2017年3月アーカイブ

開店当初は高級居酒屋

──村田さんは「なだ万」で13年修業を積んだ後、2005年に「鈴なり」をオープンしたそうですが、店名の由来は?

村田明彦-近影1

子どもの名前を組み合わせてつけました。といっても「鈴なり」とつけたのは自分じゃなくて嫁なんですけどね。子どもに思い入れがあったんでしょうね。自分はやっぱり本格的な日本料理を出す店にしたかったので、「○○庵」とか「○○亭」とか「懐石○○」みたいな名前にしたかったんですよ。でも嫁が「そんな堅い名前じゃ誰も来ないよ。だったら子どもの名前をくっつければいいじゃん」と。だから長女と長男の名前をくっつけて「鈴なり」にしたというわけです。ある日河岸に行って店の名前は「鈴なり」にしたと言ったら「いい名前だねと」言われて。調べてみたら「客が鈴なりに入ってくる」という意味で本当にいい名前だなと(笑)。自分は学がないから全然知らなかったんですが。

余談ですが、3人目が生まれた年だったので、その子の名前からも1字取って、最初は「鈴なりや」にしようと思ってたんですが、語呂が悪いのでやめたんです(笑)。でも料理に1番興味をもってるのが1番下の次男なんですよね(笑)。


──「鈴なり」は開店当初は今と全く違う店だったということですが、具体的にはどのようなスタイルの店だったのですか?

最初は本格的な日本料理は出すんだけど、女性でも気軽に入って来られるような高級居酒屋にしてたんですよ。ほとんどが一品料理で、カウンターの上に大皿料理が並んでいるような。開店当初は一品料理が60種類とコース料理が2本という構成でした。


──お客さんの入りはどうでしたか?

開店当初から結構地元のお客さんに来てもらってました。1番最初に来たお客さんが知り合いがたくさんいるからといってお店の名刺を配ってくれたからかも(笑)。あと1ヵ月くらい経った頃に『東京ウォーカー』に掲載されたんですよ。それから四谷以外からもいろんな人が来始めて、2ヵ月目くらいには毎晩予約で埋まってました。だから最初は雑誌の力ですかね。

2、3年目に「アド街ック天国」で紹介されたんですが、この時の反響がものすごかったですね。放送終了直後からガンガン予約が入って3ヵ月先まで一気に埋まりましたもん。「アド街」すげえって思いました(笑)。


──お店のスタイルが変わっていった経緯は?

村田明彦-近影2

最初のうちは一品料理メインのスタイルでも好評だったのですが、途中からコース料理を頼むお客さんが増えて、一品料理とコースの割合が半々になり、最終的にはコースの方が多くなってきたんです。そうすると食材が余っちゃうことが多くなってきて。一品料理も続けていると60品分の食材をもってなきゃいけないですからね。

あと、席だけ予約しても当日来ない、いわゆるドタキャンするお客さんもけっこういて。そうするとあらかじめ仕入れた食材が無駄になるし、こちらはかなりの損害を被るわけです。でもキャンセル料も取れないし、あなたは大変なことをしたんですよということも言えない。なので、開店して5、6年経った2011年頃に一品料理をやめてコース料理だけにしたんです。当時のコースは4500円と5500円の2本のみでした。いろんな人に気軽に来てもらいたかったので、なるべく安くしたかったんです。ほぼ4500円のコースしか出なかったですけどね(笑)。コースのみにした翌年の2012年にミシュラン・ガイドで1つ星をいただきました。

ミシュランで星を取るも「変わらない」

──ミシュランで星を取った時の気持ちは?

もちろん評価されるというのはうれしいんですが、不安もありました。ミシュランで星を取ると流行りの店に行きたいだけの客ばかりが殺到して、常連さんが入れなくなる。でもそういう客はすぐ来なくなり、入れなかった常連さんも来なくなって結局潰れちゃう、みたいな噂を聞いていたので。やっぱり星を取る前から来てくれてたお客さんを優先したいですからね。


──やっぱりミシュランで星を取った影響は大きかったですか? お客が殺到したとか。

それが載る前と全然変わらなかったんです。載ってから予約の電話が殺到するということもなくて。今はだいたい1ヵ月待ちなんですが、それは星を取る前から変わらないんですよね。だから載る前に懸念してたようなことは一切なかったんです。

その頃からコース料理のバリエーションと料金を変えていきました。お客さんから「もっと高くしてもいいからもっといいものを食べたい。1万とか2万円のコースもできるんでしょ?」って言われるようになって。そういうお客さんが増えてきたし、食材の原価も値上がりしてきたということもあって、大丈夫かなと思いながらいい食材を使ったコースを作っていったんです。今は華やぎコース7,500円、おまかせコース1万円、季旬爽快コース1万5,000円などがあります。

華やぎコースの一部。味も見た目も素晴らしい日本料理。これで7,500円は確かに安いと感じる

初心忘るべからず

──なぜそんなに安くしてるんですか?

