2017年5月アーカイブ

宮野森小学校、新校舎完成

2016年12月に竣工した宮野森小学校新校舎
2016年12月に竣工した宮野森小学校新校舎

2016年12月に竣工した宮野森小学校新校舎

前・東松島市長の阿部秀保氏

様々な困難を乗り越え、ついに2016年12月、市内最大規模となる防災集団移転促進事業の「野蒜ケ丘」(野蒜北部丘陵)地区に宮野森小学校の新校舎が完成した。新校舎は各教室や図書室、体育館まで国産の木材がふんだんに使用され、屋内に入らずとも建物の前に立つだけで木の香りが漂う。採光面積を広く取っていることで室内に陽の光が大量に差し込み、とても明るく温かい。裏手には整備されて生まれ変わった復興の森があり、正面からは海も見える。震災から6年、「森の学校プロジェクト委員会」が発足してから丸5年。行政、企業、大学、NPO、地域住民など志を同じくする老若男女が力を合わせて、理想とする"森の学校"を作ることができた。そして2017年1月9日に落成式が、10日に始業式が執り行われた。

前・東松島市長の阿部秀保氏は落成式の時のことが忘れられないという。「新校舎を目の前にして子どもと親御さんの笑顔を見た時に、この学校をつくってよかったなと心底思いました。木造校舎は子どもたちの動きが違いますよね。非常に生き生きとして木とじゃれ合っているように見えました。この木造の校舎では失われつつあるコミュニケーションが再び活発に行われ、生き生きと学べる。1月9日に校舎を歩いてそう感じました」

温かい木のぬくもりあふれる校舎で子どもたちも笑顔に

温かい木のぬくもりあふれる校舎で子どもたちも笑顔に

子どもたちが誇れる学校

元野蒜小の子どもたちは約6年間、仮設校舎に通っていた。校庭で思いっきり走ることもできないし、夏のプール授業は他の学校のプールを借りざるをえなかったため、6年生は自分の学校のプールに1回も入ったことがない。この6年間は子どもたちにとって非常に厳しい状態だったのだ。このようなことは当事者者でないとわからない。

元復興政策部部長の高橋氏

元復興政策部部長の高橋氏

「今の学校になってからは、子どもたちは休み時間になると校庭にぴょーんと飛び出していくんですよ。それがとてもうれしいんです。今まで子どものそんな姿は見られなかったから。何より子どもたちがこの学校を気に入ってくれて、誇りに思ってくれていることがうれしいです。自分の学校が大好きだという小学生ってなかなかいないですよね。この地域にはお母さんやお父さん、兄弟、親戚を亡くしたお子さんも大勢いて、心の痛手を抱えながら勉強してきたわけなんですが、この学校なら、そのようなすごく酷な体験をして非常につらい目にあってきた子どもたちが今まで苦労した分を取り返せるかなと。私もこれまで何とか子どもの笑顔を取り戻したいという思いでこのプロジェクトに関わってきて、省庁協議も含めて予算獲得、地域へ説明、業者変更など、その都度、1つひとつ課題をクリアしてここまでこぎ着けただけに、このような素晴らしい学校ができて本当によかったと思います。市としては教育への投資という、財政出動を伴いましたが、それにふさわしい学校ができたと考えています」

笑顔でこう語る元・東松島市復興政策部部長の高橋氏(現在は退職)も被災し、家族を失い、自宅は全壊している。自身も言葉にはとてもできないほどの甚大な傷を負いながら、東松島市のために、子どもたちのために歯を食いしばって文字通り懸命に、復興事業に尽力してきたのだ。

新校舎の校庭で伸び伸び遊ぶ子どもたち

新校舎の校庭で伸び伸び遊ぶ子どもたち

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地域再生の切り札に

卒業式の様子。6年生は3学期を新しい校舎で過ごせた

卒業式の様子。6年生は3学期を新しい校舎で過ごせた

3月18日には初めての卒業式が行われ、東松島市長ほか教育長、ニコル氏などが出席した。校舎建設の責任者である工藤教育長の目には光るものがあった。「2012年5月、前任の木村教育長からバトンを受け取った当初は、そもそもこのような校舎を建てることが果たして可能なのか、正直わかりませんでした。何せ当時は山を切り崩したらどうなるとか総工費は何十億とかそんな話をしてたわけですから、よくぞここまできたなと。予想以上の素晴らしい学校になったし、宮戸小学校と野蒜小学校の統合の時のことなどを思い出して、子どもたちの姿を見て思わず涙が出てきました」

森の学校プロジェクトの中心的役割を担い、プロジェクトを率いてきたニコル氏も新校舎を前に溢れ出てくる熱い思いを抑えきれずにいた。「我々はプロジェクトにずっと汗と愛情と魂を注ぎ込んできました。工藤教育長や阿部(前)市長などいろんな方々が賛同、バックアップしてくれたからこそ、この素晴らしい校舎をつくることができたのです。この新しい学校は経済的には地域の負担になったかもしれませんが、必ずこの地域が生き返る切り札になるとも思っています」

