2017年10月アーカイブ

絶望の高校時代

──ここからは安田さんがなぜキズキを立ち上げて、現在の活動をするに至ったのか、これまでの歩みを詳しく聞かせてください。子どもの頃は複雑な家庭環境だったということですがどんな感じだったのですか?

高校時代の不良の下っ端だった安田さん(安田さん提供)

高校時代の不良の下っ端だった安田さん(安田さん提供)

小学生の頃、父は外に子どもを作り帰ってこなくなりました。母も精神がおかしくなり、帰ってこない日が続きました。ちなみに僕の父親は知っている限りで事実婚含め4回結婚をしています。そんな環境だったので、早く家を出たくて猛勉強し、中学は寮のある学校へ特待生で入学しました。でも管理がすごく厳しくて2年生の時に退学し、寮を出た後は、父が面倒を見れないということで祖母の家で暮らすことになって。その後、父の再婚相手と生活した時期もあったのですが、馬が合わず家に帰らなくなりました。

中学に入ってからは全然勉強しなかったので、高校は神奈川県内の偏差値40台の高校にしか入れませんでした。高校でも勉強する意味が見出せず、全然勉強しなかったので、成績はビリ。中退者も多く、次第に生徒数が減っていきました。


──勉強しないで毎日何をしてたんですか?

毎日夜遊びしてました。といっても駅前やコンビニの前で夜中ずっとたむろって、朝帰るという感じだったんですが。あとはお金がなかったのでアルバイトをして生活費や遊ぶ金を稼いでいました。そのお金も、一部は暴走族へのカンパ(上納金)で消えました。不良の下っ端、みたいな感じでした。

絶望の人生を変えるなら今しかない

──当時はどんなことを考えていたのですか?

高3の頃には、潮目が変わるのを感じました。高校時代はちょっと不良っぽい方がかっこいいし女子にもモテたけれど、大人になったらちゃんと大学を出ていい会社に勤めているというマジメな人たちが社会の中心になっていくということがわかってきました。

さらに僕は単純作業を続けることができなくて、アルバイトもだいたい3ヵ月で飽きて辞めてを7回くらい繰り返していたんですね。継続的に仕事できないのはヤバい、このままでは社会に出て生きていけないと危機感を抱いていました。

安田祐輔-近影1

そして、どうしてこうなっちゃったんだろうとこれまでの人生を振り返りました。その一番大きな理由は、家庭環境のせいだなと思ったんです。小学校の時に両親が不仲で家を出て、祖母とも継母とも合わなくて居場所がなくなったから、勉強もしなくなり、不良の下っ端になってしまった。このままダラダラとその日暮らしの努力しない人生を送ると、このつらい日々が死ぬまで永遠に続く。それは絶対に耐えられない。変えるなら今しかない。ここで一発努力して自分の人生を変えたいと強烈に思ったんです。そのためには大学に入るしかないと思いました。

同時に、まずは社会のことを知ろうとニュースや新聞を見るようになりました。ある時、テレビのニュースでアフガニスタンの空爆のシーンを見た時にすごくシンパシーを覚え、何とかしたいなと思いました。アメリカに空爆されて自分ではどうにもならない中で生きているアフガニスタンの人たちの境遇が、自分ではどうにもならない家庭環境に翻弄されて苦しい状況に陥っていた僕の人生と重なったんです。それでアフガニスタンの人々を助ける仕事に就きたい、そのために大学に入りたいと思いました。つまり、今の自分を変えたいという思いと、やりたい職業に就くためという2つの理由で大学受験を決意したわけです。

そして、紛争を止めるような仕事はどんな団体に入ればできるだろうと調べたところ、国連が最もその可能性が高いことがわかりました。その国連の職員の出身校は東京大学とICU(国際基督教大学)が多かったので、この2校を目指し、高3の終わり、偏差値30から1日13時間の猛勉強を始めたんです。

崖っぷち感で大学合格

──それまで全然勉強してなかったのによく13時間も勉強できましたね。

安田祐輔-近影2

とにかく自分の納得することで自立するためには大学に行くしかないと切羽詰まってたので。さっきもお話しましたが、アルバイトで食っていくのはできないとわかっていたので、とにかく大学に入らなければ生きていけないなと。もうここを逃したら人生終わりという崖っぷち感ですね。

あと、僕のような家庭環境に生まれると、生まれてきた意味はなんだろうとか考えちゃうんですよ。自分の人生が特別うまくいかなくて強いコンプレックスがあると、そのコンプレックスを払拭するような何かがほしいというのがすごくある。自分の生きてる意味はなんだろう、生きててよかったと思えるものがほしいという思いが原動力としてあったのかなと。

また、僕は中高6年間ずっと勉強してこなかったのですが、勉強ってすればするほど1ヵ月前の自分と今の自分で変化が確実に現れるじゃないですか。学べば学ぶほど明らかに成績が上がるのがうれしかった。それで13時間も勉強できたんです。

2浪目の夏頃には東大模試でB判定が出ていけると思ったんですが、その後はさすがに息切れして、机の前に座るけど参考書を読んでも頭に入ってこないという状況になっちゃって。成績もどんどん下降して苦労しました。

それでも運よくICU(国際基督教大学)だけは合格できたんです。ICUの試験は4つのうち2つが学術論文を読んで問題に答えるという試験で、偶然、僕がよく読む学者が引用されていたので問題が解きやすかった。これは勝ったと思いましたね。


──合格した時はどういう気持ちでしたか?

