜んでくれてね。でも環境を重視するとそれだけ経営を圧迫してしまう。経営のことももっと考えるべきだという神近さんとさんざん衝突してね。でも、最終的には環境の大切さをわかってくれたんだ。

本物の軍艦を造る

1983年のオランダ村の竣工式の時には当時のオランダ国務大臣のヴァン・エッケルさんが出席してくれた。その上、大帆船時代の世界最大の軍艦である「プリンス・ウィレム」号のモデルを寄贈してくれたんだ。さらに神近さんはそのモデルを見て本物を造ってオランダ村に設置しようと言い出した。船の知識をもってるのは僕だけだったから僕が「プリンス・ウィレム」号建造の発注者になって、オランダで全部造ってスエズ運河を通ってシンガポール経由で日本のオランダ村まで輸送したんだよ。その時ちょうど出張でシンガポールにいたから「プリンス・ウィレム」号に乗って日本まで帰ってきたんだ。

こういういろんなことを考えてチャレンジしたことで、オランダ村は来場者の車で付近が大渋滞するほど大成功したんだ。

1985年、オランダで建造した「プリンス・ウィレム」号をオランダ村へ輸送した頃の写真

1985年、オランダで建造した「プリンス・ウィレム」号をオランダ村へ輸送した頃の写真

ハウステンボス

──その後、池田さんは1988年、64歳の時にハウステンボスの建設に着工するわけですが、この時にすでにハウステンボスの構想があったのですか?

ハウステンボス建設中に撮影(右から2人目が池田さん)

ハウステンボス建設中に撮影(右から2人目が池田さん)

いや、それはまったく考えてなかった。そもそもは長崎県が景気対策で大村湾の入り口の一角を埋め立てて工業団地を作ったんだけど、工場が全然誘致できなくて広大な土地が放置、ゴミ捨て場になってた。当時の長崎県知事が長崎オランダ村の大成功を見て、その土地を何とか活用してくれと神近さんに泣きついたのがそもそもの始まりなんだよ。

それで調査してみるとゴミ捨て場になってたから自然環境がズタズタに破壊されていて生態系も瀕死の状態だった。しかも大村湾の一番大事な入り口だからね。大村湾ってね、すごくいいところなんだよ。世界的にも珍しい閉鎖海域でまるで大きい湖みたいな感じなんだ。スナメリというクジラも10万年前から生息している。だからハウステンボスを造る前に、このすばらしい大村湾の自然環境と生態系を蘇らせなきゃと思って土壌の改良から始めて、40万本の木を植えたんだ。

そしてハウステンボスはただのオランダのテーマパークではなく、ここに環境にやさしい21世紀の理想的な循環型都市を造ろうとして取り組んだんだ。

町づくりとして取り組む

──そのために例えばどんなことを工夫したのですか?

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ハウステンボスを訪れたジャック・ニクラウスと

当時の最先端の技術を駆使していろいろやりましたよ。例えば場内に下水浄化施設を作って、場内で使われた水をきれいにしてトイレの水として使ったり、自家発電装置も作って、場内の各施設を動かすエネルギーを自前で生み出せるようにした。大勢の人が来るからゴミも大量に出る。その量1日5トン。そのゴミ処理施設も作って、生ごみはコンポストに運んで馬糞と混ぜて場内の森や花畑の堆肥として使ったりした。

あと大きかったのは、コンクリート護岸だったのを全部取り壊して自然石の護岸に変えたことだな。自然護岸は隙間があって、陸と海の栄養が交換できるから微生物がいっぱい発生してそれが小魚のエサになる。だから豊かな生態系が作られる。陸と海の境目は生態系で一番大事でデリケートなところなんだな。それを隙間のないコンクリートで固めちゃうと水辺の境の微生物が生きられないから生態系が作られないんだよ。だから全部自然護岸に変えたわけ。あとは船で大浦湾のゴミの収集もやったな。

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ハウステンボスだけきれいになってもしょうがない

──でもそれは直接ハウステンボスの経営には関係ないですよね。なぜ莫大なお金と手間をかけてそんなことを?

池田武邦-近影02

ハウステンボスだけきれいになってもしょうがないからだよ。ハウステンボスは大村湾の一部なわけだから、大村湾の生態系を回復させ、海をきれいにすることが結果的にはハウステンボスを豊かにすることにつながるんだ。さっきも言ったけどハウステンボスは町づくり。海がきれいになると陸もきれいになるからね。だからオープンしてから15年経って大村湾は生き返って今、すごくいい海になっているし、ゴミ捨て場だったところは豊かな森になっているんだな。


──あの雪の日の思いが何十年も経って結実したわけですね。

でもいいことばかりじゃなかった。そういった環境面に莫大なお金をつぎ込んだから経営的には難しくてね。そもそも循環型の町づくりに民間企業が取り組んで利益を出すのは無理があるんだよ。本来は町づくりなんだから国がやるべきこと。僕も神近さんもある程度採算ラインに乗ったら国に寄付して本物の町にしてしまおうと考えていたんだ。でもその前、2003年に経営破綻してしまった。今は経営者が替わって好調のようだね。

ハウステンボスにて自ら操船する池田さん(1996年)

ハウステンボスにて自ら操船する池田さん(1996年)

池田研究室

──池田さんは1989年に日本設計の社長を引退して会長に、それも1994年に辞任してますよね。それからはどのような活動を?

池田研究室を立ち上げ、全国各地で講演を行っていた池田さん。「21世紀の夜明けを告げるプロジェクト」博多デザイン倶楽部にて

池田研究室を立ち上げ、全国各地で講演を行っていた池田さん。「21世紀の夜明けを告げるプロジェクト」博多デザイン倶楽部にて

そこからは本当にやりたかった21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求するべく、70歳の時に「池田研究室」というのを立ち上げて、無償で全国の地域おこしの相談に乗るようなことを始めたんだ。これも社会貢献したいという気持ちからだった。

立ち上げてから2年後くらいに秋田市役所から連絡が来てね。鵜養(うやしない)という山間集落が過疎化が進んでいてこのままだと消滅してしまうから何とかしてほしいという相談だった。それで鵜養に行ったんだけど、そのとき、大きな衝撃を受けた。日本の原風景そのものといえるくらい昔ながらの豊かな自然が残されていて、江戸時代の生活・風習・文化をそのまま伝承している集落のように見えた。故郷に帰ってきたような、とても懐かしい気持ちになったんだ。

それで、この鵜養を21世紀の日本の理想郷だととらえて、自然の恵みを受け調和する生き方を次の世代にどう残していけるかを考え、過疎化が進む山間集落を活性化するモデルにしようと積極的に関わることにしたんだ。


──具体的にはどういう関わり方をしたのですか?

秋田市役所の職員や鵜養を元気にしようという思いに共感して集まった地元の人々と一軒の空き家を拠点にして定期的に勉強会を開催するようになった。これが後に池田塾と呼ばれるようになったんだ。池田塾では地元の古老から明治、大正の日本の風景の中でどういう暮らしをしていたかを聞くことで、自然と調和した生き延びる知恵がたくさん学べたな。村の中でその学んだことを実践したりして、一時期は村がかなり活性化したんだよ。

鵜養での勉強会でレクチャーする池田さん

鵜養での勉強会でレクチャーする池田さん

古くから地元で暮らす人々からさまざまなことを学んだ(写真は炭焼き体験)

鞆の浦での活動

──鵜養以外にも印象に残っている地域はありますか?

