2014年8月アーカイブ

全盲の教師が挑む新たな戦い[後編]

気持ちは新任教師

──16年ぶりに普通中学校に戻ってきたときはどんな気持ちでしたか?

初めて盲導犬と一緒に国語教師として長瀞中学校の教壇に立ったときは感無量でした。ただ、16年ぶりとはいえ新任の教師という思いでやりました。やはり目が見えていた頃とは勝手が違うので、全く別の方法、手段で授業を行わなければならなかったものですから。


──見えなければいろいろなご苦労があると思いますがどんな工夫をしているのですか?

まず、生徒の名前を覚えるために各自の机の天板の裏に点字シールを張ったり、点字で座席表を作ったりしました。また、最初に生徒に自己紹介をしてもらって、それをICレコーダーで録音して自宅に帰って繰り返し聞き、各生徒の名前と声を覚えました。授業中、板書も行っているのですが、文字をまっすぐに、かぶらずに書くために、定規の裏に磁石をつけたものを補助罫線代わりに使っています。文字自体は覚えているのでこうすると普通に書けるんですよ。

オリジナルの定規を使って板書する新井先生

チームティーチング

──授業はどんなふうに行っているのですか?

もうひとりの国語の先生とペアで授業を行うチームティーチングという体制で臨んでいます。着任した当初は私が主に授業を進めて、パートナーの先生が見えない部分をサポートするという方式だったのですが、どうにもうまくいきませんでした。毎日論議と試行錯誤を重ねていく中で、どちらが主体ということではなく、基本的に生徒にとってどんな方法で授業をすればわかりやすいかという視点に立ち、パートナーの先生は私の目の代わりをすることに徹するのではなく、2人で授業をするんだという気持ちに切り替えました。

つまり、何が何でも私が前に立って授業をするのではなく、ここは見えているパートナーの先生が黒板に書いた方が生徒にとってわかりやすいと判断されるときはそうするというふうに、その時々によって役割を柔軟に入れ替えるようにしたところ、授業がうまく回り始めたのです。授業の最適な形は生徒たちが教えてくれたということですね。現在もお互いの役割はきちっと決めず、したがって決まったパターンもなく、臨機応変に授業を行っています。そのために欠かせないのが、パートナーの先生との毎日の授業の打ち合わせの時間です。様々な場面を想定してかなり綿密に行っています。

ただ、通常の授業は一人の先生で行っているので、1+1=2以上の成果は出さなきゃいけないという思いで取り組んでいます。たとえば子どもたちへの声がけなどの配慮は2人で授業を行っている分、よりできているんじゃないかなと思っています。

副担任でありパートナーの志賀麻衣子先生と

──学校側のサポートは?

ズームアイコン

あらゆる扉のドアノブ付近には何の部屋かがわかる点字シールが貼られてある

学校内の各部屋のドアや机、道具などに点字シールを貼ってくださったり、移動のときに声がけしてくださったりと何かと支えてくれています。また、子どもたちも「先生、教室はここじゃないよ」とか「○○はここにあるよ」といったふうに、目を貸してくれています。先生だけじゃなくて生徒にも助けられて何とか教師をやっていられるのです。

おかげさまで、今では自分の存在が当たり前に、つまり教室に私と盲導犬がいて、授業を行っているという風景が当たり前になっています。そう感じたのはこの中学校にきて3年ほど経った頃でしょうか。そして7年目の今年(2014年)、クラス担任になることができました。

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23年ぶりのクラス担任に

──やはり担任への復帰は希望してたのですか?

まずは普通中学校に復帰して授業をしたいと思っていたのですが、授業をやってるうちに欲が出てきたんですね。もっと子どもたちと深く関わりたいという欲が。やはり授業だけだと子どもたちとの関わりが希薄ですし、担任の喜びを知っていましたからね。


──担任の喜びとは?

