2016年2月アーカイブ

花咲かじいさんのような絵描きを目指して[後編]

高校の芸術コースに入学

──ここからはこれまでの歩みについてお聞かせください。まず、絵を描くことを職業にしようと思ったのはいつごろですか?

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おぼろげながら絵で何かをしたいと思ったのは高校受験を前にした頃ですね。佐賀の小さな田舎町で父がサラリーマン、母が専業主婦という一般的な家庭に育ち、周りに変わった人もいなかったのでこのままでは僕も平凡なサラリーマンになってしまうなと。それがすごく嫌で、どうやったらその人生から外れるんだろうとずっと考えていたんです。一度しかない人生だから自分らしく、おもしろい人生を歩みたいと強く思っていたんですね。

そのためには自分が本当に好きなもの、やりたいことをやるのが一番だと思い、必死で考えた結果浮かんだのが絵だったんです。絵は小さい頃から描いていたし、何度か賞を取ったこともあったので本格的に絵の勉強をしてみようかなと、佐賀県内の高校に1つだけあった芸術コースに入学したんです。


──高校に入ってみてどうでしたか?

いきなり大ショックでした(笑)。クラスメイトは9割方女子で、男子はたったの6人。しかもスポーツ好きな体育会系じゃなくてマンガを描くのが好きというような文化系ばかり。芸術コースなので当然といえば当然なのかもしれませんが、これには衝撃を受けました。また、ひたすらデッサンを描き続ける絵の勉強もおもしろくなく、うまく描けなかったので入学した当初はものすごく後悔しました。しばらくは腐ってバンド活動にのめり込んでいたのですが、高2の春休みくらいに「僕は自分自身で絵を描きたいと思ってこの学校に来たはずじゃなかったのか、そのための環境にも恵まれている。ならば絵の勉強に真剣に打ち込まなきゃダメじゃないか」と反省して、本気で絵を描き始めたんです。

街角スケッチで画家を志す

──ではこの時から将来、本気で絵描きになろうと思ったのですか?

本気でそう思ったのは大学進学を考えた頃ですね。田舎の小僧だったので画家になるためにはパリで勉強しなきゃダメなんじゃないかと思っていました。バカですよね(笑)。でも親にパリの大学に行かせてほしいと言ったら当然ながら「冗談はやめて」と即却下。でもすごく食い下がってお願いしたら、じゃあ取りあえず見るだけ見てきなさいと高2から3に上がる前の春休みに二週間、ベルギーに住んでいた親戚の家に行かせてもらったんです。

当初はベルギー経由でパリに行く予定だったのですが、たまたまベルギーのいろいろな場所でスケッチをしているときに、日本人の観光客は1日いるだけですぐどこかへ消えると現地のいろんな人に言われました。そこで反抗心が芽生えて、じゃあずっとベルギーにいてやるよと二週間ずっとベルギーの街角で絵を描いていたんです。

そのうち人が集まってきて、言葉はわからないけど描いてきた絵を見せるとリアクションしてくれたりして。スケッチは勉強のために描いていたのですが、絵は言語を越えてコミュニケーションが取れるツールなんだな、そういう特殊な技術を勉強してるんだなと思えてそれから少し自信がついたんです。この気付きはとても大きくて、今取り組んでいる壁画プロジェクトにもつながっていると感じます。そして、これまで佐賀の小さな田舎町しか知らなくて、自分には何もできないと思っていたのですが、そんな経験を通してちょっと自分の世界を広げられたような気がしたんです。

高校時代、ベルギー・ブリュッセルの街並みを描いた絵。この街角スケッチが本気で画家を目指した最初のきっかけとなった
高校時代、ベルギー・ブリュッセルの街並みを描いた絵。この街角スケッチが本気で画家を目指した最初のきっかけとなった

高校時代、ベルギー・ブリュッセルの街並みを描いた絵。この街角スケッチが本気で画家を目指した最初のきっかけとなった

こういう経験がすごくよかったと思います。帰国してから、同級生たちは学校という与えられた環境の中だけで絵を描いたり観たりしているけど、自分はそこから一歩外の世界に踏み出して特殊な経験をしているということがすごく自信になったんです。最初に本気で画家になろうと思ったのはこの頃ですかね。それで日本の美術系の大学に行っても大丈夫だと思えたので、筑波大学芸術専門学群に入学したんです。

不安だらけの大学生時代

──大学時代はどんな絵を描いていたのですか?

筑波大学は元々教育大学なのでアカデミックな学風で前衛的なことは一切せず、ヌードデッサンや石膏デッサンなど基礎的なことを毎日みっちりやるというようなところでした。高校で3年間やったことをまた大学でも繰り返すのかとちょっとげんなりしていましたし、うまく描けず先生からけちょんけちょんにけなされていました。作風はファンキーというか超攻撃的な感じでしたね。

大学時代に描いた仁王像。今の画風とは違い、かなりファンキー
大学時代に描いた仁王像。今の画風とは違い、かなりファンキー

大学時代に描いた仁王像。今の画風とは違い、かなりファンキー

大学時代のミヤザキさん。絵を描く工程まですべて公開する試みも

大学時代のミヤザキさん。絵を描く工程まですべて公開する試みも

大学では学生が作品を出品する展覧会も開催していたのですが、芸術好きな人しか観に来ないんですね。僕は何のために絵を描きたいかというと、絵を勉強してる人や絵が好きな人というよりも、一般の人に観て、楽しんでもらいたいという気持ちの方が強かったんです。当時もバンドをやっていたのですが、ライブに来るお客さんを喜ばせたいという気持ちと同じです。だけど当然僕らのライブに来るようなお客さんは大学の展覧会には来ません。一般の人に観てもらえるようなところで絵を描きたかったので、アカデミックな絵を描きつつ、その一方で美容室でファンキーな壁画を描いたり、自分たちのライブの時にライブペイントをやったりしていました。

だから高校、大学時代は絵を描くこと自体が楽しいと思ったことは一度もなかったですね。いったん画家を目指して絵の勉強を始めた以上は絶対に途中で投げ出してはダメだ、もし投げ出したら今度こそ自分には何もなくなってしまうと自分を追い込んで無理矢理続けていたという感じでした。さらに周りには僕なんかより断然絵のうまい人たちがたくさんいました。でも筑波大学はもとより有名美大に通う才能あふれる人たちでも卒業後、画家として生計を立てられる人なんて本当にごくわずかしかいません。だから画家になりたいとは思っていましたが、自信がもてず、将来への不安もすごく強かったですね。

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尊敬する画家に会いにNYへ

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だから世界で一番好きであこがれているアーティストに自分の作品をどう評価してもらえるか知りたくて、知人のつてをたどってニューヨーク在住の現代美術家の篠原有司男さんのアトリエを訪ねたんです。篠原さんは日本で最初にモヒカンにしたような人だからすごくファンキーでめちゃめちゃぶっ飛んでるんですよ。描くのがものすごく早くて、どうしてそんなに早く描くんですかと聞いたら、「早く描かないと人生終わっちまうだろ。ちんたらしてると死んじゃうよ」といつも言っていました。明日死んだらどうしよう、今創るしかないと言いながら寝食を忘れて描いて、終わったらぶっ倒れるというのを80年間やってるような人だから本当にすごいアーティストだと思います。彼こそ生き急いでいる人ですよね。

その篠原さんに僕の絵を見せたところ「君の絵はすごくいいからこのままアーティストを目指して頑張れ」と言ってくださいました。このひと言で折れかけていた心が復活し、いろいろ悩んでいたけどやっぱりアーティストになろうともう一回スイッチが入ったんです。でも今振り返れば篠原さんは本気で言ったとは思えないんですよね。


──どういうことですか?