広島県の鞆の浦もすごくいいところだったなあ。あそこの港はね、いまだにコンクリート護岸一切なしで、江戸時代に作った石造りの港をそのまま使ってる日本唯一の港町なんだよ。潮の干満でいつでも船が着けられる雁木や常夜灯も現役で活躍してるすばらしい港だよね。石造りの港だからすごく水が綺麗で生き物が豊富なんだ。昔ながらの町並みもすごく風情があって、世界遺産にしてもいいくらいだと思うよ。


──鞆の浦といえば宮﨑駿さんの監督作品「崖の上のポニョ」のモデルとなったところで、一時期、湾を埋め立てて橋を建設する計画が持ち上がっていましたが中止になりましたよね。

池田武邦-近影03

そうそう。地元の長老たちや市・県の行政は港を埋め立てて橋を作りたがっていた。でも30、40代の若手は古い町並みを守りたいと反対していた。僕個人の立場としてはもちろん反対だった。鞆の浦に数十回通って両方の意見を徹底的に聞いたんだけど、推進派も反対派も鞆の浦をよくしたいという気持ちは同じだった。違うのはその手段で、それを決めるのはあくまでもそこに暮らしてる住民なんだよね。だから僕は1996年、朝日新聞の「鞆の浦の埋め立て・架橋をめぐって」の特集に「理想都市『鞆』マスタープラン」を発表したり、住民に向けて「敬愛する鞆の皆様へ」を書いていったん鞆の浦の問題から退いたんだ。その後、反対派の若手の活動が世論の支持を集めて、鞆の浦の埋め立て・架橋は中止になったんだ。本当によかったよねえ。日本の町づくりの原点を今に生かしている日本唯一の場所だからね。

ここでも池田塾をやって、空き家の民家を借りて修復して、鞆の浦で店を始める若い人たちのリフォームの相談に乗ったり、町おこしの相談にも乗ったりしてたんだよ。例えばここには江戸時代の井戸がいまだに残っていたんだけど、初めて行った時にその井戸がゴミ捨て場になってたからゴミを除去して掃除したら、清水が湧き出て今は自然の井戸水になっている。昔ながらの井戸替えの儀式をやったわけ。

それと、ここには昔から「鞆の浦に入ったら鞆の浦のルールに従え」というルールがあって、それができる人しか鞆の浦に入れなかった。江戸時代から独立した自治区のようなところだったんだな。そのルールにもちゃんと意味があるんだよね。やっぱりその土地にはその土地ならではの作法があってそれを守った方が安心・安全に楽しく暮らせるはずだからこの思想を今一度見直した方がいいと思うよ。

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現代を生きる人々への提言

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写真左/第二艦隊海上特攻戦没者第16回合同慰霊祭にて。矢矧乗組員と(前列右端が池田さん)  写真右/海軍兵学校第35分隊会にて(最前列右から2人目が池田さん)

──池田さんから見て今の日本はどう映りますか?

いい面と悪い面の両方がある。いい面は、戦後間もない頃と比べると、社会的に自然を大事にする風潮がかなり強くなってきたこと。悪い面は現代人は贅沢に慣れすぎてるよね。もっと質素でいいと思う。


──命を投げ出して国のために戦ったのに、今の日本を見てがっかりするようなことはないですか?

そういうことはあんまりなかったなあ。それよりも戦後は珍しいことばかりで、いろんな新しいことを経験したから、そんなことを思う暇がなかったね。僕は元々好奇心旺盛で、いろんなことに興味がある。生きてると「へ~!」と思うようなことにいろいろ出会うから、これまでの人生、すごくおもしろかったよ(笑)。


──今の日本の人々に伝えたいことは?

池田武邦-近影04

近代の日本人は自然があまりにも厳しいものだからコントロールしようとした。それによって確かに近代技術文明が発達してきたんだけど、そもそもそれが根本的な間違いなんだよ。自然科学は自然を征服するんじゃなくて、自然の恵みをいかに引き出すかを考える学問。その原点に立てば自然を敬う心と一致するはずなんだ。昔の日本人はそれができていた。

やっぱりね、どんなに科学技術が進歩しても自然にはかなわないんだから、恐れ敬うという心が必要なんだよ。そもそも自然を神として敬うのが日本本来の文化で原点でしょう。古来、日本にはすべての自然のものに神が宿っているという八百万の神という思想があったわけだからね。それに、昔の日本人は人間の寿命よりもはるかに長い何百年も生きている木は神様の木、神木として注連縄を張って敬っていたし、昔の日本の集落には鎮守の森が必ずあった。でも今は随分減っちゃったでしょ? 村や町を作ったら、人々の精神的な拠り所となる空間をどこかに作らなきゃいけないんですよ。

この精神的な空間というのは村や町だけじゃなくて個人の家にも必要だと思う。個人宅の場合は神棚や仏壇がそれに当たるんだけど、若い時の僕にはそれがわかっていなかった。33歳の時に渋谷の代々木公園の近くに自分の家を建てたんだけど、神棚や仏壇を置くスペースを作らなかったんだ。その後、僕の娘が若くして亡くなったんだけど、娘を家の中に祀ろうとしたら、仏壇がなかったことに初めて気がついた。我ながらびっくりしてね。昔はどんなに貧しい家でも神棚や仏壇があったんだよ。東京の下町の長屋でもね。でも自分で設計した家には精神的な空間がなかった。これはショックだったね。大反省してすぐに神棚と仏壇を作って娘を祀った。どんなに近代化しても精神的な空間はなくちゃいけない。機能性や利便性も大事なんだけど、精神的な空間を大事にするということを忘れちゃいけないんだ。

池田さん(写真最前列左)はC.W.ニコルさんとも数十年来の親交がある。2015年のエコプロではオカムラのブースで対談を行い、自然環境保護の重要性を訴え、行き過ぎた近代技術文明の追求に警鐘を鳴らしている

池田さん(写真最前列左)はC.W.ニコルさんとも数十年来の親交がある。2015年のエコプロではオカムラのブースで対談を行い、自然環境保護の重要性を訴え、行き過ぎた近代技術文明の追求に警鐘を鳴らしている

こういうことは近代的な合理主義からいったらほとんど何の意味もないように思えるけど、実はそれが日本の原点。その考え方を近代技術文明が進めば進むほど大事にしていかなきゃいけないと思うよね。自然に逆らって近代建築を推し進めると痛いしっぺ返しを食らう。それは阪神淡路大震災や東日本大震災を見ても明らかでしょう。


──東日本大震災の被災地の中には、もっと防潮堤を高くする工事を行っている町もありますが。

防潮堤の嵩上げは神に対する冒涜だと思うよ。どんなに人間の力で高くしたって、それを自然の力は簡単に上回る。だからあくまでも自然を畏れ敬って、逆らわないで生きていくことが大事なんだよ。

それに、現代の近代技術文明が発達するにつれて、つまり人間の暮らしが便利になるにつれて、自然と人間の生活がどんどん乖離している。これは大きな落とし穴だと僕は思うね。近代技術文明が便利だからといって、健康な若い人が盲信してどっぷりハマると精神が堕落してしまう。そのことをはっきりと峻別して、自分がどういう人生を送るべきかを考えることが重要だと思う。これが僕の一番伝えたいことだね。

人間も自然の一部

池田武邦-近影05

これまで話した通り、太平洋戦争末期、沖縄海上特攻で乗っていた矢矧が沈められて海を漂流しているとき、子どもの頃に過ごした家のことが頭に思い浮かんで、もう一度あの家の畳の上で寝そべりたいと思った。その時のイメージが鮮明に残っていて、戦後建築家になって超高層ビルの設計を散々したけれど、やっぱり人として近代技術文明の粋を結集した超高層ビルに住んだらダメになると思い、社長を辞任した後、自分の住処は長崎の海辺に日本古来の家を設計して暮らした。そこはとても居心地がよかった。やはり人間は自然の一部なんだから、自然の中で生活することが一番いいんだと心底思ったんだ。

僕らは近代技術文明に毒されすぎているんですよ。それに頼りすぎると身も心も必ずおかしくなる。健康な心を育むには、できるだけ自然の中で暮らすことが大事。自然の中で自然の恵みを受ける。やっぱり暑い時は暑い、寒い時は寒いと、自然を体感しながら生活するのが一番いい。特に成長期の子どもはね。


──でも一回便利な生活に慣れちゃうとなかなかそれ以前に戻るのは難しいですよね。

そうだね。本来は人間にとって何が幸せなのかを考えなきゃいけないんだけど、今は技術で何でもできちゃうし、多くの人はそれに慣れちゃって便利さを追い求める。人の欲望が便利さとか経済の方に行っちゃってる。でも、こういう現代から延長した将来にはあまり希望がもてないんじゃないかな。そうすると結局滅びるよね。もっと原点に戻って自然を大事にしなくちゃね。

池田武邦-近影06

だけどね、僕の考えはいろいろ話したけれど、一方で今の若い人にそれを押し付けちゃいけないとも思っているんだよ。今は価値観が人それぞれ、いろいろあるじゃない。とんでもない意見だと思ってても、詳しく聞くとなるほどと思うところもある。だからといって僕自身の考え方を変える気は毛頭ないんだけどね。僕自身のやることを見て学ぶところがあると思ったら学んだらいいし、批判するならしてもいい。批判する人の言い分もそれなりに信念があるなら、自分のやりたいようにやってくれという感じ。そうするしかないと思うんだよね。

建築論

──人にとって建築とはどういうものであるべきだと思いますか?

