2016年1月アーカイブ

自分の店を開く

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──アメリカでインディアン居留地をめぐる旅から日本に帰国した後はどうしたのですか?

1994年10月に日本に帰国して1年掛けていろいろ準備して、1995年11月にエコロジカルでオーガニックな生活必需品を販売するお店「キラ・テラ(KILA・TERA)」を渋谷にオープンしました。自分が日々使っているモノを中心に、一日の生活の中で誰もが使う生活用品すべてがエコなもので揃うように探しまくって、実際に自分で使ってみていいと思った物だけを選びました、例えばエコ歯ブラシや歯磨き粉、洗剤、バス用品、基礎化粧品、オリジナルのオーガニックコットンの洋服、再生紙のステーショナリーなどを扱っていました。当時はまだエコロジカルでオーガニックな製品自体が少なかったから探すのがたいへんだったのよ。お店ではアルバイトの女性を1人雇ってたけど、もちろん私自身も商品の陳列、販売、接客、経理など全部やってました。


──お店は繁盛したんですか?

いえ、けっこう赤字続きで苦しかったですね。当時はまだまだエコというと、ダサいとか、貧乏くさいとか、めんどくさいというイメージがすごく強かったのよ。だからそういうイメージを払拭したくて、おしゃれなお店にしたかった。元々エコに興味がある人よりも、普通の人がおしゃれでかわいいお店だからと普通に買い物に来るお店にしたかったの。当時こんなお店は他には全くなかったね。でも勤務時間だけは長かった(笑)。お店の開店時間は11時から20時までなんだけど、お店を閉めた後もやることは山ほどあったから終電ギリギリまで仕事をしてたの。当時は逗子に住んでたから通勤もけっこうたいへんだった。


──なぜ逗子に住んでいたのですか?

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アメリカに行く前に世田谷のマンションを引き払っていて、帰って来たときは住む家がなかったから、取りあえず友だちの家に居候しながら新しく住む家を探してたの。店の場所は渋谷・原宿・青山近辺って決めてたから、最初は世田谷区内で渋谷まで20分ぐらいの所を探してたんだけど、なかなか気に入ったところが見つからなかった。不動産屋さんに「あなたの希望条件を満たす物件は世田谷区や目黒区には絶対にない」って言われちゃって(笑)。その頃には外国人のタレント事務所を経営していたときに稼いだお金は全然なくなっちゃってたからね。不動産屋さんに、渋谷まで一本で行けるけれどもう少し離れたエリアで検討しましょうと言われて探したんだけど、これだという物件やエリアに出会えなくて。じゃあいっそのこと湘南はどうですかと言われたとき、えっ、"湘南"? なんとも魅惑的なこの響き、あこがれの湘南じゃん! 元々海が好きだったから、そりゃあ湘南でしょう、と思っちゃったのね(笑)。それで逗子にいい物件があったから引っ越したってわけ。庭付き南向きで日当たりもよくて、窓から海が見えたからすごく気に入っちゃった(笑)。


──でも逗子から渋谷まで毎日通うのはけっこうたいへんじゃなかったですか?

タレント事務所の仕事をやってるときは、24時間365日働いているようなものだったから仕事とプライベートの境目なんかなかった。自宅の一室を事務所にしてたしね。でもお店は営業時間が決まってるから、閉めた後は自分の時間になる。仕事は渋谷、プライベートは逗子ってきっちり分けられるライフスタイルっていいかもと。だから通勤に1時間かけても逗子に住んでもいいやと思ったんだけど、全然そうはならなかったわけ(笑)。さっきも話した通り仕事は営業時間内に全然終わらず、けっこう遅い時間まで店で仕事して、逗子の家には寝に帰ってるだけみたいな。1時間かけて通うのが段々つらくなってきたんだけどすぐ引っ越すわけにもいかないから我慢して通ってたのよ(笑)。

別企業に吸収

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それでお店を開いて2年ほど経った頃、知り合いから自然食材を販売している会社「ナチュラル・ハーモニー」の社長を紹介されました。彼は横浜市の郊外で自然食品やエコ雑貨などのお店が入っている「プランツ」という複合施設にお店を出していたんだけど、そこに出店しないかと誘われたの。とにかく一度見に来てほしいと言われて行ったら、大きな倉庫を改装したお店で、表に「ナチュラル&オーガニック」と書いてある大きな看板を掲げてた。でも店内に入ってみると、ナチュラル・ハーモニーのお店以外では、これのどこがオーガニックなの? という商品だらけだったのね。知らない人が見てこういう物がオーガニックなんだと認識したらヤバいなと思って社長に話したら「やっぱりそう思うか、ちゃんと本物のオーガニックの商品を扱う店を一緒にやろう」と言われたの。でも私は2店舗目を出す余力はなかったから、どうすれば実現できるか、社長と何度も話し合って。その結果、最終的に彼がキラ・テラを買収して、私がナチュラル・ハーモニーの社員になり、プランツの中でキラ・テラを営業するということになったの。


──自分で開いたお店を手放すことや、組織の一員になることに抵抗はなかったのですか?

私はキラ・テラを作る時、自分1人でできる範囲の商品のみに絞って販売しようと思っていたのね。だから日用品や生活雑貨以外の部分、食品や家具などは最初から扱うつもりはなかった。でもナチュラル・ハーモニーとコラボして私が扱わない分野の仲間を増やせれば、私が本来やりたかった「エコロジカルなライフスタイルの普及」がもっとトータルに幅広い分野で実現できるかもと思ったのね。また、私は経営者とか代表者というポジションに何のこだわりもないし、別に一社員になってもやりたいことがやれればよかった。社長はプランツにお店を移すとしてもキラ・テラという名前はそのまま残して、それまで通り私の好きなようにやればいいと言ってくれたから、社員になることにしたの。自分でお店を経営するより何かと楽だからいいと思って(笑)。

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エコブームに乗って拡大

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──ナチュラル・ハーモニーではどのような仕事をしていたのですか?

入社して数年間はプランツの中に移転したキラ・テラの店長をやっていたんだけど、ちょうどその頃社会でエコ志向がどんどん盛り上がって、ブームみたいになったのね。それにつれて会社の売上も増えて規模もどんどん大きくなり、私の社内のポジションも上がって、やる仕事も増えていきました。

社長は私のセンスを認めてくれてて、雑貨事業部長になった頃にはキラ・テラだけじゃなくてナチュラル・ハーモニー社内全体のデザイン監理、例えば社員の名刺から会社の封筒、店舗のロゴ、看板から新しく出すお店の内装までほとんどのデザインを任されていたの。他にもオリジナル商品のパッケージ、イベントの企画運営、女性社員の教育などもやってました。

当時はオーガニックコスメが海外から次から次へと入ってきて、新しいメーカーもどんどん参入してきてた時期だったのね。私もこの業界の第一線にいたかったからアンテナを張り巡らせて情報を収集したり、新製品が入ってくると即買って自分で使ってみたり研究・分析したりしてた。最初の頃はそういうことも楽しかったんだけど、何年もやってると段々疑問を感じてきちゃって。結局、シミやシワを隠すためによりいいもの、より新しいものを開発するのって、競合他社に負けないようにより多くのお客様に売るためだよね。やってることって、原材料がオーガニックでも一般の大手化粧品会社と同じじゃん、それって本当に私がしたかった仕事なのかな? と疑問に思うようになったのよ。

仕事もすっごく忙しくなって渋谷で自分のお店をやってた頃よりも勤務時間が増えたのね。結局1日14時間くらい働いていて、1時間以上かけて逗子に帰ると晩ごはんを作る気力も全然なくて、適当に外食したり閉店間際のスーパーで惣菜を買って食べて寝るだけ。週6日もそういう状況だと休みの日なんて昼過ぎまで起きられないし、起きても掃除洗濯で1日終わっちゃう。大好きな海で遊ぶ元気なんてない。その繰り返しで以前にも増して何のために逗子に住んでるのかわかんないって感じになったのね。「エコロジカルで豊かなライフスタイルを提案する」という事業理念を掲げている会社で働いているのにこれってどうなんだろう、暮らしという意味でも私が望んだ生活とは程遠いと感じるようになったのよ。

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それを少しでも変えたかったのと、体力的にもきつかったので、毎日私がお店にいる必要はないし、私のやってる仕事のほとんどが自宅のパソコンでできてたから、社長に出勤は週2日程度であとは自宅勤務にしたいと言ったの。そしたら許可してくれたから、状況はだいぶよくなったのね。でも、会社の規模が大きくなるにつれて段々自由が効かなくなってきたし、入社10年目くらいの頃、他の社員、特に新しく入ってきた人たちから「どうして直美さんだけ自由なの」みたいな不平不満が社内で段々増えてきたらしくてね。それで社長から、他の社員と同じように毎日ちゃんと出勤、しかも大好きなKILA・TERAではなく、世田谷の本社に出勤するように言われて。そうなると通勤に往復3時間もかかるから絶対嫌だと思って2010年10月に会社を辞めたの。


──辞めてからのプランはあったんですか?