村田明彦-近影4

自分の性格的に、金を追うとあんまりうまくいかないような気がして。店を始めたばかりの頃は、自分の料理を食べてくれてありがとうございますっていう気持ちじゃないですか。それを高いお金を取るようになったら、その気持がなくなるんじゃないかなと思って。だって高い食材を使っているだけの1万5,000円の料理を食べて満足しないで帰ってもらうのも嫌だし。それよりも7,500円の料理を食べたお客さんに「これ他で食たべたら1万5,000円くらいだよね」と言われる方が自分的にはうれしいから。自己満足ですよね(笑)。


──儲けを追うと料理人としての大事なもの、初心が失われてしまうと。

自分の場合はそうかもしれないですね。でも7,500円の料理でも高いというお客さんもいるんですよ。前は4,500円とか5,000円のコースもあったよねと言われる。彼らはその料金のコースで充分満足してるから。でもお金の価値って人それぞれだから、自分は今の価格設定くらいがちょうどいいのかなと思ってます。実際、料金を高くしたことで来なくなった昔ながらのお客さんもいませんしね。


──安くて満足度の高い料理を出せる秘訣は?

仕入れ先の魚屋さんや八百屋さんとうまく付き合うことですね。そうすることでいい食材を安く売ってもらえて、価格も低く抑えることができるんですよ。

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おいしいものを、安く、全力で

──料理を作る上で大事にしてること、こだわっている点は?

村田明彦-近影5

根本には「おいしいものを安く提供したい」というのがあります。お客さんに出すからには常に全力でやってます。

あとは日本料理なので季節感は出すようにしてます。"走り"、"旬"、"名残り"は全部コースの中に組み込むようにしてますね。あとはなんだろな......日々当たり前のことをやってるだけなのでそんなに意識してないんですよね。温かいものは温かく出すとか、冷たいものは冷たく出すとか。自分がうまいと思うものしか出さないようにしてるということくらいですかね。

長年店をやっているうちに、自分の料理が段々シンプルになってるような気がします。店を始めたばかりの頃はヘンテコなものばかり作ってたんですよ。当時取材を受けた雑誌には「和食ではタブーとされるチーズを使ったり西洋の調味料を使ったり、たくみに使い分ける料理人」という書き方をされてます(笑)。そういうのが楽しくてすげえやってた時期があって。でもそういう奇抜なことは段々しなくなってシンプルになってきました。味もそんなにつけなくなってきたし。調味料もあまりこだわってません。


村田明彦-近影4

──それはどうしてなのでしょう?

いじくりすぎるのがおいしいとは思わなくなってきたんですよ。なだ万時代はメニューを考える時、若い料理人が刺激を受けてやる気が出るように知らない食材や調味料を使った料理にしてたんです。でもそれって、お客さんのことを考えてるんじゃなくて、結局誰かにほめられたいとか、若い子にいいかっこしたいがためにしてたんですよね、今思えば。

自分の店を始めたばかりの頃はそれをまだ引きずっていたので、和食では珍しい食材、調味料などを使ってたんです。でもやってくうちにそれが違うなと思うようになってきたんですね。今は野菜や魚の味もどんどんよくなってるから、そこまで手を加えなくてもいいのかなと思うようになってきて、極力シンプルに最低限の調理で素材の味を最大限引き出すという手法に変わっていったんです。とはいえたまに変わった料理もやらないと飽きが来るので、ちょっとアレンジを加えたりしてますけどね(笑)。

すべて感性でやってる

──日本料理といえば出汁が重要だと思うのですが、出汁はどういうものを使っているんですか?

うちはベースをアゴ(トビウオ)出汁にして、それにまぐろ節を入れた出汁やカツオと昆布の合わせ出汁など何種類か使ってます。これらの出汁を料理によって使い分けてます。出汁を取る元となる食材にもこだわっていて、いつも決まった産地のものを仕入れてます。

和食なので味は出汁で勝負するのは当然なのですが、結局は味ってバランスなんですよね。出汁が効いててうまいというのもあるかもしれないけど、すべてはバランスだと思います。そこが1番重要なんですが、自分の場合は全部感性でやっちゃってます(笑)。


──感性でやってるとはどういうことですか?

想像でやってるんですよ、全部。味のバランスもメニューを作るのも。考えなくても食材を見てたら勝手にいろんなイメージが湧いてくるんです。特殊能力があるんですかね(笑)。今まで料理人としてやってきた経験があるので、頭の中で組み立ててやっちゃってるって感じなんですよね。

その代わりいろんな料理の本や雑誌をすごく読みますよ。そういう情報が頭の中に入ってるので、自分オリジナルのつもりでも知らないうちにどこかの誰かの料理に似てるというパターンもあるかもしれないですね(笑)。

村田明彦-近影5

──いいアウトプットをするためには大量のインプットも大事ということですね。それは料理に限らず、クリエイティブな世界全般にいえることだと思います。勉強のためにいろんな飲食店に自分で食べに行ったりは?

