2014年10月アーカイブ

みんなが幸せになる地域おこしを[後編]

池島での活動

──後編では、まず地域おこし協力隊として3年間、池島で具体的にはどのような活動を行ってきたのかをお聞かせください。

小島さんが池島赴任直後に開設したブログ"九州最後の炭鉱「池島」より"

念頭にあったのが、観光で島を再生したいという思いです。そのために島に残された炭鉱遺跡、産業遺産などの資源を活用してたくさんの人を呼びたいと思い、「記録より記憶に残るまちづくり」というテーマに沿っていろいろな活動を行ってきました。最も手応えを感じられたのは、池島のPR、外部への情報発信です。それまでは池島の基本的な情報が何もありませんでした。でも島には素晴らしい産業遺産や人懐こい優しい人びとなどここにしかない観光資源がたくさんあるので、その基本情報さえしっかり発信できれば自然と人が来るんじゃないかと思い、まずブログ『九州最後の炭鉱「池島」より』や、WEBサイト『「ようこそ炭鉱体験「池島」へ』を立ち上げて、炭鉱見学について、池島へのアクセス方法、宿泊情報、お店紹介などの基本情報を赴任して2ヶ月以内にアップしました。


──Webサイトを拝見しましたが、知りたい情報がひと目でわかってとても使いやすいサイトだと感じました。

Web制作会社で実際にWebサイトを作っていたことや、2005年くらいから運営していた社会科見学のブログをやっていたことが役に立ちました。社会科見学のブログでは賞をいただいたりしていたので、ブログの作成・更新は得意だったんです。また、Facebookで『炭鉱島「池島」応援隊』立ち上げて池島の紹介、活動報告を逐一行いました。

Facebookファンページ『炭鉱島「池島」応援隊

──島内の写真もたくさん掲載されていますが、異様というか迫力があって興味を惹かれました。

やっぱり視覚に訴えた方がインパクトは強いし、島に来たいという気持ちをより喚起できると思ったので、カメラ機材を持って島をめぐり、炭鉱、発電所、池島を一望できる山頂から風景などの見どころを撮影して紹介、発信しました。このときも社会科見学を通して独学で身につけた撮影技術が活きました。

Webサイト「池島」に掲載されている小島さん撮影の写真

クリエイターの招致

クリエイターの招致にも積極的に関わりました。2012年11月全国石炭産業関連博物館等研修交流会で軍艦島池島視察ツアーの企画が出た際、船に空きがあったので長崎市から乗船希望者がいないかと相談されました。この時、「のぼうの城」や「ガメラシリーズ」などで有名な映画監督の樋口真嗣さんなど親交のあった映画監督や「怪獣絵師」として知られるイラストレーターの開田裕治さんを含むクリエーターらに声をかけたところ参加してくれました。この時の視察が元で、後にPV「enchantMOON」が炭鉱で撮影され、今年公開予定の大作映画「進撃の巨人」のロケ地として軍艦島が選ばれたのです。実は池島も候補になっていたのですが、大勢のスタッフが泊まる宿泊施設や食事をする場所がないなど、ロケ隊の受け入れ体制が整っていないという物理的な事情で残念ながら実現しませんでした。

クリエイターズツアーでの炭鉱見学

また、社会科見学で繋がった情報発信力、社会的影響力の強い漫画家や映画監督やイラストレーターやライター、写真家、作家などのクリエイターのみなさんの力を借りて池島を世に広めようと、クリエイターズツアーを2度開催しました。2013年6月に前述の開田裕治さんと一緒に開催した第1回のツアーでは、島内ガイドや炭鉱見学に加えて、池島小中学校の子どもたちとクリエイターたちが一緒に絵を描く「イラストレーターと絵を描こう」を実施しました。開田裕治さんが直接子どもたちに絵の描き方を教えるというもので、子どもたちもとても楽しそうでした。また、世界的にもファンが多いイラストレーターで漫画家の寺田克也さんに観客の目の前で絵をライブドローイングをしていただきました。そのときの絵は宿泊施設の中央会館に展示しており、寺田さんのファンがその絵を見に池島を訪れています。

池島中央会館に飾られている寺田克也氏の絵

2013年11月にも開田裕治さんと2回目のクリエイターズツアーを開催しました。この時は「かあちゃんの店」という食堂の壁にさまざまなクリエイターが島への想いを書いたことがきっかけとなり、一般の方たちも思い出を残してくれるようになりました。プロの方の絵も多く、ここもひとつの観光名所になっています。

池島を訪れた観光客やクリエイターが「かあちゃんの店」の仕切り板に絵やメッセージを書くようになった。ここもひとつの観光名所となっている

このツアーの模様は、参加したクリエイターやメディア関係者が各自のブログで発信してくれたり、Webメディアなどで記事を書いてくれました。また、クリエイターズツアーの開催が決定した時点で個人的な知りあいのメディア関係者に告知メールを送ったり、長崎市を通じてテレビ局や新聞社や雑誌編集部に送ってもらったところ、NHKを含めたテレビ4社、新聞3社が取材に来てくれて、全国に報道されました。

