2014年3月アーカイブ

魚食文化の復権、そして世界へ[後編]

国内大手の印刷会社から築地の世界へ

──河野さんは元々水産業界の人間ではなく、印刷会社という全くの異業種から築地の世界に入ったとのことですが、現在の仕事・活動をするに至ったこれまでの経緯を教えてください。

僕は大阪生まれの大阪育ちで、就職を機に上京しました。就職先は大日本印刷という総合印刷会社だったのですが、最初から印刷業界に強い関心があったわけではありません。大学も理工学部建築学科ですし。ふとしたきっかけで興味を持ち調べていくうちに印刷だけではなく多岐にわたる事業を手がけていたのでおもしろそうだなと思ったのが志望動機です。

23歳で入社して35歳で退職するまでの12年間、営業、企画、開発などあらかたの仕事を経験しました。毎年仕事の内容が違うのでおもしろかったですね。仕事をゼロから作るということも何度も経験し、手がけた仕事で億単位の売り上げを上げていたのでやりがいもむっちゃありました。


──それなのになぜ魚の世界に?

ちょうど35歳になった日、僕の妻の父親、つまり僕の義父から電話がかかってきました。おめでとうのメッセージとは思えないし何だろうと思って話を聞くと、「竜太朗、築地で魚屋をやらないか」と。突然の話でびっくりしましたが、義父の経営する会社の秘書の実家が尾辰商店で、跡継ぎがいないから廃業すると家族会議で決まった。でも潰すのはもったいないから、跡継ぎにならないかという話だったんです。


──そのときはどんな気持ちだったのですか? 印刷会社での仕事はおもしろかったから辞めるのは嫌じゃなかったのですか?

確かに仕事はおもしろかったし、やりがいも感じていました。最初は「なんで俺なん?」とも思いましたが、そもそも僕は小学校6年生の卒業文集に「将来は大企業の社長になる」と書いていて、印刷会社に入社後も毎年人事に提出する書類に1年目から「40歳までに役員」と書いていたくらい、経営者になるのが人生の夢やったんですね。それに尾辰商店は明治元年創業の老舗の鮮魚仲卸店だし、築地場内で商売する権利ってなかなか取得できないようなので、確かに潰すのはもったいないと思いました。

でもすぐに引き受けたわけじゃなくて、築地のことも魚屋のことも全く知らなかったので、1ヶ月間、毎週土曜日に築地に見学に行きました。働いている人の中でも自分は若い方だったのでこの世界でも勝てるんちゃうかなと感じました。また、築地もメディアに頻繁に取り上げられてるほどおもしろい場所ですし、しばらく修行させてもらって将来的に尾辰商店の社長になったら、めっちゃおもろくなるかも。そう思って、よっしゃ、一人で築地に飛び込んだろと2004年に大日本印刷を退職して尾辰商店に入ったというわけです。

生活スタイルが真逆に

──印刷の世界と魚市場の世界は全く違うと思うのですが、違和感はなかったのですか?

もう最初からすんなり馴染めました。築地の人たちってめちゃめちゃやさしいんですよ。僕も毎日関西弁でしゃべってるからツッコミも多いし(笑)。築地のみなさんがとても仲良くしてくれました。

活気あふれる築地市場

──しかし市場の仕事は朝が早いですよね。生活スタイルが激変するのはつらくなかったのですか?

確かに最初のうちは夜中の1時頃に起きて2時に出勤してましたから、朝が早いのはしんどかった。サラリーマン時代とは生活が真逆で、その時間はまだ飲んでる日も少なくなかったですからね(笑)。

でもそれ以外は何の問題もなかったです。印刷会社に勤めているときは常に10から15くらいのプロジェクトが同時並行的に走っていて仕事の切れ目がなく、ひとつ納品しても別の会議が山ほど待っているという生活でひと息つけるということがなかった。それが築地の仕事は昼頃に魚を冷蔵庫にしまったら終わりでそれ以降の10時間ほどは自由な時間。慣れさえすればつらいどころかむっちゃ楽しかった。昼間に英会話を習いに行ったりジムに通ったり、当時はまだ子どもが幼かったので保育園に迎えに行ってその帰りに買い物して家で夕飯作って嫁はんの帰りを待って、一緒に夕飯食べて何にもなければ20時くらいには寝るみたいな。そんな生活だったのでなんていい仕事なんだろうと(笑)。

まずは魚の名前を覚えるところから

──修行に入って、具体的にはどんな仕事から始めたのですか?

