2014年6月アーカイブ

医療をツールに地域をつくる[後編]

ボクシングにのめり込んだ医学生時代

──川島先生といえば、京都大学医学部出身の元プロボクサーの医師という異色の経歴も大きな話題になりました。そもそもなぜ医師になったのですか?

僕はそもそも医者になりたいとは思っていなかったんです。通っていた奈良の高校が進学校で成績がよかったので、両親と学校の先生から医学部へ行けと勧められ、どうせなら一番難しい大学に挑戦しようと京都大学の医学部を受験したところ、現役で合格してしまったんです。

ボクシングも京大に入ってから始めました。中学・高校ではバレーボール部に所属していて、全国大会に出るほどの強豪チームだったのですが、進学校なので高2になると受験勉強のために主要メンバーが次々と抜けていくんですね。だから大学に入ったら絶対に個人競技をやろうと心に決めていました。ボクシングを選んだのは、中高のとき辰吉丈一郎選手の全盛期でよく試合を見に行ったりしていて、そもそもボクシングに興味があったんです。それと中高のバレー部で一緒だった友人がボクシング部に入るというので僕もと入部したというわけです。


──初めて経験するボクシングはどうでしたか?

それまで人を殴ったことなんてなかったのですが、とても楽しかったですよ。ストイックなところが性に合ったということもあってか、すぐにボクシングの魅力に取り付かれました。特定の顧問やコーチもいなくて、自分たちで『あしたのジョー』や『はじめの一歩』を参考にして練習メニューを考えて実践するという自由な感じでした。その代わり、ボクシング部の練習場のすぐ近くに住んでいた、京都拳闘会出身の元日本チャンピオンがときどき教えにきてくれていました。彼の指導で段々と強くなっていくのが実感としてわかり、ますますボクシングにのめり込んでいきました。

罪悪感に苛まれた

──医学部での勉強はどうだったのですか?

そちらは段々苦しくなっていきました。先程お話したとおり、そもそも医者になりたくて医学部に入ったわけではないので、特に病院での実習が苦痛で。自分のような人間がこんな人の命に関わる現場にいていいはずがないと、罪悪感に苛まれていました。

さらに5年生になると勉強や実習で忙しくなってきてボクシングから離れざるを得なかったのですが、中断した途端に体調も悪くなっていました。そんなとき、京都拳闘会からスパーリングパートナーに来てくれへんかと頼まれて、ランニングからトレーニングを再開したとたんに気持ちも晴れたし体調もごっついよくなったんです。やっぱり自分は一生走らなあかんのやと思いました。ちなみに今でも毎日5時半に起きて最低5キロは走っています。

在学中にプロデビュー

──なぜプロボクサーの道を選んだのですか?

6年生になって京大の医局の外科や内科などのいろいろな科に実習のため回るようになりました。いわば就職活動で、気の合う先輩がいる科に就職するんだろうなと思っていたのですが、ちょうどボクシングの本当のおもしろさがわかってきたところでもあり、どっちを取るかすごく悩みました。確かに将来の生活のことを考えれば医者は一生食いっぱぐれることはありませんが、プロボクサーは日本チャンピオンクラスでもまともに食べていけません。でも一方で、医者には後でもなれるけど、ボクシングは今しかできないという思いもありました。悩んでいた時、京都拳闘会のジムで汗を飛び散らせながらボクシングのトレーニングに打ち込む先輩を見て、やっぱり僕の進むべき道はこっちだとプロテストを受け、合格、在学中にプロデビューしたんです。


──当時は本気でプロボクサーとして生きていく覚悟だったのですか?

もちろんです。当時は本気で世界チャンピオンを目指していました。そう思っていないと厳しいプロの世界ではやっていけないんですよ。医学部を卒業した後もどこの医局の科にも就職せずにボクシングに打ち込みました。ただ、せっかく医学部を卒業したので医師免許だけは取っておこうと思い、ボクシングをやりながら試験勉強は続け、26歳のときに3回目の挑戦で医師免許の国家試験に合格しました。同じ年、ウェルター級の西日本新人王とMVPを獲得することができました。

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29歳でボクサーを引退

──順調な滑り出しですね。ファイトマネーで生活できていたのですか?