20歳そこそこの学生が描いてる絵にいいも悪いもないんですよね。今こういう絵を描いてますと言っても後々作風が変わるかもしれないし。もちろんそのとき篠原さんに褒めていただいたことがものすごく自信になって、その後も絵を続けられて今につながってるのは確かですが、その「いいよ」と言ってもらえた絵が世の中で評価されるとは限らないですから。だから篠原さんは僕の中にアーティストの「種」みたいなものがあるんじゃないかという意味で「いいよ」と言ってくださったんだと思うんです。結局絵を続ける気持ちがあるかどうかが重要だったと思いますね。

あと印象的だったのが、僕が訪ねて行ったときも全然お金がないらしく「明日の家賃どうしよう」みたいな話を奥さんとしてて、こんなに有名なアーティストでもこういう厳しい状況なんだなあと。篠原さんは自分の命を削ってすごくかっこいい作品を創るタイプのアーティストなので強いあこがれを抱き、アーティストとして彼のように生きねばならないと思う反面、僕は果たして彼と同じように生きられるだろうかと思ったのも事実です。篠原さんのことは今でも時々脳裏に浮かびますね。スタイルは違えど、絵にすべてを捧げる彼のストイックな姿勢を今も見本にしています。

大いに刺激を受けつつ帰国して大学を卒業後、ロンドンに渡りました。

ロンドンでアーティスト修行

ロンドン時代の作品

ロンドン時代の作品

──ロンドンに渡った目的は?

アーティストとして絶対に20代前半で成功しなければ未来はないと自分を追い込んでいて、そのためには世界の芸術の最先端の都市で結果を出すしかないと思っていたからです。実は、本当はアメリカに行きたかったんですが、貧乏な学生でも海外に滞在できるワーキングホリデー制度がなかったのでロンドンにしたんです。

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でものっけから波乱のスタートでした。まずロンドンに着いて1週間後に全財産を盗まれてすっからかんになってしまったんです。お金がなくて家賃が払えないからゲストハウスの管理人みたいな感じで住み込みで働いていました。普段はその4畳半の管理人室で絵を描いていたのですが、合計で3回泥棒に入られて絵の具やパソコンなど全部盗まれてしまいました。他にもいろんな不幸が重なったのですが、楽しかったですよ。なかなか経験できないことだらけだったので(笑)。

ロンドンに行くアーティスト志望の若者ってまずアートの学校に入るんですが、僕はお金がなかったのでそれができなかったんです。学生でもないし正規就労者でもない、ただの外国人フリーターなので身分を証明するのはパスポートしかありません。そうすると銀行口座も作れないし、電話も持てないし、まともに家も借りられない。めちゃめちゃ立場が弱い存在でした。

アーティストとして活動しようにも、今までなら大学に所属していたので大学が企画する展覧会に作品を出展できますが、ロンドンではそれもできない。作品を描くことも観てもらうこともできないこの状況でどうやったらアーティストとしてやっていけるかを考えたとき、ライブペイントをしようと閃いたんです。ライブペイントなら人がたくさんいるところで絵を描いて観てもらえるので一石二鳥だなと。

それで絵の具と紙を持っていろんなクラブやライブハウスを回って、その場でガーッと絵を描くライブペイントのパフォーマンスをしてたんですが、そういう場所って頭のネジがぶっ飛んでる人たちが多いので、ライブペイントをしている最中によく殴り合いのケンカが始まってました(笑)。僕は性格的にそこまでアウトローではないのでそういう場がすごく嫌でつらいものがありました。どうして僕はこんな殺伐とした場所で絵を描いているんだろうと思いながらも、こういう苦行をしないとアーティストになれないと思い込んでいたから自分を奮い立たせて続けていたんです。かなり無理してましたね(笑)。

ロンドンの街角でライブペイントも

ロンドンの街角でライブペイントも

──生活費はどうしていたのですか?

ライブペイントではお金が稼げないので、極貧生活でした。それでインターネットでお好みの絵を何でも描きますと宣伝して、結婚式のゲストボードや似顔絵など、ぽつぽつ来た注文に合わせて描いていました。また、ケニアのマゴソスクールに行って1回目の壁画を描いたのもロンドン滞在中です(※詳しくはインタビュー前編を参照)。そんなこんなでロンドンには2年間いました。


──ロンドンに行ってよかった、アーティストとして成長したと思うことは?

ロンドンの一番おもしろい点は世界中の国の人が集まっているというところです。僕と同世代のいろんな民族、国の人と出会いましたが、そこで初めて韓国人や中国人が日本に対してどういう感情を抱いているかを知りました。そういうことを通して初めて「世界の中の日本」という視点で物事を考えたり、自分は日本人なんだという意識が強まり、日本人としてどういう表現ができるだろうと考えるようになったんです。2年間の滞在期間を終えて日本に帰ってくるときに、そういう気持さえもっていれば、自分が自分でさえあれば世界中どこにいてもいい作品は創れるんじゃないかというふうに考えることができるようになったんです。外国人の友だちもたくさんできたし、ロンドンに行って本当によかったと思いますね。

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運命を変えた1本の電話

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──帰国後はどうしたのですか?

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ロンドン時代の作品

ロンドンでアーティストとして一旗揚げてやるという野望を胸に2年間頑張ったのですが、全く結果を出せず夢破れて帰国したわけです。でもあきらめずにまた同じくワーキングホリデーで次の国に行こうと思っていたんですよ。当時28歳で、まだまだチャンスはあったので。そのために、取りあえず一旦、日本に帰国してロンドンで描き溜めた絵で個展を開いて、売れたお金をその資金にしようと目論んでいたんです。

そのときは僕の人生のサクセスストーリーはここから始まると思っていました。ロンドンで2年間、喧騒渦巻くクラブの中でたくさんの絵を描いたアーティストなんて僕しかいないし、その絵は絶対に評価してもらえるはずだと確信していましたから。それでロンドンで稼いだなけなしのお金をはたいて個展を開きました。


──絵はたくさん売れたのですか?

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それがたくさんどころか全然売れなかったんですよ(笑)。もう大ショックでした。お金が全然なくなり、ワーキングホリデーどころではなくなったので、大学の後輩の部屋に転がり込みました。そのときの僕って、まさに「住所不定無職」というやつですよ。それがすごく恐くなったので、一度佐賀の実家に帰ることにしました。

でもここでびっくりするようなドラマチックなことが起きたんです。あれは忘れもしない、心身ともに凍えるような真冬のある夜、住まわせてくれた後輩とお酒を飲みつつ、もう俺、佐賀に帰るわ......という寂しい話をしていたとき、1本の電話がかかってきたんです。その相手は全然知らない人で、NHKのディレクターだと名乗りました。その人は帰国後に開いた個展に来てくれていて、僕の絵を買ってはくれなかったんですが気に入ってくれたみたいで、個展を開いた画廊の主人に僕の連絡先を聞いて電話をかけてきたということでした。それで彼は「春から新番組で使うセットの絵を描いてくれないか」と言ったんです。これからどうしよう......というまさにお先真っ暗なときだっただけに、うれしいというより、うわー! って声を上げそうになるほどびっくりしましたが、もちろんやります! と即答しました(笑)。でも春まで食いつなぐお金がなかったので一旦実家に帰って、その番組の絵を描くために3月に上京しました。でもその時は1回きりの仕事なので描き上がったらまた佐賀に帰るつもりでした。


──その仕事はどういうものだったのですか?