さまざまな鮮魚が並ぶ尾辰商店

魚屋は魚の名前を知らなければ話にならないので、まずはそこから始めました。2時に築地の店に出社して当時の尾辰商店の社長にくっついて社長が買っている魚をひたすらメモしながら覚えました。鯵や鯖ひとつとっても何種類もあるので、最初はたいへんでしたね。社長はほとんど何も教えてくれないので自分で覚えるしかなかった。

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わからないことは人に聞けばいい

──魚の仕入れや目利きなども難しそうですが。

競りの模様

仕入れに関しては築地の中で大きく2種類あります。ひとつはよくテレビなどで放映されている、ひとつの魚に対して大勢が入札するオークション形式の競り。もうひとつが仕入れ先に「この魚いくら?」と直接聞いて仕入れる相対(あいたい)取引。競りに出るのはマグロ、活魚、エビ、ウニといったもので種類は限られており、当時の尾辰商店ではそれらを扱っていなかったので相対取引だけでした。魚の目利きも最初はどうすればいいのか全然わからなかったけど、仕入先の人にいろいろ聞いたり、仕入れたものを自分で実際に食べたりを繰り返して段々わかるようになってきました。今でもわからないことは多いですが、周りに魚のプロがたくさんいますからね。わからないことは彼らに聞けばいいのでなんとかなるんですよ。

また、魚の切り方の練習もしました。お客さんの料理人と親しくなって、そのお店に昼間だけ修行させてとお願いして、魚のおろし方や、切り方、シメ方などを教えてもらってました。


──サラリーマン時代から料理はしていたんですか?

いえ、食べるのは好きでしたが、料理は全く興味がなくて自分ではめったに包丁を握ることはなかったです。でも毎日魚を切ったりシメたりすることも仕事としてしなければならないじゃないですか。必要にかられると人間、何でもできるもんですよ(笑)。

人のやらないことをやる

──ほかに修行時代に取り組んだことはありますか?

築地の人たちは朝がめっちゃ早いから夜はお酒を飲みに行ったりしないんです。尾辰商店の先代の社長も買いに来てくれるお客さんの店に行ったことがなかった。だから僕は他の人がしないことをしたろと思って睡眠時間を削ってお客さんの店に飲みに行ったんです。そしたらみんな「今まで店に来てくれるような仲卸の人はいなかった」と大喜びで、「1時起きなのにこんな遅くまで飲んでていいの?」と言いながらとてもサービスしてくれるし、1回飲みに行ったらその後も絶対うちに魚を買いに来てくれるんです。これは売り上げも上がるしおもしろいと、その後もお客さんの店に通い続けました。

そしたらどこでも、築地の魚屋がこんな時間に店におる、めずらしい、しかもめっちゃ元気やいうて、いろんな人がいろんなおもしろい人を紹介してくれて、その人たちと一緒に全国各地のいろんな漁場に行くようになったり、こんなイベントできないかなという相談を受けて、焼肉屋を借りきってさんまパーティーやったりライブハウスを借りきってポン酢のリリースパーティーやったりするようになりました。そうやって仕事しながら遊んでたら、「俺、魚屋イケるかも」という手応えを感じるようになったんです(笑)。


──やっぱり素人がプロに追いつこうと思ったら人のやらないことをやるというのは大事ですよね。築地の世界に入ってみて感じたことは?

魚屋ってやってみたらこんなにおもしろいのに、ほかの業者は商売に対してネガティブだなという印象を受けました。その大きな原因のひとつは儲かってないから。でもそれは安く売るとか営業に行かないからで、儲からない原因は自分たちにもあったんですよね。その結果、築地の場内で働きたいという人も滅多に出てこないし、跡継ぎもいなくなる。

だから仕事を楽しんで儲かってる、めっちゃかっこいい魚屋を作ったらもっと人が集まるはずや。漁業の問題もあるけど、若い人たちが望んでやりたいと思う仕事のスタイルにせなあかんなと思うようになりました。これは今も僕がもっている不変のテーマです。そのためにいろんな業界から相場よりも少し高いギャラでおもしろい人をうちの会社に引っ張ってきています。最初に引っ張ったのは住友電工で働いていた3歳からの幼なじみです(笑)

すべての人がお客様

──魚屋のどんなところがおもしろいと思ったのですか?

