2017年11月アーカイブ

途上国での医療支援活動

途上国の病院で手術を行う岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

途上国の病院で手術を行う岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

──岩田さんの現在の医師としての活動について教えてください。

フリーランスの顎顔面口腔(がくがんめんこうくう)外科医として、1年の3分の1以上、主に東南アジアの途上国に行って病気やケガで困っている人たちを治療しています。


──どんな国に行っているのですか?

今、定期的に行っているのがカンボジア、ラオス、ミャンマー、ブータン、中国、スリランカくらいですね。あとは単発でいろいろな国に行っています。


──どのくらいの頻度で行っているのですか?

岩田雅裕-近影1

毎月、どこかの国に行ってます。多い時で2回行くこともあるので、年間20回くらい行ってますね。ミャンマーから日本に帰ったその翌日にまたカンボジアに行ったこともあります。最も多いのがカンボジアで、去年(2016)の夏に通算100回を超えました。カンボジアに初めて行ったのは18年前の2000年。そこから少しずつ回数が増えて、2013年に勤めていた病院を辞めてフリーランスになってからは爆発的に増えました。そのためにフリーになったわけですが(笑)。


──現地では具体的にどのような疾患の治療を行っているのですか?

顎顔面口腔外科とは、口腔(口の中)、顎、顔面、首周りなどの疾患を扱う診療科です。治療で一番わかりやすいのは親知らずの抜歯ですね。といっても途上国ではそのような簡単な治療ではなく、現地の医師では治療できないような難しい手術を行っています。そもそも現地には専門医がいないんですよ

唇裂口蓋裂の幼児(写真提供:ウィズアウトボーダー)

唇裂口蓋裂の幼児(写真提供:ウィズアウトボーダー)

例えば顔面にできた腫瘍を摘出したり、子どもの場合は唇裂口蓋裂(しんれつこうがいれつ)という唇や上顎が割れてる先天異常が圧倒的に多いですね。あと口腔内・頚部・鼻部の病気や交通事故や転落などによる骨折も多いです。顔面付近の疾患なので見た目や生活に直結し、進行すると命に関わる非常に重要な分野です。

ただ、途上国では治療する範囲が日本のようにはっきりと区別されていないので、その辺は曖昧です。手術は、現地の医師と一緒に行っています。


──その報酬は現地の患者さんや病院からもらっているのですか?

いえ、現地には日本のような国民皆保険制度などはないし、特に農村部の人たちはとても貧しいので、診察・手術などの治療はすべて無料で行っています。渡航費や滞在費などの経費も患者さんや病院からはいただいていません。

劣悪な医療環境での超タイトスケジュール

──途上国の医療事情はどんな感じなのですか?

現地の病院には骨折の手術に必要な器材、プレート、スクリューなどが不足しているため、あるもので何とかするしかない(写真提供:ウィズアウトボーダー)

現地の病院には骨折の手術に必要な器材、プレート、スクリューなどが不足しているため、あるもので何とかするしかない(写真提供:ウィズアウトボーダー)

劣悪のひと言です。とにかく医療関係の道具がね、ないんですよ。本当にないんです。ベッドから検査機器、医療設備、医療器具、材料、医療スタッフまで、全部が圧倒的に不足しています。カンボジアなどに行ってみて改めて日本の医療環境の素晴らしさを実感します。どんなに小さい病院でもだいたいの器具や材料はありますからね。だからいつもあるもので何とかするしかない。糸鋸を使って手術することもあります。


──1回の滞在期間と治療人数は?

だいたい1週間から10日程度で、朝から夜まで病院を2、3ヵ所巡って、70人くらいの患者さんを診察します。病院と病院の距離が離れていて、次の病院まで行くのに車で6時間くらいかかることもよくあります。1日で手術するのは多い時で昼間に7、8人、夜に4人の最大12人程度。先日は最後の手術が終わったのが22時半でした。それが月曜日から金曜日まで続く感じですね。時には半月ほど滞在していろんな地方を巡って手術をすることもあります。ここ10年くらいはこのペースです。


──ものすごいタイトスケジュールですね。

岩田雅裕-近影2

今はこんなにすごくタイトなスケジュールですが、18年前に初めてカンボジアに行った頃はそうではなくて、到着した日に患者さんを診察して手術できるかどうかを決めて翌日に手術するという割とのんびりした感じだったんです。患者さんの総数が少なかったので、手術する人数も1日1人、1週間で2、3人程度でした。でも通ってるうちにだんだんうちにも来てくれという病院が増え、それにともない患者さんもどんどん増えていって今のようなタイトな状態になったわけです。

