2013年4月アーカイブ

──この3つの他に最近手がけられている仕事はありますか?

最近は小さな会社や組織、または地域の相談役的な仕事が増えてきました。

東日本大震災の2ヶ月後、陸前高田の3人の若い社長たちと東京のある会社の代表・副代表が、震災後の地域の"仕事づくり"を目的とする、民間の復興まちづくり会社「なつかしい未来創造」を立ち上げました。

その仕事で去年(2012年)の3月から、現地に通っています。

最初はWebサイトを作るだけだったのですが、関わってるうちにロゴマークの制作などいろいろリクエストをいただくようになりました。それらを一つひとつやっていくと膨大な金額になるし、こういう復興のための活動は何年にも渡って継続的に関わらないと意味がないと思ったので、「もう雇ってしまってください」と申し出たんです。

それで久々にサラリーをいただいていて、月に多い時で3回、少ないときで1回ほど陸前高田に通っているんです。


──現在、具体的にはどんなプロジェクトが進行しているのですか?

建築プロジェクトをひとつ進行中です。

現在、陸前高田にIターン、Uターンを希望している人たちが現地へ行って仕事探しや住まい探しをしようとしても、宿泊するところがないんです。

それで彼らが活動の拠点にできるような、シェアハウスとワーキングスペース、カフェもある一種のコレクティブハウスのようなものを山林の中に建てようとしているんです。


──このプロジェクトでの西村さんの役割は?

僕はコーディネーターですね。プロジェクトファシリテーターというか、全体の仕切り的存在です。

会議には進行役が必要ですよね。でもいろんな職能を持っている人が集まっているので、誰かが進行役をやると、その人が話せなくなります。

だから僕がやった方がいいと思い、手を挙げて会議の進行役を務めるようになったんです。これによりメンバーのみんながより自由にいろいろなことを話せるようになったと思います。

その中で何が必要なのかということをいろいろ議論してきて、役に立ちそうな人の話を一緒に聞く機会を作ったり、都内のコレクティブハウスを何カ所か一緒に視察に行ったりということをしてきました。

その中で彼らのプランニングワークを手伝いつつ、今度はチーム作りをサポートしました。ランドスケープデザイナー、プランナー、建築家、大工さんなどそれぞれのメンバーとの相性を考慮に入れつつ、適材適所で能力を発揮しそうな人、このプロジェクトに貢献してくれそうな人を探してマッチング。教える仕事でも触れましたが、まさに冷蔵庫にあるものでなんとかするみたいな感じで揃えることができたんです(笑)。

僕は各分野にそれほど詳しくはないですがある程度の見通しは効くので、人選して声をかけてチーム編成をして、実際につくってみるワークショップを企画。その準備のために東京にいるメンバーとも議論の場を作ったりと細々としたこともやっています。

かいつまんで言うと、プロジェクトのスキームを設計しつつ、プロジェクトを動かして、必要に応じて調整する、よく言えばクリエイティブな用務員さん的な役割ですね。

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──そういう人がいるとスムーズにことが運びそうですね。

こういう仕事は働き方研究から、教育・ワークショップ、以前の建築計画の経験を総動員できるのでうれしいですよね。

2月18日には全員が陸前高田に集まってキックオフをやり、その場でばんばん建物の模型もつくりながら、3日間で基本的な設計をやってしまおうという試みを実行しました。

その後は建築家とランドスケープデザイナーがメインの設計者になるので、その他の関わってた人たちは自分のもっているノウハウや視点を提供して、後は頼まれたら相談役になるという感じ。今年の11月くらいには竣工する予定です。

陸前高田での会議の模様

──すごいスピード感ですね。ここでも、頭の中だけで考えず、とにかく始めてみる、遅延させないということが生きているわけですね。

そういうスピード感でやりたいのでワークショップ型にしたんですよ。通常の建築プロジェクトとは違って図面や模型などは一切作らず、プレゼンテーションもなし。話し合いで基本的なコンセプトだけを共有し、あとは今、目の前で材料を切って造って見せるという感じのワークショップでやろうと。

