2016年12月アーカイブ

宇宙産業から伝統産業の世界へUターン[後編]

宇宙にあこがれを抱く

──ここからは、会津に戻って会社を継ぐことにした経緯含め、関さんのこれまでの人生の歩みについてお聞かせください。子どもの頃の夢は?

関昌邦-近影1

NASAのエンジニアになることでした。最初に宇宙に興味をもったのは、幼い頃に見たテレビ番組がきっかけでしょうか、知らない世界を見つけて開拓するということにあこがれを抱いていました。また、遊びでもすでに流行っているものに乗るのが当時から好きじゃなくて、人より半歩でも一歩でも先を行って新しいものを見つけ、クラス内に流行させたいと思うような子どもでした。それの延長なのか小学生の頃から、将来は、人類の最先端分野、宇宙飛行士とは言わないまでも、NASA(アメリカ連邦宇宙局)に勤められたらいいなぁ、とか日本の宇宙開発を担っているNASDA(宇宙開発事業団。現・宇宙航空研究開発機構・JAXA)のエンジニアになれたらなぁ、なんて夢を描いていました。

理科系科目が好きだった中学まではそんな夢を漠然と抱いていたのですが、高校に入ってから理数系の教師と折り合いが悪くなり、反発もあって元々得意だった理数系の科目の成績がガタ落ちに。仕方なく文系に転じた時点でもうNASAはおろかNASDAも無理、となって、じゃあ国連みたいな世界を相手にした仕事、国際的な仕事、と徐々に妥協しながらなりたい職業に思いを馳せていました。じゃあどうするかと考えた結果、次男なので当時は実家の会社を継ぐことなど想定していなかったし、何もない田舎から都会へ出たいという気持ちが強かったのですが現役では東京の志望校に不合格。上京して1年間浪人生活を送り、翌年都内の私立大学の法学部に入りました。

ハイ・リスク、ハイ・リターンで就職先を選ぶ

──大学時代はどんな生活でしたか?

関昌邦-近影2

東京での生活は楽しく、さらに体育会系の基礎スキー部に入ったので、勉強そっちのけでシーズン中は合宿やインストラクターのアルバイト、オフシーズンは次のスキーシーズンの資金稼ぎのアルバイトに明け暮れていました。就職活動時期に入ると、何となく、海外で活躍できるような仕事に就きたいなと考えていましたが、そんな頃、僕の将来を決める1つのきっかけとなる出来事が起こりました。テレビでボクシングの試合をよく観戦していたのですが、ある時からマイク・タイソンの試合を民放で放映しなくなったんです。なぜだろうと思ったら、有料衛星放送のWOWOWの独占放送で、加入しないと観られない。そんな時代に突入した頃でした。WOWOWは当時、日本初の有料放送を行う民放衛星放送局として開局した会社で、まだまだこの先どうなるかわからない会社でしたが、だからこそ魅力的に映りました。それまでの日本ではテレビ視聴は無料が当たり前だったので、テレビを観るのにお金を払う人がどれだけいるか、未知数でした。だからもしかしたらそのまましぼんでしまうかもしれないけれど、ひょっとしたら大きく成長するかもしれない。そうなったとき、今から入り込んでおけば大きなリターンが得られるかもしれない。すでにある程度大きくなっている会社よりも、これからどうなるかわからない会社の方がおもしろそうだ。よし、成長する方に賭けよう! と次世代の通信・放送業界を手掛けているような会社を受けようと思ったんです。

いろいろ調べているうちに、電波新聞というマニアックな業界紙の存在を知り、電波新聞社に通って過去の紙面を閲覧していました。その過程で人工衛星を使った通信・放送ビジネスはWOWOWだけじゃない、人工衛星の運用会社やそこにCNNなどのコンテンツを供給する会社など、いろいろな会社があることが分かりました。でも、何せ人工衛星を使った通信・放送ビジネスは始まったばかりで、苦労して見つけた会社でも新卒募集などしていないケースも多く、さらに私は文系だったので全然お呼びじゃないという感じもありました。それでも当たって砕けろの精神でチャレンジしたのですが、文字通り「当たっては砕け」の連続。やっと面接に辿り着いても落とされる。狭き門なのは分かっていても面接して断られるのを数十回繰り返すと、自分が人間失格な気がしてきてかなり精神的につらかったですね。二流私大でしかも一浪一留。学生時代にはろくに勉強せず、夢だけ描く頭でっかちで半端もんな俺など、人材として社会から必要とされていないという気がして......。

そんな中でもめげずに、三菱グループの宇宙通信という会社に「どうしても御社に入りたいから面接だけでもしてくれませんか」と手紙を出したところ、基本的に文系は採用してないけど面接だけはしてくれる、というので喜び勇んで受けに行きました。でも大学時代はスキー活動ばかり。面接官とまともに話ができないわけですよ。このままでは落ちると思ったので、帰宅後すぐ、緊張して言いたいことをちゃんと伝えられなかったことや、この会社で働きたい理由など思いの丈を手紙に書いて、速達で送りました。

そうしたら人事から連絡が来て、もう一回だけチャンスをいただけることになりました。2次面接では1次面接よりは思っていることを伝えられたのですが、正直手応えは全く感じられなかったですね。面接後30分以上は控室で待機させられたので、待たされるってことはもしかして? と微かな期待をかけましたが、人事の方がようやく現れて一言、「今日はお疲れ様でした。結果は後日」。がっかり肩を落として帰りました。その翌朝、人事から電話がかかってきて「うーん、君については賛否両論いろいろ意見が分かれてね、でも新しい風を入れてみようってことになって、採用することに決定した」と。そりゃあすごくうれしくて飛び上がりましたよ。本当によく採ってくれたなと思いますね。

念願の企業へ就職

──入社後はどのような仕事を?

関昌邦-近影3

企画部に配属され、電気通信事業法や放送法を学び、監督官庁の郵政省(現・総務省)への許認可申請、法整備の陳情、新事業の企画立案などの仕事に従事しました。そのうちデジタル多チャンネル放送を日本で実現するような流れが生まれ、そうやって立ち上げたのが後に「スカイパーフェクTV」、「スカパー!」になる「ディレクTV」です。毎日忙しかったのですが、仕事は刺激的でとてもやりがいがありました。でも企画部で7年働いた後、志願して営業へ異動しました。

──なぜですか?

企画部は郵政省との折衝窓口。衛星通信や衛星放送事業は国の許認可事業だったので、法的に何が許されるか、特に営業部門やシステム開発部門がお客様に新しい通信衛星の利用方法を提案するような時、それが法的に可能か否か、相談されることが多かったんです。いわば会社のブレーン側というような立場だったのですが、そんなポジションに何年もいると、いつのまにか自分が偉そうになっているような気がして、このままの社会経験じゃマズいなと危機感をもつようになったんですね。それで、商売の基本は何かを売ってお客様を得ることであり、営業こそが資本主義社会で生き抜くための一番大切な仕事だと感じていたので、商売の基本を一から学びたいと、実際に異動になる数年前から異動願いを出し続けていたんです。

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営業部での仕事

──営業部では具体的にどのような仕事をしていたのですか?