"戦友"同士、宮野森小学校でがっちりと握手を交わすC.W.ニコル氏と工藤教育長

現在、宮野森小学校では各科目で復興の森を使った授業が頻繁に行われているほか、3月にはプロジェクト開始以来、森の整備を行ってきた神吉さんらの手によって学校から直接森にアクセスできる道もつくられ、多くの子どもたちが森で楽しそうに遊んでいる。夏には学校と復興の森をつなぐ、森の劇場ができる予定だ。

森と一体となる活動空間「外の教室」で遊ぶ子どもたち

森と一体となる活動空間「外の教室」で遊ぶ子どもたち

すべてはこれから

確かに国内でも類を見ない素晴らしい校舎はできた。しかしこれで終わりというわけではもちろんない。肝心なのはこの素晴らしい森の学校を使って、今後どのような教育を行っていくかだ。

工藤教育長

「木造の素晴らしい校舎が完成しましたが、教育長という、市の教育を担う立場としては、教育の内容が大切だと考えます。豊かな自然がすぐそばにあるという素晴らしい環境にあるのに、自然を全然使わずに、ただ物事を暗記させるという教育をするのなら、このような学校を作った意味はありません。特に低学年の子どもは自然の中で学ぶことで学問への興味が湧いてきて、それが中学、高校まで続けば本当の意味での学力向上に間違いなくつながります。そういう学校にしたいですね。そして、やっぱり一流のものがほしいですよね。校舎も森も一流のものができましたが、私が狙っているもう1つの"一流"は地域の人々とのつながりです。東松島市は"協働のまちづくり"を標榜しているので、地域のみんなで教育に関わって、いい学校にしていきたい。そうすれば最高の学校になると思うんです。そのお手本がこの宮野森小学校になるでしょう。現在でも地域の特色を活かした学校づくりという意味では日本の学校教育の先端を走っていると思います。今後もニコルさんのような一流の方に学校に来て、いろいろな話を聞かせていただくだけでも、子どもの視野も夢も広がります。これからもニコルさんには大いに期待しています」(工藤教育長)

ニコル氏

「これからこの学校はいろんな人の手によって本当の森の学校になると思います。間違いなくこの学校で行われる教育は世界でも先端になるでしょう。そしてこの学校から卒業した子どもたちは必ずこの地域に戻ってくるでしょう。私はそれを初めから信じているんですね。これからこの森の学校でどのような教育を行うかは東松島市のみなさんにお任せします。ただ、また手伝ってと言われたら、ずっと手伝い続けたいですね。それは6年前と変わらない思いです。一時は東松島市に移り住もうかなと真剣に考えたくらいですから。でも黒姫の森の熊との約束があるからあの森を離れることはできない。だけどこの先もできる限りのことはしたいですね。東松島の人たち、子どもたちを愛していますから」(ニコル氏)

5年前にスタートした森の学校づくりは大勢の人たちの熱い思いで、新校舎の完成という大きな節目を迎えた。しかしこの先も森の学校づくりは続いていく。この素晴らしい環境で育った子どもたちは必ずや地域、いや日本を担う人材へと成長することだろう。

C.W.ニコル氏の森の学校での子どもたちとの集合写真

森を使った教育もスタート

2012年8月、C.W.ニコル氏は森の学校づくりを始めるにあたって、東松島市内の5ヵ所の小学校を回り、「森は甦る」をテーマに"魂の授業"を行った。これをきっかけに、復興の森をはじめとする地域の自然を使った子どもたちの教育も学校の授業の一貫として実施されるようになった。2013年から仮設の校舎で学ぶ野蒜小学校と宮戸小学校の3年生を対象にアファンの森財団より出前授業の講師を派遣し、ツリーハウス前の湿地帯や水路、森を使って生き物調べの学習を行なっている。また、5年生を対象として、ツリーハウスの近くの田んぼで地元の農企業「アグリードなるせ」と協力して授業を行なっている(※アグリードなるせの教育系の取り組みの詳細はこちらを参照)。

生き物観察をしながら田んぼと水辺と森とのつながりを感じる授業の様子(2013年10月)
生き物観察をしながら田んぼと水辺と森とのつながりを感じる授業の様子(2013年10月)
生き物観察をしながら田んぼと水辺と森とのつながりを感じる授業の様子(2013年10月)

生き物観察をしながら田んぼと水辺と森とのつながりを感じる授業の様子(2013年10月)

宮戸小学校と野蒜小学校の合同森の授業(2014年)

宮戸小学校と野蒜小学校の合同森の授業(2014年)

また、同じく2013年から学校の授業では教えられない"子どもたちの生きる力を育てる"という目的で土日を利用した課外授業「森と海の学校」を実施。子どもたちは野蒜の復興の森や宮戸の海など、東松島の豊かな自然で森と海のつながりを学んだほか、生きもの観察や、森の整備、野外調理やドラム缶風呂などで大いに楽しんだ。震災発生以降、電気・ガス・水道が使えない暮らしが3ヵ月続いたこの地域で、「自然があれば生き残れるというアウトドアスキルを学ばせたい」というニコル氏の強い思いで、開催されたのだった。

