2016年11月アーカイブ

人の一生に寄り添う絵を描く碧眼の日本画家[後編]

現在の働き方

──現在はどのような働き方をしているのですか?

アラン・ウエスト-近影1

自宅はアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」の近くにあるのですが、毎日お昼頃に起きて、妻と一緒に13時頃に「繪処アラン・ウエスト」に出勤してお客様を出迎える準備をします。その後はずっと作業場で絵を描いているのですが、日中はお客様が自由に出入りして僕が作業している風景や展示してある作品を見ることができます。もちろん気に入った作品は購入していただけます。17時まで作業をして、自宅に帰って晩ごはんを食べて子どもたちと過ごします。その後またアトリエに来て朝の5時頃まで描きます。基本的に1人で集中しなければならない作業は夜に行います。特に箔押しの作業は無風の状態で何時間もやらないとだめなので。作業が終了したら帰宅して就寝、という感じですね。「繪処アラン・ウエスト」では時々能などのイベントも行っているんですよ。ここにいないときは、いろんな教育機関や企業などで講演やワークショップを行っています。


──奥さんの役割は?

前にも話しましたが、妻とは1990年、加山先生の研究室に合格すると同時に結婚しました。元々は高校の教師をしていたのですが、三男が誕生してから4年後の2006年に教師を辞めて、アトリエでの仕事を手伝ってもらうようになりました。以来、来店したお客様の対応や取材対応、経理などの事務的作業を担当してもらっています。おかげで僕は余計なことを考えず、絵を描くことだけに集中できるのですごく助かっています。

自動車整備工場を改築

──谷中の今の場所に「繪処アラン・ウエスト」を構えた経緯は?

藝大時代は谷中の近くの本郷にアトリエ兼住居を借りていたのですが、1998年頃に大家さんから建て直すからと立ち退きを命じられました。立ち退きまでに与えられた猶予は1年。その間に文京区界隈の物件を探しまくりました。最初考えていたのは、1階で作業ができて作品が置けるほどの広さがあって、外から作業の様子が見えるような物件。探し始めて最初の1週間で、谷中の自動車整備工場を見つけて、思い描いていた条件にぴったりだったので、こういう物件に空きが出ないかなと思っていたのですが、散々探してもなかなかこういう物件にはめぐり会えませんでした。そろそろ期限の1年が迫ってこようとしていた1999年12月24日、再びその自動車整備工場の前を通ったら「貸します」という張り紙が貼ってあったんです。最初見たときから借りたかったところだと、すぐに張り紙に書いてあった連絡先に電話したら、まだ張り紙を貼って20分も経っていなかったらしく驚かれました(笑)。それが今、「繪処アラン・ウエスト」がある場所です。すぐ契約して、改築に取り掛かりました。

「繪処アラン・ウエスト」の前で

「繪処アラン・ウエスト」の前で

──まさに運命的な出会いですね。元が自動車整備工場だから改築はとても大変だったのでは?

はい。ものすごくお金がかかりました。元が自動車整備工場だから下は地べた。作品を下に置いて描けるような状態じゃなかったので有り金はたいてまず床を上げたんですね。また、シャッターの上げ下ろしの時や、店の前を車や自転車が通るたびにシャッターがカチャカチャ鳴ってうるさかったし、冬はシャッターを開けると風がダイレクトに入ってくるので寒かった。でもシャッターを下ろしたら暗いんですよ。だから床を上げた後、ガラス戸を付けました。玄関の部分はお寺の門の表の部分を買ってきて分解して移築したんですが、宮大工さんに組んでもらうためのお金を貯めるまで2年間かかりました(笑)。そうやって、10数年間かけて少しずつ改修していったんです。今も現在進行形でいろいろ改築中です。

自分のことだけでなく

──そんなご苦労があったんですね。外観、内装ともにとてもすてきなアトリエ兼ギャラリーですよね。

ありがとうございます。玄関を入って正面奥は作業場になっているのですが、外からも僕が絵を描いている風景が垣間見えるようにすれば興味をもってもらえていいかなと思ったんです。毎日この前を通る人は少しずつ絵が完成していくさまを見られるのでより興味をもってもらえるかなと。

それに、建築家やインテリアデザイナーの事務所を回って営業活動をするよりも、僕はただここで絵を描いているだけでお客様の方から自然とやってくるようにしたいと思ったのです。それと、自分のことだけじゃなくて、日本画の画材屋さんや掛け軸で使う織物の織元が相次いで廃業していたので、もっと業界を盛り上げるために日本画のアピールもしなければいけないという思いもあったんですね。

アトリエの奥ではアランさんの制作風景が観られるかもしれない

アトリエの奥ではアランさんの制作風景が観られるかもしれない

ギャラリー部分にはアランさんのきらびやかな作品が展示されている
ズームアイコン

ギャラリー部分にはアランさんのきらびやかな作品が展示されている

天井も日本画で埋め尽くされている
ズームアイコン

天井も日本画で埋め尽くされている

──そうすることによって効果はありましたか?

はい。ここをアトリエ兼ギャラリーにしてから絵の注文も徐々に増え、画家としての生活も少しずつ軌道に乗っていきました。

服装もオリジナル

──アランさんの服装は和のテイストが強いですが、これにもこだわりが?

アラン・ウエスト-近影2

今の服装は自己流です。試行錯誤を繰り返した末にこのスタイルに行き着きました。元々は下駄から始まったんです。絵を描いているうちに足の小指が麻痺するようになって、医師に圧迫しないように描きなさいと指示されました。それで下駄を履くようになったらとても楽になりました。同時に、裸足だと下駄の鼻緒がすれて痛くなるので、足袋を履くようになりました。

上着は、夏は蒸れて全身に蕁麻疹ができていたので、通気性と透湿性にすぐれた作務衣を着るようにしたんです。元々汗っかきで、描いてる時に汗が滴り落ちて高価な金箔を台無しにしていたので、襟元には手ぬぐいを3枚、入れています。

下はももひきを履いています。描くときは座って膝を横に崩して描いているのですが、ズボンだと1カ月半で股の部分が裂けちゃうんですよ。でも、ももひきだと1本1本が独立しているからねじれて座っても全然問題なくて、長くもつんです。

洋服を着ていた頃は日本画家と書いてある僕の名刺を渡した時、相手に嘘くさいと思われていたようですが、この格好にしてからは日本画家だと思っていましたと言われるようになりました。だから外見と職業が一致してるのも大事かなと思いますね。

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注文制作の進め方

──現在は仕事の8割が注文制作ということですが、どのような人から制作依頼が来るのですか?

アラン・ウエスト-近影3

一般企業から、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など本当にさまざまですね。作品も掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物など、こちらも多岐にわたります。


───注文は定期的に入るのですか?

理想的なのは、年に3回ほど大規模な作品の注文が入って、中くらいの規模の注文がその間にいくつか入るというバランスですね。ただ、もちろん年によって全然違うこともあり、企業からの注文が多くて個人が少なくなる年もあればその逆もあり、注文が集中する時もあればぱったり来なくなる時もあります。個人で事業をやっている人ならわかると思いますが、誰かこの理由を解き明かしてほしいです(笑)。

日々、僕が楽しく絵を描いて、その絵をこのアトリエにふらっと入って来た人が買ってくれるということが定期的にあれば、それほど大きな仕事が来なくてもそこそこ生活できるんですよね。だから自分の絵を画廊じゃなくて自分のアトリエで売るようにして本当によかったと思います。結局、いろんな意味で僕は無理をしないで自然体であればあるほどうまくいくということに気付きました(笑)。

ただ、今は幸いにして経済的に困ってはいませんが、個人の絵描きとして活動している以上、注文が突然止まることもありえなくはないので、全然安心ではないです。この稼業は安心なんて一生できないでしょうね。


──絵は具体的にはどのように描いていくのですか?