一度はまた以前のように自分でオーガニック雑貨のお店をやろうと思ったんだけど、とても経済的な余裕がなかったから取りあえずインターネット上にショップを立ち上げて洋服と雑貨の販売を始めました。

あともう1つ、会社を辞めたら地域活動に本格的に取り組もうと思ってたの。そもそものきっかけは会社を辞める前、2009年1月に地域をより住みやすくするために活動しているトランジション葉山という団体の会合に行ったこと。

地域活動にのめり込む

──その頃から地域活動に強い関心があったのですか?

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いや、そういうわけじゃないのよね。地元の友人に誘われて何となく参加したのがトランジション葉山の最初の会合。「持続可能」とか「エコロジカル」という言葉に惹かれたのかな。会場では70人くらいの地元の人が集まってて、いろんな人が問題提起して、それに興味がある人がそのグループで話し合うオープンスペーステクノロジーという手法をやっていました。その中で私は「地域で経済を回す」というテーマのグループに参加したの。そこに集まっていたのは、東京に1時間以上かけて働きに行って逗子の自宅には寝に帰るだけという私みたいな人たち、いわゆる「神奈川都民」が何人もいましたね。自分が好きで暮らしている土地なのに、そこで過ごす時間がほとんどなくて、東京でお金を稼ぎ、東京で落としてる。これじゃ東京のために働いてるみたいでちょっと違うなという問題意識をもっている人たちばっかりだったのね。

自分の住んでいる地域でお金を稼ぎ、地域のためにお金を遣うという、地域で経済を回す状況を作ろうと彼らといろいろ議論したんだけど、この時初めて地域の中で同じようなことを感じている人や気の合う人と話せてすっごい楽しかったのよ。それ以降地域のために活動したいと本格的に思うようになったの。このグループが発端となって生まれたのが地域通貨「なみなみ」なんです。(※インタビュー前編参照)。2009年1月の最初の会合から有志でミーティングを重ね、10月に19人で試運転開始、2010年4月に本格スタートしたの。参加者は一時期は100世帯を越えてたんだけど、3.11の東日本大震災で福島原発が爆発したことで逗子・葉山を離れる人が増えて今は50世帯くらいかな。

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運命を変えた震災

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──原発が爆発した時、川崎さんは逗子を離れようとは思わなかったんですか?

その時はめちゃくちゃ悩みました。でも悩んだ末に出ないと決めたの。いったんはね。トランジション葉山に参加して、地域に仲間と呼べるような友人もたくさんできた。地域通貨も立ち上げて、これからもっと地域のために活動し、地域の人たちと支え合いながらこの土地で長く生きていこうと決めたばっかりなのに、原発が爆発したからといって逗子葉山の仲間を見捨てて逃げていいのかという葛藤がすごくあったの。当時はトランジション葉山のメーリングリストは、避難するとか残るとか、車を出すから乗りたい人は一緒に行こうとかメンバー間ですごく情報が飛び交ってたのね。だけど私はやっぱりここを捨てられないから残ろうと決めて、「私は避難しないで逗子に残ります」と書き込んだの。

その直後に同じメンバーの親友から電話がかかってきて、「あなたは1人で自由が効くんだから今すぐ逗子から出た方がいい」と言われたの。その時はちょっと考えさせてと一回電話を切ってどうしようと悩んでいたら、次から次へと友だちから電話がかかってきて、「早く出た方がいい」と口々に言うのね。最後に電話をかけてきた友だちに「絶対、今すぐ出た方がいい!」って強く言われて、みんながそんなに出ろって言うのならそうした方がいいのかもと思い、3月13日に取りあえず荷物をまとめて新幹線に乗って神戸の実家に行きました。


──それからどうしたのですか? 何かプランはあったのですか?

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プランなんて何もないわよ(笑)。実家に泊まった翌日、最初に電話をかけてきてくれた親友と他の2人の友人と神戸で合流して、友人の車で取りあえず西の方へ行こうということになりました。まずは出雲大社に行ってお参りした後、トランジション葉山を立ち上げた人が移住していた九州の阿蘇へ行き、何日か泊めてもらいました。その後別府や国後半島を回って、原発反対運動をやってた山口県の上関、そして祝島から瀬戸内を回って神戸、淡路島に行きました。その間、移住先を探そうといろいろ見て回ったんだけど、ここに住みたいとピンと来る場所がなかったの。阿蘇はおもしろい人がたくさんいてすごくよかったんだけど肝心の海がない。一番可能性があったのは淡路島だった。神戸というおしゃれな大都会にも近いし海に囲まれてるしね。

でもそうこうしているうちに月末になってきて、いろいろ支払いもあるし、お金もどんどん減っていく一方だし、いつまでもうろうろしてるわけにはいかない(笑)ということなり、4月2日に逗子に帰ったの。

運命的な物件との出会い

──逗子に帰ってからはどうしたのですか?

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半月ほど西日本を放浪しても移住したいという土地も見つからなかったし、気持ちもだいぶ落ち着いてきたからやっぱりここで地域の人たちと生きようと決めたの。でも当時住んでた逗子の家の家賃がけっこう高くて、定期収入もないのにこんな高い家賃を払ってる場合じゃない、まずはもっと生活をスリムダウンしなきゃと思って、当時の家賃の3分の2程度の物件を探し始めました。

そんなとき、生後数ヶ月の赤ちゃんのいる友人が葉山からご主人の実家の四国に移住するって聞いたの。彼女はオリジナルのヘンプウエアを作って販売していたんだけど、その工房兼店舗として使っていた家がとても広くて、工房や店舗スペースの他にリビングと寝室もあって十分生活できる広さだったのね。でもそれだけ広いと家賃も高いだろうなと思ってたから眼中になかったんだけど、家賃を聞くと私が新しく設定した金額そのものだったのよ。この広さを考えたら破格に安いし、しかも店舗スペース付きで海まで2分。これはもうここに住んでまた店をやれってことだと思って、すぐここに入るって決めたの。それで2011年5月にここに引っ越して、7月に「レパスマニス」を開店したのよ。

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普通のことを丁寧に

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──現在はどんな暮らしなのですか?

だいたい8時過ぎに起きて、シャワーを浴びたり朝ごはんを食べたり、海でアウトリガーカヌーに乗ったりしてゆっくり過ごしてます。営業日は開店準備をして11時にお店を開けて、営業中は接客・販売のほか、洋服のリメイクをしたりもします。でもお店にずっと座っているわけではなくて、お客さんもそんなに来ないから、隣の居間でパソコンの前に座って地域活動系の仕事をしていることが多いわね。


──日々の過ごし方で大事にしていることは?

一番大事にしている、というか大切にしたいと思っていることは、普通のことをできるだけ丁寧に心を込めてするということ。朝起きて寝るまでの一連の行為、歯磨き、食事、洗濯、掃除など、普通の暮らしをいかに丁寧に手を抜かず心を込めてやるかというところに私はすべての根源があり、人生が決まってくるんだと思うの。


──丁寧にというのは具体的には?