診察・手術には何より信頼関係が必要ですからね。田舎はコミュニティが小さいので、「日本からこういう先生が来てて、こういう病気を治してくれる、しかも無料で」という情報がすぐに伝わります。すると手術した病院の医師は違う病院の医師に伝えて、またそこから口コミで広まってうちの病院にも来てくれという依頼が来る。それが地域だけじゃなくて国境まで越えた。ラオスやミャンマーに行くようになったのも、カンボジアの医者が僕のことを伝えたからですしね。その繰り返し、積み重ねでここまで増えたんです。基本的に昔から頼まれたらどこでも行くというスタイルなので(笑)。

途上国には岩田さんの妻で、岩田さんの活動を支える一般社団法人「ウィズアウトボーダー」の代表でもある宏美さんも同行し、岩田さんの活動を全面的にサポートしている。ちなみに現地での写真も宏美さん撮影。ブータンにて(写真提供:ウィズアウトボーダー)

途上国には岩田さんの妻で、岩田さんの活動を支える一般社団法人「ウィズアウトボーダー」の代表でもある宏美さんも同行し、岩田さんの活動を全面的にサポートしている。ちなみに現地での写真も宏美さん撮影。ブータンにて(写真提供:ウィズアウトボーダー)

──これまで手術した患者さんは何人くらいなんですか?

海外だけで3000人を超えてますね。


──1回の滞在で70人の患者さんを診るってすごいですね。

僕が行くことは事前に告知されていますから、実際はもっとたくさんの大勢の患者さんが集まるのですが、とても全員は診きれないんですよ。70人が限界で、20人くらいは次回に持ち越しになります。だから可能な限り何度も通っているわけです。

岩田さんが来る際は患者が押し寄せる(写真提供:ウィズアウトボーダー)

岩田さんが来る際は患者が押し寄せる(写真提供:ウィズアウトボーダー)

でもカンボジアの人は、次に来てくださいと言った患者さんの半分くらいは来ないんです。だからその後どうなったかわからない人もたくさんいます。どこか他に病院で治療してもらっていればいいのですが、そのままあきらめて家にいるかもしれない。そんな人がたくさんいるんです。心配ですが現状、こればっかりはどうしようもないんですよね。

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現地での活動内容

カンボジアの病院で患者のレントゲンを見ながら手術前のミーティングを行う岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

カンボジアの病院で患者のレントゲンを見ながら手術前のミーティングを行う岩田医師(写真提供:ウィズアウトボーダー)

──現地に到着してからの活動について詳しく教えてください。

たくさんの国や地域、病院に行っているのですが、その行き先によっていろんなパターンがあります。例えばカンボジアの小児病院の場合は、最初に行った日に患者さんがたくさん集まってるんですよ。僕が行く日が決まっているので、その日に集中するんです。その中でどの人を手術するかというのを診察して決めて、手術していきます。

それ以外であれば、例えばネット環境が整っている病院の場合は現地に行く前に患者さんの顔の患部のレントゲン写真を送ってもらって、それを見ながら現地の医師とディスカッションして、手術日を設定します。

このような事前に手術日を決められる患者さんもいれば、中には当日、手術室に入って初めて病状がわかるという患者さんもいます。例えばその国に到着して、迎えに来てくれた人に今回の1週間のスケジュールを聞いた時に、「明日が手術で明後日が大学で講義」と言われるんだけど、その手術がどんな手術か全然わかってない(笑)。翌日病院に行って、初めてレントゲンを見せられたり、ひどい時には患者さんがすでに麻酔をかけられてベッドに横たわってて、「はい、手術をお願いします」みたいなこともあります(笑)。


──そんな状況でよくとっさに対応できますね。

最初はさすがにびっくりしましたよ。日本では絶対にありえないですからね。日本では前もって何回も患者さんを診察していろんなドクターと一緒に議論して方針を確定して初めて手術が決まるので、手術日には全部把握できています。だからスムーズに手術ができて失敗も少ないわけです。

でも途上国ではこういうケースが毎回のようにあるので、やっていくうちに慣れました。今では何もわからない状態でいきなり「これから手術して」と言われても、「ああ、そう、わかった」って動じなくなりましたね(笑)。

なかなか病院に来ない患者

──今までいろんな途上国で3000件以上の手術を行ってきた中で、特に印象に残っているものがあれば教えてください。

岩田雅裕-近影3

どれも日本ではほとんど見ないような重篤なケースばっかりなのでもう全部ですね。時々、スタディツアーで日本人の医師を連れて行くのですが、彼らは必ず「こんなひどい症状は教科書でしか見たことない」と言うくらい病状が進行している患者さんばっかりなんです。日本ではもっと早い段階で手術しますからね。