そりゃあものすごくうれしかったですよ。いまだにはっきりと覚えているのですが、これで俺の人生、なんとかなるかなとほっとしました。入学式の時なんかも忘れられないですよね。これよりうれしいことなんて、これまでの人生、後にも先にもないです。もし全部落ちていたら受験をあきらめていたでしょうし、キズキも立ち上げてなかったでしょうね。僕の人生が変わった大きなターニングポイントの1つです。

最初のターニングポイント

──大学入学後は?

イスラエル人とパレスチナ人を日本に招いて平和会議を開催(安田さん提供)

イスラエル人とパレスチナ人を日本に招いて平和会議を開催(安田さん提供)

先輩が作ったイスラエル人・パレスチナ人を招致して平和会議を行うサークルに入りました。元々大学を受験しようと思ったきっかけの1つがアフガニスタンの空爆だったので、中東の問題に寄与、貢献したいという思いをずっともっていたので。

現地ではイスラエル人とパレスチナ人が交じり合うことがないので、お互い憎しみ殺し合ってしまう。だから、パレスチナ人とイスラエル人を6人ずつ日本に招いて、平和会議を開催しました。1ヶ月間合宿していろんなことを議論したら、お互い少しでも理解し合えて仲よくなるんじゃないかというのが狙いでした。

合宿では、お互いに言いたいことを言い合って、ケンカになったりもしたのですが、最後、成田空港でお別れする時はみんな大泣きして抱き合っていました。その光景を見て、自分が動いたことで社会を少しだけど変えられたという実感を得られました。これがすごくよかった。後の活動につながる1つの大きな原体験となったんです。

二十歳くらいまでは家族にも社会にも全く必要とされていなかったから、生きている意味がないとすら思っていた。それがこの経験を通じて、家族から必要とされてなくても、社会や世界から必要とされる人間になりたい、それが僕の生きる意味だなと思ったんです。これからもっともっと頑張らなきゃな、成長しなきゃなと思いました。

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起業の原点となったバングラデシュ

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学生時代に何度も通ったバングラデシュにて(安田さん提供)

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バングラデシュで現地に暮らす女性を撮影する安田さん(安田さん提供)

大学時代に、もう1つ人生の転機となったことがありました。世界のことをもっと知りたいと思い、いろんな国に行ってたんですね。中でも最も苦しい国の人のことを深く知りたいと、当時の世界最貧国のバングラデシュに初めて行った時のことです。

お金がなかったのでタクシーの運転手に「一番安い宿までお願いします」と言って連れて行ってもらったホテルが、1泊5ドルの売春宿だったんですよ。そこには農村から騙されて売られた女の子がたくさんいて、もし彼女たちと話ができるようになったら、僕がこの世界で何をすべきかがわかるんじゃないかなと思ったんです。

そこで、彼女たちをテーマにしたドキュメンタリー映画を作ろうと思ったこともあり、それからバングラデシュに通うようになりました。でもその売春宿のオーナーが撮影を許可してくれなかったので、村の方にある娼婦街を探して、そこにこもってずっと撮影してて。おかげで現地語も日常会話レベルなら話せるようになりました。この彼女たちとの交流が第2の人生の転機となったんです。


──具体的には?

学生時代に何度も通ったバングラデシュにて被写体でもあった現地の女性たちと一緒に(安田さん提供)

学生時代に何度も通ったバングラデシュにて被写体でもあった現地の女性たちと一緒に(安田さん提供)

村から騙されて売られた女の子たちは家族とも連絡を取っていなくて、社会から排除されていました。まず、この点で彼女たちは10代の頃の僕と同じだとまた勝手に共感を覚えたんです。

一方で普通の村に行くと貧しいのですがみんなそれなりに幸せそうなんですよ。例えば自分の家にテレビがなくても、隣の家にもテレビがないので何にも不幸だとは感じていません。幸・不幸というのは比較の問題で、村の平均寿命が50歳なら自分が50歳で死んでも別に不幸じゃないんだなと。

でも売春宿にいる女の子はお金は稼げているんだけど、みんな精神を病んだりリストカットしたりと、生きるのがとてもつらそうでした。だから人間の幸せってお金をたくさんもっているかとかじゃなくて、自分の尊厳が守られているかどうかで決まるんだなと痛感しました。それで将来は人間の尊厳を守る仕事をしようと決意したんです。これが後にキズキを立ち上げた原点となりました。といっても当時は何をやりたいのかわからなかったので、日本の一般企業に入ろうと就職活動を始めました。

何がやりたいのかわからない

──でも高校時代は国連に入って紛争解決の仕事がしたいと思っていたし、実際大学でも中東問題に関する活動をしていますよね。その思いは変わっていたのですか?

安田祐輔-近影3

1つは国連に入るためには民間企業・NGOなどでの数年の経験や大学院が必須でした。しかし当時、大学院に行くお金はありませんでした。

また、大学時代に、パレスチナ人とイスラエル人を呼んで合宿会議をやったことはよかったのですが、その規模の活動では当然ながら紛争解決まではまだ遠くて。だから紛争解決に対して日本人の自分が何ができるかわからなくなったというか。

じゃあ紛争解決ではなく開発などの国際協力ならばどうかと考えたのですが、途上国に対する活動ってどこまで人の幸福に寄与しているのかなと疑問に思っていたんです。先程もお伝えしたように、隣の家にテレビがなければ自分の家にテレビがなくても不幸を感じないからです。他にも、バングラデシュの貧困層の若者に教育支援をして知識や技術を身に着けさせても、仕事がないから不満だけが高まるかもしれない。教育を受けても仕事がないというのは、イスラム原理主義への共感につながっています。また、よしんば教育を受けたおかげで識字率が上がり、工場で働けるようになったとしても、その代わり先進国で工場が必要なくなり、先進国で失業者が生まれるかもしれない。もう何が正しいのか、わからなくなったんです。

でも、そうは言っても食べて行かなきゃいけないじゃないですか。当時は本当にお金がなかったし、子どもの頃の経験からお金がない生活だけはしたくないと強烈に思っていたので、取りあえず日本の一般企業に就職して、何をやるべきかは働きながら考えようと思ったわけです。


──就職活動はどうでしたか?