いろいろありますが一番は子どもたちと感動を共有できることでしょうね。たとえば体育祭では各種競技の勝ち負けを争って盛り上がるし、文化祭でもクラスごとに劇をやるので子どもたちと一緒に練習したり、悔しがったり喜んだりできます。11月には合唱コンクールもあるし、折にふれて子どもたちと感動を共有できるのは素晴らしいことなんですよね。そういうことができるクラス担任の先生をずっとうらやましいなと思っていたんです。子どもたちの意識も単なる国語教師と担任とでは大きく違いますしね。だからこそクラス担任になれたときはとてもうれしかったです。

52歳からの新たな挑戦

──しかしクラス担任になるとたいへんなことも増えるのでは。

もちろんやらねばならない仕事も増えて責任も重くなりますが、それが52歳になった私の新たな挑戦ですよね。私の知る限り、現在、普通中学で全盲のクラス担任は私だけなので、うまくやるためのマニュアルのような参考にできるものも何もありません。4月に担任になったばかりなので、現在その方法を必死で模索しているところです。本当に毎日必死ですよ。1年経って振り返ってみてどうかという感じでしょうね。ただ、何かとたいへんな分、得られる喜びも大きいので今は充実しています。そんな中、ひとつ有利な材料は、パートナーの先生ですね。新任の若い先生なので、ここはこうしてほしいとか、こうした方がいいよねという変化に柔軟に対応でき、融通が効くのでとても助かっています。

パートナーの志賀先生と二人三脚で臨機応変に授業を行っている

さわやか相談室

──長瀞中学校に赴任されてから印象的なエピソードがあれば教えてください。

長瀞中学校には心の悩みを抱えている生徒の相談を受ける「さわやか相談室」というのがあって、そこに詰めている「さわやか相談員」さんと一緒に、担任になるまでの6年間、週2日ほど生徒の悩みを聞いていました。

生徒の悩みで多かったのはやはり人間関係ですね。同級生とのコミュニケーションがうまく取れないために心が傷ついてしまう子が多いです。中にはなかなか学校に来られない不登校の子どもや学校で暴れてしまう子どももいます。やはり彼らも誰かに話を聞いてもらいたいんですよね。私は目が見えないので人の外見にとらわれないですし、声をかけたくないなと思えば無視できる。それが子どもにとっては都合がいいみたいですね。こうなってみてわかったのですが、視覚障害者って都合のいい存在だなと思います(笑)。

3代目の盲導犬、リルと

もうひとつ私には盲導犬という強い武器があります。盲導犬の頭をなでるだけで子どもの心は癒されるようで、そのために相談室を訪れる子どももいました。ちなみに、盲導犬はハーネス(胴輪)をつけている時は仕事中です。声をかけたり、頭をなでたりしてはいけません。相談室ではそのハーネスを取っています。

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生徒に寄り添う

──相談に来た生徒にはどういう対応を?

カウンセリングマインドで対応するので、傾聴で悩みを存分に吐き出させて、受容して、共感してあげるというのが基本的な対応です。こうした方がいいよというアドバイスはしませんが、「私も目が見えなくなってすごくつらくて死んでしまいたいと思っていた時期もあるけれど、今はこうしてちゃんと生きて人生を楽しんでいるんだよ」と自分の体験を通して得たものを生徒に語りかけています。それしかできないんですよね。

そうすると子どもは「じゃあもう一回頑張ってみる」とか「高校に入学したら教室に入ってみんなと授業を受けてみる」と前向きな気持ちになってくれるんですよね。このように心に傷を負った子どもの悩みを聞いて、癒してあげることが私のもうひとつの重要な役割、使命だと思っています。また、この相談室を巣立った生徒から今もよく連絡が来るんですよ。それがうれしいですよね。高校に入ってうまくやっているという報告を聞くとすごくうれしいです。

ただ、担任になったらこういうこともなかなかできなくなったので、それが今の大きな悩みのひとつです。今度は担任として受け持ちのクラスの子どもとしっかり向き合わなければなりません。1クラス40人、一人ひとり、大なり小なりいろいろな悩みを抱えています。でも自ら望んだ担任なので、なんとか子どもたちの力になりたいと思っています。

無駄なことなんて何ひとつない

──長瀞中学校に赴任して7年目、担任になった今、もっと早く赴任したかったという思いはありますか?