また、僕が作った池島のWebサイトを見て、メディアから取材依頼が来るようになり、その際のコーディネートや島内ガイドも行いました。その模様も、各種新聞や雑誌で報道されたり、テレビ朝日「スーパーJチャンネル」(2013年9月25日放送)、TBS「Nスタ」(2013年11月7日放送)テレビのニュース番組や「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(2013年4月26日放送)などの人気バラエティ番組で放送されました。

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次のフェーズへ

島を訪れた長崎大学の先生と学生を案内する小島さん

──テレビの影響力は絶大ですからさらに池島の認知度が上がったでしょうね。

赴任2年目には僕の知り合い以外で池島を訪れる人が増えました。最初の目標は自分自身が池島を知ること。そして、知り得た情報を誰もが見れる場所に陳列していくことでした。Webでの情報発信を通しそれがある程度達成できたので、次のフェーズでは来た人をどうもてなすか、彼らの満足度をどこまで上げられるかを課題としました。

そこで、島に来る前に連絡をくれた人や、たまたま島の中で知り合った人には、島に愛着をもってもらいたい、もっと島を好きになってもらいたいという思いで島内の見どころを案内していました。案内していて「すごいですね!」とか「おもしろいところですね!」「こんなところ初めてです」という言葉を聞いた時、心の中でガッツポーズをしていました。それはそのまま僕が初めて池島に来た時に感じたことであり、僕が池島の地域おこし協力隊に応募したそもそもの動機である「この島のすごさを伝えたい」ということそのものだったからです。

大学や研究者とも連携

島には社会科見学時代に知り合ったおもしろい人たちが毎週のように来てくれていたのですが、その中にはクリエイターだけでなく大学の研究者もいました。2012年に大阪大学の先生が遊びに来てくれたとき島内を案内したところ、僕みたいに池島をすごくおもしろいと感じてくれて、もっと深く島のことが知りたいから「池島からみる戦後日本」というテーマで研究してみたいと。そこで島に昔から暮らしている人々を紹介して島の歴史を先生や学生に話してもらいました。その後、逆に学生が池島を歩いたり話を聞いたりして感じたことを、島の人たちの前で発表するということもしました。

そしてこの大阪大学の研究は、日本の戦後の産業史を知る上で貴重な体験だということで、2014年度からは単位が修得できる正式な授業になりました。池島に興味をもった学生は各自テーマを決めて研究しています。その後もその先生は京都大学や長崎外語大の先生たちと一緒に何度も島に来ています。そのほかにも信州大学や近畿大学、大阪産業大学、宮崎大学などいろんな大学の先生が池島に興味をもち、続々と訪れています。というのも、池島の資料はこれまであまり世に出ておらず、アカデミックな世界でまだほとんど手を付けられていない場所なんです。ゆえに島そのものが貴重な資料だし、誰も手を付けていない分野が豊富に残っているからこそ研究者としては魅力なんでしょうね。

池島の記録・アーカイブ化

このような大学との活動ともリンクするのですが、僕自身、島のお年寄りたちの話を聞いてICレコーダーやビデオカメラで録音・録画して保存してきました。また、島の人が持っている昔の池島に関する新聞記事などの資料や、行政センターや学校などにあった写真をスキャナで読み取ってデジタル化し保存しました。その資料を再度地域の方々に見せるとやっぱり懐かしがったり喜んだりするんですよね。こうすることでコミュニティを活気づけつつ新たな情報を得たりしました。また、それらの資料を見せるだけではなく、地域の方々に配りました。こうしておけば、僕の協力隊としての任期が終わり島から出た後も、池島の資料が誰かの手には残りますからね。

行政センターや学校にあった写真や島の人が持っている資料をデジタル化

島をよく知る長老たちの話を記録

この島に人がいつまで住んでいられるかは誰にもわかりません。この島も島の人も日本にとってとても貴重な存在なので、後世に残したい。いつか池島から人がいなくなってしまった後もいろいろなことを記録し、公開しておけば後世に残ります。それは、観光事業よりも、今池島に住んでいる人にとっても長崎市にとっても必要なことなんじゃないか、そして僕がやらねばならないことなんじゃないかという思いでやっていました。

その他には島の史跡に解説板を立てたり、島に来た人が現地でインターネットによる情報収集、SNSやブログ等で情報発信がしやすいように島唯一の宿泊施設である池島中央会館にインターネット回線を引いたりしました。

とにかく任期中は島の外から人を積極的に呼びこむことで、口コミの連鎖を狙うと共に、私の任期後も池島を見守る人々を生み出そうと試みていました。

小島さんが池島で行ってきた活動の詳細(2013年12月長崎市地域おこし協力隊活動報告会での資料)

3年間の総括

──今年(2014年)の8月いっぱいで任期を終えられたわけですが、3年間を振り返っての率直な感想は?

あっという間の3年間でした。感覚としては1年くらいしか経っていないような感じですね。思うようにならないこともいろいろありましたが、すごく楽しかったです。


──主な成果は?