大学時代、他の学生のようにインターンしたり企業の研究会に参加したりせず、パレスチナ問題とかバングラデシュでのドキュメンタリー映像制作など好きなことばっかりやっていたので、どこも受からないかもと思ってビクビクしながら就活を始めました。やりたいことがわからなかったので、何らかの形で途上国に関われて、ワークライフバランスがよくて給料がいい会社に入りたいと思っていろいろな業界の会社に応募しました。そしたら意外と外資系コンサルティング会社、商社、メディアなどから内定をもらえたんです。就活で自分に自信がもてるようになりました(笑)。リーマンショック前の好景気だったことも大きかったと思います。その中から就職先として選んだのは商社でした。

不純な動機で商社に入社

──なぜ商社を?

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コンサルティング会社は給料はものすごくよかったのですが、労働時間が長すぎて耐えられないと思い、辞退しました。

メディアについては、当時その会社でバングラデシュの番組を作っていたのを観たのですが、僕が知ってる実情とはかけ離れていました。例えばバングラデシュの工場で働いている人たちは活気に溢れているとだけ伝えていたけれど、実際には現地に進出した多国籍企業との間で労働争議がすごく起きていた時期でした。面接でディレクターに「僕らは1ヵ月くらい滞在すればその国のことわかる」と言われた時、こんな会社で働けるかと内定を辞退したんです。当時は結構強気でしたね(笑)。

商社なら取りあえず途上国に関われそうだし、海外にも行けそうだと。あと時給換算すると商社が一番よかったんですよ。労働時間もそれほど長くなくて19時頃に帰れて、30歳前後で年収1000万円近くもらえると。もうここしかないと思いました。不純な動機ですよね(笑)。

就職するまでに時間があったので、半年間ほどバングラデシュに行ったり、ホームレス支援をしたりしていました。

今につながるホームレス支援

──なぜホームレス支援をしようと?

ちょうどリーマンショックが起こって、派遣切りとか日比谷公園に派遣村ができたりして日本の貧困が話題になりました。その様子をテレビで見て、もう少し日本の社会問題を知りたいと思ったんです。貧困といえば山谷かなと思い、取りあえず山谷に行きました。


──具体的にはどんな支援を?

炊き出し支援などを行いつつ、ドヤ街にいるいろんなホームレスの人と話しました。そのことを商社で働く先輩に話したら、「俺にはホームレスの人たちの生活が想像できない」と言われたので、ホームレスの方を招いた勉強会をやってみようと思いました。また、僕自身にとってもホームレスは近い存在でした。継母と合わず、野宿していた時もありますし、10代の頃は周りに貧困家庭の子が多く、大学や専門学校に行きたければ自分でお金を貯めて行くという発想が普通でした。でも一方で大学に行ったら、「高校時代にバイトなんてしたことない」という学生がほとんどだった。社会ってこんなにも分断されているんだなというのが問題意識としてずっとあったんです。それで、その分断を対話することで解けたらいいなと思って、山谷の公民館を借りてホームレスの人たちを集めて彼らの人生を聞く会を3、4回開催したんです。


──やってみてどうでしたか?

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すごくよかったですよ。例えばデパートで働いてたんだけど、借金ができて家に帰れなくなって、家庭もうまくいかなくなって上野公園で4日くらい座ってたらある人から声をかけられて山谷に来て30年くらい経っちゃった、という人もいました。

会場からの「今はどんな時に幸せを感じますか?」という質問に、「毎日生活費を稼ぐために空き缶を集めているんだけど、集め終わって朝日を見た時に、ああ、今日も生きててよかったと思うんだ」という答えにジーンと来ちゃったり。

もちろんこういう活動をしたからといって何も問題は解決してないし、何年もやって大きな成果を出せたわけではないのですが、ホームレスも一般の社会人も同じ人なんだなと思ったり、社会が分断されているから改めて埋めなきゃと思ったりしたことがすごくよかったですね。

ひきこもりの問題も実は似ていて、僕の周りのいい会社で働く人は「ひきこもりなんて怠けてるだけだ。助ける必要はない」という人も多い。社会は分断されているんです。だからひきこもりの人を支援することがなぜ大事なのか、社会に説明していかなければならない。例えば、働けない若者が働けるようになることで、税金で生活している人が税金を払う側に代わる。それは、特に今少子高齢化で働き手がどんどん減る今の状況では社会にとってもかなり有益ですよね。

この社会的分断に対する問題意識は昔から強くて、今でもそれに対して自分なりにどう答えを出すべきか、ずっと考えている途中です。今、キズキでいろいろやってる活動の一部はその答えで、そういう意味ではつながっているわけです。


