2015年1月アーカイブ

落語で日本文化を世界に広める[後編]

落語のやりがい

──落語をやっててよかったと思うことは?

やっぱり私の落語がお客さんにウケたとき。お客さんの笑顔を見られたときが一番幸せですね。最近は外国人のお客さんも多くなっています。子どもから年配の方まで、外国人と日本人が一緒に笑うのはすごくいいことですね。

あと、終わった後にみなさんのアンケートを読むのが楽しみです。「ダイアンの落語はとてもおもしろかった」「勉強になりました」「これからもっと落語を見に行きたい」という感想をもらったとき、特に「日本人なのに生で初めて落語を観ました」というのがうれしい。その人が初めて見たのが私の落語、それはすごいうれしいですよ! 海外公演でも、日本の落語を見たことない人が来てくれて、「すごく楽しかった。また見に行きたい」とか「次はいつ来るの?」とか言われたらすごいうれしい。よかったよかったと思います。

私は常々いい立場にいるなと思っています。イギリスと日本の2つの文化を知っているから。日本に来る前は日本のこと全然知らなかったけど、日本で勉強したことをイギリスに持って帰れる。とてもラッキーなことです。


──逆に難しい点、たいへんな点は?

習い始めの頃は、古典落語に出てくる言葉や落語の作法を覚えるのがたいへんでした。あとはやっぱりネタを覚えることとネタ通りに演じることがすごく難しかった。

それと落語は男の世界。ネタも男性が書いていたので、登場人物もほとんどが男性。女性は芸者、奥さんくらいでとても少ない。それが物足りなかったし、女性の私が一人で複数の男性を演じ分けるのもすごく難しかった。おじいちゃんとか侍だったら声色や座り方、言葉遣いで演じ分けられるけれど、同じような年齢の人は難しかったですね。演じながら、見る人はちゃんと分かってるかなと不安でした。もっと女性を入れたいと思っていろいろな落語家に相談したら、古典落語なら本当は男性だけど女性に変えていいし、ネタ自体も自由にアレンジしていいんだよと言ってくれたので、楽になったし、演じ方も広がりました。

英語落語を披露するダイアンさん(ドバイ公演にて)

──落語をしているときにたいへんだったエピソードはありますか?

これまでいろんなハプニングが起こりました。例えばお客さんが急に倒れて救急車で運ばれたり、携帯電話が鳴ってそのまま喋り続ける人がいたり、赤ちゃんがずっと泣き止まなかったり。高座が崩れたこともあります。テーブルの上で喋っていたとき、会場のスタッフが脚をちゃんとロックしてなかったから片方の脚だけロックが外れてがくんと傾いて、座布団の上に座ったまますーっと滑り台みたいに床まで滑り落ちちゃった(笑)。お客さんはネタだと思って大爆笑。違う、違う、ネタじゃないよと(笑)。後でビデオを見たらきれいに滑ってて自分でも笑いました(笑)。

好きなことだから耐えられた

──では落語をやめようと思ったことはないのですか? 外国人でしかも女性ということで、かなりつらいこともあったのではないかと思うのですが。

確かにこれまでいろいろな壁がありました。今から16年前くらい、私が落語を始めたとき、「外国人は日本人の心がわからないから落語は無理」とか「女性は落語ができないからやらない方がいい。生け花とか三味線をやった方がいい」とか、落語の関係者やお客さんなどからネガティブなことを言われたこともありました。私だけじゃなくて他の女性落語家も同じようなことを言われていたようです。

それと、落語は日本の文化の中でもすごく歴史のある世界で、私がこれまで全然知らなかった世界。だから偉い師匠と楽屋が一緒になったら敬語の使い方を間違わないか、きちんと礼儀作法ができるか、粗相をしないか、緊張してドキドキしていました。また、当時外国人で落語をやってる人がいなかったから、言葉の問題で壁にぶつかったときに相談できる人がいなかった。それもつらかったですね。

でも私は落語が好きだったから、落語をやり続けたかったから、どんなにつらいことがあってもやめたいとは思わなかった。それと、続けるうちに何百人ものお客さんが私の落語を聞きに来てくれるようになったことで、責任感が持て、ネガティブな声を気にしないようになりました。お客さんからの「今日のダイアンの落語はよかった、おもしろかった」というメッセージが私に落語を続ける力をくれました。つらいこと、たいへんなことはたくさん巡ってきたけど、今はとても楽しいからあきらめなくて本当によかったと思っています。また、なかなか入れない落語の世界に入れてとてもラッキーだったと思います。


──そういう意味では枝雀師匠との出会いは大きいですね。

本当にそうですね。もしあのとき、枝雀師匠の落語を見なかったら落語家になっていないかもしれません。今何をやっているか、日本にいるかどうかもわからない。私の人生は枝雀師匠との出会いで完璧に変わりました。運命だったと思います。