それはほとんどしないんですよ。休みの日には焼肉食いてえなと思うだけで、料理の勉強をしに行こうかなんて思わない。おいしいと評判の店は何万円もするわけじゃないですか。他人の料理に何万円も払うくらいなら、そのお金で食材買ってきて自分で作った方がいいですよね(笑)。

仕入れ元との人間関係も大事

──仕入れも重要ですよね。

もちろん仕入れにもこだわってます。仕入れが命といっても過言ではないですからね。魚ならこの店、野菜ならこの店、というふうに食材の種類によって仕入れるお店が決まってます。その方が安心・安全ですからね。後は産直もやってます。いい食材ってそれだけ値も張るし、利益の幅も減るんですが、そこはあんまり気にしないですね。お客さんにリーズナブルでおいしいって喜んでもらいたいのが1番ですから。それと業者さんとの長い付き合いもあるので、少々高くても買っちゃいますね。コミュニケーションをしっかり取って、もちつもたれつでやっていくといい食材を安く売ってくれるんです。そういう関係を築くことも大事ですよね。


──河岸には毎日行ってるんですか?

2日に1回くらいですね。あと足りない部分は配達してもらってます。行くときは9時過ぎくらいですね。朝、仲買人から電話がかかってきて、ほしいものを伝えるとそろえてくれるので自分で見て回らなくても大丈夫なんです。仲買人は自分がどういう魚のどういう状態のものが好きかということを熟知しているので任せて安心、ほぼ受け取りに行くだけでOKなんです。でも河岸に行ったら2時間くらいいます。いろんな人と喋ってるんで(笑)。それもいい人間関係を作るために必要なんですよ。

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1番重要なのは接客

──特に荒木町のような飲み屋街だと競争が厳しいですよね。長くお店を続けていくために心がけていることは?

村田明彦-近影8

特にないっすね。何も考えてません。それは嫁がやってんじゃないですか(笑)。しいていえば、やっぱり店をやってく上で大事なのって接客でしょうね。主体はあくまでもお客さんなので、接客が1番だと思います。どれだけ料理がうまい店でも行列ができる店でも、やっぱり接客が悪かったら次に行こうとは思わないじゃないですか。料理のうまさっていうのは店によってそこまで変わらないと思うんですよ。ずば抜けてうまいという店ってそこまでないですよね。でも接客は店によって全然違う。だから接客が1番大事で店の生命線と言っても過言ではないと思うんですよ。


──接客も好きなんですか?

好きですね。だから自分はお客さんとよく喋ってます。なだ万時代はずっと厨房だったのでお客さんと接する機会ってほとんどなかったのですが、兄貴と母がやってる小料理屋もちょこちょこ手伝いに行ってたのでその時に経験はしてます。カウンターといくつかのテーブルだけの小さい店なので、仕事しながらお客さんと話すのはおもしろいなと思いましたね。

お客さんとの距離が近いと顔を直接見られるので、おいしい、まずい、おなかいっぱい、まだまだいけそう、体調があまりよくない、などの気持ちや状態を表情から察することができるのがいいんですよね。それによってこっちの対応が決められますから。


──なるほど。それでますますお客さんを満足させられると。お客さんに常に見られてることで緊張はしないんですか?

意外と緊張しないですね。料理人ばっかりがカウンターに並んで一斉にじーっと見られる時はわざと食材を切る手元など隠しますが、それでも全く緊張はしないです(笑)。自分の腕に自信があるわけじゃないけど、気取ってやってもしょうがないじゃないですか。

村田明彦-近影9

──接客で心がけていることは?

常連さんでも初めてのお客さんでも、どのお客さんに対しても態度を変えないようにしてます。常連さんとだけよく喋って、初めてのお客さんはほったらかしというようなことはしません。それと、お客さんとの距離感も大事にしてます。付かず離れずというか。もちろん、お客さんのキャラに応じて対応は変えますよ。例えばお喋りが好きなお客さんならとことん付き合いますし、あまり自分から喋らないお客さんには話しかけないようにしてます。

空気感も大切に

──接客以外に心がけている点はありますか?

あとはなんだろな......お客さんがいやすい店、居心地のいい店、くつろげる、ほっとできる店にはしたいとは思ってますね。空気感って大事じゃないですか。ピリピリした緊張感が漂う店って行きたくないでしょ? そういういづらい空気を作らないようにはしてます。そうじゃない時もありますけどね。夫婦喧嘩してる時とか(笑)。お客さんの目の前でケンカしなくてもそういう空気感って伝わると思うので、そういうのはなるべく出さないようにしてます。とにかくうちの店に来てくれたお客さんがもう2度と来たくないと思うような店にはしたくないっすよね。そのために頑張ってます。

"内助の功"に助けられた

常に村田さんを支えてきた奥さんと

常に村田さんを支えてきた奥さんと

──開店してこれまで厳しかった時期はありましたか?