その分、設計期間もコミュニケーションにかかる無駄な時間も圧縮されるので、早くできるというわけです。

この陸前高田のプロジェクトは10年間で解散することが決まっています。地方でのプロジェクトに限らず、基本的にはプロジェクトごとにいろんな人が集まり、終了すると解散するという離合集散型のグループワークが基本です。


──西村さんはさまざまな仕事内容に加えて、個人としての活動、経営者としての活動、そして社員としての活動と働き方としても多岐に渡っていておもしろいですね。全体の仕事の割合ってどんな感じになっているんですか?

現在は、陸前高田の仕事が4割、書く仕事2.5割、教える仕事2.5割、クライアントから受注するデザインやモノづくりが1割、自分でやるモノづくりがほとんどゼロという感じです。これが悩みのタネなんですが(苦笑)。


──独立されてからはベースとなる拠点というか仕事場はご自宅になっているわけですよね? 職住近接というか一致。このへんのストレスは感じてないですか?

地方に出かけていたり、どこかで会議やワークショップのファシリテートをやっていたり、あるプロジェクトでみんなでディスカッションしていたり、インタビューで人の話を聞いたりと、外に出ている時間が多いのであまり自宅にいません(笑)。

またそもそも会社員時代から家で働きたいなあとぼんやり思っていたし、家で働くということが苦にならないタイプなのでストレスはないですね。

しいて挙げるとすれば、モノづくりの過程で生じる物で作業場があふれかえっているので、これを何とか整理しないといけない。悩みといえばこのくらいですね。

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──モノづくりの部分では奥様と一緒に仕事をしているわけですよね。そういう意味でも仕事と私生活が同じという環境にストレスはありませんか?

おっしゃるとおり、僕は自宅を仕事場にして、「リビングワールド」を妻と一緒に経営しています。

でも大抵の人は「妻と一緒に仕事をしない方がいい」と言うんですよね。特にクリエイティブ的な業界、デザインや制作の人たちはだいたいみんなそう言いますね。

確かにその気持がよくわかる部分もあります(笑)。

でも僕たちはそもそも何らかの主旨に基づいてこの関係を始めたわけじゃないんですね。縁があった、相性がよかったというだけのことなんです。僕たちにとっては一緒に働いて生きるということがすごく自然なことだったんですよね。


──奥さんと一緒に働くということのメリットについてもう少し詳しく教えてください。

最大の利点は性格や価値観、ものの考え方や持っている技術など、お互いのすべてが深く理解できている関係で仕事ができることですね。この安心感はとてつもなく大きいですよ。夫婦という関係ならではだと思います。

それから身内であるがゆえに、通常の仕事の同僚よりも遠慮なくちゃんと言いたいことが言えます。この関係は貴重で、会社内の関係でありがちな、「本当はこう思っているんだけど、仕事上の関係だから抑える」というようなことがないわけですよ。

自分の存在と仕事が重なっていて、「ここまでが仕事、ここからがプライベート」という仕事の仕方はしない。お互いにそういうレベルで話を交わせるのは、コミュニケーション上で齟齬が少くなり、真意が確実に素早く伝わるので、すごくナチュラルにものづくりができるんです。


──公私一致的な働き方をしている西村さんは、昨今話題になっている「ワークライフバランス」についてどう思いますか?