一番わかりやすいのが、唇裂口蓋裂という生まれつき唇が割れている先天異常で、日本の場合は生後3ヶ月で手術をするので、日常的に唇が割れている子どもを見かけることはないですよね。

でも、僕が18年前にカンボジアに来た頃は、唇裂口蓋裂の3、4歳の子どもはそこら辺にたくさんいたんです。中学生や大人でもいました。でもこの18年の間に情報が広まったり、僕や欧米から来た医師がたくさん手術してるので、だいぶ日本の状況に近づいてきて、生後1歳までにはほぼ手術をしてる状況になっています。ただ、それはプノンペンなどの都市部の話。地方ではまた全然違っていて、18年前から環境や生活が全く変わっていないので、いまだに大人でも、唇裂口蓋裂の人がいます。まだまだこれからですね。

また、もっと深刻な患者さんもいて、例えば顔にできた腫瘍が大きくなりすぎて、呼吸も満足にできなくなってるような人もたくさんいるんです。


──なぜみんなそんなに病状が進行するまで病院に来ないのでしょうか。

まず、顔にできた腫瘍や先天異常などは、すぐに死ぬような病気ではないからです。それとやっぱりみんな貧しくてお金がないからですよ。僕が通ってる地域の人たちの平均月収は1万円以下。なのに日本みたいに国民皆保険制度なんてものはないから医療費は全部実費。カンボジアの小児病院は無料なのですが病院まで来るための交通費や滞在費は絶対かかりますからね。だから現地の人たちはかなり病状がひどくなって、どうしようもなくなるというギリギリの状態にならないと来ないわけです。

病院に行くことを決断したとしても、そのために田舎から出てくるというのは一大イベントで、牛一頭売ってそのお金で子どもを病院まで連れてくるお母さんもたくさんいるんです。

それでもさっき言ったように全員診られるわけじゃないから、僕が来る日は、順番待ちのために2、3日前からずっと病院に泊まってる人も大勢います。

経費もすべて自費

──年間の3分の1は海外で医療活動をしていて、手術代などの治療代や現地までの渡航費や滞在費もすべて自費ということですが、その費用はどうしているのですか?

岩田雅裕-近影4

日本にいる時にフリーランスの医師として稼いだお金で賄っています。

ただ、一昨年(2015年)、毎日放送の『voice』というテレビ番組に出たことで、ありがたいことに寄付をしたいという方が多数現れたんです。それでその窓口を作らなければならなくなって「一般社団法人 ウィズアウトボーダー」を設立しました。ここにいただいた寄付は治療にどうしても必要な材料とか機器の購入や、転院しなくちゃいけないんだけどそのお金がない患者さんへの交通費、患者さんがCTを撮るための費用などに使わせていただいています。ほとんどの患者さんはCT代も払えないんですよ。これまで3000件以上手術をやってきましたが、その内の8割くらいはCTなしで、触った感覚で手術をやらざるをえませんでした。CT代が出せるようになったのは寄付をいただけるようになってからです。


──寄付金も自分たちのためには遣わずに、現地の患者さんのために遣っているんですね。

そうですね。基本的に自分の活動費は自分で負担するようにしています。


インタビュー第2回はこちら

新規事業の立ち上げに尽力

──現在の経営者としての安田さんの仕事内容を教えてください。

安田祐輔-近影1

昨年(2016年)、株式会社の方は共同社長制にして、元副社長だった人にもう1人の社長になってもらいました。NPO法人の方は僕が理事長のままですが。社長が僕だけだと会議が多すぎて嫌になってきたんです。数字を見て事業をどう伸ばしていくかを考えて戦略を立てるのは得意ではあるものの、好きじゃなかった。

だから今は現場の実務は基本的にもう1人の経営者に任せて、僕は新規事業を立ち上げたり、本を執筆したり、発達障害の研修をやったり、渋谷区と一緒に低所得家庭向けのクーポン制度を作ったり、奨学金付与のため寄付を集めたりということを主にしています。

あと、去年からパレスチナで起業家支援もやっているんです。ガザ地区はイスラエル軍による空爆で町が破壊されて、失業率が高いのですが、復興しようと頑張っている若者がいて。彼らの起業の支援をやっているんです。今は国際機関や民間企業に勤める方々とボランティアでやっているのですが、いずれ何かしらの事業になったらなと思っています。

2016年8月にガザで開催されたビジネスコンテストの様子(安田さん提供)

2016年8月にガザで開催されたビジネスコンテストの様子(安田さん提供)

こんな感じで1、2年後に向けての仕込みが多いですかね。当たるのは半分くらいだと思うので、取りあえず数を撃とうかなと(笑)。

自由な働き方

──働き方としてはどんな感じですか?

