2018年2月アーカイブ

1人だからできた

──目の動きだけで文字を入力できる「デジタル透明文字盤」(OriHime eye)の発明を、よく1人だけでやりきりましたね。

吉藤健太朗-近影1

逆にこういうことって1人じゃないとできないんですよ。患者さんのためにこういう物を作りたいから協力してほしいと他のメンバーに言っても、それぞれ自分の仕事があるから忙しいし、日程調整も難しい。そこはどれだけお金を積んでもできないと思うんですよね。やりたいと思っているのは私なのだから私がやればいいというだけのことです。


──自費で、しかも就業時間外でやるのはかなり大変じゃないですか?

といっても、自分がやりたいからやってるだけですからね。趣味のようなものです


──1人でやることをつらいとは感じないんですか?

もちろんつらいですよ。何がつらいかって、常に新しいことをやるので基本的に理解されないんですよね。それこそ孤独を感じます(笑)。でも、新しい物を生み出すということはそういうこと。友達がいなくなろうが、親を泣かせようが、新しい、本当にいいと思うことをやるべきだと私は思っています。


──そこまでするモチベーションって何なんですか? 作りたいという欲求なのですか?

いえ、それは全くないです。確かにものづくり自体は好きですがそれがしたいわけじゃなくて、単純に目の前に喋れなくてうまくコミュニケーションが取れないALSの患者さんがいる。それを見てこの人がもっと早く円滑にコミュニケーションが取れたらいいなと思うじゃないですか。ただそれだけです。

OriHime eyeを操作するALSの患者さん

OriHime eyeを操作するALSの患者さん

──難病で苦しんでいる人を救ってあげたいという思いは?

救ってあげたいと考えているわけでもありません。前にもお話しましたが、私が引きこもって孤独を感じていた時期、一番ほしかったのは役割なんですよ。ずっと自宅で3年半の間、何もできなくて、両親は手を尽くしてくれるのですが、それが逆に申し訳なくて。何の役にも立っていない、誰からも必要とされていないことのつらさを嫌というほど味わいました。このつらさはこういう状態になった人にしかわからないでしょう。


──確かに自分が何の役にも立っていないと思うことが一番つらいですよね。

吉藤健太朗-近影2

そうなんですよ。しかも自分が誰かの役に立っているという自覚がないと、人を必要とできないんですよね。誰かに何かをしてもらってるだけの状態が続くとつらい。「ありがとう」と言い続けていると、ある日突然言えなくなるんですよね。これ以上ありがとうと言うと自分に完全に価値がなくなるというか。御礼が言えなくなると、当然人から嫌われてますます孤独に陥る。引きこもり時代はその悪循環に陥っていました。

人の中にある「ありがとう」には限りがあって、出し続けるといつか尽きるんですよ。私はこれを「ありがとうのストック」と呼んでいます。だから「ありがとう」を補充しなければならない。

人間は社会的な生き物だとした場合、ありがとうという感謝の気持ちはお互いに与え合うべきなんですよね。ありがとうと言う一方でも、逆に言われる一方でもつらくなる。お金と同じですね。払う一方でも、貯め込みすぎてもいけない。循環させなきゃいけないんです。

そういう意味で、私は引きこもりから脱して以来、自分の役割をもちたいと切望してきたので、ALSの患者さんと出会った時、この身体がほぼ動かない人たちを社会に参加させるためのシステムを研究・開発するのが私の役割であると考えたわけです。

OriHimeで役割を生み出したい

ALSの患者さんがOriHime eyeを使用して目の動きだけで描いた絵
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ALSの患者さんがOriHime eyeを使用して目の動きだけで描いた絵

それをミッションに掲げた場合、OriHime eyeによってALSの患者さんたちも役割をもつことができる。例えばOriHime eyeで絵を描くことで、「この絵、目だけで描いたんだ! すごい!」と、多くの人を驚かせたり感動させたり、こういう人がいるということが人づてでどんどん広まっていったり、同じ病気で苦しむ人に希望を与えたり。こういうことが生まれてくることに、すごくやりがいを感じています。

さらに、このOriHime eyeは本来は50万円ほどするのですが、今年(2017年)になって自治体が9割負担する購入補助制度ができたので、患者さんは5万円ほどで視線入力のセンサーやソフトウエア、コンピュータなど一式を買えるようになったんですよ。これはすごく大事なことで、一般的には50万円ほどで眼球しか動かせない患者さんが他者とコミュニケーションを取れるのであれば高くないと思うかもしれませんが、彼らは家族にそのお金を出してもらうことで、精神的にものすごく大きな負担を感じてしまうんです。迷惑をかけて申し訳ないと。でも料金が5万円になって家族が負担する金額が少なくなると、患者さんの精神的負担もかなり軽減されます。

ユーザーの反応を見ることが重要

──ロボット制作において大事にしていることは?

ALS協会会長の岡部さんと

ALS協会会長の岡部さんと

作る前に、作った物が、ユーザーにどういうふうに使われているかを想像することですね。そして、ユーザーの反応をこまめに見ることです。ビジネス界では「ニーズはお客さんに聞け」とよく言われますが、私はそれよりも、反応を見ることが大事だと思っているんです。なぜならば、ニーズなんてお客さんに聞いても出てこないと思うからです。例えば、川で洗濯していた時代の人が全自動の洗濯機がほしいなんて思わないじゃないですか。つまり人はその時に存在しない物、自分で想像できない物はほしいと思えないんですよ。本当に役立つ物は本人が知らないものです。自分が作った物を見せた時、「これだよ! これを待ってたんだ!」と言わせるのが本当のものづくりです。

そのために私はいわゆるニーズ調査などは一切せず、その代わりに病院などの現場に行って、患者さんたちと仲良くなって、その生活を垣間見させてもらいます。これによって「この人はこの部分に不自由を感じてそうだから、こういう物があったら喜ぶんじゃないかな」というアイデアが閃くんです。そのアイデアを100個くらい紙に書いて、喜びそうで、簡単に作れそうな物を1つ、3Dプリンタでさっと作って持って行って「こんな物を作ったんですけどどうですか?」と渡すんです。

その時、「ほしい!」と喜ぶのか、「ああ、ありがとう」で終わるのか、表情や言葉などで反応を見ることができます。それで必要とされているかどうかが判断できて、必要ではなさそうであればそこで開発は終了。2日で作ったものはダメだったらぽいぽい捨てられますから。

必要としていそうだったらその後も利用者の反応を見つつ、感想をもらいながら改良を重ねていきます。つまり、現場やユーザーはニーズやアイデアを得る場ではなく、私が考えた物が合っているかどうかのテスト、答え合わせの場として使うということです。

"ワクワク"が大事

──仕事の原動力は?