一つひとつの行為を意識してやるということかな。日々の普通のこと、掃除や洗濯、食事、人との会話など、どんなことも一つひとつの行為を意識して行う、丁寧に隅々まで心を込めて行うってことかな。例えば髪の毛を洗うときに一本一本の髪の毛を意識しながら愛を込めて洗う。歩くのもただA地点からB地点へ移動するのではなく、一歩一歩を意識して歩く。70年代にBE HERE NOWって言われてたことかな。何か特別なことをやるのではなく、そういう普通の生活の基本そのものをどれだけ意識して丁寧にできるかが自分のペースを作っていくわけだよね。


──食材も自然食品にこだわっているのですか?

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もちろん極力そうしているんだけど、そこはケースバイケースで絶対じゃないですね。食材はだいたいいつも逗子の大きな自然食品店で買うことにしているけど、そこで買えなかった場合は近所のスーパーで買ったり、いいものを買いたいけどお金が足りないときは普通の食材を買ったりしています。肩肘張ってると続かないしね(笑)。

物にこだわるというよりは行為に対して心を込めて、手を抜かずにしたい。例えば食事も忙しいときはとにかく食べなきゃいけないからちゃっちゃと作ってぱっぱと食べるという感じになりがちだけど、できるだけそれをしたくないのよ。時間がないときはお店でお弁当を買うこともあるんだけど、それをできるだけやめて、家でおにぎりを作って持って行くというふうに変えていきたいなと。

多くの人はね、偉大なことを成し遂げることで幸せな人生になるとどこかで思ってるような気がする。例えば大企業に入ることだったり、すごくすてきなお店をもつことだったり。何かで成功することだったり有名になることだったり。でもそうじゃなくて、料理でも掃除でも丁寧に心を込めてやると気持ちがよくなるでしょ。そういう小さないい気持ちの積み重ねが豊かな人生を作っていくんだと思うの。

やりたいことをやるべき

──生き方という意味で大事にしていることは?

私の好きな言葉で言うと「人事を尽くして天命を待つ」。自分でできることはとことんやって、最後は神様に任すしかないのかなと。


──では働くということ、もしくは働き方で大事にしていることは?

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私は自分がやりたいことを仕事にするべきだと思うのね。でもこれがなかなか難しい。私も会社を辞めるとき、すごく悩んだんだけど、社長から毎日本社に出勤しろって命じられたりいろいろと自由が効かなくなってきても、我慢して従っていれば毎月一定の給料が入ってくるから経済的な生活は安定する。でもそれって、自分の時間と労力を自分がやりたくないことのために差し出して、その見返りとして生活が保証される、つまり生活するために魂を売り渡しているわけだよね。

でも本来人間はそういう暮らしをするべきじゃないと思うのよ。やりたくないことを嫌々やりながらじゃないと暮らしていけないなんて絶対おかしい。すべての人間は本来、自分の好きなことややりたいことをやれて、生活も成り立つというふうに暮らせるはずだと思うのね。私は今、やりたいことはやれてるけど生活は苦しいから、何かが間違ってるんだろうね(笑)。


──それはたぶん多くの人が感じている問題だと思います。やりたいことと経済的安定のバランスって本当に難しいですよね。

やりたいことを取って経済的な安定を失うのは誰だって恐いわよ。多少収入が減るくらいならいいけど、50%ダウンだったら厳しいよね。でも嫌な仕事はやっちゃいけないし、嫌な会社にい続けたらいけないと思う。悩んでいる人もいろんな理由付けをして本当はこうしたいということをやれていないと思うんだけど、自分の本当の気持ちは自分自身が一番よく知ってるんだよね。そこから目をそらし続けるか、直視するかの違いだけだと思いますよ。

理想の生き方

──では理想の生き方は?

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自分が好きなことでちゃんと稼げて好きなように生きるということ。もちろんみんなそうだと思うけどね。自分の好きなことだけをして生きると言うとすごくわがままで、怠け者、ずるいような感じもするんだけど、そうじゃなくて自分に与えられてるものを生かすということ。ちょっと大げさなことを言うとみんな使命、やるべきことを背負ってこの世の中に生まれてきてると思うのね。それを見つけることができれば精神的にも経済的にもハッピーに生きることができると思うのよ。


──ご自身の役割、使命は意識されてますか?

葉山に引っ越してきてから地域のために尽くしたいという気持ちがより一層強くなったから、それが私の使命なのかな。今後も地域のみんなが幸せに暮らせるような活動をしていきたいと思っています。これで食べていければ最高なんだけどね(笑)。


インタビュー前編はこちら

インタビュー中編はこちら

高1で中退

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──今回は川崎さんがこれまでどのような道のりを経て、現在のライフスタイルに至ったのか、人生の歩みを聞かせて下さい。

私は兵庫県川西市で生まれたんだけど、4歳の時に神戸に引っ越して、小学校から中学に行くときに母に言われるがまま、中高、大学、大学院もある、いわゆる私立のお嬢様学校に入学しました。中学生になってデザイン関係の仕事がしたいと明確に思うようになって、どうせやるなら一流を目指したい、そのためにまず京都芸術大学に入りたいと思ったんだけど、今通っている学校じゃ絶対受からないから高校から公立へ行きたいと思ったの。でも親と先生に言ったらびっくり仰天、そんなことは絶対許さないと大反対されました。私もあきらめられないから、親と先生と何度も話し合った結果、その学校の高等部には京都芸術大学出身の美術の先生がいるから、その先生に教えてもらって芸大を受ければいいと説得されて。その時はしょうがなくそれでもいいかなと思ってそのままその学校の高等部に上がりました。

放課後にその先生に絵を教えてもらったりもしたんだけど、段々親と先生にだまされたんだという思いが強くなってきて、2学期からは学校に行かなくなってそのまま退学したの。


──かなり意思の強い子どもだったんですね。

そもそも体質的に反体制派なんでしょうね(笑)。学校も嫌いだったし、組織や団体に強い違和感をもってたんだよね。あくまでも個人主義。中高時代は映画が大好きで学校をサボって映画ばっかり観てました(笑)。あと当時はアメリカのヒッピー文化全盛期でもろにその影響を受けました。自由でいいなあと(笑)。

運命を変えた大阪万博

──退学後はどうしたのですか?

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喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしたり、ディスコでゴーゴーガールをやったり、今でいうフリーターのような生活をしてました。当時はものすごい学歴重視の時代で、高校にも大学にも行かずに社会的に成功するためにはどうすればいいんだろうと考えていたけど、なかなかいいアイディアは見つからず、そんなアルバイト生活を2年くらいしていたある日、インド人の知人に誘われて、大阪万博でギフトショップの売り子のアルバイトをやることにしたの。

大阪万博の会場にはいわゆるヒッピートラベラーたちがいっぱい来ていたんですよ。当時は海外旅行に行けるなんて、すごいお金持ちだけだと思っていたけど、彼らはバックパックとビーサンで世界中を旅してたから、なぁ〜んだ、こんなふうにすれば、誰でも簡単に行けるんじゃんとわかった。私も世界中を回って日本にはない美術系の知識や技術を身につけて帰ってくれば、高校中退でも一流になれるかもと海外に出たいと思ったのね。もちろんそれ以外に、とにかく違う世界が見たかった。万博でいろんな国の人に出会って、日本にいるだけだと全く知らない世界があって、そういう違う文化や常識、全然違う生活環境を体験したかったんだよね。

大阪万博で働いている内に、スカンジナビアン・パビリオンでコンパニオンをしていた26歳のスウェーデン人の女性と知り合って友だちになりました。彼女は私の人生の中ですごく大きな転機を与えてくれた人なんだよね。大阪万博が終わった後、彼女はまっすぐスウェーデンに帰るのがもったいないから日本からスウェーデンまで旅をしながら帰るつもりだと言ってたから、これは絶好の機会だと思って、私も一緒に行きたいんだけどいい? って聞くとOKよと。それで、私も5年くらいかけて世界を一周しようと思ったのね。

当時日本から持ち出せる金額の上限が1000ドル(1ドルが360円の時代)だったんだけど、私は800ドルしか持っていなかったからもう少し働いてあと200ドル貯めようと思ったの。だから彼女には先に日本を出発してもらって、1971年4月25日の正午にネパールの首都のカトマンズのモンキーテンプルで会おうと約束したわけ。そして3月25日、私も突き動かされるように日本を出発したんだよね。でも、香港まで船で渡ったとき、彼女が私の実家に送った手紙が転送されてきたの。その手紙には彼女の夫が病気で入院しているからまっすぐスウェーデンに帰ることにしたと書かれてあったのね。

世界一周のはずが...