おかげで今、落語を仕事にしているから毎日すっごい楽しい。いつもいろんな人に会ってるし、退屈な日は全くありません。新しいネタを考える時間がないとか、忙しくてあまり寝られないこともありますが、落語はネタさえ覚えれば世界中どこでもできるから、いい生活をしてるなと思っています。

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落語以外のさまざまな活動

──落語以外の活動についてももう少し詳しく教えてください。

はい。落語の次に多いのが講演会ですね。落語と講演会を同じイベントですることが多いです。講演は日本語だけど落語は英語ですることもよくあります。テーマは「ダイアンから見た日本」とか、働きたい女性に送るアドバイスなど、いろいろです。あとは東日本大震災のとき、被災地でボランティア活動をしていたときの話もよくします。

呼ばれるのは学校が一番多いです。高校や大学、最近は中学校も増えてきています。企業や国際交流のイベントに呼ばれることもあります。これから外国に行く人のためにダイアンの経験談を話してくださいというオファーで、外国に住んでて困ったこととか心配してたこと、外国語を覚えるテクニックというテーマも多いです。また、バルーンアーティストとしても活動していて、幼稚園や保育園、ショッピングモールなどでショーをやったりしています。

それから、いろんなワークショップ・講習会も行っています。子どもたちにステージに上ってもらって落語を体験してもらう落語のワークショップをはじめ、バルーンアート、着物・ゆかたの着付け教室、ラフターヨガ、風呂敷活用術、生け花教室、即興劇などバラエティ豊かです。

バルーンアーティストとしても活動

──着付けや生け花、風呂敷など日本の文化を教えているのが興味深いですね。

着物に興味をもつ女性が増えているせいか、着付け教室を開いたらたくさん集まります。たぶん私が外国人だから参加しやすいんだと思います。英語でも日本語でもOKなので英語を習いたい人や英語で遊びたい人も来ます。「英語で着付けを覚えましょう」とか「落語で英語を覚えましょう」とプラス英語のテーマをつけたら2つの勉強になるから興味を持つ人が多いですね。

風呂敷は個人的に好きなんです。日本人はみんな風呂敷を使えると思っていたのですが、今は使っている人、とても少ないですね。だから風呂敷教室を開いたらたくさんの人が集まりました。生徒さんはみんな日本人です。みなさん、「日本人だけど風呂敷を使えなかったからこれから使いたい」と言っていました。いい話だなあと思いました。

永住権を取得

──日本の永住権を取得しているそうですが、相当日本が気に入ったってことですよね。どういうところが?

いろいろあります。先にもお話しましたが、私は古くて歴史あるものが好きで、日本には何百年もの歴史と伝統を誇る文化財がたくさんあります。これまで京都や奈良にはたくさん行きました。また、私は変わってることが好きで、日本で初めて体験することがたくさんあったから退屈な日は1日もなかったです(笑)。

それから人がいいです。みなさんやさしくて親切でフレンドリーで楽しい人ばかり。日本人のすごくいいところは質問したら丁寧に深くまで説明してくれる点。日本の文化のこと、歴史のこと、マナーのこと、全部一生懸命教えてくれる。それはすごくありがたいですね。


──日本は暮らしやすいですか?

はい。日本に来たばかりの頃は言葉の問題でわからないことやたいへんなことがたくさんあったけど、今はとても住みやすいと感じています。大阪ですごくいい場所を見つけたことが大きいですね。今私が住んでいるのは、すごく長い歴史があって昔ながらの長屋がたくさん残されている貴重な地区です。昔は落語家も何人か住んでいました。街の雰囲気もいいし、みんな古いものを守ろうとしています。近所の人もみんなやさしくて、家の裏は着物屋さんで、近くには生け花の先生や茶道の先生もいて、みなさんすごくいろいろ教えてくれます。とてもいい人に囲まれてます。

大阪城の近くで、自転車でどこでも行けるからとても便利。近くに空堀商店街という古い商店街があります。活気にあふれている大好きな商店街です。商店街を歩いていると「ダイアン、これ持ってってー」とか「ここ座ってちょっとお茶して行きー」とかみんな私に話しかけてくれます。だから一人で散歩しても全然大丈夫。すごいいい人ばかり。そういう意味でもすごくいい生活しています。

ここに引っ越ししたばかりのとき、友だちに「ダイアン、今どこに住んでるの?」と聞かれて「カリフォルニア商店街の近くよ」と答えました。「カリフォルニア? それ、どこにあるの! アメリカ?」「違う違う、日本の大阪」って(笑)。最初はカリフォルニア商店街だと思ってたんだけど、よく調べたらカリフォルニアじゃなくて空堀(からほり)だった。あははは(笑)。当時はまだ日本語がよくわからなかったからね。

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ダイアンさんから見た日本

──ダイアンさんは今の日本についてどのように感じていますか?