安田祐輔-近影2

一度、会社の規模がそれなりに大きくなった時、自分のリソースをどこに何%使ってるか稼働管理をしようとしたのですが、そういうのは向いてないのでやめました(笑)。今は好きな時に好きな仕事をして好きな時に休むという感じです。

毎日同じ場所に出社するとかもしてません。それがそもそも苦手なので(笑)。今は家で仕事をしていることも多いです。土日は仕事のスケジュールが入らないので原稿を書いている事が多いですね。

休んでいる時や遊んでいる時も、今後の事業プランを考えていたり、将来的に事業に関連する本を読んでいたりするので仕事とプライベートの区分けは事実上ないですね。

だから働き方としてはストレスがない状態です。でも好きな時に働いて好きな時に休むというのを社員に認めてもらうのが大変でしたけどね。特に大きな会社からうちに転職してくる社員にはなかなか理解されにくい。どうして社長はいつもいないんだとか。最初は自分がおかしいのかなとけっこう悩んだのですが、他の創業社長に話を聞くとみんな同じような感じだったので、今は自信をもって自由な働き方をしています。

生徒が見違えるほど変わるのが喜び

──今、仕事の魅力、やりがいはどんな時に感じますか?

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キズキのWebサイトに掲載されている入塾した生徒たちの体験談

経営者って95%はやりがいなんてなくて、つらいことの方が多いんですよね。確かに会社の売り上げが伸びていくのはうれしかったですが、それも起業して2、3年で、それ以降はあまりうれしさも感じなくなりましたしね。

現場で生徒を教えていた頃はやりがいを見出しやすかったです。例えば元生徒だった子が後に講師になるケースも多いのですが、そういう時はすごくうれしいですよね。支援を必要としていた側から支援する側へ回るというのは素晴らしいことだと思います。

また、困難を抱えている子がキズキに入塾することでがらっと変わることもよくあるんですよ。長年引きこもっていて、最初会った時は手が震えて下を向いて何も喋れなかったんだけど、その後頑張って難関大学に合格したという子は珍しくありません。いじめから学校を辞めた子がキズキを経て大学に行き、アルバイトを始めて貯めたお金でバックパッカーとしてミャンマーやタイを旅するようにまでなった子もいます。その子が旅先のファーストフード店で「自分が引きこもりから脱して、今バンコクにいるのはキズキのおかげだ。それがなければ今頃僕はどうなっていただろうか。まだ薄暗い自分の部屋に引きこもったままかもしれない。いつかキズキのために何かやりたい」とある日Facebookに書き込んでいたり。関わりの少ない生徒からある日「僕が言うのも変だけどキズキを作ってくれてありがとうございました」とメッセージが来たり。やっぱりこういうのはすごくうれしいですよね。

安田祐輔-近影3

今は何ですかね、やりがいって。何かあるかな......。しいて言えば、たまにふらっと代々木や秋葉原の教室に行った時、社員やアルバイト講師や生徒など、たくさんの人々が集まってわいわいやっているのを見た時ですかね。7年前、うつ病になって会社を辞めてひきこもって、そこから何とかしなきゃと思って起業したわけですが、もし起業していなかったらこんなにいろんな人が集まる場は生まれなかったし、起業したから社員とその家族が生活できている。7年前の自分を思うと感慨深いものがありますし、自分がやってきたことに誇りも感じられます。

あとは最近本を書いているのですが、新しいチャレンジなので楽しいですね。来年(2018年)初頭に2冊続けて出る予定です。また、新規事業も「社会にまだ存在していないが、社会が必要としていること」を出す瞬間なので、楽しくやっています。

モチベーションの保ち方

──なかなかやりがいを見出しづらい状況の中で、どうやってモチベーションを保っているのですか?