まずは注文してくれた人から、どういう目的で、どんな絵をどのように描いてほしいのか、好きな色、タッチ、絵を置く場所などをヒアリングします。

可能であれば注文してくれた人の家や店にうかがって、絵が置かれる部屋を自分の目で確認します。光の入り具合が重要で、絵がどういうふうに光を受けるかで構図も決まるので、窓の位置などの光環境を確認します。また、そこで受けたインスピレーションも作品に入れ込みたいので。それが無理なら設計図や写真をお借りして参考にします。

たとえ現場に行けなくてもいろんなことを手がかりにします。発注者との打ち合わせの際、着ている服、デザイン、サイズ、色や、立ち居振る舞い、キャラクター、話し方、言葉遣いなども意外と手がかりになるんですよ。

サンタクロース気分で描く

アラン・ウエスト-近影4

コンセプトが決まったらいよいよ実際に描く作業に入ります。下図は描く場合と描かない場合があります。描く場合は、お客様を安心させるためですね。よくあるパターンは、夫婦のお客様でそれぞれ好み・希望が違う場合。先方が1つの絵の中で調和の取れた形で両方とも表現できるのか不安を抱いてしまうので、その場で矢立てを出して目の前でさささとラフ図を描いて、こんな感じでどうですかと提案します。するとご納得いただけるケースが多い。だから下図はすごく大事ですね。

でもオーダーが最初からかなり具体的な場合はスケッチしないでぶっつけ本番で描くことが多いです。下図をあまりに詳細に描いちゃうと新鮮味がなくなりますし、一度下図を描いてしまうと選択肢が狭まってしまいます。あまりに下図が決まってしまうと後は塗り絵になってしまっておもしろくなくるんですよね。

だから、描きながらいろんな選択肢の中からいろいろ試してみて、これでこうやるとこうなるのか、おもしろい、じゃ次はこうしてみようというふうに、謎解きの冒険みたいな感じで描いていくといい作品になるし、僕自身も楽しく描けるんですよ。


日本画の制作工程

  • [1]スケッチ:下絵を描く
  • [2]箔押し:金箔、銀箔を台紙に貼る
  • [3]おおまかな線を書く
  • [4]切り金:竹のナイフで金属箔を正方形に細かく切る。後に絵に貼り付ける
  • [5]野毛:金属箔を細い線状に切る
  • [6]岩絵の具を炭を熾して溶かす。天然の石を粉末にした岩絵の具を接着剤の役割をするニカワで溶かして描く
  • [7]描画:岩絵の具で描いていく
  • [8]砂子:細かい金粉を絵に散らす

──描いてる時はどんなことを考えているのですか?

常に注文してくれた人の顔を思いながら、絶対に喜ばせるぞ、いい意味で期待を裏切って驚かせちゃおうというような、半分サンタクロース気分で描いているんです。人の喜ぶ顔を思い浮かべながら描くというのは心の底から楽しいんですよ。また、いつもというわけじゃないんですが、一番うまくいく時は、何も描いていない、金属箔を貼った台紙に完成絵が浮かんできて、それをなぞるだけって感じになるんですよ。そういうときって、浮かんできたイメージが消えないうちに描き切りたいから、筆のスピードは早いですよ(笑)。


──以前アランさんが出演したテレビ番組で、ヘッドホンをかけながら作業をしていたシーンがあったと思うんですが、どんな音楽を聞いているんですか?

それはですね、作業によって全然違うんです。例えば金箔や銀箔を台紙に貼る「箔押し」の作業の時は、全部同じ圧力、時間で正確に貼り付けないといけません。単純作業で完璧さを要求されるので、僕自身が機械のようにならなきゃいけないんです。その分、頭脳が反抗的になっちゃうんですよ。これつまんないよ、おもしろくないよと。それで例えば哲学的な話のポッドキャストとかオーディオブックスなど知性をくすぐるようなものを聞きながらやると、頭脳の方が喜ぶので、より落ち着いて作業に集中できるんですよ。

もちろん、最もクリエイティブな作業の時は全身のすべての感覚や機能を総動員して描かないといけないので何も聞かないですね。あとはちょっとテンションを上げたい時や締め切りが迫っている時などはアイリッシュフルートを聞きます。テンポが早いから作業スピードがアップするんですよ。だからこういう効果を生むためにこういうものを聞くというふうに、作業に合わせて選んでいるんです。作業中に聞くものも道具の1つとして考えています。

絵に対するこだわり

──日本画を描く時にこだわっている点は?

アラン・ウエスト-近影5

絵描きはみんな絵の具、画材を使って表現していますが、僕は光をもって表現しているんですね。というのは、人は絵を見る時、キャンバスに塗られた絵の具を見ているつもりなんですが、本当は反射している光を見ているんですよ。だから光で表現しようとすると絵を描く時の発想が大きく変わってくるんです。

僕は日本画家なので、まず台紙の上に金箔や銀箔を貼ってその上から岩絵具で描いていくのですが、金属箔は絵の具とは反射する光の質感が全然違うので、見る角度や時間帯によって、つまり微妙な光の変化によって、表情がガラッと変わってくるんです。だからその絵が置かれる光環境を重視しています。

それと、当たり前ですが、絵は静止画なのでリアルタイムに動きを再現することは不可能です。だからこそ止まっている絵の中で線を使っていかに動きを表現するかが画家の腕の見せ所なんです。例えば大きな木は地中から大量の水を吸い上げて葉っぱの先まで伸びている葉脈を伝って運び、蒸発させていますが、これって実はものすごいことなんですよね。僕たちは心臓で血液を全身に循環させていますが、木がそれ以上の水分を動かせているのは生きていて、魂を宿しているとしか思えません。

僕は植物を描く時、その生命力を動きのある線で表現して、線に魂を込めて、僕の絵を観た人がまるで森林浴をしているかのような、清らかで爽やかな心になればいいなと、そんな絵を目指しているんです。だから日本画よりも、大和絵と呼ばれている狩野派、琳派などの19世紀以前の日本の作品には魂を宿せる線の要素が入ってるから好きなんです。

また、画家としては、僕の描いた絵は僕が死んだ後も残るので、作品のもつ影響まで考えて、自分の描いた絵には責任をもたなければいけないと思っています。できること・できないこと、すべきこと・すべきでないことを考えた時、わずかでも社会に悪い影響を及ぼす可能性のある絵は描きたくない。いい影響を与える絵だけを描きたい。それで題材を選んでいるというのもあります。


──画家としてひと皮むけたというような体験は?

アラン・ウエスト-近影6

実は独り立ちして最初の頃は、「フジヤマ」「ゲイシャ」「サムライ」などのエキゾチスムに惹かれて日本に来た、日本かぶれの外国人画家だと思われるのがものすごく嫌だったんです。これまでも何度も話してますが、日本に来たのは、自分がこう描きたいというイメージ通りの表現が可能となる画材があるからというだけだったので。だから、いかにも日本画らしい日本画を描くのは避けていたんです。

ちなみに、昔も今も、僕のアトリエに来た人はみんな最初に「お国はどこですか?」「日本に来て何年ですか?」と聞いてくるんですが、あまりいい気持ちはしないんです。なぜかというと、それは僕とあなたの違いを強調することになるし、嫌と言ったら失礼ですが、僕は一日にそういう質問を何十回もされるから。正直、それを聞いてどうするの?って思っちゃうんですよ。谷中のような寺町では、プライベートなことを軽いノリで聞くという行為は控えるというのが美徳ですしね。

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襖絵の依頼で開眼

アラン・ウエスト-近影7

話を元に戻すと、いかにも日本画らしい日本画を描くのは避けていた頃、谷中にアトリエを構えた翌年に、創建300年の歴史をもつお寺から襖絵の依頼が来たんですね。こういう仕事は初めてだったので、いろいろ文献を読んだりして研究したら、建てた当時の様式に合っている絵にしないと、全体的な調和が取れなくなることがわかりました。もう1つは、作家のエゴや好みで描いてもダメで、建物や窓の外のお庭の風景や空気の流れ方、光の入り方を総合的に意識して描かないといけないということもわかりました。だから極力自分の好みや個性を圧し殺し、ただ、このお寺のこの部屋に調和する襖絵にしようということだけを考えて描き切りました。もちろんサインもしませんでした。それでも自分としては納得尽くの仕事でした。

しかし、その半年後、友だちから「アランが描いたお寺の襖絵を見てきましたよ」と連絡が来たんです。もちろん誰にも僕が描いたとは言ってないし、サインもしていないので、「住職さんに僕が描いたと教えてもらったんですね」と言うと、彼は「一見してすぐアランの絵だとわかりましたよ」と言ったんです。あれだけ自分の個性を出さないように描いたのに、それはありえないと言ったんですが、「いや、アランの個性がにじみ出ていたよ」と言われたんです。

だからこの一件で、意図的に自分らしさを出さないようにするのも、出そうとするのもどっちも同じくらい不自然で、何をやっても自分らしさが出るならば、余計なことはあんまり考えない方がいいんだと思いました。それ以来、人の目を気にせず、自分が描きたいように描くようになったんです。

あえて曖昧なところを残す

──同じ作品でも観る人によって感じ方は違いますしね。

そうなんですよ。僕の絵を観て、日本的だなと思う人もいれば斬新だなと思う人もいる。作品って観た人の内面を映し出す鏡のようなものだと思うんですよ。みんなそれぞれ作品の中に見えるものは自分自身でもある。言い方を変えれば、作品が観る人自身の中にあるものをあぶり出す。だから作家は、作品を観ることは自分自身との対話であるとよく言うんですよ。

だからあんまり絵に具体性がありすぎると観る人たちが想像する余地を残さないし、抽象的すぎると全くわからず、何これ? と不安になる。だから僕はある程度曖昧なところを残すのが一番好きですね。

目指している絵

──アランさんが目指しているのはどのような絵ですか?