よく衣食住というけど、建築は我々人間が生きていくために欠かせない存在。しかも建物は人間を育てる場でもある。どういう家で育ったかということがその人の性格とか人間性、将来にものすごく大きな影響を及ぼすから、そういう意味において建築は人間社会にとってものすごく重大なものだよね。だからこそ今、建築というものをもう一度見直して、この建物は人間にとって本当に必要不可欠なものかどうかという視点を常にもっていないといけない。これが僕の建築に対する基本的な考え方です。

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仕事論

戦後、戦没者追悼など長年の平和への功績が認められ、海上自衛隊から感謝状を授与された

戦後、戦没者追悼など長年の平和への功績が認められ、海上自衛隊から感謝状を授与された

──池田さんにとって働くということはどういうことでしょう。

仕事として何かをするということは人間だけにできること。そこが他の動物と違う点。そういう意味でね、とても重要でおろそかにしちゃいけないことの1つだと思う。


──戦争中は国を守るために、戦争が終わってからも国の復興のために働いてきたわけですが、働くことに対する思いは?

祖国のために働くというのは一貫してるね。


──自分のためにと思ったことは?

池田武邦-近影07

それは1度もなかったなあ。確かに働いたら結果的に自分のためにもなるんだけど、それはあくまでも結果であって目的ではない。何のために働くかで、最初に「自分のため」が来るのは嫌だな、僕は。まずは「国や人のため」がある。働くことが自分のためだけだったら僕はちょっとさびしいなあ。まあ僕の場合は時代のせいもあるけど、そもそも自分のためという発想がなかったからなあ。

61歳でヨットレースで優勝

──現役でバリバリ働いていた頃、家族との時間は取っていたのですか?

いや、現役のときは仕事一辺倒だった。ただ、海と船が大好きだから、会社に入ってからヨットを買って、5月やお盆、年末年始の休暇には家族をヨットに乗せて伊豆七島や九州まで出掛けてました。ヨットの名前はやっぱり「矢矧」。ヨットレースにも出場して、1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースで優勝したんだよ。矢矧には3代続けて、80歳を過ぎても乗ってたんだけど、最後は長崎ハウステンボスに寄付しました。行けばいつでも乗れるようになっていたんだ。今でもたまに海には行きますよ。もう眺めるだけだけどね。やっぱり海を見ると非常に心が安らぐんだ。海は僕の原点だからね。

最後の船となった矢矧Ⅳ。右は池田さん自身が描いた矢矧。絵の腕もプロ級である

61歳の時、チームキャプテンを務めた小笠原ヨットレースで優勝

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矢矧Ⅳ建造中(コクピット部分)

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矢矧Ⅳの竣工式

とにかく後顧の憂いなく世のため人のために全力で働けたのは妻や子どもたち、家族のおかげだよ。それは痛感してる。だから今、妻があまり健康ではないので、妻のために尽くさなきゃと一所懸命恩返してるつもりだよ。

邦久庵

──池田さんは2001年から10年間、長崎県の大村湾にご自宅を建設されて実際に住んでいたそうですね。

池田武邦-近影08

長崎県の大村湾に土地を買ってプレハブの小屋を建てたことは前にも話したけど、本格的に住むためにちゃんとした家を建てようと思ったんだ。若い時に散々近代建築をやってみてわかったんだけど、日本の場合、近代建築よりも江戸時代の建築の方が優れているんだよ。エアコンなんかなくたって、快適に暮らせる。だから大村湾に建てた家は茅葺屋根で、釘も1本も使っていない昔ながらの日本の伝統工法を使ったんだ。この家は自分の名前と妻の名前から1字ずつ取って「邦久庵」って名付けた。

木材は地元で採れたものを使用して地元の大工さんに建ててもらった。やっぱり家を建てる際はその土地の気候風土で育った木を使うのが一番いいんだよ。この家は地産地消と伝統工法の伝承を目的として建てたんだ。囲炉裏のある居間と台所と畳の寝室だけの質素な造りで、もちろんエアコンなんてなかったけどこの家で暮らした10年間はとても楽しかったなあ。自然と調和した暮らしでね。大村湾に面した広いデッキからは毎日海が眺められるし、朝日と夕日を毎日拝んでいると、太陽が出たり沈んだりする位置が微妙に変わっていくのがわかるんだ。こんなことは都会のコンクリートで覆われた家に住んでてもわからないよね。

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2001年、大村湾の岬の先端に建てられた邦久庵。現在は損傷がひどくなっているという

邦久庵のデッキ。目の前に広がる大村湾を眺めながら過ごすひと時は格別

邦久庵の囲炉裏(写真左)と和室(写真右)

──今後の人生をどういうふうに過ごしたいですか?

池田武邦-近影09

今後も何も、僕に残されている時間はあともう少ししかないから、1日1日大事にしようと思ってますよ(笑)。もうとても大それたことはできないから、とにかく人に迷惑をかけないように残りの人生を生きていきたいよね。今は与えられた命を無駄にしないように健康には気をつけてます。毎日東京の郊外にある自宅の近くを散歩してるんだ。ちょっと歩くと小川が流れててね、水が湧き出てて、大きな鯉が泳いでいる。歩くといろんな風景が見られて楽しいよ(笑)。


池田さんのご子息からのメッセージ

父・武邦は邦久庵を終の棲家として建てました。しかし残念ながら風光明媚なあの場所は車がなければ買物はもちろん、外出すらままならない不便な場所です。不便だからこそよいのだと父は言っていましたが、車の運転ができなくなった老人二人が生活できる場所ではなかったのです。それで7年前、 父が85歳の時に「邦久庵でこれ以上2人だけで生活するのは無理だから」と説得して東京に戻ってもらいました。

その後の邦久庵は、地元の方にお願いして時折害虫駆除のために囲炉裏へ火入れしていただく時以外は、まったくの空き家状態となっていました。問題なのは、空き家状態であったこの7年間で邦久庵の傷みがひどくなってきていることです。調べてみるとシロアリ被害が梁にまで広範囲に広がっている上に、室内には獣が歩いた形跡までもがあったとの報告を受けています。また、先日、邦久庵の上空にドローンを飛ばして撮影した映像も届いたのですが、人の気配がしなくなった茅葺屋根は鳥が巣作りのために持って行ってしまうのか想像以上にボロボロになっていました。

さらに先日、邦久庵のベランダ脇に保管してあった手こぎボートが盗難に遭ってしまったのですが、とても一人で運び出せる代物ではありません。複数人による犯行と思われます。警察に盗難届けは出したのですがいまだに見つかっていません。犯人が誰だかわかりませんが空き家状態で不審火など出されたら大変です。

「邦久庵は釘を1本も使わずすべて自然に還る素材で造られてあるので、そのまま朽ち果てても問題ない」と父は言っていましたが、このままでは今、社会問題にもなっている廃屋となってしまいます。

父は92歳という年齢からも、残念ながら彼自身の力でこの問題を処理できず、代わりにこれまで私が補修などいろいろ手を尽くしてはきたのですが、一介の大学講師である私には財政的にも時間的にもこれ以上の維持管理は難しい状況です。かといって邦久庵は取り壊すにも相当な費用のかかる建物なのです。私は今、進む事も退くことも難しい状況に陥っています。

これを読んでくださっている方の中で、どなたかよいお知恵をご教授くださる方がいらっしゃればこちらまでご連絡いただければ幸いです。よろしくお願い致します。

池田邦太郎


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戦地に取り残された兵士のために

──終戦後はどういう任務に就いたのですか?

池田武邦-近影01

まだ南方の戦地に残された陸軍の兵士がたくさんいたから、彼らを船で日本に連れて帰る復員局の復員官に任命されました。船がほぼ全滅してたから、残ってた「酒匂」(さかわ)という矢矧の姉妹艦で、戦争が終わる直前に完成した軽巡洋艦を復員船にして、分隊長として南方の島に行ったんだ。

その時の航海は忘れられないね。戦争中はちょっとでも海に出れば敵の潜水艦や航空機がいつ襲ってくるかわからないから一瞬も気が休まらず、常に神経がピリピリしてた。でも戦争が終わったらそれがないわけだ。攻撃がない航海、こんな楽なものはないですよ(笑)。針路さえ決めればそのまんまただ進んでいけばいいんだから安心して航海ができる。平和な航海ってなんていいんだろうって思った。その時の航海が非常に印象に残ってるね。

東京大学に入学

酒匂で兵隊さんをたくさん乗せて横須賀に入港して、事務所で次の航海の計画を立てていたとき、突然、父親が現れた。職場まで来るなんて何の用だろうと思ったら、「大学に行きなさい」と東京帝国大学の入学願書を差し出してきたんだ。マッカーサーが、元軍人でも全学生の一割の範囲なら大学に入れてもいいという許可が出たらしいんだな。それを親父は新聞で知って職場まで来たんだよ。僕はそんなことは知らなかったから大学に行くなんてことは夢にも思っていなかった。それに、外地に大勢取り残されている兵隊さんたちを完全に内地に輸送するまでは復員官をやろうと決めていたから「大学に行く気なんてありません」と断った。でも親父は「お前はもう十分国のために尽くした。大学へ進む道もあるんだから、とにかく受けるだけ受けてみろ」と強く言うもんだから、断りきれずに受験することにしたんだ。でも受験日まであと1ヶ月しかなかったから今から勉強しても受かりっこないと思ったね(笑)。


──どんな学科を選んだのですか?