NHK「熱中時間」で描いた絵
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NHK「熱中時間」で描いた絵

番組は「熱中時間」という教養バラエティ番組で、セットの絵は2m×10mくらいの壁画サイズだったのですが、スケジュールの都合で5日間ほどで描かなければならなかったので、全く寝ないで1人で描き上げました。僕としては時間が足りなくて満足するまでは描き込めなかったのですが、番組のプロデューサーが、「壁画に隙間があるからそこに毎週来るゲストの似顔絵をライブペイントで描き加えて完成させていけば?」と言ってくださったんです。多分、僕が徹夜で頑張って描いているのを見てくれていたのだと思います。もちろんそのお話をありがたくお受けすることにしました。当初は1回きりの仕事だと思っていたのが毎週続くことになり、生活のめどが立ったので、東京での生活が始まりました。しかも幸運なことに3年間も続いたんです。

このNHKのディレクターが僕の個展を観に来てくれていなかったら今頃どうなっているかわかりません。僕はかなり運がいいと思います。僕の人生ではいつもギリギリのところで手を差し伸べてくれる人がいるんですよね。ありがたいことです。

安定を捨てやりたいことを

──番組の仕事は楽しかったですか?

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はい。「熱中時間」で絵を描くのは楽しくてやりがいもありました。ただ、そもそも僕の中では希望していた世界でのアーティスト活動ができず、日本で絵を描かざるをえないという状況に忸怩たる思い、挫折感のようなものを抱えていたんです。それに、基本的にテレビの美術の仕事って一所懸命描いた絵でも収録が終わったら捨てられるんですよ。そういう仕事のスタイルが絵描きとしてやりたいものとはちょっと違うなという葛藤を抱えていました。あと放送が週に1回あるので海外に長期間行くこともできなかったのもストレスでした。それで3年で番組が終了した後に、ディレクターからテレビ番組制作会社に入って引き続きテレビの美術の仕事をやらないかという非常にありがたい話をいただいたのですがお断りして、元々やりたかった2回目のケニア壁画プロジェクトだけに1年間を費やすことにしたんです。


──そのための蓄えはあったのですか?

いえ、蓄えがないのにプロジェクトをスタートしちゃったんですよね(笑)。ですが、資金集めのためにいろんなイベントを開催してグッズを販売したお金や、いろんな人からイベントへの出演オファーをいただけたり、子ども向けの絵のワークショップの講師の仕事をいただけたそのギャラで1年間生活できて、さらにケニアへの旅費などプロジェクトの経費もまかなえたんです。その翌年には東北壁画プロジェクトを始めて、このときもお金の心配はあったのですが、ケニアのときと同じようにいろんな人が支援してくださって何とかなったんです。ありがたいことです。

ケニア壁画プロジェクト

(※ケニア壁画プロジェクトや東北壁画プロジェクトの詳細に関しては前編を参照)

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常に"死"を意識

──生き方として大事にしてきたものは?

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僕は10代の頃から「死」をずっと意識してて、今も死ぬ時のことをいつも考えているんですよ。僕の中のベースに死というものがある。どうせ人間はいつか死ぬ、そのときどういう状態ならいいかなと考えたところ、死ぬ間際、自分の人生を振り返ったときに、豊かな人生だったなと思えたら悔いはないと思ったんです。そのためにはお金がたくさんあるだけではダメで、やっぱり最後までやりたいことをやって人生を全うできれば最高だなと。そのための1つの手段が壁画なんです。壁画を通して世界中のいろんな地域に友だちができて、いろんな人と楽しい思い出が作れたら豊かな人生だったと思えるだろうと。

今振り返るとすごく恥ずかしいのですが、10代の頃は画家として輝いているうちに死にたい、マックス30歳までだなと思っていました。だからそれまでに自分を表現したいと。だから30歳を過ぎたときにどうしていいかわからなくなったんです。よく考えたら子どもの頃から30代以降の自分を想定していなかったから。落ち着いた大人というか、周りのことを考慮して大人の振る舞いをする人間にはなりたくないと思っていました。

でも10代の時より20代、20代より30代の方が見えるものが多くなったせいかだいぶ考え方も変わりましたね。例えば、僕はそんなに生き急ぐタイプではなくてコツコツと自分の才能を磨いて大事に育てていく晩成型かもしれないと気づいたので、逆に焦らずもっと人生をロングスパンで考えて、80歳までに一番いい絵をかければいいやと思っています。人生プランを相当書き換えましたね(笑)。


──画家として生活したいという人はたくさんいるでしょうが、現状ではそれが可能な人はごくわずかだと思います。しかしミヤザキさんは絵で生計を立てるために戦略的に行動してきたというよりは、信じる道を進んで行ったら結果的にそうなったように思うのですが。

それは確実に僕の性格ですね(笑)。僕はアーティストとしての間口がとても広いんですよ。どういうことかというと、芸術家志向というか何かを極めたいという人は、やりたいことや進む道をすごく狭く絞ってぶらさずに追究していきますよね。それも一つのやり方だし、それで高みに登れる人もいます。僕はそこを広く設定しているので、例えば自分が描きたい絵と、求められている絵が多少ズレていても、どっちもある程度満たせるようにうまくその中間を取って創れるんです。しかもそれを我慢してじゃなくて楽しくやれるタイプなんですよ。作品ができ上がったとき、オーダーしてくれる人がいなかったら、自分だけではこういうものは創れなかったことを楽しいしありがたいと思えるので、たぶん一般的なアーティストとは発想が違うと思います。感覚としてはデザイナーに近いのかもしれませんね。

24時間365日アーティスト

──ミヤザキさんにとって生きることと作品を創ることはイコールですか?

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イコールですね。イコールにしようと思ってずっとやってきましたから。24時間365日を人間としてというよりもアーティストとして生きていきたいという気持ちの方が強いです。例えば東日本大震災が発生した時も、この時代に生きるアーティストとして自分はこの震災に対してどうしなければならないのかということを考えて一連の東北壁画プロジェクトに取り組んだわけです。僕は現時点ではまだ、自分のことをアーティストとしてたいしたことのない人間だと思っていて、でもこの自分という人間として死ぬまで生きるしかない。そんな自分が今、ここで何を創るべきかというのを常に自分に問うている感じです。


──ではアーティストとして生きることに苦悩を感じたことはないですか?

これまで話した通り、10代、20代の時はアーティストとして成功する自信なんて全然なくて、どうすればいいかわからずすごく悩んで、例えば音楽をやってみたり、「あいのり」というテレビのバラエティ番組に出て世界一周してみたり、ロンドンで絵を描きながら暮らしてみたりとわけのわからないことを繰り返していました。ゴールが見えなくてどこに向かって進めばいいのか皆目わからない状態で、エネルギーだけはあり余ってるんだけど、どこにどうぶつければいいのかわからない、ぶつけた先に何もなくて手応えなし、というような疲れ方をしていました。

でもそういう試行錯誤を繰り返す中で、段々見えてきたものがありました。例えば壁画プロジェクトを通して自分にできることがわかると、エネルギーを費やすべき方向や対象もわかって、あとは集中して突っ走るだけみたいな感じになるとうまく回るようになる。すると心も非常に平穏でいられる。それが今の状態です。

今、初めて人生のサイクルみたいなのがちょっと見えてきているんです。というのは、去年からスタートした、年に1回世界のどこかの国で壁画を描くという「Over The Wall」というプロジェクトを活動のコアにして、それ以外に自分が描きたい絵をじっくり描くという絵描きとしての活動のベースができたからです。だから10代、20代の頃に比べたらだいぶ安定しているんですが、ただ、そう言っちゃうと現状に満足しているみたいであんまりよくないと思ったりもするんですよね。まだまだこれからやりたいことやたどり着きたい場所はあるので、決して満足しているわけではないんですけどね(笑)。そういう意味でも2016年は絵描きとしてのスタートの年だと考えています。

Over The Wallのメンバーと

Over The Wallのメンバーと

──そのやりたいこと、たどり着きたい場所とは?