アラン・ウエスト-近影8

画廊や美術館に展示するための絵を描くのは簡単なんですよ。なぜかというと、だいたい美術館では1枚の作品の前に立ち止まって見る時間は長くても10秒なのでインパクトがあるような作品を描けば十分なわけです。でも僕が描くのは人々の生活空間の中に飾られ、人々の暮らしに長年寄り添う、一生をともに過ごす作品だから、光の微妙な状況で表情が変わる絵の方がいいと思うんですよね。長い時間の中で絵と対話できる作品が描ければいいなと思っていて、その方が描く方としてもおもしろいんですよ。絵を置くことで居心地のいい空間になることはもちろん、何十年もその部屋に置いても飽きが来ない、馴染むとか、何年経っても新たな発見があるという絵を目指しています。


──注文制作の好きなところは?

個展や展覧会用など、自分のためだけの作品を描く時は、テーマから発想から全部自分の内部から引っ張り出さなければなりませんが、注文制作はまずお客様の好みや趣味嗜好を聞くので、自分では思いつかないような発想や手法が得られるんです。普通、自分だけでは絶対にやらないことでも、この注文をきっかけにちょっとチャレンジしてみようかなという気持ちになるんですね。だからすごく自分が成長するきっかけになるんですよ。

注文制作のおかげで絵描きとしての発想や技術の引き出しが増えたというか、表現の道具がいくつも増え、同時に自信もついたので、注文制作をすごく大事にしてるんですね。

依頼者への思い

──注文してくれるお客さんへの思いは?

アラン・ウエスト-近影9

僕が実際に描くのは自然画、花鳥画ですが、お客様からの注文を受ける時にヒアリングした内容を元に、その人らしさが絵に出るように意識して描くので、お客様の心の肖像画を描いているつもりなんです。注文をいただいた人のことを思って、その人の心を絵で表現しようと思いながら描いているので、できた絵はある意味で肖像画ですよね。

また、僕みたいな全然知らない絵描きに気持ちを託すというのはものすごい勇気と信頼が必要なので、それに対して僕ができることは彼らの気持ちに応えられるように精一杯描くことしかありません。事前に、もし完成した絵がお客様の希望していたのと全然違うものだったら、お代は結構ですとお伝えしてあります。そうするとお客様も安心して僕に注文できますし、こちらのプレッシャーも幾分軽減されるんですね。確かに精一杯頑張ってもお客様が気に入らなかったら、画材費や時間など、僕の損害になっちゃうけど、その分は他で頑張っていきましょうというふうに気持ちが切り替えられますから。


──画家という職業の喜び、醍醐味、やりがいはどんなところにありますか?

やっぱりお客様に完成した絵を渡して喜んでもらえた時、お金以上の喜びがあると毎回感じますね。これこそ僕の理想的な仕事、天職だなと思います。絵を描くことってある意味でお客様とのコラボレーションなんですね。それが可能になるような関係ができるのが一番おもしろいです。だから注文制作って本当に楽しいんですよ。

忘れられない依頼者との思い出

──今まで一番印象に残っている注文制作のエピソードを教えてください

ある日50代後半の男性がアトリエに来て、こう言いました。「最後の赴任先が海外になって大好きな東京を離れることになりました。思い出になるようなものをもってきたいから、絵を描いてほしい」と。どんな絵にするか、何度か打ち合わせを重ねた結果、「毎朝、夫婦2人でこの谷中周辺をジョギングしていて、その時、木漏れ日や桜や新緑、紅葉など四季折々の風景を楽しんでいた。それが一番の思い出で、赴任先にはそういう楽しみはないだろうから、その風景にしましょう」ということになりました。

赴任する前に、結婚記念日にその絵を奥さんにサプライズでプレゼントしたいとおっしゃったので、その日に絵を渡すことに決定。完成まで途中経過も何度か見に来ました。当日のサプライズの段取りは、結婚記念日のためにアトリエの近くにある、奥さんの好きなケーキ屋さんでケーキを買う→ついでに少し散歩しようかと誘う→このアトリエの前に来た時に偶然を装ってちょっと入ってみようかと誘い込む→その場で絵を見せてプレゼントする、ということにしました。

そして当日、僕はアトリエの奥の方にその絵をかけて、フタをして見えないようにセッティングしました。予定時刻に2人がアトリエに入ってきて、彼がさも初めて来たかのように「すてきな絵がたくさんあるね~」と言いつつ奥さんと一緒にいろんな絵を見ていました。奥さんの方も「本当にすてきね。私たちも何か絵がほしいよね」と言ってたというのがまたいいんですけど(笑)。

アラン・ウエスト-近影10

それで、とうとう2人がその絵の前に来た時、彼が打ち合わせ通り、「変だな、なんでこの絵にはフタがしてあるんだろう」と言い、僕が「じゃあ見てみますか」と言いつつフタを取りました。奥さんは目をキラキラさせながら「この絵、すごくきれい! ほしいな、売ってるのかな」と言った時、旦那さんが「この絵は君のためにアランに描いてもらったんだよ。僕からのプレゼントだよ」と言ったんです。そうしたら奥さんは「うわ~、そうだったの~すごくうれしい!」と目をうるませながらすごく感激しちゃってね。「アランさん、すてきな絵を本当にありがとうございました」と夫婦で感謝されました。その場には僕の妻もいたんですが、その様子を見ながら「いいなあ、僕らもこういう夫婦になりたいなあ」と強烈に思うと同時に、「うれしいなあ、絵描きという仕事をしてて本当によかったなあ」と心底思いました(その時のことを思い出しつつ涙目で語るアランさん)。で、その夫婦は僕の描いた絵をもって海外へ行ったんです。

泣き崩れた社長

会社からの制作依頼では、新潟のある日本酒メーカーから、「自社で作っているお酒に合ったラベルを描いてほしい」という注文を受けました。その会社はとてもおいしいお酒を作ってはいたのですが、売れ行きが芳しくなくて社長がかなりの危機感を抱いていました。その時も何度も打ち合わせを重ねて、地元新潟の春夏秋冬の風景を1枚の絵に描いて、それを5つに分割して代表的なお酒のラベルとしてそれぞれの酒瓶に貼ろうということになりました。つまり5つのお酒の瓶を並べたら1つの風景画が現れるという仕掛けです。

構想にも描くのにもかなり時間をかけたのですが、完成した作品を社長に見せた時、いきなり泣き崩れたんです。「これだ、このラベルなら受け継いだ会社の存続は大丈夫だ」と。それがすごく印象的でしたね。実際にそのラベルにしたら売れ行きもかなり好調で、おまけに日本酒の賞まで取ったので僕としてもうれしかったですね。


──いろんな人や企業の節目に記念となるものを作れるってすてきですよね。

そうですね。そこに関われるのは本当に幸せなことだと思います。

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自分のために描く絵

アラン・ウエスト-近影11

──自分のために描く絵はどういう感じで描いているのですか?