池田武邦-近影02

建築学科だよ。建物が全部壊されて焼け野原になった日本の風景を見た時ね、国を守るという使命をもって海軍に入ったのにそれが果たせなかった、軍人として負けた責任をすごく感じていた。だからせめて日本の復興に貢献できる職業に就こうと建築学科を選んだわけ。もうお国のためとかさ、そういうことしか考えてなかった。自分がどうなりたいとかは全く考えてなかった。純情だったな、あの頃は(笑)。

建築学科を選んだ理由はもう1つある。幼少期から成人するまで住んでいた藤沢の家が、早稲田大学の建築科を出た僕のいとこが設計した家だった。その家は地味な造りだったんだけど、自然の特性をうまく利用していて夏は涼しく、冬は暖かい快適な家だったから大好きだったんだ。だから海軍士官以外、知っている職業は建築家だけだったから建築科を選んだというのはあるね。

さらに言えば、沖縄海上特攻で矢矧が沈んで海を漂流していた時、その藤沢の実家の風景が脳裏に浮かんだんだよ。夏、障子を開けると川辺から涼しい風が吹き込んでくるんだけど、その風を感じながらただ畳の上で大の字に寝転ぶのがなんとも気持ちよくてね。その感覚が蘇ってきて、もう一度実家のあの畳の上に寝転びたいと思った。そういうことももしかしたら建築の道へ進む1つのきっかけになっているのかもしれないね。

それからは受験まで1ヶ月しかなかったけど、やるからには全力を尽くそうと昔の兵学校の教科書を引っ張りだして猛勉強したよ。兄たちも手伝ってくれてね。そしたら運良く勉強したところが試験に出て受かっちゃったんだ。よもや受かるとは思っていなかったなあ。当時は勉強どころじゃなくて受験する人も少なかったから戦後のドサクサで受かったようなもんだね。翌年以降だとまず受からなかったと思う。そういう幸運もあって1946年4月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ入学したってわけだ。

東京大学建築学科の学友と(最前列左端が池田さん)

──東大に合格していなかったら建築家にはならなかったわけなので、その後の人生は大きく変わっていたでしょうね。

まったく変わってただろうね。落ちてたら船乗りになってずっと海の上にいたでしょう。やっぱり僕は海が好きだから。戦後、海上自衛隊に入った戦友もいたしね。


──大学での建築の勉強はどうでした?

楽しかったよ。僕は元々絵を描くことなどクリエイティブなことが好きだったから。あの頃は学生も食うや食わずだからほとんど教室に集まってなかった。でも僕は勉強が楽しくていろんな教授の講義を受けてたな。

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設計事務所に就職

──卒業後の進路は?

池田武邦-近影03

大学3年生の夏休みに某大手ゼネコンの建設現場に実習に行ったんだけど、非常に軍隊に似てるなと感じた。建設現場でゼネコンの若い社員が中年の職人をあごで使っているのが、海軍で士官が兵隊さんを使うのと同じような感じだったんだ。要するに職人の使い方がヘタなんだよ。職人が気分を害するような指示の仕方を大学出の若手がやってたわけ。こっちは元海軍だからさ、そういう兵隊さんの使い方はよくわかってるから僕の方が絶対にうまくできるなと思った。それでゼネコンへの興味が一気になくなったんだ。


──どうしてですか? 普通はうまくできると思ったら、その会社に入って簡単に上を目指せると思うのでは?

いや、命を懸けて国のために尽くした海軍で働けなくなったんだから、次は同じ国のためでも、自分の全く知らない新しい分野で仕事がしたいと思ったんだ。だから簡単にうまくできるなと先が読めちゃう会社には興味をもてなかったわけ。

とは言っても建築界のことは全然知らないから、同級生に相談したら「山下寿郎設計事務所なら知ってるから紹介できるよ」というので彼の紹介で挨拶に行ったんだ。もちろんその設計事務所がどんな会社かも全然知らなかったんだけど、その日に「明日からいらっしゃい」と言われて入社することになった。当時は就職なんてそんなもんだったんだよ。それで1949年から山下寿郎設計事務所で働き始めたってわけだ。


──未知の世界で実際に働いてみてどうでしたか?

設計の仕事は楽しかったよ。クリエイティブだったからね。それにいろんな案を出すと社長がどんどん採用してくれる自由な雰囲気の会社だったしね。ずいぶんたくさんのコンペでプレゼンしたけど富山市庁舎や、福島県庁舎、岩手県庁舎、NHK放送センター、日本興業銀行本店などを勝ち取った。だいたいコンペの半分は取れてたから5割打者だったんだ。

山下寿郎設計事務所35周年パーティーにて(前から3列目左から2人目が池田さん)

──すごい勝率ですね。そのために努力したり工夫したことは?

入社5年目の昭和28(1952)年、29歳で中条久子さんと結婚

入社5年目の昭和28(1952)年、29歳で中条久子さんと結婚

特別努力したなんてことはないなあ。しいて言うなら、会社の仕事が終わると東大の建築学の教授の研究室にしょっちゅう通って勉強してた。建築が好きだったんだな。その時研究してたのはモジュラーコーディネーション。例えば机の高さを決めるときに何センチにすればいいかなんてなかなか決められなかったんだけど、人間の体を基準にすれば簡単にできると思って、各部材の寸法を日本人の標準寸法に合うようにモジュールで区切る方法を編み出したんだ。それを教授が学士論文にしてみればどうかと言うから論文を書いて提出したら博士号が取れたんだ。それがその後日本の建築界では一般的になって、今もみんな設計するときに使ってるんだよ。


──池田さんが日本の建築の標準を作ったわけですね。

その当時はまだ戦後間もない時代だったからね、そういう発想が全くなかった。僕は元海軍で建築のことを全然知らないから、建築界の在来の因習にとらわれず、全く新しい発想で考えることができたんだ。


──昼間もものすごく忙しかったと思うんですが、その後、夜も勉強してたなんてすごいですね。

その頃はエネルギーがあり余ってたからね(笑)。だって海軍時代は徹夜で何日も戦闘していたわけだから、それに比べりゃ楽なもんだよ。それに普通にしてれば殺されないでしょ?(笑)。油断したって殺されないもん。戦争中はね、ちょっと油断したらバンて殺されちゃう。やっぱり殺されないってことはね、大きいですよ(笑)。平和ってのはありがたいと思ったね。

ちなみに戦後、戦争映画を観たんだけど全く違うんだよね。確かに画面は似てるんだけど映画館では弾は飛んで来ないでしょ。安全だもんね。それと匂いね。血や煙硝の匂いがしない。実戦と映画ではこういう差があるのかと思った。当然だけどね(笑)。


──では仕事でつらいと感じたことはないのですか?

建築って巨額のお金が動くから設計の受注が取れると取れないのとじゃ大違い。会社の経営にも大きく影響を及ぼすからから、コンペのチーフは責任重大なわけだ。毎回チーフとしてコンペに臨んでいたんだけど、いっとき顔面神経麻痺になっちゃったからね。自分では無自覚だったけど深層心理では重いプレッシャーを感じてたんだろうね。

やっぱり平和に慣れちゃうとね、平和の悩みが出てくるの(笑)。そんなときには部屋に貼ってた、沖縄海上特攻で火だるまにされる矢矧の写真をよく見てた。眺めてるとどんなにつらくても殺されるわけじゃないからどうってことないなと思えてくる。そして気持ちが軽くなって闘志が湧いてくる。こういうところは戦争を体験してるかしてないかで随分違うだろうね。

池田さんが部屋に飾っていた、米軍の猛攻にさらされる矢矧の写真

池田さんが部屋に飾っていた、米軍の猛攻にさらされる矢矧の写真

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日本設計事務所を設立

池田武邦-近影04

──その後池田さんはご自身の会社を設立しますが、その経緯は?