僕たちのような「ワーク」と「ライフ」の間に垣根がない人にとっては、現状の「仕事の時間は抑えて」といった論調で語られる「ワークライフバランス」は、ピンときません。

しかし会社勤めの人は「ワーク」と「ライフ」を、あるところで線引きしないことにはとてもやってられないと思うだろうと想像するんですよね。

「この仕事の意味があまりにも感じられない」とか「いったい何のために自分はこの仕事をやっているんだ」というような状況だと、「ここから先は仕事を侵入させない」という線を引いて、自分の居場所、安心できる精神圏みたいなものをつくらないと精神的にかなりきついと思うので。

でもサラリーマンでもそうじゃない人もいます。僕の友人の大手ガス会社に勤めている人は、究極の請負業であるサラリーマンでも「自分の仕事」といえる仕事をしていく方法はちゃんとあると言っているんですね。それは何かというと「人から"10"やれと言われた仕事を"10"じゃなくて"15"で返すことだ」と。つまり命じられたレベル以上の仕事をするということ。

例えば彼が企画書の作成を命じられたとき、「こんな仕事意味がない」とか「ワークライフバランスが大事だから定時で帰る」ではなく、彼は完成度の高い企画書プラス頼まれてもいない補足資料をつけるんです。

本筋の仕事とは直接関係はないけれど、興味がわいて調べてみておもしろいと思ったことを補足資料としてまとめて、プレゼンする。その結果、頼んだ人も喜ぶし、おもしろいやつだなと好印象を持たれるんですね。

大抵の場合、会社の中ではみんなが極力自分の仕事を減らそうと動いているので、仕事を増やす方向に動いた人は目立つ。さらにその人が生き生きと仕事をしているし、仕事の結果が予想以上だと、また別の企画が持ち上がった時に、そういえばあいつにやらせてみようと声をかけられる。つまりその仕事がフラグになって自分の仕事がどんどん生まれて、回り始める。

そう彼は言っているし、実際にそうすることで生き生きと人生を生きているという感じなんですよね。

その話を聞いて、なるほどと思いました。つまり、ワークライフバランスはライフ寄りにバランスを取るのではなく、ワーク寄りに重心をおく。前のめり気味にバランスを取る。そうすると仕事も人生もうまくいく。それは僕のワークライフバランス観に近い。彼に教わった部分が大きいです。

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──これから働き方はどう変わると思いますか?

現状ではひとつの会社に勤めてひとつの仕事をしている人がほとんどだと思いますが、これからはひとりの人が複数の仕事をもつ、つまり多業化していくと思います。

それは副業やダブルワークというレベルではなく、それぞれ全然違う仕事だけど全部本業。いうなればたくさんの肩書をもつ人が増えると思いますね。

僕自身もいろんな仕事を同時にやっていますが、「複数の脚で立っている椅子」のような状態を目指すというか、おのずとそうなっていく人が増えるんじゃないかなと思っています。

その理由はひとつはリスクヘッジのため。ひとつの仕事しかもっていなければそれが失われたらとたんに収入が途絶えて行き詰まってしまうけど、複数持っていれば何とかなります。

もうひとつは一つの仕事だけで生活するのに十分な収入が得られなくなるという経済的な理由でそうなっていくのではないかと。

それに合わせて働く場所も多拠点化していくと思っています。実は僕もすでに多拠点化していて、ベースとしては東京の自宅件事務所があるのですが、それに加えて去年の9月から福岡にも部屋を借りているんですよ。


──社会的な動向としてはどうなっていくとお考えですか?

自らの意思で進んで高卒で働こうとする人が増えると思います。

この10~20年続いている不景気の影響で親の収入も下がり続けていて、せっかく大学に進学してもその後の経済的支援が十分に受けられない子どもが増えています。

奨学金を借りて大学に通うと、卒業と同時に数百万円の返済を始めなければならない。つまり、借金を返すためにはとにかく仕事を選ばずに働かなきゃいけないという状況にあるんですよ。こういう状況はバカらしいと、もう多くの親も子どもも思っているんじゃないかと。

だから、高校を卒業したら成長・成熟を遅延化させないですぐ社会に出て働くという人たちが増えてくると思うんです。

受け皿となる企業の方もそういう動き方を始めるでしょう。事実、某大手企業は高卒採用を始めましたよね。

もちろん大学のよさもありますが、そこをちゃんと天秤にかけて考えられる親や子どもや企業が増えてくるんじゃないかなと思っています。

家庭の事情などで高校を出てすぐ働き始めて立派な仕事をしている人、その中で充実感を見出している人はたくさんいるわけですからね。


──西村さんが理想と思う方法は?