印刷会社にいたときもそうなんですが、印刷会社の営業という仕事は誰でもお客さんにできるんですよね。身の回りには印刷物があふれているじゃないですか。名刺や年賀状、チラシ、冊子、写真アルバムなど、お客さんが作りたいものがあれば何でも売り込めた。それが魚屋はもっと広くて、すべての人に営業できるなと思ったんです。誰でも1日2回か3回、食事をするでしょう? 3回のうち1回でもその人の胃袋を取りに行こう、つまり魚を食べてもらおうと考えたら、日本全国で1日3億9000回のチャンスがある。そう考えたら甚大なマーケットやなと。これはおもろいしやりがいあるなと思ったわけです(笑)。


──なるほど。業種ではなく、人に何かを売り込むという行為が好きなんですね。

めっちゃかっこつけると、人を笑わせるとか楽しませるということが好き。「この魚ええでっせ」と勧めて買ってもらったお客さんがまた店に来て「あの魚おいしかった~」「でしょ~あんな高いもん買ってったらそらおいしいでっせ」みたいなやりとりが好きなんです(笑)。

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法人化し、代表取締役に

──単に人にものを売り込んで買ってもらうことではなく、会話などそのプロセスが好きだということですね。河野さんは築地の仲卸店だけじゃなくてデパートにもお店を出していますが、それも仲卸店としては珍しいですよね。この経緯は?

尾辰商店に入って1年が経った頃、義父に「尾辰商店は商売としてうまくいってるのか」と聞かれました。やっぱり仲卸だけでは儲からなかったので、「普通にやってたら絶対あきませんわ」と意見を述べました。多くの消費者は高くていい魚はなかなかスーパーで買わない。でも少々高くてもいい魚を食べたいというニーズは必ずあるはずなので、例えばデパートなら売れるかもしれない。でもそういういい魚を売ってるのは都内でも2、3しかない。だからそういうところを狙って店を出した方がいいと思うと。

そうしたら義父も同意してくれて、2日後、そごうの社長と引きあわせてくれたんです。社長も最近百貨店もスーパー化してるからもっと専門店化したい、築地みたいな店構成にしたいと、向こうからぜひ出店してほしいとオファーを受けたんです。

こんな感じで1本新しい事業が見えたので、2006年、個人商店だった尾辰商店を法人化して株式会社尾辰商店にして、僕が代表取締役社長になったわけです。その後まず千葉そごうに、次いで横浜そごうに「つきすそ」という鮮魚と惣菜を販売するお店をオープンさせました。

また、去年(2013年)の11月には魚料理の店「銀座 尾辰」をオープンさせました。そもそもの開店動機は、魚を売るというのは最終的に料理してお客さんに食べさせるところまでやらないとあかんと思ってたからです。おかげさまで連日予約で埋まっていますが、水産業界はもちろん、いろんな業界・業種の人がこの店に来ていろんな話をするようになりました。つまり、最初の思惑とは別に副次的な効果として、店を作ったことで情報が集まるようになり、そのネットワークはどんどん広がっています。この場で、リフィッシュで行ういろいろな企画やこれから魚食を世界に売り込んでいくための企画が生まれることも多々あるんですよ。経営的にも、尾辰商店、つきすそ、銀座尾辰含め、全体的な売り上げは順調に伸びています。

「銀座尾辰」のスタッフと一緒に

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店舗外観

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全国の漁場からその日に取り寄せた最高の食材でつくる絶品料理の数々

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魚だけではなく野菜も自慢

──わずか2年で社長に、そして10年でここまでビジネスを広げられるのは驚異的ですね。サラリーマン時代の経験が生きていると思う点はありますか?

いろんな面ですごく生きてますね。例えば営業や企画をやっていたおかげで、魚屋ではなく、一般的な社会人としていろんな人と話ができるし、遊びの中から企画・提案ができて、ビジネスの話に膨らませられます。また、印刷会社ではコスト感覚をかなり厳しく叩き込まれるので、商売をする上でかなり役に立っています。

社長になるのは子どもの頃からの夢だったので、それが叶ってめちゃめちゃうれしかったし、今も厳しいことはたくさんありますが日々楽しく仕事をしています。

経営者としての仕事

──現在、尾辰商店の経営者としては日々どんな仕事をしているのですか?