吉藤健太朗-近影3

ワクワクすることでしょうか。この仕事をしていると、普段の生活がとてもおもしろいですよ。一番のワクワクはOriHimeを使って何をしたかを聞くこと。例えば、ALSの患者さんがOriHime eyeで描いた絵を見ると本当にすごいと思うし、次、新作はいつ出るだろうとすごくワクワクします。また、OriHimeでディズニーランドに行ってきましたとかテニス観戦をしてきましたと聞くとすごくうれしいし、今度は何をするのかなと考えるのも楽しいですよね。

あとは、これまでにない新しい物を作るような仕事をしていると、いろんな人から声がかかって、どんどん新しいことができるのもすごくおもしろいです。それがまた仕事に向かう原動力になる。ワクワクの好循環ですね。

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仕事とはやりたいこと

──仕事観についてお聞きしたいのですが、吉藤さんにとって仕事とはどういうものですか?

吉藤健太朗-近影4

やりたいことです。それだけですね。やりたくなかったら仕事しませんよ(笑)。だって人生ってやりたいことをしたいじゃないですか。だから仕事といっても趣味と同じ感覚です。やりたいこと、趣味をしてるといつのまにかそれが仕事になってる、という感覚ですね(笑)。


──それによって助かる人がいたら最高ですよね。

それが単純に私の生きがいですね。


──やりたいことがお金になるかどうかは関係ないのでしょうか。

関係ないですね。ただ、お金がある事で仲間も生活できていて、新たなチャレンジができるので決して無視はできません。先程お話した通り、私が作った会社なのに、会社は私の自由研究に対してお金をくれないんですよ(笑)。だから自分のポケットマネーを使うしかないんですよね。それで製品を作って発表してると講演に呼ばれるようになって、その講演料の半分を会社に入れて半分をポケットマネーにして、それを再投資して新しいものを作り、会社でビジネス化してるのが現状です。私の財布なのでだれも文句は言わないし、制約も受けないから私のペースで研究できる。収入も増えてるけど、どんどん自由研究に投資するという繰り返しなので、私の貯金は常にゼロ。でも、30歳で貯金なんかいらないと思ってるので問題はないんです

"孤独の解消"の先にあるもの

──孤独の解消がミッションということですが、その先に実現したいことはありますか?

これから最も重要となるテーマは、「人が死ぬまで、生き生きと人生を謳歌ができるかどうか」しかないと思っています。

現代日本では第一次産業、第二次産業がロボットによってどんどん効率化して生産性が上がり、安価でおいしい食べ物が世の中に溢れ、食べることには困らない社会が実現しています。さらに生活保護などの社会保障の充実で何もしなくても生きていけるという時代が到来しています。本当にすごい、ついに人類がここまで到達したかと感嘆せざるをえません。

また、医学によって寿命がすごく伸びています。これも素晴らしいことです。ただし、我々の体はいつかは動かなくなってしまう。いくら健康寿命を伸ばそうと食事に気を配ったり、しっかり運動しても限界はある。身体が動かくなってしまっても呼吸器をつけることで延命自体はできる。そうなった時、どうするか。認知症になるのを待つだけなのか。これはつらいですよね。

でもどうするべきか誰も答えを持っていない。つまり、身体を動かせなくなった後、どう生きるべきかという哲学や人生論が医学の進歩に追いついていないんですよ。

オリィの社員で、OriHimeを駆使して盛岡の自宅から業務をサポートする番田雄太さん

オリィの社員で、OriHimeを駆使して盛岡の自宅から業務をサポートする番田雄太さん

ただ確かなのは、働かなくても、寝たきりになっても生きていける時代になっても、何かの役に立ちたいと思ってる人も大勢いるということなんです。事実、入院しているALSの患者さんは何もせずに生きていくのはつらいから誰かに必要だと思われたい、働きたいと言うんですよ。

今、労働力の減少が深刻な社会問題だと叫ばれていますが、それは間違いで、働きたいと思ってる人はたくさんいるんですよね。ただそれが今の労働のシステムに合わないから働けていない、つまり労働力としてみなされてないだけなんですよ。なぜなら今は寝たきりの人は寝かせておいた方がいいという社会だから。特別支援学校の生徒や身体が動かない患者さんに与えられる仕事はほぼない。

この現状をなんとか変えたい。そういった人たちが社会に参加できるように、つまり寝たきりになっても死ぬ瞬間まで誰かに必要とされ続けられる人でありたいという望みを叶えたい。やっぱり人として生まれたからには惜しまれつつ死にたいではないですか。その実現が私の人生を賭して取り組みたいテーマなのです。

次のテーマは就労支援

2017年に開発スタートした新型OriHime。何年後かにはカフェでこのOriHimeが働く姿が見られるかも
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2017年に開発スタートした新型OriHime。何年後かにはカフェでこのOriHimeが働く姿が見られるかも
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2017年に開発スタートした新型OriHime。何年後かにはカフェでこのOriHimeが働く姿が見られるかも

そのための第一歩として、昨年(2017年)2月に大型で自由に動きまわれるOriHimeを実験的に作りました。これなら、例えば育児中のお母さんが家にいながらにして自分の会社のパンフレットやティッシュを配ったり、会社に来たお客さんをエントランスで迎えて訪れたい部屋まで案内したり、ほうきを持って掃除ができたりするかもしれない。この大型OriHimeはまだ実験段階ですが、製品として完成すると家にいながらにして肉体労働も可能となることで働ける人が増え、よりテレワークが広まるでしょう。