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カトマンズまで何とか行けば彼女と2人だから安心してヨーロッパまで行けると思っていたのに、香港で1人ぼっちになっちゃった、どうしようと思ったんだけど、逆に考えれば決められた時間に特定の場所に行かなくてよくなったのだからもう自由なわけだよね。好きなときに好きな場所に行けると。だから行く予定はなかったけどフィリピンに行った後、彼女に素晴らしいところだから絶対行きなよと言われていたバリに行ったの。そうしたら人生観が変わるほどの衝撃を受けちゃった。

そもそも日本を出てユーラシア大陸に渡って陸路でヨーロッパに着く頃にはお金がなくなるだろうから、旅をしながら働いてお金を貯めて、その後アメリカに渡ってというふうにだいたい5年くらいかけて世界一周しようと思ってたのね。さっきも話した通り、その間に美術系の技術や知識を身につけたり、何かやりたいことに出会えるかもしれないと思っていたんだけど、5年どころか5ヶ月も経たない内にバリにハマって、もうどこにも行かなくていいってなっちゃって(笑)。


──バリのどういうところにそんなに惹かれたのですか?

やっぱり人と文化だろうね。何ともいえない純粋でのんびりした感じがよかった。もちろん海もきれいだし、今よりも豊かな自然が残ってたしね。それと、バリ特有のヒンズー教の習慣かな。毎日何回も行われる小さな儀式から年に数回の大がかりな祭まで、ふんだんに花を使ったお供え物やココナッツの葉っぱなどで作るお飾り、インセンスの香り、きらびやかな衣装、ガムランとバリダンスなどで彩られていました。こういうのが大好きなんです。ガムランを聴くと魂が喜んじゃう感じ。DNAの奥深くに組み込まれているモノが響き出す感じ。

今でこそバリは世界屈指のリゾート地で日本からも移住している人が多いけど、当時は全然観光地じゃなくて、電気もガスも水道も何もない時代。だから朝起きたらまず水浴びをして、井戸で水を汲んで洗濯をする。これがけっこうな重労働。だからなるべく少ない水できれいに洗える工夫をする。こうやって水も労働して手に入れるということを、身をもって知りました。そしてこういうことこそが本来の人間としての暮らしなんだなと。スイッチ一つで火や電気がついたりすることの方がおかしいんだとすごく感じたの。100年前にタイムスリップしたみたい。不便でたいへんなんだけど、それが逆に感性を豊かにするんだよね。

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バリでの暮らし

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──毎日何をして暮らしていたんですか?

基本的に海で泳いだりサーフィンをしたりして遊んでました。ビーチにいろんな人がいろんなものを売りに来るので、彼らとやりとりするのも楽しかったね。そしてそういう人たちが夜になるとバリダンスの踊り子として踊っていたりガムランを演奏してるの。もちろんそのバリダンスっていうのは観光客向けのホテルでやってるようなのではなく、自分たちの儀式としてやっている本物。そんなバリの人の暮らしにほれ込んだの。あと、ヒッピーや旅行者のコミュニティができてたから、彼らとの付き合いも楽しかったわ。全然知らない世界中の人と知り合えてすごくおもしろい話しが聞けるんだ。


──生活費はどうしていたんですか? 貯金もそんなにもたないですよね。

観光ビザだから3ヶ月が経ってビザが切れてお金もなくなってきたけど、当時のバリには仕事なんてないしね。だからバリから一番近くてお金を稼げるオーストラリアやニュージーランドに行ってレストランや農園でアルバイトをしてました。その後もお金がなくなると近くの国に出稼ぎに行って、ある程度お金が貯まったらバリに戻ってのんびり遊ぶという生活を繰り返していたの。


──そもそも英語はできたんですか?

元々神戸育ちなので周りに外国人の友だちがいっぱいいて日常的に英語を聞き慣れていたから、だいたい何を喋ってるかはわかるレベルでした。でもやっぱり最初の頃はあんまりわからないし喋れないしで、困ったというよりは寂しかったかな。だから一所懸命人の話を聞いたり、分からない単語はあとで辞書で調べたり、やっぱりそれなりに努力しないとね。そしてとにかく声に出して喋る、自分の意志を伝える。間違っていれば周りの人が直してくれます。そうやって段々うまくなっていくんだよね。

パートナーとの出会い、出産

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そうこうしているうちに、23歳頃、仕事を探しに行ったタイのバンコクでアメリカ人の男性と出会って付き合うことになりました。その時彼はバリへ行く途中だったから一緒に電車とバスと船を乗り継いでバリまで行って、しばらく一緒に暮らしたのね。その間にちゃんとどこかに拠点を置いて一緒に生活しようということになって、常夏の島で波があって暮らしやすいところということで、いろんな候補地が出たけれど、結果的にハワイに住むことにしました。

でもハワイは物価が高くてある程度お金がないと生活できないから、その資金を貯めるためにしばらく各自稼げるところでお金を稼ごうということになって、私は5年ぶりに日本に帰ることにしたの。海外で知り合ったイギリス人女性に新宿歌舞伎町のクラブを紹介してもらって、私もホステスをやることにしたの。その店は外国人ホステスの方が日給が高かったから、私は日系アメリカ人ということにして、お客さんは日本人ばっかりなんだけど日本語がわからないふりをして、片言の日本語を喋ってた(笑)。無事、日本人だとバレないままそのホステスを4ヶ月やって100万円くらい貯めました。めちゃめちゃ頑張った(笑)。

その貯めたお金を持ってハワイに渡って、彼と暮らし始めて、数ヶ月後に妊娠したの。娘が産まれたのは1975年、私が24歳のとき。以降は生活の拠点をハワイに置いて、家族3人でハワイとバリを3、4ヶ月ごとに行ったり来たりの生活を送っていました。

でも娘が3、4歳くらいのときに彼とはもう一緒に暮らしていけないとなって別れることにしたの。正式には結婚もしてなかったんだけどね。

結婚しなかった理由

──結婚しなかったのはなぜですか?

川崎直美-近影6

当時、私たちの間ではわざわざ結婚する人はほとんどいなかった。何年も一緒に住んでいても子どもがいてもね。私は体質的に反体制派というか、政府が勝手に決めたルールに縛られ、自由を失うことに反発していたんだね。結婚なんて単なる制度上の問題であって、別に結婚してなくても愛し合って一緒に暮らしていればそれでいいじゃんと思ってた。だから役場に行って婚姻届を提出するとか、見世物のような結婚式や披露宴をやるとかにすごく抵抗を感じていたんだよね(笑)。同棲、(今は事実婚っていうんだね)は、一緒にいたくなくなれば、いつでも別れられるし、毎瞬毎瞬一緒にいたいという気持ちの継続で、その方が純粋だと思ってた。でも結婚は当人同士以外の要素が大きくて、もうダメ、別れたいと思っても、親や世間のしがらみからそう簡単に別れられなくて、ズルズルと惰性で一緒に暮らしていたり、なんか純粋じゃない気がしていた。もちろんそうじゃないすてきなカップルもいっぱいいるんだけど、その頃はそう思っていたんだよね。


──子どものことを考えたら籍を入れた方がいいんじゃないかとは考えなかったんですか?

考えなかったなあ。今でもそれがそんなに大事だとか必要だとかは思わない。それぞれのカップルがいいと思う方法でいいと思う。籍を入れても入れなくてもいいし、夫婦別姓でもいいし、結婚しないまま子どもを育ててずっと一緒にいてもいいし、別れて誰か他の人と暮らしてもいいし、制度に左右されず暮らしたい人と暮らせればいいんじゃないかな。

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後悔はしない主義

──結婚しなくて結果的によかったと思いますか?