プロデビューして2~3年くらいまでは勝つことの方が多かったのですが、それでもボクシングのファイトマネーで稼げるのは年間100万円程度。しかもファイトマネーって現金でもらえるんじゃなくて自分の試合のチケットを売った分が収入になるんです。だから知り合いの知り合いのそのまた知り合いまで、とにかくツテを頼りまくって必死に売りました。僕は営業がうまかったせいかいつも自分のノルマはすぐ売り切れていつもジムから追加でチケットをもらって売ってました(笑)。それでも年収100万程度ですからね。しかも大学を卒業してすぐ結婚して子どもも生まれていたので、生活は楽ではなかったですね。生活費の大半は薬剤師の妻が稼いでくれていました。日中は子守りをして、夕方仕事から戻った妻に子どもを預けてジムに行くという生活でした。

ただ、その後負けが込んでくると、さらに経済的に苦しくなってきて、30歳の大台が見えてきたとき、このままでいいのかと迷いが生じました。ちょうどその頃家計を支えていた妻が2人目の子どもを妊娠して産休に入り、収入の道が絶たれて来月払う家賃もないという状況になったとき、これはもうたいがいにせなあかんなと。また負けた鬱憤を知らず知らずのうちに家族にぶつけていることに気づいたことも、辞めどきだなと感じた大きな理由ですね。それで2003年、29歳のとき初の10回戦で1ラウンドKOで負けたとき、引退を決意したんです。プロ通算戦歴は15戦9勝(5KO)5敗1分でした。アマで5年、プロで5年のボクシング生活はとても充実していて幸せな日々でした。ボクシングを通して身につけた体力と精神力はその後の人生にも大いに役に立ちましたしね。

和歌山で自給自足の生活

──ボクサーを辞めた後は医師になろうと思っていたのですか?

いえ、医者になるつもりはありませんでした。それよりも自分の食べるものは自分で作る自給自足の田舎生活にあこがれて、知人を頼って和歌山の田舎に家族で移住したんです。仕事の方も、医者ボクサーとして有名だったのでまともに医者としての修行を積んだことのない僕のような人間でも先生と呼ばれ、老人ホームや精神病院の仕事をすぐ紹介してもらえて、ボクサー時代よりも稼げるようになりました。

田んぼも無事借りることができてすごくいい感じで望んでいた田舎暮らしをスタートさせたんですが、2年くらい経った頃、行き詰まってきました。まともに医療行為ができないのに医者として尊敬されて働くことがつらくなってきたんです。当時僕が医者としてやっていたことといえば患者さんの身の上話を聞いて葛根湯を処方するだけ。急病人が出たら救急車を呼ぶようなダメな医者だったので、もっと修行を積んでまともな医者になりたいと思うようになったんです。ちょうどそんなとき、京都の漢方病院の院長から誘われたので、家族で京都に戻ってその病院で働くことにしました。

京都の病院で漢方を学ぶ

院長は格闘技好きで、さらにボクシングも再開できたので、最初のうちはやっぱり京都に戻ってよかったと思いました。でもやっぱり漢方の病院なので、1年ほど働くうちに漢方のことはある程度わかるようになったのですが、いわゆる近代的な西洋医学の知識や技術はまったく身につきませんでした。これでは和歌山の田舎から出てきた意味がないな、医療の世界で生きていくにはこのままではダメだなと思っていたところ、京大ボクシング部の先輩で沖縄の徳洲会の救急病院に勤めている医者から「今どうしてんねん」と連絡がありました。現状を話して悩んでいることを伝えると、それなら医者としての修行ができるからうちの病院に来ないかと誘われました。まさに渡りに船という感じでその病院に転職することに決め、まずは僕一人で単身赴任して、後から家族を呼び寄せたんです。

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初めて医師としての本格的な修行を積む

──沖縄の病院での仕事は?