その先には、ALSなど重度難病の方々が介護士として自分で自分を介護できるかもしれないし、お客さんのオーダーを取って配膳するようなカフェも実現可能かもしれない。こういう物を作って初めて世間は寝たきりになっても働けるかもしれないと認識し始めるんですよね。

そのために、今年(2018年)1年はALSなどで身体を動かせなくなった人たちを社会参加させるというような、就労支援に力を入れたいと思っています。当社でもOriHimeで働く人を増やす予定です。

とにかく、彼らが自信を取り戻すためにも、働けるようにサポートしていきたいと思っているんです。今、OriHimeが使われているのは特別支援学校や病院、テレワーク領域なのですが、私の中では全部同じなんです。普通に会社に通勤して働けていた人が病気や事故や親の介護、出産・育児などで身体を会社に運ぶことができなくなったとしても仕事を辞めてしまうのではなくて、OriHimeを使うことによって、通勤していた時と同じように、自分の役割をもって、同僚と楽しく働ける。そのようなツールとして全部つながっているんです。

そして、最終的には病気で生まれてきた子も特別支援学校の子も、OriHimeによってプログラミングや接客や語学など自分の得意領域を探して伸ばしていくような勉強をしながら、しかもインターンシップにも参加できて、会社の中の様子を知ることができて、このOriHimeの形で就職していくということを目指しているんです。

自分で役割を作ることのできる人を育成したい

──他に今後の目標があれば教えてください。

吉藤健太朗-近影5

今までの人類社会では、「自由・便利=豊かさ」という方程式が成り立っていました。しかし近代化にともなっていろんな便利な製品が出てきて、今はある程度のところまで到達しているので、その方程式は成り立たなくなってきているんですね。

だから今、我々は特異点に立っていて、自分の豊かさとは何かを自分で考えなくてはいけない時代になりつつあります。これが極めて重要なポイントで、そのために必要なのが役割をもつこと。その役割は今までは他人や企業が与えてくれたけれど、どんどん簡単な仕事が人工知能に奪われていくとしたらそれも難しく、役割難民が出てくるかもしれません。みんな私の役割ってなんだろうと悩み始める。

だからこれからは、自分で役割を見つけたり、作ることが重要で、それができる人を育成したい。その先に、仲間を集めるなどして人に役割を与えられる人を増やすところまで目指したいと思っています。


たった1人でOriHimeを開発

──遠隔操作型コミュニケーションロボットを、1人でどうやって開発していたのですか?

初期型OriHime

初期型OriHime

自室のオリィ研究所にNCフライスや卓上旋盤を買い揃え、まずは市販のロボットを買ってきて分解し、構造を理解するところから始めました。造形はSNSで近所に住んでいたフィギュア職人を見つけて連絡して教えてもらったりしました。

最初に完成した初期型OriHimeは2足歩行の人形で、関節が24もあり、動かすのが難しく移動が大変で故障もしやすいという問題をたくさん抱えていました。そこで誰でも簡単に使える簡易タイプの開発に着手。最低限の機能に絞った結果、首の関節のみを持つ、OriHime-miniが誕生しました。首の左右と上下の動きしかできないのですが、それだけでも声を組み合わせて様々な仕草を表現することが可能でした。

開発に没頭していた2010年12月、後輩であり、現オリィ研究所CFOの結城明姫から、OriHimeをビジネスとして普及させてはどうかと提案されました。OriHimeは私個人の研究者としての活動としては、私の情熱が続く限りは維持されるだろうけど、私がいなくなった後は維持できない。それを維持するためにはお金の循環が必要で、そのためにはビジネスにする必要がある。だからオリィ研究所を株式会社にした方がいいと提案されたんです。私はビジネスにするとか起業するつもりなんて全くなかったので最初は断ったのですが、結城の話をよくよく聞くと、確かにそれもそうだなと思いました。

でも起業するにしてもOriHimeが本当に困っている人の役に立つかどうか、つまりビジネスとして成立する製品かどうかの確証はありません。それを確かめるため「WASEDAものづくりプログラム」というものづくりのコンテストに応募しました。結果は優勝。自信がもてました。また、研究開発だけではなく、起業するならビジネスの勉強もしなければと思い、学生対象ではトップ2のビジネスコンテストといわれていた「キャンパスベンチャーグランプリ東京」と「学生起業家選手権」にも応募し、両方で優勝することができました。

人生最大の喜び

吉藤健太朗-近影1

でもまだ最大の課題が残っていました。それはOriHimeを必要とする人に実際に使ってもらった経験がなかったことです。そこでコンテストで知り合った教授を介して病院を紹介してもらい、入院患者さんに試験的に使用してもらえるようになったんです。

その患者さんは難病で長期入院している小学生の男の子だったのですが、本当にOriHimeが役に立つのか不安でした。OriHimeを渡し、ドキドキしながら待つこと4日。得られた感想は想定外のものでした。その少年がすごく喜んで毎日OriHimeを使っていて、家族からも試験使用期間を延長させてもらえないかと言われたのです。人生で最もうれしい瞬間の1つでしたね。2009年の春に開発を始め、改良を重ねたOriHimeが2011年の冬になってこれは使えるとお墨付きをもらえたわけです。自分のやってきたことは間違いじゃなかったと、ようやく自信をもつことができました。その後もOriHimeは塾と病院を繋ぐ試験利用や、OriHime海外旅行などでいろんな人に使ってもらい、その都度しっかりとフィードバックを受け、ユーザーと一緒に繰り返し改良を行いました。そして2012年9月に法人化。IT企業の組合や、大学の研究室、一般社団法人、中小企業振興公社、病院、個人など様々な方々に応援されるようになり、2014年にはβ版の使用がスタートできたのです。


──仕事のやりがい、喜びはどんな時に感じますか?