関昌邦-近影4

事故や事件などが起きている現地の映像を得たいとか、どこから映像を送るかわからないという場合など、地上の光ケーブルや無線での伝送が難しいところでは、人工衛星が有効です。ほしい映像や解析データなどをリアルタイムに得るためには、民間の人工衛星の通信回線を利用しているのです。

その自社保有の通信衛星の通信回線の使用権を中央省庁やその外郭団体などに売り込んでいく仕事をしていました。当時、営業部の中でも官公庁や自治体をターゲットとする部門は、将来計画も含め安定的に大きな収益が見込める部門でした。電気通信事業法に抵触するので今となっても大まかにしか言えませんが、防衛庁(当時)や警察庁の情報網、自治省(当時)は防災のネットワーク、つまり大災害で地上回線が壊滅した時のバックアップ用として通信衛星の回線を利用していました。電源さえ確保できれば音声、画像、映像などのデータが送れます。


──営業の仕事はどうでしたか?

一般的には、配属されたばかりの新人には、既存顧客対応を通して営業の役割の基本を学び、慣れてきたら新規開拓営業にも行く、というのがセオリーだったのではないかと思うんですが、なぜか私だけ新規開拓営業から始めさせられました。他にそんな人はいなかったし、上司は鬼のように厳しかったものですからかなりつらかったですね。

地上の光ケーブルだけでは業務上の問題がありそうな省庁に飛び込み営業しに行くのですが、いきなり行ったってまともに話なんて聞いてもらえないわけですよ。僕の方も専門知識がそれほどないので、行く先々で5秒と話がもたない。資料をもってきましたと挨拶しても相手は「そこに置いといて」と言うだけで目も合わせてくれません。でも毎日通ううちに、徐々にお茶を出してくれるようになったり、少しですが話を聞いてくれるようになり、最終的には契約までこぎつけました。官公庁は数カ年の予算計画に基づいて国民の血税を使うので、予算化から実行までに数年かかる。成約までにかかる時間と準備が膨大ですから、それだけに契約に至ったときのうれしさ、達成感たるや言葉では言い表せませんでしたよ。

被災離島で危機一髪、南米でのロケット打ち上げ

──当時の仕事で特に印象に残っているものは?

関昌邦-近影5

ある島で大規模な噴火が起こった時、その状況を東京で監視するために、自社の通信衛星を使って現地の映像をリアルタイムで某省庁に送ることになりました。それが私が営業部に配属になって初めて取った契約だったんです。

そのためには、現地住民が避難しているさなかに島に渡って、通信衛星にアクセスできる通信機器(地球局)を設置しなければなりません。その設置作業ができるのはエンジニアなのですが、現地には大規模噴火による有毒ガスが大量発生している。通常の商談では、地球局の設置現場はエンジニアに任せ、営業が足を運ぶことはあまりないんです。でもこの案件は命の危険が伴うし、僕が取ってきた仕事でエンジニアだけを危険な現場に送るわけにはいかない。営業マンなんか現地では何の役にも立たないけど、荷物持ちくらいならできる。そんな思いで自衛隊のサポートで、エンジニアと一緒に噴火中の島に渡ったんです。

現場作業に立ち会ってしばらくすると、息が苦しくなって激しく咳き込むこともありました。おかしいなと思って見上げると、山頂付近からガスっぽいものがこちらの方に降りてくるのが見えました。風向きによって濃いガスがフワッとこっちに来た時に呼吸すると咳き込んだりしたんだと思います。そうこうしている間に、自衛隊員のガス警報器のアラームがけたたましく鳴り響きました。自衛隊員から「あと3分以内に機器設置が完了できない場合は、そのままの状態で退避します」と言われ、大急ぎで設置し、無事帰ることができたんです。この時のことはいまだに忘れられませんね(笑)。

宇宙通信時代の関さん。顧客だった防衛庁(当時)主催の海上自衛隊の観艦式にて

宇宙通信時代の関さん。顧客だった防衛庁(当時)主催の海上自衛隊の観艦式にて

また、2000年2月に自社衛星の打ち上げに立ち会う機会に恵まれたのも大きな思い出ですね。民間ロケットは、当時はまだ日本は参入以前で、それこそNASDAで実験最終段階でした。社運をかけたSUPERBIRD B2号機を打ち上げるのは、赤道直下の南米仏領ギアナのクールーという街。自社のエンジニア、経営陣も現地で打上げをサポートする中、私の役割は打上げ予定の通信衛星を利用するユーザーのアテンドでした。打上げ当日、フランス語でのカウントダウン、轟音とともにロケットがリフトオフする瞬間、そして闇の彼方に消えるロケットの炎。このシーンは忘れられません。その後の文字通りの打ち上げ祝賀パーティーも。打ち上げ成功時にはハバナ産の葉巻を吸うのが習わしとのことで、みんなと一緒にくわえながら祝杯をあげました(笑)。ちなみにその時打ち上げた通信衛星は、辛うじてまだ寿命があるのか、運用中だと聞いています。


2000年、ギアナで自社製のロケット打ち上げに立ち会った

他にも忘れられない仕事はたくさんありますが、営業になって4年くらい経った頃、大きな転機が訪れました。

一度あきらめた夢が叶う

関昌邦-近影6

1990年代中頃、NASDAが巨額の税金を投入した国産ロケットの打ち上げに立て続けに失敗したことで、世間から厳しいバッシングを受け、対策を講じる必要に迫られていました。そもそもNASDAなどの国が運営する研究機関は数10年〜100年単位の未来に役に立つ技術を研究・開発することが目的です。こういう事業は、民間企業には不可能な先行投資なので国家の役割として絶対に必要なのですが、あまりにも先の未来のための研究だと巨額の税金を投じる意義が国民には理解されにくい。しかも失敗すれば激しい批判が集中します。かといって、国民にも成果が見えやすい、例えば5年後、10年後に役に立つレベルの研究開発だと、民間の通信衛星事業者に対する民業圧迫になる恐れもある。だからすぐに役立つ、近すぎる未来の研究はできません。

だからNASDAはその中間を取って、国民が理解できなくもない先の未来で、かつ民間企業ではリスクが大きすぎて開発できないくらい先の未来の研究する部隊を新設する。そのために、民間の通信衛星会社でビジネス経験のある人材を集めよう、ということになりました。それでNASDAに飛び込み営業から始まって契約にも漕ぎつけ、しょっちゅうNASDAに出入りしていた私にもお声がけいただき、会社から出向契約という形でエンジニアとしてNASDAで働けることになったんです。当時、文系大卒でエンジニアとして配属される前例がなかったようで、引っ張ってくれた上司は内部交渉で苦労したと言ってました(笑)。


──すごい巡り合わせですね。NASDAに入れた時の気持ちは?

NASDAに入るのは小学生の頃からの夢で、一度はあきらめて文系に行って、なのになぜかかなったわけですから、名刺を手にした時、またIDカードを首から下げた時はもうジーンと来ました。本当になんという巡りあわせかと(笑)。


──確かにそうですよね。最初に入った会社、営業部への異動など、どれか1つでも欠けていたら実現しなかったでしょうからね。でも関さんが置かれた場所でその都度一所懸命努力したり、自分から行動した結果だと思います。NASDAでは具体的にはどういう仕事をしていたのですか?

当時研究開発していた未来型の通信衛星、それを有効活用するためのアプリケーションの開発です。民間の事業用の通信衛星では実現できないような最新の通信機能をどのような暮らしの分野で利活用できるか、実験を通して探っていくという仕事でした。

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防災用のアプリケーションを開発

──具体的にはどんなアプリを手掛けたのですか?