僕の理想としては高校を出てすぐ就職するのもいいですが、もう少しもう少し"泳ぐ"時間があるといいなと思うんですよね。

例えばデザイナーになりたければ、美大に年間百数十万円の授業料を四年間払うより、その一年分でもさらに半分でもいいから融通してもらって、自分が「この人!」と思うデザイナーに「これで個人教授をお願いします」とでも頼んでみる方がいいんじゃないか、と思うことがあります。

師匠にしたい人の仕事を間近で見られるし、マンツーマンで教えてもらえるし、いろんな有能な人に会わせてもらえるだろうし、その中でいろいろと将来のことを考えられるだろうし、メリットは計り知れません。

何でもそうですが、学校で習うよりも現場で実際に仕事をしながら学んだ方が実戦的なスキルを身につけられるので確実に早く一人前になれるんですよね。

とにかく一番良くないのは働くことを意味もなく遅延させること。今後、大卒で働くという価値観の見直しがいい形で進んでいけばいいなと思っています。

美大を卒業後、大手ゼネコンへ就職

──まずは西村さんが現在どんな仕事をしているのか、簡単に教えて下さい。

ざっくりとわけて3つの大きな柱があります。

まず一つ目が「書く仕事」。これまで「働き方研究家」としてさまざまな働く人に取材して書いてきました。雑誌の連載やフォーラムの内容をまとめた書籍を8冊ほど出版しています。

2つ目が「教える仕事」。多摩美術大学と京都工芸繊維大学で非常勤講師としてデザインやデザインプランニングについて教えています。また、ワークショップのファシリテーターとしても活動しています。

3つ目が「つくる仕事」。妻と一緒に運営している「リビングワールド」という会社で、コミュニケーション・デザインとモノづくりを手がけています。


──「働き方研究家」を名乗るようになった経緯を教えていただきたいのですが、大学卒業後はどんな会社でどんな仕事をしていたのですか?

武蔵野美術大学でインテリアデザインを学んだ後、大手建設会社ヘ就職しました。最初は設計部のインテリアデザインチームに配属されたのですが、明日貼る壁紙を今夜決めるような勢いで、タイトなスケジュール感で仕事をしていました。僕は考えるのが好きな性分だったので、もう少し考える時間がほしいなあと思っていたんですね。

その後上司から声をかけられてリゾート開発を考える部署に異動しました。そこではリゾート以外にも都心部の建築計画や遊休地を利用した建築計画などの企画書を作っていました。考える仕事がしたかったので、仕事自体は楽しかったのですが、だんだんつらくなってきました。

懸命に考えてもプロジェクトの実現は10年以上先の話で、当時の自分にしてみると、ちょっと時間がかかりすぎというか。


──建築ってそうですよね。土地買収なども入れたら計画して実際に完成するまで20年以上かかることも珍しくないとか。その頃はどんなことを考えていたのですか?

自分の仕事の意味って何だろうと考えていました。自分が何かのアクションを起こしたら、誰かからリアクションが返ってくる、それによって自分の仕事に意味が生成されますよね。しかし自分が手がけた仕事に対して誰からも何も返ってこない、しかも形になるのが13年後。そういう状況に嫌気が差していたんです。

だからその当時は鮨屋の板前さんにすごくあこがれていました。目の前でお鮨を握って、客からすぐにおいしいねという反応が返ってきて、次あれくださいというリクエストが来る。そういう目の前でお客さんの反応がわかるという仕事をしたいと切望していたんです。


──その気持、世の中の多くの職業人もよくわかると思います。自分の仕事に対する反応がやりがいやモチベーションにつながりますものね。他に当時感じていたことはありますか?