これまでお話したような活動をしたことで、よりたくさんの人が島に来るようになりました。最終的には、協力隊に就任した2011年と比べ、炭鉱見学に参加した人は約8倍に増え、炭鉱見学以外のカウントされていない人も含めると、来島者は10倍以上に増加しました。協力隊として、島の魅力を発信して、認知度を上げ、島に来る人を増やすという第一の目標は達成できたと思います。また、任期中に蓄えた資料や動画もたくさんあり、今後も少しずつ公開していけたらと思っています。

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幸福度を上げたかった

──池島の地域おこし協力隊員として一番大切にしていたことは何ですか?

地域おこしのメインの目的は経済の活性化だと認識している人は大勢いると思いますし、僕自身池島に来た当初はそう思っていました。しかし高齢化が進み、人口も200人以下に減り続けているこの島が経済的に発展していくのは少々無理がある。そうなるためには島の外部から無理矢理お金を注入するしかなく、現時点それはこの島の理にそぐわないんじゃないかなと思いました。現在も炭鉱さるくを実施するために長崎市から補助金が出ていますが島にほとんどお金が落ちていないのが実状です。その理由はいろいろありますが、この島固有の問題として現時点で難しいことは確かです。3年という限られた期間で経済を回すようにすることだけが地域おこしじゃないと思い、何をするべきかと考えたときに、今島に住んでいる人たちの幸福度を上げることが一番大事なんじゃないかと思いました。

その一環として、島に来た人と島のお年寄りたちが交流できる場を極力作っていました。島のお年寄りは、外から来た人に自分の知っていることを伝えたい、聞いてもらいたいと思っていて、それが一番喜ぶことなんです。僕自身や大学の先生、学生が島のお年寄りに話を聞きに行ったのもそのためです。そこまでじゃなくてもちょっとした触れ合いでもいいんです。たまたま池島に来た人がおじいちゃんとグランドゴルフをする機会を作ったことがあったのですが、後におじいちゃんたちが「あのときは楽しかったね」と言ってくれました。そんなとき、僕は心の中でやった! と叫ぶんです。島に来た人も島の人と交流できたことをとても喜んでいました。人との触れ合いってそれだけで記憶のキーフレームになると思うんです。そういうキーフレームを作ることで池島を思い出してもらえる可能性が増える。時にはまた遊びに来てくれる。そうやって人と人のご縁ができあがる。それも大事な地域おこしだと思うんです。そういうことを大事にして3年間やってきたつもりです。

島の長老の話に耳を傾ける長崎大学の学生たち。長老もうれしそうだったのが印象的だった

島の唯一の診療所を訪れ医師の話を聞く機会を設けた

任期終了間際にはいろんな島の人たちが毎晩送別会を開いてくれて、口々に「小島君が来てくれてから若い人が大勢島に来るようになって島が活気づいた」「若い人たちと話せて楽しかった」というありがたい言葉をいただきました。あまり接触のなかった人からも「小島くんは本当によくやってくれた」と、言ってもらえたのがとてもうれしかったです。色紙や感謝状までいただいたときはさすがに泣けました。

連日続いた小島さんの送別会。島を出た後の送別会でも島の人口の約3分の1が集まった

──地域おこし協力隊員として池島に来てよかったと思うことは?

池島の人たちと触れ合えたことが一番大きいです。高齢の方が多いのですが、息子のようにとてもかわいがってもらいました。僕にとって池島は第2の故郷以上の故郷となりました。それがすごくうれしい。3年やってきてよかったなと思うのはこの人の部分ですね。池島の人たちってみんな人懐っこいんですよ。僕は人とフランクに接するのがそんなに得意ではないのですが、僕も彼らと同じように接することでみんなと友達になれました。人との接し方という部分でとても勉強になりました。


──池島の3年間で得られたものは?

池島に来るまでは、当然ですが友達や知り合いはほぼ関東近県の人でした。でも池島は個性的な島だからこそ全国各地からいろんなおもしろい人が来ます。彼らと出会ったことで新しい人的ネットワークが広がったことが一番大きな収穫であり財産ですね。僕の今後の活動に確実につながると思います。


──難しかったことは?

長崎市側との連携ですね。他にももっとやりたいことがあって、いろいろ申請したのですが、一度許可が降りたもののよくわからない理由で却下されたり、任期修了直前に許可が降りたりと不可解な対応が多かった。地域おこしには行政と協力隊員との深いレベルでの意思疎通、目的の共有化、協力が必要不可欠です。長崎市側はなんのために池島に協力隊を募集したのか、そのあたりを真剣に考えていただきたかったですね。

おもしろいかどうかが大事

──これまでの仕事選び、働き方で大切にしてきたことは?