両目が見えていたとき、8年間中学校で教師をやっていましたが、20代だったし何でもできるという全能感をもっていました。それから両目の視力を失い、つらいリハビリを乗り越え、養護学校から盲学校を経て、この長瀞中学校に来たのは46歳のときです。両目が見えていたとしても40代は体力的にきついし、教える子どもも中学生で変わっていないので、基本的にはやってることは同じだと思っています。

ただ、もっと早く、例えば30代のときに普通中学校に受け入れられていたら、サッカー部の顧問ができない自分に対して悔しい、つらいという自己嫌悪を抱えて長く続かなかったかもしれないとも思いますね。今は50代ですから生徒と一緒にバリバリ動き回るというのは無理。だからものは考えようで、養護学校復帰から10年かかったのはつらくたいへんだったけど、若い先生たちも子どもたちも頑張ってるな、自分は相談室で悩みを聞いてあげようかなと気持ちが変わってきたので、いい時期に赴任できたかなと。10年間、無駄なことはひとつもないんだなと、今振り返ればそう思います。

違いを許容できるやさしい人に

──教師として、子どもにどんな大人になってほしいと願って、どんな言葉を投げかけていますか?

みんな一人ひとり顔形が違うように、性格や個性も一人ひとり違います。人それぞれの違いを当たり前のこととして認めて受け入れることのできる思いやりのある人になってほしい。同級生に目の見えない子や耳の聞こえない子、車椅子の子はいないだろうけど、今は学校が違うからいないと思うだけで、社会の中にはいろいろな人が実際に生きて存在している。「彼らは君たちと何ら変わるところはない、同じ人間なんだよ。社会に出てもそのことを忘れないでね」ということを子どもたちにはよく話しています。

それが今の時代、一番大切なことなんじゃないかなと思うんですよね。インターネットやSNSで友だちをいじめたり、仲間はずれにしたり、死ねとかウザいとか相手を傷つける言葉が飛び交っている時代だからこそ、思いやりの心を大切にしてもらいたいと思っています。また、いじめや差別を許さない子どもに育ってほしいとも願っています。そういう教育をするのが、重度の障害を負っているのにわがままをいってクラス担任をやらせてもらっている私の存在意義、使命だと思っているのです。

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生きがいであり天職

──教師という仕事の魅力や喜びはどんなときに感じますか?

13歳から15歳という年齢の生徒は日々成長しています。彼らと接しているとそれが実感できると同時に彼らの成長期の若いエネルギーをもらっていると感じます。そんなとき教師という仕事の喜びを感じます。教師として生徒から言われて一番うれしいのは、「新井先生の授業はわかるからおもしろい」とか「先生に国語を教えてもらってわかるようになった」という言葉。子どもたちにはわかる喜びを少しでも味わってほしいと思いながら授業をしていますからね。また、悩みを話してくれた生徒が「先生に話を聞いてもらえてよかった」と言ってくれるときも教師をやっててよかったと思える瞬間ですね。この辺はほかの教師のみなさんと同じだと思います。


──先生にとって仕事とはどんなものですか?

ひとことで言えば生きがいですね。天職と言ってもいい。だから少々のつらいことにも耐えられるんです。今後もできる限り長く教師を続けていきたいと思っています。


──今後の目標を教えてください。

長瀞中学校に赴任した当初の目標はクラス担任になることだったのですが、それが叶っちゃいましたからね。日本一の学級担任を目指しましょうかね(笑)。とにかく、私のクラスの子どもたちが、このクラスでよかったな、いいクラスだったな、担任が新井先生でよかったなと、1年経ってそう思ってくれればいいかなと思っています。