今、東ティモールで壁画を描くプロジェクトをスタートしたところなのですが、僕が描きたいと言ってもすんなり受け入れてはくれません。なぜなら、ケニアでは3回壁画を描いた実績があるからすぐ受け入れてくれますが、東ティモールで僕のことを知ってる人なんて誰もいないし、「Over The Wall」の活動自体もほとんど知られていないからです。それを知ってもらうことでより広く、いろんな場所で壁画を描くことができるようになるので、まずはそういう環境を自分で頑張って作っていかなければと思っています。また、壁画やワークショップを通じて、絵を描かなくなってきている子どもたちに絵筆を持って、好きなように絵を描ける楽しさ、夢を描くことの素晴らしさを伝えたいですね。

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もちろん僕が描く絵自体に関しても、恥ずかしいくらい満足の行くレベルにまで全然達していないので、もっと時間をかけてじっくりと描きたいですね。同時に、今、世間的にも僕の絵はアートとして認められるというよりも「活動」として見られているので、ちゃんとアート、美術品として価値を見出してもらえるような作品を創りたいと思っています。より多くの人に僕の絵を見てもらうためにも。

もう1つは、今の僕はケニアのスラム街などの貧しい地区に行って子どもたちと一緒に絵を描いているだけで、貧困そのものは変えられていません。でも例えば同じ場所にもっと世界的に有名なアーティストが行って絵を描いたり音楽ライブをやったりするとお金も人もたくさん集まって、現地の人たちをハッピーにするためにより多くのことができますよね。そういうアーティストになりたいと思っています。


インタビュー前編はこちら

花咲かじいさんのような絵描きを目指して[前編]

5つの活動

──現在、アーティストとしてどのような活動をしているのですか?

ミヤザキケンスケ-近影1

大きな活動の柱としては、1.壁画、2.個展、3.ライブペイント、4.絵のワークショップ、5.オーダーメイドの5つです。これ以外では時々、イベントや学校で講演をさせてもらっています。


──日々の生活ってどんな感じなのですか?

「絵描きってどうやって食べてるの?」ってよく聞かれます(笑)。僕は元々プライベートと仕事の境目がないというか、好きなことをしながらどうやって食べていけるかということをずっと考えてきました。元々旅行が好きというか、旅先でいろんな人と知り合うことが好きなんです。で、せっかくなら知り合った場所で何か描いてみようと思ったのが、国内、海外、いろんなところに出かけて作品を創っている今につながっているようなところがある。だから今もとにかく移動時間、どこかへ出かけている時間が多いんですよね。去年1年間どのくらい自宅にいたかを調べてみると半分はいなかった(笑)。以前は海外に長期間行ってましたが、今は子どもが生まれたので滞在時間は短くなったけれどその分回数が増えました。


──壁画はどんな場所でどのようにして描いているのでしょう。

国内外の学校や企業、お店、公園、空港などで描いています。壁画のタイプとしては2つあって、1つは僕自身が好きな場所に行って好きなように描くものと、もう1つは企業や団体などから依頼されて仕事として描くものです。

前者の方の活動自体は約10年前から取り組んでいてこれまでフィリピンやケニアで描いてきました。個人的な活動なので渡航費などの経費は自分で捻出するか、集めていました。壁画は現地の子どもたちと一緒に描くと決めています。僕が描くことで彼らを引っ張っている部分もあるので、僕も描いていますが、そのほとんどは彼らの手で描かれています。彼らが描いたものに少し手を加えて整えていくような感じです。僕は全体を見てみんなで1つの大きな絵を完成させるまでを導く役割なんです。例えばどう描いていいかわからずに動きが止まっている子がいたら話しかけて描けるように促したり、その子の得意な部分を描かせるように導いたり、みんなが持ち味を発揮して楽しく描けるように動いています。音楽でいえばオーケストラの指揮者のような役割ですかね。

ケニアのスラム街に壁画を描く

──今までで一番印象的な壁画は?

2006年、ケニア・マゴソスクールにて

2006年、ケニア・マゴソスクールにて

2006年に初めてケニアの「キベラスラム」にある「マゴソスクール」という小学校に行って描いた壁画ですね。キベラスラムというのはケニアの首都、ナイロビにある東アフリカ最大のスラム街で、マゴソスクールは1999年にリリアン・ワガラというケニア人女性が開校した、キベラスラムに住む貧困児童が通う小学校です。ケニアは学歴社会なので、彼らが貧困から抜け出すためには、学校で勉強し、高校、大学に進学するしかありません。それで自身もスラム出身のリリアンが「子どもたちに勉強する機会を与えたい」という強い思いから、自分が暮らす長屋の一室にストリートチルドレンを集め、寺子屋のような形で始めたのがマゴソスクールなんです。 徐々にその場所は両親を亡くしたり、虐待されたり、行き場のない子どもたちの駆け込み寺となり、年々人数が増え、現在約500名が通う小学校となっています。

当時はロンドンにいたのですが、そのマゴソスクールのことをたまたま観ていたテレビ番組で知り、つらい境遇にある子どもたちを僕の描く絵で少しでも明るく元気にしたい、学校を楽しい場所にしたいと思ったのが最初のきっかけでした。その後、いろいろ調べたり、現地在住の日本人のライターさんが協力してくださったりして、マゴソスクールにコンタクトを取ることができ、校長に壁画を描かせてほしいとお願いしました。すると快諾してもらったので、ケニアに飛んだんです。


──テレビ番組を観ただけで現地と連絡取ってケニアまで行くってすごいですね。

才能にあふれた、社会的な評価も高いアーティストたちと勝負しようと思ったら、彼らとは違う切り口で表現しなければならないとずっと考えていたんです。そのためには彼らがやらないことをやるしかない。社会的に注目されるためにはただアトリエで絵を描いているだけではダメ。待っていてもチャンスは来ないからどんどん自分から行動して、自分の未来を自分で切り拓いていかねばならないと自分に言い聞かせていたので、テレビ番組を観たときにすぐに連絡する方法を調べたんです。

ケニアの子どもたちを恐怖のどん底に

──ケニアの小学校で描いた壁画に対する子どもたちのリアクションは?

最初に描いた巨大なドラゴンの壁画。子どもの顔も心なしか固い

最初に描いた巨大なドラゴンの壁画。子どもの顔も心なしか固い

いや、それが最初に描いた絵が大失敗してしまって。その2年前にフィリピンの孤児院で描いたドラゴンの壁画が子どもたちに大人気だったので、マゴソスクールでもきっと喜んでもらえるだろうとめちゃめちゃでかいドラゴンを描いたんです。そしたら子どもたちがドラゴンの絵を恐がって泣き出したり、中には恐怖のあまり学校に来れなくなった子もいて、職員会議にかかるほどの大問題になっちゃったんです。

なぜそうなってしまったのか、先生に話を聞くとドラゴンという架空の生き物はケニアにはなかったんです。そのかわり、似た姿の実在する生物としてアナコンダがいた。羊を丸呑みするような巨大な蛇で、現地の人たちに恐れられていました。そんなこととは露知らず、口を大きく開けてるドラゴンの絵なんて描いちゃったものだから、子どもが登校拒否になるほど恐がってしまい、先生からはそんな絵を描かないでくれと苦情を言われることになってしまったんです。

今までは自分が好きなものを好きなだけ描いていい環境にいて、それが絵を描くことだと思っていたのですが、公共の場や人が生活する場に描く絵はそういう考えだけではダメなんだなと痛感しました。

ケガの功名で今のスタイルが確立

──それからどうしたのですか?