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「森と海の学校」で笹刈りなどの森の整備も

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宮戸の海でニコル氏と一緒に泳ぐ子どもたち

C.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏

C.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏

森と海の学校に参加した時のともみさん(2013年7月)

森と海の学校に参加した時のともみさん(2013年7月)

また、この「森と海の学校」では津波にのまれたことで海に対する強い恐怖心を抱いてしまった子どもたちに、あえて海のプログラムを実施した。その理由について、プロジェクト開始から環境調査や教育のプログラムの企画運営を担当してきたC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏は「この地域と海は切っても切り離せません。だからこそ早く海への恐怖を取り除く必要があると感じました。海も重要な教室の1つなのです」と語る。

前出の山田親子はこの一連のイベントにも何度も参加している。「震災前までは夏は必ず家族や友達と海に遊びに行っていたんだけど、震災後は海が恐くなってずっと離れていました。だから海の学校ではなかなか海に入れなかったのだけど、みんなもいたし元々好きだった海だから思い切って入ってみたらすごく楽しくて。また海が好きになれたからよかったです」(ともみさん)

参加した子どもたちと接してきた大澤氏は「このようなプログラムを通して徐々に子どもたちが元気に逞しくなっていく姿を見て、自然のチカラを痛感しました。私自身もとてもうれしかったです」と笑顔で振り返る。

新しい森の学校づくり

復興の森の方は着々と整備が進められ、生まれ変わっていったが、新校舎の建設の方はスムーズには進まなかった。そもそも東松島市では、今回のコンセプトのような学校をつくったことなどなかった。日本では前例がないことをやるのは非常に難しい。

元・復興政策部部長・高橋氏(現在は退職)

元・復興政策部部長・高橋氏(現在は退職)

「今回のプロジェクトは新たな挑戦だったので正直ものすごく大変でした。すべて国産材でしかも無垢材をふんだんに使うとなると通常の一般的な学校の校舎よりもコストアップにつながります。公立の小学校なのでその費用には税金が投入されます。ですからまずは予算の問題がありました。それに維持管理の問題、工期の問題、設計・建築業者の問題など、最初から問題は山積みだったんです」(元・東松島市復興政策部部長・高橋氏)

しかも、工程が進むにつれて当初の想定とズレが生じてきた。当初は木造の校舎が森の中に点在するデザインだったはずが、気づけばありふれた鉄筋コンクリートの校舎に変わっており、いつしか復興の森プロジェクトと不協和音が生じ始めていたのだ。このままでは「森の学校」の当初のコンセプトである"自然と寄り添う教育の場"が根本から崩れてしまう。危機感を抱いたニコル氏は阿部市長(当時)と2012年5月から東松島市教育委員長を務める工藤昌明氏に、「もしこのままコンクリートの校舎で進めると言うのなら反対はしないが手伝えない」と直談判した。

市長や教育長らに直談判したニコル氏

市長や教育長らに直談判したニコル氏

「プロジェクトを立ち上げる前から、校舎は絶対に木造じゃなければダメだと主張してきました。その理由はいろいろありますが、木造の建物の方がアレルギーやインフルエンザの発生率が低いというデータがあります。もう1つは日本は森の国だから森の資源を使わないとダメ。そして何より木には人の心を癒やす効果があるので、震災で傷ついた子どもにとって木造の校舎がベストなんです。でもプロジェクトの途中で木造じゃなくて鉄筋コンクリートになってしまいそうになったんですね。木造じゃなきゃダメだと必死に戦いましたが、途中で負けてしまうかもと思ったこともありました。この時が一番つらかったですね」(ニコル氏)

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RC化から木造化へ

工藤教育長

このニコル氏の必死の訴えで小学校の建設は見直され、当初のコンセプト通り、木造建築で進められることとなった。この時のことを工藤教育長と阿部市長(当時)はこう振り返る。

「公立の学校は文科省が定めた基準に基づいて造らなければなりません。教育委員会としてももう何十年もそういう学校を造ってきました。だから今回の宮野森小学校のような、これまでにない、新しい発想で学校を造るというのは非常に思い切った挑戦だったわけです。私も熊本の木造校舎の小学校を視察させていただき、木造校舎のよさ、利点は感じていました。だから確かにコストはかかるけれど、ニコルさんのパワーに押していただきながら、最終的に木造の方向で進めることにしたんです。市長に賛同していただいたのも大きかったと思いますね」(工藤教育長)

阿部前市長

「私はニコルさんの思いを理解していましたからね。それに、教育委員会が本当に子どもたちへの教育効果だけではなく、人材育成を含めて将来への投資という意味で木造校舎の方が適切だと判断したならば、それを尊重・支持したいと思ったのです。確かに木造校舎にした方が予算はかかりますが、子どもたちのためにもお金であきらめるという選択はしたくなかった」(阿部前市長)