自分としては全くないですね(笑)。でも嫁はすごく大変だったと思いますよ。そもそも嫁は自分がどういう料理人かあんまり知らなかったので、自分が今店で出しているような料理が作れるとは思ってなかったはず。独立する時も、嫁には何の相談もなく、突然日本料理の店をやると言ってなだ万を辞めたんです。でも嫁は反対は一切しなかった。

店をオープンして1年間は嫁は会社で働きつつ、店の仕事もしてました。店が18時オープンなので毎日17時半に会社を出て30分以内に店に入って仕事開始。オープン当初は深夜3時くらいまで営業していたので、帰宅するのは4時くらい。そして8時には会社に出勤してたから嫁は本当に大変だったと思いますよ。そんな中でもよく文句1つ言わずにやってましたよね。

だからみんな言うんですよ。「奥さんがいるからあんたは料理人を、店をやれてるんだよ。できた嫁でよかったね」って。だからこのインタビューも自分に話を聞くより、嫁に聞いた方がいいんじゃないすかね(笑)。もっとも、当時のことを苦労だと思ってるかどうかはわかりませんけどね。

ちなみにその間、乳飲み子含め3人の子どもは嫁の母が近くに住んでてずっと面倒を見てもらってたので助かりました。そもそも子育ても、結局自分は仕事をずっとしてたから携わってなかったですしね。

好きだからつらいことなんてない

──仕事のやりがいや魅力は?

村田明彦-近影11

やっぱりお客さんからおいしいと言われること。それだけでしょうね。自分で理想とする料理ができたときの喜びももちろんあります。毎日ありますよ。同じ食材を使って同じ盛り方をしても、日によって今日はすごくうまくできたなと思う時もありますし。でもそれよりもお客さんからおいしいと言われる喜びの方が全然大きいですね。


──料理人をやっててつらいと思うことはないですか?

ないですね。二日酔いの時はつらいですが(笑)。やっぱりこの仕事が好きだからでしょうね。好きだったら楽なんですよね、仕事って。好きじゃない仕事がつらいだけで。仕事がつらいとかいう人はたぶん好きじゃないんでしょうね。ただ、仕事にするなら相当好きじゃないと難しい。趣味の範囲なら商売としてはできないですからね。

だから料理の世界に入って本気で辞めようと思ったことは一度もないですね。前に話した、入ったばっかりの頃に先輩にもみあげ剃れと言われた時だけでしょうか(笑)。でも料理人の中でも料理が嫌いなやつはいますけどね(笑)。

自分は料理以外、やりたいことがないんですよ。その他のことが丸っきしダメで、料理以外頑張れるものがない(笑)。だから料理人になってよかったですよ。料理の道に行かなければ、何になってたかわかんない。ふぐ屋やってた爺さんのおかげですよ。爺さんがいたから料理人になれたから。

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正解やゴールがないからこそおもしろい

──村田さんにとって料理人という仕事はどういうものですか?

村田明彦-近影12

かっこよくいえば人生そのもの。それしかないから。天職でしょうね。自然とそうなったんですよね。料理人という仕事はいくらやっても飽きないですね。料理の道は奥が深い。正解がないというのがいいですよね。人それぞれいろんな味覚をもってるし、感性もあるし、うまい・まずいもみんなそれぞれなので。

料理の道は一生修業で、「こうなったら上がり」というゴールがありません。今でも自分は一人前の料理人だなんて自覚はないですし、そもそも一人前って何なのかって思いますよね。でも、だからこそおもしろいんでしょうね。


──働き方についておうかがいしたいのですが、現在はどんなスケジュールで動いているのですか?

起きるのは毎朝6時頃。河岸に電話してどんなものが入っているのか聞いたり、注文したりして、9時に河岸に行きます。仕入れをして11時半から12時くらいに店に帰って、そこから開店時間まで仕込みをやります。18時にお店をオープンして0時まで仕事。その後片付けなどをして1時過ぎくらいに帰宅します。家では風呂に入ったり読書したりテレビ見たりして寝るのは3時くらいですね。昔から睡眠時間は3、4時間くらいで全然大丈夫なんですよ。

店の定休日の日曜日と祝日もなんだかんだ仕事をしてることが多いです。取材やテレビの収録、地方の料理の品評会の審査員などの店以外の仕事を入れてます。それで地方に行くことも多いんですよ。そこで知った食材を使って郷土食を全面に出したメニューを作ることもよくあります。あと、連休は友達と飲みに行ったり、1日ぼーっとしたりする日もありますよ(笑)。

店以外の活動

──店の仕事以外にも、いろんな活動をしてるんですね。

農水省主導の「和食給食応援団」の一員としても活動してます。年々、給食で和食が減っているので1日のうちで米を全く食べないという子どもが増えてるらしいんですね。それを何とか食い止めようという目的で活動している団体です。具体的には、栄養士さんに出汁の取り方や和食の作り方を教えたり、子どもたちに和食の授業をしたりして和食を広めています。和食を食べる機会が減ると和食に興味がなくなって、そういう子たちが大人になったらお客として日本料理屋に来てくれなくなっちゃうじゃないですか。そういう危機感もあって。だから自分のためでもあるんです。

その他、いろんな食のイベントに出たり、和食の品評会の審査員をやったり、テレビや雑誌などの取材を受けているのも、このまま誰も何にもしなければ和食文化は廃れる一方なので、そうならないために日本料理の料理人の1人として何かしたいという思いからです。あとは「チームシェフ」という活動もしています。これは和食に限らず、全国各地のおいしい食材を使って商品を作って地方を活性化していこうという活動です。