私が来た頃(1990年)と比べてだいぶ変わった、ちょっと国際的になってきたね。日本人は柔らかくなってきたと感じます。来日した当時、日本人は仕事や会社が1番大事で家族は2番というイメージでした。最近は家族が1番になっているような気がします。

景気もだいぶ変わったから、大学を卒業して会社に入ったらそのまま30年、40年働くのが当たり前だったけれど最近はそうじゃないですね。「どこの会社で働く」じゃなくて、自分でやりたいことを探して仕事にしている人、例えば起業したり、デザイナーやカメラマンになる友だちが増えてきました。それはすごく変わったと思います。もっとも私自身が個人事業主なので、周りにそういう友だちが多いからかもしれませんが。

日本人の生活も変わったと思いますね。働く女性が増えました。昔の日本人女性は結婚する前に生け花や茶道や着付けを習っていました。でも最近はみんな仕事で忙しいから習う時間がない。それと核家族が増えて昔みたいにお爺ちゃん、お婆ちゃんと一緒に住んでいないから、子どもの頃に家で日本文化やマナーを教えてもらうということが少なくなっています。着物の着付けも昔はお婆ちゃんに教えてもらっていたけど、今はそんな機会もずいぶん減っています。一人暮らしでは着物を持ってても着る機会も滅多にないですよね。そういう人たちから着物をもらうこともよくあります。住宅も洋風化が進んで和室がどんどん減っているように感じています。ちなみに私の家には畳の部屋が2つあります(笑)。

あとですね、日本の人は自分の国の文化に対してもっと自信をもっていいと思います。日本の文化は世界中ですっごい人気なんですよ。世界の多くの人がかっこいいと思っているし、あこがれています。だって世界中のどこに行ってもみんな日本のことを知ってるし、勉強したいという人もたくさんいるんですよ。でもそれに気づいている日本人はとても少ない。だから日本人は自分の国の文化にもっと自信や誇りをもっていい、自慢してもいいと思う。若い人たちにはもっと日本の文化を勉強してくださいと言ってます。

2つの大震災を経験

──1990年から現在まで日本で暮らしているということは阪神淡路大震災も東日本大震災も経験しているということですよね。特に阪神淡路大震災は大阪在住ということもあり、たいへんだったのでは?

地震が起こったとき、すごく大きく揺れて、大パニックになりました。2階で寝ていたのですが飛び起きて、階段を使わずに1階まで飛び降りました。足がちょっと痛かったけど大丈夫でした。家の壁の音もギシギシ鳴って、すごく怖かった。


──その時はイギリスに帰ろうとは思わなかったんですか?

さすがに悩みました。ショックで1カ月くらいはあんまり寝られなかったね。また地震が来るかもととても心配でした。イギリスの両親は帰ってくるかと聞いたんですが、まだ帰りたくなかったので大丈夫、帰りませんと答えました。


──東日本大震災ではボランティアもされていたんですよね。

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被災地にて自衛隊員と

はい。神戸の地震のときは、みんなすぐ手伝いに行けたけど、東北は行きにくいし、年配の人が多くて手伝える若い人が少ないと思ったので、震災発生後2週間後くらいに被災地に入りました。言葉では言えないほどひどい状態でした。雪が降ってすごく寒かった。最初に行ったときは2週間くらい滞在しました。


──被災地ではどんな活動を?

避難所では落語やバルーンアートで被災した方々を元気づけた

子どもたちは学校が避難所になってたから学校に行けないし、外で遊べないし、退屈していてとてもかわいそうでした。親たちも疲れとストレスが溜まっているようでした。みなさんに苦しみや悲しみを少しでも忘れてもらいたい、元気になってもらいたいと避難所で落語をやったりバルーンアートをやったりしました。すると、みなさん、笑ってくれました。うれしかったし、あんなひどいことがあったのにすごいなあと思いました。そういうことを4回ほど被災地に行ってやりました。


──印象に残っていることは?

いろいろありましたね。被災した人たちは、周りの大勢の人も家をなくしたり、肉親を亡くしたりしていたから、自分が苦しんでいてもその悩みを他の人に言えませんでした。だからみんな相当ストレスがたまっていたと思います。

でも私は部外者だったので、たくさんの人が私に個人的な悩みや困りごとを打ち明けてくれました。それが驚きでもあったし、うれしくもありました。私のことを信じてくれてるんやろなと思って。私は何にも言わない。聞いてるだけ。悩みは人に話すだけでストレス発散になるでしょう。だからセラピストみたいな感じだったと思います。たくさんの人から悲しいこと、苦しいことを聞きました。そんなとてもつらい状況の中でも私の落語を見て笑えるみなさんの強さに感動しました。

この東日本大震災でボランティアをしたことが私の人生を一番大きく変えたターニングポイントになりました。

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東日本大震災が人生のターニングポイントに

──それはどういうことですか?