インタビュー第3回はこちら

高校中退・不登校・ひきこもり専門の学習塾

──安田さんが起業した「キズキ」の事業について教えてください。

安田祐輔-近影1

形態としては株式会社とNPO法人の2つがありますが、どちらもミッションは同じで「何度でもやり直せる社会を創る」。そのために活動しています。

株式会社の方では主に5つの事業を展開しています。まずメイン事業となるのが不登校、高校中退経験者、ひきこもり状態の若者などを対象に、1対1の個別学習指導を行う「キズキ共育塾」の運営です。「キズキ」という名称には、自分の可能性に「気付き」、自分の将来を「築く」という2つの意味が込められています。現在、教室は代々木、秋葉原、大阪の3つがあり、今年(2017年)11月には池袋校もオープンします。

2011年の設立以来、生徒数は順調に伸びて現在は250名ほど。塾は10時から21時まで開いているので、「生活リズムを整えたいから朝から授業を入れたい」「仕事が終わってから通いたい」など、自分のスタイルに合った時間割を組むことが可能です。そのため、中学生から社会人まで幅広い層から利用していただいており、生徒さんの92%が新たな進路を見つけるまで継続して通塾しています。長年引きこもっていた子も、大学に入学し、見違えるように人生を楽しんでいる子がたくさんいます。講師の約半分は高校中退者や元ひきこもりなので生徒の気持ちがよくわかるんです。もちろん、中退・ひきこもり経験がなくても適切な指導ができる講師もたくさんいます。


──不登校やひきこもり状態の若者は勉強を教える前にコミュニケーションに問題を抱えているように思います。彼らをマンツーマンで教えるというのはかなり難しいのでは?

そうですね。もちろん普通に学校に通えている子を教える方が楽かもしれません。例えば入塾したばかりの子は塾に来ても緊張で手が震えてうまく話せない子も多いので、まずは普通に話ができるようにリラックスできる雰囲気づくりを心掛けています。なかなか勉強モードに入れないので、始めのうちは「この1週間、どうだった?」という雑談をするだけの子もいます。また、多くの子は継続して通うことが難しいんですね。2回に1回しか来られない子もいるし、予約を入れていても突然今日は休みますという子もいる。そういう子たちでも急かせず、じっくり時間をかけて支援する必要があるんです。

高校中退の子はそのままでは中卒になるので、就職先がものすごく限られてしまいます。よっぽど秀でた才能を持っていなければ、事実上、肉体労働以外の就職はなかなかできません。ゆえに肉体労働が向かない子は、高校に入り直すか、専門学校か大学に入るしかない。キズキに通う子たちは、はじめは雑談から入って進路相談とかカウンセリングみたいな感じで話して、段々勉強モードに移行していくという子が多いですね。また最近は、高校を不登校になった後で「通信制高校」に転学した生徒さんも増えています。

希望を見せるために

──具体的には彼らにどういう話をして、勉強モードにもっていくのですか?

安田祐輔-近影2

ひきこもりや高校中退の子って人口全体の数%しかいなくて、周りのほとんどの友達はみんな普通に学校に通って卒業しているから、自分はなんてダメな人間なんだと思い込んでいるんですね。だから他人と数年ぶりに会った時、ずっと下を向いていたり手が震えちゃう子がいたりするわけですよ。自分に全く自信をもてなくなってしまっているので。だからまずはどう自分自身を肯定してもらうかがとても重要です。支援というのは相手に希望を見せることがすごく大事なので。

例えば高校中退して21歳までひきこもってきたある子は、もう自分の将来は真っ暗だ、生きていても意味がないと信じています。インターネットの変な掲示板とかに21歳で大学に入っても就職なんてできないと書いているし、親や先生もそのままではダメだと言っちゃう。だからどんどん自信をなくしていく。

だから僕らは、「確かに昔はそういう時代もあったかもしれないけれど、今は人より3、4年遅れても全然大したことないよ」と言ってあげるんです。例えば、「うちには4年くらい不登校でひきこもりだったけど、キズキで勉強して大学に受かって今すごく楽しくやっている講師がいるよ」とか「大学時代にひきこもって2回中退して、30歳前後で大学を卒業した人でも、さまざまな塾で先生をして、40歳の時にうちに入社して楽しく働いている社員もいるよ」などと具体的なロールモデルを示してあげるんです。そうすると、人より数年遅れたって人生が終わるわけじゃないってことが納得できて、この先の自分の人生に希望がもてるわけです。


──希望がもてると勉強を頑張ろうと思えると。

その通りです。何事も無理だと思ったら頑張れないじゃないですか。仕事でもあまりに目標のハードルが高いとチャレンジする気さえ起きませんよね。何とかなるかもと思えて初めてチャレンジできるわけなので、ハードルがそれほど高くないということをどれだけ伝えられるかがポイントで、彼らと話す時に意識している点ですね。とにかく絶望感しかない子どもが前向きになってくれればという思いでやっています。

キズキ共育塾のスタッフ

キズキ共育塾のスタッフ

「今から死にます」という生徒も

──勉強モードに入ったら一安心という感じですか?

いえ、まだまだ安心はできません。生徒たちから「今から死にます」みたいな電話が時々かかってきたりもします。そういう子にはベテランの社員が対応しています。


──職員の約半分が元ひきこもりだから、生徒の気持ちがわかって適切な対応ができるってことなのでしょうか。

いや、それはあまり関係ないと思いますね。気持ちがわかるからよくないこともたくさんあるんですよ。メンタルに問題を抱える人への支援は論理的に行われるべきで、心理学やカウンセリングの世界では相談者に感情移入することは絶対してはいけない、とされています。「君の気持ちはよくわかるよ、一緒に悩もう」となると共依存の関係になってどんどん泥沼にハマっていきます。

だから現場に立った時は何とかしてあげたいという気持ちは大事にしつつ、この人には何が必要か、どんな言葉をかけたら元気になってくれるだろうかと論理的に考え、淡々と会話を進めていくことの方が大事なんです。

一人ひとりの心に寄り添う

──ほかに生徒を支援する上で心掛けている点はありますか?