ダイレクトにやりがいを感じられることを定期的にやるようにしています。やっぱり僕は現場が好きで、社会にとって意味がある事業を新しく立ち上げることがすごい好きなので。

例えばさっきお話したパレスチナでの起業家志望の若者の支援はすごく楽しかったです。彼らを指導したら、見違えるように事業プランがよくなったしプレゼンもよくなった。大変な状況にあるパレスチナで起業していこうという若者を支援することで、彼らの人生ががらっと変わるかもしれない。そういうお手伝いできたというのがすごいうれしくて。

ガザでパレスチナの起業家たちと(安田さん提供)

ガザでパレスチナの起業家たちと(安田さん提供)

僕にとってキズキに来る子の支援もパレスチナの起業家の支援も同じなんですよね。困難な状況の中でもがいている人を支援したいというだけなので。こういうダイレクトにやりがいを感じられることをある程度定期的にやることでモチベーションを保っているという感じですね。

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仕事とは"やらなければならないこと"

──安田さんにとって仕事とはどういうものですか?

安田祐輔-近影4

昔は仕事観についてはすごく悩みました。僕、働くのが本当に嫌いで、できれば働きたくないんですよね。ゲームと読書をしているときが一番幸せなので、ひたすら家でそれらをしていたいというのが偽らざる本音です(笑)。

ひきこもりの就労支援をする時によく話すのが、仕事(ワーク)にはライス、ライク、ライフの3種類があるということ。「ライスワーク」は食っていくためにする仕事。それは否定されることじゃないし、それで家族を養って幸せな家庭を築くのも立派なことですよね。「ライクワーク」は好きなことを仕事にするということ。それも楽しいし幸せな人生になります。「ライフワーク」は自分のミッションのため、使命感をもって人生を懸けて取り組む仕事。これも尊いことですよね。同じ意味で、大学の時の恩師に「仕事にはレイバーとワークとミッションがある」と教えてもらったことがあります。

そういう意味で言うと、僕にとって仕事とはライフでありミッション。この問題は僕にしか解決できない、僕がやらなければならないと思うことだけを仕事にしたい。そのために働いている。それが最近わかってすっきりしたんです。だから社会にあるいろいろな問題を解決するためにいろんな事業を仕掛けたいなと思っているわけです。

「僕にしか解決できないだろう」という問題がなくなれば、早く会社を売って家でゲームやってるか本を読んでいるだけの人生を送りたいと思っています(笑)。

ただ、仕事ってその人の価値観によるものなので、ライフ、ライク、ワークのうちどれがよくてどれがダメという優劣のある話じゃないんですよね。特に引きこもりの就労支援や当塾に学びに来る子たちに上から「働くってこうでなきゃいけない」という価値観を与えたくないんです。そういう価値観の押し付けに、これまでみんな苦しんできているので。

例えば学校ってたかだか100年くらい前に誰かが作ったにすぎない制度じゃないですか。にも関わらず、大人たちに「とにかく子どもは学校に行かなきゃいけない」と言われて無理矢理行かされ、学校に馴染めない子は合わない自分がダメなんじゃないかと思い悩むので。人はそれぞれ自分に合った生き方ができて、職業的に自立さえできれば何でもいいんじゃないかと思ってます。仕事にしても教育にしても、僕は誰かに自分の仕事観を押し付けたくないなと。

人生は物語

──若者に伝えたいメッセージは?

安田祐輔-近影5

大人は子どもや若者に夢をもてとか、いい大学、いい会社に入れとよく言いますが、そんなことは聞く必要はありません。夢なんてなくたって家族がいて幸せだったり、好きなことを仕事にできてて毎日が楽しいという人も大勢います。夢なんてなくていいから、自分が人生に何を求めているかを明確にして、自分らしく、自分が楽に生きられるような生き方を見つければいいのかなと思います。


──特に今、生きづらさを抱えている、未来に希望がもてない子どもに対しては?

アメリカのある政治哲学者が「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語の中に自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」と言っているんですが、僕も首尾一貫した自分なりの物語を歩むことが、幸福や自己肯定感に繋がるのかもしれないと思っているんです。

若い時に大きな壁にぶつかっていろいろ悩んで挫折をした人は、大人になった時、「あの時こういう経験があったからこそ今の自分がある」と思える。その方が何の苦労もなくストレートにいい大学、いい会社に入るという順風満帆な人生よりは、豊かで味わい深い人生だと感じられるし、自分の生き方を肯定しやすいと思うんです。つまり、挫折経験が自分の人生の物語を豊かにしてくれるスパイスになる。

安田祐輔-近影6

だから挫折して希望が見えない人には、今はつらくて苦しいかもしれないけど10年後はそれがあってよかったと思える日が来るから、今の苦しい気持ちもわかるけど苦しみすぎる必要はないよ、そんなにひどく落ち込まなくてもいいよ、絶望しなくていいよと伝えたいですね。