この沖縄の病院でやっと本格的な医者としての修行ができるようになりました。でも仕事場は戦場のようでした。24時間稼働の救急病院なので外来の待合室は昼夜問わず患者さんであふれかえっていたし、深夜でも明け方でもおかまいなしに急患を乗せた救急車がばんばん入ってきて次から次へと重篤な患者さんが運ばれてくる。手術室も病室も常に満室という状態でした。そこら中、血の海になってたり、人が死ぬのが当たり前の状況。突然愛する人を亡くして泣き叫ぶ家族の声が響き渡るような職場だったので、つらくて逃げ出したいと思うこともしょっちゅうでした。それでも何とか耐えつつ、1000人、2000人と診察する間に、新しい職場にも慣れたし、できることも一つひとつ増えていきました。


──そんなつらい状況になぜ耐えられたのですか?

やはり、ボクシングを辞めて最初に移住した和歌山の田舎で、医者としてたくさん給料をもらいながら患者さんに何もできなくて悔しい思いをした経験が大きいですね。ここで医者としての知識と技術を身につけて、今度僻地医療に携わるときはちゃんとした医療を提供できるようになりたいという思いで踏ん張っていました。

ただ、仕事は激務でした。先ほどお話したような戦場のような職場だったので、特に最初のうちは仕事の要領もわからへんので家になかなか帰れないんですよね。目の前に死にかけている人がたくさんいるから仕事は無限にあって、どこで区切ったらええのかわからないわけです。だから子どもたちが起きている時間にはなかなか自宅におることができませんでした。それでも久しぶりに時間が取れて子どもたちとたっぷり遊んだ日の翌朝、病院へ向かうため自宅を出ようとしたとき、当時2歳半の長男に「また来てね!」と言われてしまったんです。これはかなりショックでしたね。僕が仕事をするのは家族のためなので、その家族をここまでないがしろにしていては本末転倒やなと思ったんです。また、この病院で医者としてひと通りのことはやれる自信がついたので、ちょうど2年がたつ頃に沖縄の病院を離れることにしたんです。

山形の病院へ

──その後はどうしたのですか?

山形県庄内町にある同じ系列の病院に声をかけてもらいました。この病院は救急病院とは違って、少しのんびりした医療を展開していた点と、田んぼのある環境で子どもを育てられる点が気に入って異動することにしたんです。ここでは総合診療科のNo.2という責任の大きな職責に就きました。

この病院は外科、消化器外科、消化器内科、循環器内科、心臓血管外科以外の専門医がいなかったので、これらの科で診られない患者はすべて診るというポジションで、循環型のシステムを整備しました。特に力を入れたのは小児医療と高齢者の在宅医療です。


──循環型のシステムとは?

例えば、消化器外科の場合は胃腸関連しか診療しないので、胃の手術が終わったら医療サービスがそこで途切れてしまいます。しかし僕らは救急車で病院に運ばれてきた患者を救急外来で診断、初期治療をして、各専門科が得意でない症例は全て自分たちの病棟で診療します。お年寄りの患者さんの多くはその後自宅に帰っても熱を出したりして救急車でまた病院に帰ってくることになるので、そういうことのないように、患者さんの急性期の治療が終わって家に帰った後も在宅医療で手助けします。とにかく途切れずに患者さんを診るという継続的な医療サービスを確立したわけです。

仕事以外の部分では、病院の近くに田んぼを借りたのですが、お年寄りの患者さんたちに稲作の技術や歴史、精神などさまざまなことを教わりました。僕の子どもたちも地域の皆さんに育ててもらいました。この頃は稲作と子育てを通じて地域に溶け込み、医療という仕事で地域に恩返しをするというライフスタイルを確立し、久々に自分の生活にやり甲斐と手応えを感じ始めていました。