キズキ共育塾では生徒の心に寄り添った1対1の個別指導を行っている

キズキ共育塾では生徒の心に寄り添った1対1の個別指導を行っている

基本的に、支援というのは他人に合わせてやるもので、自分がこうしたいという思いはいらないと思っています。ですので、一人ひとりの気持ちに寄り添った指導をすることを心掛けています。

例えば学校自体が好きだから先生になった人の場合、学校に行けなくなった子に「どうして学校に来ないの? 学校というのは行くもんだ」と上から言いがちです。また、普通の塾なら「君は偏差値55だから狙えるのはこの大学ね」と言う講師も多い。でもうちの講師には絶対それをやらないでくださいと伝えています。

コミュニケーションが得意な子は文系の私大に行ってもいいけれど、人と接するのが苦手な子には確実に今後30年食っていける資格が取れる大学を勧めた方がいいかもしれない。例えば23歳で大学受験をやり直したいという人には、これから有名大学に入れたとしても古い日系大企業入社を目指すのは現実的ではないけれど、公務員試験とマスコミは間に合うとかベンチャーなら年齢はあまり関係ないから行けるかもねという話をよくします。

つまり最終的な目的は生徒を大学に入れることではなく、1人ひとりがちゃんと自立して生きていけるような力をつけてもらうこと。そのサポートすることをすごく意識してます。

ですので、こちら側から一方的に生徒に指示、強制するのではなく、話し合いながら、進路はこっちがいいんじゃない? という感じで決めています。

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肝はマーケティングとオペレーション

──キズキ共育塾は起業以来生徒数が増え続けているということですが、ひきこもりや高校中退者が増えているということなのでしょうか。

安田祐輔-近影3

ひきこもりの人数としては、ほぼ横ばいと言われています。だから生徒増加の大きな理由はインターネット検索で引っかかるようになったことだと思います。スマホ時代になった時に個人の検索の頻度が増えて、それにともないキズキ共育塾へのアクセスが増えました。当社のWebマーケティングチームもSEO対策をしっかりやって、彼らに響く記事を作ってリリースしたことで不登校・高校中退・進学・受験などの検索ワードで上位に上がるようになり、その結果問い合わせや、入塾者数が増えていったのです。


──Webのマーケティングが大事なんですね。

はい。マーケティングには前からかなり力を入れています。どうして彼らがひきこもったままかというと、彼らにいい情報が届いてないからなんですよ。だからWeb上でいかに相手の心に届くメッセージを発信して、3年ひきこもったけどここだったら通えると思ってもらうことを、実際に支援することより大事にしています。それがこれまでの福祉の世界で足りなかったことだと思うんです。

大学や行政、企業とも連携

──そのほかの活動は?

大学・専門学校の中退者を予防する活動です。偏差値が30~40の大学や専門学校はほぼ無試験で入学できる所も多いので、そういう学校に行く子たちの成績下位者は不登校や高校中退者が多く、小学3、4年生レベルの学力の子もいます。だから講義についていけなくて中退しちゃう子が多いんです。中退者が増えると、大学としては学費が入ってこなくなるので、経営が悪化してしまいます。僕ら支援者としてもひきこもってしまうと社会から隠れ、見つけにくくなって支援することが難しくなります。そうならないように、うちのスタッフが大学に常駐して困難を抱えてる学生を学習面、メンタル面でサポートしているんです。

安田祐輔-近影4

3つ目は、新宿区から委託されている、20代から30代向けの就労支援です。新宿区在住の、ひきこもりの若者にカウンセリングや学習支援などを行ったり、書類の書き方や面接の仕方などを教えるなど、働けるようになるまでのトレーニングを行っています。

4つ目は足立区から委託されている、ひとり親世帯の家庭訪問学習支援で、スタッフが家庭まで行って勉強を教えています。

5つ目はこの9月から始めた企業の管理職向けのマネジメント研修です。企業には発達障害をもった人をうまく活用したいというニーズがあります。例えばITエンジニアなどはコミュニケーションが得意じゃない、自分のペースでしか仕事ができない、興味のない仕事は一切できない、けれども好きな仕事ならものすごいパフォーマンスを発揮して成果を出すといった発達障害の傾向をもつ人材が多いようなんですね。そういう人は、8時半に一斉に出社して働き、仕事終わりは飲み会で予定が埋まる、といった旧態依然の日本企業のスタイルに合わない人も多い。

日本の大企業の多くはいまだに旧態依然としたマネジメントで、一括で採用して配属も社員の適性など考えず会社の都合で決めて、「この部署に決まったから嫌でも5年間は我慢しろ」みたいなやり方をしています。このやり方だと、優秀だけどクセのある尖った人材は鬱になって辞めちゃう。これは会社にとっても大きな損失です。だから、イノベーション人材を生み出して活用するために、これから個々の性格に合わせたマネジメントをしていかなければいけないという問題意識を抱えている企業が増えているんです。

僕自身も軽度の発達障害があり、最初に就職した会社に4ヶ月で出社できなくなって、発達障害の人が日本の大企業のあり方といかに合わないかが身をもってわかっているんですね。だから、その問題を解決するために、40~50代の管理職向けにマネジメントプログラムを作って指導しているんです。

NPOとしての活動

──NPOとしての活動は?

