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2017.04.10  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

復帰後は未経験の部署へ

──産休明けで職場復帰した後の仕事はどうでしたか?

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会社に復帰した時には元の海外の部署に戻るつもりだったのですが、上司から会社がこれから上場準備に入るということでIRへの配属を命じれられました。投資家向けの広報だというのを知って、これまでやってきたこととは全然関係ないし、知識もゼロだったから無理と思ったんですが、乳飲み子を抱えて海外の仕事に戻ることに不安もありましたし、とりあえずやってみようかな、と。でも周りで飛び交ってる言葉が全然わからない。仕事人としてもらっている給料分働けてない、これはヤバイと思って、復職して猛勉強して半年間でIRプランナーの上級資格を取得したり、証券アナリストの勉強をしたりしました。

半年間でIRの仕事は一通りできるようになって、社長が社会に対して会社のビジョンなどの重要な情報を発信しているのをそばで聞いているうちに、この広報力はこれからサービスをゼロから立ち上げるようなベンチャー企業にこそ必要だと思ったんです。そんなことを思いつつ、復帰して2年が経った頃に、人材紹介会社のヘッドハンターにベンチャー投資会社のIR室長の求人案件を紹介されました。ニフティの中でもIRの主担当をずっとやっていたし、このまま大企業で働くよりも、社会の声を聞いて企業トップが判断していくことに貢献できるような会社に行きたいと思い、その投資会社に転職したんです。

寝耳に水のクビ宣告、そして修羅場へ

──その投資会社に転職してみてどうでしたか?

いざ入社したら広報部がなかったので、入社してすぐ社長に広報の重要性を進言すると認められて、広報室兼IR室長もやることになったんです。その上社長室が私の席の真後ろだったこともあり、社長秘書的な役回りもやらせていただくことになり、ニフティ時代を超える忙しさとなりました。


──仕事の方は順調だったのですか?

いや、それがですね、入ってしばらくは再びやりがいのある仕事に就けてバリバリ働いていたのですが、入社2年後に想像もしてなかった大事件が起こりました。リーマンショックの翌年、2009年の年明け早々に全社員、会議室に集められまして、経営陣からいきなり「深刻な業績悪化に陥ったため、社長交代、そしてここに集まっているみなさんには退職してもらいます」と言われたんです。集められた社員全員、目が点になりました。

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そもそも社長交代って、上場企業の場合は正式発表前に公開しなければならない最重要情報なんですね。ある日突然、社員が会議室で知るという情報じゃないんですよ。特に私は広報IR室長を務めていたので、そうした情報は、社長、役員、その次には知ることができる立場のはずでした。なので、会議室にみんな集められて発表された時に一番信じてなかったのは私だったと思うんですね。「もう正月明け早々笑えない冗談やめて~」って手を叩いて笑ったくらいですもん(笑)。

でも冗談じゃなかった。退職手続きの書類が配られ始めると、段々会議室内がざわついてきて最後の方には喧騒に包まれました。嘘でしょ~と思って自席に戻って東証の情報公開サイトを調べたら確かにさっき発表された情報が公開されてるわけですよ。このリリース、いつの間に誰が作ったんだと。そういうIR情報ってこれまでは当然、IR室で作ったものを私も全部目を通して、連絡先をIR室として公開していたんですが、その公開情報の連絡先にはIR室担当者の連絡先ではなく別の人の署名があったんです。会社に残留する一握りの役員がわざわざこのリリース文書を作って内容を確認して公開したんだということがわかるとサーッと血の気が引いて、これってリアルなんだ、これから私たちどうなるんだろうと目の前が真っ暗になりました。

でも呆然としている暇なんてなくて、その瞬間から職場は修羅場と化しました。オフィス中の電話という電話が鳴り響き始めたんです。個人投資家やアナリストやメディアなどからの問い合わせの電話でした。私の机の上に保留になってる電話機やメモが次から次へと並べられて、全部に出る優先順位と時間が書いてある付箋が貼られていて、うそー、私の方こそ知りたいっていう状態なのにこれどうしよう、とパニック状態に陥りかけていたことをすごくよく覚えてます。

ドキドキしながらも優先順位に従って電話に出ると、「これってどういうことですか?」「上場廃止ですか?」みたいなことを矢継ぎ早に聞かれて。でも私自身何もわかってないので、正確なことは何も答えられないんですよ。「今は多くのことは申し上げられませんが...」という感じで、とにかく自分の知ってる範囲の言葉で説明して炎上しないように対応していました。

この火消し処理に丸2ヵ月かかったんですが、この間は満足に自宅にも帰れないというカオスな日々でした。そしてようやく落ち着いた3月末で退職したんです。

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転職の誘いも乗り切れず

──退職するまでに次の勤務先は決めなかったのですか?

やっと火消しが終わって3月末に私自身も辞めるという時に、辞めたらぜひうちの会社に来てほしいと誘ってくださる方も何人かいらっしゃいました。私はその会社で広報IR室長をやっている間、PR協会の幹事も担当していたので、いろんな大企業の広報の方々とつながりがありました。今回のような事態はもちろん初めてだったので、その広報の先輩方に片っ端から電話して、対応策を教えていただいていたんですね。そういう修羅場を何とかして乗り越えようとしている姿を多くのみなさんが見てくださっていたからかもしれません。でもその時はカオスな2ヵ月を過ごして疲労困憊になっていたのと、人間不信といいますか、会社不信に陥っていたのですぐにそれらの誘いをお受けすることができなかったんです。


──どういうことですか?