山下(寿郎設計事務所)にいた時は大規模プロジェクトのコンペをけっこう取ったから、えらく重用されてね。41歳のときには取締役に就任したりして、段々会社の中心的人材になっていった。でも山下社長が引退してから雲行きがあやしくなってきたんだ。その後、社長に就任した社長の娘婿とことあるごとに衝突していたらある日「池田くん、会社から出て行ってくれ」と言われた。クビになっちゃったんだ。

そしたら当時200人いた社員中、107人が「池田が辞めるなら僕も辞めるよ」と辞表を提出。その中には当時の副社長や専務もいたんだよ。その副社長に「新しく設計会社を作って社長になってください」とお願いして1967年にできた会社が日本設計事務所(後の日本設計)。僕も創立メンバーの1人なんだけど、今では日本国内だけではなく、世界的な設計会社にまで成長している。だから僕を追い出した当時の社長には感謝してるんだ。僕の恩人だよ(笑)。


──なぜ日本設計事務所という社名に?

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日本設計事務所を設立した頃の池田さん

ちょうど会社を追い出される前の正月にね、書き初めで「日本」って書いたんだ。そしたらすぐクビになったから「日本設計」にしたというわけ(笑)。そもそも個人の名前を会社名にするようなことは絶対にしたくなかった。人間の細胞は毎日入れ替わり、数ヶ月から半年で全部新しい細胞になるといわれているけれど、その人の心、精神は変わらないでしょ? それと同じようにいろんな人が入れ替わり立ち替わりで働く人は変わっても、会社の理念はずっと変わらない。企業ってそういうもんじゃないかと思っていたからね。

日本初の超高層ビルを設計

──池田さんは日本初の超高層ビルである霞が関ビルを設計した方としても有名ですが、どのように設計したのですか?

池田武邦-近影05

霞が関ビルは山下にいた時代から設計チーフとして関わっていたんだけど、会社を追い出されて日本設計を設立してからもクライアントの三井不動産から、「実質的に設計をやっていたのは池田さんたちだから日本設計の名前で引き続き担当してくれ」と頼まれたんだ。

超高層ビルの設計はやっぱりね、これまで誰もやったことのないことをやろうってんだから、楽しくて仕方がなかったね。新しいことだし、これ以上クリエイティブなことはなかったからね。


──でもこれまで誰もチャレンジしたことのないプロジェクトだからこそかなり困難だったのでは?

いやあ、さっきも言ったけど、失敗したって殺されるわけじゃないからさ(笑)。戦場のつらさと今の仕事のつらさなんて次元が違うんだよ。ただね、やっぱりこれまでになかったものを作るんだから、全く新しい発想が求められたのは確かだね。


──例えばどのような発想ですか?

まず大勢の優秀な人材がその能力を最大限に発揮できるような環境を作った。その時、海軍時代の経験が生きたんだ。僕が乗っていた矢矧はすごくいい船で、艦長は普段はでんとかまえて、細かい仕事は僕たち若い士官に任せて自由にやらせてくれた。そのかわり、いざというときは艦長が全責任を負ってくれる。そういうスタイルだったから、若者が失敗を恐れずどんどん意見を出して、それが採用されてたんだよ。そのやり方をそのまま霞が関ビルを設計する時に実践したわけ。

それから、今までの設計事務所はトップに先生がいて、その下に弟子がいるという徒弟制度だったから、弟子は先生の発言には絶対服従が鉄則だった。だけど霞が関ビルのような日本初の超高層ビルは1人の先生のアイディアで全部設計するのは到底不可能。だから全く新しい方法でやったんだよ。


──具体的には?

部下の話に常に耳を傾けていた池田さん(写真左)

部下の話に常に耳を傾けていた池田さん(写真左)

まずは、議論の場に建築以外のいろんな分野の専門家を集めて、建築家では出せない知恵を自由に出してもらったんだ。その時、意見を否定しないというルールを作った。いいものを創ろうと思ったら、どんなにつまらない意見でも絶対に否定しちゃいかん。その意見の裏には必ず理由があるわけだ。その理由を聞き出して、可能性のあるものは全部採用するというやり方を取った。だから、新人もベテランもみんな対等の立場にして、誰が言ったかではなく、どういう意見かを重視した。そのために、座席を決めちゃうと序列ができるから、床の上にみんなで車座になってさ、あぐらをかいてディスカッションする。そういう環境を作ったわけ。設計のプロセスそのものがこれまでとは全然違ったんだな。

それ実はね、アメリカの戦術なんだよ。例えば日本海軍の神風特攻隊の攻撃に対してアメリカ海軍の船をどう守るかを議論する時、軍人じゃなくて、物理学者や音楽家などおよそ海軍の専門家とは思えないような人たちをたくさん集めた。そしてグループにわけて自由に意見を出させ、まったくの素人の意見なのに否定をせずに、いいと思う意見をどんどん採用した。その中で実戦で採用されたのが船の周りに弾幕を張るというアイディア。それで日本の特攻機が随分やられちゃった。そういうことを戦後、いろんな文献を読んだ中で知ってこれは使えるなと。この手法を「グループダイナミクス」というんだけど、それを超高層ビルを設計する時に採用したわけ。

そうして造り上げたのが霞が関ビル(1969年竣工)であり、京王プラザホテル(1971年竣工)であり、新宿三井ビル(1974年竣工)なんだよ。それ以降、超高層ビルが全国の都市部に林立していった。だけど、僕の造る超高層ビルはあくまでも手段であって目的ではないんだ。

超高層化の真の目的

池田さんが設計した新宿三井ビルの足元には豊かな緑が広がっている

池田さんが設計した新宿三井ビルの足元には豊かな緑が広がっている

──どういうことですか?

東京は土地が狭いから横に広い建物をたくさん建てたら緑が失われてしまう。だからたくさんの人が居住したり働いたりするスペースを確保するには上へ上へと伸ばすしかない。その空いたスペースに緑を植えてきたんだ。言い換えれば超高層化することで僕らは大地の上に緑を獲得できた。つまり、超高層ビルの真の目的は東京の真ん中に緑をたくさん作ることなんだ。それは僕が設計した超高層ビルの足元を見ればよくわかる。新宿三井ビルの足元には木々がたくさん生い茂っているでしょ? 京王プラザホテルから続くあの周辺一帯を豊かな緑にして、今も都民の憩いの場になっている。みなさんも超高層ビルに行くときはぜひ足元を見てほしいね。

本当は東京都庁も含めてもっと広大な緑を作りたかったんだけど、設計コンペで丹下(健三)さんに取られちゃってね。もし僕のプランが採用されていたら、京王プラザホテルと新宿三井ビル、そして東京都庁を結んだ区画は世界に冠たる緑豊かな超高層街区の町になっているはずだよ。本当に残念なことだよね。

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最大の転機

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日本設計事務所時代の池田さん

僕らは自分たちで作った最高のビルの中で働くべきだと、1974年に完成した新宿三井ビルの50階に日本設計のオフィスを移転したんだけど、このことが僕に建築家人生の中で最大の転機をもたらしたんだ。

新宿三井ビルのような当時最先端の科学技術の粋を投入して造られた超高層ビルは自然をシャットアウトして、エアコンなどの技術で1年365日暑からず寒からずな快適で理想的な室内環境を人工的に実現する。バラモン教の理想郷のようにね。実際、僕もそれに何の疑問も感じずに快適に働いていた。

でも冬のある日、朝出勤する時は雨も雪も降ってなかったんだけど、夜仕事を終えてビルから外に出たら大雪が降っていて地面に雪が積もっていた。50階ともなると、窓の外は真っ白で何にも見えないからよもや外が大雪になってるとはわからなかった。エアコンをかけているから寒さも感じないしね。

ビルの外に出たらすごく寒くてびっくりして、思わず雪が舞い降りてくる天を仰いだ。その時、とても気持ちがよかったんだよ。ブルブル身震いするような寒さなのに、自然の中に溶け込んでいくような、安らいだような不思議な気持ちになった。その時、思わず「ああ人間は自然の一部なんだな」とつぶやいたんだ。この時感じたことは今でもはっきりと覚えてるよ。

池田武邦-近影06

そのときはっとした。あれ? どういうことだと。今まで一所懸命、室内の温度や湿度を自動的に快適な数値に調整できる仕組みを作ることに相当神経を使っていて、その結果、人間にとって一番快適な室内環境を作ることができたと思っていた。それなのに、ビルの中から吹雪いている外に出た瞬間、気持ちいいと感じたのはなぜなのだろうと。いろいろ考えたり調べたりした結果、人間は1年中快適な人工環境の中に長時間いることで、本来生物として備わっている体温調節機能が弱まって、意識しないうちにストレスがかかって精神がおかしくなるということがわかったんだ。やっぱり人間は自然の一部なんだよ。それで、それまで人間にとっていいと思って躍起になってやってきた快適な人工環境を作ることが間違いであることにやっと気づいたんだ。


──確かに真夏にエアコンの効いた部屋にずっといると体調がおかしくなりますもんね。

そうでしょう? もちろん、病人や老人、体の不自由な人は快適な人工環境の中で保護しなきゃいけないけど、日本のような春夏秋冬のある国に住んでいる若くて健康な人はできるだけ自然に近い環境の中で、体で四季を感じた方がいいんだよね。