自分のためだけに描く絵は、注文制作の絵を描く過程で、発想や技法において新たな可能性を感じることがあり、それをもう少し昇華したい、画家として新たな境地を開拓したいという気持ちで描いています。自分のための勉強というか絵の修業、追求という意味合いが強いです。楽しいのは俄然注文制作の方ですね(笑)。


──全部自分の好きなように描く方が楽しいのかなと思っていました。

いや、注文制作でもいつも好きなように描いてますよ(笑)。なせなら、注文制作でも描きたくないものは引き受けないようにしているからです。それは1つの大きなポイントですね。でも時には受けることもあります。それは自分だけでは絶対に描かないけれど、もしこれを描いたら成長のいいきっかけになるかもしれないとか、絵描きとしての幅が広がるかもしれないとか、僕自身どうなるのか見てみたいと思えるような場合です。1つの挑戦、実験として、新しい技法開発の可能性を探るために取り組みます。


──過去にそういった例はありますか?

以前、某キャットフードメーカーからパッケージ用に猫の絵を描いてくれないかと依頼されたことがありました。僕は花鳥画専門でまず動物や人は描かないし、描いたことがあっても鳥を1、2羽くらいでした。それに僕がどんなにかわいく猫の絵を描いても飼い主は絶対に満足するはずがないと最初は断ろうと思っていました。でも、だからこそ、これは究極のチャレンジだと思って受けることにしたんです。頑張って描こうとしたけど、楽しくなかったし、ものすごくつらかった。ヘタクソだと言われたらどうしようというプレッシャーもあったしね。当時は猫を見るだけで苦しみを覚えていました(笑)。でも苦しみながら描いた猫の絵は発注者や周りの評判がよかったので、やってよかったと思いましたね。これで1つ描ける絵の幅が広がったわけですから。その後もまた別の会社から黒猫の絵の注文が来た時も受けて描きました。この時も評判がよかったんです。

美術界における位置づけ

──ご自身の美術界の中での位置づけとしてはどのようにお考えですか?

アラン・ウエスト-近影12

その質問もよくされるのですが、僕は日本の美術界に関しては特に意識していません。今まで僕が目指してきたことと美術界がよしとすることとの不一致が多すぎるので。それは向こうにしても同じことで、美術界から見ると僕の絵はモダニズムでもないし、斬新さも話題性もないから、おもしろくないという評価になっています。逆に美術界に認められようとしている芸術家たちは斬新で派手な作品を創っていますが、僕はそういうのには全く興味がないんです。だから美術界から接触もないし、美術誌から取材を求められたこともない。ノータッチなので非常に楽でありがたいですね。


──そうなのですか? これだけの作品を描かれているし、賞もたくさん獲っているので美術界でも高く評価されているのかと思っていました。

いえいえ。年に1度くらい、美術団体のお偉いさんや美術評論家がこのアトリエに来るんですが、僕の絵をひとしきり観てお付きの人に「こんなものは日本画じゃない」というようなことをおっしゃるんです。最初はよく本人の前でそんなことが言えるなと思っていたのですが、今は気にならなくなりましたね(笑)。

そもそも、僕はよく日本画家とか言われていますが、特に日本画へのこだわりも意識もないんですよね。たまたま自分がしたい表現をよりよくできるのが日本画の材料と技法だったからこういう絵を描いているだけであって、それを観る人が日本画だと思ったらそれでもいいし、日本画じゃないと思ってもらっても一向に構わないんですよ。昔も今も自分の描きたい絵を描きたいように描いているだけで、だからとても幸せなんです。

絵を描くということ

──アランさんにとって絵を描くこととはどういうことなのでしょう。

アラン・ウエスト-近影13

僕にとって絵を描くことは精神安定剤でもあるんです。毎日絵を描くことによっていろんなフィードバックがあるので、今調子いいなとか悪いなとかがわかります。逆に少しでも休むと精神的に落ち着きがなくなります。休みは2日間くらいが限度で、それ以上になるとつらくなって一刻も早く描きたくてしょうがなくなるんですよ。さらに体調も免疫力が低下してカゼを引きやすくなります。やっぱり絵が描けないと自分自身が見えなくなるので、心身ともにおかしくなるんですよ。すべての作品の中に僕がいるので、作品がないと僕がどこにいるのかわからないという不安な気持ちになるんです。


──すごい精神状態ですね。

絵を描かない人生はありえない。描かないと生きていけない。完全に職業病ですね(笑)。それに、一度描くのをストップしたら本調子のテンションに戻るまで時間がかかるので、注文制作の隙間を縫って、自分が描きたいものを描いたりして、意識的になるべく絵を描くことを途切れさせないようにしてるんです。


──アスリートや音楽家みたいですね。

ちょっと話はずれますが、僧侶など瞑想する人たちの話を聞くと、集中すると時間の感覚がなくなるとか、周りの存在が消えて自分だけになるとか言うのですが、絵を描くことも同じだなって思います。絵描きと修行僧は似た存在かもしれませんね。

あと、比較するのも変かもしれないのですが、画家はファッションモデルと正反対の存在かもしれないと思うんですよ。ファッションモデルの価値はすべて自分自身の肉体にあるじゃないですか。でも画家の場合、自分自身なんてどうでもよくて、すべての価値は自分が描いた作品にある。描いた作品が人々や社会にどう貢献できるかどうかが一番重要なので、すべての価値は自分の外にあるんですよね。

リフレッシュも絵で

──ではプライベートで休暇を取ってリフレッシュなど一切しないんですか?

アラン・ウエスト-近影14

いや、リフレッシュはとても大事ですよ。でも結局リフレッシュと称してやっていることはデッサンです(笑)。仕事で描くんじゃなくてお寺や美術館に行って襖絵のデッサンを描くのがいいリフレッシュになるんですよ。


──そこまで好きなんですね。アランさんにとって、絵を描くことは単なる仕事じゃないですね。

そうですね。だからこそ好きな絵で生活できるって幸せなことだと思います。


──アランさんのように幸せな仕事人生を送るためにはどうすればいいと思いますか?

その職業を志した時に抱いていた理想を簡単に手放さないことが非常に大事だと思うんですね。子どもの頃に抱いた、社会の役に立ちたいとか人のためになりたいといった動機を大人になる過程でどこかに置き去りにしてしまうことのないように、ずっともち続ければ幸せな仕事人生になると思うんです。


──アランさんは日本に来て35年ですが、今の日本を見てどう感じますか?

それは難しい質問ですね。言える立場じゃないなというのもあるし。ただ、最近思うのは、アメリカがどれだけ変わったかという方がもっと大きいということですね。だから「ホームシックにならないんですか?」とよく聞かれるんですが、僕にとってホームシックになるようなアメリカはもう存在しない。完全に消えてしまった。僕が来日した頃のアメリカはベトナム戦争で大いに反省してもう絶対に二度と戦争はやらないと誓っていたはずなのですが、それから何度戦争に加担しているか......。だから今こういう国になっているのがありえないし、今の大統領選も信じられません。本当に醜くくて恥ずかしいとしか言いようがないんですよ。最近の日本の政治の傾向を見ていると、アメリカと同じような国になってしまうのかなと非常に気になっています。

今の夢・目標

アラン・ウエスト-近影15

──今後の夢や目標があれば教えてください。

それもよく聞かれるんですが、特にないんですよね。僕は8歳の頃に夢見た画家になり、思い描いた理想の人生を生きているので、これ以上何を望むことがあるの?って感じなんです。僕は権力とかお金とか名誉とかには興味がなくて、誰かに認めてほしいという承認欲求もないので、とにかくこの先もずっと好きな絵を描き続けられればいいというだけですね。


──もっとたくさん絵の注文を増やしたいという欲もないのですか?

逆にあんまりお客様が多すぎると、ゆっくりその人たちを思って描くことができないので、今くらいがちょうどいいです。だから今後も僕に絵を描いてほしいという人たちとコラボレーションして、彼らが喜ぶ絵を描き続けられればいいなと思っています。


インタビュー前編はこちら

人の一生に寄り添う絵を描く碧眼の日本画家[前編]

3歳から絵を描き始める

──アランさんは日本で30年にもわたって日本画家として活動しているとのことですが、なぜアメリカから日本に移住しようと思ったのか、そもそもなぜ画家を目指したのか、まずはこれまでの人生の歩みから聞かせて下さい。

アラン・ウエスト-近影1

僕は1962年、アメリカ、ワシントンDCで生まれました。生家はホワイトハウスから車で20分くらいのところにあり、家の裏には広くて豊かな原生林が広がっていました。両親は裏庭に僕専用の花壇を作ってくれたので、好きな花や植物を植えて育てていました。そういう環境だったので、幼い頃から植物が大好きで、もっとも美しい存在だと感じ、3歳くらいからいつも裏庭で植物の絵を楽しみながら描いていたんです。母が当時の作品をたくさん取っておいてくれていまして、我ながらこんな早い時期から植物の絵を描いていたことに驚きます。僕が今でも花鳥画を描いているのはその頃の気持ちと全く変わってないからなんです。画家としては何よりも一番美しい物が描きたいですからね。


──なぜ植物にそんなに惹かれたのでしょうか?