かくして実施設計で提案コンペ入札が行われ、基本設計でRC化された設計が木造化に変更され、2015年9月、新校舎の施工が開始されたのだった。

防災集団移転促進事業の「野蒜ケ丘」(野蒜北部丘陵)地区で木をふんだんに使った新校舎の建設工事が始まった

防災集団移転促進事業の「野蒜ケ丘」(野蒜北部丘陵)地区で木をふんだんに使った新校舎の建設工事が始まった

小学校統合の裏に隠されたドラマ

この新しくできる学校には、津波によって校舎が破壊された野蒜小学校と児童数が減少していた宮戸小学校を統合し、両校に通っていた児童が入る予定になっていた。市は新たに設立する小学校の名称を市民から募集。選考の結果、学校名は宮野森小学校に決まった。「宮野森」と提案したのは6名。そのうちの1人が夫である雄吾さんとともに、初期段階から森の学校づくりに関わってきた、児童養護施設支援の会の神吉恵子さんである。「統合される宮戸小学校の"宮"と、野蒜小学校の"野"の字はどうしても残したくて、あとは森の学校にするということだったので"森"の字も入れて、宮野森小学校がいいんじゃないかと」。

そして2016年4月7日、市の教育委員会は宮戸小学校と野蒜小学校を統合し、宮野森小学校が開校した。新校舎が完成するまで児童たちは小野地区にある野蒜小仮設校舎に通うこととなった。仮設校舎に通っていた野蒜小学校の児童に加えて、無傷だった宮戸小学校に通っていた児童は新校舎完成前に仮設校舎に通うことになる。なぜ新校舎完成のかなり前にこのような措置を取ったのか。

工藤教育長

工藤教育長

「実は当初、新校舎が完成するのは2017年4月の予定で、それに合わせて両校を統合する予定でした。ところが、校舎完成が早まることになったのです。それならば、あの震災直後、鳴瀬庁舎の仮教室に入学し、その後ずっと仮設校舎で学んできた野蒜小学校の子どもたちが卒業する前に、少しでも新しい校舎で学ばせてあげたいと考えました。だから両校の統合を1年前倒しにして2016年4月にすることにしたのです。しかし統合を前倒しにするということは、宮戸小学校の児童は、自分たちの学校があるのに、新校舎が完成するまで小野地区にある仮設校舎にスクールバスで通わなければならないわけで、様々な議論があったのは事実です。しかし宮戸小学校のPTAの中でも丁寧に議論していただいて、最後は投票までしていただき、僅差で統合賛成に決まって去年の4月に統合できました。その後、様々な課題が次々に出てきましたが、建設会社の方々をはじめ、すべての関係者に努力していただき、2016年12月の校舎完成という目標を達成することができたのです」

インタビュー第4回はこちら

森の学校プロジェクト委員会、発足

森の学校プロジェクト委員会では毎回白熱した議論が展開された

森の学校プロジェクト委員会では毎回白熱した議論が展開された

東松島市からの学校再建の要請を受けたニコル氏らアファンの森財団は、地域本来の自然生態系の中で子どもを育む「森の学校」プランを策定。それを叩き台に2012年2月、東松島市や大学、支援参加企業などと、「森の学校プロジェクト委員会」を発足させ、第1回東松島市「森の学校プロジェクト委員会」会議を開催。さらに7月には東松島市と「震災復興に向けた連携及び協力に向けた協定書」を締結した。この協定は、東松島市の「森林再生や自然環境調査」「環境教育、人材育成」「森林文化の保全と森林資源の活用」「森の学校」に関わることで連携、協力し復興に取り組んでいくというもの。ここに「森の学校」の実現に向けた活動が本格的にスタートした。

2012年7月、「震災復興に向けた連携及び協力に向けた協定書」を締結したアファンの森財団(C.W.ニコル氏)と東松島市(阿部市長・当時)

2012年7月、「震災復興に向けた連携及び協力に向けた協定書」を締結したアファンの森財団(C.W.ニコル氏)と東松島市(阿部市長・当時)

委員会は会議を重ね、また、子どもを含めた地元住民の声に耳を傾ける中で、森の学校の基本コンセプトを「単なる机上での科目の学習ではなく、森の中ですべてがつながっていることを体感として気づくことができ、自然の摂理を感じ、そこから生き方を学び、どんな災害が発生した時でも自分の身を守るテクニックを習得できる環境」とし、具体的には以下のように要点整理した。

  • 野蒜地区の高台、森に隣接した場所に木材をふんだんに使った校舎を建設する
  • 建設予定地の地形を利用し、小規模の木造校舎を点在させ、里山にある集落のような家庭的で温かい空間をつくる
  • 校舎の周辺に畑や田んぼを配置。作物の成長や四季の変化を日々体感することで、地域の自然を理解し、友達や大人と協力し合うことを学ぶ。
  • 熱源は、自然エネルギー(木質バイオマスや太陽光発電を併用する)を使用する。

復興の森づくり

(復興政策部・高橋部長)