1つは寄付を集めて生活困窮世帯の子に奨学金として、当塾の授業料の半額を給付しています。まだ小規模ですが。


──塾の授業料自体も安く設定しているのですか?

安田さんは現在、クラウドファンディングで「スタディクーポン・イニシアティブ」の支援者を募集している。

安田さんは現在、クラウドファンディングで「スタディクーポン・イニシアティブ」の支援者を募集している。主旨と支援先はこちら

いえ、普通の大手の予備校の個別授業よりも少し安いくらいですね。授業料を抑えることで社会貢献しようとは全く思っていないんですよ。

例えば行政などの事業だと、つい無料にしがちですが、高校中退・ひきこもり=貧困家庭じゃないですからね。もちろん高校中退者やひきこもりの子が貧困家庭に多いのはわかっているのですが、それがすべてじゃない。平均的な所得の家庭・裕福な家庭でもひきこもりの子はたくさんいるので、そういう家庭からは適正な料金をいただく。そうした方が新しく市場も生まれて、産業としても発展すると思うんですよね。一方で貧困家庭にはクーポンを配って塾に通えるようにする。そういうやり方があってもいいと思っています。

その話と関連するのが2つめの活動で、来年(2018年)の4月から始める渋谷区との共同プロジェクトです。一般的に行政からの委託事業において、貧困世帯の子が通える塾は、その自治体が委託した業者に限られるんです。経済的に余裕のある家庭の子は好きな塾に通えて、貧困家庭の子は塾を選べないのは間違ってますよね。だから行政の貧困世帯やひきこもりへの支援の仕方を変えたいと思って、4月から渋谷区と協業して、貧困家庭に塾に通うための3万円程度のクーポンを渡すという「スタディクーポン・イニシアティブ」を始めるんです。これによって子どもは好きな塾を選択できるし、民間の塾も自分の塾を選んでもらうために創意工夫をするようになるから活性化します。また、現金で渡すと自分で使ってしまう可能性などもありますが、クーポンで渡すとその恐れもないのでメリットが多いんです。

そのための最初の原資として1000万くらいが必要になるのですが、渋谷区もまだそこまで出せないので、うちとその他のNPO・株式会社などが合同で寄付を集め、来年の4月から配る予定です。


──株式会社とNPOの役割の違いは?

株式会社では社会にとって必要でかつ儲かりそうなものをやる。NPOは儲からないけど社会に必要なことをやる、というシンプルな考え方ですね。

仕事に懸ける思い

──安田さんはそれらの活動にどういう思いで取り組んでいるのですか?

安田祐輔-近影6

僕自身がいわゆるちゃんとした家庭に育ってなくて、小さい頃に両親の元を離れて暮らさざるをえなかったり、発達障害があって、学校も辞めていたり、会社に就職してもすぐ鬱になって退職してひきこもったりという経験をしているんですね。でも僕は運よく、いいタイミングでいろんな偶然が重なったおかげで立ち直って今、何とかこのような活動ができるまでになりました。

自分自身が生きている意味というか、なぜそんなことを経験してしまったんだろうと考えた時に、僕のように困難な状況にある人が何度つまずいても、何度でもやり直せる社会を創ることが僕の使命だと思ったんです。この思いがすべての活動の根本にあります。


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お金との関係性

──丹羽さんはこれまでタイのコミュニティファームで自給自足の生活を送ったり、コスタリカのジャングルの中で暮らしたりと一般的な日本人にはなかなかできない生き方をされてきたように思えます。ただ、世界中どこにいてもある程度はお金って必要じゃないですか。そのお金に対してはどのような考え方をもっているのでしょうか。

丹羽順子-近影1

実はお金っていうのは私の中に重大なテーマとしてずっとあるんです。例えば、私がずっと考えている環境問題も究極はお金の問題に行き着くんですよ。世界のみんながお金に対する価値観を変えない限り、環境問題も改善しません。そこはすごく大事なポイントだと思っているんですが、問題として切り出して提示してくれる人ってあんまりいなくて。

私の中ではずっとlove & hateな関係というか、その時々で自分なりにいつも折り合いをつけながら、一番ヘルシーな関係を築こうとはしてますね。


──今現在はどんな関係なんですか?

タイ時代は何とかなっていたんですが、コスタリカに移住したばかりの頃はちょっとヤバいぞとなり、今はちょっと盛り返してきてるというか、何とかなりそうな感じですね。ただ、今、すごい悩んでます。その悩みをはっきり答えが見つかるまでためておかないで、表に出すようにしています。人と話すことで見えてくることもよくありますからね。


──その悩みとは具体的には?

例えば私のメインの仕事である、ヨガや瞑想、呼吸法などのいろんなワークショップの料金体系を作るときに、適正価格にするものもあれば無料にするものもあったりといろいろ試してます。お金がないからワークショップに参加できないという人をあまりつくりたくないから。お金だけでスクリーニングしたくないんですよ。でも、だからといって全部誰でも無料でウェルカムですよってしちゃうと私と娘の生活が成り立たなくなっちゃう。そのバランスが悩ましいですね。

写真提供:丹羽さん

写真提供:丹羽さん

でもお坊さんに「瞑想なんか教えてお金取るの?」と怒られたりもするんですよ。そう言われると確かにどうなんだろうとか思うし、ヨガだって5000年の歴史があってすごく深い叡智があるのに、私なんかが3、4年勉強したくらいでお金取って教えていいんだろうかと考えたりもします。だから行ったり来たりですね、そこは。「そうは言っても」って思う時もあれば、「でも確かにそうだよなー」っていう時もあるし(笑)。