逆に、なぜ植物がこの世の中で何よりも美しいと思わないのかが不思議です(笑)。


──画家になりたいと思ったのはいつ頃ですか?

8歳の頃ですね。小学校の先生に「人生を決めるには今(8歳)のタイミングがちょうどいい」と言われて、僕はもうすでに絵も大好きだし、たくさん描いていたので画家になろうと決めたんです。それで本格的に絵の描き方を学ぼうと、9歳から油絵の教室に通うようになりました。


──8歳で将来のキャリア、職業を決めるというのは早い気もするのですが、アメリカってそういう教育なんですか?

いえ、アメリカでもあまり一般的ではないと思いますよ。画家を目指す最初のきっかけを与えてくれたしすごくいい人だったので、その先生のことは今でもよく覚えていますね。

14歳で初めて注文制作を受ける

──中学、高校時代もずっと絵を描いていたのですか?

もちろんです。14歳の時、ある劇団から舞台の背景画を描いてほしいと頼まれました。全然知らない劇団だったのですが、どこからか僕が絵を描くのがうまいという評判を聞きつけて声を掛けてきたらしいです(笑)。現在、僕の仕事の中で、注文制作が8割を占めているんですが、この時が初めての注文制作でした。劇団では背景画の他にも俳優の肖像画とかポスターとか、たくさん頼まれて描きました。劇団側が絵の具などの画材を全部与えてくれて、好きな絵が描けて、その上お金までもらえるので至福でしたね。14歳という早い時期から、依頼者がどういう絵を描いてほしいのか、希望していることをすべて聞いて引き出すだけではなく、わからないところがあれば積極的に聞いて確認したり、下図を見せて提案しながら徐々に要望に沿った絵に仕上げていくということを学び、その結果お客様に喜んでもらえることのうれしさを覚えたことが、すごくいい経験になりました。また、締め切りに間に合わせることの大切さを学べたこともよかったですね。

東京・谷中にあるアランさんのアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」にて

東京・谷中にあるアランさんのアトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」にて

中学卒業後は、芸術教育に重きを置いている公立高校に進学しました。放課後はスミソニアン美術館でポスター制作や膨大な数の作品管理のボランティアも始めたのですが、授業の最後の1コマに出席していたら間に合わないんですね。そこで、メリーランド州の絵画コンクールで賞を取ったことをきっかけに、校長先生に「芸術は人類共通の言語だから外国語の時間を美術の時間にしてくれませんか」と交渉したところ、「美術館での経験も大事なことだ」と特例でスミソニアン美術館でのボランティアを最後の1コマ分として認めてくれて単位をもらえたんです。スミソニアン美術館でのボランティアでは、シルクスクリーン印刷の技術や美術史・作品・作家に関する幅広い知識が得られ、後に非常に役に立ちました。

さらに、もっと絵の技法を学びたかったので、放課後や土日はコーコラン美術館付属美術学校や絵の師匠のアトリエにも通っていました。


──では高校時代はものすごく忙しかったんですね。

そうですね。でも、僕にとってアートは勉強でもあるし、仕事でもあるし、遊びでもあるし、息抜きでもあったので、全然苦ではありませんでしたよ(笑)。


──高校時代もずっと油絵で自然画を描いていたのですか?

アラン・ウエスト-近影2

そうなんですが、高校の頃、油絵に対する不満がピークに達したんです。油絵の具はネトネトしているので、植物の枝や葉っぱのディティールがイメージ通りにうまく美しく描けないことがよくわかって、すごくフラストレーションを感じていました。絵を描きながら、常に絵の具と戦っているような気分だったんですよ。筆も毛が固くてヘラのようだったので描きにくさを感じていました。

アルバイトで舞台の背景などを描いている時はペンキを使っていたのですが、すごく液体的で描きやすかったので、学校の授業で描く絵もペンキで描きたかったのですが、ペンキは2、3年で色あせするので使えませんでした。

絵の具を自作

──水彩画でもダメなんですか?

水彩画は植物系の染料なので、月日が経つとペンキと同じように色が全部あせるんですよ。せっかく絵を描くなら長い年月が経っても色あせしないものにしたかったので、ストレスを感じつつも、油絵の具を使うしかなかったんです。

でも、同じ油絵でも中世ヨーロッパ時代の作品の方がディティールが全然きれいなんですよ。それができたのはなぜだろうといろいろ調べたら、まずはキャンバスが違うことがわかりました。現在、私たちが使っているキャンバスって凹凸が目立ちますが、昔は麻を使っていて平でした。その上に兎膠(にかわ)を塗って紙やすりで研ぐというのを繰り返して、凹凸をどんどん落としてつるつるの表面にしていたんです。これがまず1つの解決法になるなと思いました。

次に、油絵の具のネトネトをもっとサラサラにする方法を調べてみました。キャンバスに兎膠を塗るのなら、顔料に兎膠を混ぜて絵の具を作ったらどうかと思ってやってみたら、すごくサラサラした液体的な絵の具になったんです。これほど使い勝手がいい絵の具はなかったので、自分でもこれはすごい発明だと(笑)。早速その絵の具で描いてみたんですが、うまくいくときもあればいかないときもありました。その理由はよくわからなかったのですが、ただ、より植物をイメージ通りに表現できる絵の具に近づいているなという手応えは感じていました。

アメリカでトップの美術大学に挑戦

──高校生の頃から植物を思い通りに描くために自分で絵の具を作っていたとは驚きですね。大学はやはり美大へ?

アラン・ウエスト-近影3

はい。もちろん高校生の頃も画家になりたいと本気で思っていたので美大へ進学するつもりでした。しかし、弁護士だった父は「絵を描くことは趣味ならいいけど職業にするのはダメだ」と大反対。画家は自立して生活するのが難しい職業だし、結婚や子どもをもちたいならなおさら無理があると。確かに父の言うことももっともなのですが、それでも、一生一人になっても構わないから画家になりたいと思っていました。というより、将来、絵を描かない自分が想像できなかったんですね。一番やりたいことは絵を描くことなのだから、他の仕事に就いても不幸になるだけだろうと。絵を描かないで幸せでいられるというのは考えられませんでした。

そういう自分の気持ちを父にぶつけましたが、父も簡単には引き下がらず、相当やりあいました。このせいで父との関係はかなり険悪になったのですが、見かねた祖母が父に「お前も若い頃は夢を抱いていたことを忘れたのかい? 子どもの夢を応援してやりなさい」と僕の味方になって父を説得しようとしてくれました。父も自分の母の言葉には逆らえず、「アメリカでトップの美術大学に入学して、美術家としてちゃんとした教育を受けるならば許す。もし入学できなければ画家の道はあきらめろ」と条件付きで一応チャレンジすることだけは認めてくれたんです。僕はかなり厳しいチャレンジだけど頑張って絶対に合格してやるぞと気持ちを燃え上がらせました。

この時、父は、僕がこの条件をクリアするのは絶対に不可能だと思っていたからこそ、こう言ったのだと、後になって聞かされました(笑)。今こうして画家として生きていられるのは、いろんな幸運がたくさん重なったからなんですが、この時の祖母の説得と父の誤算があったこと、それを受けて頑張ったことが大きいと思います。


──だたでさえ忙しい毎日の中で、受験勉強の時間はどうやって取ったのですか?