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部門全体では、遠隔教育、遠隔医療、通信衛星を用いたIP通信などさまざまなテーマの研究をしていましたが、私がいくつか担当していた分野の中で最もやりがいがあったのが、災害対応のテーマでした。例えば東日本大震災のような大規模災害発生時、周回軌道衛星(宇宙空間から地上の詳細な写真を撮影できる人工衛星)で撮影すれば、被害状況を全体的に把握できますが、周回軌道衛星は1日に2回しか日本の上空を通過しません。つまり12時間に1回しか回ってこないんです。でも大地震が起こった時、もし撮影できる場所の上空を過ぎた直後だったら、次は12時間待つしかなくなり、全体の被害状況は把握できません。地上が壊滅していたら車は役に立たないし、ヘリは燃料や高度の限界から全部を把握しようとしたら数週間から数カ月かかってしまいます。

そこで、広範囲を数時間で撮影できるジェット機ならどうかと。平常時に地上の画像を撮影しておけば、災害発生時、どこが被災しているかも差分データで解析できます。しかし当時、ジェット機から映像をリアルタイムで地上の災害対策本部に送るようなシステムは存在していなかったので、そのシステムを研究開発しようということになりました。高解像のデータをリアルタイムで得るためには静止軌道上の通信衛星を使うしかない。しかし、飛行機に搭載したパラボラアンテナは飛行機がどう飛ぼうとも常に通信衛星を向いていなければならない。なので、アンテナが通信衛星を常に追尾するようなジャイロの開発と実験、飛行時の空気抵抗を考慮したカバーの検証など、さまざまなことに挑戦しました。

これまで誰もやったことのない画期的な研究開発だったので、内閣府、防衛庁、警察庁、消防庁など防災関連機関に飛び込み営業をかけて共同実験を呼びかけ、国家の防災の最大イベント、9月1日・防災の日にその実験が実現しました。


──すごくエキサイティングな仕事ですね。

NASDAの私のチームのメンバーはもちろん、協力してくれるメーカーや政府関係者など、いろんな人と一緒になって同じベクトルで突き進む、新しいことにチャレンジするというのはわくわくしてすごく楽しかったですね。みんなの目も輝いていました。でも最初からそうではなかったんですよ。研究開発には莫大なお金がかかりますが、最初は協力メーカーも「やろうと思えばやれなくもないけど、そんなに急がなくても年間予算の範囲内で何年もかけてゆっくりやればいいじゃないか」という、いわゆるお役所仕事的な感じでした。

でも、そんな時、「いや、僕みたいな民間人がNASDAの研究開発に関わっているんだから、従来とは全然違うペースで毎年バンバンおもしろい成果を出して世の中をあっと言わせましょうよ」と説得しながら接するうちに、「どうせやるなら凄いことやろう、できる」という空気が関係者に生まれ、中には利益度外視でもここまで形にしたい、なんて前のめりなメーカーも出てきたりして、どんどん盛り上がっていったんです。そうなってからの空気は熱く、あの輪の中にいた感覚は今でも私の宝物。本当に素晴らしいものでした。

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結局NASDAに出向して3年ほどで退職し、実家に戻ることになったわけですが、この、機運が高まった時に集まる人のパワーというか、同じ目標に向かってみんなのやる気のベクトルが一致した時のエネルギーのすごさ、それを感じられたことは、その後の苦難や難しいプロジェクトに関わる中で、挫けない気持ちを維持できる拠り所になっていると思いますし、今の仕事にもとても生きています。会津漆器の新しいブランドのいくつかのプロジェクトを進めてこられたのも、この時の成功体験が心の支えになってくれていたのだと思います。

夢の仕事を辞め、家業を継いだ理由

──夢だったNASDAに入って充実した毎日を送っていたのに、退職して家業を継ごうと決意したのはなぜですか?

私が32歳の時、父が病に倒れたんです。私は次男だし、実家の会社を継ぐなど考えたこともなかったのですが、丁度その頃、兄が家業を継がないと宣言しました。そんな状況の中、弱っている父の枕元で、35歳になったら会津に戻って俺が家業を継ぐよ、とつい囁いてしまっていた自分がいたんです。それから間もなく、NASDAから新組織立ち上げの話があり、そのメンバーとしてのお誘いを受けることになりました。正直、困りました。会津に戻るのは数年先のことかもしれないけれど、父の様態が優れない状況の当時は、このNASDAからのオファーを受けるべきか否か、かなり悩み、迷いました。でも近しい先輩に相談したところ、将来は不確実、今の自分が後悔しない選択をすべきじゃないか、というアドバイスがあり、NASDA行きを決意できたのでした。そして、充実した期間の後、35歳がやってきたのです。


──やはりNASDAを辞める時、葛藤はありましたか?

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そもそも田舎が嫌で会津から飛び出して、どう転んだか一度はあきらめた子どもの頃の夢がかなってNASDAで働けるようになって、しかも仕事もものすごくおもしろくてやりがいがあったわけですから、まったく迷わなかったといえば嘘になりますね。35歳が近付くにつれ、迷いは再燃しましたが、NASDAでの仕事がそうやって周りの関係者に支えられて充実していたからこそ、逆に吹っ切れて、辞めて関美工堂に戻る覚悟を決められたのかもしれませんね。それに、兄が家業を継がず、妹は嫁に行き、そんな状況の中で、やはり父や母の老後の面倒をみたいという思いはかなり強かったです。それから、子どもの頃、工場の隣に住んでいたので、工場が遊び場で社員にもよく遊んでもらっていました。当時はすごくいい時代で全国から表彰記念品の注文が殺到し、会社は人と活気であふれていたのですが、時代の移り変わりとともに経営もジリジリ下がって、会社がどんどん疲弊していく姿を遠くから見ているのもつらかった。だから自分の手で会社を立て直したいと思っていました。父は帰ってこいなんて言わない人ですから、そういう状況の中で帰るのを決断したのはあくまでも私の意志です。

会社を辞める時、出向元の本社の仲間はもちろんですが、NASDAの僕のチームに関わってくれていた研究者の先生や、メーカーの技術者たちがすごく惜しんでくれて、盛大に送り出してくれました。本当にありがたく、いい仲間と仕事ができて自分は幸せだと心底感じましたね。


──実家に帰るにあたって、厳しい状況の会社を立て直せるという自信はありましたか?

もちろんです。これまでの自分の経験・能力・実績からすればできないはずがないと自信満々でした。ところが、実際に会社に入ってみると父から聞いていた経営状況とはだいぶ違う点も多々ありまして(苦笑)。この会社を立て直すのはかなりたいへんだぞと改めて気を引き締め直しました。

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経営改革

──具体的にはどのような立て直し策を?

関昌邦-近影10

まずは本社の改革を行いました。会社の経営がずっとジリジリ下がっている大きな理由の1つは若手不足だと感じていました。当時社内には50歳前後の社員しかいなかったので、あと10年もしたら社員は誰もいなくなってしまう。しかも彼らはパソコンが使えないし、仕事のノウハウは彼らの頭の中にしかなくマニュアル化されていないから、技術の継承が不可能。このままでは本当にやばいと思うくらい厳しい状況でした。そこで、まずパソコンを導入して社内のIT化を図るというところから始めました。それと社内の若返り化を図るため、若手を採用したかったのですが、その資金がなかったので経費削減を徹底して行いました。それでも限界はあったので、最終的にはリストラにも手を付けざるをえませんでした。

父に相談したら1人ひとりと面談してお前の口から解雇を言い渡せと。それは私にとってあまりにも酷なことでした。小さい頃から工場は僕の遊び場で、社員たちは私を膝に乗っけて弁当を食べさせてくれたり、次の社長はまーちゃんだなと言ってすごくかわいがってくれていましたから。そんな人の肩を私自身が叩かないといけないというのは......。子どもの頃、特に大好きだった人に「すいません、○○さん」と声を掛けだけで、「わかってるよ、まーちゃん」と......胸が張り裂けるようなつらい応答でした。

でも、それを断行したことで、今当社を支えてくれている若い人の多くを採用することができました。私が入社した時は35人いた社員も現在は16人で、その内私が会社に入った時から残ってくれている男性社員は祖父の代から3代勤めてくれている2人。女性は4名。他は私が採用した人たちです。

ショップも改革

──他にはどんな改革を?