実は入社当初から場違いだなと感じていたんです。自分の居場所ではないな、という感覚。

また、会社の中に尊敬できる先輩や上司はたくさんいたのですが、将来こうなるだろう、と思える人がいなかった。つまりその会社で自分の将来がイメージできなかったんです。

それで、このままだと自分はダメになると思い、辞めるとして何をすればいいか、いろいろ考えたんですよ。

例えば、短期間で完成できる犬小屋専門の建築設計事務所。インテリア出身なので簡単な日曜大工はできるし、組み立て式も設計図提供も組み上がったものを送ることもできる。よし、やろう。事務所名は「バウハウス」だと。

でも、始めないんですよね。

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──どうしてやらなかったんですか?

頭の中で考えていただけだったからだと思います。その頃、他にも会社を辞めてやりたいことのプランはけっこうあったんですよ。

でも全部実行できなかった。なかなか最後の一線が越えられなかった。そして越えられない自分を、何やってんだ俺は、なんてカッコ悪いヤツと卑下する。その繰り返し。かなり悶々としていました。

そんなある日、会社の同じ部の後輩がトコトコと僕の席に来て、「西村さん、僕、会社辞めることにしました」と言ったんです。

そのとき、「え!」って立ち上がって、衝動的に「俺も辞める!」って言ったんですよ。

それが30歳のとき。それから会社を辞めて、フリーランスのデザイナーとして活動を始めたんです。

未経験の書く仕事で「働き方研究家」に

──その頃から「働き方研究家」を名乗っていたのですか?

「働き方の研究」という意味では、実はサラリーマンだった頃からやっていたんです。

設計部に所属していたのですが、本業とは別に部署横断的な研究開発のプロジェクトに参加していまして、次のオフィス像を考えるというワークプレイス研究に携わっていました。

ワークプレイスってまず空間のことを考えるんですが、そのうちに空間を超えてどんな制度の中で働いているかも考えるようになりました。例えば「終身雇用制」というものもひとつの大きな空間ととらえることができて、その中で社員のメンタリティが形成されていくんですよね。

そういったワークプレイスを通して働く意味が時代によってどう変わってきたかなど、「働き方」についていろいろ研究していたんです。

その延長線上で最後は「じゃあ俺はいったい何のために働いているのか」というところに行き着いて、その意味が感じられず辞めてしまった、というのは先ほどお話した通りです。

正式に「働き方研究家」を名乗ったのは、会社を辞めた翌年に『AXIS (アクシス)』というデザイン情報誌に自分から企画を持ち込んで「Let's work」と題した連載を始めてからです。


──本職はデザイナーなのにライターのような仕事を始めたのですか?

はい。それまで文章を書く仕事なんて全くやったことはなかったのに(笑)。その理由は、大きな会社を辞めて独立したら自分の働き方を作らなければならない、そのために、自分が尊敬するフリーランスのデザイナーや建築家に日々どんな働き方をしているのか、仕事に対する思い、会議の仕方、スタッフとのコミュニケーションの取り方、残業時に食べる食事、仕事中に音楽は聞くのか聞かないのか、土日の過ごし方などなど、細々としたことまで全部聞いて回って、参考にしたかったんですね。

それでサラリーマン時代に知り合った『AXIS』の編集長に、「こういう連載をやりたいんですけど」というメールを送ったら、翌朝「その企画、いいね」と返事がきて「Let's work」という連載がスタートしたんです。そのときに「働き方研究家」という肩書きをつけたんです。

この連載がのちに『自分の仕事をつくる』という僕の処女作になり、今に繋がっているので、あの編集長あっての私です(笑)。

書く仕事をやりたかったもうひとつの理由は、「スパンの短さ」ですね。

雑誌に記事を書く仕事は、取材して原稿を書いて、読者から感想が来るまでわずか3ヶ月程度しかかからないのでいいなと。

だから連載が始まったとき、迷わず自分のメールアドレスを僕のプロフィールスペースに掲載しました。期待通り記事を読んだ読者から感想が返ってきて、それが好意的なものでも批判的なものでもすごくうれしかったですね。ほくほく(笑顔)みたいな。俺が求めていたものはこれだと(笑)。

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たくさんの働き方を学んで自身も成長

──その後も西村さんは働き方というテーマでいろいろな方に取材をし、何冊も本を出版しています。この活動を通じて得たもの、もしくはご自身の働き方が変わった点はありますか?