平日は学校が終わって遅くまで絵の教室に通うか美術館でのボランティア、土日は劇場のアルバイトなどで忙しかったので、他の科目の成績はあまりよくありませんでした(笑)。だから教室や劇場や美術館に行くバスや地下鉄の中で勉強するなど、時間を効率的に使っていました。

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死の恐怖が原動力に

──受験期はさらに忙しくなったわけですね。夢のためとはいえよくそこまで頑張れましたね。

アラン・ウエスト-近影4

精神的にきつかったのは確かですが、それよりも充実していましたね。自分で選んだストレスというか、自分が追い求めているものを実現するために乗り越えなければならない試練だったからね。

それと今、久しぶりに思い出したんですが、僕が3歳の頃、母と一緒に隣のお家に遊びに行ったことがありました。僕が別の部屋にいたときに彼女たちの話が聞こえてきたんですが、母は「アランはいつ死ぬかわからない。ある日突然死んでしまうかもしれない。それが恐くてしょうがないの」と話していたんです。それ以来、僕はいつ死ぬかわからないんだという恐怖をずっと背負って生きねばなりませんでした。でも同時に、いつ死ぬかわからないなら精一杯生きなきゃいけない、与えられた時間を最大限使おう、やりたいことをやろう、とも決意し、それ以来、やりたいと思ったことは何でも限界までハードに頑張ってたんですよ。


───突然死んでしまうかもしれないというのはどういうことですか? 何かの病気だったのですか?

いえ、そういうわけではありません。それからずっと後の、ちょうど結婚する前の28歳の頃、母に「なんでアランはそんなに生き急いでるの?」と聞かれたことがありました。「だって僕はいつ死ぬかわからないんだからできるだけのことをやりたいんだ」と答えたら、「それどういうことなの?」と聞き返してきたので、3歳の頃の話をしたんです。そしたら母も思い出して「ああ、あのことね」と笑い出しました。詳しく聞くと、あの頃の僕は一度泣き始めたら長い時間泣きやまず、酸欠になって気絶するということがしばしばあったらしいんです。病院に行くと、医師は「子どもにはそういうことがよくあるけど、大きくなったら自然と治るから心配はいらない」と言ったのですが、母は「もし滑り台の上で泣き出して気絶したら転落して死ぬかもしれない、だから目を離せない、死ぬかもしれない」と心配していた、というのが事の真相だったんです。だから僕は長年大きな勘違いをしていたわけですよ(笑)。

その後は、5歳くらいからはその症状が全然出なくなったので母はとっくに忘れていた。僕が持ち出すまではね(笑)。25年くらいたって誤解が解け、2人で笑いあいました。でも、この小さな思い違いが、人生の時間を一瞬も無駄にしないでやりたいことを全力でやろう、だからどうしても画家になりたいと思った大きな原動力になったことは確かなんですよね。

誰でもいつ死ぬかわからないということは間違いないのですが、いつもそういうことを考えていてはまともに日常生活を送れないので、頭の隅に追いやって考えないようにしています。そのため本当に自分のやりたいことを考えなかったり、やりたいことに全力でチャレンジしなかったりする人も大勢いるでしょう。そう考えたら僕の場合はそういう勘違いをして逆によかったと思っています。

アランさんのアトリエ。ここで数々の素晴らしい日本画が生まれている

アランさんのアトリエ。ここで数々の素晴らしい日本画が生まれている

50点の作品を提出

──試験はどんな感じだったのですか?

受験した大学は、スミソニアン美術館の館長が学長を務めるカーネギーメロン大学という全米トップクラスの大学の芸術学部で、入学倍率は50倍とかなりの難関でした。もう1つ大変だったのは試験を受けるに当たり、提出しなければならない作品点数が50点だったこと。僕は高校時代にたくさん描いていたので点数自体は問題なかったのですが、どの絵を選ぶかでかなり頭を悩ませました。どのようなタイプの試験官が見ても大丈夫なように、いろんなタッチの絵を選びました。あとはデッサン帳もたくさんあったので、提出することに。デッサンにはその時考えていること、見ていること、気になっていることなど、頭の中身が全部出るから、それを見せればいいかなと。それでワゴン車を借りて作品50点とデッサン帳50冊を積んで大学の試験会場に持って行ったんです。でも試験会場に入っても50点を持ってきているような受験生は見当たらなくてね。みんな作品の数が多すぎてどこか違う場所に置いてきたのかなと思っていました。

それで試験会場で試験官に作品を見せていると、「作品を50点全部もってきた受験生は初めてだ」と言われました。また、「デッサン帳1冊を1点として数えている学生も初めてだ。普通の受験生は1ページを1点として数えている」と。それを聞いて他の受験生を圧倒した感があって、ちょとだけよかった~と思いましたね。

でも、願書を出して結果が出るまでの数カ月間は本当に苦しかったですね。この合否通知1つで僕の将来がすべて決まってしまうわけですから。もし不合格だったらどうしようという不安に24時間苛まれていました。不合格でも「わかりました、画家の道はあきらめます」ということにはならない。違う職業を選ぶことなんて想像できないわけですから。あの頃に描いてた絵は完全に病んでますね。でも結果は合格。不安で不安でしょうがなかっただけに合格通知が届いた時は本当にうれしかった! ほっとしましたね。

一方、父は「しまった」って感じでした。僕が合格するなんて絶対にありえないと思っていたので(笑)。でも結果は合格だったんです。それでも「アラン、絶対に不可能な条件をよく飲んでクリアしたな」とほめてくれて、最終的には「約束したからには仕方がない」という感じで美大入学を許してくれたんです。父は弁護士だったから職業柄約束は守らないといけないからね(笑)。

苦しかった大学時代

──大学生活はどうでしたか?

アラン・ウエスト-近影5

アメリカでトップクラスの芸術専攻だけあってすべてにおいてかなり厳しかったですよ。入学した年の最初の冬休みに入る前、成績の悪い学生や1日でも欠席した学生は先生から名指しで「君と君と君は次の学期は来なくていいよ」と言われたんですよ。こういうことって絵描きとしてあんまりされたことがなかったのでショックで恐かったですね。そういう感じでそれ以降も学期の終わりごとにどんどん削られて、学年で90名合格したんですが、最終的に卒業できたのは15名しかいませんでした。


──授業はどんな感じでした?

つらかったですね。というのは、ものすごく簡単に言うと、文化の美術史から見ると西洋の絵画の主な題材は人物で、東洋は自然なんですね。前にも触れましたが、僕は小さい頃から何より美しいと思っていたのが植物で、自然の画を描くのが大好きでした。

一方、人物画には興味関心が全くなかったのですが、人物が描けなければ始まらないというのが西洋画の美術教育の基本だったんですよね。中学生の頃から絵画教室で人物デッサン、裸体を何時間も描くのがつらかったのですが、大学に入るとさらに1日9時間、延々と人物デッサンをやらされて。確かに人体が最も複雑な物体で少しでもデッサンが狂うとわかってしまうので、正確な表現力を身につけるために人物デッサンは大事だというのはわかるのですが、題材としてはどうでもいいんです(笑)。だから来る日も来る日もひたすら人物デッサンをやらなきゃいけないというのがとてもつらかったんです。もう懲り懲りという感じでしたね(笑)。

カーネギーメロン大学時代のアランさん。当時のアトリエにて

カーネギーメロン大学時代のアランさん。当時のアトリエにて

あと、当時の大学はモダニズムに異様に傾倒していて、モダニズムじゃなければアートじゃないという風潮だったのも嫌でしたね。本筋からずれるので詳しくは言いませんが、僕はモダニズムは人間にとって心が豊かになるためのものをすべて否定する思想だと定義していたので、モダニズム偏重型の教育環境の中で美術を学んでいていいのか、今の環境で画家として有意義なことが得られるのかという疑問をずっと感じていたんです。そもそも絵描きを評価するものは作品以外にはないですよね。絵が好きな人は絵描きの学歴や学校時代の成績で絵を買うわけじゃないし、画廊もそれで絵を置いてくれるわけじゃない。あくまでも作品が素晴らしいと思うから、気に入ったから買うわけです。そう考えたら、この環境の中で自分の絵がよくなるとは到底思えなかったので、なおさらここで学んでいいのかという疑問は大きくなったんです。

僕の絵はモダニズムとは対極にあったので、先生方からよく批判もされました。かといって、自分がしたい表現を貫き通したら落第させられてしまうかもしれない。そういった葛藤、ジレンマで非常に苦しかったんです。

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休学、日本へ

──そんなにつらいのなら大学を辞めてしまおうかとは思わなかったのですか?