同時にもう1つ感じたことがあった。高度成長期には超高層ビルや工場がどんどん建ち、車も爆発的に増え、高速道路ができ、人々の暮らしは確かに豊かになった。でも一方ではどんどん自然が破壊され、大気や河川、海が汚染され、公害病が蔓延した。それまで近代技術文明が進歩すればするほど人間にとって理想的な都市が作れると思っていたけど、人間の都合のいいように自然環境を変えていくことは逆に人間を不幸にするんじゃないかということも強烈に感じたんだ。

次々と超高層ビルを設計していた頃の池田さん(写真中央)

今まで日本の復興のためにとにかく近代化をしなきゃいけないと思って最先端をひた走り、超高層ビルを次々と設計して超高層ビルの第一人者なんて言われるようになったもんから得意になって、さらにその方向に突っ走っていった。40代、50代の一番の働き盛りのときは僕には何でもできるぞという勢いがあった。でもそういうことに気づいて、これまでとんでもないことをしてきたんじゃないかという不安が頭をよぎった。あの雪の日の体験以来、自分がこれまで正しいと信じてやってきたことに疑問をもったわけだ。

同時に、それまで仕事一辺倒でほとんど家庭は顧みなかったんだけど、父親としての生き方も見直して、週末には家族を誘って僕のヨットで海に出かけるようになったんだ。ヨットの名前はもちろん「矢矧」。湘南の海をはじめ、長い休みの時には伊豆七島や九州などいろんなところへ出掛けたなあ。

池田さんは40歳の時に2人の仲間とヨットを共同で購入。以降2艘のヨットを乗継ぎ、「矢矧」と命名。趣味で乗るほか、数々のヨットレースにも出場、入賞している

でもね、かといってすぐに建築の方向を転換することはできなかった。本当に近代技術文明を追求することに問題があると確信をもって言えるまではね、時間がかかりましたよ。それはとても重い決断だった。だって今まで日本の復興のためにこれが正しいんだと信じ込んでやってきたこと、しかも成功してきたつもりだったから、それを根底から覆されるのは、敗戦の時に感じたショックと同じレベルの衝撃だったからね。

池田武邦-近影07

それにね、数百名の社員とその家族を入れたら数千人の身内の生活を守る責任が経営者としての僕にはあった。そのためには超高層ビルのような大規模な案件を手がけなければいけなかった。その葛藤の中で編み出したのが、建物の中にいる人たちが四季の自然の空気を感じられるような技術。その代表が1988年に完成した新日鉱ビルで、世間からは高い評価を得たんだけど、超高層ビルそのものに疑問をもっていたからとても理想の建築とは思えなかったね。

それでも少しずつ、本来の日本家屋、子どもの頃に住んでいた藤沢の家のように、冬は日当たりよくて暖かく、夏は風通しがよくて涼しい、その土地の気候風土にマッチした、より環境に配慮した建築を目指すようになった。本格的にそれに取り組んだのが長崎オランダ村なんだよ。


インタビュー前編はこちら
インタビュー後編はこちら

海軍兵学校に入学

──池田さんは大正13(1924)年生まれの現在92歳とのことですが、子どもの頃はどんな暮らしだったのですか?

池田武邦-近影01

自身が中心となって設計した新宿三井ビルで

元々僕の父母が住んでいた家は鎌倉にあったんですが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊しちゃって静岡県に避難しました。僕は翌年の1月、その避難先で生まれました。その後、2歳の時に神奈川県藤沢市に引っ越して、中学校まで過ごしました。当時の藤沢は田んぼと畑が広がり、池や小川が流れるのどかな田園地帯で、人々の暮らしや子どもたちの遊びも江戸時代とそれほど変わらない感じでした。その頃住んでた家も江戸時代の家と同じような感じの家でね。これが後の僕の人生に大きく影響することになるんですけどね。それはまた後でお話しましょう。

子どもの頃から海が大好きで、父も海軍士官で山本五十六と同期で明治37、8(1905、6)年の日本海海戦(日露戦争)にも参戦しているから、大きくなったら海軍に入りたいと思っていました。中学入学の翌年に二・二六事件が起こったので、子ども心にも世の中が不穏な空気に包まれていることは何となく感じていましたね。

中学5年生の時、かねてから希望していたとおり、江田島の海軍兵学校に入学。兵学校はそれはもう厳しかったですよ。毎日理由もなく最上級生からぶん殴られてましたからね。しかし、そこには戦場で死に直面した中でも冷静に行動しうるための修練の意味があったと僕は考えています。

江田島の海軍兵学校へ出発する際に家族と撮影(前列中央が池田さん)

江田島の海軍兵学校へ出発する際に家族と撮影(前列中央が池田さん)

太平洋戦争が始まったのは入学の翌年です。もうアメリカとの戦争は近いと肌で感じていたので、いよいよ始まったかと気が引き締まる思いでした。開戦すれば我々は最前線に出撃していく立場ですからね。ただ、真珠湾攻撃があった日、兵学校の井上校長が「戦争は始まったけれど、今は戦争のことは考えずにひたすら兵学校の生徒としての本分を尽くすことに専念せよと」という訓示を述べられた。いまだに覚えてますね。

超難関の海軍兵学校入隊した池田さん
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超難関の海軍兵学校入隊した池田さん

海軍兵学校第72期の同期と(後列右端が池田さん)
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海軍兵学校第72期の同期と(後列右端が池田さん)

海上訓練にて
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海上訓練にて

ただ、戦争が始まったことで、本来なら4年で卒業するのが2年8ヶ月に縮まり、そのせいでアメリカまで船で行く遠洋航海実習がなくなったことが残念でしたね。今はみんな当たり前に飛行機で太平洋を横断するけど、当時は船でしか横断できなくて、横浜からシアトルまで2週間かかったんですよ。飛行機で太平洋横断しようと特別な飛行機を設計してチャレンジした若者が3、4人いたけどみんな行方不明になってたしね。そんな技術力でよくもまあアメリカのような大国と戦争しようなんて考えたよね。

卒業後は、当時建造中だった帝国海軍最新鋭の軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の艤装員として配属されたんだけど、「矢矧」は超極秘裏に建造された船だったから、完成して進水式をした時も「矢矧」という名前は出さないで矢と萩の葉をあしらった手ぬぐいが振る舞われた。僕が着任したときもまだ矢矧という正式名称は公にされていなかったんだ。

竣工10日前の12月19日、公試時に撮影された矢矧。煙突の後ろに零式水上偵察機2機が搭載されている

竣工10日前の12月19日、公試時に撮影された矢矧。煙突の後ろに零式水上偵察機2機が搭載されている

マリアナ沖海戦

何度かの訓練を経て、昭和19(1944)年6月、マリアナ沖海戦へ出撃。当時僕は20歳の海軍少尉で、これが初めての実戦となった。連合艦隊の水雷戦隊の旗艦として駆逐艦8隻を率いた矢矧の任務は、第一航空戦隊の護衛だった。その時、帝国海軍が誇る連合艦隊は健在で、巨大戦艦「大和」「武蔵」をはじめ、「翔鶴」「瑞鶴」などの空母も全部そろってた。連合艦隊は各艦の距離1000m~1500mくらい離れて編隊を組んで航行するんだけど、矢矧の艦橋から前を見ても後ろを振り返っても水平線の彼方まで日本海軍の艦が見えたんだよ。それは勇壮な景色だったねぇ。この無敵の連合艦隊がこの時からわずか1年足らずで全滅しちゃうんだから。あれほどの負け戦はないと思うし、この時は想像すらできなかったよ。

──矢矧でどのような職務を担っていたのですか?

僕は航海士として、船位測定、操舵、見張り、信号、戦闘の記録、敵潜水艦のスクリューの水中聴音など、航海長をサポートするための仕事は全部やってた。


──戦闘はどんな感じだったのですか?