自分などニュースにならない世の中に

──社会に対して伝えたいメッセージがあればお願いします。

全国には視覚障害の教員が600人ほどいるんです。そう聞けば私の存在なんて珍しくないでしょう? でもそのうちの9割は盲学校に勤務しているんですよ。盲学校の教員の多くは生まれつき視覚障害をもっており、幼稚部から高等部までずっと盲学校で過ごして教員になった人たちで、現状は一般の学校にはいません。盲学校の生徒はこちらが見えないことに対して理解はできますが、やっぱり教員は見えていた方がいいに決まっています。教師と生徒のどちらも見えないのは何かとたいへんですから。でもほとんどの視覚障害をもつ教師は盲学校に勤めているという現実。これでは一般社会にノーマライゼーションは広まらないですよね。そういう現実もあって、一般の人々の理解も進まず、結果普通中学校に戻るのに10年間もかかってしまった。だからその先陣を切ろうというわけではないですが、そういう思いもありますよね。

また、先程もお話しましたが、現在、一般の小学校、中学校、高校にいる教師の中で、盲導犬を連れた全盲の教師は私だけです。でも、私は授業などの手段や方法が変わっているだけで、いたって普通の中学教師と思っています。というのは、私が特別努力して頑張っているから教師ができているのではないからです。私は極普通の人間で、そんなに努力しているなんて思っていません。誰でも病気や事故で中途障害者になる可能性はありますが、そのとき、特殊な職業じゃなくて一般的な職業ならば、普通の人でも自分で方法と手段を工夫して、周囲の人々の理解と協力が得られれば継続できるんじゃないかと思っているんです。教職に限らずね。

でも、この長瀞中学校に赴任して最初の1年目は新聞やテレビなどのマスメディアからの取材攻勢がすごかったんです。形としては一教師が特別支援学校から転勤しただけで、ニュースになるような出来事ではないんですよ。むしろ一番たいへんだったのは特別支援学校に復職したとき。でもどのくらいたいへんだったかというのは、特別支援学校はどんな生徒がいて、どういう学校なのかということを一般の人々は知らないからわからない。中学校の方はみなさん想像できるから取材が来たと思うんですが、現実には特別支援学校で盲導犬を連れた教師がいるということの方がたいへんだし、ありえないくらいレアケースだからニュースバリューとしてはこちらの方が高いはずなんですよね。

いろいろな人がいるのが社会だし、学校は社会の縮図だというつもりで今までずっと教師をやってきたので、私のような人間はどこにでもいる、珍しくともなんともない、当たり前すぎて誰も取材に来ないような社会に早くなってほしい。それが私の願いです。

全盲の教師が挑む新たな戦い[前編]

全盲でありながらクラス担任に

──新井先生は今年(2014年)4月、全盲でありながら普通中学校のクラス担任に23年ぶりに返り咲いたわけですが、そのときの気持ちはいかがでしたか?

6年前にこの長瀞中学校に国語教師として着任して以来、また担任をしたいと思っていたので、それはうれしかったですよ。両目がまったく見えないので着任当初は授業をするだけで精一杯でしたが、徐々にまたクラス担任をやりたいという欲が出てきたんです。確かに担任はたいへんなことも多いですが、喜びもまた大きいですからね。


──現在はどのような毎日を過ごしているのですか?

自宅は学校から4駅離れた場所にあるのですが、盲導犬と一緒に毎日電車に乗って通勤しています。平日は朝から夕方まで授業、その後、文化部の顧問として部活動を行っています。文化部はパソコンの使い方を勉強したり、テーマを決めて調べ学習を実施したりする部で、私が顧問になってからは点字を教え始め、絵本に点字を打って特別支援学校塙保己一学園に届けるという活動もしています。また、学校農園で野菜を栽培したりもしています。要するに何でも屋ですね。部員は現在18人ほどです。

授業の後、部活動をやって、学校を出るのがだいたい19時から20時くらいですかね。自宅でもパソコンで授業用の文書を作ったり点字で教科書を読む練習をしたり、録音した音声を聞くなど、いろいろ作業をしています。自宅で仕事をするのは昔からやっていたのでそんなに苦ではありません。基本的に好きな仕事ですからね。