関昌邦-近影11

今、セレクトショップになっている会津若松の「美工堂」は、以前は楯やカップ、トロフィーなどの表彰記念品のギフトショップだったんです。お客さんも全然来ないし、たまに来てもすぐ出るような感じでした。なので、入社4年目に店の経営改革にも着手。世界中から取り寄せたデザイン性にすぐれ、ネット上でも価格競争に陥っていないブランディングがしっかりしている付加価値の高い商品、いわゆる北欧デザインなどを中心にしたセレクトショップにリニューアルしました。当時は東北地域、仙台にすらそういうセレクトショップがあまりない時代だったので、お客様の数もかなり増え、2、3時間もずっと店内で商品を見ているという人すら出てきました。それだけ楽しんでくれているということなのでうれしかったですね。

売上げも毎年3~5割の割合で伸び続けたので、私の店舗改革の方向性は間違っていないと確信していましたね。ショップを改革してほどなくBITOWAの販売も始まり、後にNODATEなども加わるようになってきました。漆の芸術祭でもアーティストの展示拠点として盛り上がり、内外の多くの方々に支えていただけるようなお店になっていきました。

そして、セレクトショップの運営11年目に入った今年(2016年)の5月にまたお店の舵を大きく切り直しました。今は、北欧デザインとか「都内のセレクトショップのような品揃え」から脱皮して、「会津というこの土地だからこそ存在しえるローカルの価値を素敵に発信することに重点を置くスタイル」にシフトしたばかりです。以前とはまた違った層にお客さまが拡大し、いい方向に進んでいると思っています。


美工堂外観
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美工堂外観

1階では会津で生まれた数々の逸品が販売されている
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1階では会津で生まれた数々の逸品が販売されている

1階で販売されている、関さんが手掛けた会津漆器の数々(左はノダテマグ、右はiPhoneケース)

2階には北欧デザインなどを中心にしたデザイングッズが

2階には北欧デザインなどを中心にしたデザイングッズが

ショップの隣には本物の蔵を改築した「Gallery蔵舗」がある。現代日本人の心と技が生み出した「普段使いに適う少し上質なモノ」を、地元会津を始め、東京、京都など様々な産地からセレクトして販売している。2階はギャラリーとして開放し、文化的な催事、企画展などにも利用されている。これも関さんが実践した改革の1つ

ショップの隣には本物の蔵を改築した「Gallery蔵舗」がある。現代日本人の心と技が生み出した「普段使いに適う少し上質なモノ」を、地元会津を始め、東京、京都など様々な産地からセレクトして販売している。2階はギャラリーとして開放し、文化的な催事、企画展などにも利用されている。これも関さんが実践した改革の1つ

働くということ

──関さんにとって働くということはどういうことでしょうか。

まずは生きていくための糧(お金)を得るものですよね。会社に勤めていた時代とちょっと違う点は「働くこと=生きること」になってきていること。会社員だった頃は、ライフワークという言葉を「趣味的なイメージ」と捉えてましたけど、今は、ライフワークが仕事で人生そのものになってきています。職人さんたちと新しい物を作ることは楽しいですよ。そして、この地域の人たちに幸せになってもらうために働きたいです。会津があってこその当社だし、当社があることで地域のおもしろさが増す、会津が潤う、というような関係になりたいと思っています。


──今後の夢や目標があれば教えてください。

関昌邦-近影15

会津で商売をさせてもらっている経営者としては、地域の中で少しでもハッピーな人を増やしたいというのが一番大きな目標ですね。まずはもっと経営状態をよくして従業員たちや関わってくれている職人さんたちにハッピーだと感じてもらいたい。それはもちろん金銭的な意味だけじゃなくて仕事の中身、やりがい的な意味においてもです。今、当社は本当に多くの人たちに支えてもらっていると感じています。町の人たちと一緒に取り組んでいる活動も多く、そこで生まれる人のつながりがすごくおもしろいんです。

衰退してきた会津の漆文化を改めて盛り上げて復活させて、会津という価値そのものを国内外にしっかり売り込むことが私たちの世代の使命だと思っているので、そのために頑張りたいです。いまだ力不足ですが、いずれは会津でノダテマグの新作発表会を開催して、東京を始め全国の取り引き先に会津に集まってもらい、職人の工房や会津の街を巡り、こういう場所からノダテマグが生まれているということを体感してもらう。その上でそれぞれの売り場に帰ってお客様に伝えていただきたい。自分たちが作った製品をただ売ればいいというだけではなく、製品から生まれてくる幸せ感をお客様に知ってもらえれば、会津へ行ってみようと思うかもしれません。実際にノダテマグのファンで毎年会津に足を運んでくれている人もいるんですよ。製品がきっかけでこの地を好きになる、知り合った人がきっかけでその製品を好きになる、製品と人と地域性が深くつながって相乗効果で会津の魅力を感じてくれる、そういう人をもっと増やしたいと思っています。

関昌邦-近影16

会津といえば戊辰戦争、白虎隊で有名ですが、教育という意味でも昔からとても熱心な土地柄です。江戸時代、日新館という学校で教えられていた「什(じゅう)の掟」は今でも息づいていて、街にいる幼稚園児ですら、会津の教えとは何かと聞けば、「ならぬことはならぬ」と返せるほどです。武士道の精神がいまだに受け継がれ続けているんですね。このような精神文化は他の地域ではなかなか感じられないかもしれません。外から来た人にも独特な雰囲気だとよく言われます。ここには今の日本人が忘れかけている大事なものが眠っている気がします。この独特の空気は、会津に来て地元の人たちと会話をすれば、必ず感じられると思いますよ。

今後も会津ローカルなコト・モノをどんどん発信して、1人でも多くの人たちにこの地を訪れてほしいですね。うちの店には他にはない「今の会津」の選りすぐりがずらっと並んでいます。会津にお越しの際は、ぜひお立ち寄りいただけたらうれしいです

インタビュー前編はこちら

宇宙産業から伝統産業の世界へUターン[前編]

世界で初めて楯を商品化

──関さんが代表を務める関美工堂とはどのような会社なのでしょうか。

関昌邦-近影1

そもそもは1946年、祖父が会津で創業した、全国の競技会、発表会、審査会などで成績優秀者に授与される表彰記念品(楯、トロフィー、カップ、メダルなど)の企画、製造、販売を行う会社です。祖父は非常にクリエイティブな人で、終戦後すぐ会社を立ち上げ、会津の伝統的な漆塗りの技術を使って戦前まで勤めていた表彰記念品業界に役立ちたいと考え、木の板に漆を塗って蒔絵で鷲や兜の絵を描いた「楯」を考案しました。現在は表彰記念品として楯が贈られるのは当たり前ですが、当時はメダルやカップしかない時代。祖父は世界で初めて、楯を表彰記念品として商品化したわけです。以降、「楯といえば関美工堂」という評判が広まり、全国から注文が殺到しました。現在では表彰記念品に加え、一般漆製品、インテリア小物、内装装飾サイン、また各種ノベルティ、セールスプロモーショングッズなど特注・別注品の企画製作も手掛けています。また、それらを販売するショップも運営していています。