国内だけじゃなくて、2015年には「ミラノ万博」に行って、現地の食科学大学で出汁の引き方や一汁三菜のメニューを教えました。それを食べてもらって、自分が使ったのと同じ食材で作ってもらって、それを品評するということもやりました。今後も機会があれば、世界にも日本の和食文化のすばらしさを伝えていきたいですね。


──今後の夢、目標は

村田明彦-近影12

昔からずっと変わらないんですが、自分で育てた野菜や釣った魚など、その土地のおいしい食材をその場で食べさせるのが1番いいと思っているので、将来的には横に畑があるような田舎で店をやりたいんですよ。50歳くらいでその夢を叶えたいと思っているんですが、お金が全然貯まらなくて(笑)。

あとはラーメン屋もやりたいんですよね。ラーメン屋ってスープと麺だけにこだわれるじゃないですか。和食屋って、毎回何百、何千種類の食材を使わなければいけないし、メニューも変えなきゃいけないけど、ラーメン屋は基本的に麺と汁だけで一杯を完成させられる。おいしい出汁や麺は和食と通じるものがありますしね。だから自分で店を出さなくても監修という立場でもいいからラーメンを極めたいなと。ラーメン好きだし(笑)。


──お子さんを料理人にしたいという気持ちは?

ありますよ。今高2の長女は時々店に手伝いに入ってるし、中2の長男は家が店をやってるからしょうがなく料理人になろうかなという感じっぽいです(笑)。1番料理に興味をもっているのが1番下の次男です。何にしてもこの先が楽しみですね。

奥さんと弟子の料理人2人と一緒に

インタビュー前編はこちら

「季旬 鈴なり」

──村田さんが営む「季旬 鈴なり」とはどのようなお店なのですか?

村田明彦-近影1

店名にある通り、旬にこだわった日本料理を出すお店です。多くのお客さんに安くておいしい和食を食べてもらいたいという思いで、日々板場に立って仕事をしてます。2005年12月に四谷荒木町にオープンしたので、今年(2017年)で12年目に入りました。メニューはコースのみで、7500円から。おかげさまで多くのお客さんに気に入っていただき、毎日満席で、今はだいたい1カ月くらい先まで予約で埋まっています。お店をオープンするまでは12年間、「なだ万」という日本料理店で修業していました。


──料理人になった経緯を教えてください。

自分の母方の爺さんが東京の門前仲町で長年「幸月」というふぐ料理店を経営していて、母もその店で働いていたので、自分も「幸月」によく行っていました。子どもの頃の遊び場って感じでしたね。お店では爺さんや母親の働く姿を間近で見て楽しそうだなと思ってましたね。また、てっちり鍋用のポン酢を1年分まとめて作るので、大量のダイダイを絞ったり、年末にはおせち料理用のきんとんを作るためにサツマイモを裏ごししたり、手伝いもけっこうやってたんですよ。こんな感じで幼い頃から飲食店は身近な存在だったし、将来はこの店で働きたいと思っていたので、小学生の時にすでに何となく料理の道に進むんだなとは思ってたような気がします。ちなみに父は普通のサラリーマンです。

高校生になると厨房で洗いものをしたり、野菜を切ったり、皿に盛ったりと、本格的に料理の手伝いをするようになりました。当時はバブルの真っ只中だったので、毎晩すごく忙しかったんですが、とても楽しかったですね。もうこの頃には高校卒業したら爺さんの下で本格的に料理の修業をして、自分はこの店で働くんだと完全に決めていました。ちなみにお店で働くことでアルバイト代はもちろん、お客さんからチップをもらえたので、当時の高校生としてはかなり稼いでいたと思います。初めて就職したときの月給より多かった気がします(笑)。

日本屈指の日本料理の名店に就職

──高校卒業後は予定通りお爺さんの店へ就職したのですか?

村田明彦-近影2

いや、それが違うんですよ。爺さんはふぐ連盟に所属してたんですが、その会合で「なだ万」の料理長に「うちで若手を採用したいんだけど、誰かいい人知らない?」と聞かれて、「じゃあうちの孫なんてどう?」って爺さん、自分を推薦しちゃったんですよ。それですぐなだ万に面接に行ってこいって言われて行ったら、確かその場で就職が決まっちゃったんです。高3のゴールデンウイークくらいの時だったかなあ。


──そんなに早く就職先が決まっちゃったんですね。でもそもそもは高校を卒業したらお爺さんの店で働くつもりだったんですよね。なだ万よりお爺さんの店に入りたいとは言わなかったのですか?

言わなかったですね。爺さんは「なだ万で修業してダメならすぐうちの店に戻ってくればいいよ」と言ってて、自分もそのつもりだったので(笑)。今から思えば、高校を卒業していきなり身内である爺さんの店に入るより、その前に他人の店で修業した方が自分のためになると考えたからかもしれないですね。


──とはいえ「なだ万」といえば日本屈指の老舗高級料亭で、就職するのは難しい店ですよね。入社するに当たっての意気込みのようなものは?