例えば、うちの講師の半数は、自身が高校中退、不登校、引きこもりを経験しているんですが、だからこそかつての自分と同じような苦しみを味わっている子を支援したいと能動的に思うわけです。実際にそういう子たちと触れ合って仕事が楽しいと思えたら、「若い時に挫折しててよかった」と思える。それも彼らの人生の物語を豊かにしているんですよね。


──安田さんご自身も、中学から一切勉強せず高校もまともに通っていないのに自分の人生を変えたいと一念発起して高3から必死で勉強して2浪してICUに合格したり、せっかく入社した会社もうつになってわずか4ヵ月で辞めてからキズキを起業してここまで会社を成長させたりとすごい物語ですよね。

結果だけ見るとそうなんですが、僕の場合は圧倒的な意思の力で頑張って自分の人生を切り開いてきたわけではなく、ただ運がよかっただけなんですよ。大学受験だってICUには何とか引っかかりましたが、それも直前に読んでた論文が試験に出たからなだけです。他の大学は全部落ちてます。起業も同じで、お金が尽きて困ったから起業するしかないなと思ったからだし、偶然ビジネスコンテストがあったからだし。いつもギリギリのところで偶然、救われているんですよね。

今後の目標

──その運も安田さんがその時懸命にもがいたからこそ呼び寄せたのだと思います。今後の目標は?

安田祐輔-近影7

インタビューの冒頭でも話しましたが、究極の目標は「何度でもやり直せる社会を創る」ということ。キズキの授業を通じて、困難を抱えている人がもう一回立ち上がって頑張れるようにしたい。そのためにキズキ共育塾を全国に広げたい。また塾だけではなく、さまざまな支援をどんどん提供できる会社にする。それが目標ですかね。

やらなきゃいけないことが本当にたくさんあるのですが、現時点でまだ全然実現できていません。だから常に焦っています。例えば組織で働く人のうつの問題。僕自身、入社後会社に馴染めなくてうつになって辞めたという経験があるのに、その課題に対して自分がほとんど解決策を出せていない。

ようやく最近、発達障害を抱えた人がうつで退職せずに会社の中で活き活きと働けることを目的に、企業の管理職を対象とした研修を始めました。でも、それだけではまだまだ不十分。だからこの次は、企業研修にとどまらず、発達障害・うつで休職している方を直接ケアできるような場所を創りたいと思っています。また、従業員に復職してうまく働いてもらいたいと思っている経営者がいたら、そのサポートもしたい。

また、同じ発達障害の子ども・若者に特化した学習塾も開こうと思っています。これは来年の春くらいに始めたいなと。

こんな感じで、キズキはNPO法人と株式会社を合わせて、将来的には、「民間版の市役所の福祉課」のような団体になりたいと思っています。まず困った時には、「キズキに相談に行こう」と思えるような団体になりたいです。

30年後に、今課題だと思っている全ての社会課題に対して具体的かつ有効な解決策を提示できていれば最高なんですけどね。


商社に就職も鬱で退職

──商社に就職してみてどうでしたか?

安田祐輔-近影1

もう地獄の日々でした。まず、無理矢理決められた時間に出社しなきゃいけないのが耐えられなかった。お客さんのアポがあれば朝起きるのは苦じゃないんですが、用もないのに8時半とかに会社に行かなければいけないのが意味がわからなくて。でも上司は来るのが当たり前だというわけですよ。

あとお昼の12時にチャイムが鳴ってみんな一斉にランチタイムに立ち上がるのも本当につらくて。どうして大人なのに子どもみたいにこんなに管理されなきゃいけないんだろう、会社なのに学校みたいだと思っていました。僕はそもそもまともに高校に行けていませんからね。

真夏でも社内では革靴を履かないといけなかったのですが、これもつらかった。のちに僕は軽度の発達障害だとわかったんですが、発達障害の方の一部に見られる感覚過敏のせいで、僕は長時間、靴を履いていられないんですよ。でも内勤なのに脱いでいたら上司に怒られるので、無理して履いていたら蒸れて水虫になって。「どうして社外の人に会わないのに脱いじゃいけないんだろう」とずっと思ってました。

仕事の内容もPCを使って油田の投資の計算をやらされたのですが、こういう作業ってそもそも得意じゃなかったのですごくつらかった。同期には東大理系の院卒で石油工学を専攻していたような人がいたので、そういう人がやった方がいいだろうと。