事業所としては、会津若松に本社・工場と販売店があり、郡山市や福島市に営業所があります。販売店の方は長年ギフト専門店として営んできましたが、11年前に「b Prese」という看板に衣替えし、当時東北ではあまり売られていなかった商材をそろえ、ライフスタイルショップとして運営してきました。「普段使いに適う少し上質なモノ」というキーワードで、北欧デザインを中心に価格競争に陥っていない付加価値の高い品ぞろえを心がけてきました。10周年を機に、都市部にあるセレクトショップのような品ぞろえではなく、会津という地域性にフォーカスした運営にシフトし、店名も「美工堂」と改名。ありきたりではないうちならではの哲学で生み出す会津塗や、未来を見据えて新しい展開をしている会津木綿や刺子織など地域内の高付加価値商品、また福島に限らず京都など国内ローカルからも現代日本人の心と技が生み出したアイテムを厳選して販売しています。

会津の伝統工芸品や北欧のデザインアイテムなどを販売しているセレクトショップ「美工堂」

会津の伝統工芸品や北欧のデザインアイテムなどを販売しているセレクトショップ「美工堂」

──かなり幅広く事業を展開されていますね。現在の主力商品は?

現在でも当社の生産・売り上げの中心は表彰記念品であるということには変わりはありません。しかし、昭和50年代前半頃にはどんなに生産しても間に合わないほどの繁盛ぶりだったようですが、その後は価格競争の波に飲まれ、またガラスやアクリルなど透明なものが表彰記念品の主流になるなど、塗り楯のニーズは減少し、苦しい状況が続いていました。従業員も昭和50年代の最盛期には100人ほどいたのが、その後どんどん減少。私がこの関美工堂に入社したのは2003年なのですが、その時には35人ほどになっていました。組織の年齢構成も男性は特に50歳前後に集中し、10年経ったら誰もいなくなりノウハウごと失われるような状態でした。それでこのままではまずいと経営の立て直しに着手したんです。

しかし、それまでは東京で、今の仕事とは全く関係のない、通信衛星や放送衛星などを活用する宇宙産業界で働いていたんです。高校卒業後35歳まで都内生活でしたので、表彰記念品、会津塗やこの地域の知識も情報も乏しく、一から学んで新たな人生を歩み始めた感じでしたね。

新しい取り組み

──具体的にはどのようにして会社を立て直していったのですか?

関昌邦-近影4

電話とFAXと足だけで稼ぐ従来型の営業手法に、インターネット環境を整備し、PCを導入するところから始めました。話し合いを重ねて導入したPCも配置後半年は眠っているような状況でしたね。そして組織の組み替え、50歳前後しかいない男性の人員構成の若返り、収益性の悪い事業からの撤退など、さまざまな手を打ってきましたが、終わりなき社内改革は今も続いています。

そんな中、入社後今に至る中で、自分の中での一番大きい意識改革につながったのは、会津漆器協同組合の若手が集う青年部が発端となって始まった、新しい会津塗の製品開発などの取組みに中心的に関わることができたことです。従来品の売上げが右肩下がりで苦しい中、経営を支える新しい軸となる商品を開発しなければならないと思っていましたし、当社の創業の原点である木と漆を使って、職人が手仕事で作る商品、お客様が普段の暮らしの中に取り入れてくれそうなアイテムを作りたい、と思いはじめていました。ただ漆塗りの製品というだけでなく、これからはよりデザイン性が重視されるので、当社の販売店でも扱っている北欧の製品と並べても引けを取らないデザイン性に優れたものを作ろうと思いました。そういう漆器を作ることで地域ぐるみで漆器業界を盛り上げたかったんです。

当社主力商品の表彰記念品の市場は、製造元の当社の先に、都市部のメーカー、仲卸、販売店(スポーツ店や事務機店など)があり、そこを経由して大会本部が購入し、そして貰い手に授けられる。流通に多くのフィルターが介在していて市場のニーズも不満も拾い難い上、さらに一番のネックが、表彰品は受賞者が大会本部から一方的に授与されるものであり、本人が選べるものではないということ。手にして喜んでくれているものなのかとても分かり難い。作り手と貰い手の間に物理的にも精神的にも隔たりがありすぎるのが製造元にとって最もつらいところです。そこで、お客様の生の声をダイレクトに商品の色や形に反映しやすい生活用品を作りたいという思いもあったのです。

BITOWA誕生

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そして、会社に入って1年目には、漆器組合青年部のデザイン開発プロジェクトの立ち上げに関わり、その2年後に経産省中小企業庁のジャパンブランド育成支援事業に応募しました。すると審査に通り、国から数千万円の予算が下りた。業界としてもこれだけ大規模な予算獲得は史上初めてだったので、これまでにない新しい漆器の創造を目指して開発に乗り出しました。商品プロデュースとデザインは国内外で活躍している一線級のプロデューサーとデザイナーに依頼し、製作は当社含め会津の漆器店十数社で担当。そうして2006年に生まれたのが「BITOWA」というブランドです。BITOWAの名称には、「美とは?」と「美と和」の2つの意味が込められています。

BITOWAのコンセプトは、「ホテルライクで上質な空間の提案」。完成した製品は色も形も美しく、すごく好評で、パリの国際展示会を皮切りに、内外の展示会で大勢の人に気に入ってもらえました。ホテルなどの大型施設に商品を供給することになったりと、いい流れも生まれました。しかし、パンフレットには「会津塗りの特徴である堅牢性、装飾性に加えて、使いやすさや美しさを兼ね備えたこれまでにない新しい漆器です」としながらも、製品のほとんどは工業的な作り方、つまりプラスチック製の素地あるいは木製素地にウレタン塗装を施し、価格的に売りやすい商品構成になっていました。

会津塗の業界は、400年以上継承されてきた手仕事の漆製品と、漆でなくカシューやウレタンなどを用いて工業的に発展してきた製品との両輪で支えられています。デザイナーが求める色や、製造や販売のしやすさからすると、BITOWAは漆にこだわる必要もない、というのが関係各社の大半の意見でしたし、私もプロダクトデザインこそが会津塗の新しい扉を拓く第一の鍵と考えていましたので、販売実績を伸ばして会津塗業界を元気にすることがBITOWAの重要な役割だと認識していました。

しかし、事業開始当初から意識していた「本物志向」を志したい思いとの狭間で常に葛藤もありました。そもそも工業的なものはこれまでの各社の数十年の経営の中で、市場規模としては会津塗出荷額の大半を占めるだけの市場を形成してきました。一方で、昔から続く本来の漆塗り製品はどんどん需要が縮小し続けています。BITOWAの商品開発や販売に関わる中、会津塗の原点であり、そして失われつつある漆の手仕事の世界を新しく拓くことこそが、本来目指さねばならぬ方向なのではないか、との思いがどんどん強まっていったのです。