「森の学校」は、学校の中だけではなく森も学ぶ場所と位置づけていた。そのため、校舎建設を待つことなく、建設予定地に隣接する森を「復興の森」と名付け、荒れ果てた森を整備しながら森の中でさまざまななことを学ぶプログラムをスタート。その目的をニコル氏は「子どもたちが自然の中で遊び、学び、また森づくりを通じて様々な経験を積むことで元気な心と絆を育んでいくため」と語る。この復興の森づくりは震災復興プロジェクトの中でも活動の柱の1つとなっていくが、素早い対応が可能になったのは、森のある山を東松島市が民間所有者から丸ごと買い上げていたからこそであった。「元々、この山は長年放置されていた荒れ放題の山だったので、そのままにするよりも活用したいと考えていました。また、市としても山に隣接する学校を作るのは初めてだったので、自然学習など森でも学べて、子どもたちが元気になるような場所にしたいという思いもあったのです」(元・東松島市復興政策部部長・高橋氏)

森の学校実現のための活動

ニコル氏たちはまず、復興の森周辺の環境調査に着手。現状の自然環境を正しく認識し記録を残すことで、地域の自然環境を最大限に活かす方法を提案するためだ。その結果、この地域は、ここにしかない特性をもつ森、川、海、田畑など豊かで素晴らしい自然を有することが判明した。2012年8月に"森の学校"づくりのグランドデザインを検証するため、環境調査のデータを元に荒れ放題だった森の現地調査を行い、復興の森と校舎建設予定地を確認した。

森の現地調査の様子

森の現地調査の様子

2012年10月には、復興の森づくりのワークショップをスタート。初回は大人から子どもまで100人を超える多くの地域住民やボランティアが参加した。当日は大規模災害時に生き残るためのアウトドア技術やサバイバルスキルなどを学んだほか、参加者みんなで荒れ果てた山に入りヤブを刈り、道を作るという整備作業を行った。

2012年10月に行われた第1回復興の森づくりワークショップ。大勢の地元住民が集まった
2012年10月に行われた第1回復興の森づくりワークショップ。大勢の地元住民が集まった

2012年10月に行われた第1回復興の森づくりワークショップ。大勢の地元住民が集まった

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みんなで間伐したことで森は見違えるほど明るくなった

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この頃ニコル氏は馬を活用した里山再生を掲げており、八丸牧場の協力によりデモンストレーションとして馬搬を実施した

神吉夫妻とニコル氏(2012年10月)

神吉夫妻とニコル氏(2012年10月)

この時、現場での実作業を担当した1人がNPO法人児童養護施設支援の会の神吉雄吾(理事・事務局長)・恵子(副理事長)夫妻だ。神吉夫妻は元々は埼玉県在住だったが東北の児童養護施設の安否確認のため震災直後から被災地入りし、ボランティア活動に従事してきた。その過程でそのまま東松島市に住み着き、チェーンソーや重機などの機材の扱い方を習得して、復興作業を行ってきた。

「ニコルさんに初めて会ったのは2011年9月。瓦礫撤去作業をしていた時です。その時、直感的にニコルさんの人柄に強く惹かれました。当時のこの森は人や車もめったに来ない、たぬきくらいしかいない荒れ果てた山でした。でもニコルさんが『何年先になるかわからないけれど、いずれこの地区には子どもたちが戻ってくる。その時にここに故郷としての愛着心をもたせたい。だから今、ここでできることをやろう』と言ったことで、復興の森作りを手伝いたいと思ったんです。それがすべての始まりでした」(雄吾さん)

森の学校のシンボルをつくろう

プロジェクトに加わった古谷氏(写真右から2人目)

プロジェクトに加わった古谷氏(写真右から2人目)

「森の学校」を具現化するため、専門知識を有する人材が必要となった。そんな時、建築家である早稲田大学古谷誠章教授がニコル氏のコンセプトに共感し、古谷研究室としてプロジェクトチームに参加することになった。

2012年12月、ニコル氏らは復興の森のシンボルとして、子どもも大人も遊べるツリーハウスの制作をスタート。ツリーハウス専門家集団・ツリーハウスクリエーションに依頼した。

古谷研究室が作成した森の学校の全体イメージ図。森の学校のグランドデザインが明確化されたことによりプロジェクトメンバーの士気が上がり、推進力もアップした

古谷研究室が作成した森の学校の全体イメージ図。森の学校のグランドデザインが明確化されたことによりプロジェクトメンバーの士気が上がり、推進力もアップした

4月には地域住民と一緒につくるワークショップを開催。参加した多くの大人も子どもも材料となる木の皮を剥いだり、壁を塗ったりして懸命に作業した。制作のための資源は元々この地にあった樹木や石などが使われた。

制作中のツリーハウス

2013年4月に開催されたツリーハウスワークショップの模様

2013年4月に開催されたツリーハウスワークショップの模様

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ワークショップに参加した時の山田ともみさん(当時小4)