何かをやるとき、お金になるかどうかというよりも、それをやっておもしろいかどうかが一番大事な判断基準ですね。特に最近の僕の働き方は世の中をかき回せるか、僕のやることで人が、世の中が動くかどうか。それがおもしろいと感じていて、それを重視して仕事や働き方を選んでいます。あとは将来に何か残せるかも重要な要素です。


──小島さんにとって仕事とは何か、働くということはどういうことでしょう。

僕は子供時代からゲームが大好きでゲームばっかりやっていたのですが、仕事もゲームのような感覚でやっています。地域おこし協力隊の仕事はまさにRPGでした。おじいちゃんの話を聞いて何かを取ってきたり、誰かに貰った物を誰かに渡して違う物を貰ったり。リアルRPGを3年楽しんでいたんです。そして、それで得た情報をアウトプットすることで、池島に興味を持った人が増えて、訪れる人も増え、訪れた人とやりとりしていくうちにまた話が大きくなり...と、そんな3年間でした。

僕がやりたいのは、これを押せば社会がおもしろくなりそうだなと思うスイッチを押すことなんです。そのためにこの仕事をやる、みたいな。つまり僕にとって仕事とは、やりたいことをやるために必要な手段にすぎない。だから仕事はなんでもいいんです。そもそも単に生きていくためなら何をやったっていいわけですからね。今回地域おこし協力隊員として池島に来たのも、世界に2つとないこの貴重な場所をどうにかして多くの人に知ってもらいたい、そうすればもっと池島も僕もおもしろくなりそうだというのが原点にあって、そのためには地域おこし協力隊になるのが一番手っ取り早いと思ったからですね。

例えば池島に来た人のガイドをすることもスイッチを押すことなんですよ。この人はこの辺のスイッチを押せばおもしろがってくれそうだなと思うスイッチを探して押してみる。例えばここを見せてあげれば喜びそうだなと思うところに連れて行って「ここおもしろいですね」とか「これすごいですね」と喜んだり驚いたりしたとき、やったと思うんです(笑)。そうするとTwitterやブログに書いてくれたり、あるいは後日別の人を連れて再訪してくれたり、大勢に紹介してくれたりしますし。

今回期間限定の準公務員という立場になってわかったのが、公務員って社会を変えることのできるいろんなスイッチを押しまくれる権限をもっているのに、慎重になりすぎてほとんど押していないってことです。それはもったいないなあと思いますね。

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任期終了後のキャリア

──任期終了後は?

いろいろと選択肢はあったのですが、池島に来たばかりのときに参加した軍艦島関連のシンポジウムで知り合った長崎大学の研究者から、地域おこし協力隊の任期が終わったらうちに来ないかと誘っていただいて、9月1日から長崎大学のインフラ長寿命化センターという研究室で、産学官連携研究員として働いています。


──インフラ長寿命化センターとは?

高速道路や橋梁など、日本の基幹インフラは今から40年前の高度成長期にできたものが多く、今その老朽化が大きな問題になっています。現在も交通の要衝や経済の大動脈となっているので、簡単には作り変えることはできません。かといって何もしなければこれからどんどん朽ちていく一方なので、その寿命をどうやって伸ばすかという研究をしているのがインフラ長寿命化センターです。こういう研究を専門にしているところって日本でもまだ2、3カ所しかないんです。

インフラ長寿命化は今後ますます社会に必要とされる、これから伸びる分野なので、いろんな人にちゃんと知ってもらう仕事っておもしろいなと。また、広報的な仕事だけどそれによって動く人が出てくるかなと思ったので、この仕事をありがたく受けたわけです。

──長崎大学は小島さんのどういうところを評価して声をかけたのでしょう?

インフラ長寿命化センターって、たぶんその名称すら聞いたことのない人がほとんどで、ましてや研究している内容なんて知っているわけがないですよね。でも今の日本にとってすごく重要な問題に取り組んでいるので、インフラ長寿命化自体の認知を上げること。そこで小島ならうまく長崎大学長寿命化センターの話題づくり、啓発をして、認知度を上げてくれるだろうと期待してくれたようです。

──池島の認知度を上げたことが評価されたということですね。

それプラス、僕のことを社会科見学時代から知ってくれていて、記事も書けるし写真も撮れるし動画編集もできるし、Webサイトも作れる。情報発信をするときに、一つのスキルだけじゃなくて、複合的なスキルをもってる点が決め手になったようです。


──具体的にはどのような作業を?

インフラ長寿命化センターでは道路を守る「道守プロジェクト」を行っていて、そのプロジェクトの企画・提案・運営や県内各地の担当者との打ち合わせ、非破壊検査の実演、講義、講師、HPの作成・管理・更新・情報発信、DVD撮影・編集、広報誌の作成、シンポジウムのポスターの作成などを行う予定です。

キャリアのわらしべ長者

──今後の目標は?

当面は長崎大学のインフラ長寿命化センターの知名度アップと啓発のために頑張ること。インフラ長寿命化といえば長崎大学というところにまでもっていきたいですね。

それと東京でも行っていたのですが「サイエンスシート」をやりたいですね。サイエンスシートとは科学者と一般の人がピクニックにでかけて一枚のレジャーシートの上で科学について楽しくおしゃべりをするイベントです。どうしても科学者というと雲の上の人と思われがちですが、その先入観を取っ払いたい。例えば八百屋さんは野菜や果物のプロ。科学者は科学のプロ。プロであることにおいて両者の間に差はないので、対等に話せばいいわけです。長崎大学の教授もそのシートに巻き込みたいなと。長寿命化センターだけじゃなくていろんな方面に手を出して行こうかなと思っています。その方がおもしろいので(笑)。