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突然の解雇宣言で社内は喧々諤々、殺到する問い合わせの電話への対応で、心身ともに消耗していたのですが、職責上、会社の評判や評価を落としかねないようなことや私自身も悩んでいることなどは誰にも言えませんでした。しかも離職宣言が出てから実際に退職するまでのあいだは、解雇されるのは決定しているにもかかわらず、処理をしていくわけです。 これまでは娘の将来のためにと奮起していたわけですが、「私っていったい何のために働いてるのかな」とか「大きな会社にぶら下がってれば安泰とはいえない時代がまさに来てるんだな」という考えが頭の中を巡るようになりました。娘がもうすぐ4歳になるという頃だったんですが、最も著しく成長するかわいい盛りの時に、子どもそっちのけで死に物狂いで仕事をしてきた私って、いったい何をやってたんだろう、この先もまた10年間仕事ばかりしてたら娘がいつ歩けるようになったのか、いつ箸を持てるようになったのかはっきりわからないような生活をまた繰り返してしまうかもしれない。そんなことで私の人生、本当にいいのかと思うと、「ぜひうちの会社に」と誘われても「はい行きます」とはなかなか答えられなかったんです。

どこにも就職しなかったことで人生が激変

──ではそれからどうしたんですか?

とりあえず職業訓練校に行くことにしました。インターネット業界で10年間働きましたが、 Web制作やシステム開発系のことは全然できませんでした。少しは自分でもそれらができるようになった方が広報パーソンとしての価値が上がるんじゃないかと思って、Web制作系の講座を選択したのですが、私にはそのセンスが全くないことに気づきました(笑)。それで授業そのものよりも周りの人たちに興味をもち始めました。他の受講者に元々やってた仕事や職業訓練校に来た理由を聞いてみると、「元々は職業人としてバリバリ働いてたんですが、結婚や出産をしたら以前のように働けなくなって、会社を辞めることにしたんですが、やはり手に職をつけて仕事はしなくては、と思って」というような女性がたくさんいたんです。

その話を聞いて学歴や職歴を男性と同じように積み上げてきた専門職、技術職の女性たちが、結婚や出産したら会社を辞めなきゃいけないなんて、社会的にも企業側的にももったいない話だなと思いました。テレビなどのメディアでは、連日のように政府や学者のような人たちが、少子高齢化でこれからは女性が活躍する時代だとか、次世代労働力の確保が増え続ける社会保障を維持しながらの日本経済維持には不可欠だとかいろいろ言ってるのに、眼の前には優秀で働く気があるにもかかわらず、失業保険をもらいながら働けずにいる人たちがいっぱいいる。世の中の困りごとと今、目の前で起こってることがかけ離れすぎてると思ったんです。

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一方で、世の中にはまだまだ元気そうな高齢者や、会社を辞めても様々な社会活動をしている主婦もたくさんいる。こうした「社会の役に立ちたい」と思っている人たちと、困りごとを抱えていながらもちょっと助けてもらえればやりたいことがかなうという人たちをつなぐことができれば、どっちもうれしいし、さらにそれがボランティアじゃなくてお金のやりとりの仕組みができればお互いハッピーになると思ったんです。これが後の起業につながる問題意識を感じ、基礎となる仕組みを思いついた最初の瞬間ですね。

それで、何気なくそんなようなことをブログとかSNSに書いてアップしたら、普段、コメントは1、2件なのですが、この日記には何十件もついてたんです。恐る恐るコメント欄を見てみたら、困りごとややりたいことはいろいろあっても助けてくれる人がいないから我慢してるという人たちからのコメントがずらーっとついてたんです。それらを読みながら、実は世の中には明るみに出ていない同じような思いをしている人がたくさんいるんじゃないか、私の考えている頼り合いの仕組みにはニーズがあるんじゃないかと思って、いろいろ調べ始めたんです。

甲田恵子(こうだ けいこ)

甲田恵子(こうだ けいこ)
1975年大阪府生まれ。株式会社AsMama 代表取締役CEO

関西外語大学英米語学科入学後、フロリダアトランティック大学留学を経て環境省庁の外郭団体である特殊法人環境事業団に入社。役員秘書と国際協力関連業務に従事。2000年、ニフティ株式会社入社。マーケティング・渉外・IRなどを担当。2007年、ベンチャーインキュベーション会社、ngi group株式会社に入社し、広報・IR室長に。2009年3月退社。同年11月、33歳の時に誰もが育児も仕事もやりたいことも思い通りにかなえられる社会の実現を目指し、株式会社AsMamaを創設、代表取締役CEOに就任。2013年、育児を頼り合える仕組み「子育てシェア」をローンチ。多くの子育て世代の支持を得ている。著書に『ワンコインの子育てシェアが社会を変える!! 』(合同フォレスト刊)がある。

初出日:2017.04.10 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの