2017年7月アーカイブ

国境なき医師団看護師の仕事論[第4回]

飛び上がって喜ぶ

──幾多の困難を乗り越え、ついに夢が叶ったわけですね。合格した時の気持ちは?

白川優子-近影1

国境なき医師団の面接試験に合格するのはかなり自信があったのでその結果を知った時よりも、国境なき医師団のTシャツが郵送で届いた時が一番うれしかったですね。国境なき医師団のロゴがプリントされたTシャツに袖を通した瞬間、体中に電流が走ったような感動と喜びで自分の部屋で叫びながら飛び上がりました。これまでの人生でこんなにうれしいことはないといってもいいくらいで、すぐ外に出て母に写真を撮ってもらいました。この時のうれしさはいまだに昨日のことのように思い出すことができます。まさに長年の夢が叶った瞬間でした。


──初めて国境なき医師団の看護師として派遣された時はどうでしたか?

初めての派遣はその4ヵ月後の8月、スリランカでした。実は派遣の要請は登録後すぐ来たんですが、当時のスリランカはビザの取得に3ヵ月以上かかっていたので少し間が空きました。

初回派遣なので行く前からどんな世界なんだろうと好奇心で胸を膨らませていました。任期は当初は6ヵ月の予定だったのですが8ヵ月に延長。その間、手術室の機材の片づけや洗浄、オペ後の掃除、リネンの消毒・洗濯などを担当する看護助手のサポートを中心に、病棟では衛生管理の改善指導、さらに薬剤・物資の管理まで行いました。初回なので最初は戸惑う場面もありましたが、こういう世界に私は足を踏み入れたんだなと思うと同時に、本当にこの道を選んでよかった、この先も続けられると思いました。

2010年、初めての派遣先となったスリランカにて。チームのメンバーとも楽しく過ごすことができた(©MSF)

2010年、初めての派遣先となったスリランカにて。チームのメンバーとも楽しく過ごすことができた(©MSF)

1番よかったのは新しい自分を発見できたことです。長年夢見ていた国境なき医師団で実際に活動できたことで、何でもやればできると自信がつき、私自身が大好きになりました。語学の壁にぶつかった時、あきらめなくて本当によかったと思いましたね。

先ほどもお話しましたが、スリランカの時は、オーストラリアの病院のお言葉に甘えて籍を残したまま参加していました。でも派遣中、やっぱりこれからも国境なき医師団で活動を続けていきたいと思い、病院に正式に辞意を伝えました。それから7年間で14回、主に紛争地で医療活動に従事しています。

2016年イラクにて。国境なき医師団の同僚たちと一緒に(©MSF)

2016年イラクにて。国境なき医師団の同僚たちと一緒に(©MSF)

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看護師として働くために生きている

2014年に派遣された南スーダンではテント1つで医療活動が始まった(©MSF)

2014年に派遣された南スーダンではテント1つで医療活動が始まった(©MSF)

──白川さんにとって仕事とは、働くとはどういうことでしょうか?

私の場合は本当にやりたいことが仕事になっているのですごく幸せです。こういうことがやりたいと心の赴くままに進んできて、国境なき医師団に入ってみたら本当によかったと思いましたし、国境なき医師団の看護師として働けることがうれしいし喜びも感じています。ですので、私にとっての仕事というのは、「自分の心の赴くままにやること」なのだと思います。

今でも看護師という仕事は天職だと堂々と言いきれます。人生のすべてで、看護師になるために生まれて、看護師として働くために生きていると思っています。

ただ、もちろん働く理由や動機がお金を稼ぐためでも全然いいと思います。それは否定しないし、私もオーストラリアの大学に長期留学すると決めた時、その学費を稼ぐため給料の多い病院に転職したこともありました。だからそれはそれでいいと思うんですが、働くことってやっぱり自分の幸せと喜びにつながらないとつらいだろうなと思います。私はそれがないから幸せだなと思っています。


──でもひたすら人のために働くって疲れないですか?

白川優子-近影2

働くことって決して人のためではなくて自分のためなんだと思います。自分がやりたいことをやることが結果的に人の援助になっているというだけなんです。


──昔から自分の好きなことを仕事にして生きていくことが幸せな人生につながると考えていたのですか?

そこまで考えていたわけではありません。何も考えてはいないけれどやりたいことをやってきた結果が今に繋がっています。人生観についてとかも特に考えているわけでもありません。

国境なき医師団以外の仕事も

──働き方についてうかがいたいのですが、日本にいる時はどういう生活なのですか?

今は、たまたま国境なき医師団の日本事務局がスタッフを必要としていたので、東京のオフィスで事務系の仕事をしています。その作業は大好きな看護ではありませんし、それこそ活動現場よりも泣きたくなるようなつらいこともあります。でもそんな中でもやっぱり喜びは感じています。私の尊敬している国境なき医師団のためになると思えば看護の仕事ではなくても頑張れるし喜びを感じることに気づきました。

また、国境なき医師団とは別の仕事をすることもあります。日本人の海外での傷病時における空輸搬送の仕事の案件を引き受けることもあります。あとはこのようなメディアからの取材に対応したり、各地で講演をしたりという感じですね。仕事以外では、中東に行くことが多いので、アラビア語の勉強のため学校に通っています。アラビア語で現地の人たちとより深くコミュニケーションに役立てたいと思っています。

本を書いて世界に伝えたい

──今後の目標を教えてください。

戦地に生きる子どもたちと一緒に。2012年イエメンにて(©MSF)

戦地に生きる子どもたちと一緒に。2012年イエメンにて(©MSF)


この先やりたいことはこれまで見てきたこと、体験してきたことを世界に向けて発信すること。取材を受けたり講演をしたりといったことのほかにも、本を書きたいという大きな目標があります。それも自分の体験をただ書いて伝えるのみが目的ではなくて世界の非人道的な現状を伝えて、考えるきっかけにしてもらうために書きたいと思っています。読んでいただいた人の中から共感し立ち上がってくれる人が1人でも現れたらうれしいですね。


国境なき医師団看護師の仕事論[第3回]

7歳の時に観たテレビ番組で運命が決まった

──ここからは白川さんが国境なき医師団の看護師になった経緯を教えてください。

白川優子-近影1

初めて国境なき医師団という存在を知ったのは7歳の時。たまたま観ていたテレビのドキュメンタリー番組です。その頃は言葉にはできなかったけれど、医療を提供するに当たって、国境、人種、肌の色、宗教、政治的な信念、考え方など一切関係なく、同じ人間として医療を提供するという理念が素晴らしいと感じて、尊敬を抱いたのだと思います。今でもその時の感覚を鮮明に覚えています。以来、国境なき医師団は高嶺の花のような形で私の心の中にずっと存在していました。ただ、この時に看護師になりたいと思った記憶はありません。


──では小学生の時の夢は?

夢というか、どこかから「青年海外協力隊」という言葉を耳にした時に興味のアンテナが動いたのを覚えています。援助という言葉には敏感だったかもしれません。中学生の頃も看護師になりたいとは思ってなかったですね。というか将来のことなんて全く考えてなかったです。明確に看護師になりたいと思ったのは高校生の時ですね。

私が通っていた埼玉の高校は進学校じゃなかったので、2年生くらいからみんな就職活動をしてどんどん就職先を決めていました。ほとんどの子は一般企業の事務職だったのですが、私は自分が事務職に就くことに全くピンときていませんでした。じゃあ私のやりたいことって何だろうと考えていた時に友人が看護師になると聞き「あ、これだ!」と思いました。身内にも医療関係者はいないし、ほぼ直感ですね。

それをきっかけに地元の看護学校を受験して入学したんですが、この道を選んで本当によかったと思いました。当時その看護学校は全国でも珍しい4年制の専門学校で、地域の看護師不足を解消するために新設された学校だったので1年生の時からクリニックや病院で半日働いて、半日学校で勉強するというのが原則だったんです。

通常の看護学校とは違って、入学していきなり患者さんと接することができたのがすごくよかったですね。といってもまだ看護師の資格がない看護学生なので、やることといえば患者さんをお風呂に入れたり、おむつを交換したりということだったんですが、それにとてもやりがいを感じていました。仕事と勉強で毎日忙しくてきつかったのですが、毎日患者さんと接することの喜びを4年間感じていました。本当にこの道を選んでよかったってずっとずっと思っていました。

医者ではなく看護師に魅力

──なぜ看護師を選んでよかったと?

白川優子-近影2

以前、ある医師に「そんなに国境なき医師団が好きで人道援助がやりたいのなら、どうして医者になろうと思わなかったの?」と聞かれたことがあったのですが、医者になろうと思ったことはこれまでも特になかったですし、これからもないと思います。医師の尊い仕事とはまた違う看護の仕事に私は魅力を感じています。

私は病気を治すという行為よりも、例えば患者さんのおむつを交換したり、入れ歯を洗ったり、入浴の介助をしたり、吐いてしまったものを拭いてきれいにしたりすることなど、患者さんの生活や人生の一部に関わって、支えになることが好きなんですね。

さらにある意味、看護の力で患者さんを治すこともできるんですよ。例えば眠れないという患者さんに睡眠薬を与えることもできますが、「どうしたの?」と話を聞いてあげる。それで、患者さんのモヤモヤした心のつかえ、悩み、心配事が取れてぐっすり眠れるかもしれない。痛みを訴える患者さんに痛み止めの注射をすることもできますが、私たち看護師が手を握って話を聞いて背中をさすってあげる。それで痛みが取れるかもしれない。それが看護なんです。私はこのような看護の仕事が大好きで、看護師としてやりがいや喜びを感じますし、看護師になってよかったと思える理由もこの辺りに見出せます。

2016年、イエメンにて(©MSF)

2016年、イエメンにて(©MSF)

──やりがいとしては患者さんから感謝されることも含まれていますか?

確かにありがとうと言われればうれしいのですが、そのためにやっているというわけではないですね。看護学校の1年生の時に配属されたのが脳外科病棟だったので、病室には意識のない患者さんたちもいました。そういう人たちは身体を拭いてあげても意識がないのでもちろんありがとうという言葉は発しません。だからといって仕事をしていて物足りないということはありません。ですから仕事のやりがいが、患者さんから感謝されるかどうかというところにあるわけではないんです。

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衝撃的な"撃沈"

──看護学校に通っている時から将来は国境なき医師団を目指そうと思っていたのですか?

白川優子-近影3

確かに意識はしていました。実際に同級生たちにも将来は国境なき医師団に入りたいと話していました。その時は同級生たちも「国境なき医師団ってかっこいいよね、あこがれるよね、絶対入りたいよね」と話していたのを覚えています。その気持ちを卒業後もみんな普通にもち続けていくものだと思っていたのですが、国境なき医師団の看護師になっているのは私だけでした。


──看護学校を卒業後は?

地元埼玉県内の病院に就職して外科、手術室、産婦人科など、いろんな分野で看護の仕事を経験しました。この間も国境なき医師団への思いは変わらず持ち続け、25歳の時に(国境なき医師団の)職員募集の説明会に参加しました。看護師3年目なので乗りに乗って新人指導くらいのレベルになって自信も出てきて、「よし、もう看護師として一人前だ。国境なき医師団の説明会に行ってみよう」と意気揚々と国境なき医師団の日本事務局に行きました。ところが説明会で高いレベルの英語かフランス語が必須だと知り、夢が打ち砕かれたと......。これが一番衝撃的な"撃沈"でした。職員のほとんどは外国人だし海外で活動するので高い語学力が必要なのは当たり前なんですが、当時はそこまで考えが及んでいなかったんです。


──英会話学校に通ったりしなかったんですか?

実はそれから英会話学校に3年間通ったんです。その後、ペラペラになったと思って英語力を試そうとオーストラリアに短期留学で数ヵ月行きました。そこでもまた大撃沈。私の英語が全然通じなかったんです。

そもそも英語を学んだ目的は国境なき医師団でプロの看護師として業務をするためなわけですが、通っていた英会話学校は日常的なレベルの英会話クラス。やっぱりそんなレベルはまだまだ全く甘かったんですね。

英会話学校の先生に相談したら「え、国境なき医師団の看護師を目指していたんですか? それはあなたの英語力ではちょっと厳しいかもしれませんね。そこまで到達するのには相当かかりますよ」と言われこの時はさすがにもう無理かなと思いました。

夢のためオーストラリアに留学

──それからどうしたんですか?

白川優子-近影4

また国内の病院で看護師として働いていたんですが、やっぱりあきらめられませんでした。どんどん国境なき医師団への思いが募り、29歳の時にオーストラリアに留学しました。今度は前回のような軽い気持ちではなく、本気で英語を身につけるために出発しました。この時、母が「絶対にあなたの(国境なき医師団の看護師になるという)思いは変わらないから行きなさい」と私の背中を強く押してくれました。今でも感謝しています。

オーストラリアでは最初、大学に入学できるレベルの英語力を習得するために語学学校に入学しました。本気で勉強したら大学に入れるまでのレベルにすぐに達することができました。それでオーストラリアン・カトリック大学看護学科に入学して2年間学び、卒業後1年目はオーストラリアのクリニックに看護師として勤務。その後メルボルンにあるロイヤル・メルボルン・ホスピタルというメルボルンでも有名で大きな病院に入ることができました。まさか入れるとは思わなかっただけに夢のようで、とてもうれしかったです。その病院で4年ほど勤めました。オーストラリアの病院時代は外科や手術室の看護師として働くほか、最後の方ではチームリーダーを務めたり、学生や新人指導の担当をしたりしていました。


──日本人なのに現地のスタッフの指導までするなんてすごいですね。ではオーストラリアの病院に就職してからは英語で仕事をするのに困らないというレベルまで達していたわけですね。

実は大学を卒業してよかったというわけではなくて、本当の英語の壁って就職してからどんどん出てきたんです。特にロイヤル・メルボルン・ホスピタルでは英語のコンプレックスで本当につらい時期もありました。でも頑張って最終的にはチームリーダーや新人指導ができるまでになったので、もういよいよ国境なき医師団の門を堂々と叩けるぞという自信を得て、2010年(36歳の時)に帰国しました。実は帰国する時に、ロイヤル・メルボルン・ホスピタルの看護部の上の人が「国境なき医師団に行ってもいいけど、いつでもこの病院に帰ってこられるように籍だけでも残しなさい」と言ってくださったんです。本当にこの病院の職員たちはみんな温かくて、そんなに私を評価してくださっているんだと思うととてもうれしかったですね。

そして帰国した2010年4月に国境なき医師団の面接を受けて合格、手術室看護師として登録しました。


※第4回(7月18日リリース予定)では白川さんにとって仕事とは何か、働くとはどういうことか、今後の夢などについて語っていただきます。乞う、ご期待!

国境なき医師団看護師の仕事論[第2回]

大きなショックを受けた2016年・ガザ

──白川さんは国境なき医師団の看護師として7年間で14回も派遣されているわけですが、これまでで一番印象に残っている出来事を教えてください。

白川優子-近影1

どこも過酷な現場なので派遣先それぞれに忘れられない思い出はあります。ただ、紛争地ではないけれど、世の中でこんなことがあっていいのかというほどに非人道的なことが行われている地もあります。例えば去年(2016年)パレスチナのガザ地区に初めて行きました。当時は戦闘状態ではありませんでしたが、爆撃機や戦闘機は常に上空を飛んでいて時々空爆が起こります。それだけでももちろん恐怖ではありますが、町の人たちは慣れてしまっていてまるで何事もないかのような生活を送っています。180万人ものパレスチナ人を四方から完全に閉じ込めてしまっているエリアで起こっているこの現実を見て、とても大きなショックを受けました。

ガザ地区での任期は4ヵ月間だったのですが、その短い時間でも閉鎖された地域にいることにものすごい閉塞感を感じて精神的に支障をきたしそうになりました。私は任期が終われば出られますが、そこに暮らす人々は出られません。数年おきに激しい戦闘があり、たくさんのミサイルや爆弾が飛んでくるにもかかわらず、四方を囲まれているためどこにも逃げ場なんかない。その恐怖とストレスたるや想像を絶するものがあります。

戦闘のたびに町中がめちゃめちゃに破壊されていますが、直近の2014年の紛争で破壊された建物やインフラはまだ全然復旧されていません。発電所が破壊されると上下水の処理もできないので、シャワーの水も口に入るとしょっぱかったり苦かったり、髪の毛もボロボロになりました。ここにいる人たちはそんなひどい状態の中で何十年も生活を余儀なくされています。普段は明るい人々ですが、みんなが深い悲しみと絶望を抱えていることが、少し接するだけでも明白にわかりました。

ガザ赴任初日。現地の人も普段は笑顔を見せているのだが...(©MSF)

ガザでは2つのクリニックの看護部長の役割で、合わせて50人ほどの現地スタッフを指導・育成していたのですが、深く関わる彼らや患者さんはじめ、道端で知り合ったおじさん、おばさん、子どもたち、みんながみんな紛争で家族・友人を亡くして悲しい思いをしていたり、自分たちはいったいいつここから出られるんだという閉塞感を抱えて暮らしていています。

特に若者たちが不憫でした。高い教育が受けられる大学があるにもかかわらず、そんな大学を出ても就職先がなく、当然占領区域の外にも出られません。だから若者たちがよくイスラエルに対して抗議デモをするんですが、そのたびにイスラエル軍に銃で撃たれるんです。そういった若者たちをクリニックに収容して治療やケアするのですが、病院から送り出した後にまたデモに参加して撃たれてクリニックに戻ってくる。そんなことを3回も繰り返している若者も実際にいました。

もちろんこういったパレスチナ問題はニュースなどで知ってはいましたし、何十年も前から起こっていることではあります。しかし、実際にガザに行って2016年のこの時代にいまだにこんなことが続いていて、占領区域内から届かない叫び声を上げ続けている人たちがいるという世界を見てしまったときに、今までの紛争地で感じたこととは違う重いものを抱えてしまいました。それはいまだに胸の奥に感じ続けています。

大きなジレンマ

──患者を治しても治してもまた撃たれて病院に戻ってくることに無力感に襲われたりはしないのですか?