とにかくこれまであっちいったりこっち行ったりしてきましたが、その時々で自分ができることを精いっぱいやって食べてきただけなんですよね。


──丹羽さんは軽くおっしゃいますが、それってすごいと思うんですよ。見ず知らずの国に行ってお金を稼いで生きてる、しかも子どもまで養っているということが。

でも日本に帰国した時にやってるワークショップの収入がなかったらまだやっていけないかな。全部合わせて数百万レベルなのでどっちの割合が大きいも何もないんですけどね(笑)。


──でもそれだけでも十分に暮らしていける感じなんですね。

そうですね。もちろん贅沢はできないし、何とかやっていけてるという感じだけど、本当に豊かな生活をしてるなって思うから、今は満足してますね。

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自身にとっての幸福

写真提供:丹羽さん

写真提供:丹羽さん

──丹羽さんにとっての人生の豊かさ、幸せとはなんでしょうか。

寝ること、食べること、話すこと......何気ない日常のクオリティが高いことが幸せだなと感じます。例えば、みんな呼吸しているじゃないですか。でも、本当にきちんと息を吸って吐けているかというと、実は人間は肺の10%しか使ってないんですって。その命の手綱である呼吸のクオリティを上げると、それだけで人生の質が上がるんですよ。仏陀も「人生の質を高めたければ呼吸の質を高めなさい」と言ったらしいんですけどね。そういうことを呼吸法のワークショップで教えているんです。今この瞬間に注意を払って息をしたり、人と目を合わせたり、人の話を聞いたり、そういった日常の行動のクオリティを上げることが幸せにつながると思いますね。


──さまざまな場所に移り住んできた丹羽さんが、一番大切にしていることが「日常」というのがおもしろいですね。

すべては自分の中にあるんですよ。内側を見れば全部ある......やばい、泣きそう(笑)。(涙を拭いながら)それに中々気づかないから、私自身も外へ外へと向かっていた時期も長かった。どこに行っても、何をしていても、自分自身と向きあうことですべての答えが見えてくるような気がしています。だけど、特に日本に帰ってくると感じるのが、ほとんどの人は自分の内側を見ようとしないということ。都市には情報も、お店も、おもしろいものも、おいしいものも何だってたくさんあるから、自分自身と対話する時間というのが本当に限られてしまう。私が住んでるノサラには何もないので、瞑想して自分と向き合わざるをえない。それが本当によかったなと思います。

これまでの自分の人生のあゆみを話しながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったり本当にしっちゃかめっちゃかな人生だなと思いますけど(笑)、すべての辻褄が合ってるというか、現段階では全部よかったなと思います。自分にとってよかったものを人様に提供して、それでお金っていうエネルギーもいただいていますからね。

今後の展望

丹羽順子-近影2

──今後やりたいことや展望を教えてください。

娘が小学校を卒業する3年後くらいにはコスタリカを離れて新しい国に行くかもしれないです。


──次はどの国に?

まだ全然わからないのですが候補の1つにカナダがあります。娘がカナダに行きたがっているんですよ。娘に合わせて生きてるっていうか、住む場所を決めてるところもあるのでそうするかも。


──仕事や活動としてやりたいことは?

海外に出た日本人って日本のよさを再発見するっていうじゃないですか。私もご多分に漏れず本当に日本ラブなんですよ(笑)。本当に最高ですよ、日本は。人の礼儀正しさ、奥ゆかしさ、おもてなしの心、そして日本食。どれをとっても素晴らしいと思います。だからゆくゆくは外国人向けに日本でゆったりできたり、ディープな経験ができるツアーをやりたいと思っているんです。


──ということはいずれは日本に帰るんですね。

はい。娘の子育てが終わったら私は日本に住みたいので。娘はどこに行くか知らないですけどね(笑)。あとは、瞑想というものが私にとって、自分が幸せでいられる、自分が自分でいられる大切な毎日の修業なので、それをずっと続けていきたいと思っています。


東日本大震災を機に西へ

──3.11の東日本大震災を機に鎌倉での生活が終わりを告げたとのことですが、やはり原発事故がその理由ですか?

丹羽順子-近影1

はい。でも実は、私の方はそれほど深刻には受け止めていなかったんですよ。でも娘の父親が「君がどうするかは自由だけど、僕は子どもを連れて海外に行く」と言い始めたんです。その頃は仕事も順調で、せっかくいろいろやってきたことが実を結び始めたタイミングだったので、正直悩みました。でも彼に「将来子どもに何かあったときに後悔しない?」と言われた時、やはり日本を出るべきだと思ったんです。鎌倉の居心地があまりにもよすぎたので、出ることなんて考えてなかったんですけど、一気に考えが変わりましたね。


──そこからいきなり海外へ行かれたのですか?

いえ。当時ラジオのパーソナリティの仕事もしていたので、私はすぐに日本を離れるわけにはいかなかったんです。まず震災の3日後に家族一緒に車で家を出て、西の方へ向かいました。名古屋、大阪、京都など逃避行のように転々としていたのですが、その間、私だけ毎週東京のスタジオに通ったり、東北の被災地へ支援に行ったりしていました。最終的には香川に落ち着くことになり、きりがいいタイミングでラジオの仕事を辞めたんです。


──香川を拠点にしたのはどうしてですか?