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徐々に完成に近づきつつあるツリーハウス

そして2013年5月、ツリーハウスは大勢の人々の手によって完成。再生のシンボルといわれる龍をイメージしてつくられたため、C.W.ニコル氏により"ツリードラゴン"と名付けられた。6月1日に開催された復興の森ツリーハウスオープニングイベントには200名近い人々が参加し、復興の森のシンボルの完成を祝った。

ツリーハウスオープニングセレモニー
ツリーハウスオープニングセレモニー

ツリーハウスオープニングセレモニー

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「うまのひづめ展望デッキ」と「サウンドシェルター」

その後も復興の森づくりは多くの地域住民や県外から参加したボランティアの手で着々と進められていった。2013年から古谷教授と研究室の学生たちを中心に、復興の森の高台に「うまのひづめ展望デッキ」の設置が計画された。「うまのひづめ展望デッキ」は被災したエリアを見下ろせる馬の蹄をイメージした展望デッキで、「森の学校」の一部として子どもたちや地域の人々が故郷を思い、未来を展望できる場所になるようにとの思いを込められている。2014年9月22日、学生たちを中心に施工がスタート。学生たちは2週間ほど仮設住宅に泊まり込み、制作に打ち込んだ。森の生態系に負荷をかけず、製作物がやがて朽ちた時には森に還るよう、金属を1本も使わずに製作するという森の教室づくりのコンセプトが生かされている。

「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ
「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ

「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ

しかし、予定通り行かないこともたくさんあった。現場に入ってまずは図面に基づき位置出しを開始したが、事前に幾度か現場実測をしていたにもかかわらず、図面どおりに位置が出せず四苦八苦。試行錯誤を余儀なくされた。また、「うまのひづめ展望デッキ」を設置する場所は山の斜面。傾斜の角度も違えば凸凹もある。そんな場所に水平を出すのはとても大変な作業だった。さらに図面通りに正確に杭を打つ作業が困難を極めた。ここでも図面通りにはうまくいかず、参加した古谷研究室の学生も「杭が一番大変でつらかったですね。杭をプロットしてこの位置だと決めたのに、実際に大びきで見るとけっこうずれてたり、杭を打ち直したり、杭を打ってさらに水平に切り出すのがすごく大変でした」と語っている。そして、デッキ部分のR形状をひづめ型にきれいにそろえることも難しい作業だった。神吉さん他協力者たちと、学生たちは粘り強く調整を重ね、困難な作業を1つひとつ克服していった。最終仕上げを地元住民や協賛企業社員で実施し、2014年10月、ついに「うまのひづめ展望デッキ」が完成した。

作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)
作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)

作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)

うまのひづめ展望デッキの竣工式が終わるとすぐに、学生たちは現地でヤブ刈りを行い、森と対話する場所「サウンドシェルター」設置場所の候補を選定。幾度か現場実測を実施し、材料の手配を済ませ、関東・東北豪雨の影響が残る2015年9月13日に現地で施工がスタート。基準となる杭位置を慎重に決め、基準杭を元に杭打ち作業を進めた。次に、杭のレベルを合わせ大びきを木ダボで杭に固定し、大びきにデッキ材を並べた。難しい作業である扇状の位置出しは古谷教授から指導を受けて行った。デッキ材の固定は下面から木ダボを打ち込むが、地面に背をつけての作業になるため、女子学生も全身泥だらけになりながら作業に打ち込んだ。火を囲んで語り合う場のファイヤープレイスには野蒜石を使用。耐火煉瓦が敷かれた。今回も最終仕上げは地元住民や支援企業の社員たちの手によって行われ、2015年11月6日、東松島市市長(当時)の阿部氏ほか関係者など多数が参加して竣工式が執り行われた。

このように、古谷研究室の学生たちはプロジェクトの企画を具現化した成果をもたらしたのだ。(※うまのひづめ展望デッキとサウンドシェルターの制作の模様は動画で視聴できる。こちらこちらを参照)。この際も、神吉夫妻は道具の用意から資材の運搬、施工まで協力している。

生まれ変わった森

森を整備したことでカタクリの花畑が出現

森を整備したことでカタクリの花畑が出現

2012年からの継続的な整備によって、荒れ果てた森は命あふれる豊かな森へと生まれ変わっていった。2013年には眠っていたカタクリの花が顔を出し、2016年3月には一面カタクリの花が咲き乱れるまでになったのだ。これには東松島市復興政策部の高橋部長(当時)も舌を巻いた。「最初に復興の森にニコルさんが来た時、"この森は手入れをしたら花が咲き乱れるよ"と言ったんです。私も地元(野蒜)の人間なのですが、そんな光景は見たことがなかったので半信半疑でした。でも本当にそうなってびっくりしました。山のヤブを刈って光と風が入るようにしたら今まで眠ってたカタクリの芽が吹き出て、花畑のようになったんです。まさに山が生き返ったかのようでした」