しかし、庄内に来て3年目、半年間の研修のために自宅から20キロ離れた病院へ通わなければならなくなりました。庄内での生活を手放したくなかったので「半年も職場を離れたくない」と上司に訴えたのですが、研修を終えれば総合診療医という資格が取れるから辛抱しなさいと強く勧められたのでしぶしぶ承諾して通い始めました。そんなときに東日本大震災が起こって、医療ボランティアで本吉病院に入り、そのまま院長になったというわけです。(※本吉病院での活動については前編を参照

本吉病院のスタッフと一緒に

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上善如水

──そしてこれからは地元である奈良に戻って新しい生活を始めるというわけですね。しかし京都→和歌山→京都→沖縄→山形→宮城といろいろな土地を転々としていますが、ひとつのところに長く留まりたくないのでしょうか。

「上善如水」といいますか、僕には常に流れていたいという欲求があるようです。同じ場所に長くいたら慣れて楽ができますが、環境が変わると仕事も生活も苦労するので、それが修行になります。修行僧のことを雲水といいますが、そういうニュアンスなのかなと自分では思っています。


──ご家族はどう感じているのでしょう。

どこにも3年以上いてないですからね。家族もよく僕のわがままについてきてくれたと思いますよ。僕はこれまで何回も死んでもおかしくない事故に遭ってますが、僕が死んだ方が家族は幸せなんとちゃうかと思うときがあるんですよね。僕と一緒だと絶対平穏無事には暮らせないですからね。娘も家を出て行くくらいですから。


──奥さんの忍耐力もすごいですよね。

これまで4人の子育て含めて家事の一切を妻に任せてきたので、妻が倒れる前に病院を辞められてよかったなと思っています。医師という職業は、困っている人を助けて感謝されるし、給料もそこそこもらえるので、やりがいあるしおもろいんですよね。ただ、病院によってはそれこそ家に帰る暇もないくらい忙しいので、そこでバランス崩れると生活が成り立たなくなるんですよね。

妻のことを結婚したころは調子に乗って「うちの嫁が」とか言っていたんですが、あるとき妻の方がお上やなと思って「かみさん」と言い方を変えたんです。本吉に来てからは神様だなと思って手を合わせてます(笑)。

医師という仕事のやりがい

──具体的に仕事のやりがいはどんなところにありますか?

在宅医療に関していえば、家で亡くなってよかったねと言えるときが一番やりがいを感じますね。それは本人も家族も幸せでしょうから。あとは、地域医療に携わっていると、その地域に住んでるほとんどの人と知り合いになれるので、道を歩いているときも居酒屋で飲んでいるときもみんな僕に声をかけてくれるときにこの仕事をしていてよかったなと感じますね。

僕はそもそもの性分として困った人の相談に乗るのが好きなんですよ。今後も医療に携わるとしたら予防、つまり病気を治すというよりは、いかに健康を維持するかということに関わりたいですね。また、病気の問題は地域の問題とも直結しているので、街づくりにも興味関心があります。それから今後の地域医療を担っていく若手医師の育成にも力を入れてきました。

理想の医療とは

──長年地域医療に携わってきた川島さんの考える理想の医療とはどんなものでしょう?

各地の医療機関や教育機関などからの依頼で講演をすることも多い

医療が偉そうな顔をしてたらあかんと思うんですよ。各市民が自己管理をして医者なんかにかかったら終わりやという自覚をもっていただいて、どうしようもないときに仕方ないから相談しに行くというのが医者であるべきだと思っています。

地域医療について講演で話すとき、よくサッカーにたとえています。フォワードはワクチンや保険や教育。これらが直接点を取る選手たちです。中盤の一番運動量の多いミッドフィルダー役が、なるべく歩きましょうとか塩分の少ない食事を摂りましょうとか歯磨きや早寝早起きなどの規則正しい生活をしましょうといったヘルスプロモーション。ゴール前のディフェンダーは福祉や介護。最後の砦のゴールキーパーが医療なんです。サッカーでもゴールキーパーが獅子奮迅の活躍をするのは負け試合なので、そこまでいかに患者を来させないか、つまり「予防」が重要なんです。僕は名前がちょうど日本代表のゴールキーパーと同じ川島なのでこの話はけっこうウケます(笑)。

何のために働くか

──川島さんは何のために働きますか?