やっぱりユーザーに私が作った物を使って喜んでもらった時ですね。そして、それが日常生活で当たり前のように使われるようになったらもっとうれしいですよね。

OriHimeで通学可能に

──これまで印象に残っている利用者からの声を教えてください。

ある高校生の不登校の子から「OriHimeによって学校に通えるようになって、友達もできました。ありがとうございました」と言われたのがすごくうれしかったですね。私もそうだったからわかるのですが、生身で学校に行くのは恐いんですよ。でもロボットなら行けるかもという子が多いんです。パニック症や自閉症の子もOriHimeを介してなら会話ができるんですよ。声だけは自分の声なんですが、自分の名前と顔を明かさなければ割と多くの人と話せます。

おもしろいことに、OriHimeを逆にしてみても結構話せるんです。相手からは自分の顔は見られているんだけど、相手の情報がわからないだけで意外と喋ることができるということもわかってきました。まずはそういう子たちがOriHimeを使って何回か会話していると徐々に信頼関係が生まれて、その相手が生身で現れても意外と喋れるんです。そういう子たちが学校へ通えるようになるまでのステップとしても使えるんです。

子どもの教育の現場でもOriHimeは有効利用されている

子どもの教育の現場でもOriHimeは有効利用されている

そのために、学校で使用する際に声を大にして言いたいのは、学校で授業を受けるためだけにOriHimeを使ってほしくないということです。授業を受けるだけなら動画サイトで十分なんですよ。そうではなくて、重要なのは授業以外の時間なんです。授業中も休み時間も繋ぎっぱなしにしておくことが大事。例えばこういうケースがありました。ある不登校の女の子がOriHimeを使って新しい高校に通うことになりました。その初日、先生が「転校生を紹介します」とOriHimeを持って登場すると、歓声が沸き起こり、一躍クラスの人気者になりました。すぐに女の子のグループに入って、休み時間にOriHimeを介して一緒にボードゲームをやったりして、仲良くなりました。その中の1人の友達が、文化祭で一緒に占いをやろうよと、ダンボールで占いの館を作って、猫耳をOriHimeにつけて、占い師っぽくしてくれました。文化祭当日、その不登校の子が家でOriHimeを操作して占いをやったんです。

その子はそういうことを何回か経験するうちに、学校に居場所を感じられるようになって、ある日、実際に生身で学校に行く決意をします。学校に行って、先生から「OriHimeで学校に通っていた○○さんです」と紹介されると拍手で迎え入れられ、すでに友達も何人もいるからそれほど緊張もせず、OriHimeでやってたときと同じようにボードゲームでみんなで楽しく遊びました。そうしているうちに今では普通に生身で学校に通えるようになったんです。

「考えては作る」の繰り返し

──オリィ研究所代表としての日々の業務について教えてください。

患者さんの元に足繁く通う吉藤さん

患者さんの元に足繁く通う吉藤さん

経営者としては今後の会社の方向性を決めたり、新製品の企画などを行っています。もちろん、今でもロボットづくりの実作業もしていますよ。具体的にはCADを描いたりプログラミングをしたり。ヤスリがけなど実際に手を動かして作る部分はアルバイトやインターンの学生たちと一緒にやっています。

また、週に1度は病院や患者さんのご自宅など実際にOriHimeが使われている現場に足を運んで、OriHimeを使用した感想を聞いています。これによって新しい発見やニーズをもらい、OriHimeの改良や新製品の開発に活かしています。

あとは今まで作ったOriHimeを思い返しながら、要素を因数分解して、その要素を他の技術に転用して他分野の問題を解決したり、ニーズを満たすことはできないかと考えたりしています。基本的に考えては作り、の繰り返しですね。

自由な働き方

──働き方としてはどのような感じなのですか?

一応、会社としては9時から19時までが就業時間となっています。でも仕事を始める時間も終わる時間もやることも日によってバラバラです。仕事をしたい時に始めて終えたい時に終えるという自由な感じです。

吉藤健太朗-近影2

ただ毎日9時から朝礼を行うので、その時だけは他の社員と一緒です。朝礼では他の社員がやってることやその進捗状況を確認できるので大事なんですよ。その時間さえみんながいればあとはバラバラでもOKです。だから今日(取材当日)は朝4時に会社に来て仕事をしていました。途中で8時50分に目覚ましをかけて寝て、朝礼をやって、仕事をして取材時間まで仮眠してました。

休日も特には決めていません。休みがあってもやることがないので仕事をしていることが多いですね。去年の年末年始も工房でずっとロボット作っていました(笑)。

本来、私は開発が本分でそれだけやれればいいのですが、最近はいろんな会議や取材が増えて、そちらに時間を取られています。でもこういう取材を受けることで、ALSの患者さんや育児中のお母さんなどいろんな人たちが、孤独を感じることなく働けたり、役割をもてるツールがあるということを知ることができる。そうやってOriHimeの存在が社会に少しでも広まれば、私のやりたいことに繋がりますからね。すごくありがたいと思ってます。

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ロボットづくりのこだわり

──ロボットはいつもどうやって作っているのですか?

吉藤健太朗-近影3

基本的にコンセプトづくりからプロトタイプ制作までを1人でやっています。その理由はみんなで作ると新しい物が生まれないからです。新しい物というのは、みんなにまだ理解されていない物なんですよ。例えば、私が「こんな物を作りたい」と言うと、必ず社員たちからは「そのよさがわからない」という反応が返ってきます。それは逆もしかりで、私も他人がいいと言った物に対してどこがいいんだと思う。

自分が「ものすごくいいぞ」と思った物は間違いなく新しい物なんですが、それを他の人から「ここをこうすればいいんじゃない?」とアドバイスされて、「わかった、やってみよう」と変えていって、理解されうるものになっていくにつれ、新しさがどんどん減っていくんですよね。これでは絶対に世の中を変えるような尖ったものは生まれません。

だから新しい物をみんなで作ることは絶対に不可能で、みんなに理解される物はすでに世の中にあると考えていい。自分が本当にいいと思った新しい物を実現できるのは自分しかいないと思った方がいい。だから基本的に新しいロボット開発は1人でやってるんです。


──では新製品の企画会議みたいな物はやらないんですか?

もちろんやりません。それをやっても通らないので。基本的に大企業もベンチャーも同じで、新しい物、理解されていない物は会議なんかやっても通らないに決まってるんですよ。会議に通るなんて思ってる方が間違いです。


──ではどのように製品化するのですか?

大学時代、OriHimeの構想が浮かんだ時、教授や周りの人にいくら話しても理解されなかったのですが、実際に作って形にして見せると、「ああ、なるほどこういうことね」と理解してもらえました。この経験から、まず自分がこれはいいと思った物は自分のポケットマネーで勝手にプロトタイプを作るんです。そしてユーザーに使ってもらい、その感想を元に改良を重ね、使えるとなったら商品化するという流れですね。

自費で制作したロボットで優勝

──具体的な事例を教えてください。

吉藤健太朗-近影4

例えば今から4年前(2013年)に「みんなの夢アワード」というビジネスコンテストに出場したことがあります。順調に審査を通って、決勝ステージの7人に残って日本武道館で1万人の前でプレゼンできることに。こんな機会はそうそうないから、新しく2足歩行のOriHimeを1体作って、ALSの患者さんに目だけで動かしてもらって、1万人の観衆の前で挨拶してもらおうと考えました。これが実現できたら時代が変わるぞと奮えましたね。これなら優勝して賞金2000万を手にいれることができると確信したので、この時に初めて一緒に創業した結城と椎葉の2人に「みんなの夢アワード」の決勝に残ったことを伝え、ついては「新しい二足歩行のOriHimeの開発費として60万円を使いたい!」と言いました。

2人は決勝に残ったこと自体は喜んでくれたのですが、「どうして二足歩行をさせる必要があるのか。今あるOriHimeでは勝てない理由はなんだ?」「それを作ったことによる勝率の変化は何%なんだ?」と問い詰められて。そんなことわかるわけがないじゃないですか。そして、「そもそもそんな金、どこにあるんだ」と却下されてしまいました。

でも私はどうしてもやりたかったので、2人には内緒で、自分のお金と時間を使って作ることにしました。日々の業務時間外に、土日も使って、インターンたちも協力してくれて3ヵ月で完成。その頃には預金残高が4000円くらいになっていました。

「みんなの夢アワード」で優勝。見事2000万円を獲得

「みんなの夢アワード」で優勝。見事2000万円を獲得

本番では不具合も発生して焦りましたが、結果的には大成功、優勝して2000万円を獲得できたんです。この結果には当初反対していた2人も喜んでくれましたが、「会社に2000万円入れたんだから、制作費の60万円を返してくれないか」と言ったらまたしても却下され回収できませんでした(笑)。余談ですが、当時はまだ会社を立ち上げたばかりで、社員が私を含めてその2人しかいなくて、お金がなかったんです。でもその2000万で2人にも給料が払えたし、オフィスも構え、社員も1人増やすことができました。その時にわかったんですよ。これはいいと思ったものは1人でもやる価値はあるよと。

OriHime eyeの開発

もう1つ、1人で開発したのがOriHime eyeという製品です。そもそもは2013年3月、友人からOriHimeを使わせたい人がいると紹介されて、YさんというALS患者さんと知り合いました。ALSとは徐々に筋肉の萎縮と筋力低下が進行し、発症から3~5年で身体がほぼ一切動かせなくなって寝たきりになる筋萎縮性側索硬化症という難病。最後は自分で呼吸ができなくなり、人口呼吸器をつけないと死んでしまいます。今の日本の法律では呼吸器は1回つけたら外せないこともあり、約7割のALS患者さんがすごく葛藤し、悩んだ末に呼吸器をつけないで死を選んでいます。

当時はALSという病気自体、あまり知られなかったし、こんな病気があるんだと衝撃を受けました。OriHimeを提供すると本人もご家族も喜んで使ってくれて、お花見やバーベキューなどにOriHimeで参加してくれました。その過程で、眼球の動きだけでOriHimeの首を左右に動かせるシステムも開発しました。その後も頻繁にYさんの元に通い、実際に使ってもらいながら改良を重ねました。YさんのおかげでOriHimeをさらに進化させることができたのです。でも病気が進行し、いよいよ呼吸器をつけるかどうかの選択を迫られた時、Yさんは呼吸器をつけない方、つまり死を選択しました。

吉藤健太朗-近影5

Yさんが亡くなった後、一緒に開発していたメンバーはそれぞれ自分の仕事に戻っていきましたが、「眼球の動きだけでもう1つの身体を動かす」というコンセプトは私の個人的な研究として継続することにしました。もし目の動きだけでできることがもっと増えれば、Yさんは呼吸器をつける選択をしたかもしれないと思ったし、身体を動かせないことで生きることを選択しないということは、私の解決したい孤独問題そのものでもあったからです。

我々健常者は生きるか死ぬか選べと言われたら当然生きる方を選びますよね。でも、ALS患者は簡単には選べない。なぜならば眼球くらいしか動かなくなって、自分がしたいことができなくなるから。だったら眼球の動きだけでできることを増やせばいい。もし、それが可能となるツールを開発することによって、ALSの患者さんがまだまだ私はできることがあると感じたり、お金を稼げて人や社会の役に立てると思えれば、生きる希望を感じて呼吸器をつける選択をするかもしれない。そういう思いで1人でも開発をしようと決意したのです。

それから研究のため、ALS患者でOriHimeユーザーの藤澤義之さん(元メリルリンチ日本証券会長)のご自宅に、毎月1人で通うことにしました。その時、毎回必ず新しい物を作って持っていって、使っている反応を見て、ここをこうすればいいんじゃないかなと思ったらそのまま近くのカフェに行ってプログラムを作成。2日後には完成させてご自宅に持って行って「どうですか?」と感想を聞いて、それを元にまた作る。これをひたすら繰り返しました。

藤澤さんの元に通い続けOriHime eyeを開発した吉藤さん

藤澤さんの元に通い続けOriHime eyeを開発した吉藤さん

そして2015年9月、目の動きだけで文字を入力できる「デジタル透明文字盤」(OriHime eye)を発明することができたのです。その後も藤澤さんはOriHimeを通して私にアドバイスをしてくださるようになり、オリィ研究所の顧問を務めていただいています。

目の動きだけで文字入力が可能なOriHime eyeを開発

ALSの患者がOriHime eyeを使用して描いた絵。とても目の動きだけで描いたとは思えない
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ALSの患者がOriHime eyeを使用して描いた絵。とても目の動きだけで描いたとは思えない

このOriHime eyeを他のALSの患者さんに使っていただいて、このおかげで呼吸器をつける、つまり生きる選択をしましたという声をいただいた時はすごくうれしかったですね。今ではOriHime eyeを使って、目の動きだけで絵を描いている人やDJをしている人もいるんですよ。しかもすごく上手なんです。ALSという難病のために目しか動かせない身体になっても、こんなふうに働ける、社会参画できることを自ら証明することで、多くの難病患者に希望を与える人たちが少しずつ増えているんです。


インタビュー第4回はこちら

原点は不登校時代にあった

──なぜ人工知能全盛のこの時代に、あえてOriHimeのような、ロボットを介して生身の人と人がコミュニケーションをするというアナログな手法を取ったのですか?

不登校時代、11歳の頃の吉藤さん

不登校時代、11歳の頃の吉藤さん

それを説明するためには、私の幼少期からの人生の歩みの話をしなければなりません。先程少し触れましたが、私は小学校5年生から中学2年生までの3年半、そもそも学校というシステムが合わなかったことや、病気がちだったこと、コミュニケーションを取るのが下手だったこと、それによるいじめなどが原因で学校に行けず、自宅に引きこもっていました。一日の大半を誰とも会わず、主に絵を描いたり、祖母が教えてくれた折り紙をひたすら折ったり、オンラインゲームに没頭したり、とにかく一人で打ち込めることに熱中していました。でも一人きりの状態が長く続くと、何かをする気力も体力もなくなり、ずっと一人で布団の上でただ天井を眺め続けるだけの日々が続くようになりました。今でも時計の音を聞くとその時の情景が目に浮かびます。一週間ほぼ誰とも何も話さなかったことで、日本語を聞き取ることも喋ることもできない、身体をうまく動かせない、うまく笑う事もできなくなってしまいました。

そんな私を見て両親も悲しんでいました。もちろん何とかして学校に行けるようにといろいろと手を尽くしてくれましたが、それが逆に申し訳なくて。家族に迷惑をかけるだけの自分に嫌気が差し、自信もなくなり、無気力になり、記憶力も低下。さらに精神的に追い込まれ、耐えられずに叫び出すこともありました。どこにも居場所がなく、自分を肯定できない悪夢の状態でした。生きていくのがつらかった。本当に救いがない状況に苦しんでいました。

母の行動で脱出

──そんな地獄のような状況から脱出できたきっかけは?

中学1年生の時にロボットコンテストに出場。これが吉藤さんの人生を変えた 中学1年生の時にロボットコンテストに出場。これが吉藤さんの人生を変えた

中学1年生の時にロボットコンテストに出場。これが吉藤さんの人生を変えた

中学1年生の時に母親が「ロボットコンテストに申し込んだから出てみれば?」と言ってくれたことです。このコンテストは市販の虫型ロボットを組み立ててプログラミングをして走らせ、ゴールまでのタイムを競う「虫型ロボット競技大会」というものでした。子どもの頃からロボコン番組を見ることやものづくりが好きだったので参加することにしたんです。そしたらまさかの優勝。翌年には大阪で開かれた「虫型ロボット競技大会チャンピオンフェスタ」全国大会でも準優勝しました。この時、準優勝のうれしさよりも優勝できなかったことの悔しさの方が大きかった。こんなことは初めてでした。

その時、会場で一輪車を漕いでいるロボットを見かけて、こんなすごいロボットもあるんだと感動しました。そのロボットの作者は「奈良のエジソン」と呼ばれた久保田憲司先生で、地元奈良県の工業高校の先生でした。私もこれを超えるようなロボットを作ってみたいと思い、久保田先生がいる高校に入学して弟子入りしようと考えました。そのためには勉強をしなければなりません。それ以来、学校に通って猛勉強を始めたのです。

子どもの頃から自分でゲームを作ったり、興味のあることを覚えるのは好きで得意だったのですが、強制される学校の勉強は嫌で嫌でしょうがなかった。しかも対人コミュニケーションがものすごく苦手だったので、学校に通うのも勉強するのも苦痛でした。でも久保田先生のいる工業高校に入学するという目標があったので頑張れたのです。

結果は合格。高校では久保田先生に弟子入りして、3年生の先輩たちの卒業研究グループに混じって、新電動車椅子の開発に関わりました。その新電動車椅子は高1の秋に完成して、高2の時により進化させた新型車椅子を制作。2004年、JSEC(ジャパンサイエンス&エンジニアリングチャレンジ)にその車椅子で出場するために、プレゼンの猛特訓をしました。元引きこもりで人前で喋るのが大の苦手だったのでかなり大変でした。でもその甲斐あって、特別賞と最優秀賞である文部科学大臣賞の2冠を達成できました。

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16歳の頃に開発した電脳車椅子。海外でも認められた

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JSECで2つの賞を受賞。2列目中央が吉藤さん

運命を変えた出来事

その後、アメリカで開催される世界大会に出場したのですが、そこでその後の私の人生の方向性を決定づける出来事が起こりました。世界大会の本番前に、出場する各国の参加者が集まるパーティーが開催されたのですが、そこである生徒と話をしていた時、彼が「快適な車椅子を作る研究は俺の人生そのもの。俺は車椅子の研究をするために生まれてきて、死ぬ瞬間まで研究をするだろう」と言ったんです。その言葉を聞いた時、大きな衝撃を受けました。まだ10代の高校生なのにそこまで自分の人生を決めているのかと。同時に、自分はどうかと問いかけてみました。その答えは「これを一生の仕事とするのは違う」でした。確かに快適な車椅子の研究開発は楽しいし、やりがいもあります。でも「これを死ぬまでやるのは嫌だな」とはっきり思ったんです。同時に「じゃあ自分が本当にやりたいのは何なのだろう? 何のために生きているのだろう」という疑問が湧いてきました。

世界大会の本番では3位を獲得。この快挙に仲間たちや先生は涙を流して喜んだのですが、私はその疑問を抱えていたので、それほどは喜べませんでした。

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世界各国からの参加者との交流会が大きな転機となった

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世界大会で3位という快挙を達成。前列中央が吉藤さん

帰国したら地元ではスーパー高校生としてもてはやされましたが、心はモヤモヤした気持ちを抱えたままでした。そんなある日、ある高齢者の方から手紙をいただきました。それには「家の中で使える車椅子を作ってほしい」と書かれていました。それを読んだ時、すごくショックでした。そんなことは想像もしていなかったからです。これまで車椅子の研究において、実際にユーザーに会って話を聞いたことがなかったのです。自分は何もわかっていなかったと思いました。

世界大会に参加するまでは、ものづくりは楽しかったし、卒業後は町工場に就職して職人として腕を磨きながら空き時間で車やバイクを作りたいとか、いつかは師匠みたいに学生にものづくりを教えたいと思っていました。しかし、高齢者が高校生に頼るしかないような世の中なら、自分にもできることがあるんじゃないかと思うようになりました。と同時に、こんな自分でも人から頼られることってあるんだなとうれしかった。

吉藤健太朗-近影2

この手紙をきっかけに、さまざまな高齢者を訪ね歩き、車椅子を使う上で困っていることや要望を直接聞きました。その中で、引きこもっていた時の私が感じていたのと同じような孤独感を多くの方が抱えていることを実感したんです。なぜ人は車椅子に乗ってまで外に行くのかというと、人に会いに、社会に参加するためなんですよね。逆に言えば家から出られない人はその参加方法が限られて、他人に頼るしかなくなる。でも他人の手を借りるばかりで、自分は何も返すことができず、人に迷惑をかけてしまっているという無力感でますます孤独になっていく。引きこもり時代の私が感じていたことと全く同じでした。こういった問題を解消する方が、車椅子をいかにハイテク化するかよりもやるべきことだなと思いました。

その時、体調をよく崩していたし、視力がどんどん低下していて、このまま低下が止まらなければ20代で失明するだろうと医者に言われていました。そうなるとできることが一気に減ってしまう。私に残された時間はあと13年しかない。13年で何をしようと考えた時、「孤独を解消して私のような子どもが生まれてこない世の中を作ろう」「孤独を解消することに残りの人生をすべて使おう」、そして「あの時の高校生みたいに、孤独を解消するために生まれてきたと言えるようになろう」と誓ったのです。人生をかけてやりたいこと、まさに天命を初めて感じた瞬間でした。それで2005年、高校3年生の時、「人生30年計画」を立てて、人生プランを書いたんです。でも全部外れましたけどね(笑)。

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人工知能の研究を開始

──高校卒業後はどうしたのですか?

高専時代の吉藤さん。「黒い白衣」はこの頃に開発

高専時代の吉藤さん。「黒い白衣」はこの頃に開発

当時、「愛・地球博」が開催されて、会話ができる人工知能ロボットが注目されました。それを見て、私が引きこもっていた苦しい時期を思い出し、「もしあの時、話し相手になってくれる友達のようなロボットが部屋にいてくれたら、あんなに孤独に苦しまなくてよかったのではないか」と思いました。それで人工知能を研究をしようと、香川県の詫間電波高専の情報工学科に4年生時から編入。人工知能の研究に夢中になり、毎日アルゴリズムの仮説とプログラミングに没頭しました。

しかしそんなある日、授業で先生が話したことに強烈な違和感を覚えました。「人工知能は人のよきパートナーになり、人を愛し、慰め、癒やす。それにより癒された人間は幸せだ」という話だったのですが、確かに人を癒やすロボットは実在するけど、それが本当にベストな状態なのだろうかと疑問を抱いたんです。それで改めて自分の経験から孤独や癒やしとは何かについて考えました。孤独とは「自分は一人ぼっちでつらい」と自分が思ってしまう状態です。それが解消されるのは、人がすごく苦手で嫌いという状態から脱却して、自分を肯定することができる状態になることだと思いました。つまり「自分が必要とされていない人間であるという状態」から脱出するというのが私の考える孤独を解消する方法です。

吉藤健太朗-近影3

そう考えて自分の過去を振り返った時、つらい孤独から救ってくれたのは家族、友人、先生などの"人"だった。確かに人工知能は人の生活を便利にはするだろうけど、人の孤独は癒せないのではないか。それができるのは人しかない。人工知能で都合のいい新しい友達を作るのではなく、人と人のつながりこそが孤独の解消に繋がるのではないかと思ったのです。

このまま人工知能の研究を続けるか、孤独を癒せる人と人とをつなぐ新しいシステムを開発するかですごく悩みました。でも最終的には、「何のために生まれてきたか」「残りの人生で何をしたいか」に立ち返った時、あくまでも私がしたいのは孤独の解消なので、後者を選んだのです。ちょうどその頃、JSECで知り合った方からロボット工学で有名な早稲田大学への入学を勧められたので、詫間高専は10ヶ月ほどで中退し、早稲田大学創造理工学部総合機械工学科に入学しました。

コミュ障克服大作戦

当時、私はまだ人とのコミュニケーションが苦手でした。でも孤独の解消には人と人の繋がりしかないと確信している人間がいわゆる"コミュ障"というのでは話になりません。そこで何とかコミュ障を克服しようとサークルに入りまくり、人と接する機会を増やしました。しかし、自分からうまく話しかけることができず、会話も続かない。人の気持ちも、その場の空気の読み方も、何を言ったらダメかも、社交性とは何かも、すべてわからなかった。だから飲み会に参加しても全然おもしろくないし、雑談してもちっとも楽しくない。

ちなみに、その時に入ったあるサークルで新入生全員にあだ名をつけていたのですが、当時、ハンカチ王子が大ブレイクしていたのと、折り紙が得意だったので「オリガミ王子」というあだ名をつけられそうになりました。それは嫌だったので拒否すると、「オリガミ王子」を縮めて、「オリィ」になったんです。以来私の愛称になり、現在の会社名にまでなっています。