── 一見行き当たりばったりで脈絡のないキャリアに見えて、これまでやってきたことが確実につながっていますよね。

そうですね。僕は長期的な目標は立てません。というか立てられない(笑)。5年後、10年後のことなんて考えられません。いつもそのときにおもしろそうだなと思ったことを取りあえずやってみたら新しいスキルが身について、それが次にやってみたいことに活かせる。そうしていくうちに以前取り組んでいたことより、規模も社会に及ぼす影響も大きなことに取り組めるようになる。次の仕事はさらに大きなフィールドで、リアルなRPGをできそうなのでワクワクしてます。今後もキャリアのわらしべ長者みたいな感じで生きていければと思っています。

みんなが幸せになる地域おこしを[前編]

地域おこし協力隊とは

──そもそも「地域おこし協力隊」とはどういったものなのでしょう。

人口減少や高齢化などが進んでいる地域に赴任して、その地域を活性化させるための活動を行うのが地域おこし協力隊です。2009年に総務省によって制度化された取り組みで、まずは地方自治体が募集して、その地域を活性化したいという意欲を持った人材が応募、選考を経て任命されると、1年以上3年以下の期間で地方自治体から委嘱を受けて準公務員として、その地域に住み地域振興活動に従事します。活動内容は観光客誘致活動、農林水産業への従事、環境保全活動など、その地域によってさまざまです。この制度のもうひとつの狙いとしては定住・定着者を増やすということもあります。協力隊員の中には任期後もその地域に根を張り、住み続ける人も少なくありません。(※詳しくは「地域おこし協力隊」の公式Webサイト」を参照)

僕は2011年10月1日から2014年8月いっぱいまでの約3年間、長崎市の池島で地域おこし協力隊の隊員として活動していました。


──池島とはどんな島なのですか?

長崎県の西彼杵半島の西沖合約7キロに浮かぶ周囲4kmの小さな離島です。九州は昔から石炭掘削の盛んな地域で、高島、伊王島、端島(通称・軍艦島)といった炭鉱の島がいくつもありましたが、石油へのエネルギー転換や海外から輸入した方が安いということで、1970年代あたりから次々閉山となりました。その中で最後まで残っていたのが池島でしたが、それも2001年11月で閉山しました。それにともない、人口もどんどん減り続け、最盛期には8000人もいた人口が今では200人程度にまで減少しています。しかし、炭鉱設備や炭鉱アパートがまだきっちり残っている「島丸ごと産業遺産」とも言える日本でも数少ない場所です。また、トロッコに乗って本物の坑道も見学できます。

池島の空撮(池島小中学校所蔵)

炭鉱見学の様子


──池島でどんな活動をしていたのですか?

池島についての情報発信やPR活動、メディア誘致、歴史調査・アーカイブのデジタル化、島内ガイドなどをしていました。

フリーターからの出発

──個々の活動については後ほど詳しくおうかがいするとして、まずは地域おこし協力隊員として池島に赴任するまでの経緯を教えてください。

某大学の工学部を卒業後、何となく普通に就職する気にはなれず、アルバイトでコンビニの店長や、学生時代にDTPをかじっていた事もあり出力センターの店員をしていました。いわゆるフリーターというやつですね。25、6歳のとき、そろそろちゃんと働かないといけないなと思い、初めて正社員としてパソコンやコピー機などを扱う商社に入社しました。仕事は企業にそれらの商品を売り込む法人営業で、最初の頃こそ成績はよかったのですが、飛び込み営業やテレアポが段々つらくなって1年ほどでWebの制作会社に転職しました。そこではWebサイトのコーディングをする仕事を始めたのですが、その会社が1年ほどで倒産してしまい、当時僕がmixiで立ち上げていた「社会科見学に行こう!」というコミュニティに参加してくれていた人に誘われて、コンテンツ制作会社に入社。QuicktimeVRという現在のグーグル・ストリートビューのような全方位画像を撮影・制作していました。東京の風景をQuicktimeVRで保存する「Tokyo VR Project」というおもしろいことをやっている会社だったんですが、ブロードバンドもままならない当時、技術が画期的すぎたのか私が入って1年程度で会社が解散してしまいました(苦笑)。それで、しょうがないからフリーランスになったわけです。2005年、28歳くらいのときでした。


──20代で会社に属せず、フリーランスとして生きていくことに不安はなかったのですか? 当時の収入源は?

当時、ブログを立ち上げて訪れた工場や土木施設や研究所などの写真をアップしていたのですが、そのブログを見て写真を買いたいというメールがたまに来たり、出版社の編集者から撮影の依頼もポツポツきていました。大した収入にはなりませんが、実家暮らしだし取りあえずなんとかなるかなと。それくらいのザツな感じでフリーランスになったわけです(笑)。

小島さんの作品の数々(小島さんのブログより)

──本格的に撮影を始めたのはいつごろですか?