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よかったと思いますよ。というか私はこれまでの自分の人生で、その時その時でこれが一番いいと思ったことをやってきたから、あの時こうした方がよかったと後悔することはないなぁ。後悔というよりは判断として、こうした方がよかったのかもしれないと思うこともなくはないけれど、いずれにしろそれはすでに過去のことで、もう変えられない過去にああだこうだ言うより、前に進んだほうがいいよね。もしそれが間違いだったのなら、同じことをやらなければいいんだしね。またそういった失敗も含めた過去の上に今の自分が存在している。それが今の私を作っているわけだからね。


──パートナーの男性と別れてからはどうしたんですか?

彼はアメリカ本土に帰ったし、私も4歳だった娘と2人で日本に帰国することにしたの。この先どうなるんだろうみたいな不安があったし、小さい娘を自分1人で育てていかなければならないのならビザの心配がなくて安心して働ける場所じゃないとダメ。そうなると日本しかなかったのよ。

もう1つ、娘の教育のことを考えたら初等教育は絶対日本で受けさせたいと思っていたの。だって英語は大人になってからでも喋れるようになれるし、読み書きだって26文字しかないんだからそんなに難しいことじゃない。でも日本語はそうはいかない。日本語をペラペラに喋れる外国人はいるけど、読み書きも不自由なくできるかというと、なかなかそういう外国人はいないよね。会話はできても読み書きは相当難しい。だから日本の小学校に通わせて日本語の基礎を覚えさせたいと思って1979年、28歳のときに日本に帰国したんです。

日本に帰国、起業

──帰国してからはどうしたんですか?

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最初は友だちに紹介してもらった人の家を間借りして住んでたの。東京の調布っていうところ。とにかく娘と2人食べていくためにいろんなことをやったね。友だち3人で3万円ずつ出しあってボロボロの軽トラックを買ってチリ紙交換をやったり、和風喫茶のウエイトレス、友だちのお店のまんじゅう屋の店員、花屋の店員とかいろんな仕事を必死でやりました。

そんなある日、子どものモデル募集の広告を新聞か何かで見て、うちの娘はハーフだからいいかもしれないと思ってタレント事務所に登録しに行ったのね。これまでの経験をいろいろ話したら、その事務所で働かないかと言われたの。でも子どもがいるからそんな夜まで働けないとか、5時に退社して保育園の迎えに行かなきゃいけないとか話したんだけど、全部条件を飲んでくれたのよ。それなら大丈夫だと思ってその事務所で働くことにしたの。その後、別のタレント事務所で働いた後、独立して外国人のタレント事務所を立ち上げたんです。


──起業してから経営の方は?

当時はバブルだったし、ちょうどフジテレビのトレンディドラマが隆盛を極めた時代で、そこにうまいことハマったの。どんどんタレントも増えたしね。といってもプロのタレントじゃなくて、例えばフリーのモデルさんや、日本に住みたいから個人で英語を教えている人みたいな半分素人みたいな外国人で、自分で見つけてきたり、知り合いに紹介してもらったりして増やしていきました。

当時はものすごく儲かってたけど、その代わりめちゃめちゃ忙しかった(笑)。24時間フル稼働で休みもほとんどなかった。そういう生活が12年くらい続いたんだけど、そろそろ潮時かなと思って事務所をたたんでアシスタントの子に譲ったの。

会社をたたんだ理由

──なぜそんなに経営が順調だったのに会社をたたんだのですか?

川崎直美-近影9

まず、12年もやってると仕事がルーティンになっちゃうでしょ。仕事のやり方が全部わかってるから手のひらで転がせる。そうなると自分が仕事を通して成長しないよね。それがつまらなくなってきて、この仕事を辞めて何か新しいことに挑戦したいという気持ちが段々強くなっていったの。

実は事務所をたたむ2年ぐらい前に、イルカ・クジラの研究・保護活動をしているアイサーチっていう団体が主催したジャック・マイヨールの講演会に参加したのね。その時にその団体のメンバーたちと知り合って何となく付き合ううちに団体の活動にハマって、1994年に日本の江ノ島で初めて開催された第4回国際イルカ・クジラ会議の実行委員長をやることになったんですよ。準備に丸2年くらいかかったんだけど、最後の1年くらいは本業を放り出してそればっかりやってたの。その頃、もう事務所をたたむ時期かもと思い始めて、半年かかってたたむ決心をし、さらに半年かけてたたむ準備をし、1993年12月に本当にたたんだの。その後4ヶ月間はイルカ・クジラ会議に没頭しました。ボランティアだったけど、当時は稼いでたから何の問題もなかったのよ(笑)。


──事業を12年かけて育てて、たくさん稼げていたのなら、普通はそう簡単にはたたまないですよね。お金に執着がないというか、儲けたいという気持ちはないんですか?

儲けたいわよ!(笑)。でもお金儲けがヘタなのよ。だから今、困ってるのよね(苦笑)。


──事務所をたたむ時、娘さんはまだ高校生ですよね。生活の不安ってなかったんですか?

娘は14歳のときにアメリカのお父さんのところに行かせてたからその時は日本にいなかったのよ。娘は日本人とアメリカ人のハーフだから、アメリカ人としてのアイデンティティをしっかりもたせてあげるためにもアメリカで生活させた方がいいかなというのと、英語を覚えるのも14、5才ぐらいからがベストと思って、アメリカのお父さんのところに行かせたの。


──だから経済的な心配はあんまりなかったんですね。

とはいってもアメリカに仕送りもしてたんだけどね。娘に「会社をたたむことにしたから今までみたいに定額をコンスタントに送れないかもしれない。次何をするかも明確には決めてないけど、何か自分が好きなことで環境にいいことをしたい」と言ったら、それはすごくいいことだから好きなことをすればいいよと言ってくれたの。

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インディアンに会いにアメリカへ

──事務所をたたんだ後はどうしたのですか?

川崎直美-近影10

ネイティブ・アメリカン、いわゆるインディアンに会いたくてアメリカに行ったの。


──なぜですか?

イルカ・クジラ会議の実行委員長をやってるときにインディアンにハマっているメンバーの男の子と知り合ったのね。彼のインディアンに関するいろんな話を聞いていると、そういえばインディアン好きだったなあって思い出したの。よく西部劇の映画を観てたんだけど、カウボーイよりもインディアンの方が好きだった。あの派手な衣装に惹かれたの。それで実物のインディアンに会いたいと思ったのが最初のきっかけかな。

あともう1つは、日本でインディアンの支援活動をやってる人たちと繋がって、いろいろ情報をもらってたのね。ある日、その活動をしてる人から電話がかかってきて、こんな話を始めたの。アメリカ中西部のインディアンの聖地でイギリスのエネルギー会社が石炭を掘るために、インディアンたちが強制的に移住させられている。そのイギリスの会社の石炭を日本の商社が輸入しているから、その商社の本社前に一緒に行って反対のデモをしようと。

その話を聞いた時、どこまで本当なのかなと疑問に思ったから彼に「その情報って正確なの?」と聞いたら、あやふやだった。署名レベルならまだしもいち企業に対して体を使って反対するなら明確な根拠がないとできないと思ったからデモには参加しなかったの。だったら実際に現地に行って、本当にインディアンの人たちがイギリスの企業によって強制移住させられているのか、自分の目で確認したいと。そういうのもあって1994年の7月、アメリカに渡ったの。


──それからどういうルートで回ったんですか?