吉藤さん作のオリジナル折り紙。引きこもり時代に磨いた折り紙の腕がコミュ障克服に大いに役に立った

吉藤さん作のオリジナル折り紙。引きこもり時代に磨いた折り紙の腕がコミュ障克服に大いに役に立った

話を元に戻すと、このままコミュ障ではまずいと思ってどうすればいいかいろいろ考えました。知らない人に自分からは話しかけられないけど、話しかけてもらったら、話せる。そこで、話しかけてもらえるようなツッコミどころを用意しておこうと考えました。高専時代に「黒い白衣」を作ったのですが、肩に穴を開けたり、折り紙や傘やノートPCが入るポケットをたくさんつけるなどしてカスタマイズして、パーティーなどに着て行くことにしたんです。すると思惑通り、出席者が「その服、変わってますよね」「なんで肩のところに穴が空いてるんですか?」と話しかけてくれました。それをきっかけに得意の折り紙を披露するなどして、自然と相手から話しかけられる状況を作ったんです。つまり、自分から話しかけられないから考案したのが、全力で待ち受けるというスタイル。こういうことを繰り返していくうちに、大学3年生くらいからコミュニケーションが苦手ではなくなったんです。

孤独を解消するツールの考案

──大学で孤独を解消する新しいツールはどうやって考案したのですか?

私はずっと、自身の経験からどうして身体は1つしかないんだろうと疑問に思っていました。1つしかないから私は学校に行けなかったし、難病にかかっている人や生まれつき身体が不自由な人も大きなハンデを負ってしまっているんですよね。でも多くの人はそんなことは当たり前だ、常識だろうと言うでしょう。でも私はどうしてそれが当たり前なんだろうと思うんですよ。考えてもみてください。今、常識になっていることでもひと昔前は常識ではありませんでした。例えば今、飛行機で移動することは当たり前になっていますが、100年前は人が空を飛べるなんて誰も思っていなかった。飛べないことが常識だったわけです。

そう考えるとこれまで常識だと思っていることはいくらでも変えられるんですよね。ゆえに、身体が1つしかないというのだって、人類としていまだかつて実現していないだけで、たぶんこの先、身体を複数持つことが可能だと思うんです。

吉藤健太朗-近影4

少なくとも自分の身体はその場所に運べないけれど、その場の情報が見られて、そこにいる人たちの話が聞けて、自分からも喋れる。そして、その場にいる人たちもその人が身体はなくてもそこの場に確かにいると感じる。この2つのインタラクティブな状況をちゃんと作ることができれば、その人はその場に実在することになるのではないか、身体を運べないのであれば心を運ぶことによって通学・通勤ができるじゃないかと考えたわけです。つまり、私は自分の身体は自分の意思を実行するためのツールであって、身体は心を運ぶための乗り物だと考えたんですね。だとすると、それを身体以外の何かに拡張することによって、心の行ける場所を増やすことは十分可能だなと。

そう考えた時、もう1つ重要な要素があります。私が引きこもっていた時期、学校に行けなかった理由は生身の人間と直接対面して会話するのが恐かったからです。そんな私でもオンラインゲームでキャラクターというアバターを通してなら普通に会話できた。私はこれを「対人クッション効果」と呼んでいます。さらに長く引きこもりが続くと、家から出るということがものすごく高いハードルになります。でもアバターを使えば家から出ることなく、その世界に没入できる。つまり、心の移動が可能になるんですよ。

この実体験からリアルな世界で使えるアバターを作ろうと考えました。つまり、同じロボットでも人工知能じゃなくて、人と人のつながりを感じるシステムを考えた時、離れた場所からでも遠隔操作で人と会話でき、周りの人もその場にその人がいると感じられる人型のロボットが孤独の解消には最適だという結論に達したのです。どこでもネットが使えて、しかも高速に情報をやり取りできる現代なら、自分の分身をインターネットを接続したロボットという形で作ることは可能だろうと考えました。

つまり私はロボットが作りたかったわけではなくて、ほしかったもう1つの身体を体現したものがたまたまロボットだったというだけなんですよ。バイオテクノロジーなど、インターネット以外の謎の技術によって意識の転送や脳の移植が可能なのであれば、そちらに行っていたでしょうね。

本格的にロボットの研究開発を開始

──リアルアバターとしてのロボットを作る場合、重視した点は?

大学時代。ロボットを開発中の吉藤さん(左)

大学時代。ロボットを開発中の吉藤さん(左)

ロボットという、いかに人ではないものを人だと感じさせるかが重要なので、まずは自分の身体を自由に制御する訓練をした方がいいと思いました。その技術を習得するため、パントマイムサークルや演劇サークルに入って身体表現を学びました。これは後にロボットの造形や動きを作る上でとても役に立ちました。

3年生になった時、このような分身ロボットが作れそうな研究室に入ろうと思っていろんな研究室を見て回ったのですが、入りたい研究室はありませんでした。どの研究室の教授も研究開発しているのは福祉機器として有効だと言っているのですが、研究の前に実際に車椅子を使う高齢者の人の声を聞くというプロセスを全く踏んでいなかった。つまり自分たちの作ったものが実際にどう使われるかという視点が完全に欠落していて、研究のための研究になっていた。私はそれを高校時代にすでに経験して世界3位の賞を獲得したのですが、それでも製品化できなかった。いくらハイテクな車椅子を作って高齢者の方のところに持っていっても、彼らが欲していたのはもっと違うものだった。それを実際に体験していたので研究のための研究はもうやらなくてもいいかなと思ったんです。

吉藤健太朗-近影5

私がしたかったのは、用途から入る研究。要はどういうものを作ればユーザーの生活を変えられるかというところからものづくりがしたいとずっと思っていたんです。そういう思いを研究室の教授に話したら、「君がやりたいのは研究じゃなくてものづくりだ。ものづくりは研究がわかってからやるべき。博士まで進んだら好きな研究・ものづくりができるから、それまでは基礎の勉強をしなさい」と言われたんですね。そうなると28歳まで学生をしなきゃいけない。私には13年しかないからとても無理だなと思ったんです。

それで大学で実用的な研究ができる研究室がないのなら、自分で作ろうと思い、2009年に当時住んでいた6畳一間の自分の部屋を勝手に「オリィ研究室」と名付けて、遠隔人型分身コミュニケーションロボットの開発を本格的に始めたのです。


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