「社会科見学に行こう!」を立ち上げた2004年くらいに初めてデジタル一眼レフカメラを購入しました。撮影は全くの自己流というか独学ですね。

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大人の社会科見学スタート

──「社会科見学に行こう!」を立ち上げた経緯と活動内容を教えてください。

小学生の頃に京葉工業地帯を車窓から眺める機会がけっこうあって、そのときにかっこいいと思ったのが原体験でしょうね。特にパイプが好きなのは間違いなくここから来ています。ネット上で最初に参加したのは「はてなダイアリー」の巨大建築愛好会っていうグループです。参加といっても日記にキーワードを書いたり、コメントを残したりするというような、なんとなく、ゆるく参加していたという状態でした。そこでジオサイトプロジェクトというのを目にして、実際に見学に行ってみたというのが始まりですね。

「はてなダイアリー」と平行して当時はやり始めていたSNSにも参加して、「どうやらこれは人を集めるのには最適なんじゃないか?」とおぼろげながら感じたわけです。その後、前述のジオサイトプロジェクト(日比谷共同溝)に行き、東京の地下にこんな広大な空間があるんだととても感動しました。僕は地下もすごく好きだったのですが、これは映画や、アリャマタコリャマタ先生、ドラクエ、ウィザードリーなどのゲームの影響でしょうね。地上からは見えないところに何かあるということにどうしようもなく心惹かれるものがありました。

その後、仲良くなったブログ仲間にmixiに招待されて、当時ちょうどコミュニティ機能がついたばかりでこっちの方が人を集めやすそうだと思ったのと、もう一回日比谷共同溝に行きたいと思い、2004年6月にmixi内に「社会科見学に行こう!」というコミュニティを立ち上げて活動を本格的に開始したんです。僕が行きたい工場や発電所、工事現場、巨大地下施設などを見つけ、コミュニティ上で参加者を募集し、施設の見学担当者と打ち合わせをして開催日時や見学時間、ルート、スケジュールを決め、解説もお願いするなどいろいろ交渉、やりとりをして、当日は見学者側の代表として添乗員役などをしていました。

mixi内のコミュニティ「社会科見学に行こう!」

──それらすべて無料で?

はい。完全にボランティアというか趣味でやっていました(笑)。


──なぜ一円にもならないのにそんなかなり面倒なことを?

まずは単純に僕自身がそこに行きたかったからです。僕が参加したかった工場見学って個人ではなかなか申し込めなくて、だいたい10人以上の人が集まらないと見学できないんですよ。それと、一人で行けたとしてもつまらない(笑)。僕は昔から人をたくさん集めてみんなでわいわい楽しむのが好きなのでこういう活動を始めたわけです。ちなみに、「社会科見学に行こう!」の他にも「ホワイト餃子を愛す」、「藤岡弘探検隊を応援する会」などのコミュニティを立ち上げていたし、最近ではフェイスブックで集まってただただステーキを食べる「ステーキ部」を主宰しています(笑)。

社会科見学がブームに

転機が訪れたのは、「社会科見学に行こう!」を立ち上げた翌年の2005年。産経新聞の女性記者から突然取材したいと連絡があり、僕の活動を1面で取り上げてくれたんです。全国紙の1面で取り上げられたとあって、それからはイベントの参加申込が激増したり、他の新聞やテレビ、雑誌などでも取り上げられるようになったりと、ちょっとした社会科見学ブームが起こりました。


──小島さんは大人の社会科見学ブームの火付け役でもあったんですね。その他にいい影響はありましたか?

個人的には旅行会社や企業が主催する社会科見学ツアーのコーディネートの仕事が入ったり、出版社から撮影に加えて記事執筆の仕事が入り始めたりして収入も少しずつ増えていきました。

その後、高エネルギー加速器研究機構(KEK)などの先端科学研究所や羽田空港D滑走路工事現場、下北沢駅複々線化計画工事などの土木工事現場、首都圏外郭放水路などの巨大地下施設や産業遺産などを見学したり、それらを通して仲良くなった研究者や技術者と一緒に新宿にあるトークライブハウスのロフトプラスワンで「深海の夜」や「加速器の夜」などのトークライブやサイエンスカフェなども開催していました。

また、参加者の中にはフリーのライターや編集者などマスコミ関係者やイラストレーター、漫画家、デザイナー、映像作家などのクリエイターたちが多く、これまで想像もしていなかった世界の人たちとどんどんつながっていきました。中には世界的に有名な、その分野の第一人者もいらっしゃいます。そういう人たちとの交流はとても楽しくて刺激的でした。このことこそが「社会科見学に行こう!」を立ち上げて一番よかったと思う点ですね。この関係は現在に至るまでずっと生きています。ありがたい限りです。そのつながりの中で、『社会科見学に行こう!』『ニッポン地下観光ガイド』などの書籍や『見学に行ってきた。』などの写真集も出版することができましたし。

小島さんの著書など(共著、協力含む)

──見学は無料だとしても写真集や本の出版で、収入は増加していったのですか?