まず、インディアンの解放運動をしているデニス・バンクスという活動家のイベントに参加しようと思ってワシントンDCに行ったのね。そこからアルバニー、ニューヨークを経由して飛行機でサウスダコタ州の首都のラピッドシティまで行って、そこが旅の出発地だったからそこでまず車を買ったの。1976年製のボロボロの中古車でね。400ドルだった。

当時、運転免許も失効して6、7年経ってたから、現地の運転免許試験場で免許を取ったのね。ちなみにサウスダコタ州ってすごい田舎で車がないと生活できないから14歳から免許が取れるの。だから筆記も実技も超簡単で30~40分くらいで免許がもらえたの。しかも費用はたったの8ドルだった(笑)。サウスダコタ州から車に乗って、ネブラスカ、ワイオミング、コロラド、ユタ、ニューメキシコ、アリゾナと7つの州を2ヶ月半掛けて1万6000km旅して、スー族やナバホ族などインディアンの居留地を転々と訪ねました。

インディアン居留地にて(撮影:川崎さん)

インディアン居留地にて(撮影:川崎さん)

現場で確認することが大事

──イギリス企業にインディアンが迫害されているという話の真偽は確かめることができたのですか?

現地にもインディアンの支援活動をしている人のつてはあったんだけど、彼らを頼ったら偏った情報しか得られないと思って、あえて誰にも連絡しないでいきなり行きました。そこでたまたま出会った現地の人にいろいろ聞いてみたら、「確かに強制移住の部分もあるけど非常に少数の人間で、この村の人間は大勢、自分含め兄弟も親戚もその企業で働いている。もしこの企業がなかったらみんな食べていけない」という話だったの。それを聞いてやっぱり片方の情報だけですべてを判断してはダメだし、実際に現場へ行って自分の目と耳で確かめないといけないと思ったのね。それにこれって正に沖縄問題と同じじゃん、基地はいらないけど、基地がないと雇用もない。

でもごく少数とはいえ虐げられている現地の人がいるのは事実だし、彼らを支援することに自分が本気で関わるなら何千キロも離れた日本で何かやっても意味ないからここに住んで彼らと生活を共にしないとダメ。でもそれは私にとって現実的じゃないし、日本国内にもいろんな深刻な社会問題があるのに他国の問題に首を突っ込んでいる場合じゃないと思ったのね。


──宿泊や食事とかはどうしてたんですか?

川崎直美-近影11

基本キャンプよ。ラピッドシティでテントと寝袋、調理器具などキャンプ用具を一式買ったの。キャンプ場に着いたらテントを張ってごはん作って寝袋で寝て。何日もキャンプしてると疲れちゃうから週に1回くらいは安いモーテルに泊まったりしてた。あとは現地で知り合ったインディアンの家に泊めてもらったり、いろんな人にお世話になりました。


──旅行中、危ない目には遭わなかったのですか?

特には遭いませんでした。会う人みんなすごく親切だった。トラブルといえば最初に買ったオンボロ車が2日で壊れて買い替えたのと、2回荒野でガス欠になったことかな。そのときは私1人じゃなかったからなんとかなったけどあのときは焦ったわ(笑)。


──現地のインディアンの人たちとはけっこう交流したんですか?

各地で行われるパオワオっていう現地の人たちのお祭りではたくさんの人が集まるからいろんな人と交流したよ。

現地の人たちのお祭りにて(撮影:川崎さん)

その後の人生が変わった

──一番印象に残っていることは?

日本では「アメリカ・インディアンの教え」みたいなスピリチュアルな本が出回ってるじゃない? だから現地に行くまで彼らはスピリチュアルな暮らしをしていると思い込んでいたんだけど、みんな一般的なアメリカ人と同じだったの。それが一番印象的だったわ。というかショックだった(笑)。


──では、夜、満天の星空の下、焚き火のそばで村の長老のインディアンから昔から伝わるインディアンの教えみたいな話をしてもらって感動した、というようなことはなかったんですか?

ないない(笑)。もちろんそういう経験をした人もいると思うけど、私はあまりそういうのを求めていなかったのかなぁ。スエットロッジや人里離れた荒野の真ん中での儀式に招かれたこともあって、確かに満天の星空の下で、焚き火をたいてシャーマンといわれる長老がいて、儀式を執り行っていたりしたけど、いまいち何を言ってるかよくわかんなかった(笑)。それは私が英語が分からないからとかではなく、年寄りだから何を言っているのかよく分からなかったんだよね(笑)。その上儀式の時はインディアンの言葉だったと思う。彼らとはスピリチュアルなことというよりは日々の暮らしやお祭りのことなど、普通の世間話をしました。相手がシャーマンだからとかではなく、ただ地元の人と訪問者として接したという感じ。でもアメリカに行ったことがその後の私の人生を大きく変えるような体験になったのは確かです。


──それは具体的にはどのような体験ですか?

アメリカ中西部の雄大な風景(撮影:川崎さん)

アメリカ中西部の雄大な風景(撮影:川崎さん)

日本では絶対に見ることのできない、現地の雄大な風景に感動したこと。とにかくアメリカの中西部はものすごく広大で地平線の果てまで平らな荒野が広がっててね、地平線から日が昇るのが見えて地平線に日が落ちるのが見えるの。色も赤茶けた土の色と青い空の色の2色しかなくて、時々遠くに竜巻が見えたり。朝焼け、夕焼けもものすごくきれいで、刻一刻と変わる空の色は言葉では言い表せないくらいきれいだった。その大地の美しさ。雄大さ。それに魂を揺さぶられたの。滞在中は1000枚くらい写真を撮りました。そういう景色を見て、この美しい地球を守りたい、そのために環境保全に繋がる活動をしなきゃいけないと強く思ったの。

じゃあ私にできることってなんだろうといろいろ考えたんだけど、まずはみんなが生活する上でなるべく環境に与えるダメージを少なくするものを使うべきだと。でも当時はまだエコロジカルな生活用品ってそんなに出回っていなかったし、いろんな店を回らないとそろえられなかったの。それじゃあいくらエコロジカルな生活を実践しようという気持ちがあってもなかなか難しいから、ここに来れば生活に必要なエコ製品は全部手に入れられるというお店をやりたいと思ったの。


インタビュー前編はこちら

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自然派生活雑貨店を経営

──川崎さんは、高校を1年通わずに中退後、フリーター、海外放浪、アメリカ人のパートナーとの交際、出産、別離を経験。帰国後は外国人タレントのマネジメント事務所を設立して大成功を収めたと思ったらすべてを捨てて単身、アメリカへネイティブアメリカンを訪ねる旅に出かけたり、東京でオーガニックライフの先駆けとなるお店を開くなど、まさに激動の人生を送っています。その人生については後ほどじっくりうかがうとして、まずは現在の活動について教えてください。

川崎直美-近影1

大きくわけて2つあって、Lepas manis(レパスマニス)という生活雑貨のお店の経営と地域活動をやってます。


──レパスマニスはどのようなお店なのですか?

ナチュラルでオーガニックなライフスタイルを発信することをテーマにお洋服や基礎化粧品、洗剤などの生活雑貨を販売している小さなお店です。店舗兼住居で、お店のスペースと生活するスペースはカーテン一枚で区切られています。基本的に営業時間は11時から18時までで火曜日と水曜日はお休み。今年からですが、12月から2月は寒いし、ほんと、お客さんが来ないので火、水、木の3日間はお休みにしています。店名のレパスマニスはインドネシア語で「自由」と「スイート」という意味です。


──販売している商品の特徴を教えてください。

オリジナルのカットソー・Tシャツ

レパスマニスのメイン商品はオリジナルのカットソーのウエアLOTUS HEARTです。オーガニックコットンとヘンプ(麻)で作られていて、年に1回、中国の工場に注文して作っています。毎年新しいデザインを2、3型投入するけれど、気に入ったものはいつまででも着られるように、ほとんどが定番。Tシャツは全く同じ物を10年間作り続けています。色は毎回11、12色作っていて、全体の3分の1から半分ほど新しい色と入れ替えます。あとは定番色。色を選んだりデザインをおこすのは自分でやっているんだけど、服飾学校に行ったりアパレル会社で働いた経験なんてなくて全部自己流。絵を描いてサイズを書き込み、こんな感じでと工場に送ってるだけ(笑)。


──なぜ年に1回しか作らないのですか?