戦場は「惨憺」という言葉しか思い浮かばないような残酷な現場だった。矢矧はほとんど無傷で、大鳳や翔鶴など他の船の負傷した兵を救助して手当てをしたり、戦死した兵を水葬したりしていたんだ。当時はよく新聞で「壮烈なる戦死を遂げ」なんていう言葉が使われたけれど、そんな華々しさは微塵もなく、実態はこれ以上むごたらしいものはないというくらい全部むごたらしい死だった。だから「壮烈なる戦死」という言葉がいかにイメージを変えるかということだよね。初陣となったマリアナで、戦争ってこういうものなんだということが初めてわかったんだ。

マリアナ沖で米軍の攻撃を受ける空母「瑞鶴」と2隻の駆逐艦
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マリアナ沖で米軍の攻撃を受ける空母「瑞鶴」と2隻の駆逐艦

対空砲火によって撃墜された日本軍の機体
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対空砲火によって撃墜された日本軍の機体

この時、戦闘記録も取ってたんだけど、後で読み返したら誤字脱字が多くて恥ずかしい思いをしたなあ。矢矧自体はほとんどやられていないにも関わらずだよ。自分では平気なように思っていても相当緊張していたんだろうね。いかに修業が足りないか痛感したよ。

結果は、空母3隻と搭載機のほぼすべてに加えて、多くの潜水艦も失う壊滅的敗北だった。これにより、西太平洋の制海権と制空権を完全に失うことになった。だから、今から考えたらこの時点で勝敗は決していたといえるかもしれないね。

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レイテ沖海戦

レイテ沖海戦で攻撃を受けている戦艦「武蔵」、奥は護衛に付けられた駆逐艦「清霜」
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レイテ沖海戦で攻撃を受けている戦艦「武蔵」、奥は護衛に付けられた駆逐艦「清霜」

その4ヶ月後のレイテ沖海戦の時も矢矧の航海士(中尉)として参戦したんだけど、この時はもうほとんど航空機もないし勝てるなんて思ってないよね。戦(いくさ)をどのくらい長引かせるかということしか考えてなかった。連合艦隊はアメリカ海軍の航空機と潜水艦の両方からやられたからひどいもんだったよ。出撃してから帰還するまで1週間くらいだったけど、その間敵の猛攻にさらされて立ちっぱなし。仮眠なんてとてもできなかった。いつ敵の攻撃が来るかわからないから。


──よく体力と精神力がもちましたね。

いやいや、そりゃあ当然だよ。そのために兵学校からずっと鍛えてるんだからもたなきゃおかしいんだよ(笑)。

戦闘の方は、今度は矢矧も敵の攻撃を受けて、兵学校のクラスメートや上官が次々と目の前で死んでいった。戦争で死ぬというのはね、交通事故なんて比べ物にならないくらいむごたらしいものだよ。そこら中に手足や肉片や内臓が飛び散って、甲板なんてまさに血の海。でも僕らは戦闘中はそれを放置したまま戦わなきゃいけない。血と硝煙の匂いがすごいんだ。

アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母「瑞鶴」
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アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母「瑞鶴」

敵機の爆撃が収まった少しの合間に応急食料の乾パンを食べようとしたら赤黒い色になってるんだよ。爆撃や機銃でやられた仲間の血糊で染まってたんだ。その中から血がついていないものを選んでかじりながら戦闘記録を取ったり、艦の位置を海図に記してた。

死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった。


──そういう状況の中で死に対する恐怖は全く感じなかったのですか?

死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ。

この時の戦闘記録は、大した爆撃もなくて全員無傷だったのに誤字脱字だらけだったマリアナ沖海戦と正反対で、かなりやられて修羅場だったのに客観的にしっかり書けていたんだよ。マリアナからわずか数ヶ月しか経っていないのに。たぶん、マリアナの時は死の恐怖なんて感じてないつもりだったんだけど、本当は心の奥底では感じていたんだろうね。レイテの時は自分自身はちっとも変わっていないと思うんだけど、ちゃんと書けてた。やっぱりね、1回実戦を経験すると人間ががらっと変わっちゃうんだろうね。度胸がつくのかな、かなり冷静になった。これは自分でもびっくりしたし、随分自信がついたんだ。だから平時に何年もかけて一所懸命修業するよりも、わずか数日間でも死と直面する実戦を若い時にどんどん経験した方が別物になるくらい成長するってことだよね。

池田武邦著「海戦」書影
池田武邦著「海戦」原稿

終戦後、池田さんは自身の書いた詳細な戦闘記録を元にして『海戦』を執筆している。ただの記録ではなく、情景描写や心理描写などが見事で、池田さんが体験した世界に引きこまれてしまう

結局この史上最大の海戦は武蔵をはじめ愛宕、摩耶など戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦合わせて約30隻が沈められ、事実上連合艦隊は壊滅。矢矧もボロボロにやられて戦死者・行方不明者合わせて47名も出してしまった。

沖縄海上特攻

──昭和20(1945)年4月の日本海軍最後の戦い、沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)に出撃する時はどういう心境でしたか?

池田武邦-近影08

この時はね、測的長という、主として電探を担当する最高指揮官の職責で大和はじめ駆逐艦8隻で沖縄に向かったんだけど、上層部からは特攻だから片道分の燃料で行ってこいと命令された。死んでこいと言われているのはよくわかっていたよ。その頃はわずかに残った戦闘機も特攻で出撃していたけど、こっちは軍艦による特攻だよね。今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない。

敵機の猛攻にさらされる大和
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敵機の猛攻にさらされる大和

海軍が、撃沈されるとわかっていても大和を出撃させたのは、敗戦後大和が残っていたらアメリカに拿捕されて見世物にされてしまう。それを防ぐためだった。大和は日本帝国海軍の象徴だったからね。僕ら矢矧と駆逐艦8隻の使命は大和を守ること。もし沖縄本島まで到達できたら湾に艦を押し上げて最後まで撃てと命じられていた。だからどこに押し上げたらいいかを考えていた。でも沖縄に辿り着く前に鹿児島沖で敵機に発見されたんだ。

矢矧、大和、轟沈

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

矢矧は大和の盾になろうとしたけど敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて船は大きく左に傾いた。もはや操縦不能となって、水兵が脱出用のボートを降ろそうとしたんだけどものすごく傾斜してるからボートの滑車がうまく機能せず、なかなか降ろせなかったんだ。そんな中でも敵機が爆弾を落としてくるし機銃掃射もすごかった。それでたまりかねて僕が指揮して降ろそうとしたんだけど、水兵に大声で怒鳴ってもバンバン大砲を撃ってるから聞こえない。それでラッタルを降りて現場に行って、ボートのところで指図してようやく着水させた。やれやれと思ってるところに敵機の爆弾が降ってきて、3、4人乗ってたボートが吹っ飛んだんだ。矢矧自体も傾いているところにさらに魚雷が直撃。それで最後は傾いてる側が逆に上を向いて沈み始めた。そして4月7日午後2時5分、完全に沈没。僕ら生き残っていた兵たちは燃料の重油が漂う海に飛び込んだ。

敵機の集中攻撃により爆発炎上し、巨大なキノコ雲を発しつつ沈没する大和

海に入って数十分ほど経ったとき、大和が巨大なキノコ雲に覆われたのが見えた。さしもの世界一の巨大戦艦も数百機の航空機に一斉攻撃されたらひとたまりもなく、被雷8本以上、直撃弾10発以上を食らって沈没。その大和が沈みゆく姿は今でもはっきりと覚えてるよ。

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わずか1年で連合艦隊全滅

──目の前で大和が沈むのを見たときはどういうお気持でしたか?

池田武邦-近影12

沖縄の前に、レイテ沖海戦で大和と双璧をなしていた巨大戦艦・武蔵がやられて、最後に大和でしょ。僕らが世界最高だと思っている戦艦が目の前でどんどん沈んでいく。それはね、ショックというよりは、さもありなんという感じだったよ。だって、当時の海戦はすでに空母、航空機の時代。マリアナ沖海戦以降、日本側には航空機がほとんどなかった。船を護衛してくれる航空機がいないってことは丸腰で戦いに赴くのと同じだからね。でも、航空機が戦艦なんかよりも強いと最初に真珠湾攻撃で証明したのは日本の方だったんだから皮肉なもんだよね。

そもそも沖縄海上特攻の時の彼我の戦力差は15倍。刀しかもっていない武士が近代兵器を装備した軍人に挑むようなもの。いかに大和が宮本武蔵級の最高の剣豪だとしても、機関銃をもった軍人相手ではどうにもならんよ。

僕の初めての実戦だったマリアナ沖海戦の時には勇壮を誇っていた日本帝国海軍の連合艦隊がわずか1年足らずでほぼ全滅するのを全部目の前で見たわけですよ。それがショックといえばショックだったかな。


──海に投げ出された後はどうやって生き延びたのですか?