復興の森の整備に初期段階から関わっている神吉夫妻も特別な思いを抱いていた。「5年前、この山は数10センチ先が見えないような荒れ果てた山でした。そんな中に入って"本当にこんなところに子どもが来るの?"と思いながらヤブを刈ったり道を作ることは精神的にきつかったですね。先が見えない中での作業ほどつらいものはないですから。とにかく己を奮い立たせながら必死に作業していました。それはみんな同じだと思います。でもツリーハウスができた頃でしょうか。復興の森で森開きをやった時、子どもたちが大勢来てくれたんですよ。その光景を見たとき、報われましたよね。その後、この森で学校の授業が行われるようになって、実際に子どもたちが大勢来るようになったのを見た時はものすごくうれしかったです。頑張ってよかったなと思いましたね。この森を最初に整備する頃から関わってきたことは私としても大きな誇りです」(神吉雄吾氏)

ヤブが生い茂り、荒れ果てていた頃の復興の森

「私自身もそうですが、子どもたちも一緒に整備したことで、森がどんどんよくなっていくという変化を見ているんですね。子どもたちも最初は遊んでいただけだったけど、徐々にちゃんと手入れするようになりました。大人より学ぶスピードが早かったですね。その結果、広場やツリーハウスなどもでき、あの荒れ果てた山からここまで豊かで美しい山に生まれ変わりました。手入れをすればこれだけ居心地のいい森になるというのをまさに身をもって知ったわけです。だから子どもたちもこの復興の森を自分たちの土地として愛着をもっている。これは素晴らしいことだと思います」(神吉恵子氏)

現在は森全体と森の中に造った施設の維持管理を担当している神吉夫妻

現在は森全体と森の中に造った施設の維持管理を担当している神吉夫妻

サウンドシェルターで遊ぶ子どもたちを眺めるニコル氏

サウンドシェルターで遊ぶ子どもたちを眺めるニコル氏

インタビュー第3回はこちら

震災で甚大な被害を受けた東松島市

2011年3月11日に発生した東日本大震災によって東北の太平洋沿岸部は甚大なダメージを被ったが、中でも宮城県東松島市は死者1110名、行方不明者24名という壊滅的な被害を受けた。学校も14校ある小中学校のうち8校が大津波で浸水し、特に野蒜小学校、浜市小学校、鳴瀬第ニ中学校の3校が使用不能に。多くの子どもたちが長らく仮設校舎での学校生活を余儀なくされ、さらに家や家族を失うなど過酷な経験をしたことで心に大きな傷を受けた。

被災した野蒜小学校(写真/冊子『WAVE』vol.4より)

被災した野蒜小学校(写真/冊子『WAVE』vol.4より)

この大震災による惨状を知り、長野県の黒姫の森に住む1人の男が動いた。30年近い年月をかけて森を蘇らせたC.W.ニコル氏(以下、ニコル氏)である。ニコル氏は2011年3月14日、震災のわずか3日後に東北の子どもたちを支援するべく東京でスタッフを集めて緊急ミーティングを開催。「震災で受けた子どもの心の傷を癒やすのは森しかない」とアファンの森に被災地の子どもたちを招待する「5センスプロジェクト」を企画。ニコル氏は当時の思いを「森には傷ついた心を癒す効果や生きる希望を与える力があるんです。生き物たちが命の輝きを取り戻した森は、被災地の子どもたちを必ず元気にしてくれるとわかっていたので招待したんです」と語る。

C.W.ニコル-近影02

ニコル氏が代表を務める一般財団法人 C.W.ニコルアファンの森財団(以下アファンの森財団)は各被災自治体に招待の連絡を送った。しかし当時、多くの自治体は「今はそんな余裕はない」と辞退。そんな中、唯一東松島市の教育委員会だけがその申し出を受けた。当時の教育次長は「温泉旅行やスポーツ観戦などは各方面から沢山のお誘いをいただいていたのですが、被災地の子どもたちに一番必要なのは、アファンの森のプロジェクトのような自然の力によるケアだと思ったのです」と振り返る(※詳しくはWAVE vol.4を参照

かくして2011年8月、東松島市在住の7組27人の家族が、9月にも11組31人がアファンの森を訪れた。このプログラムに参加した家族の中に、山田真理さん(母)、明日香さん(長女)、ゆうたくん(長男)、ともみさん(次女)一家がいた。震災当日、この家族は野蒜小学校の体育館に避難していた。津波に襲われて大勢の人が亡くなった場所だ。

「私もこの子たちも実際に体育館に流れ込んできた津波に流されたり、目の前で沈んでいった人たちを見たりしてるんです。運よく命は助かりましたが、心身ともに受けた傷ははかりしれません。震災後も長らく、家族全員があの日のことについては全く話せませんでした。ですので、アファンの"心の森プロジェクト"を知った時は、この森に行けば少しでも気持ちが変わるかもしれない、心に溜め込んでいるものを吐き出すきっかけになるかもしれないと思い、参加したんです」(山田真理さん)

「5センスプロジェクト」で子どもに笑顔が戻った

5センスプロジェクトに参加した山田さん一家(2011年8月撮影/前列右端から長男のゆうた君、次女のともみさん、母の真理さん)