ボランティア「アウトドア義援隊」のスタッフと一緒に

実は、2011年は個人的にもとてもつらい年でした。母が心臓の大きな手術をすることになったので、1カ月イギリスに帰りました。心配で心配でとても大きなストレスでした。幸い手術は無事成功してほっとして日本に帰って、また仕事頑張ろうと思った矢先に東日本大震災が起こりました。その影響で半年先まで決まっていた仕事が全部キャンセルになってしまったんです。こんなことは日本に来て初めてでした。

さらに、私のパソコンがハッキングされてハードディスク内の15年分のデータが全部消えました。その上、フリーメールのログインパスワードを乗っ取られて、アドレス帳に登録していた約1000人の知人に「マドリードで強盗に襲われて、お金を取られてしまいました。このままでは出国できないから○○銀行にお金を振り込んでください」という嘘のメールが一斉に送られたんです。中には落語の師匠たちもいて、すごいショックでした。とても恥ずかしかった。

ちょうどそんな一番つらいとき、家族から、母が今度は肺の手術をしなければならなくなったからイギリスに戻ってきてくださいという連絡が来たんです。そこでストレスはもうマックス。ほんまに私が病気になりそうなくらいストレスで全然寝られませんでした。

避難所にてバルーンアートを披露

そんなとき、東北で出会った人たちの顔が心の中に浮かんできたんです。あの人たちはもっとつらくたいへんな目にあっているのに生きるために必死で頑張っていました。彼らに比べたら私の問題なんてめちゃめちゃ小さいよ、ダイアンは大丈夫よ、と自分に言い聞かせていたら段々と気持ちが落ち着きました。そして乗り越えようという気力が湧いてきました。すごく助かりました。

その後もハプニングや悲しいこと、つらいことがあっても平気になりました。私自身、すごい変わったと思う。これからどんなことがあっても大丈夫でしょう、乗り越えられるでしょう(笑)。東北で会った素晴らしい人たち、一人ずつ全員にありがとうと言いたいです。

好きなことが仕事になるのはとても幸せ

──落語を含め全部好きでやり始めたことが仕事になっているということがすごいと思います。

そうですね。全部自然にこうなりました。最初から何にも決めていなかった。何かになるためにこんなことをした、というのがないんです。落語にしても落語家になりたいなんて全然思っていなかった。おもしろそうだなと思って始めたのがあっという間に仕事になりました。バルーンも同じです。


──好きなことで生活するというのはいいものですか?

とてもいいですね! 今の仕事は大好きでパッションがあるから、それで生活できるのはすごく幸せ。ありがたい、ラッキーだと思います(笑)。それに自分が好きでやりたいことであればすごい努力するからスキルアップにもつながりますしね。

仕事とプライベートのバランスは大事

──働き方についておうかがいしたいのですが、これだけたくさんの種類の仕事をもっていれば毎日すごく忙しいんでしょうね。

はい。本番以外にも打ち合わせや練習や新しいネタを考えるとか、毎日何かしら仕事をしています。でも仕事とプライベートのバランスはすごく大事ですね。私はついつい働き過ぎてしまうタイプだから。毎日働いていたら新しいアイディアが生まれてこないし、しんどくなります。ちょっとだけでも休憩したらリラックスできてパワーや新しいアイディアが湧いてきます。だからすごく忙しいときでも無理矢理にでも時間を作って友だちと食事をしたり、1日だけ海に行くなどしてリフレッシュするように心がけています。あとは大好きな海外旅行に行くことも大事ですね。絶対に年に何回かは行くようにしています。遊びと仕事のバランスを取るのは難しいけど、最近できるようになってきました(笑)。


──今後の夢、目標を教えてください。

夢はいっぱい持ってますね! まず今いい感じで増えている英語落語の海外公演をもっともっとやりたいです。もっとたくさんの人に落語を紹介したい。それと今、日本の古典落語や創作落語を英語でやっていますが、逆にイギリスの物語を落語にして日本人に紹介したいとも思っています。子どもの頃に聞いていた物語を落語にしたらおもしろいと思う。文化エクスチェンジですね。

また、子どもが大好きだから、落語やバルーンアートなど私ができるパフォーマンスで、将来子どもの番組をやりたいです。あとは元々デザイナーで物を作るのが好きだから、着物と帯の生地を使って、洋服や帽子やリュックサックなどを趣味で作っています。それらの作品をみんなが売ってほしい、もっと作ってほしいと言うから、いつかダイアンズブランドを立ち上げたいと思っています。

そして、将来の大きな夢として、自分の本を出したいです。かなり前から、いろんな人に今までのダイアンの経験を知りたいと言われているので、少しずつメモを書いてるけど、なかなかまとめて書く時間がありません。私にとっても、本を書くことで忘れていた自分の思い出が戻ってくるから、いずれは書きたいと思っています。

落語で日本文化を世界に広める[前編]

日本在住25年の理由

──まずはイギリス出身のダイアンさんがなぜ日本に住むようになったのか、その経緯を教えてください。

そもそもの原点からお話すると、私は幼稚園の頃からほんまに外国語を喋ってみたいとか外国に行きたいと思っていたんです。子どもの頃は好奇心がいっぱいでしょう? 父や母によくいろいろな物語の本を読んでもらったり、いろんな国の民族衣装を着ている人形を買ってもらっていたことも影響しているのかも。それで自然と外国への興味が広がり、知らない世界に住んでみたいという気持ちが強くなっていったんだと思います。


──お父さんとお母さんもインターナショナルな方なのですか?