池田武邦-近影13

僕自身も当然、助けられるとは全く思っていなかった。海面を漂っていたら米軍の航空機が僕たち目掛けて執拗に機銃掃射してきてね。この野郎と怒りが湧いてきた。僕らはそういうことは武士道に反すると思って絶対にしなかったからね。周りでもどんどん仲間が撃たれて、あるいは力尽きて海の底に沈んでいった。

僕には運よく当たらなかった。敵の航空機が去った後、最初は浮遊物に捕まっていたんだけど、徐々に浮力がなくなって使い物にならなくなり、立ち泳ぎをせざるをえなくなった。立泳ぎもけっこう疲れるんだよ。そのうちだんだん冷えて感覚がなくなってきてね。当時は4月だから海の水がすごく冷たくてね。苦しいという感覚すらもなくなるんだよ。ああ、凍死というのはこういうものか、こういう感じで死ぬのかなと静かに死を待つという心境だったな。だからもう立ち泳ぎもやめようかなと思ったんだけど、人間、なかなか自分からは死ねないもんだよね。それで結局5時間半くらい漂っていたところで、生き残っていた冬月という駆逐艦に救助された。作戦が中止になって、司令部から10隻中4隻残った船に生存者を救出して帰れという命令が出たんだ。船から救助ロープを降ろしてくれたんだけど、もう体力は限界だし、重油で滑るしでなかなか登れないんだよ。でも何度か挑戦して何とか登りきれた。その時点まで生きていたけど登りきれずに海中に沈んでいった仲間もいたよ。結局矢矧の乗組員のうち、446人が戦死してしまった。


──よく生き延びられましたね。

これはもう運だよね。本当に、運以外の何物でもないと思うよ。

矢矧が沈んだ日が自分の命日

──ロープを登りきって船に上がったときの心境は?

よかったとかほっとしたとか、これで助かったという安心の感情はこれっぽっちもなかったよ。負け戦というのはこういうもんかと、逆にみじめな気持ちだった。


──多くの戦友が亡くなったのに自分は生き残ってしまったというような感情ですか?

池田武邦-近影14

いや、そういうことよりもともかくみじめだったな。つらかったのは、船に救助はされても佐世保港に帰還する間に息絶えた戦友もたくさんいた。通常ならご遺体はちゃんとお棺に入れて陸揚げして埋葬するんだけど、矢矧に関することはすべて極秘事項で、一般の人に見せちゃいけないから大きな釘樽の中にご遺体を押し込めて物資を輸送しているように偽装して陸揚げしたんだ。死体とはわからないように。それが悲しかったな。


──沖縄海上特攻の様子も非常に克明に覚えていらっしゃいますが、やはり冷静に記録なさってたのですか?

うん。沖縄の時も非常によく見えていて、戦闘中も、矢矧が沈む時も、戦死者の状況も、海に放り投げられて泳いでいる時も実に客観的に見てよーくわかるわけ。この時も実戦に放り込まれたら修行なんてしなくても人間が変わるんだなという実感があったね。


──港に着いたときはどういうお気持ちでしたか?

佐世保港に着いた時、燃え尽きて抜け殻状態だった。20歳で死ぬ覚悟を決めて出撃したのに死にきれなくて、連合艦隊も全滅しちゃったからね。生きる目的を完全に失ってしまってた。矢矧が沈んだあの日が僕の命日で、これからの人生は余生だなって思った。まだ21歳だったけどね。

何かに生かされたとしか思えない

──マリアナ、レイテ、沖縄の三大海戦に全部参加して生き延びたのは奇跡としかいいようがないですよね。

そうね。これはちょっと考えられないよね。生きてるのが不思議なくらいだったよ。3つの海戦に全部出て最後は船もめちゃくちゃになって沈んでるのに生き残ってるんだからね。兵学校のクラスメートの中で僕1人ですよ。何かに生かされたとしか思えなかった。戦場での生き死には自分の意志でどうにかなるものじゃないからね。

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顔に大やけどを負う

──ケガはなかったのですか?

池田武邦-近影15

矢矧に命中した魚雷がすぐそばで爆発した時、とっさに軍手をした手で顔を覆ったけど、爆風で顔が焼けただれちゃってね。軍手は焼けてなくなって顔に手の跡がついていた。それほどの大やけどなら普通はケロイド状に火傷の痕が残るんだけど、佐世保に着いて海軍病院の軍医に診てもらったら最高の応急処置をしてますねと褒められた。軍医の言うことには、やけどを負った時、やるべきことは2つ。1つは患部から空気を遮断すること。もう1つは冷やすこと。これが応急処置だと。その時は激戦のまっただ中だからもちろんそんなことは何にもできなかったんだけど、その2つとも偶然にもやってたらしいんだな。


──どういうことですか?

1つ目は、魚雷を食らって海に投げ出されたんだけど、その海は沈没した船の重油であふれていたからやけどを負った顔も重油で覆われていたこと。2つ目は、まだ4月で海水の温度が低体温症になるほど冷たかったこと。この2つの偶然が最高の応急処置になったんだ。

池田武邦-近影16

ただ困ったのは眉毛が燃えてなくなったこと。眉毛ってなかなか生えないんだよ。救助されて半年間、鉛筆で眉毛を描いてた。それとね、長時間重油の海を漂っていたから毛穴に重油が染みこんじゃってなかなか取れなかった。重油って風呂に入って石鹸で洗ったくらいじゃ落ちないんだよ。海軍病院から退院して、数ヶ月経っても「池田は重油くさい」っていろんな人に言われたもんね(笑)。

潜水学校の教官に

──傷が癒えた後は?

もう乗る艦がないけどどうするんだろうと思ってたら、広島の大竹にあった潜水学校の教官を命じるという辞令が降りた。僕は潜水艦なんて乗ったこともないのにどうして教官をやれなんていうんだろうと思ってたら、当時の潜水学校では予備学生を特攻潜水艇の乗組員にするための教育をしてたんだ。


──特攻潜水艇といえば「回天」が有名ですがそのような船の乗組員ですか?

そうそう。海の特攻隊だよ。当時の日本は最後の最後まで戦争をやめようとしなかったからね。

原爆が落ちた日

池田武邦-近影17

その教官をしているときに原爆が落ちた。1945年8月6日午前8時15分。その日のこともよく覚えてるよ。潜水学校は爆心地から30kmくらい離れているんだけど、ちょうど朝の授業を始めるという時間だった。学校の自分の机で今日はどんな講義をしようかと考えていた時、突然部屋がビカッ! と光ったんだよ。どこかの電線がスパークしたのかと思って机の下をのぞいた瞬間、ズシーンと衝撃が来た。その時は海軍が極秘で近くの山をくり抜いて火薬庫を作っていたからそれが爆発したのかと思った。もちろん原爆なんて知らなかったからね。

僕らは内火艇を出して瀬戸内中を走り回って、ご遺体の収容作業に当たった。河口付近は流されてきた真っ黒焦げのご遺体であふれててね。まさに地獄だったよ。また、当時勤労動員で大勢の一般のおばさんたちが広島に行ってて、そういう人たちがみんな被曝して夕方、帰ってくるんだけどもう惨憺たる状態でね。そういう人たちのお世話もしたんだけど、みんな大やけどをして、皮膚が剥がれ落ちちゃっているんだよね。そこに白いものがたくさんついてる。よく見るとウジ虫でね。ウジ虫ってあっという間に湧くんだよ。そのウジ虫をね、傷口からずいぶん割り箸で取ったりした。そういう覚えがあるんですよ。

終戦

──終戦の日はどのように迎えたのですか?

潜水兵学校で12時から重大な放送があるから教官室に集まれというアナウンスがあった。でもあの頃、重大な放送といったって負け戦ばっかりしてたから、また気を引き締めてやれというようなくだらない訓示だろうと思ってサボっちゃった。それがあの終戦の詔勅だったんだ。だから直接は聞いてないんだよ。部下が伝えに来て初めて日本が負けたことを知ったんだ。


──その時はどういうお気持ちでしたか?

周りはみんな悔しがってたりショックを受けてたりしてたけど、僕はホッとしたね。なぜかというとね、教官をやってるときに、日曜日に外出するとそこらへんでまだ4、5歳の子どもたちが無邪気に遊んでるわけ。当時はよもや日本が敗北を認めるなんて想像すらしてなかったから、当然本土決戦になって敵がどんどん上陸してくるだろうと思っていた。そうなったとき、この子たちはどうなってしまうんだろうと、非常に子どもたちのことが気になったのをよく覚えてる。もうその子たちも70歳くらいになってるけどね(笑)。また、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたんだよ。

『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(井川聡/光人社)には池田さんが戦った三大海戦の詳細が記されている

『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(井川聡/光人社)には池田さんが戦った三大海戦の詳細が記されている

そして、生き残ったからには国のため、死んでしまった戦友のために何かせにゃならんなと思ったね。


──大本営への恨みとか怒りとかはなかったんですか?

そんなものはないない(笑)。そもそも大本営なんて雲の上の存在であんまり知らないしね。僕らはひたすら海の上で使命を果たすということしか考えていなかったから。


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