今の世の中は何でも大量生産、大量消費でしょ。洋服だって当たり前のように使い捨て。量販店ではすごく安く売って、買う方も1、2年しか着ないですよね。着ない服は大量のゴミとなる。私はそういう物の消費のスタイルを変えたいの。少々高くても長く大事に着続けることができるものを提供したいから、多品種大量生産じゃなくて、少なくても定番となるような物を作り続けているんです。それに世の中は次から次へと新しい物が入って来るけれど、例えば気に入った洋服があっても、何年かあとに同じ物は売っていないでしょ。私の洋服LOTUS HEARTはほとんどが定番だから、気に入った洋服が着れなくなっても同じ物がまた買えるんです。

化粧品も同じで、化粧水はホーリーバジルウォーターとローズウォーターだけ。保湿のものも100%シアバターかエッセンシャルオイルを入れたシアバタークリームの2種類だけ。それだけあればいいじゃんって思うのね。私はこれを「引き算のコスメ」って呼んでるの。

天然素材由来のシアバタークリーム
天然素材由来のシアバタークリーム

天然素材由来のシアバタークリーム

一方で最近の化粧品はシワが取れるとかシミがなくなるという成分をどんどん研究開発してプラスしていくわけですよね。これが「足し算のコスメ」。でもそれで本当にシワやシミがなくなるわけじゃないでしょ? やっぱり1回できちゃったシワやシミはね、絶対取れないのよ。もし本当に取れる化粧品を開発できたらノーベル賞ものなんだよ(笑)。だからアンチエインジングとかいって最新の化粧品で肌の衰えに抗うことよりも、年齢の経過とともに衰える肌を受け入れて一緒にハッピーに暮らしていくことの方がよっぽど大事だと思う。だから私のお店は、化粧品はシンプルに必要最低限のものだけで十分、というあり方なのよ。

洗剤にもこだわる

せっかくオーガニックコットンやヘンプのお洋服を買っても、市販の合成洗剤で洗っちゃうと台無しだよね。だから洗剤ももちろん化学物質が入っていない天然由来のエコ洗剤しか置いてません。特に葉山は地域の3分の1強くらいの世帯でしか下水道が完備されていないから、なおのこと洗剤は自然に還るものにこだわっているの。


──でもエコ洗剤は普通のスーパーなどでも売られていますよね。何か違いはあるのですか?

一般的なスーパーなどで売られているほとんどのエコ洗剤はヤシの実の油、パーム油がベースとなっているのね。そのパーム油って、原生林だったところを伐採、クリアカットしてパームの大型プランテーションに開拓して作られていることが多い。それで毎年東南アジアの原生林が失われてるの。だからいくらこの洗剤はエコですよといったって、大規模な環境破壊によって作られたパーム油なのか、適正に栽培されたパーム油なのかは、ほとんどわからない。だからうちで扱っている3種類の洗剤はすべて製造過程まで調べてるのね。例えばこの粉石けんは、日本でお醤油を作る工程で出る大豆油の廃油で作っているので全部国産。うちにある他の洗剤も原材料も製法も環境破壊とは無縁なの。

製造過程にもこだわっているエコ洗剤
製造過程にもこだわっているエコ洗剤

製造過程にもこだわっているエコ洗剤

──ただオーガニックというだけじゃなくて原材料や製法にもこだわっているんですね。

そこにこだわらないと意味がないからね。あと、すべての商品に共通するのは私自身が気に入って実生活で使えるものじゃないと売らないという点ですね。

海沿いの葉山公園のすぐそば、国道207号線沿いにある「レパスマニス」 神奈川県三浦郡葉山町下山口1742
海沿いの葉山公園のすぐそば、国道207号線沿いにある「レパスマニス」 神奈川県三浦郡葉山町下山口1742

海沿いの葉山公園のすぐそば、国道207号線沿いにある「レパスマニス」 神奈川県三浦郡葉山町下山口1742

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地域活動

──地域活動はどのようなことをしているのですか?

自宅から徒歩2分の葉山のビーチで

自宅から徒歩2分の葉山のビーチで

2009年から「トランジション葉山」という葉山・逗子を中心に、石油依存型の社会から脱却し、自分たちの手でより暮らしやすい持続可能な町づくりのために活動をしている団体の運営スタッフをしてます。いろんな活動がある中で、代表的なものとしては2010年4月、仲間とともに立ち上げた地域通貨「なみなみ」があります。


──「なみなみ」はどのような地域通貨システムなのですか?

まず、なみなみを使いたい人はなみなみの公式ブログを読んでなみなみに関する基礎知識を理解してもらいます。その上で月に1回開催している説明会に参加して目的やシステムなどの詳しい話を聞いて、十分に納得した上でやりたい人は参加できます。費用は年会費として1500円が必要です。

川崎さんのなみなみ通帳

川崎さんのなみなみ通帳

入会するとマイナス2000なみから始まる通帳と「で・しリスト」がもらえます。「で・しリスト」というのは「できること」「してほしいこと」のリストの略で、メンバーになる人は、フォーマットに自分の氏名・電話番号・住所や300文字以内の自己紹介とともに、自分の「できること」と「してほしいこと」を書くのね。その情報を一冊にまとめた冊子が「で・しリスト」。メンバーはそれを見てお願いしたいことをお願いしたい人に連絡したり、メーリングリスト上でやり取りしたりするわけ。例えば私みたいな車を持っていない人がちょっと遠くまで買い物などに行きたいとき、送迎してもらいたい日時、場所、支払うなみなどをメーリングリストに書き込んでやってくれる人を募集するのね。そうするとやってもいいという人が連絡してくれる。その報酬が1000なみだとすると、私の通帳に-1000、送ってくれた人の通帳に+1000って記載されるというわけ。あとは物を買いたい時、借りたい時、逆に売りたい時も同じです。

地域通貨のメリット

──地域通貨を使うことのメリットは?

いろいろありますが、1つは地域の知り合いが増えるということね。すごく近くに住んでいるのに今まで一度も話したことがなかった人と地域通貨を通して知り合えるかもしれないでしょ。地域で知り合いが増えたら困ったときに助け合うことができる。実際に、子どもの面倒など、お願いする人が誰でもいいわけじゃないというときは、お母さん同士のグループを作ったりして助けあっている人たちもたくさんいます。この「地域での助け合い」の機会を増やすことが地域通貨を立ち上げた一番の目的なの。

川崎直美-近影2

なみなみの会員の中には、「お願いしたいことがあるけど私は稼げるあてがないからなみを使いたくない」という人がいるんだけど、そういう人にはよくこう説明しています。世の中には圧倒的な社会的弱者という人たちがいるわけだよね。例えばお年寄り、障害者、病人、シングルマザー。そういう人たちは他人に助けてもらわないと生きていけない。でもシングルマザーは子どもが育って手がかからなくなったらまた周りの人にお返しできるかもしれないし、お年寄りは若い頃に十分頑張ってきたわけでしょ。だから人にやってもらうばかりで、自分のなみはどんどんマイナスになるとしても、そんなことは気にしなくていいんだよ。いつか返す時が来るかもしれないし、別に返せなくても構わない、って話してるの。

そこが現実のお金と分けて考えなければならない最大の点なのよ。自分のもってるお金はできるだけマイナスにしたくないよね。貯金はなくても借金はしたくない。マイナスになったらすごく不安になってくるから。でも、地域通貨なみなみはその不安から解放されるべきものなのよ。

実際のお金を介さなくても人と助け合えることに喜びを感じたり、これがより一層進むと、なみもいらない、無償でやってあげるよという関係が生まれてくるのよ。実際、私も特定の人とはなみのやり取りなしで何かをしてあげたりしてもらったりしてるしね。最終的にはみんながこうなればいい。そういう地域って暮らしやすいでしょ。だからなみは使うことそのものが目的じゃなくて、この地域に住む人たちがお互いに助け合いがスムーズにできる暮らしを作っていくためのツールにしかすぎないの。

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朝市を開催

──他にはどんな活動があるのですか?