父は伝統的なイギリス人タイプで、アドベンチャーには全く興味がない、落ち着いたマイペースな性格。飛行機にも乗れません(笑)。そもそもイギリスは日本と同じ小さい島国だから外国に行くのはたいへんなことなのです。反対にお母さんは若い頃にヨーロッパを一人で旅行してました。当時ではすごく珍しいことです。アドベンチャー好き。性格もいつも趣味や家事などいろんなことをしてて忙しそうにしてる。だから私はお母さん似ですね(笑)。

世界放浪の旅へ

──日本に来るまではどんな生活を?

小さいころから何かを作るのが好きだったので、アーティストになりたかったんです。ファッションか建物か絵かいろいろ悩んだのですが、グラフィックは幅広くいろいろなものを作ることができるので、リバプールでグラフィックデザインの勉強をしました。学校卒業後もリバプールで少しデザインの仕事をしていましたが、やっぱりデザインの本場はロンドンなので、しばらくしてロンドンのデザイン事務所に移って、グラフィックデザイナーとして雑誌やカレンダー、名刺、ポスターなどのデザインを手がけていました。

大人になっても世界中を旅したいという夢はもっていました。長期で行きたいと思ったら貯金せなあかんから、夜はレストランでウエイトレスの仕事もしていました。そしてある程度お金が貯まった1988年、世界放浪の旅へ出かけました。

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タンザニアのザンジバルにて

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ブラジルのリオのカーニバルにて

──期間やルート、訪れる国など予定は立てていたのですか?

いいえ。どこを回るとか、いつまでとか何の予定も立てず、両親にも「ちょっと行ってきます」とだけ言って、リュックサックひとつで出かけました。いわゆるバックパッカーですね。お母さんは「すぐに帰ってくるでしょう」と言ったけど、お父さんは「ダイアンだから帰ってこないだろう」と言ってました(笑)。私は何も不安はなかったです。

資金が尽きたらオーストラリアやニュージーランドなど訪れた国のあちこちでアルバイトをして、貯まったらまた次の国へ出かけました。

1990年、来日

──日本に来たのはどういった経緯で? それまでは日本に対する興味とか立ち寄る予定はなかったんですか?

全然なかったです。取りあえずオーストラリアまで行ってみて、先のことはそれから考えようと思ってました。

ニュージーランドのスキー場でアルバイトをしていたときにアメリカン人のバックパッカーと友だちになりました。彼女は以前、1年間日本の大阪に住んでたことがあって、「日本は絶対楽しいからぜひ行ってほしい」と言われたんです。でもちょうどその頃、日本はバブル期だったので、バッグパッカーにとっては日本は物価が高い国として有名でした。他のバックパッカーは「日本に行ったらお金がなくなるからやめた方がいい」と言う人もいましたが、彼女は「日本は治安がいいし、日本人はやさしくて親切だから、もしお金がなくなってお腹が空いていても誰かがご飯を食べさせてくれるから大丈夫。行ってください」と強く勧めました。それなら大丈夫かなと思い、1990年、バンコクに行った後、日本に来たんです。


──日本に来てからはどうしたのですか?

私に日本を勧めてくれた友だちが大阪に住んでいたので、取りあえず大阪に行きました。それからヒッチハイクで北海道から四国、九州など日本中を全部回り、大阪に戻って住み始めました。


──なぜ大阪に?

大阪に友だちができたのが大きいですね。最初の何カ月かはアメリカ人の姉妹と3人で大阪のマンションに住んでいました。あと、私は小さい頃から伝統的な物、古い物、アンティークが好きで、大阪なら古い寺院や仏像がたくさんある京都や奈良にもすぐ行けるから大阪がええかなと。

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日本文化にハマる

──当初、大阪ではどんな生活を?