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大きな転機となった「会津 漆の芸術祭」

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そんな時、大きな転機となったイベントがありました。2010年に福島県主催で開催された「会津 漆の芸術祭」です。福島県立博物館の学芸員が中心になって、初開催のイベントの成功に向け、膨大な業務をこなして準備を進めていました。当時、会津漆器協同組合は、芸術祭の運営協議会には名を連ねているものの具体的な運営には特に関与しない方針のようでした。会津漆器は産業でビジネス。いきなりアートといわれても作家活動をしている職人は別として、どのように組合組織を機能させればいいのか困惑もあったのかもしれません。そんな状況の中、会津漆器協同組合から我が青年部に対して、芸術祭の趣旨説明と興味があれば何かアクションを起こしてみてはどうか、とお誘いをいただく機会がありました。「漆」が冠についているアートフェスティバルは、国内初、つまり世界初。そこで、せっかく福島県が漆をアピールするために従来の枠組みとは異なる切り口で地域を盛り上げるための新しい土俵を作ってくれているのだから、青年部だけでも漆器業界として積極的に動いてみよう、アートなんかわからなくてもいいからとにかく何かやろう、と漆器組合青年部の仲間に呼びかけ、特別委員会を組織して、漆の芸術祭チームを作って動き始めたんです。

青年部員みんなでさまざまなアイディアを出し合い、一般参加型の漆壁画の製作を企画しました。従来は小学校での蒔絵教室など一般参加型イベントの際には、時間の制限やかぶれの心配などから漆を使わず、ウレタンなどの合成塗料を使用するのが通例。しかしこの芸術祭ではあえて漆を使用してみないかと提案しました。最初は参加者の漆かぶれのリスクを懸念する意見もありましたが、できない理由を並べるんじゃなくて、リスクを回避する手立てを尽くそうよと説得しました。


──実際にやってみていかがでしたか?

この時の壁画はまだうちの店の駐車場に残っていますが、6年の時を重ねた風合いがまた学びにもなっています。とにかくこの芸術祭を通したさまざまな経験はとても素敵でした。中でも、商売や儲けとは全く違ったアートという視点で取り組む中、県立博物館の芸術祭をサポートするために、ボランティア参加してくれる漆ラブな町の人たちとの接点が生まれたことは有意義でした。また町全体がアート会場になったことで、町のみんなの間に新しい協力関係ができたり、販売目的の事業ではなかなか経験できない、利害関係のない地域コミュニティの和、みたいなものに触れることができ、参加できて本当によかったと思いましたね。

そして1つ大きな気付きとなったのは、実は市内に散在する漆器店のほとんどは、マーケティングが観光客向け、旅の思い出に買って貰うことを最大目的にした品ぞろえと店構えになっているお店が多いということ。つまり町の生活者の普段使いの暮らしの中で地元の人たちに愛されるような会津漆器を作ったり売ったりしようという意識はあまりなさそうだ、ということ。もちろん、我々が新しい視点で作っていたBITOWAにしてもその点では同じだったと思います。新聞にはパリで行ったBITOWAの展示会が大成功だったと大きく載っているけれど、地元の人たちの日々の暮らしの中で楽しんで使って貰えている事例はあまり聞かない。需要の多くはプレゼント用でしたし、そもそも製作に関わっている自分たちすら暮らしの中に取り入れているアイテムが少ないという現実。今まで数年間、BITOWAでやってきたことはなんだったんだろうと......。この気付きは大きな衝撃でした。

芸術祭に関わったおかげで、地元の人たちに愛され、使ってもらえる会津塗とはどんなものなのかということに考えを巡らせる機会が生まれましたが、丁度、その頃と前後して、アウトドアで気兼ねなく使ってもらえるような漆器ブランド「NODATE」の試作を繰り返していて、第1回の芸術祭の翌1月、NODATEの製品発表を都内のギフトショーで行いました。芸術祭で感じたこの思いは、このNODATEの誕生から発展の中で大切な核になっていったと思います。

アウトドア用の漆器ブランド

──NODATEとはどのようなブランドなのですか?

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NODATEとは「漆のある暮らし・遊び」をコンセプトに新しく生まれた、アウトドア用の漆器ブランド。NODATE=野点(のだて)です。野点とは外での茶会のことで、ブランド名に織り込みました。その第1号として2011年1月にリリースしたのが、ノダテマグ。木製の漆塗りのマグカップです。その後、大小のサイズ展開や皿類、お重、そして折畳みできる超軽量の卓袱台など、お客様のニーズに支えられ、アウトドアで使うための漆製品群がこの5年でどんどん拡充してきました。

──NODATEが生まれたそもそものきっかけは?

私はキャンプやフェスが好きでプライベートでも家族で参加していたのですが、アウトドア用品として売られているアルミ製やプラスチック製のカップや器が味気ないと常々思っていたんです。自然の中に行ったら自然の恵みを道具として用いたい、という単純な思いです。かといって陶磁器だと重いし壊れる心配があり、アウトドア利用には向きません。そこで漆器で作ったらどうだろうと。木は軽くて丈夫だし、熱を通さないから中に熱いものを入れても取っ手がいらない。だからまずは木製のマグカップを作ることにしたんです。つまり自分が使いたいものがないから自分で作ろうというところから出発してるんですよ。

実は構想段階では木製のアウトドアグッズということだけ決まっていて、漆にこだわっていたわけじゃないんです。でも漆の芸術祭の経験で漆じゃなきゃ意味がない、地域のものづくりコミュニティや歴史としっかりリンクした製品を作らないといけないと強く思ったのが「NODATEは漆にこだわろう」と意識したベースなんです。

ノダテシリーズ

NODATEシリーズ

──NODATEの評価は?

ノダテマグは2010年に開発して、2011年1月のバイヤー向けの商談会であるギフトショーで初めて世の中にデビューさせたのですが、想定以上に高評価をいただけました。特に洗練されたインテリアの月刊誌『ELLE DÉCOR(エルデコ)』の目に止まって掲載されたのはすごくうれしかったし驚きました。自社セレクトショップのお手本にしてきたあこがれの雑誌でしたから。それが雑誌に掲載された第1号で、以降、さまざまな雑誌で紹介されました。最初は『サライ』や『BE-PAL(ビーパル)』などアウトドアやネイチャー系でも読者の年齢が高めの雑誌でしたが、徐々に『mono magazine(モノ・マガジン)』や『BRUTUS(ブルータス)』に、そしてアウトドア系ファッション雑誌の王道、『GO OUT(ゴーアウト)』や『ランドネ』などにも掲載されるようになりました。もともとの商品開発ターゲットがファッション好きの青年・女子を想定した商品だったので、このメディア掲載の波はとてもうれしかったですね。

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こんな素敵なうねりが生まれた背景として、アウトドア業界で有名なスタイリストやコーディネーターの方々がノダテマグを見つけて、購入して愛用し、いつの間にか雑誌にさらりと手にして登場してくれたりしていて、その影響はかなり大きかったと思っています。そして、メディア掲載の影響は、多くの方の認知度を高めてくれたので、取扱い店舗の拡大や、アウトドアイベントでの販売拡大に大きくつながりました。

リリースから5年、地元や国内、そして海外の多くの方に支持していただいて、アウトドアといってもピクニックやキャンプだけでなく、古来日本で楽しまれてきた花見などの需要も含め、さまざまな場で楽しんでいただけるブランドとして商品群も充実してきました。

NODATEは、BITOWAの商品開発や海外展示会での経験、漆の芸術祭での気付きなどがあったからこそ、そのブランド方向性が明確に定まり、多くの方々に支えていただけるようになりました。そして今度はNODATEの経験が、逆にBITOWAの新たな商品展開にフィーバックされたり、当社オリジナルで屋内需要に向けて2015年10月にリリースした漆器ブランド「urushiol(ウルシオール)」に受け継がれたりしています。当社が関わる会津塗のアタラシイカタチは、会津の伝統産業である天然の木と漆の素材と刻まれた歴史を活かしながら、今の時代や地域との関係性を深めながらじりじり広がってきていると感じています。


関美工堂の主な受賞歴

  • 日本ロハス大賞2016ノミネート(NODATE tanagocoro)
  • J-Wave デザインアワード2015ノミネート(NODATE Chabu)
  • 経産省The wonder 500 2015・2016年 選出(BITOWA、NODATE)
  • 現代茶湯アワード弐〇壱参 特別賞「利休にたずねよ」賞(NODATE One)
  • グッドデザイン賞2012(しぶいち漆グラス)
  • 国土交通省観光庁 魅力ある日本のおみやげコンテスト2012 シンガポール賞(漆塗りiPhoneカバーcavre)
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会社を支えた新ブランド

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──BITOWAやNODATEなどの新商品の開発で経営状況はよくなりましたか?