意気込みも何も高校生なのでなだ万という店は聞いたこともなかったですしね(笑)。だから入るにあたって緊張することもなく、これからいっぱしの料理人になるために修業に打ち込むぞというような気持ちもそんなになかったです。今思えば本当に申し訳ないのですがバイト感覚というか「まあ就職先が早めに決まってよかったな」くらいのかなり軽い気持ちでした(笑)。料理に真剣に取り組もうと思ったのは入ってから何年かしてからですね。

でもなだ万に入った直後は速攻辞めて爺さんの店に戻ろうと思いましたけどね(笑)。

村田明彦-近影3

早速壁にぶつかる

──それはどうしてですか?

調理に関しては他の新人より少しは経験があったのでなんとかなったんですが、先輩や上司との人間関係が嫌で嫌でしょうがなかったんです。というのは、職人の世界は特に上下関係が厳しく、入店したての人間なんて1番下っ端じゃないですか。当然、いろいろ上から命令されるのですが、中学・高校と部活に入ってなかったこともあり、それまで他人に指図されたことがなかったのでかなりの抵抗感を抱いてしまって。先輩から「これやっとけ」と言われるのがすごく嫌で、逆らったり楯突いたりして嫌な人間でした。自分、当時はかなり闘争心があったので(笑)。入社してすぐ、先輩に「もみあげを剃れ」「茶髪を黒くしろ」と言われた時は本気で辞めようと思いましたね。結局剃ることも黒くすることもしなかったんですが(笑)。今考えても本当にダメな下っ端でした......本当に。

入社後は寮に入ったのですが、店の出勤時間に間に合うためには朝5時の始発電車に乗らなきゃいけないんですね。始発に乗り遅れて遅刻になっちゃって、上から文句を言われてもイラっとくるので素直に謝ったりはしませんでした。本当にダメなやつでした!

だから自分、最初の頃は本当に扱いづらかったと思いますよ。今でもオヤジさん、料理の師匠のことなんですが、オヤジさんと今の若い子の話をいろいろするんですが、「おまえもそうだったぞ!」と言われてます(笑)。

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「干される」から「かわいがられる」に

──そこで辞めてお爺さんの店に戻らなかったのはなぜなのでしょう?

村田明彦-近影4

確かに最初はかなり軽い気持ちで入ったんだけど、今思えばすごい負けず嫌いだったんでしょうね。調理師免許って2年間現場で働かないと試験を受ける資格がもらえないんですよ。だから辞めるにしてもせめて2年間働いて調理師免許だけは取ってからにしようと。

また、そうやって先輩や上司の言うことを聞かなかったり、楯突いてばかりいると、誰も相手にしてくれなくなったり、仕事を回してくれない、いわゆる干されるみたいな感じになっちゃったりして、一個もいいことないんですよね。何より料理人として成長できない。それで、これはまずいと思い、以降は先輩の指示には素直に従うようにしたりと言動を改めました。だからすべては自分のためです(笑)。でもそもそも上下関係をきっちりしなきゃいけないというのはどの職場でも当たり前のことなんですよね。当時は上下関係を経験したことがなかったのでわからなかったのですが。

あとは先輩や自分に負けたくないという気持ちも強かったと思います。だから人間関係がめんどくさいから辞めちゃおうという気持ちにはならなくて、どうしたら仕事ができるようになるかなとか、早く先輩より仕事ができるようになりたい、追いつき、追い越したい、そのためにはどうすればいいかを考えて行動するようになったんです。

入店したての頃は遊びたかったので、仕事が終わって寮に帰ると車で迎えにきた友だちと一緒に遊びに行き、朝まで遊んでそのまま店に出勤するという毎日だったのですが、このままじゃダメだ、ちゃんと真剣に仕事に取り組もうと思ってあまり友だちと遊ばなくなったんです。それを10年間続けました。

やっぱり自分が成長したければ人に教えてもらえるような環境を自分で作らなきゃいけないんですよね。

そういう経験ができてよかったですね。料理に対する思いがそこで培われたり、目上の人にはちゃんと失礼のないように接しなきゃだめなんだということを身をもって学べたので。入社して1、2年はそういった今まで経験したことのないような環境での人生勉強みたいな感じでした。


──料理人がたくさんいる環境の中ではうまく人間関係を作っていくことも重要なんですね。

やっぱり人間関係が苦手というのは、結局全部自分のせいだと思うんですね。自分が相手から逃げればどうしても苦手になっちゃうわけじゃないですか。だから積極的に自分から聞いたり話しかけたりする。でも自分からコミュニケーションを取ろうとしても反応が返ってこないような人は逆に相手にしない方がいいと思いますけどね。


──すべては早く一人前になりたいという気持ちからですか?

そうですね。当時は、今の若い子は10年働いても1人前にならないとか仕事ができるようにならないって言われてたので、自分は8年で全部覚えてやろうと思ってたんですよ。で、もう最初の段階で10年でなだ万を辞めて自分の店をやろうと決めちゃったんですよね。これが大きかったと思います。そのためにはちゃんとしなきゃなと。

料理人としての修行

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──料理人としての具体的な修業はどのように積んでいったのですか?