でもドラゴンの絵を消して新しい絵を描き直そうにも滞在時間のほとんどをドラゴンに費やしてしまったので、もうそんな時間はありません。そこで子どもたちが描きたい絵を子どもたちと一緒に描くことにして、ライオンやバオバブの木の壁画を描きました。完成したときは、みんなめちゃめちゃ喜んでくれて本当によかったです(笑)。後で、この壁画を描いたことで子どもたちが以前よりも明るく元気になったと先生方から聞きました。

子どもたちと一緒に描き直した壁画。子どもたちも大喜び

子どもたちと一緒に描き直した壁画。子どもたちも大喜び

僕自身にとってもとても大きなプラスとなりました。それまでは絵描きとして自分の絵に他人の手を入れさせるのはダメだと思っていたし、もちろん僕が全部自分で描き直した方が絵としてのクオリティは上がるのは明白です。でも、この絵の意味は何なんだろうと考えたとき、僕の満足感だけのためにあるべきではなくて、そこで生活している人たちがハッピーになることが一番大事なんじゃないかなと思ったんです。また、絵が完成したとき、みんなでいい絵ができた! と喜びを分かちあったのですが、そういう一体感も素晴らしいと思いました。このとき以来、壁画をみんなで描くようになったので、今に繋がる大きな気付きとなったんです。その後、ケニアの同じ小学校に2010年、2015年と行って壁画を描いてます。


──そんなに続いているということは現地の人に相当喜ばれたってことですよね。

そうですね。2010年の2度目のケニア壁画プロジェクトの時は向こうからまた壁画を描いてくれと頼まれて描きに行ったんです。2006年の壁画で現地の人たちとめちゃめちゃ仲良くなって、帰国してからも継続的に連絡を取り合っていました。2006年当時はまだ生徒が150人くらいしかいなかったのですが、2010年頃になると400人くらいに増えて新しい校舎もできたので、その校舎の壁にまた絵を描いてくれないかという依頼が来たんです。そのときは最初から子どもたちと一緒に壁画を描こうと決めて描きました。この時も大成功でした。

2010年、2回目のケニア壁画プロジェクトにて

2010年、2回目のケニア壁画プロジェクトにて

イベントを開催して資金を集める

──ケニアまで行って描くとなると費用もかなりかかると思うのですが、どうしているのですか?

先程もお話しましたが、自分が描きたくて描くのですから、渡航費や滞在費などの費用は基本的に全部自分で負担しなければなりません。そのためにイベントを開催して資金を集めたり、スポンサーを募ったりしています。最近ではこの壁画プロジェクトに賛同して、支援してくれる人が出始めています。

このように、毎回イベントごとにいろんな人に少しずつお金を出してもらうという集め方に加え、大きな団体や組織からある程度まとまったお金をいただくという、安定的に資金を得る形にしたいと思っています。

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さまざまなプログラムを実施

──3回目のケニア壁画プロジェクトはどういうものだったのですか?

ケニア壁画プロジェクト

2014年ケニア壁画プロジェクト(撮影:小野慶輔)

2006年、2010年と描いたので、4年に一度、ワールドカップの年に壁画を描きに行くことにしようと、2014年3回目のケニア壁画プロジェクトを立ち上げました。このときはただ子どもたちと壁画を描くだけではなく、日本とケニアのより多くの人を巻き込んだ参加型のプロジェクトにしようといろんな企画を考え、2014年9月から1年かけて準備しました。

2回のケニア壁画プロジェクトを経て、自分が本当にやりたいこととは、自分にできることとは何だろうということを改めて考えるところからスタートしました。これまでは僕自身がいろんな経験をしたかったから1人でケニアに行って、壁画を描いたり現地の人と交流することを通して、驚きや喜びを得ることができた。それで「ああ、今回も楽しかった」と終わっていたのですが、やっぱりそれだけではダメだなと。僕の感じた喜びや驚き、感動をもっといろんな人に伝えたり、僕と同じように感じてもらえるような活動にしたいと思ったんです。

例えば壁画の2m×5mの原画を日本の子どもたちと一緒に描いて、それをケニアに持って行って現地の子どもたちと壁画として一緒に描くことにしたのですが、その原画を1000ピースに切り分け毎週のようにいろんな場所でイベントを開催して販売しました。このプロジェクトに賛同していただき、ピースを購入していただいた方は1000分の1の絵を保有することで、実際にマゴソスクールに描かれる壁画の一部をサポートしていることになり、同時に僕らの活動資金となります。


佐賀城下栄の国祭り期間中に行った「ケニア壁画プロジェクト」の壁画原画制作では、のべ100人の子どもたちが参加して10メートルの原画が完成

佐賀城下栄の国祭り期間中に行った「ケニア壁画プロジェクト」の壁画原画制作では、のべ100人の子どもたちが参加して10メートルの原画が完成

パズルピースプロジェクト

パズルピースプロジェクト

また、ケニアの子どもたちと日本の子どもたちがアートを通して交流できるようなプログラムも実施しました。具体的には当時僕が東京都荒川区に住んでいたので、荒川区の小学校とナイロビのマゴソスクールをスカイプで繋いで、それぞれが言葉を使わずに絵だけでコミュニケーションを取るようなワークショップを行いました。それぞれ9時、12時、15時、18時、21時に何をしていたかを絵に描いて見せ合ったのですが、やっぱり日本の子どもたちとケニアの子どもたちではその時間にやってることが全然違うんですね。写真には出ない意識の部分が絵にすごく現れていたので子どもたちも楽しんでいましたし、僕自身もとってもおもしろかったです。それをケニアのスラム街の子どもだけじゃなくてマサイ族の子どもにも同じようなワークショップをしてもらったんですよ。

荒川区立尾久宮前小学校とマゴソスクールをスカイプでつないでワークショップを実施

荒川区立尾久宮前小学校とマゴソスクールをスカイプでつないでワークショップを実施

マゴソスクールと荒川区立尾久宮前小学校の子どもたちがお互いの町のワードを20個ずつ出し合い、それを白い布に描くフラッグ交換ワークショップを実施。荒川の子はケニアの絵を描き、ケニアの子は荒川の絵を描き、両校の交流の証として交換された(撮影:小野慶輔)

その他もいろんなプログラムを実施して、両国の子どもたちにすごく好評だったのでやってよかったと思いましたね。そして2015年2月、ケニアに行って現地の子どもたちと一緒に炎天下、12日間かけて壁画を完成させました。みんなすごく喜んでくれたし、完成のお披露目会には500人もの人たちが集まり大いに盛り上がりました。今回も大成功でしたね。壁画を描くだけではなく、いろんなプログラムを企画し、日本とケニアのたくさんの人々に参加してもらい交流を深められたので、この3回目のケニア壁画プロジェクトがこれまでで一番手応えを感じたものになりました。

これまででもっとも手応えを感じたという2014ケニア壁画プロジェクト(撮影:小野慶輔)

これまででもっとも手応えを感じたという2014ケニア壁画プロジェクト(撮影:小野慶輔)

Over The Wall

そして、初めてチームとして壁画プロジェクトに取り組んだということも大きいですね。今までは世界中に壁画を残したいという個人的な思いで活動していたので、組織化もされておらずコンセプトもあやふやでした。しかし2014年のケニア壁画プロジェクト実現のために集まったメンバーと1年間かけていろいろと試行錯誤していくうちに、コンセプトや目的、成功させるための方法論などがすごく固まっていきました。そして、プロジェクト自体も成功したときに、この壁画プロジェクトをもう少し規模を大きくして毎年世界のいろんな場所で描けるようにきちんと組織を作ってやっていこうということになり、「Over The Wall」というチームを作ったんです。


──チームのスタッフは何人くらいいるのですか?