ノダテマグなど新しい商品は、市場を拡大していますが、表彰記念品など従来の主力商品の需要減を盛り返せるところまでは至っていません。人気がある商品群ですが、特に手仕事にこだわる製品ゆえに生産量に限界があり、従来の主力商品とは生産・販売規模が違いますからね。実は、ノダテマグをリリースした2ヶ月後、東日本大震災が起こって、その時に従来商品の売り上げがドンと落ちて以降、なかなか回復ができていません。でもこれらの新しい製品を開発したからまだこの程度の状況で救われていると思っています。もしノダテシリーズがなかったら今、当社は存在していなかったかもしれません。それだけ震災のダメージは大きかったし、希望の光としてのNODATEの貢献度は大きかったと思います。今はBITOWA、NODATE、urushiolなどの各ブランドが、共通の価値をベースにいい感じでリンクし、収益を上げられる環境が整ってきていると感じています。苦しい状況はまだまだ続きますが、悲観はしていません。現状の職人の環境からすると、丸物木地師が作るノダテマグだけなら月産300個程度が限界ですが、板物木地師が作るプレート類、お箸、卓袱台や重箱が加わると複合的にはビジネス規模が広げられる可能性はありますから。

会津漆器の製作システム

──NODATEやBITOWAはどのようにして作っているのですか?

会津漆器の世界は完全分業制なんです。まずどういう製品を作るかという企画、デザインが決まると、木地づくり→漆塗り→蒔絵描きという工程をたどります。その工程ごとに木地師(丸物・板物)、塗師(丸物・板物)、蒔絵師(手描き・スクリーン印刷)という職人がいて、それぞれに依頼して作ってもらっています。

──つまり、製作に関しては、自社で一貫して行うのではなく、それぞれの工程専門の職人さんに発注して作っているということですね。関さんの役割は?

商品企画、デザインから関わり、それぞれの職人さんをコーディネートしながらイメージ通りの完成形にまでもっていく、いわばプロデューサー的な役割ですね。職人にもさまざまな個性があります、うまさ、速さ、丁寧さ、経験、技術に長けた方もそうでない方もいるでしょうし、性格もさまざま。仕事の対価にも差があります。クライアントから求められる仕事の質によってそれぞれの個性をコーディネートし、クライアントが満足する製品に仕上げる、それが関美工堂の役割なんです。

関さんと会津漆器を作る職人たち。詳しい製作工程は会津漆器協同組合の「会津漆器のできるまで」を参照

──仕事のやりがいはどういう時に感じますか?

会津塗というか漆器そのものが日本の暮らしから消えかけている中、当社の新しい切り口の製品が、漆とは縁などなさそうなスタイルのお客さまに愛用していただいているのを目の当たりにした時はとてもうれしいですね。スケボーとノダテマグを一緒にもっている、みたいな。また、立山の山頂で野点をして写真を送ってきてくださった方にも涙が出るほどうれしいと感じましたよ。日々の暮らしの中で、直接いつも持ち歩いているとか使っているとか言われたり、キャンプ場で使っている人を見かけたり、ブログで紹介していただいているのを見つけたり、市場の反応をダイレクトに感じられると、やりがいを感じますね。

日々の働き方

──日々の働き方について教えてください。

本社勤務の社員は土日は休みですが、セレクトショップ「美工堂」は年末年始以外営業しています。だから経営者で両方を見ている私や妻は、立場上、休みはあってないようなものですね。日頃は社内で打合せたり、業界関係者と打合せたり、外で商談したり、職人さんのところを回ったり、東京など各地に出張したり、展示会に行ったりしているので、基本的に決まった休みはありません。気がついたら10日や2週間、ずっと働いているなんてこともしょっちゅうです。仕事と人生が完全に重なっているという感じですね。

京都産業大学の先生が「東京で仕事をしていると、仕事と人生を分けたがるけれど、ローカルで仕事をしていると、仕事=人生の公私混在が多い」というようなことを言っていました。例えば農業をしている人たちには東京の感覚でいうところのオンもオフもない。生きるということと働くということがイコールなんですね。この話を聞いた時、私も今の生き方はそうかなと。東京で宇宙の仕事をしている時は、意識的に仕事とプライベートを切り分けようとしていたように思えますが、この地域の中で職人たちと交渉しながら新しいものを生み出す仕事をするようになって、オンやオフなんてあまり意識しなくなったということに気づいたんです。経営者だからというよりは、仕事の内容がそうなのだと思いますが、生きるということと働くということがイコールになってきている気がします。いい意味でも悪い意味でも仕事とプライベートの境目はないようなものかもしれません。妻もこの会社で働いていますし。


──そういう生き方でもストレスはないのですか?

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東京で仕事していた時も、仕事の中にストレスと喜び・楽しみが混在し、プライベートの中にも同様にストレスと喜び・楽しみが混在していました。今は、仕事とプライベートが混在している中に、同様にストレスと喜び・楽しみが混在している、という感じですかね。結局ストレスの質や量がどうなのかであって、公私混在が新たなストレスを生んでいるかもしれないけど、逆にそれが新たな喜び・楽しみも生んでいたりするし。ただ勤めていた時代と会社経営とでは、ストレスの質は違っていたりしますね。今の仕事は、少なからず地球や地域とリンクして生きていると実感できるし、大地を感じられる人間らしい環境で、未来のために働いているという喜びがあるので、いろんなストレスをひっくるめて、楽しんでいます。


──奥さんの役割は?

普段はマネージャーとしてセレクトショップで働いています。東京の展示会出展や、キャンプイベント、バイヤーとしての展示会出張など、一緒に動くことが多いです。また会社やお店の方向性を決める時も一緒にディスカッションをよくしているので、私の精神的礎です。妻は結婚する前は温泉旅館の若女将をしていましたが、もともと漆が大好き。会津文化を発信する仕事という意味では、旅館業も漆器業も共通性を感じているのではないでしょうか。NODATEのブランドネームは彼女の発案ですし、セレクトショップをローカル発信拠点にシフトしようというのも彼女のアイディアです。当社の新しいブランディング展開は妻が中心に行っているといえます。そして互いのアイディアが相乗効果になってさらにおもしろいものを生み出してきたように感じています。

奥さんの千尋さんと。バックの書も千尋さんの作品

奥さんの千尋さんと。バックの書も千尋さんの作品

──夫婦で同じ会社で働くということに関してはいかがですか?