新井先生が勤務する長瀞中学校の掲示板

ある日突然右目の視界が奪われる

──新井先生の教師としての歩みを教えてください。

中央大学を卒業して、1984年、23歳のときに東秩父中学校の国語教師になったのがスタートですね。その翌年、秩父第一中学校に異動して、同校の音楽教師と知り合って結婚しました。その翌年の1987年、横瀬中学校に異動して、初めて3年生のクラス担任となり、部活動でもサッカー部の顧問として子どもたちとグランドを駆けまわっていました。さらにこの年に長女も誕生して、まさに教師として、ひとりの人間として怖いものなしの絶頂期でした。そんなとき、突然右目が網膜剥離になってしまったのです。


──そのときの状況は?

飛蚊症というのですが、ある日突然、目の前に虫がたくさん飛ぶのが見えたんです。おかしいな、なんだろうなと思っていたら、翌日には右目の視界の上から3分の2ほどが暗幕が降りたような感じで真っ暗になってしまった。つまり下の部分の3分の1しか見えていない状態ですね。


──網膜剥離って日常生活で突然なってしまうものなのですか?

スポーツや事故などで頭部や目に大きな衝撃を受けて網膜剥離を発症する人が多いのですが、私はそういうこともありませんでした。ただ、元々強度の近視だったのでコンタクトレンズで矯正していましたが、車の運転や運動を含め、日常生活には何の支障もありませんでした。でも医師によると、強度の近視というのは眼球のレンズと網膜との距離が遠くなり、網膜が引っ張られて張り裂けそうになっている状態。たとえていうなら体のサイズよりもかなり小さいピチピチのシャツを着ている状態で、いつ破けてもおかしくなかった、起こるべくして起こってしまったということでした。それから治療のため入院と手術を繰り返しましたが、結局右目は失明してしまいました。

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青天の霹靂

このときはまさに青天の霹靂というか、信じられないという気持ちでしたね。網膜剥離になる前は病名すら知らなかったので、かなりショックでした。そのせいでクラス担任からもサッカー部の顧問からも外されてしまいました。当時は教師という仕事に大きなやりがいと喜びを感じていたので、もう二度とクラス担任として子どもたちと感動を共有できないのか、もう二度とサッカー部の部員たちと自由にグラウンドを駆けまわることができないのかと思うととても悲しかったです。

さらに発症から4年後には埼玉県立秩父養護学校(現特別支援学校)に異動となりました。私は当時片目で車も運転できたし、授業だって十分やれると思ったのですが、手術と入院を繰り返すたびに学校を休まざるをえなかったので学校側から異動を余儀なくされたのです。不本意でしたが、やむを得ずという感じでしたね。

埼玉県立秩父養護学校に異動して3年目に左目も網膜剥離を発症してしまいました。片目だったこともありさらに負荷がかかったんでしょうね。入院して半年間のうちに6回手術をしたのですが視力は戻らず、とうとう両目が完全に失明してしまい真っ暗闇の世界となってしまいました。

死ぬことしか考えられなかった

──このときの気持ちは私たちには想像もつきませんがかなりショックだったでしょうね。

まさに奈落の底ですよね。生きていてもしょうがないと思い、当時入院していた病院の7階の部屋から飛び降りようと何度思ったことか......。退院して家に戻ってきても毎日ふとんから起き上がることすらできずにただただ泣いて暮らしていました。仕事のことはもちろん、家族や子どもたちのこともまったく考えられませんでした。自分のことしか考えられなかった。頭にあったのは死ぬことばかりです。でも目が見えなければ死に場所さえ自分で選べない。そこまで自力では行けないわけですから、すべてのことに絶望していました。


──まさに想像を絶する絶望ですね......そこからどう立ち直ったのですか?