お金のためです。それはイコール家族を養うため。今、子どもが4人いますが、彼らを食わせたり教育を受けさせたりしなきゃいけないですからね。本当はもっとお金をかけるよりも手をかけたいと思ってるんですけどね。医者をやってると、そのへんのバランスが難しいです。


──今後の夢や目標は?

今後のことはまったくわからないです。10年後どころか来年自分が何をやってるか全然読めません。逆に読めたらつまらないなとも思います。ただ、ここのところずっと地域医療に取り組んでいるのでそれは続けたいなと思ってます。

医療をツールに地域をつくる[前編]

震災後、災害援助チームに参加

──川島先生といえば、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市立本吉病院で地域住民のために奮闘している姿がこれまで何度もテレビや新聞などで紹介されたことでご存知の方も多いと思います。当時の状況を改めて聞かせてください。

当時僕は山形県庄内町の徳洲会系の病院に所属していて、研修のため別の病院に通っていたときに震災が発生しました。徳洲会グループは阪神大震災以降、TMATという災害援助チームを立ち上げ、災害発生時に各地でさまざま活動を行っていたので、研修を中止し、ボランティアの医者としてTMATに参加することにしました。


──なぜTMATに参加しようと思ったのですか?

主な理由は2つあります。1つは医者として被災地のために何かしたいという気持ち。もう1つはテレビで報道されている被災地を自分の目で見てみたいという好奇心に近い気持ちでした。

僕がTMAT本部から気仙沼の本吉病院に派遣されたのは震災発生後1ヶ月くらいの時期でした。本吉地区は、山は激しく削られ、道路は大きく剥ぎ取られ、散乱する瓦礫の中を自衛隊の隊員たちが遺体を捜索していました。その壮絶な光景に大きな衝撃を受け、被災地を自分の目で見てみたいと思っていた気持ちはぶっ飛び、そんなことを思った自分を恥じました。

被災した本吉病院で奮闘

──被災直後の本吉病院はどのような状況だったのですか?

1階部分は天井付近まで押し寄せた津波でめちゃめちゃになっており、院内は当然ながら暖房も入らず、検査機器も使えず、薬もなく、水すら出ませんでした。ですので震災発生から10日目に入院患者全員を岩手県内の病院に移送したのですが、その直後、連日泊まり込みで診療に当たっていた院長が辞職して病院を去りました。ちょうど同じ日にもう一人の常勤医師も不在となったことで、一時は地域で唯一の医療機関(歯科医院を除く)だった病院の存続そのものが危機に瀕していたところ、全国からボランティアが集まり、なんとか存続させていたのでした。

診察は2階で行っていましたが、そんな悲惨な状況の中、大勢の患者さんたちは寒さに凍えながら文句ひとつ言わずに順番を待っていました。その姿にとても感動したのを覚えています。その後、看護師や住民総出で1階を1ヶ月かけて掃除して診療できるようにしたんです。地域に大事にされている病院なんだなと思いましたね。

大地震による大津波に襲われた本吉病院

水が引いた後の本吉病院

津波により壊滅状態となった1階部分。病院のスタッフや住民総出で1ヶ月かけて復旧した

僕が通うようになってからも病院ではジャージや災害援助隊のジャケットを着た医療スタッフが文字通り不眠不休で働いていました。この窮状を目の当たりにして、なんとかせなあかんと思い、勤めていた庄内の病院の上司に頼み込み、病院に通常勤務しつつ、週に1日、金曜日に、庄内から本吉病院に通うことにしたんです。

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病院にはいつもいる医者が必要

──なぜそこまで本吉病院にこだわったのですか?