経営者なので、主に次はこんなことやろう、こんな店出そうという経営方針や企画を考えたり、財務・経理的な仕事をしています。また、新規取引先の営業活動やお得意様の飲食店のメニュー開発、例えば680円でてんこ盛りの刺身定食作りたいんだけどどんな魚を使えばいいかなというようなけっこう無茶な相談を受けてます(笑)。昔は仕入れや仕分け、配達など全部やっていましたが、5、6年ほど前から若手に任せてます。


──おおまかな一日の流れを教えてください。

毎朝5時に起床して、6時に築地の店に出社。12時まで店で経理の仕事をします。その後は昼ごはんを食べて、13時頃から会議で社員から報告を受けたり、それに対しての指示を出したりします。その後はだいたいお得意様の飲食店を回って営業、顧客の新規開拓に出かけます。そして14時か15時くらいには仕事を終えて帰宅して仮眠を取ります。夕方から夜には銀座尾辰に出て、ホスト役として来店してくれたお客さんと一緒に飲みながらいろいろと話をします。盛り上がって夜中の3時くらいまで飲んでいることもあるし、銀座尾辰に行かないときは20時くらいには寝ています。


──早朝から魚の卸店の仕事で、夜は料理店でお客さんの相手とはかなりハードですね。

もちろん深夜になった翌日は何もなければ遅めに出勤したり早く上がらせてもらってますよ。


──経営者としての仕事の魅力はどんなところにありますか?

すべてのことを最終的に自分で決められるところでしょうね。その分責任も大きいですが。これまで自分の決断でたくさん失敗をしてきましたが、そこから学ぶことも多かったので、今は売り上げも上がっています。

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魚を売って終わりではない

──仕事に込めている思い、あるいは経営ポリシーを教えてください。

単にお客さんに魚を売って利益を上げるだけじゃなくて、魚を買ったお客さんが最終的に笑顔になるところまでが僕らの仕事だと思っています。社員にはいつも「おもろい魚屋でいようや」と言ってます。それはお客さんを笑わせるという意味だけじゃなくて、おいしいものを食べたら誰でも思わず笑顔になりますやん。鯵ひとつとってもたくさん種類があって、季節や食べたい料理に合わせてそれならこの鯵でこんな料理がいいですよと教えてあげて、その鯵を食べるシーンごとに喜ばれ、おいしいと感じ、一緒に食卓を囲むみんなが食べながら笑えたら最高やなと。そういうところまで考えて、魚の売り方とか店の提案を考えていこうねと。それがこの世界に入ってから一貫してもっている僕の経営ポリシーですね。

また、社員によく言っていることとしては、経営者のつもりで動けということ。うちは今築地の尾辰商店で16人、百貨店のつきすそと銀座尾辰のスタッフ入れて全部で30人くらいの小さい会社です。小さい会社の経営者は何でもしなければならないし、社員一人ひとりが強くならないと組織は強くなりません。一人ひとりが売上げを上げられるようになると全体の利益も上がる。だから若手にも厳しく指導します。そうするようになってからみんなの意識も変わって徐々に売上げも上がって行ったんです。


──その辺も大企業に勤めていた経験が生きているという感じでしょうか。

確かにそうですね。あともうひとつは、何をするにしても絶対に頭を使えと言っています。機械的な作業はするな、今やっている仕事の意味を考えて、常に先を読めと。社員には考えることがおもしろいと思ってほしいし、考えるくせをつけてほしいですね。僕自身も印刷会社時代から何をするにしても考えてきましたし、そうした方が結果が出やすいので。例えばトヨタでもアップルでも一人ひとりの社員が毎日汗水たらして開発してるからこそプリウスやiPhoneといった画期的な商品を生み出すことができ、大勢のお客さんに喜んで買ってもらえて、結果莫大な利益を得られ、次の商品開発に資金を投入できるという好循環が生まれているわけです。大企業でもそうなんだから小さい会社の我々が頭使わなどうすんねんと言ってるんです。


──仕事の喜びはどんなところにありますか?

社員たちと飲みに行ってみんなで「尾辰をもっと大きくして行こうぜ! 尾辰バンザイ!」と盛り上がっているときが、経営者として一番楽しいし、うれしい瞬間ですね(笑)。

尾辰商店の社員たちと

誰といても仕事

──休日はどんな過ごし方をしているのですか?