メリットとデメリットの両方がありますね。メリットとして一番大きいのが、私では思いつかないいろいろなアイディアを出してくれるので、新しい取り組みが可能になっている点ですね。これまでも妻がいなかったらできなかったという取り組みが、商売の面でも社会活動の面でもたくさんあります。デメリットとしては、かなり厳しいこともビシバシ言われるということですかね。仕事がケンカの原因にもなりがちですし。でも会社のいい方向を見出したいという強い思いからの厳しさでもありますから、裏を返せばメリットなのでしょうね(笑)。

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「三方よし」を大事に

──企業理念、経営者としてのポリシーを教えてください。

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創業時から一貫している、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」の概念を特に最近、意識しています。経営者の使命としては、会社を上手に経営して利益を出すというのが大前提としてあるのですが、結局自社だけが儲かっても長続きしないですよね。ですので、取り引き先含め、みんなが幸せになる商売をすることで、地域の中で愛され、必要とされ、存在自体が喜ばれるような会社でありたい。規模拡大よりも、この地域の人たちにお金が循環するというか、ハッピーだと思ってもらえるような経済状態を作りたい。多くの人から関美工堂のおかげでこんな楽しい仕事、おもしろい仕事、難しい仕事ができているとか、人生が楽しくなると言われるような、地域の中でかけがえのない企業を目指したいと思っています。


──地域に愛される会社とは具体的にはどういう会社ですか?

そこにあるのが当たり前で、なくなったら困るという空気のような会社ですね。それは経済的な面だけではなくて、文化的活動など、その地域の将来のために貢献できる会社、ここでビジネスをする意義を地域の人々に認めてもらい、精神的にも必要とされるような会社でありたいと思っています。

会社の経済的規模の拡大には全く興味はないです。とはいえ、お客様のニーズにしっかり応えられるだけの商品を作らねばならないと思っています。ノダテマグは1つひとつが職人の手仕事で、大量生産ができないので品薄になりがちなんです。この点は会社としての課題で、もっと努力しなければと思っています。木地の生産量がネックですが、それが克服できればより多くのお客様の需要に応えられるし、それだけの量の塗の仕事を地域の職人たちに回すことができますからね。


──なぜそれほどまでに地域にこだわるのでしょう。

従来の資本主義に限界を感じているからでしょうか。戦後の日本は幸せになるために、経済成長を錦の御旗にして突っ走ってきました。経済が成長すればその先に幸せがある、と信じて。ですが、その先に幸せな暮らしがあったのかというとなかった。金銭的に裕福な立場を得たからと言って幸福感には実はつながらない。そういうことに今、多くの人が気づき始めていると思うんです。イギリスでは、成長とは何か、経済とは異なる物差しで人類の成長を評価する研究が始まっているようです。今の日本社会で日々幸福感を感じて暮らしている人はどれだけいるでしょうか。じゃあ幸せはどこから生まれてくるのかといえば、その1つは心地よいコミュニティの形成だと思うんです。

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そのことに、14年前に、17年間暮らした東京から会津へ戻ってきて徐々に気付くことになったんです。東京時代は、子どものころからの夢だった宇宙関係の仕事に携わることができ、仕事の内容もとても充実していたのですが、当時とは違った物差しが備わった今の視点で幸福度を考えれば、この会津で木や漆に関わる仕事をし、地域を意識しながら暮らす方が幸せなんだろうと感じるようになりました。会津で働き、暮らすことに楽しさを感じているんです。


──では東京の仕事を辞めて実家を継いだことを後悔したことは?

勤めていた会社はその後、競合他社と合併してオンリーワンの盤石な経営基盤になりましたし、同僚の様子を見ると充実した社会人生活を歩んでいるようです。あのまま残っていたら組織の中でどんな役割を担っているんでしょうね。会社を辞めて実家に戻ることは、親からの依頼ではなく、私が自分の意志で決めたことです。経営状況が落ち込み、改革が必要な状況であることは、戻る前から感じていましたし、楽でないことは百も承知で飛び込んだ世界ですので、後悔をしたことはありません。

会津愛

──会津の好きな点は?

まず山や湖、おいしい空気など豊かな自然に恵まれている、地球を近く感じられるという点がひとつ。また、この土地の地形を活かして暮らしてきた先人たちの知恵や文化、民俗学的な視点でも魅力にあふれていて楽しい。会津は縄文時代からずっと、人が安心安全を求めて辿り着き定住地として選んできた場所としての経緯がありそうで、東日本の重要な地域としての歴史を刻んできました。知れば知るほど興味深い地域です。

会津の風土を表す言葉に「会津の三泣き」という言葉があります。1.会津に来て最初の内は地元コミュニティに入れなくて泣き、2.慣れてくると会津の人情に触れて泣き、3.会津から出ていくときに離れがたくて泣く、というものです。確かに会津に来る人はみんな独特の空気があると言うんですよね。そういう風土と固有の癖というか精神性みたいなものがどこから生まれているのか、とにかく会津はおもしろいと感じます。

ハーバード大学の教授陣が何代にも渡って行った75年間の調査で、人はお金だけでは幸福感は得られないという結果が出ています。貧乏か金持ちかは関係なく、最も幸福度が高かったのは、家族や友人、地域の人々などと良好な人間関係が築けている人でした。会津はそういう幸福感を感じられる地域の一つだと思いますね。

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会津に帰ってきて10数年、ぼんやり感じていたことが、特に震災以降に意識が徐々に明確化してきたかもしれません。東京で暮らしていた時は地域の人たちとの繋がりどころか、隣に誰が住んでいるかすらあまり意識していなかったし、たまたま同じマンションの住人と会っても軽い挨拶程度の関係でしかありませんでした。住んでる地域に貢献することはほとんど考えてなく、いかに会社で働くことを通して社会に貢献するか、そして少しでもいいサラリーを得て、家族にハッピーな暮らしを提供できるか、気の合う趣味の合う友だちとプライベートを充実させられるかという生き方であったことにだんだん気付いてきました。

それはある意味楽だったんですが、会津に帰ったら、地域の人間関係がとても濃いんですよね。時には面倒だと感じることもありますが、それがとても大事なんだということがわかった。その集落で自分がどのような役割を担えるのかが人間が生きていく上での原点ですからね。若い頃はあれほどこんな田舎から出たいと思って東京に出て、17年間、充実した学生生活~社会人生活で東京人に交ざっていたつもりでしたが、今は出張で東京に行ってもできるだけ早く会津に帰りたいと思ってしまっている自分がいたりします(笑)。

東日本大震災でスイッチが入れ替わった

──帰ってきてからすぐ会津愛に目覚めたのですか?

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マクドナルドもない街から飛び出したくて東京に出た私が、会津に帰ってきて最初の数年はスターバックスもない田舎にやはり不満を感じていました。でも今はスタバがない街が誇らしいです(笑)。

もっと地元のために働きたいと思ったのは、やはり東日本大震災がきっかけですね。福島原発の事故で、福島原発で作られていた電力がすべて東京に送られていたことを知り、愕然としました。いかに自分が無知であったか。その後の政府や東電の対応の顛末。いまだ解決の道すら見えてきていませんが、一連の流れで、東京と地方の意識のギャップを痛感しましたね。中央政府と地方行政とのギャップというより、中央経済と地方経済のギャップ。そこに横たわる都市部で集団化した群集の無責任感というか。これまでの地方の存在は、モンスター都市・東京のための植民地のようなものだったのかもしれません。だから、地方はもっと東京の消費に頼らなくてもいいように、自立した生き方を模索しないといけないな、と感じています。展示会の多くは東京で開催されていて、全国から人が集まりますが、これからは地方から東京を詣でるのではなく、東京の人たちをもっと会津に来させるようにできたら最高なんですけどね。(以下、後編に続く)


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