たくさんありますよ。例えば、プロダクトデザイナーの柳宗理さんからはのちの僕の働き方、生き方まで左右するほど大きな影響を受けました。

彼はものをつくるときに、図面は描かないと言うんですね。それまで僕は設計するときは図面を書くのが当たり前という教育を受けてきたので、柳さんのやり方が全然理解できなかった。

困っていると、柳さんは「橋桁をつくるときは図面なんか描かずにこうやって紙で橋をつくるんですよ」と言いながら、紙を折り曲げてささっと橋のモデルをつくって見せてくれたんです。

今目の前にあるものでできることをさっさとやる。現実化を遅らせないんですよ。頭の中だけで考えていないで、取りあえず手を動かして実際にやってみると、すぐにいろいろといい点や問題点がわかり、そこで考えてまたすぐに改良を施す。

「角を曲がらないとその先は見えない」ということなんですが、それをものづくりで具体的にやってらっしゃった。こうあるべきだ、僕もこうしようと強く思いました。

それ以来、書く仕事でも、教える仕事でも、つくる仕事でも、どんな仕事でも悶々と考えている時間を減らして少しでも現実化、具体化していくという習慣がついたんです。

それによって土壇場での取り返しのつかない失敗はなくなりましたね。

とにかくやると決めた段階から実行し続けるので、小さな失敗を早い段階で見つけることができ、修正できる。それによって後半の時間は精度を上げるために使える。仕事の完成度の上げ方の勘所は、なんとかつかめたんじゃないかと思います。

西村さんの働き方に関する代表的な著書。『自分の仕事をつくる』(晶文社/ちくま文庫)、『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』(弘文堂)、『な んのための仕事?』(河出書房新社)

「今、ここにあるもの」でなんとかする

──2つ目の教える仕事についてうかがいたいのですが、どんなワークショップを主宰しているのですか?

厳密に言うと、「教える」ではなく、人が人に「かかわる」仕事だと思っています。ワークショップも教えるのではなく、司会進行する、ファシリテートするという感じです。

例えばその場でいる人でできることをやってみようというワークショップは参加者をいくつかのグループに分けてあるお題を出して、それを20分ほどで考えるというもの。

例えていうなら、「冷蔵庫の中にあるものでおいしいものを作る」というような感覚。それは先ほど触れた「遅延させない」こととリンクしていて、頭の中で考えているだけじゃなくて、今手元にある人的、物的リソースでベストを尽くして最上のものを作ろうというワークショップです。

ワークショップ「出会いを形に」にて

──すごくおもしろそうですね。なぜそのようなワークショップをやろうと思ったんですか?

ある目標に向かって進もうとするとき、自分が否定される部分って結構あると以前から思っていたんです。

例えば建築家になりたいという抽象的なテーマや目標を掲げると急に条件設定が高度になって弱気になってしまう。今の自分では数学の知識が足りないからとかセンスがないからとか、建築家として大成するにはいろいろ足りないと感じてしまい、「自分なんてダメだ」と何かに負けたような敗北感を強く抱いてしまう。

もちろん目標を立てて、そこに向けて自分を鍛えていく、頑張っていくことはとても大事なことではあるのですが、負け続ける習慣のようなものをつけてはよくないなと。

でも「その場に居合わせている人がすべて」という方式で、例えば3人でできることをぱっとその場で考えてみるというのは、「このメンバーで何ができるかをみんなで考えよう」となるので、その場にいる各人が持っている能力・技術が全肯定されます。足りないって言われない。それはうれしいですよね。