決まった休日となると日曜日ですね。基本的に誰かと会ったり遊んだりしているのですが、どこかで仕事とつながってますね。誰とおっても仕事ですから。仕事とは直接関係ない友達と飲んで話してるうちに仕事につながることもたくさんあります。常に頭のどこかで尾辰商店の経営やリフィッシュのことを考えていて、それを考えてるときが楽しいんです。いろんな新しい人と出会って、「これやろうぜ、あれやろうぜ、乾杯!」と言ってるときが至上の喜びです(笑)。

リフィッシュのメンバーたちと

──ではプライベートと仕事の境目はないという感じですね。

そうですね。そもそも僕には趣味がないし、仕事が趣味みたいなもんです(笑)。


──家族に対する思いは?

現在妻と娘との3人暮らしですが、僕の人生の価値観では、家族も仕事と同じくらい大切。家族に対する責任をもつということが好きなんです。父親は家族のために金を稼がないとあかんというのは当然のことだと思うので。でもまだみんなを満足させられるほどは稼げてはないのでこれからもっと稼がなあかんと思ってますけどね。


──そういう生き方、働き方でストレスを感じるときはないですか?

基本的にないですね。あるとすれば自分の器が小さいこと。もっとデカい器になりたい。例えばある人から今度こういうことを一緒にしようと言われたときに、それおもろい!やりたい!て思っても、そのためのお金が足りなかったり人材不足とかで今すぐにはできないということが結構あるんです。今、僕らは初期的な成長途上なので、まだまだ小さいなあ、早くやりたいことがすぐにできるようにもっと大きくなりたいなあと思ってます。


──では35歳のとき、思い切って印刷業界から魚の世界に入ってよかったと思っていますか?

そら思ってますよ。でも僕自身、今は築地の鮮魚卸売の経営者という肩書はもっていますが、その肩書だけにとどまらない、リフィッシュ含めいろんな活動ができるし、これからも、今広がっているネットワークを利用していろんなことができる可能性がある。僕の役割って魚屋の社長以上におもしろいと思っているし、まだまだその枠を超えたことがたくさんできると思っています。だから社員にも、魚屋だからここまででええと思うな、魚屋の枠を超えて魚屋でもここまでできるんだというくらいになれとよく言ってるんです。

──今後の目標を教えてください。

直近の目標は尾辰商店を年商100億の店にすること。今、築地には700の仲卸店があって、そのうちの300社が黒字だといわれています。100億売ればトップ10には入れると思うのでそこを目指しています。そして先ほどお話した魚食というソフトウェアを海外に売り込み、世界を席巻することですね(※インタビュー前編参照)。この野望はどんなに時間がかかっても将来絶対に実現してみせます(笑)。

魚食文化の復権、そして世界へ[前編]

活動の2本柱

──河野さんが現在手がけている仕事・活動について教えてください。

新鮮な魚が並ぶ尾辰商店

大きくわけて、本業の商売とボランティア的活動の2つがあります。まず、商売としては、株式会社尾辰商店の経営者としての仕事があります。メインとなるのは築地で営業している鮮魚の仲卸店「尾辰商店」で、全国の港から築地に届く新鮮な魚を仕入れ、鮨店や居酒屋などの飲食店に販売しています。現在4号店まであり、お得意様は都内に500店ほどあります。また、千葉そごうと横浜そごうに鮮魚と惣菜を販売している「つきすそ」というお店を出しています。店名は「築地のおすそ分け」を縮めたものです。飲食店も経営しており、千葉にイタリア料理店「Fish labo」、銀座に魚料理店「銀座 尾辰」を出店しています。尾辰商店に入ったのは、約10年前(2004年)、35歳のときで、それまでは大日本印刷という印刷会社のサラリーマンでした。

もうひとつのボランティア的活動は、「Re-Fish(リフィッシュ)」という団体の一員として、魚食文化を国内外に広げるための活動に取り組んでいます。

尾辰商店の仕事とリフィッシュの活動は密接につながっていて、魚を扱う者として、もっと日本人においしい魚を食べてもらいたい、魚食文化を見直してもらいたい、そして世界に魚食文化を広めたいという思いで活動しているんです。