茶道と華道のお稽古中のカット。後に両方とも師範の資格を取得

日本の文化に触れたかったので、友だちにまず陶芸の学校を紹介してもらって習い始めました。その後、生け花の学校に通い始めました。生け花を勉強したらデザイン関係の仕事に役に立つかなと思ったし、師範の資格を取ったら生徒に教えることもできるかなと思ったからです。生け花を習っていたときに、大阪でかわいい長屋を見つけて引っ越して一人暮らしをするようになりました。その家を見つけるまでに8回くらい引っ越ししました。めっちゃ気に入っていましたが、事情があって住めなくなったので、また別の長屋を探して住み始めました。

生け花の師範の資格を取った後は茶道や着物の着付けも習いました。日本の文化をひとつ知って好きになると、また別のことを習いたい、もっと深く日本のことを知りたいと思うようになったんです。特に着物が大好きで、落語を始めてからはさらにハマり、今では着物300着以上、帯は100本以上持ってます。


──日本に来たときは日本語が全然できなかったわけですよね。どうやって覚えたんですか?

あまりちゃんとは勉強していません。当初は日本に住むつもりなんてなかったから、中途半端な日本語を覚えても意味がないと思っていたからね。でもだんだん日本が気に入って2年目に一人暮らしを始めると、やっぱり自分で何でもやらなあかん状況になってきて日本語の参考書を買って勉強しました。あとは日本人の友だちとの会話を繰り返すことで覚えました。


──言葉の壁は大きな問題だと思うのですが、コミュニュケーションで苦労したことは?

最初の方は、日常会話はできるけど、心から説明したいことや、深い話はできなかったのがつらかったね。敬語も難しいね。あと日本語は読み書きがすごい難しい。今でも難しいけど、今はアシスタントがいるから大丈夫です。

特に困ったのは食べ物の問題ですね。私はベジタリアンなので野菜しか食べられません。肉や魚はもちろん、かつおだしもダメだから、それをうまく人に説明できなかったのが一番のストレスでした。食材の買い物をするときも、漢字が読めないので使われている材料がわかりません。心配で何も食べない日も多かったです。


──知り合いもいない、言葉もわからない異国の地に来たばかりの頃はさびしさは感じませんでした?

大阪でのウイッグパーティーにて

私は元々寂しがり屋じゃないから一人でも全然大丈夫。一人で世界を回っていたからどうしても自分でも何でもやらなきゃいけないし、行く先々ですぐ友だちを作っていたので。


──友だちはどうやって作ったのですか?

元々人と話をするのが好きだから近所の人や遊びに行ったときに出会った人、友だちの紹介で知りあった人と仲良くなりました。

「電車でマンガ」にびっくり

──カルチャーショックを受けたことなどは?

日本に来る前は日本に対してのイメージが全然なかったので驚きの連続でした。電車の中で大人が堂々と漫画を読んでいるのを見たときは笑いましたね(笑)。決してバカにする意味じゃなくて、外国ではそんな光景は見たことがないから単純におもしろかったんです。最近はあんまり見ないですね。みんなスマホだから(笑)。


──最初から日本に住もうと思っていたわけではないんですよね。それを決めた決定的な出来事はなかったんですか?

最初はバッグパッカーの気持ちで、いつかは日本を去ってまた別の国に行くつもりだったけど、いろんな日本文化に触れるたびにもうちょっと日本にいたいと思うようになり、気がつけば家に荷物がどんどん増えて、完全に定住してしまいました(笑)。いつ日本に住む意志が決まったのか、はっきりとは覚えていません。少しずつ、ですね。友だちからは「いつもダイアンは自分はバッグパッカーや言うてるけど、家に家具も着物も道具もたくさんある。完璧に住んでるやろ」とツッコまれるのですが、「そやね、住んでるよね」と答えています(笑)。

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外国人女性落語家として

──ダイアンさんの現在の活動について教えてください。

落語を披露するダイアンさん

メインの仕事は落語です。国内外を飛び回って日本語と英語の両方で落語の公演をしています。その他は講演会、バルーンアート、着物・ゆかたの着付け教室などのいろんなワークショップをしています。


──国内外で日本語と英語の両方で落語を披露している外国人の落語家はおそらくダイアンさんだけだと思うのですが、落語をするようになった経緯は?

日本に来て6年くらい経ったころ、英語落語の先駆者だった桂枝雀師匠(1999年死去)に英会話を教えていた私の友だちから、「今度の落語会で枝雀師匠が外国人のお茶子を探しているんだけどやってみない?」と声をかけてもらいました。(※編集部注:落語のお茶子とは、寄席で落語の舞台でめくりと呼ばれる落語家の名前が書かれた紙の札をめくったり、座布団を裏返したりするアシスタント)

落語なんて1度も見たことがなかったから、かえって枝雀師匠の迷惑になるかもとちょっと悩みましたが、その友だちから「大丈夫、お茶子の仕事は全部教えるから。それに着物が着られて、舞台に出れるよ」という言葉を聞いて、「やるやる!」と即答しました。日本に来た当初から着物が大好きだったのですが、自分の着物を持ってなくて茶道や生け花をやるときに知り合いに着物を借りて着ていました。めっちゃ着物が着たかったのでこれはチャンスやと(笑)。