入ったばっかりの頃はほとんど立ってるだけでしたね。物を片付けたり、洗い物をしたり。といっても器はものすごい高級品で絶対洗わせてもらえないんで、調理道具を洗ったりとか、店の外の掃き掃除をしたりとか。

もちろん食材もしばらくは触らせてもらえませんでした。まかないをやらせてもらえようになったのも何ヵ月か経ってからです。でもこれがよかった。しばらく触らせてもらえなかったからこそ、ようやく触ったときのありがたみが大きくて。この皮を残してまかないにもってこうとか、根っこは捨てないで砂を取って使おうとか、食材を大事にするようになったので。それから料理の下処理をするようになりました。

このような下積み仕事は普通は半年から1年で終わって、次の段階に行くのですが、自分の場合は2、3年ほど続きました。次の年に入ってきた新人がすぐ辞めちゃったので、下積みの期間が長くなったんです。それもラッキーでしたね。


──ラッキーというのは?

下積みの仕事を長くやることで、こまごまとしたやらなきゃいけないことに気づきやすくなったんです。しかもそれをやりつつ調理の仕事もできたから人より余計に修業ができて得をしましたね。

異例の昇進

──2年目以降は?

村田明彦-近影7

八寸場という部署に回されて、前菜を盛ったり、野菜の下処理をして、煮方に回す仕事をするようになります。その後、魚などを焼く焼き場に行けます。ここまで来るのに本来は4年くらいかかるのですが、自分はたまたま焼き場の先輩が辞めたので、3年目くらいから焼き場に入れたんです。今考えたらすごいことですよね。


──一般企業でいうスピード出世ですね。3年目に焼き場に行ってすぐ焼きができるものなのですか?

もちろんできないです。でも焼き担当だった人が辞めて自分がその立場に就くとなった時に、すぐにサポートに回らなきゃいけなかったんです。自分の担当の仕事をしながら、焼き場の仕事も覚えなきゃいけないんでけっこう大変でしたね。

2年経って調理師免許を取ったら、ふぐ調理の免許を取ろうとか、どんどん目標を立てて頑張るようになりました。そうしてたら段々仕事がおもしろくなっていったんですよ。

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修行の仕方

──職人の世界は技術を手取り足取り教えてくれるわけじゃなくて見て盗めみたいなイメージですが、実際はどうでしたか?

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やっぱり見て盗めという感じはありましたよ。師匠のやってるのを真剣に見てないと聞くこともできないし、まともに仕事をすることもできないですからね。ちゃんと見て覚えるということは大事です。そもそも、メインの仕事はお客さんにおいしい料理を出すことであって、下の者の教育をすることではないので、「手取り足取り教える」なんか絶対無理なんですよ。だから師匠の仕事を見て感じて、知りたい点を聞いたり、師匠が仕事をやりやすいようにサポートして、師匠の手を空けておいて、自分が気になるところを教えてもらうようにしてました。


──師匠は知りたいことを聞いたらちゃんと教えてくれるんですか?

もちろん教えてはくれるんですが、何の努力もしないやつがただ単に教えてくれと言ったってちゃんと教えてもらえるわけはないですよね。だから教えてもらえるためにちゃんと仕事をすることが大事なわけです。


──その後のステップアップは?

通常のステップアップの工程としては、焼き場の後は、お刺し身、お造りを作る人の補助の「脇板」になります。その後、煮方の補助の「脇鍋」に。その後、造りのメインになって、現場で実際に作る料理人の最終段階の「煮方」になります。その後は副料理長、そして板場のトップである料理長へ。それが1年おきくらいに変わっていくんです。

でも自分の場合は、上の人が次々と辞めていったので、いろいろ早く仕事を覚えさせていただきました。


──能力のある人は入社年次に関わらず、上に行けるんですか?

行けません。年齢と経験年数で決まります。ただ自分の場合はたまたま上の人間が次々辞めてったから、仕事を覚えるのが他の人間よりすげえ早かったんですよね。覚えなきゃいけない立場になったのが早かったから。これもラッキーだったと思います。あとは先輩や上司がよかったというのも大きいと思います。


──先輩がどんどん辞める理由は?

給料が安くて仕事がつらいというのが主な理由だったんじゃないですかね。独立して自分の店を持つという理由で辞めた人はほぼいなかったです。自分は給料の足りない分はパチンコで稼いでました。相当通ってましたね(笑)。

独立するつもりが支店へ異動

入社して10年が経った2002年、28歳のときに、かねてから決めていた通り、独立して自分の店をもちたいからなだ万を辞めますとオヤジさん(料理長)に言ったら、ちょうどその頃オープンしたばかりの新しい店に入ってみないかと。今辞めるより、その支店に行った方がきっといい経験が積めるからと言われたので、行くことにしました。

村田明彦-近影10

──支店に行ってみてどうでしたか?