リフィッシュとは何か

リフィッシュの公式Webサイト

──「リフィッシュ」は魚が好きな人たちの間ではだいぶ認知度が上がってきているようですね。「リフィッシュ」とは何なのか、もう少し、詳しく教えてください。

リフィッシュは水産庁の上田勝彦さんが代表を務める有志の団体で、「日本の魚食の復興」、「水産物を中心とした日本の食の再構築」を目指してさまざまな活動を展開しています。メンバーは漁師や僕のような魚の仲卸業者、魚屋、有機野菜の宅配会社、デザイナー、カメラマン、料理人、船主、メディア関係者など多士済済です。

中には「漁港」というバンドや「ウギャル」という若い女の子のモデルのグループなど、個性的な団体もいるんですよ。

上田さんとは共通の知人を介して知り合ったのですが、強烈な人だなというのが第一印象ですね。元漁師で坊主頭にねじりはちまき、豪快なヒゲと見た目も全然役人ぽくない(笑)。話してみると魚食文化をもう一回見直して日本にもっと広めたい、人々にもっと魚を食べてもらいたいという思いは一緒で、即意気投合しました。すごいと思う点は国の人間として考え方がぶれない点とすごい行動力をもっているという点ですね。彼を下支えする人間がいればもっとこの活動を広めることができるんじゃないか、それを民間の立場として僕がやりましょうという感じで参加しました。

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リフィッシュ代表を務める水産庁の上田勝彦さん(撮影:山本洋子さん)

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フルフィッシュフェスティバルにて気勢を上げる上田さん

──リフィッシュの中で河野さんの役割は?

いわば事務局長みたいなもんですかね。同じ志をもつ者が集まって、魚食文化を広く啓蒙していくための各種イベントのプランニングから関係各社・者との交渉、実行・運営、後片付け、お金の計算まで担当しています。

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リフィッシュ誕生の経緯

──リフィッシュはどういった経緯で誕生したのですか?

そもそもの発端は2011年3月11日に発生した東日本大震災です。震災で壊滅的な被害を受けた東北の太平洋沿岸一帯は、国内の水産加工の9割を占めており、日本の水産業としては超重要なエリアでした。このままでは日本の水産業が死んでまうからなんとかせなあかんと、震災の4日後に水産庁の上田さんによって僕や、鮮魚の達人協会代表、大地を守る会の代表、報道関係者、大手広告代理店のプランナーなどが招集されて、みんなで復興のアイディアを考えようということになりました。このときは「東北の水産の復興を考える会」というような名称でこれがリフィッシュの前身です。

ミーティングでは僕が議事録を取って、タスクリストを作り、次のミーティングの段取りなどを行いました。しかし、みんなで集まっていろいろとアイディアを出して、仲間の団体は船やエンジンを集めて現地に持っていったりしましたが、現地の方との温度差を感じたんですね。そもそもまだ復興の方針が固まっていなかったし、現場は瓦礫の山で物資を運ぶ道もなければ製氷機などの機材も、港そのものも破壊されて使えない状態なのに、船だけ与えられても漁師の方たちも困りますよね。それでこれは長期戦になるぞと考え直しました。こんな短い期間で僕らがジタバタ動いても結果はたかが知れてるし、赤十字には莫大な募金が集まってる。ならば僕らができることはなんだろうとまたみんなで集まって考えたとき、メンバーの中の「タクトプロジェクト」というクリエイティブ集団が、「魚を食べる人たちを増やしていくこと、つまり魚食マーケットを拡大していくことが、被災した水産業に携わる人たちへの支援につながるのではないか。彼らがこれから操業を再開しようと思ったときの受け皿を作っておくことが必要なのではないか」と提言して、それを具現化する名称とデザインが「リフィッシュ」だったんですよ。

Facebookのリフィッシュファンページ。約3000人のファンがいる

リフィッシュではPR用にTシャツも販売している。
イベントなどでスタッフも着用

それを聞いた他のメンバー全員も、確かにその通りだ、やろうぜと賛同し、団体名を「リフィッシュ」にして、まず一人でも多くの人びとに僕らの思いや活動を知ってもらおうとWebサイトFacebookの公式ファンページを開設し、シールやバッヂやTシャツを作りました。ネット上の告知やPRだけでは不十分なので、感度の高い人たちが集まる青山のファーマーズマーケットでフィッシャーマンズマーケットを作って魚の販売に乗り出したり、「フルフィッシュフェスティバル」というバーベキュー大会を企画して浦安の総合公園で開催しました。「フルフィッシュフェスティバル」には初年度(2011年)は400人、2年目はその倍の800人も集まってとても盛り上がったんですよ。最後に、800人もの人間がリフィーッシュ!て叫びながらニコーとしてばしーっと記念撮影撮ったときはものすごい達成感を感じましたね。みんなええ顔してましたからね。