基本は10名ほどです。現地に行くのが僕とカメラマン、ワークショップ担当です。現地で行うワークショップは、子どもたちが描いた絵で商品を作って現地にお金が落ちるシステムを作るために行っており、その現場での責任者がワークショップ担当者です。また、子どもたちの絵をデザインするブランド「whoop」は香月裕子さんというテキスタイルデザイナーが担当していて、彼女が責任者です。現地に行くメンバーはその現場責任者という立場です。あとはWeb制作担当や資金集めのイベントのお手伝いをしてくれる人、翻訳をしてくれる人などがいます。みんなで月に1回くらいの頻度でミーティングをしています。


──壁画プロジェクトをやってよかったと思う瞬間は?

ミヤザキさんが描いているとどんどん人が集まってくる(撮影:小野慶輔)

ミヤザキさんが描いているとどんどん人が集まってくる(撮影:小野慶輔)


一番最初、2006年にケニアに行った時は人種も環境も全然違う国で、果たしてケニアの人々に認めてもらえるだろうか、受け入れてもらえるだろうかとすごく不安でした。周りに知り合いが1人もいない、1人の生身の人間として行くので、そこは絵の実力を含めた人間力の勝負になるんですよね。

やっぱり描き始めの頃は、何しにきたの? ここで何のために何をしてるの? みたいな感じで人々の態度が冷たかった。でもどんどん絵のクオリティが上がってきて、いい絵ができるとわかると人がたくさん集まってくるんですよね。人々の態度も、「いい絵ができてきたね」みたいに温かくなってくる。そして最終的に壁画が完成したら「オー、マイ・フレンド!」(ハグ)みたいな感じになるので、自分の絵でその人たちの気持ちをつかんで、心が通じ合えるような状況に変えた時、壁画をやってよかったなという気持ちになります。

また、マゴソスクールにはこれまでの壁画プロジェクトを通してアートクラスができて、50人近い子どもたちがアートの勉強をしているんですよ。こういうこともうれしいですよね。

壁画を描くモチベーション

──壁画プロジェクトの根底にあるモチベーションは?

ミヤザキケンスケ-近影12

たまたま僕は絵描きとして絵を描いて生活していますが、絵というもので何ができるかをいつも考えているんですね。それが僕の活動の根本にある思いです。元々世界中の人々と交流しながら何かを残したいと思っていて、それが今取り組んでいる壁画プロジェクトなんですが、プラスαで、その土地で暮らす子どもたちがどういう絵を描いて、その背景にはどういうものがあるのかをその場で知ることができることもすごく大きな魅力なんです。

このように自分が携わる絵を通して世界中のいろんなものが見えたらきっとおもしろいし、それを世界中のいろんな人に伝えたいという思いでこれまで3回のケニア壁画プロジェクトに取り組んできたわけです。でもケニアだけじゃなくて全然違う地域、例えば北極圏やイスラム圏などに暮らす人々の生活の場に入っていって、同じ壁画プロジェクトをやったらまた全然違うものが見えてくると思うんですね。それを絵を使って世界中の人々に伝えたい。絵という媒体には他の伝達手段にはない可能性があると信じています。だから壁画プロジェクトを一生かけてやりたいなと思っているんです。


──今後の海外での壁画プロジェクトの予定は?

今、ちょうど東ティモールでの壁画プロジェクトが進行中です。きっかけは、昨年(2015年)の5月に福岡県宗像市で開催された国際環境会議。そこでライブペイントやワークショップをやった時に、東ティモールの元大統領や日本人の元大使が「東ティモールは独立してまだ間もない国なんだけど、君がやってるような活動を東ティモールでやってもらえるとうれしい」と言ってもらえたんです。僕も次の壁画プロジェクトはどこの国にしようかなと考えていたところだったので、こういう御縁を大切にしたいと思い東ティモールでやることにしたんです。

たくさんの子どもたちと一緒に完成させた原画

たくさんの子どもたちと一緒に完成させた原画

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東ティモール壁画プロジェクトの視察のため沖縄へ

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東ティモールの子どもたちと

現時点では、東ティモールについて勉強しているのと、現地NGOの方々とコミュニケーションを取りながら具体的にどういうふうにしてやろうか検討中です。たまたま東ティモールで活動している方が沖縄とすごく強い繋がりがあるので、現地に壁画を残す活動に加え、東ティモールの子どもと沖縄の子どもをつなぐようなアートワークショップをやろうと思っています。

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東北壁画プロジェクト

──3.11の東日本大震災のとき、東北の被災地でも支援活動として壁画を描いてますよね。どういう経緯でその活動を?

岩沼ビックアリーナという避難所に描いた壁画。最初に絵画教室を行った後、クレヨンとスケッチブックをプレゼントして5メートルのキャンバスに子どもや大人、お年寄りと一緒に絵を描いた

岩沼ビックアリーナという避難所に描いた壁画。最初に絵画教室を行った後、クレヨンとスケッチブックをプレゼントして5メートルのキャンバスに子どもや大人、お年寄りと一緒に絵を描いた

そもそもは、ケニア大使館で2010年のケニア壁画プロジェクトの報告会を開くための準備をしていたちょうどそのときに東日本大震災が発生しました。東京でもかなり揺れて、これはたいへんなことになったぞと思っていたら、同じ会場に居合わせたケニアで貧困支援活動をしているNGOの代表で2010年にケニアの宿で出会った、同じ小学校をサポートする活動をしていた人が「東北に物資を運びに行くんだけど手伝いませんか?」と声をかけてくれました。自分にも何かできることをしたいと震災から一週間後に現地に入ったんです。

最初は東京から被災地の避難所に物資を運ぶだけだったのですが、それを毎週続けている内にあることに気付きました。当時はちょうど春休みで、大人は泥かきに出かけて不在で、避難所にいるのは子どもたちばかり。彼らはやることがなくて退屈そうにしてたり、つまらなそうにゲームをやっているだけでした。その光景を見て、もしかしたらここで絵を描くワークショップみたいなものをやったら子どもたちも気が紛れるかもと思って、物資を届けていた避難所で絵のワークショップをやり始めたんです。そのときケニアのNGOの代表もワークショップ開催の許可を求めにいろんな避難所を回ってくれました。

その後、「東北壁画プロジェクト」として、いろんな場所で現地の子どもたちと絵を描いたり、ワークショップをやったりしました。毎週やるうちに少しずつ子どもたちが明るく元気になって、地元の大人にも感謝されたのでこれもやってよかったと思いましたね。

仙台市長に直談判

──遠見塚小学校の壁画プロジェクトでは仙台市長に直談判したとか。

たまたま仙台市長に繋いでくださる方がいて、直接お話しする機会がもらえたからなんです。そのときは、今までケニアでの活動を通して得てきたものを話しました。具体的には、「その日の食べるものにも困るような生活をしている人たちのところで絵を描かせてもらうことで、現地の人々の気持ちが前向きに明るく変わるということを経験してきました。もちろん被災地はスラム街とは違うけれど、困っている人たちのために僕にも何かできることがあるんじゃないかと思うので絵を描かせてください」とお願いしたところ、快諾してくださったんです。

仙台市長に直談判して実現した遠見塚小学校での壁画制作

仙台市長に直談判して実現した遠見塚小学校での壁画制作

──被災地で絵を描いてる場合なんかではないのではという思いは?