支店では献立を書くとか、これまでやったことのない仕事ができるようになっておもしろくなりました。結局支店には3年間いたのですが、いろんな勉強ができたので料理人としてまた一段成長できたと思います。なので、28の時にオヤジさんの言うことを聞いて支店に行ってよかったと思いましたね。

13年でなだ万を卒業

──その後、なだ万を退職するわけですか?

そうですね。正式に退職したのは2005年、31歳の時です。なだ万で働いていたのは本店、支店合わせて13年で、予定より3年長くなってしまいましたが、この13年間は相当大きいですね。自分の料理人としての基礎をすべて作ってくれたので。最初は軽い気持ちだったのですが、なだ万に入って本当によかったと思いました。損することが何にもなかった。

料理の腕が鍛えられたのはもちろんですが、そういうのってやってれば誰でも勝手に身につくもんなんですよ。いつの間にか大根がむけるようになったり、刺し身がきれいに引けるようになったりとかね。でも料理の勉強が全般的によくできたというのはその時しかないので。人との出会いも含めて全部よかったです。


──なだ万時代の忘れられない思い出は?

村田明彦-近影11

初めてふぐの薄造りを作ったことです。もちろんふぐ調理の免許はもってましたが、これまでやったことないんですよ(笑)。でもお客さんにおいしいと言ってもらえてうれしかったですね。今考えたらふぐの刺身を引くのは初めてだったので、きれいに引けてなかったと思うんですよ。でも「全部お前に任せるから」とやらせてくれた兄貴分の人がすごく器がでかいと思いますね。全部教えてもらいながらやったので何とかなったんです。

あと、初めてメインの煮方を張った時もずっと脇について教えてくれて。ありがたかったですね。だから誰の下につくかでも料理人の成長度合いって全然違うんですよ。でもさっきも言いましたが、そういう環境を自分で作んなきゃいけないんですよね。そこが重要なんです。

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アクシデントでいきなり無職に

──なだ万を退職してからは?

村田明彦-近影12

最初は爺さんの店を継ぎたいと思っていたんですが、やっぱり修行していくうちに料理人として自分の店をもちたいという気持ちが強くなり、退職後、門前仲町で物件探しを始めました。爺さんの店もあるし、子どもの頃の知り合いも多いし、当時母と兄も小料理屋をやってましたからね。運よくいい物件を見つけてそこで店をやるつもりだったんですが、諸事情で引き渡しの直前でダメになっちゃって。

当時は子どもが3人いたのでこのままではまずいとその後から急いで不動産巡りをしたんですが、門仲は家賃が高かったし、ピンとくる物件がなかったのであきらめました。その後もいろいろと探してはいたんですが、なかなかこれという物件に巡り会えなかった。だから3ヵ月くらいはプー太郎気味だったんですよね。


──仕事も辞めて、あてにしていた物件にも入れず、しかも子どもも3人いたということで、当時はかなり大変だったでしょう。

それが、確かに苦難続きではあったんですが、全く大変じゃなかったんですよ。知り合いの店から頼まれて手伝いに行ってたり、嫁も仕事をしてたので、食いつなぐことはできていました。なのでそんなに切羽詰まってたわけでもないし、焦りも全くなかったんですよね。金はなかったですけどね(笑)。

それで、お店どうしようかなと思いながら、自宅の近所の荒木町界隈(東京都新宿区四谷)をぶらぶら歩いていたら、ボロボロの廃墟みたいな物件が目に止まりました。ラーメン屋の倉庫だったのですが、なぜかピンと来てここで店をやろうと思い、すぐ契約したんです。

鈴なり、オープン


──なぜそんな廃墟みたいな物件を?

自分でもわからないです(笑)。なぜかここならいけると思ったんですよね。完全に直感です。そこから内装工事を徹底的にやって、2005年の12月に日本料理の店「鈴なり」をオープンさせました。元が廃墟同然だし、コンテストで賞を取るようなデザイナーに頼んだのでめちゃめちゃお金がかかりました(笑)。

鈴なり外観

鈴なり外観

店内の様子。おしゃれで落ち着ける雰囲気
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店内の様子。おしゃれで落ち着ける雰囲気

店内の様子。おしゃれで落ち着ける雰囲気
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──荒木町って飲食店の激戦区ですよね。そこに店を出すことに不安はなかったのですか?

村田明彦-近影15

確かに今でこそ激戦区ですが、当時はここら辺にこんなにたくさんお店がなかったんですよ。それに不景気で夜の荒木町に人が全然いなかったので、そういう意味での不安は全然なかったですね。そもそもうちの店の前の路地は酔っ払いが小便をしにくる道だから「しょんべん横町」だと言われてたらしいです。それと、近所のおばさんに「ここは元スリ横丁っていって、元も取れないうちにやめてく店が多いのよ。なんでこんなところに店を出したかね。あんたの店も1年以内に消えるわね」と言われたこともあります(笑)。別に気にしませんでしたけどね。ちなみにその人は近所の料亭のおばさんで、今でもうちによく食べにきてくれてます(笑)。

でも、開店したばかりの頃の「鈴なり」は今と全然違う店だったんですよ。


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