先ほどお話したように、本吉病院にはTMATのようなボランティア医療スタッフが全国から集まっていたんですが、入れ替わり立ち替わりで、長く滞在する人でも一週間くらいで元々の勤め先の病院に帰っていたんです。そうじゃなくて病院には患者さんを継続的に診る医者が必要不可欠だというのが、総合診療医としての僕の考え方なんです。だからせめて毎週金曜日には必ず同じ医者がいるという環境を作りたいなと。そうすれば僕も患者さんの状態を把握できるし、患者さんも僕のことを覚えてくれますからね。

そういうわけで毎週金曜日に庄内から気仙沼まで通うようになったのですが、震災発生からしばらくの間は地震で国道の橋が落ちていたり、道路がボコボコになっていたので、片道5時間くらいかかっていて通うだけでもたいへんでした。復旧が進むと4時間くらいになり、現在では3時間半くらいで通えるようになっています。

ボランティア医師として通っていた頃の川島さん。他のボランティア医師や病院スタッフと一緒に

ギリギリの戦い

──庄内の病院で週に6日働いて1日は本吉で診療してまた4~5時間かけて帰って働くって相当ハードですよね。

しかも庄内の病院では当直やオペもあったので、一睡もせずにそのまま本吉へ向かうこともよくありました。朦朧とする意識の中で運転していましたが、現場はそれどころではなかったですからね。地元の医療スタッフも自分の家が流されたり、身内が行方不明になっていたりして、みんな混乱状態だったけど、医療だけは途切れさせるわけにはいかないと必死で働いていたので、それくらいのことでしんどいなんて言っていられなかったわけです。

でもたいへんなことばかりではなかったですよ。毎週訪れるボランティアの医者たちと勤務後、酒を酌み交わしながら被災地の未来や日本の医療について語り明かしていたのですが、これがとても楽しかったんです。

そして本吉病院に通うようになって半年後の2011年10月に気仙沼市からの要請で院長に就任しました。現場からは一刻も早く院長になってくれと懇願されていたのですが、庄内の病院となかなか調整がつかなくて10月になったんです。常勤になったからには庄内から通うわけにもいかないので、気仙沼に移住しようと妻に提案したのですが断られまして。それで妻と4人の子どもを庄内に残して気仙沼に単身赴任することになったんです。

見て見ぬふりはできなかった

──なぜ単身赴任してまで院長を引き受けたのですか?

病院にはやっぱり常勤の院長が必要で、ここの院長を引き受けられるのは僕しかいないだろうと。他の医者は自分の勤め先の病院の仕事があるし、家族もいますからね。


──それは川島さんも同じですよね?

それはそうですが、見て見ぬふりはできなかったんです。庄内に戻った方が体は楽かもしれないけど、本吉を見捨てたら精神的にはつらいんじゃないかと。


──院長になってからは?

当時は常勤の医者は僕しかいなかったのでしばらくは相変わらず忙しかったです。しかも僕がちょっとした事故で左腕を骨折して、3回も手術しなければならなくなり、3ヶ月ほど仕事ができなくなってしまったんです。院長が入院して本吉病院がたいへんだというので、震災から半年も経っているのに、全国からボランティアの医者がたくさん集まってくれてね。院長は別の病院に入院していていないのに病院には医者がいっぱいいるという変な状況になったのですが、患者さんにとっては逆にすごくいい状態でしたよね。ケガの功名ですね(笑)。

その後、2012年3月に入院患者の受け入れを再開することができました。病院として当たり前といえば当たり前ですが、念願のひとつだったのでやっぱりうれしかったですね。そして、翌4月には島根県の病院から医師がひとり常勤で来てくださってさらに助かりました。

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在宅医療に取り組む

本吉病院のスタッフと一緒に

──本吉病院ではどんな医療に取り組んできたのですか?