「私たちはいいけど、原発の被害を受ける福島の人たちはどうなるのか」と思ったんです。福島の人たちをどこかに呼び寄せられないかと思いつき、twitterで「誰か家を貸してくれる人はいませんか?」と呼びかけました。そうしたら「うちの実家が空いてるので使ってください」と言ってくれた人がいて、その場所が香川だったんです。そして福島に住んでいた5家族を呼び寄せて、一緒に私たちも半年ほど住まわせてもらうことにしました。家主はその当時全くの見ず知らずの人だったんですけど、あのときは「助け合い」や「絆」という流れが強かったですから。ある程度落ち着いたら彼らは福島へ帰り、私たちは日本を出たというわけです。


──どの国へ行ったのですか?

丹羽順子-近影2

タイです。彼が仕事でよくタイに通っていて、タイ語を話せたので、「とりあえず行ってみようか」くらいの感じでした。


──国内ならまだしも、海外に出るということはクライアントや仕事のつながりを全部切るということですよね。これまで積み上げてきたものを捨てるというか。そこに不安や葛藤はなかったんですか?

なかったかなあ。当時は若かったので(笑)、過去のものを大切にするよりも次、新しい場所に行きたいという気持ちが大きかったですね。根拠のない自信があって、たぶん後で痛い目にあうだろうけど、何とかなるだろう、みたいな(笑)。

あとは、自分の中に入っていって考えて、自分の人生で何が一番大事かを考えた時、娘の健康だったり、自分のやりがいだったり、Wellbeingだった。そう思うと、あんまり贅沢も言ってられないから、ちょっと収入が下がるけど海外へ行こうと。そこの直感に従わないと絶対あとで後悔するからっていうのがあったんですよね。また今の時代、ネットがつながる環境なら世界中どこにいても仕事はできますからね。

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タイで自給自足の生活

──タイのどんな場所に住んだのですか?

丹羽順子-近影3

電気もガスも水道もない「タコメパイ」というファームです。ネットで移住先を探していて見つけた時、おもしろそうだなと思ってパートナーに言ったら彼もいいねと言ってくれて。そこで自給自足の生活が始まりました。お米は自分たちで全部作って、水牛を引いて畑を耕して野菜を作ったり、家も竹や木を切って自分たちで作りました。だから毎日泥だらけになっていましたね。携帯電話がナタに代わったみたいな感じですかね。6キロ先に小さな農村があって、そこに行けばネットも使えたので、私は週1~2日はそこでコンピュータを使って仕事もしていました。とにかく刺激的でしたね。


──娘さんの教育は?

ラッキーなことに、その近くの農村にコロンビア大学と国際連合のテストケースというような形でインターナショナルの幼稚園ができたんですよ。だから、娘は私たちがバイクで送ってオルタナティブな教育を受けていました。すごくいい生活だったのですが、いよいよ小学校に上がるってなったときに、近くに学校がなかったのでタイを離れ、コスタリカに移り住むことにしたんです。


──コスタリカを選んだワケは?

知人に次にどこへ行こうかという話をしたら、ある人から「日本からなるべく遠く離れた場所がいいよ」って言われたんです。いくら行きたくなっても、親が老いてくるとあまり遠い場所へは行けないから、この機会にアフリカとか中南米といった遠いところに行くのがいい、と。今考えたらすごく無責任な意見ですけどね(笑)。そこで、いろいろ調べていくうちに、コスタリカは軍隊のない平和な国だし、エネルギーもほぼ100パーセント自然エネルギーに近かった。原発事故を経験しているからこれは大きかったですね。


──現在住んでいるノサラを選んだ理由は?

自宅近くの海岸にて(写真提供:丹羽さん)

自宅近くの海岸にて(写真提供:丹羽さん)

Googleさんが連れてきてくれました(笑)。Googleで「コスタリカ インターナショナルスクール」「environment nature」といったキーワードを打ち込んで検索して出てきたのがノサラだったんです。そもそもタイを離れようと思った理由は娘の学校の問題だったというのは先程お話したとおりですが、ノサラには素晴らしい小学校があったんです。教科書もカリキュラムもテストもない、魂の教育といわているシュタイナーという教育法を採用している学校で、立地も海がすぐそばのジャングルの中。そんな大自然の中で世界中の子どもたちと一緒に学べるというまさに理想的な小学校でした。だからノサラに決めたんです。

でもコスタリカへ移住したのは私と娘の2人だけでした。娘の父親と話し合った結果、これを機に別々の道を行こうということになり、彼はタイに残ったんです。でも決してお互い嫌いになったというわけではないので、彼も娘に会いにコスタリカまで来たり、日本や旅行先で落ち合って、みんなで家族の時間を楽しく過ごしたりもしますよ。

ノサラのビーチに沈む夕陽(写真提供:丹羽さん)

ノサラのビーチに沈む夕陽(写真提供:丹羽さん)

コスタリカでの生活

──コスタリカでの生活はいかがでしたか。

写真提供:丹羽さん

写真提供:丹羽さん

タイで自給自足のものすごく泥臭い生活をしていたのが一変しました。冒頭でもお話した通り、移住したノサラという場所はジャングルと海が近い田舎なのですが、世界中からお金持ちが移住してくるリゾート地に近い感じで、物価も高いし、アメリカナイズされていたりと、想像していたのとは全然違ったんです。最初はそのギャップに戸惑いました。それでもノサラを離れなかったのは、ヨガとの出会いがあったからです。ヨガは動く瞑想みたいなもので、瞑想を始めたら、この土地を受け入れられるのが私の人生なんだ、という気になったんです。

また、先ほどお話した娘の小学校が理想的だったことも大きいですね。私も娘も世界一の学校に巡り合えたなと思っていて、だったらここでやっていこうって思ったんです。だからこの学校がなかったら別のどこかに移っていたかもしれませんね。


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