さすがに始めた当初に比べるといくらかは増えましたが、贅沢はできない感じでした。

当時の主な収入源は先程もお話した社会科見学ツアーのコーディネートや企画、メディアでの撮影や記事執筆に加え、テレビや雑誌の企画や出演料などでした。また、直接の収入にはあまりつながりませんが、富山市や埼玉県などの自治体からの依頼で産業観光系のイベントに登壇したり、地域おこしのセミナーの講師として講演したりといった仕事もありました。とはいえ、社会科見学を立ち上げて5、6年経った頃、それら全部を足しても同年代の平均年収よりは低かったと思います。打ち合わせや人とのご縁をつなぐための飲み会なんかも多く、収入の半分は交際費に消えるような状況でしたし。

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葛藤の時期

──当時30代半ばですよね。将来の不安はなかったのですか?

もちろんありましたよ。だから社会科見学をもっとちゃんとした仕事にしようと思っていろいろ考えました。で、社会科見学をNPOにしたらいんじゃないかと思って2010年9月から半年間、地域おこしやNPOを設立するノウハウを学ぶ学校に通い始めたんです。でもその学校に通いながら、NPOはいろいろと制約が多くどうも僕の性に合っていないと思うようになりました。実際にNPOを運営している人たちにも「小島君はNPOには向いていない。やるなら普通の会社にした方がいい」と言わたのでやっぱりそうかと(笑)。半年間学校に通いましたが、社会科見学はビジネスにした方がいいのか、ならば会社を立ち上げた方がいいのかなとかいろいろ悩んでいました。

ちょうど同じ時期に『社会科見学を100倍楽しむ本』という本を作っていて、学校の修了とほぼ同じタイミングの2011年4月に出版しました。この本はこれまで7年間の社会科見学に関する活動をまとめたような内容で、その7年間に知り合った仲間たちと一緒に作った本です。社会科見学の会社を立ち上げようかどうか悩んでいましたが、この本を出版することで僕の中では社会科見学に一つの区切りがついてしまったんです。

そこで次に何をしようかなと考えた時、この本でも取り上げた長崎県の池島に久しぶりに行ってみようかといろいろ調べていたところ、長崎市が池島での「地域おこし協力隊」を募集していることを知ったのです。池島はまだまだ活用できる伸びしろがあるし、僕がこれまでやってきたノウハウが活かせると思い2011年10月から地域おこし協力隊員として池島に赴任したというわけです。

池島との出会い

──なぜ池島の地域おこし協力隊に?

そもそも池島との最初の出会いは2008年です。その年の1月に『ニッポン地下観光ガイド』という本を共著で出したのですが、取材がとても楽しかったのでその第2弾を作ろうと思い、日本各地の地下事情を調べていたところ、「デイリーポータルZ」というWebメディアで海底炭鉱が残っている島があることを知りました。それが池島だったんです。

池島は周囲4キロの小さな島ですが、20世紀の最後まで石炭採掘で栄えた島で、最盛期は8000人以上の人が暮らしていたと言われています。隣のひき島まで海底トンネルを掘って石炭を採掘していたのですが、その一部がまだ残っていて、見学できると。海底炭鉱って全く未知の世界でしたからこれは是非とも見学しなければと思い、早速長崎市の炭鉱見学の窓口に取材申請をしました。しかし、取材直前にアポイントを確認したところ実施会社に話が通っておらず結局取材はできませんでした。でも地上だけでも見てみたいと池島に行ったところ、そこですごい衝撃を受けました。島にはかつて炭鉱マンとその家族が住んでいたマンション郡が廃墟になってそびえ立っていたり、石炭を運んでいた巨大な機械たちや発電所なども風雪に耐えボロボロになりながらもそのまま残っていました。元々炭鉱だった場所は国内にたくさんありますが、現在もそれらがほぼ完全に近い形で残っているのは池島しかないんです。

池島にはさまざまな産業遺構が残っている

その様は産業島というにふさわしく、まさしく20世紀が残っているような世界。島内を散策するとまるで映画の中を歩いているような錯覚に陥りました。しかもそういう島にいまだに生活している人たちがいる。とにかくこれまで見たことがないような場所で、日本にこんな場所があったのかと感動しました。それでもう一回ちゃんと取材で来なければと翌2009年に今度は直接実施会社に取材依頼をして、無事に取材できました。しかし、残念ながら2009年の時点で海底部分はすでに水没してしまっていました。海底部分は入れず地上の坑内(トンネル)しか見学できなかったけれど、それを差し引いても有り余る魅力が池島にはあったのです。そのとき撮影した写真や取材した記事などが先ほど話した『社会科見学を100倍楽しむ本』に掲載しています。


──一番感動したのはやはり坑内見学ですか?

いえ。確かに坑内見学はとても楽しかったのですが、それだけでは満足できませんでした。僕が初めて池島に来たときに感じた衝撃や感動を半分も味わえなかったからです。池島には坑内以外にも、地上部分にせっかく「炭鉱の島」としての機能や生活の場が残っているのに見学コース(炭鉱さるく)ではそこをほとんど見せないため、島全体のストーリーがいまいちつながらないのです。炭鉱さるくは「石炭を掘る」ということに特化しているんですね。炭鉱さるくで池島を訪れた人が見る場所といえば、港と炭鉱の説明を聞く建物と炭鉱坑内の3カ所程度。ほとんどの人はそれだけ見て帰ってしまう。それでは当然島自体にお金は落ちませんし、離島に来たのに船に乗ること以外離島であることを感じることがありません。なんてもったいないんだと怒りすら感じました。

そして2010年に池島の地域おこし協力隊の募集を見た時に、そのときの思いがふつふつと蘇ってきました。池島にはもっと素晴らしいところがたくさんあるからそれをたくさんの人に知らしめたい、それが自分にはできると思ったんです。

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これまで身につけたスキルが自信に

──なぜそう思ったのですか?