最初のきっかけは、半年間、泣き続け、悩み続け、疲れたというのが正直なところですかね。もうこれ以上落ちるところはないという底の底まで落ちたらもう這い上がるしかないですからね。そんなとき、妻が引き会わせてくれた視覚障害者の鍼灸師の勧めで、所沢にある国立身体障害者リハビリテーションセンターでリハビリを受けるようになりました。当時は早く仕事に就くために、などというレベルではなく、子どもも3人もいるし、せめて身の回りのことだけでも自分でできるようにならなきゃなというくらいの思いでした。

でもこれが結果的にすごくよかった。それまで家に引きこもっていたときは、こんな不幸な人間は自分だけだと思っていたのですが、リハビリセンターには私と同じような境遇の、ある日突然障害を負って見えなくなってしまった人がたくさんいて、彼らと出会って話すことでつらいのは自分だけじゃないんだ、私も彼らみたいに頑張ろうと、前向きな気持ちが芽生えてきました。これが立ち直りへのひとつの大きな転機となりました。

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一つひとつ壁を乗り越えて

──どのようなリハビリを受けたのですか?

眼科的リハビリといって、点字の判読訓練や白杖をついての歩行訓練などです。国立身体障害者リハビリテーションセンターにしばらく通った後、さらに上尾にある県立のリハビリセンターに10ヶ月間、泊まり込みで訓練を積みました。

リハビリはたいへんでした。点字ひとつ取っても最初はどうやってあの点の集まりを指先で読むんだ、わかるわけがないじゃないかと思っていました。それが数ヶ月かけて修練を積むうちに、点が文字になり、文字が単語になりと徐々にわかるようになりました。白杖による歩行訓練もきつかったですよ。指導員も「命にかかわるから自分も命懸けで指導しているんだ」とかなり厳しかったです。なかなかうまくいかず、訓練中にけっこう怒られました。

こんな感じで、点字を学ぶことによって本も読めるしパソコンでメールもできる、歩行訓練をすることによって白杖をついて歩くこともできるようになりました。それまで目が見えないと何にもできないと将来に絶望していた自分から、少しずつできることが増えていくことにより、生きる希望がもてるようになったのです。これが2つ目の大きな転機ですね。

さらにもっと自由に歩くために盲導犬を取得しようとアイメイト協会で訓練を始めました。クロードという盲導犬とペアになって1ヶ月間泊まりこんで訓練した結果、より広範囲を安全に歩く行動の自由を手に入れたのです。

現在は3代目の盲導犬・リルが新井先生の目となっている

──ご家族の支えも大きかったのでは。

もちろん、大きかったです。左目が見えなくなったときは3人目の子どもがまだ生後半年でした。だから妻には相当苦労をかけました。私が入院するときに、長女を車の後部座席に乗せて次女を背中におんぶして、乳飲み子の長男を前に抱えて、時々母乳をあげながら運転して、入院先に会いにきてくれましたからね。その後も引きこもっていた間やリハビリに通ったり泊まり込みで訓練している間も、私の世話と3人の育児でかなりたいへんだったと思います。リハビリのきっかけを与えてくれたのも妻ですし。妻には感謝しても感謝しきれないですよね。

職場復帰でも葛藤が

──仕事への復帰を意識し始めたのはいつ頃ですか?

10ヶ月間、泊まり込みで行っていたリハビリの最中ですね。同じリハビリセンターで訓練を受けている人たちのほとんどは、リハビリが終わるとマッサージや鍼灸の資格を取って仕事を始めます。自分もそうするしかないのかなと思っていたのですが、県立岩槻高校で物理を教えていた中途視覚障害の宮城道雄先生に出会って「あなたも教職に復職できるから頑張れば」と勧められました。でもそれをなかなか素直に受け入れられませんでした。


──それはなぜですか?