2012年イエメンでの手術の様子(©MSF)

2012年イエメンでの手術の様子(©MSF)

手術室看護師として、国境なき医師団から派遣される先が紛争地ばっかりだったわけですが、やっぱり治しても治しても患者は来る。治している最中にも空爆や銃撃の音が聞こえる。こういう経験を重ねるうちに、こういう絶対に許されないことを止めるには、その根本的原因である紛争を止めなくてはいけないと考えるようになりました。そのためにはやはり看護師ではなくてジャーナリストのように、こういう非人道的なことが行われているという現状を世界に伝えなくてはいけないなというところに行き着いてしまったことは確かにあります。自分が国境なき医師団の看護師として従事している医療活動は紛争を止めるための根本的な解決にはつながっていないということにすごいジレンマを感じた時期もありました。

白川優子-近影2

この思いはいまだにあり、現場で見てきたことを伝えることはすごく大事だとは思います。だからこういう取材や講演で伝えてるわけです。もちろん私たちの使命は現地で傷ついた人を治療したり医療スタッフを育成したりすることですが、国境なき医師団には、世界で起きている人道危機について証言するという事も使命の1つにしていますので、私が現地で見てきたものを世に伝えることも大事な任務の1つだと思っています。戦争や紛争を止めたいというのが一番の思いではありますが、でも伝えることで本当に争いが止まるかといったらわからない。その辺で確かに無力感に襲われることもありますが、発信して知ってもらわないことには始まらないなとも思うので......。


──戦争を止めるためには看護師じゃなくてジャーナリストになる方がいいと思いつつも、いまだに看護師として活動し続けているということはやっぱり看護師の方がやりたいということなのでしょうか。

そうですね。そもそも国境なき医師団に入ったのは紛争を止めたいからではなく、看護師として人道援助をしたいと思ってたからです。今従事している活動もとても大事だと思い直しましたし、看護師だからこそ伝えられる事もたくさんある事に気づきました。

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憎しみの連鎖を断ち切りたい

──具体的にはどう思い直したのですか?

白川優子-近影3

先程お話したとおり、現地スタッフの育成が私のメインの仕事ではありますが、患者さんと接する機会も実際には多くあります。患者さん、特に子どもですね、気にかけて話しかけて、手を握ったりハグしたりしてあげるととても喜びます。イエメンやシリアなど世界から見放されたような地域で暮らしている人々はみんな悲惨な体験をしています。本当に毎日大変でつらい思いをしている。そんな中、こんな危険な地域にでも海外から看護師さんやお医者さんが来てくれると思ってもらえるだけでも、やっぱり違うかなと思うんですね。

紛争によって教育体制が崩壊しているような地域では、紛争しか知らない子どもたちがたくさん育っています。自分の親兄弟を殺されてしまって、深い悲しみや怒り、悔しさ、恨みによってテロリストになってしまう子どももたくさんいる。紛争が紛争を生む。いわゆる憎しみの連鎖。こんなにかわいい子どもが親を殺された恨みと怒りで復讐に走ってテロリストになってしまっても、それを責めることができるんだろうかと思ってしまいます。

それでも、そうはならないでねという思い、憎しみの連鎖を断ち切りたいという思いを込めて私は子どもの手を握ってあげています。それはジャーナリストではなく、看護師だからこそできること。そんな思いで看護師を続けています。

子どもの手を握って思いを伝える白川さん。2016年イエメンにて(©MSF)

子どもの手を握って思いを伝える白川さん。2016年イエメンにて(©MSF)

──つらいことや大変なことが多いと思いますが、これまで国境なき医師団の看護師として活動をしてきた中で、心が折れそうになったことはないのですか?