しかも自分ひとりで何かをやるんじゃなくて、自分にはないものを持っている人と一緒にやるわけなので、自分だけで思い描けなかったことができる。つまり自分という枠組みも超えることができるのでうれしくないわけがないだろうなと思います。

実際、参加者のみなさんはすごく楽しそうにしてますし、会場全体もけっこう盛り上がりますよ。

そこで考えたことを実際にやるかどうかは別として、こういうことを経験するだけでも自信がつくと思うんですよね。

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「センスウェア」という思想

──3つ目の「つくる仕事」について教えて下さい。

会社を辞めて9年後の2002年にデザイナーの妻と一緒に有限会社「リビングワールド」を立ち上げました。

リビングワールドはデザインとものづくりの小さな会社で、企業や自治体などクライアントから請ける仕事と、自分たちで企画し製造・販売まで手がけるメーカーポジションの仕事を行っています。

これまで太陽の光が地球に届くまでの時間を示す砂時計や、銀河系をガラスキューブの中に立体的に再現したオブジェなどをつくってきました。

僕個人としてかかわるデザインの仕事には、情報デザインやコミュニケーション・デザイン領域のものが多いです。

太陽の光の砂時計

太陽系のそと|銀河系

──リビングワールドという社名にした理由は?

『進撃の巨人』という漫画を読んだことありますか?


──はい。大好きで単行本を全巻持ってます。すごく高い城壁に囲まれた中で人類が生きているという設定で、城壁の外にいる巨人に人類がバクバク食われるんですよね。まさかその巨人と関係が?

いや、巨人は関係ありません(笑)。あの漫画の「高い城壁に囲まれた中で人間たちが暮らしている」という状態は現実のこの世界と同じで、私たちは目に見えない高い壁に囲まれて暮らしていると前々から思っていたんですよ。

例えばシリアで政府軍の空爆で市民が何人犠牲になったとか、東日本大震災で津波で何人が亡くなったかというような情報は新聞やテレビなどのメディアを通じて私たちは間接的に知っています。

しかし、その地で実際に何が起こっているのかは本当は知らないんですよね。テレビや新聞など誰かが作った二次情報を見て知った気になっているけど、本当は何も知らないんですよね。

だから誰が作った2次情報が僕らの周りを目には見えない城壁のように高く、厚く取り囲んでいて、世界の像が出来上がっているわけだけれども、その外側にはリアルなナマの現実世界が存在している。でも外側のリアルな世界には行かずに塀の内側で窒息しそうになりながら生きている。これが特に現代の都市的な生活のありようだと思うんですね。

例えば美しい夕日が広がっていたときでも、携帯電話のカメラでパシャと撮ってあとはずっと携帯をいじっている人が多い。旅行に行ったときも同じで、片っ端から撮影してネットに上げることに一所懸命になっていて、せっかくの「今、ここの現実」を味わっていない。すべてが情報処理で終わっているような気がするんですよね。


──確かにそうですね。耳が痛いという人も多いと思います。

私自身も時々そうなっているなと感じることがあるんですよ。

だからその情報の城壁に風穴を開けて、人々がリアルな世界の風を少しでも感じられるような仕事ができればかっこいいなと、会社を立ち上げる時に思ったんですね。つまり城壁の外=本物の「生きてる世界」を感じさせたいという思いから「リビングワールド」と名づけたんですよ。

例えば「風灯」という作品は、風が吹くとふわふわっと明かりがともり、それによって人の意識が風が吹いているという"現実"に向かいます。

「風灯」

また、太陽の光が地球に届くまでの時間を計る砂時計は、目には見えないけれど、何かがこっちに来ていることに意識が向かう。

このような、人間のサイズが伸び縮みするような、想像力と感覚を扱う物、つまり「生きている世界を感じる道具」を「センスウェア(senseware)」と呼んでいます。リビングワールドでは、センスウェアの試作をかさねているんです。


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