ミヤザキケンスケ-近影16

それはもちろんありました。僕は前々から、絵描きという仕事をしている人間として、絵なんて人が生きる上で必ずしも必要なものじゃない、だとすると絵って何のためにあるんだろうとずっと考えていました。でも絵は太古の昔からあるわけですよ。それこそ石器時代、原始時代に洞窟に描かれた壁画が残ってますよね。また世界中どんな地域にも絵ってあるんですよ。

だから今、僕らが絵を描いたり鑑賞したりできるのは、物質的に満ち足りた余裕のある生活をしているからだと言えるけれども、生きるか死ぬかギリギリの時代でも絵は存在しているので、きっと絵には人が生きる上で大事な何かがあるはずだともずっと思っていたんです。2006年、最初にケニアのスラム街に行ったのは、そういう思いもあったからで、実際に壁画を描いたら貧しい子どもや大人が明るく元気になりました。

それと同じようなことが東北の被災地でもできるんじゃないかなと思ったんです。人って明るい色を見たら気持ちが和んだり、鬱屈していたものが発散できて元気が湧いてくるということがあるじゃないですか。それは人間の精神の根本のところにあるものだと思うんですよね。それに、絵にそういう役割がないと、絵描きである僕自身の存在が否定されるような気もするんです。究極的に過酷な場所でも、僕が描くような絵が人々を元気づけられるということを証明したかったという部分はありますね。


──自分としても挑戦だったと。

はい。特に大船渡で津波に流された後に仮設で建てた理容室全体をペイントしたときは、屋根の上まで全面ピンクみたいな、めちゃめちゃ派手なものを描いたんですね。ここまでやると店主や現地の人たちに不謹慎だと怒られるんじゃないかと思ったんですが、中途半端に描いてもしょうがないので思い切って描きました。そしたら、あまりに目立つので人々が集まってきたんです。この理容室の店主はみんなに元気を与えたいから津波で流された場所に再び仮設理容室を建てて営業しているわけですが、そこに僕の絵がプラスされることによって人々の交流が生まれた。これもやってみて気付いたことだし、絵には何かしらそういう力はあると信じているんです。

全体をド派手にペイントした大船渡の仮説理容室は交流の場にも

その他の活動

──壁画以外の活動について教えてください。個展は定期的に開催しているのですか?

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那須の殻々工房ギャラリーで開催した個展

去年は那須で個展を開いてそのために2ヶ月かけて作品を描きました。本来の僕の絵はもっと時間をかけて緻密に描くもので、それをたくさんの人に見てもらうためにもっと個展を開かなきゃいけないと思っているんですが、外に出て描く活動の方が多いのでなかなか自分の作品が溜まっていかないんです。それが今の僕の最大の課題ですね。今後はキャンパスに時間をかけて向き合って、じっくり作品を描くという僕本来のスタイルにシフトしていきたいと思っています。


──ライブペイントはどういう思いでやっているのですか?

音楽のライブみたいに、その場、その瞬間を盛り上げたいという思いでやっています。いろんなイベントで描くことが多いですね。最初は自分の壁画プロジェクトの資金集めのためにイベントを開催してライブペイントをしていたのですが、それを見てうちのイベントでもライブペイントをやってくれというオファーが増えたんです。あとは例えばアフリカ関係のイベントに呼んでもらったときに、自分の壁画プロジェクトのPRをするために描かせてもらうというのもあるし、企業とのコラボイベントで描くこともあります。年間、大小合わせると20から30回ほどやっています。

ミヤザキケンスケ-近影19

僕は「ライブペイントをよくやっている絵描き」というイメージも強いと思うのですが、実はライブペイントはそれほど重視していないんです。

絵には段階がある

──どういうことですか?

これは最近気づいたことなんですが、僕の絵には「段階」があるんです。まず根本にあるのがアトリエで個展用に描く自分の作品。これはとっても長い時間をかけてああでもない、こうでもないと考えながら緻密に描き込んでいく、本来の僕のスタイルで描く絵です。この絵を例えば1週間で描くとしたら、ライブペイントは1日、数時間で描くので本来の絵の7分の1、10分の1の時間で描けるように工程を省いて単純化・簡略化しているわけです。壁画は子どもたちに描かせるわけなので、さらに工程をシステマチックにしなければなりません。

ですので、最初にすごい時間をかけて描いた絵(=個展)を工程を省いて描いて(=ライブペイント)、それを他者に描いてもらう(=壁画)ように効率化するという3つの段階でやっているんです。だからライブペイントだけをやるのでは絵描きとしての未来がないんです。どんどん先細りになるでしょう。だからその場で描くライブペイントは見た目は派手なので実際にイベントなどでやる機会が多いのですが、あまり比重を重くしたいとは思っていないんです。ただ、ライブペイントをやってないと簡略化できないので壁画を創るときに困るんです。だからこの3つはどれも欠かせない、必要な作業で全部つながってるんですよね。今のところ、いいバランスでやれてると思います。

ただ、絵描きとして一番重視しているのは壁画ですね。壁画は僕にとって一生をかけて取り組みたいライフワークのようなもので、生きている間に世界中にいくつ壁画を残せるかが生きがい、人生の目的と言ってもいいです。壁画ってどういうところに描いても時が経てば劣化していつかは消えてなくなりますが、僕はそこにこそ魅力を感じていて、保存のために厳重に保管される絵画にはあまり興味がないんです。


──ワークショップやオーダーメイドは?

基本的にものづくり系のワークショップは子どもに人気なので、一番多いのは小学生ですね。中学生や高校生を対象にすることもあります。学校でやることも多いですが、ショッピングモールで不特定多数の子ども相手にやることも多いですね。

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佐賀のショッピングモールでのワークショップ

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母校の佐賀北高等学校でのワークショップ

オーダーメイドは個人や企業から依頼を受けて記念の絵やエントランスに飾る大きな絵、イベントのポスターなどを描くこともあります。珍しいものでは靴に描いたりもしています。

石坂産業から依頼されて工場の壁に描いた壁画

石坂産業から依頼されて工場の壁に描いた壁画

靴に描くオーダーメイドも。世界に1つしかない靴になるので人気。オンラインショップで購入できる

──ミヤザキさんといえば壁画のような大きい絵を描く人というイメージがあるのですが通常サイズの絵もけっこう描いているんですね。

もちろん描いてますよ。通常サイズのキャンバスに描く絵は主に自宅のアトリエで個展用やオーダーメイドで描くものが多いですね。将来的には大きな絵もたくさん描いて展示をしたいとは思ってます。年間を通して考えると、描く前にスケッチをしたり構想を考えたりしているので、壁画など大きなものを描いてる時間の方が長いかもしれません。

絵を描くときの精神状態

──いつも絵を描いているときはどういうことを考えているんですか?