特に思い当たりません。ひとつエピソードを挙げるとしたら、一度、国境なき医師団のヨーロッパの事務局から、1年間のオフィスワークの募集要項が出ていて、仕事内容やポジションに惹かれてやってみたいと思いました。その履歴書を書いている時、2015年10月、ちょうど3回目のイエメン派遣に向かう途中だったのですが、アフガニスタンで国境なき医師団の病院が爆撃されたことを知って、履歴書を書くのをやめました。心が折れるどころか、それは許されることではなく、世界でこういうことが起き続ける限り私は現場に行こうと決意したきっかけになりました。


──国境なき医師団の病院は過去に何度も攻撃されているようですね。攻撃している側は誤爆だと言っているようですが。

意図した爆撃、誤爆、無差別など攻撃のタイプは様々ですが、状況的に誤爆とは考えられないケースもあります。軍事に詳しい人の話によると病院は自分の陣地にあれば真っ先に守らないといけない場所で、敵の陣地にあれば真っ先に攻撃目標にするという話を聞いたことはあります。軍事目標の攻撃や地域のライフラインの破壊が目的なのでしょうが、紛争地で医療施設を攻撃する行為そのものが国際法の違反です。

空爆で負傷した息子を抱える父親。2016年イエメンにて(©MSF)

空爆で負傷した息子を抱える父親。2016年イエメンにて(©MSF)

覚悟は決まっている

──自分が働く病院が攻撃されるかもしれないわけですよね。過去には実際に国境なき医師団の病院が攻撃されて死傷者が出ています。その恐怖感ってないんですか?

過去に1、2度、戦闘機が病院の上空を何度も旋回して、ここがターゲットになっているんだなと思った時に恐怖を感じたことはあります。でももし病院が爆撃されて私が犠牲にならなかったとしても他の誰かが犠牲になるわけですし、誰かが現地に行かなかったら援助は続かないという気持ちの方が強いですね。

それから、これまで何度も現場に行って国境なき医師団のセキュリティマネジメントを信頼しているので、その不安を感じる事はありません。現場の安全が確保されていないと医療活動はできませんが、それでも万が一何かあったらそれは仕方がありません。誰のせいでもないし、誰かを責めることもない。自分で選んだことですし、覚悟も決めています。


──では最悪、死んでしまっても後悔はないというところまで覚悟を決めているということですか?

白川優子-近影4

自分が死ぬということを意識したことはありません。初めて国境なき医師団の存在を知った時からすごく尊敬してずっと入りたいと願って入れた団体です。もちろんリスクもわかっていますし、それでもし死んでしまっても、自分がやりたいと信念をもってやり続けた結果、自分の夢を叶えた結果なので後悔は絶対にないということです。


──メンタルの強さというか覚悟の決め方がすごいと思います。

これが自分たちのライフワークだと思っているから、というだけのことだと思います(笑)。

自身を駆り立てる思い

──なぜ、時には命の危険を感じるような紛争地に行って、自分とは縁もゆかりもない人のために看護活動ができるんですか?

そこは言葉でうまく説明できないんですが......。ただ、私は国境なき医師団に入る前、日本とオーストラリアの病院で看護師として働いていたのですが、私がこの国からいなくなっても看護師って何百万人もいるから病院も患者さんも困らない。一方、国境なき医師団が入り込むような、特に紛争地では医師も看護師も少ないために私1人の価値がすごく高くなります。

日本でもオーストラリアでも仕事にやりがいを感じ、充実した看護師生活を送っていたのですが、よりいっそう私という人間が求められて、看護活動が傷ついている人の援助に100%つながるから国境なき医師団に入りました。そのことに看護師としての喜びとやりがいを見出しているというのはあります。

白川優子-近影5

また、先ほども触れましたが、特に紛争地のような場所に生きる子どもたちは精神的にも肉体的にも過酷な毎日を送っています。そんな子どもたちに対して看護をするだけではなく、「今はつらいし怒りや悲しさ、恨みしかないかもしれないけど、やさしさや愛とかも感じて学んでほしい」という思いを込めて手を握っています。日本で看護している以上のことをしたいし、実際にしている自負も、その価値もあると思っています。

そもそも私は看護という仕事が大好きなんです。これまで看護師として老人ホームでの勤務や、在宅医療で訪問看護、病院の手術室、外科、産婦人科などいろんな分野の看護の仕事に携わってきましたが、どこで働いても看護師として働いている自分がすごく好きで、本当に看護師になってよかったと思い続けています。私にとって看護師という仕事は天職です。たとえ、国境なき医師団に入りたいという夢をもっていなかったとしても、何の疑いもなく看護師の道を選んでいたと思います。


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