2011年、浦安で開催したフルフィッシュフェスティバルにて

青山国連大学前ファーマーズマーケットにて

僕はみんなが今よりももっと進んで魚を食べるようになればいいと思っていて、それが引いては東北の支援になる、そのために啓蒙になることなら何でもやるというスタンスで活動しているんです。

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リフィッシュ食堂

6月10日グランドオープンの時の一コマ

──「リフィッシュ食堂」とはどういうものなのですか?

産地の海や魚に関する情報発信、さまざまな魚の食べ方の提案、手頃な価格の魚食堂、産地PR活動の支援、などを目的として、去年(2013年)の6月から営業を開始した食堂です。ただ新鮮でおいしい魚料理を提供するだけでなく、ワンフィッシュナイトという「鯖ナイト」や「魚しゃぶしゃぶの会」というイベントを開催したり、自宅で食べてもらうための料理のレシピも教えてきました。(※現在は体制のリニューアルのため一時休業中)

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築地Re-Fish食堂と全さば連のコラボイベント「築地場外・鯖ナイト」でサバトークを行った河野さん

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「築地場外・鯖ナイト」でサバ料理を提供(撮影:松本宏一さん)

──どのような経緯で立ち上げたのですか?

ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、築地は、市場がある場内は東京都の管轄、たくさんの飲食店や海産物の販売店などが並んでいる場外は中央区の管轄なんです。場内は豊洲に移転することが決まっていますが、場外は町内会なので築地に残ります。でも巨大な魚市場があるからこそ場外が成り立ってるわけで、場内が移転してなくなってしまえば築地のブランドもなくなってしまうんじゃないか。そんな危機感を、築地場外のこれからを考えているNPO団体がもっていたんですね。

そんな彼らが、あるとき水産庁の上田さんとリフィッシュのことを知り、場外に厨房付きの空いている店舗スペースがあるから、リフィッシュの活動の一貫としてここを使いませんかと提案されたんです。こちらとしても、漁業関係者にとって築地は聖地なので、その聖地にリフィッシュの活動の拠点をもっていた方がいいということでリフィッシュ食堂をオープンしました。

ほとんど儲けは出ていませんが、魚食を広めるためのアンテナショップという位置づけなので儲けに走ることなく、みなさんにもっといろんな魚を知ってもらうためにメニュー作りを含めていろいろな活動をしていかなければなりません。ただ、営業を続けていくためにはサービス開発を見直してやっていかなければならないということで次のプランをいろいろと考えているところです。

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2013年、『ビッグコミック』に連載中の「築地魚河岸三代目」にRe-Fish食堂が登場した

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Re-Fish食堂では魚料理を提供するだけでなく、魚に関するさまざまな情報も発信している

魚食を世界へ

──リフィッシュの活動に取り組んでいるのは魚食文化を広げるためということですが、なぜそうしたいのですか?

「魚食文化」について調べてみたところ、魚をよく食べる国の人は長寿で頭がいいということがわかりました。そんな国民が多い国は国力も強くなりますよね。いいことばかりだから魚をもっと食べようという至極シンプルな理由です(笑)。

ただ、魚は肉に比べて値段が高いので、つい肉を選びがちになるというのもわかります。また、魚はさばいたりおろしたり調理をするのも手間暇がかかるし、ゴミも増えます。ですので、特に東京の場合は魚を食べようと思ったら外食が多くなってくる。なので多くの店でおいしい魚が食べられるように、僕が経営している尾辰商店ではいろんな業種の飲食店に対して魚メニューを提案をしています。例えば焼き鳥屋さんにもこの魚はこう焼いたらおいしいですよ、というふうに。


──魚食を広めることで最終的にどういったことを目指しているのですか?