さらに、自分が関わっている仕事が正しいと思えなかったこともつらかったですね。アフリカで起こる紛争の多くは資源の奪い合いで起きるわけですが、当時の仕事は、間接的にではありますが紛争の片棒を担ぐ行為になる可能性もある。そのことを上司にどう思いますかと聞いても「そんなことは考えもしなかった」と。何が正しいかなんてわからないけれども、それでも僕は正しさに悩む人たちと一緒に働きたかった。

それでも我慢して働いていたのですが、入社して4ヵ月くらい経ったある日、デスクで仕事をしていたら突然全身から冷たい汗ががーっと吹き出してきて、まともに呼吸もできなくなりました。パニック障害を引き起こしてしまったんです。すぐに病院に行ったら鬱病だと診断されて、そのまま会社に行けなくなり、1年間の休職期間を経て退職しました。高校時代のアルバイトと同じく、就職しても4ヵ月しかもたなかったんです。

地獄のひきこもり生活

──休職期間はどのような状態だったのですか?

安田祐輔-近影2

会社に行けなくなって半年間が一番ひどかったですね。最初に行った病院がひどくて、こちらの話を聞かず適当な問診で誤診されて、強い薬をたくさん飲まされたんです。それでうつ病がひどくなり、ひどくなるからまたどんどん薬を出されるという悪循環で。どんどん体調が悪くなって常にめまいがして、ものが揺れて見えたり、幻覚まで見ていました。だからまともに起きてられなくてだるくて1日15時間以上寝てました。そういう状態が半年以上続いたんです。あの時は本当にやばかったですね。まさに地獄でしたよ。二度とあれは味わいたくないです。


──そこからどうやって立ち直ったのですか?

さすがにこのままではまずいと思って医者を変えたら、今度はいい医者で、薬を変えたり減らすなどした結果、徐々に症状はよくなっていったんです。

そうこうしているうちに休職手当が切れて食えなくなるから、なんとかして働かなければと、この先のことをいろいろ考えました。今回の経験から、自分が働く上で必要不可欠な3つの条件がわかりました。1つは勤怠管理などされない自由な環境。成果にコミットするのは苦じゃないから、結果さえ出せばあとは自由みたいな環境がいいなと。2つ目は自分が得意な仕事。3つ目は正しいと思える仕事。この3つを満たしてないとダメなんだと気づいて、もうサラリーマンは厳しいかもと思いました。

でも一応、ハローワークとかに就職相談にも行ったんですよ。でも当時リーマンショック直後でまったく求人がなくて。しかも僕、4ヵ月で辞めてますからね。そんな人間を雇ってくれる会社なんてなかった。それで会社に就職するのはもう無理だと完全にあきらめました。

高校生の時アルバイトは無理だと思ったから大学に入って、卒業して就職したんだけどやっぱりダメで。同じことの繰り返しで結果の先延ばしをしただけ。自分はなんてダメな人間なんだろうと落ち込みました。でもなんとかして食っていかなければならないので、自分で事業をやるしかないんだろうなと思ったんです。26歳くらいのことです。

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ビジネスコンテストで入選し起業

──それでキズキを立ち上げたのですか?

安田祐輔-近影3

いえ、まだです。自分でやるしかないとはいえ、食うために僕がもってるスキルはほとんどない。商社も4ヵ月で辞めてるわけですし。いろいろ考えて英語ぐらいしかないなと思い、「留学経験なしで英語を身に着けた元商社マンが教える」というキャッチコピーでマンツーマンの英語の塾・家庭教師を始めたんです。商社に4ヵ月しかいなかったのに(笑)。それでチラシを1000枚くらい刷って大型マンションのポストに入れまくったら何件か申し込みがあって、英語を教えることでなんとか食えるようになったんです。当時、生徒は4人で月収15万くらいだったのでギリギリの生活。当時は食っていくのに必死でしたね。

でもやりながら、「本当に英語塾をやりたかったわけじゃないよな、自分が正しいと思うことをやらなきゃ」と思っていました。そんなある日、当時の政権の内閣府が社会起業をしたい人に対して支援金を出すというコンテストを見つけました。これだ! と思い、事業計画書を作成してコンテストに応募してプレゼンしたら、運良く入選。他のビジネスコンテストの賞金も合わせると合計で190万くらいもらえたんです。その時書いた事業内容が、今運営している高校中退者やひきこもり専門の塾だったんです。


──なぜその時、そのような塾をやろうと思ったのですか?