社会科見学や写真家、あるいはステーキ部などの活動を通して人の集め方や参加者が喜ぶポイントをわかっていたので、そういうスキルが町おこしに活かせるんじゃないかなと。また、ただ見学して「楽しかった」ではなく、見学させていただく施設の方や協力してくれる団体にすごくお世話になるので彼らに恩返しをしたいと記事やレポートを書いたりしていたのですが、その経験も役に立つだろうと。僕らが見学するまで一般的にはあまり知られていなかった首都圏外郭放水路やKEKなどは僕らがワイワイ楽しみながら紹介したことで認知度が上がったという側面もあると思うんです。そういう現象をちゃんと利用すれば町おこしができるんじゃないかなと思ったわけです。


──うまくいかなかったらどうしようとかは考えなかったのですか?

考えなかったですね。なぜなら、社会科見学活動を通してそれを実現するためのスキルが僕にはあるからです。例えばWeb制作、写真撮影、情報発信、集客能力などを駆使すれば十分できると思いました。これだけ特殊な場所だから、ちゃんと情報発信すればクリエイターなどいろいろなおもしろい人たちが来るだろうなと踏んでいましたし、絶対にどうにかなるという自信はありました。

「人」が決め手に

──とはいえ友人・知人がたくさんいる住み慣れた首都圏から縁もゆかりもない離島へ移住して3年間も未経験の仕事をすることに葛藤や逡巡はなかったのですか?

もちろん、決心するまでものすごく悩みましたよ。これまで埼玉の実家を出たことすらない僕がいきなり離島なんかで3年間も本当にひとりで暮らしていけるのだろうかと。地域おこし協力隊だって始まったばかりの制度でしたからよくわからなかったし。

でもそれよりもやってみたいという気持ちの方が勝ったということです。例えば、今まで首都高速やKEK、土木学会などと組んで見学イベントを開催していましたが、1つの団体と行うイベントは盛り上がってもあまり横の連携はありませんし、1案件が終わったら責任もそこで終わり。でも地域おこしは行政や企業や地域などとある程度長い期間組んで、継続的にがっつり取り組めることにもすごく可能性を感じました。これまでの自分ではできなかった何か突き抜けたことができるんじゃないかなと。

でも一番大きな決め手になったのは「人」です。初めて池島に行ったときに出会った、島で唯一の食堂「かあちゃんの店」のおばさんや宿泊施設のおじさんたちがすごくいい人で。そのとき交わした会話は他愛もない普通の世間話だったのですが、2度目に行ったときも彼らは僕のことを覚えていてくれてとてもやさしく接してくれたんです。それが妙にうれしかったというか、人がいい土地だから住みやすいんじゃないかと。けっこうこういうことが大事で決め手になったりするんですよね。あとこれはネタ的な意味もあるのですが、池島は周囲4キロしかない小さい島。僕も名前が小島なので人生で1回くらい小島は小島に住まないといけないなと(笑)。

結果的には不安よりも今までとは違う新しいことがしたいとか、池島をもっと世の中に知らしめたいという気持ちが勝ったわけです。あとはこれをやり遂げたらまた一段上の新しいキャリアが見えてくると思ったことも僕の背中を押してくれました。とにかくいろいろ悩みましたが、最後はどうにかなるだろうと自分で踏ん切りをつけました。僕は動くときにいろいろと悩みますが、いつまでもぐじぐじ考えるタイプではないんですよね。それで応募〆切ギリギリで長崎市の地域振興課に申込書を送ったところ、9月上旬に面接があって、1週間後に来月から池島に来てくださいと合格通知が届きました。着任まで1ヶ月も時間がないことにはさすがにびっくりしましたが(笑)。

池島における地域おこしとは?

池島を訪れた人たちのガイドも(写真は大阪大学の先生と学生)

──「地域おこし」とひと言でいってもさまざまな要素ややり方があるし、その地域がもっているポテンシャルによっても違うと思います。小島さんが地域おこし協力隊として池島に赴任する際、「池島における地域おこし」についてはどう考えていたのですか?

まず、長崎市の地域おこし協力隊の担当である地域振興課から最初に言われたことは、池島の観光事業を評価して、島の町おこし団体と連携・協力して島を盛り上げてほしいということでした。

確かにこの島には日本中どこを探してもないこの島にしかない素晴らしさ、魅力があります。それを一人でも多くの人に知ってほしい。そして実際に来てこの島の素晴らしさをその目で見て、感じてほしい。具体的には島に残されている石炭採掘の機械や炭鉱アパートなどの産業遺産などを使って観光で回る島にしたいと考えました。そこで、地域おこし協力隊員としての3年間を通してのテーマを「記録より記憶に残るまちづくり」と定め、さまざまな活動を開始しました。


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