教師として復職する場合は、休職していた現任校への復職が大原則でした。つまり復職したいのであれば秩父養護学校(現特別支援学校)に復職しなければなりませんでした。知的・身体的障害をもつ生徒を全盲の、ましてや盲導犬を連れた教師が教えるというのは前代未聞でとてもできるとは思えなかったからです。

宮城先生は普通高校の先生だから見えなくても工夫と努力で教壇に立てるでしょうが、私がいるところは養護学校なので無理ですよと言うと、宮城先生は、いや、そんなことはない、新井先生ならできると。お互い何度もかなり踏み込んだやりとりをしましたが、最終的には宮城先生の励ましで教師として復職してみようかと考えられるようになりました。目が見えなくなってあきらめることが多かったので、ひとつくらい自分の希望を叶えたいという思いもありました。それで復職の道を選んだのです。両目を失明して3年後の38歳のときでした。

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養護学校での壁

──養護学校に復職後はどうでした?

現在では板書もお手の物。とても全盲とは思えない

いろいろと困難なことは多かったのですが、やはりいちばんたいへんだったのは、私が全盲であるということを知的障害をもつ生徒たちが理解できないことでした。これが大きな壁でしたね。やはりそういう子どもたちを指導するのは健常者の方が適任なので、その後いろいろと模索し、最終的には肢体不自由の生徒に国語の授業をするという形に落ち着きました。それでもやはり全盲で盲導犬を連れて養護学校で教えるのは難しかったので、埼玉県の教育委員会に普通中学校への異動を訴えました。

10年越しの念願成就

──教育委員会とはどのように交渉していたのですか?

私だけではなく、宮城先生やその他の先生たちも協力してくださり、団体として交渉していたのですが、なかなか聞き入れてもらえませんでした。10年間交渉しても埒が明かず、このままじゃ何にも変わらないからダメ元で議員の力を借りようと県議会議員会館に飛び込んだら話を聞いてくださった議員がいて、県議会で取り上げてくださったんです。

その議員は「全盲で盲導犬を連れた教師が片道2時間半かけて盲学校に通勤している。本人は普通中学校での勤務を希望しているのにこんなことがあっていいのか。知事はどうお考えですか?」と。すると、通常は教育長が答弁するんですが、知事が直接「それはいけない。何とかしましょう」と答弁してくださって。それからとんとん拍子でことは進み、知事が私の受け入れ先を募ったところ、当時の長瀞町の町長だった大澤芳夫さんがぜひ長瀞中学校にとすぐ手を挙げてくださって、2008年4月に長瀞中学校への着任が叶ったのです。県と交渉を始めてちょうど10年目。普通中学校への復帰は16年ぶりでした。


──大澤前長瀞町長はなぜすぐ受け入れを表明したのでしょうか。

以前、長瀞町で講演をしたことがあったのですが、ご夫婦で聞いてくださっていたようなんです。後で聞いた話では、周りの人たちから「そんなに即断していいのか。何かあったとき責任を取れるのか」などと詰め寄られたのですが、「私は直接新井さんの話を聞いたことがある。彼なら大丈夫だ」と説き伏せてくださったみたいなんですよね。そこまで言ってくださった大澤前町長には今でもとても感謝しています。周りの人は独断というかもしれないけど私や私を支えてくださった方々にとっては英断以外のなにものでもなかったからね。

気持ちが折れなかった理由

──それにしてもよく10年間も気持ちが折れなかったですね。

宮城先生たち、大勢の支えてくれた人々のおかげですよ。私一人だったらとっくに折れていました。その支えてくださった方々も段々と歳を取って退職者が増えてきて、なんとか自分たちが現役のうちに新井の普通学校への復職を実現させてやりたいと頑張ってくださった結果ですよ。私自身も50歳を超えたら普通中学校での仕事は体力的に無理だと思っていたので、なんとか40代のうちにと切羽詰まっていました。それだけに長瀞中学校への着任が決まったときは言葉にならないくらいにうれしかったですね。46歳、ギリギリのタイミングでしたから。

ただ一方で、それまでに10年間もかかってしまったということに忸怩たる思いもあります。それほど県の教育委員会をはじめ、教育の場ではノーマライゼーションはまだまだ浸透していない現実を身をもって痛感しました。


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