僕はそもそも地域医療に興味があったので、本吉にとって最善の地域医療を実践することに注力しました。そのひとつに在宅医療があります。まず、震災によって自宅や交通手段を失って病院に来られない人がたくさん増えたので、院内の診察に加え1日5~6軒、患者さんの自宅や仮設住宅にうかがって診療してきました。

また、基本的にどの地域も同じだと思いますが、お年寄りの患者さんは自宅で面倒を見るのが難しくなると病院に連れてこられて、殺風景な病室のベッドの上で全身を点滴の管に繋がれてそのまま亡くなってしまいます。それは現代の医療では当たり前のことなんですが、僕はそれがすごく寂しいような気がして嫌なんです。入院していても具合が悪くなると住み慣れた自分の家に帰りたくなりますよね。それは間違っていないんですよ。その望みを叶えてあげたい。僕の祖父は住み慣れた自宅で、家族に見守られながら亡くなったのですがそれが人の死に方としてすごくいいなと思ったんです。だから本吉病院が入院可能になってからも、基本的に療養は自宅でしてもらって、家族がたいへんなときに病院で預かって休んでもらうという、在宅医療のためのベッドにしたかったんですよ。


──患者さんの家族はそれをすんなり受け入れたのでしょうか?

もちろん病院で亡くなるのが当たり前だと思っている家族は最初は戸惑います。確かに入院してると危なくなったときでもすぐ医療を受けられるから安心感があるんですよね。でも病院には24時間医療スタッフがいるから少しでも何かあったときにはすぐ病院に連絡してくれれば大丈夫だと丁寧に繰り返し説明しました。そして、実際に在宅医療をやってみるとこっちの方が楽だとわかるので、患者さんが入院してもすぐにその家族が引き取るようになったんです。こんなこと、他の病院ではなかなかできないですよ。

院長就任以来、地域医療懇親会を度々開催し、地元住民に丁寧に説明してきた

本吉病院を退職

──本吉病院の院長になって2年半ですが、現在はどのような働き方をしているのですか?

実は院長だったのは今年(2014年)の3月までで、現在は退職し、フリーランスの医者として週に1回勤務しているんです。


──なぜそういう状態に?

先ほどもお話しましたが、本吉には僕だけ単身赴任で、妻と4人の子どもたちは山形県庄内の家で生活していました。直接のきっかけは、その山形に残してきた中学生の長女が僕がおらん間に勝手に家を出て行ったことです。出て行った先は僕の父と祖母が暮らす奈良の実家です。奈良の家から中学校に通うと出ていきよったんですよね。しかも父は末期がんで、祖母は大正生まれのお婆ちゃんなので、その3人暮らしは無理やろと。13歳で独り立ちって「魔女の宅急便」やないんやからと(笑)。それで近々家族みんなで奈良に引っ越そうということになって、病院を辞めさせてもらったんです。


──なぜお嬢さんは家を出て行ったんですか?

いやあそれがよくわからないんですよね。家を出て一人暮らしがしたいというのは前から聞いてはいたのですが。今の生活に不満があるなんてことは聞いてなかったし、ケンカをしたわけでもありません。僕が本吉で仕事ばっかりしてる間に自分で決めて出て行ってしまったんですよね。そもそも山形は身寄りがあったわけじゃなくて3年前くらいに移り住んできたので、妻と子どもたちにとっては暮らしやすいとはいえない。奈良の実家の方は老々介護だから何とかしたいと思っていたけど僕は本吉病院の仕事で忙しくてすぐにどうこうすることはできなかった。そんなときにちょっと行動力のあるうちの長女がえいやと単身で奈良に行ってしまったことで、結果的にみんなの望みを実現するきっかけをつくってしまったという形なんです。


──すごく行動力のある嬢さんですね。

僕の娘ですからね(笑)。それでもう単身赴任は無理やと思って、病院を辞めさせてもらってフリーになったわけです。院長には、2012年4月に本吉病院に着任した医師がなってくれたので、彼のおかげで辞めることができたわけです。

今、奈良に住む家を探し始めたところで、7月からは奈良に家族みんなで移住して、僕は通える範囲の病院に務める予定です。その後、本吉病院には月に1回くらい顔を出せたらいいかなと思っています。

本吉病院のスタッフと。右から二人目が現在の院長を務める齊藤稔哲医師

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優先順位が大事

──では現在はどんな生活を?