ミヤザキケンスケ-近影22

例えて言うなら、9割は編み物的な時間なんです。編み物してるときって話もできるし、音楽を聞きながらでもできますよね。作品を創る時も、実際に手を動かしているときはこんな感じです。あとの1割がどう描こうかと悩む時間。その時間は集中しなければならないので誰かと話もできないし、音楽も止めます。それが決まれば手を動かして描いて、その部分を描き終わったらまた手を止めて次の部分をどう描こうかと考える。その繰り返しです。


──考えながら描くという感じで、描く前にこういう絵を描こうとは決めないんですね。

僕の場合、それをしちゃうと描きたくなくなるんですよね。絵を描くことがただの作業になっちゃうので。ただ、どういう絵を描くかによっても違います。仕事として描く場合、例えば企業の壁に壁画を描くとなると、ある程度のプラン図が必要です。でもその場合もできるだけラフに描きます。今、かっちり描いちゃうと本番で描く楽しみがなくなるのでふわっと描いて、企業さんには本番はもっとよくなりますよと言ってます(笑)。

あとは、何となくですが、自分がしてきたいろんな経験、旅をしたり壁画を残したりすることを通して吸収したものを絵の中に詰め込みたいと思っています。そして最終的におじいちゃんになったときに楽しい絵が描けるようになるといいなと考えながら絵を描いているという感じです。

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絵を描くことの魅力

──絵を描くという行為のおもしろさや魅力は?

壁画ペイント中のミヤザキさん(撮影:小野慶輔)

壁画ペイント中のミヤザキさん(撮影:小野慶輔)

描き始めの段階では、広くて真っ白な紙に最終的に何が描かれるか自分でもわかりません。まさに0からのスタート。特にライブペイントはそうで、2時間後にどういう絵が完成しているのかわからない。だから、最終的にどうやって絵ができていくんだろうということも自分で楽しみながらやっているので、絵を描くことは旅みたいな感じなんですよね。アプローチの仕方やゴールもいろいろあって、もちろん苦しみもある。描き始めから完成まで全部うまくいくなんてことはありえません。でもその苦しみを乗り越えると1つの絵になる。新しい世界が出現する。だから完成した絵を見ると、あのときこの部分で悩んだんだよなとか、あのときこういうアイディアがあってこの絵が出てきたんだよなと思って感慨深いんですよね。なので僕の場合、もちろん絵は完成した時の形がすべてなのですが、そのプロセスを楽しんで描いているんですよ。


──そもそもミヤザキさんにとって絵を描くことは仕事なのでしょうか?

そこは難しくて、最初は仕事と捉えないようにしていました。誰に頼まれなくても描きたいときに描きたい絵を描くと。でも、お金をいただいて描く絵もあるので、それは当然「仕事」という意識をもって描いています。例えば同じ壁画を描くにしても、全部自分でお金を出して描く壁画とお金をいただいて描く壁画とでは、やっぱり気持ちの中では違いはあります。でも、だからといってお金をいただく壁画は仕事として割りきってクライアントの言うとおりに描いているわけではなくて、自分がこう描きたいという気持ちも入れて描いています。そういう意味ではそれほど明確な線引きはないのかもしれません。

画風の変遷

──ミヤザキさんの絵は原色を多用して明るく元気な画風ですがその理由は?

ミヤザキケンスケ-近影24

観る人に元気になってもらいたいからです。でも実は今でこそ原色をたくさん使って明るい絵を描いているのですが、大学時代はすごく攻撃的な絵だったんですよ。最初に影響を受けたのがバスキアとかキース・ヘリングなどニューヨークの路上で芸術活動をしてたアーティストで、彼らの作品がすごく好きでした。だから当時の僕の絵も社会に対して批判を込めた、殴り描きのような作品が多かったんです。色も使ってはいましたが、今のようなポップな感じではなかったですね。


──ではどのような変遷を経て現在のような画風に?

一番最初のきっかけは、大学院を卒業後、絵の修業のために渡ったロンドン時代に経験した出来事です。当時、生活費を稼ぐためにインターネットでお好みの絵を何でも描きますと宣伝して、ぽつぽつ来た注文に合わせて描いてたんですね。結婚式で飾る絵の注文を受けることも多かったのですが、結婚式でトゲトゲした絵を描くわけにはいかないじゃないですか。だから少し明るい絵も描き始めたんです。でもそういう絵は僕が本当に描きたい絵ではなかったので、僕自身の描きたい作品と頼まれて描く絵はわけて考えていました。仕事用だと割りきって描いてたという感じですね。

次のきっかけは、ロンドンから帰国していただいた仕事でした。NHKの番組のセットと毎週出演するゲストの似顔絵を描いていたのですが、最初の方は暗いタッチでしか描けなくて。当然その似顔絵を見たゲストの方がこれが自分かと悲しそうな顔をするんですよ。それが心苦しくて。せっかく出演してくれたゲストの方をそんな気持ちにさせてはダメだと思って、明るい色使いで笑顔を描こうと努めました。結局この仕事は3年間続いたのですが、そうしているうちに自分が描きたい作品と依頼されて描く作品とわけていたのが徐々に同一になってきたんです。


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大学時代の絵。攻撃的な絵柄

──それはなぜでしょう?

僕自身、大学時代は心が荒んでいたから攻撃的な絵柄になっていたと思うんですが、この仕事をやっていくうちに心も落ち着いてきて、自分の作品と仕事として描く作品に対してあまり違和感がなくなってきたんです。その頃、今まではただ自分の中から湧き上がってくるものを描くだけだったですが、自分自身に何のために絵を描いているんだということを問いだしたわけですよ。

画家にもいろんな人がいて、過去のトラウマのようなネガティブなものをテーマに描くような人もいるけれど、僕の場合は家庭にも周りの人にも恵まれていたのでそういうものではない。では僕の描けるものは何だろうと思ったときに、楽しく生きてきたからそれじゃないかなと。むしろポジティブな、楽しいと思えるものを全面的に自分の人生に取り入れてそれを絵にしてきたいなと思ったんです。どうしたら楽しい絵を描けるかと考えた結果、中途半端じゃいけない、100%ハッピーな絵にしようと思ったんですよ。

そうやって考え出した手法が、まずは色を混ぜないこと。混ぜると色がくすむから。よりビビッドな純度の高い原色をたくさん使って描くということを1つのルールとしました。あとは何でも100%の状態にするということ。例えば花を描く時も七分咲き、八分咲きじゃなくて全開に。顔も後ろを向いていたらポジティブじゃないので絶対前を向かせる。こういう感じで全部100%で描いたらすごいパワーになるんじゃないかと思ったんです。そのために自分自身も超ハッピーな気持ちで絵を描かなきゃいけないと考えて、楽しいプロジェクトをして楽しい絵を描くという流れを意識的に作っているんです。

壁画

現在の絵は原色を多用し、見ているだけで元気が湧いてくるような画風

──目指している理想のアーティスト像は?

筆一本で生きていきたいという思いが強かったので、最初の頃はテレビドラマ『裸の大将放浪記』を観て、絵を渡しておにぎりをもらって生活する山下清さんのような絵描きになりたいと思っていたんです(笑)。もう1つは、その場に絵の具と筆さえあればいろんな世界を生み出せる、魔法使いのような存在になりたいと思っていました。例えばスラム街にあるただの壁でも、僕が何かを描いてそこが楽しい場所になるとすれば、すごい能力だと思うんですよね。そういうレベルに到達できればいいなというのが理想としてあります。だからよく花咲か爺さんみたいな絵描きになりたいと言っているんです(笑)。僕の絵が居間に飾られてあるだけでその部屋が明るくなるというような、ポジティブなオーラがバンバンあふれる絵を描きたいですね。


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