何度も思いましたよ(笑)。その頃、後の僕の画家人生を決定づける大きな出来事がありました。ある公募展に、先程話した膠を混ぜた絵の具で描いた作品を出品した時、それを見たお客さんから「よくわからないけど、この絵は昔から日本で使われている技法で描かれた絵と似ているね」と言われてとても驚きました。僕の発明だと思っていた技法が日本ではずっと昔からあったのか! と衝撃を受けたんです。

僕自身も開発したての技法で不安があったので、日本に行ってもっと知りたいなと思いました。それでちょうどその頃、大きな作品の注文制作をいただいてけっこうお金が入っていたので、入学して1年が終わったタイミングで休学して日本に行くことにしたんです。1982年、19歳の頃でした。


──来日する前の日本のイメージは?

完全に未知の世界でした。60~70年代に日本に行ったことのある友人のお父さんの話では、「あまりにも大気汚染がひどくて日中街灯が灯されている」とか「みんなマスクをつけてる」とか「人々が外に出なくても買い物できるように地下商店街が充実している」ということだったので、正直日本にはあまりいいイメージがなかったんですね。だからこの時点では画材や技法は知りたいと思っていたのですが、住みたいとまでは全然思っていませんでした。

岩絵具との出会いに衝撃

──日本に来てからは?

アラン・ウエスト-近影6

来日して最初に住んだのは愛媛県の新居浜市というところでした。早速いろいろ画材屋を巡ったのですが、その中で天然の鉱石を粉末状にした顔料である岩絵具と出会った時、衝撃を受けました。僕がアメリカで使っていた化学顔料は色合いや描く時の感触がプラスチック的で、植物などの自然を表現するにはどうしても好きになれず、大きな悩みのタネでした。でも日本に来て岩絵具に出会った時、なんてきれいなんだと感動したんです。色あいや発色が大好きで仕方がなくなりました。しかも化学顔料と違って色あせもしない。素晴らしい絵の具だなと。

岩絵具自体には固着力がないので、画面に定着させるため、接着剤の役目をする膠を混ぜます。僕はアメリカでは兎の膠を使っていたのですが、ものすごく臭くて濁っていました。でも日本では昔から鹿の膠が使われていて、これは臭わないし透明度がすごく高いので顔料がきれいに見えるんです。これにも感動して、これこそ僕が描きたい絵をイメージ通りに描くために求めていた絵の具だ、日本に来て本当によかった! と思いましたね。

それから、和筆を本格的に使い始めたのも大きかったですね。僕は絵を描く時に一番大事にしてるのは「線」なんですね。和筆だと僕のイメージ通りに細い線や太い線を自由自在に描けるんです。これを覚えちゃうともうほかの筆は使えません。

肥痩線(ひそうせん)ってわかりますか? 鹿野派にあった筆法なんですが、同じ線でも細くなったり太くなったりすることによって豊かな表情の絵や動きのある絵が描ける技法です。「鳥獣人物戯画」が肥痩線で描かれてる代表的な作品です。植物を描くときも和筆なら葉脈や枝の曲がり具合をまるで生きているもののように表現できる、いわば絵に魂を吹き込むことができるんです。こういう画材、道具との出会いでずっと日本にいたいと思ったんです。


──画材との出会いだけで異国でずっと暮らそうと決意したというのもすごいですね。

アメリカにいる頃の僕は、自分のイメージする絵を描くために長年画材と戦っていたんです。それは絵描きにとってはものすごいストレスで、それから解放してくれたのが岩絵具や鹿膠や和筆だったわけです。僕にとって、もう画材と戦わなくていいという解放感や自分が表現したいように自由に絵が描けるという喜びは、言葉の問題とか遠く離れた見知らぬ国で家族と離れて暮らすといったデメリットを補ってあまりあるメリットだったんですよ。それで、アメリカの大学を卒業したらすぐ日本に戻って画材屋のそばに住みたいと思っていたんです。

日本画の画材との出会いがアランさんの運命を決定づけた

日本画の画材との出会いがアランさんの運命を決定づけた

つくば万博で再来日

──ということは日本に住むことに悩みや葛藤はなかったんですね。

特になかったですね。1983年に2年間の休学期間を終えてアメリカに戻ったら、また化学顔料と兎膠を使って絵を描かざるをえないのがすごくつらくて、早く日本に戻りたい! と思っていました。

でも大学を卒業する前にまた日本に行くチャンスが到来しました。ある日、アメリカ政府から電話がかかってきて「アラン君は2年間日本にいたから日本語が堪能らしいね。ついては1985年に日本で開催されるつくば万博で、アメリカ館の通訳と展示案内をやってくれないか」と依頼されたんです。日本にいた2年間で日本語はほぼマスターしていたし、また日本に行って美術の勉強ができるし、何より画材が買える! と思って即、快諾。また1年間休学することにしました。

再び来日してまず最初に行ったのが、東京の谷中にある画材屋さんでした。谷中は江戸時代から有名な絵描きや芸術家がたくさん住んでいて、画材屋がたくさんあったんですよ。ちなみに、日本にある日本画の画材屋は9カ所しかないんですが、その内の4カ所が谷中近辺にあるんです。この辺に東京藝術大学が設立されたのも昔から芸術の街だったからです。日本画の画材屋もたくさんあるし、昔ながらの日本の下町の風情や自然が豊富に残っていたので、谷中に一目惚れしました。それで、アメリカの大学を卒業したら谷中に住もうと決めたんです。

1年間のつくば万博の通訳・案内を終えた後、画材をしこたま買い込んで帰国し、その翌年カーネギーメロン大学を卒業。その年のうちに日本に舞い戻りました。

東京藝術大学大学院に入学

──日本に再び来てからはどうしたのですか?

アラン・ウエスト-近影7

谷中に住もうと思っていたのですが、いい物件がなかったので近くの本郷にアトリエ兼住居を借りて、東京藝術大学大学院への受験の準備を始めました。これはつくば万博でアルバイトをしている頃から考えていたことです。理由は、当時、手探り状態で膠絵を描いていたのですが、うまくいくこともあればうまくいかないこともありました。なぜそうなるのかわからなかったし、肥痩線をもっと自由自在に描けるようになりたかったので、日本画の技術をちゃんと学びたいと思っていたからです。それで再来日してから2年後の1989年、東京藝術大学日本画科加山又造研究室を受験したんです。


──なぜ加山先生の教室に入りたいと?

東京藝術大学を受験しようと考えた頃から、藝大の日本画科の先生とその生徒たちの絵をよく見てたんですね。両者の絵がそっくりの教室は受けるのをやめようと思っていました。先生が生徒に画風を押し付けているという証拠ですから。でも加山先生は日本画で初めて裸体を描いた人でもあり、琳派風に描くこともあれば、中国の南宋、宦官のような描き方もするし、新宿の町並みを日本画風に描くこともあるといったように、いろいろと意欲的に自分の表現をしようとしている画家でした。生徒たちの描いた作品からも、自分なりにいろんな表現をしているのがわかりました。

このことから加山先生はただ絵を描く技術が高いから先生になっているわけじゃなくて、指導者としても素晴らしい人だなと思ったんです。つまり、生徒たちに自分の考えや技法を押し付けるんじゃなくて、生徒たちの価値観やセンス、求めているものを尊重しながらアドバイス、指導していて、それぞれの生徒が歩んでいる道を意識して尊重しながら光を照らしてくれる人だなと思ったんですね。だから、加山先生の研究室に入りたいと思ったわけです。ただ、先生のような絵を描きたいと思っていたわけではなく、すでに自分の中に自分が追い求める、描きたい絵のイメージがあるから、そのイメージ通りに日本画を描くための技術・技法だけを学びたかったんです。

でも1回目の受験では不合格で、2回目の時に聴講生ではどうですか? と言われました

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聴講生として入学

──なぜ聴講生を勧められたのでしょう?