これはリフィッシュだけじゃなくて本業の魚屋としてもそうなんですが、僕が目指しているのは魚食というソフトウェアを世界に売り込むということなんです。

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ソフトとしての魚食

──魚食をソフトウェアとして捉えているとは非常に興味深いですね。

魚自体は世界中で食べられていますが、刺し身や寿司など、生で食べるという習慣がある国は日本だけです。なぜそれが可能かというと、魚を生で食べるときは無菌のきれいな水で洗う必要があり、水道をひねればそれが出てくるインフラがあるからです。他の国にはこれがないから魚の生食の習慣が生まれなかった。また、クール便も生鮮食品を運びたいから生まれた日本独自のサービスで、その最たるものは魚です。

ここ最近、刺し身や鮨などの魚の生食が海外で人気急上昇中のようですが、自分の国でも魚を生で食べたいという機運が高まったとき、安全な生の料理を出せる店や職人だけじゃなくて無菌の水を出せる上水道やクール便の流通システムなどインフラ構築の仕事も取れるかもしれません。

例えていうならOSとパソコンの関係と同じで、WindowsというOS=ソフトウェアを使いたいからそれを搭載したパソコン=ハードが世界中で売れるわけですよね。さらに周辺機器も売れ、インターネットなどのインフラも進化します。このように魚食をソフトウェアとして考えれば、それに付随して売れるものがたくさん出てきてめちゃめちゃ広がるんですよね。日本は魚食という最強のソフトウェアをもっている。インフラも含めて技術も世界一すごいので、世界に売りに行けるんですよ。

漁業の衰退にストップをかける

──その辺はリフィッシュというよりは河野さん独自の考え方なんですね。

そうですね。基本的なスタンスは同じですが、僕の方は魚食ソフトはもっと世界でもイケるでという感じですね。

水産庁が目を向けているのは主に国内で、国内の漁業従事者の数や収入をどうやって増やすか、漁獲高をどう増やすか、魚の消費量をどう増やすかなどが彼らのテーマですが、僕はそれらプラス、魚食ソフトを世界に売りに行こうぜということを一貫して主張しているんです。

現在、水産庁調べでは、漁業従事者から僕ら仲卸までの事業規模は約8兆円で、ここ数年横ばいなんです。それを16兆円にしたら単純計算ですが水産業に関わる人々の年収は倍になります。そのことをもっと考えようと言っているんです。さっき言った魚食をソフトウェアとして世界に売りに行けば水産業に携わっている人数は同じまま売上げと粗利が上がるよね、そういう考え方もありなんちゃう? みたいなことを言ってるわけです(笑)。


──確かにその方が効率的ですよね。漁業従事者は年々高齢化が進んで跡継ぎがいないし、若い人材も入ってこないことも問題になってますし。

ここ何十年かの話ですが、漁業を含む一次産業が衰退したのは、親が我が子に肉体労働はしんどいだけでなかなか儲からへんからええ大学出てええ会社に入れと跡を継がせないようにしてきたから。その結果、いわゆるホワイトカラー、頭脳労働の比率が上がりすぎた。

でも、世界の食糧事情に関する本を読んだら、今地球上の農地の耕作面積と70億人という人口のバランスがちょうどいいらしいんですよね。そしたら新しい耕作地を作ったところで儲からんということ。それは漁業でも同じ。となると一次産業を復活させようとしてもあまり意味がなくて、これまで頭脳労働を増やしてきたんなら今後も頭脳で売りに行こうぜと。日本の海洋面積は世界第6位で、その海洋面積を利用して働いている人たちがめちゃめちゃすごいノウハウをもってる。魚を獲るところから始まって、加工・運搬・流通させて、飲食店ではそのまま刺し身で出したり、酢や塩でシメたり、握って食べさせるという、これだけドライバーソフトがあるので、これらを世界で売っていくプランを今考えているわけです。

──壮大なプランになりそうですね。リフィッシュの活動のやりがいや喜びを感じるのはどんなときですか?

魚を食べようという動機がお客さんの中に生まれるときですね。リフィッシュ食堂に食べに来てくれるお客さんやイベントに来てくれるお客さんに魚料理の作り方を教えて、そのお客さんから、教わった通り作ってみたらおいしかったとか、あれから何回も作ってると言われたとき。もっと魚を食べてほしいという思いがお客さんが自分で魚料理を作るというところまでリーチしたとき、すごくうれしいしやりがいを感じますね。これも商売の魚の仲卸をやってて感じるのと同じですね。


インタビュー後編はこちら

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