5センスプロジェクトに参加した山田さん一家(2011年8月撮影/前列右端から長男のゆうた君、次女のともみさん、母の真理さん)

子どもたちは命あふれる豊かな森で伸び伸びと遊んだ。当時小学3年生だった山田ともみさんは「森の中でブランコに乗ったりしてめっちゃ楽しかったです。あといろんな地域から来てる子たちと交流できて、友達もたくさんできたので、参加してよかったと思いました」と笑顔で語る。姉の明日香さんも「私たち家族が元々暮らしていたのは野蒜という地区なんですが、自然がいっぱいあったので、小学生の頃から友達と山で遊んでいました。でも、震災で家が流されて別の町へ引っ越してからは、自然の中で遊ぶということが少なくなりました。なので、アファンの森に行った時は久しぶりに野蒜以上の豊かな自然と触れ合えてすごく楽しかったです。震災ではつらい思いをしたし、当時はまだ余震もすごく多くてそのたびに恐怖を感じていたのですが、森で遊んだらつらい気持ちがすごく楽になりました」と振り返る。

現在の姉の明日香さんと妹のともみさん(2017年3月撮影))

現在の姉の明日香さんと妹のともみさん(2017年3月撮影)

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「やっぱり子どもたちは森の中で育てたい」

アファンの森で遊ぶ子どもたち(一部写真/冊子『WAVE vol4』より)2016年までに述べ286人が参加

C.W.ニコル・アファンの森財団の事務局長の野口理佐子氏

C.W.ニコル・アファンの森財団の事務局長の野口理佐子氏

この山田家だけではなく、多くの人々から参加してよかったという声が寄せられた。ある参加した子どもの祖母は「これまでは子どもが暗い表情でいたり、発災の時間になると落ち着かなくなることが多かったのですが、アファンの森から帰ってきたら、ものすごく楽しそうに、活き活きとした表情で、いかにアファンの森が楽しかったかという話を一所懸命してくれました。震災前に戻ったような様子を見てうれしくて涙が止まりませんでした」と話した。その声を聞いたアファンの森財団の事務局長の野口理佐子氏は「涙があふれました。たった2泊3日の招待で何ができるか主催者として不安でしたが、やっぱり森のチカラはすごい! それを被災地の皆さんに教えてもらいました」と頬を緩める。

アファンの森に行く前は沈みがちだった子どもたちも、帰ってきた時は活き活きとし、お互いに抱きあったり涙を流したりしていたという。この様子を見て当時の教育長は「ニコルさんの招待を受けて本当によかったと胸が熱くなりました。やっぱり子どもたちは森の中で育てたいと思いました」と語っている。(※詳しくはWAVE vol.4を参照

東松島市の人たちの熱い思いがニコル氏を動かした

前・東松島市長の阿部秀保氏

前・東松島市長の阿部秀保氏

その頃、東松島市では学校の再編・統合、高台への移転計画が立ち上がっていた。子どもたちのために新しくつくる学校はどんなものにするべきか。この時、市長をはじめ、当時の教育長や教育次長、復興政策部の職員の脳裏にアファンの森に行った子どもたちの笑顔が浮かんだ。震災以降、市の復興の指揮を執ってきた前・東松島市長の阿部秀保氏は次のように語る。

「震災の年、東松島の子どもたちをアファンの森に招待していただいた後、ニコルさんと話した時のことが忘れられません。あの時、ニコルさんは"人の手を加えて太陽の光を入れると森は蘇る。復興も同じだよ。人が手を加えることによって森も、町も、人の心も必ず復興できるよ"と言ってくれたんです。この言葉を聞いて、ぜひニコルさんに新しい学校作りを手伝ってほしいと思いました」

元・東松島市復興政策部部長・高橋宗也氏

元・東松島市復興政策部部長・高橋宗也氏

震災以降、復興事業の全体調整や復興計画の進行管理を担当してきた東松島市役所復興政策部の高橋宗也部長(現在は退職)は「最初にアファンの森に行った市の職員は元気になった子どもたちの様子を見ていたく感動したようですね。私自身も子どもたちの様子を目の当たりにして、自然には確かに子どもの心を癒やし、快復させる力があるということは実感としてわかりました。同時期に市長や教育委員会はじめ、当市のさまざまな人たちが子どもたちの心の癒やしのためにお力添えをとニコルさんにお願いしているんですね。だからこれは市全体の意向であったと言っても過言ではないんです」と語る。

C.W.ニコル近影07

子どもたちの心の復興のために力を貸してほしい──この東松島市の人たちの思いを受け取って、ニコル氏の熱い魂に火がついた。
「彼らから手伝ってくださいと言われた時、やるしかないと思いました。同時にものすごい重い責任も感じました。これは生半可な覚悟ではできないぞと。僕の人生、あとどのくらい残っているかわからないけど、半分くらいは東松島市の子どもたちのために捧げたいと思ったことを覚えています」

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