先生からは、アランがどういう絵を描くのかを見たかったからだと言われました。日本人の受験生の場合は、学部時代の教授に連絡をすればその人がどういう絵を描くのかがわかります。でも僕の場合は出身大学がアメリカで、カーネギーメロン大学の先生に連絡が取れないので、受験のため提出した作品が本当に本人が描いたものなのか証明のしようがありません。そこで、聴講生なら実際に目の前でどういうふうに作業をするのかがわかるからと聴講生を勧められたんです。その時はもちろんうれしかったですよ。僕は絵の技術が学べればどういう形でもよかったのでもちろんありがたく受け入れました。むしろ聴講生の方が授業料が安いからよかったです(笑)。聴講生として1年間絵を描いた翌年、また受験して今度は合格。正式に研究生になりました。

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婚約した時の写真

このタイミングで教会で知り合ってお付き合いしていた日本人女性と結婚しました。最初はやっぱり彼女のお父さんには反対されましたよ。それも当然ですよね。こんな20代の素性もよくわからない絵描き志望の外国人が娘を幸せにできるのかとすべてのお父さんは不安に思うでしょう。もし僕に娘がいて、僕のような男を連れてきたら同じように思います(笑)。それで、彼女のお父さんに娘さんと結婚させてくださいとお願いしに行ったら、「東京藝術大学の大学院に合格したら結婚を許す」と言われたんです。日本人でも入学が困難な藝大の大学院に入れるほどの腕前の持ち主なら、将来なんとか妻子を養っていけるのではないかと考えたからです。今でもチャレンジを与えてくれた義父とは大の仲良しですよ。(笑)

加山研究室での学び

──加山先生から教わったことで印象に残っていることは?

描く対象を単なる物体としてではなく、1つの魂が宿った生き物として見ることを学びました。これは後の僕の画風にも大きな影響を及ぼした学びでした。うまくいえないのですが、加山先生がおっしゃる言葉は、1つのことでも100の意味があるといった感じだったので、いまだに先生から教わったことをよく思い出します。発言がいちいちものすごく深かったので常に得られることがある。そういうところが素晴らしかったですね。


──技術的な面ではいかがですか?

例えば、西洋画の場合は市販されている絵の具をチューブから出して塗ればいいだけなのですが、日本画の場合は絵の具作りから始まるんですね。毎日炭火を熾して膠を熱して溶かして、岩絵具と混ぜて絵の具を作ります。その膠は急激に熱すると接着力が弱くなるので、徐々に温めることが大事なんです。また、膠は季節、天気、気温、湿度によって状態が左右されるので、生き物を扱う時と同じように、それらに応じて微妙に扱い方を変えなければならないんですね。これらのことが学べたのが大きかったですね。今でも僕の仕事は毎日炭熾しから始まります。たぶんガスでも問題ないのですが、日本画本来の伝統的なやり方でやりたいんです。

アラン・ウエスト-近影8

このように日本画の絵の具づくりは手間暇がかかるのですが、そうやって作った絵の具は1日しかもたないので、1日で使い切れる量を過不足なく作らなければなりません。画材の目分量や適切な温度などの感覚が身につくまでがけっこうたいへんでしたね。

アメリカで西洋画の精神で描いていた頃は、どんな条件下でも機械的に膠を温めていたのですが、描いた後、色が剥がれたり亀裂が入っていました。先程話したうまくいかないときがあるというのはこういうことだったのですが、藝大で膠の扱い方を学んでからはうまくいかないということがなくなりました。

矢立てとの出会い

また、矢立てとの出会いも非常に有意義でした。矢立てとは携帯用の細い筆と墨のセットで、いつでもどこでも筆で文字や絵が描ける筆記用具です。ある日、古道具屋で明治時代の一般の人が描いた絵葉書を見つけた時、線の細いところや太いところが入り混じり、流れるような生き生きとしたタッチで、なんて素晴らしい絵なんだろうと感激しました。当時は鉛筆もペンもない時代。明治時代の人は筆が自身の一部になっているので、筆でごく自然に美しい絵や文字が描けていたわけです。それを見て、僕も被写体を見て描いてる時、筆が紙面に軽く触れているだけなのか、それとももっと強く押しつけているのか、その感覚を養いたい、筆を使っているということすらも意識しないで自然に体の一部として筆を使えるようになりたいと思ったんですよ。それでその時以来26年間、矢立てを肌身離さずもっていて、デッサンはもちろん、はがき、手紙、メモ帳、予定表、注文書など日常生活における書き物も鉛筆やボールペンと鉛筆を一切使わずに、すべて矢立てで書いているんです。その甲斐あって今では筆を僕の体の一部のように自由自在に操れるようになりました。

これが矢立て。朝、墨壺に墨を入れることからアランさんの一日が始まる。毎日使っているので、筆は4~5週間ほどで毛が摩耗して使えなくなるので買い直す。明治期の日本人の多くは矢立てを持っていた

これが矢立て。朝、墨壺に墨を入れることからアランさんの一日が始まる。毎日使っているので、筆は4~5週間ほどで毛が摩耗して使えなくなるので買い直す。明治期の日本人の多くは矢立てを持っていた

──加山研究室に在籍した2年間では日本画をたくさん描いたのですか?

もちろんです。ただ、我ながらバカだったなと思うのが、たくさん描いたのですが、たくさん売ったんですよ(笑)。先生から卒業する前に作品を全部提出するように言われたんですが、もう売れちゃってて全く残ってなかった。非常に困りましたね(笑)。


──どのようにしてそんなにたくさん売ったのですか?

個展を開いたり、あとは口コミとか紹介ですね。直接こういう絵を描いてほしいと依頼される注文制作もかなりやっていました。


──では藝大時代は絵の売り上げだけで生活できていたんですか?

そうですね。あの頃はバブルの最後の頃でしたので、なんとかやっていける時代でした。妻も教員をしてましたから、生活に困るということはなかったです。

藝大生時代。本郷にあったアトリエにて

藝大生時代。本郷にあったアトリエにて

──藝大時代、加山先生から言われた言葉で特に強く印象に残っていることは?

ある日、加山先生から教官室に呼ばれたんですね。何かやらかしちゃったのかな、とおっかなびっくり行ってみると、「アランはなぜ私の教室の入室試験に受かったのか考えたことありますか?」と聞かれました。「そればっかりはわかりません」と答えると、「アランに日本画界の刺激になってほしいから合格させたんですよ」と言ってくれたんです。僕に期待しているよというメッセージを忘れられないような形でいただいたなと、すごくうれしかったのを覚えてますね。研究室は大学院なので手取り足取り教えてくれるわけではないですが、筆使いなどの身につけたかった日本画の技術・技法はもとより、画材の扱い方や絵描きとしての魂など、貴重な教えをたくさんいただいたので、加山先生の研究室に入れいただいて本当によかったと思っています。

最初から自信はあった

──卒業後、日本画の画家としてやっていける自信はありましたか?

ありましたね。当時、ほとんどの絵描きは画廊に依存していました。画廊と契約するとわずかばかりの生活費がもらえ、あとは売れた絵の代金で生計を立てていくというのが常識だったんです。でも1つの画廊と契約したら他の画廊には絵を置けないし、画廊からもらえる生活費もほんのわずか。絵が売れてもたくさん手数料を取られます。だからこれってどう考えても奴隷制的だし、これでは絵描きとして生きていけないんじゃないかと思ったんですね。だから僕は画廊と契約はしないと決めたんです。


──では絵描きとして生活していくために具体的にどうしたのですか?

アラン・ウエスト-近影9

絵描きってクリエイティビティが必要な職業ですよね。それを最大限に生かそうと思ったんです。具体的には、前にもお話した通り、僕は14歳の頃からずっと絵の注文制作をやってきて、藝大時代もたくさん描いてたくさん売っていたので、この注文制作こそ僕の得意分野だし、その豊富な実績が大きな武器になると思っていました。そこで、建築家やインテリアデザイナーにこれまで描いた作品や絵を部屋に設置した写真を見せつつ「僕はお客様のニーズと希望に合わせて絵を描けます」と積極的にアピールしたんです。つまり、建築家やインテリアデザイナーに、彼らの会社に来るお客様に対して僕の絵を勧めてくれるように営業して回ったんです。

もう1つ、注文制作には大きなメリットがあります。日本画は画材代にものすごくお金がかかるんですね。岩絵具や金箔、銀箔、膠などはものすごく高い。それをたくさん使って売れるあてもないのに描き続けるというのは経済的にかなり厳しい。でも注文制作なら画材費はお客様に負担していただけるので、その心配がありません。だから描く前に注文を増やすことに注力したわけです。

とはいえ、さすがに最初からたくさん注文が舞い込むということはなく、家賃や画材費など、いつもどうやって収支のバランスを取ればいいかということに頭を悩ませていました。ですから日本画以外にも版画を刷ったりといろいろしてました。その時、高校時代にスミソニアン美術館のボランティアでシルクスクリーンの技術を学んだことが生きたんです。人生、何でも経験しておくべきですね(笑)。


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