週に一回、病院に勤務していて、外来の診察と、1日6~7軒、病院に来られない患者さんの自宅を回って診療を行っています。そして2週間に一回、奈良の実家に帰っています。奈良では父親の介護がメインですね。それと家探しです。その他の日は山形の家にいます。子どもが下から3歳、6歳、10歳とまだまだ手がかかるので、主に子守や掃除洗濯など家事をしています。今までそれら全部妻に任せきりだったので。


──お嬢さんの件がなければ本吉病院の院長として働き続けていたのでしょうか。

はい。ずっと本吉病院で働いていたと思いますよ。ボランティアで通っていた時期を含めると3年くらいいたので離れるのは寂しいですね。

はっきりいって、ここには仕事や仲間など、自分にとって必要なものはすべてあるんです。僕はライフワークとして病院の裏手で田んぼを作っているんですが、機械でなければできない農作業などは全部地元の人にお願いしてやってもらっていて、そういう田んぼ仲間も自分にとってはかけがえのない人たちなんですよね。トラクターを運転しているおじいちゃんと先日初めて2人で酒を飲んだのですが、ちょうど僕の2倍くらいの歳だということが初めてわかって。僕はおじいちゃん子だったのですが、自分のじいちゃんと酒を飲んだことがないですからね。そういう付き合いがすごくおもしろいんですよね。

こういう人たちと別れるのもつらいし、ここに愛着というか思い入れは当然あるので、本吉に残ろうかとも一瞬考えたんですが、それは本末転倒だなと。今自分が何をするべきかと考えたら家族と一緒にいるべきだと思い直したんですよね。家族がいるから働いてきたわけですからね。それで断腸の思いでここを離れる決意をしたんです。やっぱりね、人生、優先順位って大切だと思いますよ。

川島さんが病院の裏手で作っている田んぼ。農作業を通して地域とのつながりを深めてきた

胸に響く地元住民の言葉

──本吉病院には被災直後から通っていたわけですからこの地域に対する思いも特別なものがあるのでしょうね。

とはいえ僕はあくまでよそ者で、津波で自分の家や家族を失っていません。地元の人々の中にはつらい思いを抱えて生きている人がたくさんいます。しかし津波はいつかまた必ずこの地に来るので、次の津波を心待ちにするくらいの準備がないとこの地域で幸せに暮らせないんじゃないかと思うんですね。だからこそ、「津波が来てよかったねと言えるようになって初めてこの地域が本当に復興したといえる」というのが僕の持論なんです。

先日、よくお参りに行くお寺の住職にそういう話をしたら、「川島先生は一番苦しかった時間を我々と共有してくれたので十分被災者だ。大変な目に遭いましたなあ」と言われたんです。そのお寺も天井まで津波が来て檀家さんが120人くらい亡くなっているんですが、その住職にそんなことを言われてなんだかすごくほっとしました。それだけにやっぱりここを離れるのはつらいですね。


──地元の人たちも川島さんがいなくなるのは寂しいと感じているのでしょうね。

僕が本吉に来たとき、前の院長はほとんど一人で働いていたんですよ。週に5日当直して土日だけ大学病院から応援をもらって休むという働き方をされていたのですが、その先生が震災後退職されたら、患者さんたちは「あの先生は我々を見捨ててここから逃げた薄情な人だ」とずっと恨みごとを言っていたんです。

僕もここを辞めたら同じように逃げたとか薄情だとか非難されるんだろうなと思っていたんですが、この病院を辞めて奈良に帰りますと患者さんや医療スタッフに報告した後も、会う人みなさんに「今まで本当にありがとうございました」と言われるんですよね。それにすごく感動して胸が熱くなりました。僕もここが嫌いになって辞めたわけじゃないので、うれしかったですね。そういうお互いの想いみたいなものを今後も大切にしていきたいなと思ってます。


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