それから枝雀師匠を紹介してもらって、落語やお茶子の作法を教えていただき、本番の日を迎えました。初めて間近で落語を見たとき、『時うどん』という古典落語の英語落語だったのですが、枝雀師匠のパフォーマンスにめっちゃびっくりしました。目の前に一つの旅の風景が現れたんです。うどんをおいしそうに食べるシーンでは本当に食べてるみたいでした。たった一人で座布団の上に座ったままで、声や表情、身振り手振りだけで、何役も演じて、一つの世界をつくれるのが本当にすごいなとめっちゃ感動したんです。これまで見たことのない世界でした。私は子どものころから物語が好きだったので、師匠の落語にすぐに引き込まれ、私自身が旅をしているような気分になりました。それがすごく楽しかったんです。お客さんも全部その世界に入ってしまっていました。

同時に、どうしてこんなにすごい落語という文化が外国で有名じゃないんだろう、この素晴らしいパフォーマンスのことを誰も知らないんだろうと不思議に思いました。当時外国で英語で落語をやってた人は枝雀師匠くらいでしたから当然といえば当然なのですが、もったいないと思いました。それ以降もときどきお茶子をやらせてもらって、いろいろな人の落語を間近で見ているうちに、自分でも落語をやってみたいと思うようになり、英語落語の道場に入って勉強し始めたんです。

落語の習得に励む

──道場ではどんなことを習ったのですか?

まずは落語についての基礎知識から入って、小道具の使い方、目線の配り方や喋り方などの演技の仕方やストーリーの作り方などを学びました。だんだん慣れてくると、道場に行く前に小咄を作ってみんなの前で演じたりしてました。落語の勉強はすごい楽しかったですね。ほんまに趣味で始めたから。最初は仕事にするつもりなんて全然なかったです。

98年、落語家デビュー

──初めてお客さんの前で落語をしたのは?

落語家としてのデビューは1998年。大阪の寄席でした。最初は他の落語家さんたちと一緒にいろんな場所に行って落語をしていたのですが、だんだんダイアン一人で行くことも増えてきました。一人でやるようになったことで、自分だけの落語ショーをつくらなあかん状況になり、着付けも自分でやらなきゃいけなくなったから着付けも覚えました。


──「ダイアン吉日」という芸名はやはり「大安吉日」から?

そうです。ラッキーデイ・ダイアン(笑)、ラッキーな名前なので落語家になる前から名乗っていました。日本に来たばかりのときに、ジョークで「ダイアン吉日です」と自己紹介したら、ちょっと間があってみんな「おお~! うまいなあ」とウケたので、これを芸名にしようと決めたんです。


──上達するために工夫したことは?

とにかく練習と実戦を繰り返すのみですね。何でも1回目よりも10回目の方が確実にうまくなっているでしょう? とにかくお客さんの前でやらなきゃだめですね。ウケるかウケないかも、お客さんの前でやることで初めてわかります。自分の頭の中だけで「これ絶対おもろい」と思っても、お客さんが笑わなかったら意味ないので。それを繰り返すことで、段々とウケるコツがわかってきたんです。ウケなかった部分は外国人の私にとってはおもしろいかもしれないけど、日本人にとってはそんなにおかしくなかったということ。その理由を「どうしておもしろくなかったと思う?」と日本人の友だちに聞いていました。それを繰り返すことで、文化の違いでおもしろくなかったんだとか、おもしろくするためにはこうすればいいんだということが段々わかってきたんです。

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国内外で公演

──現在、落語は大阪近辺でやることが多いのですか?

やっぱり一番多いのは関西ですね。東京にも行くことありますし、日本全国どこへでも行きますよ。


──日本で英語落語をするときに心がけていることは?

いつも、見に来てくれたお客さんみんなに英語落語を楽しんでほしい、100%満足してほしいと思っています。それが一番大事なこと。だから全部英語でやるんじゃなくて、そのとき会場にいるお客さんに合わせています。例えば子どもや年配の方が多いときは日本語を多めに混ぜたりゆっくり喋ったりします。だから英語に自信がなくても、一回英語落語を聞きに来て、自信を持つようになる人も結構いるようです。そういうネタを選んでやっています。


──英語落語は海外でもよく公演しているんですか?

はい。デビューの翌年には米国で、2001年には英国で公演しました。他にもこれまで、インド、フィンランド、ノルウェー、エストニア、ドバイなどで落語を演じてきました。これからもっともっといろいろな国で落語をやりたいと思っています。


──外国人は落語を理解できるんですか?