ビジネスコンテストに応募するため、どういう事業をやるべきかと考えた時、バングラデシュで「人の尊厳を守るような仕事がしたい」と思ったことを思い出したんです。でも当時はビジネス経験がなかったので具体的にどうすればいいんだろうと悩み、結局就職しました。僕のもつスキルは人に勉強を教えることぐらいしかしかない。でも勉強を教える「だけ」であれば、本当にやりたいことではないし、人の尊厳を守るような仕事でもない......。

悩んでいたある日、ふと自分の人生を振り返ってみたら、高3で大学に行こうと思った時に本当に困ったことを思い出したんです。大手の予備校に通おうと思っても、当時不良で金髪にしてたりして派手な見た目のせいで入塾を断れられたこともあったし、体験授業を受けても中1から勉強してないから講師が何言ってるのか全然理解できないんですよ。

安田祐輔-近影4

さらに僕が授業を理解できていないということが隣に座っている子にはバレてるはずなんです。それがすごく恥ずかしかった。これらの経験で、勉強をやり直すってのはゼロから教えてもらわないといけないし、かつ人の目も気になるから大変だなと痛感したんです。

そんなことを思い出した時、僕のような学校に行ってなくて教育機会がなかった子に勉強を教える塾にはもしかしたらニーズがあるかもと思ったんです。今でこそそういう塾はありますが、当時はほとんどなかったので。

前にもお話した仕事の3つのこだわりを満たして、なおかつ食えると思ったので、不登校やひきこもり専門の塾の事業プランを書いて応募したんです。そして、その賞金を元手に2011年に起業して、始めたのが「キズキ共育塾」というわけです。

起業後の苦労

──最初から経営は順調だったのですか?

いえ、立ち上げてから1年間は生徒が1、2人しか来なくてどうしようと思っていました。


──生徒が増えたきっかけは?

1つはWebマーケティングです。最初は当社のWebサイトは適当で、むしろいろいろなところにチラシをまくことを中心に行っていたのですが、生徒数が全然増えない。そこで、ひきこもりの方にはWebでアプローチするしかないと思いました。それで取りあえずやってみようと、Webのことを勉強してひきこもりにリーチするようにしっかり作ったら、問い合わせが増えた。それが最初のきっかけです。

キズキのWebサイトには魅力的なコンテンツが多数アップされている

キズキのWebサイトには魅力的なコンテンツが多数アップされている

もう1つはPRです。立ち上げ当初は僕自身も教えていましたが、僕以外にも3、4人の大学生インターン生がいました。その子たちに「大学生たちで塾を作りました」と在京の新聞社に電話を掛けてもらったのです。スタッフは、僕1人、大学生3、4人なので、嘘ではないし、「大学生がひきこもり支援をしている塾」は新聞社としても魅力的なネタだろうと思って。そしたら思惑通り、毎日新聞と産経新聞が取材に来て記事を掲載してくれて、それから一気に入塾者が増えたんです。生徒が増えると彼らのニーズがより詳細にわかるので、それをWebサイトに反映させたらさらに入塾者が増えるという好循環で今に至っています。


──安田さん自身が不登校やひきこもりの子の気持ちがわかるとはいえ、実際にそういう子たちに勉強を教えた経験はなかったわけですよね。最初からうまく接することができたのですか?

講師をしていた頃の安田さん

講師をしていた頃の安田さん

僕もいきなり教えるのは無理だったし、始めの頃は手探り状態だったのでたくさん失敗をしました。

でも試行錯誤を繰り返すうちに、不登校・中退の方の支援って一般企業の営業職と似ているということがわかってきました。ごく一部ではありますが、いわゆる「先生」って、生徒の気持ちに寄り添わずに上からものを言う方もいらっしゃるじゃないですか。でも一般企業の営業職って自社の製品やサービスを売りに行く時、相手は何を望んでいるんだろうな、どうやったら相手の望みをかなえてあげられるかなと考えながら話しますよね。不登校・中退の方の支援も同じで、相手の心に寄り添ってコミュニケーションを取ればいいということに気づいたんです。そういう意味ではうちの塾の講師は、教育経験の有無はあんまり関係ないんですよね。実際、うちの講師は教員だった方・教員を目指されている方もいれば、全く関係のない前職・専攻の方もいます。

また、採用した講師がひきこもりの生徒にうまく接したり教えたりできなくてクレームがバンバン来た時期もありました。だから講師のクオリティを上げるために採用の仕方を変えたり、研修も取り入れました。3、4年目くらいからですかね、いい感じで回り始めたのは。その後、生徒数は順調に増えて、現在は代々木、秋葉原、大阪の3つの教室で約250人が学んでいます。11月には池袋に教室を増やす予定です。


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