それは最初、私も心配していました。私の落語でアメリカ人は笑うかなと。でも全然心配する必要なかった。やってみたらアメリカ人も日本人とだいたい同じところで笑ったんです。これは落語のいいポイントね。落語はジョークで観客を笑わせるスタンダップ・コメディじゃなくて、ストーリーテリング・ウイズ・コメディ。ビギニング、ミドル、エンディング、ちゃんと起承転結のストーリーがあるからみんなわかるんです。その間にちょいちょいジョークを挟んで笑いを取る。

もちろん日本語をそのまま英語に直訳してもわからない部分もあるので、ちょっと変えます。駄洒落とか言葉遊びとかですね。日本のことをよく知らない外国人には「まんじゅう恐い」のネタはわからないでしょう。外国にはまんじゅうがないから(笑)。だからまんじゅうを鮨に変えるなどしてときどきアレンジしています。

そうすると、だいたい同じ所でウケます。これは落語のマジックですね、マジックパワーね(笑)。だから初めてアメリカで落語をやったときびっくりしました。「みんなちゃんと笑ってる!」って(笑)。イギリスでやったときも、特にユーモアを大事にする国だから、笑わなかったらどうしようと心配だったけどみんな笑ってほっとしました(笑)。


──アメリカやイギリスの人って落語を知ってるんですか?

いえ、まだ知っている人はほとんどいません。もちろん外国で落語をやってる人もいないし。でも始める前に10分くらい落語について説明すると全然問題ありません。また、初めてアメリカで落語をやるとき、日本人じゃないのになんで日本の文化を紹介するんだとお客さんに思われるんじゃないかと思いましたがそれも全然問題なかった。


──海外ではお客さんはどのくらい入るものなのですか?

国にもよりますが、ドバイでやったときは日本の大使館のWEBサイトで宣伝してくれたこともあり、たくさんの人が集まりました。落語を知らない人でも日本に興味のある人はたくさんいるんですよ。

落語で子どもが変わった

──これまで印象に残っている海外での落語経験は?

いろいろありますよ! 例えばドバイでやったとき。お客さんの中に日本人の子どももいて、100%日本人なんだけどドバイで生まれ育ったから落語を聞くチャンスがなかった。そんな日本に住んだことがない子どもたちがドバイでダイアンの英語落語を聞いて一緒に笑ってる。これがすごくおもしろかったね。落語は世界中のどこでもできることがわかりました。

あとはインド公演。高校でやったとき、生徒さんは落語を観たことなかったけど、喜んでくれました。最後に落語のワークショップをやったとき、ある女の子を指名してステージに上ってもらって一緒に小咄をやりました。ちゃんとできたのですが、後で、このときはびっくりしたと先生が話してくれました。というのも、彼女はちょっと心に問題を抱えてて、みんなと一緒に教室で授業を受けることができない子だったんです。日本語ではどういうのかわからないけれど......。

インドで英語落語を披露するダイアンさん

──日本で言えば保健室登校のような子どもでしょうか。

だからその生徒さんを選んだ時、先生含めてみんな「ダメ、ダメ! 間違った!」と思った。でも高座に上がったらダイアンと一緒にちゃんと落語ができました。だから先生たちもすごいびっくりしてました。私も感動しました。そういう子だとは全然わからへんかった。このことがあってから、その女の子にはちょっと自信がついたようですね。落語は想像の世界だから、通常ではできないことができた。それが自信となってその後の現実生活でもできるようになったのかなと思います。


──すごくいい話ですね。落語で人を変えられるんですね。

はい、こういう話を何回も聞きました。私が選んで高座に上がってくださいと言うと、最初は無理とかやりたくないなーとか言うけど、高座に上がって落語をやっているうちに楽しくなってくる。みんなと一緒に笑うことはいいことでしょ。だから生徒もちょっと自信がつく。それがうれしいね。いろいろね、いいエピソード、いっぱいあります。


──海外で落語をするのは何かとたいへんなこともあるんじゃないですか?

いえいえ。落語は場所も取らないし、大きな道具も必要じゃない。ステージがなくても丈夫なテーブル、着物や座布団と扇子や手ぬぐいなどの小道具さえあればできます。これらはどこにでも持っていけます。これが落語のいいところなんですね。だからこんなに素敵な落語を世界のあちこちでもっと紹介したいね。外国に行ったとき、落語をできるところあればできるだけやるようにしています。

人を笑わせるのはすごく大事なことです。海外で落語をやることで日本の文化を紹介できますし。特に外国で日本の文化はすごいあこがれなんですよ。みんな日本のことを好きだけど深くは知りません。よくわかんないけどかっこいいみたいなイメージです。特に漫画やアニメ、建築物などは見るチャンスがあるけど、落語などの日本の伝統的なパフォーマンスを見る機会はほんとに少ない。だからたくさんの人が集まってくるんですね。だから私には責任があると思う。日本の文化を正しく伝えるという責任が。だからできることをもっと頑張りたいですね。

それに私自身も外国で落語をするのがとても勉強になるんです。実際に外国人のお客さんの前で落語をすることによって、彼らにとってどういうことが難しいとか何がわからないのかがわかるようになるから。


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