神明社あさいち

朝市の実行委員を立ち上げて、2013年から地元の氏神の神明社で「神明社あさいち」を1、6、8、9月を除いた月の第1日曜日に開催してます。最初の頃は8時に集合したらすぐお参りをしていましたが、飲食店の人はギリギリまで仕込みに忙しくてなかなか全員そろわないので、最近は9時の開始直前に全員で参拝をしています。

朝市にはお店をやってる人もそうじゃない一般の人もいろんな物を売っていて、老若男女で賑わってる。私は自分のお店の商品を出してるんだけど、洋服を出しても売れないから朝市用のものを出品してるの。

同時に、今は忘れ去られようとしている日本の伝統行事も開催しています。2月は豆まき、3月は七段飾りのお雛様を飾って、5月は鯉のぼりを立てて、7月は七夕、10月はお月見のお飾りやお団子を作って飾ったり。そしてそれぞれの行事に合ったワークショップもやっています。こういうことを通して、子どもたちに日本の伝統行事を伝えていきたいと思ってやってるの。

朝市の様子。毎回たくさんの人で賑わっている
朝市の様子。毎回たくさんの人で賑わっている
朝市の様子。毎回たくさんの人で賑わっている

朝市の様子。毎回たくさんの人で賑わっている

──なぜ朝市をやろうと思ったのですか?

葉山周辺に暮らしている人々は大きく2つのグループに分けられます。葉山は御用邸や民間の別荘がたくさんあるからおしゃれなリゾート地というイメージがあるけど、元々は古い漁師村なんですよ。幹線道路から細い道を入ると漁師さんの生活がわかるようなお家がけっこうあるのね。家系をたどれば江戸時代までいっちゃうような人たちがたくさん住んでる。

一方でここ数年、30、40代の子育て世代のファミリーがどんどん引っ越してきてる。でもこの狭いエリア内で、古くから住んでる人と新しく越してきた人たちとの接点が全くないんですよ。そのことに私も引っ越してきて気づいて、古くから住んでる人たちと知り合いたいし、彼らの話をすごく聞きたいという思いもあって、何とかこの2つのグループを繋げられないだろうかと思ったのが朝市をやろうと思った最初のきっかけです。

朝市では出店だけではなく、様々なワークショップも行われている
朝市では出店だけではなく、様々なワークショップも行われている

朝市では出店だけではなく、様々なワークショップも行われている

──なぜ2つのグループを繋げたいと?

3.11の東日本大震災で、大災害が起こったとき、地域にどのくらい知り合いがいるかが生死を分けるくらい重要だということに、私を含めてたくさんの日本人が気がついたと思うの。だから災害時にスムーズな助け合いができるように、地域で知り合いをたくさん作っておくことかがすごく大事だなと思って、まずは1人でも多くの人と知り合おう、せめて顔見知になろうっていうのが朝市の第1の目的なんです。また、そういう人たちと知り合って古い昔の葉山の話を聞きたい。自分が住んでいる地元の歴史を知りたい。そしてそれを子どもたちに伝えていきたいなと。


──具体的にはどのようにして始めたのですか?

まずは商店会の会合で朝市をやろうという話をもちかけたら、ぜひ一緒にやりたいと言ってくれた30代後半の男性がいて、取りあえずその人と2人でやることになりました。いろんな人に参加してもらいたかったから神明社あさいち実行委員会を作って商店会のメンバーじゃない人も出店できて、実行委員にもなれるようにしたの。今の実行委員は3人です。

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紙芝居プロジェクト

あさいちで上演されている紙芝居

あさいちで上演されている紙芝居

この朝市では私たちが作った紙芝居も上演しています。2012年頃、朝市をやろうと思い始めた時に地元の漁師さんのことも知ってこの地域に残っている古い言い伝えみたいな話がきっとあるに違いない、それを紙芝居にして朝市で上演することでこの町の歴史や文化を子どもたちに伝えていきたいと思ったのね。

それを地元の名士の方に話したら、この話はどうかと提案されたのが、郷土史研究会が出している「郷土史 葉山 下山口編」。そこに書いてあったのは、朝市の開催場所である神明社が1704年にできたときの成り立ち。そのお話は単なる史実として書かれていて、そのまま紙芝居にしてもおもしろくないので、子どもたちがぐっと食いついてくるように脚色したの。

しもやま よもやま むかしばなし 神明社の巻

絵は実行委員の1人の知り合いで、紙芝居もたくさん作ってるプロの木版画家に頼みました。文章は私が担当して、木版画家と何回も打ち合わせしてお話を作ったの。紙芝居の最後は、今はこうやってお祭りも朝市もやっていて、神社が活性化していますよというシメにしています。その紙芝居は、私たちが上演する用と町への寄贈用と町民が誰でも借りられるように図書館への寄贈用の3つ作りました。


──それだけの規模だと制作費はけっこうかかったと思うのですが、どうしたのですか?

そうそう、この紙芝居を作るのにすごくお金がかかるから最初は企画書を作って地域のお家を一軒一軒回って寄付を募ろうと思っていたのね。でもそれってものすごくたいへんだから実行委員の1人の提案で助成金を申請しようということになったの。そのために、下山の漁村文化を保存するための紙芝居でもあるから急遽「漁村文化保存会」というのを立ち上げて助成金をいただいたんです。

それでやっと去年(2015年)の春に完成したんだけど、いろいろな事情で去年の10月4日の朝市で初上演したの。作るまではたいへんだったけど子どもたちもたくさん集まって紙芝居を喜んでくれてたのですごくうれしかったですね。今後も朝市のあるときには毎回紙芝居をやり続けていくつもり。本番までにちゃんと練習もしてるのよ(笑)。

紙芝居の打ち合わせの様子。写真左は木版画家の村田エミコさん
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紙芝居の打ち合わせの様子。写真左は木版画家の村田エミコさん

紙芝居は子どもたちにも大人気
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紙芝居は子どもたちにも大人気

──朝市は今年で3年目ということですが、朝市をやってよかったと思うことは?

子どもたちが楽しそうに遊んでるのを見たらやってよかったと思う。あとは私を含めて知り合いが増えたことがすごくよかったかな。それと、自分もいい大人なのに知らない日本の伝統を知ることができたこと。例えば秋の七草、全部言える? 私はあさいちで秋の七草をお供えするから覚えたよ。そういうこともメリットの1つね。

町政にも関わる

川崎直美-近影3

あとは、葉山町長選で現職町長 山梨崇仁の「TEAM山梨」のメンバーとして関わりました。4年前に私たちが応援して山梨さんが当選したのですが、当然二期目もやってもらいたいので選挙のお手伝いをしました。昨年(2015年)の秋から12月中旬まではこの応援活動にかなり時間と労力を使いました。


──具体的にはどんなことをしたのですか?

山梨さんの「町政報告」や公選チラシを作りました。それを駅で配ったり、各家にポスティングしたり、私はほとんど選挙事務所で来訪者の対応をしていました。普通に選対がやることですよ。あとは山梨さんの「意見交換会」「町政報告会」を開催して、広く呼びかけて多くの人に来てもらい、山梨さん自身の口から4年間の総括をし、次の4年間のマニフェストを語ってもらいました。応援したかいあってめでたく二期目も当選したのでよかったです。


──なぜ町長選で支援者活動を?

自分たちが住む町は自分たちでよりよくしていきたいからです。やはり政治家が集まって密室で決められたことだけが実行されるような政治じゃダメだよね。山梨さんも私たちのもっとこうしてほしいという要望、つまり民意を反映した政治、町民と一緒に町づくりをしたいと言っていて、一期目は特に今までの古い体質改善に尽力して、それなりの成果はあったので、二期目はこれからもっとステップアップする町政のために応援しようと。葉山町は町民が政治に関わることができるちょうどいいサイズの町なんですよ。

山梨の選挙は、本当に手作り感満載。寄付、献金は一切受け取らないし、事務所にさまざまな人が来ていろんな物を持って来るのですが、些細な物もすべてお断りしています。どんな団体や政党の支援も受けていない組織票0の政治家、全くの個人ベースです。そしてチーム山梨には選挙のプロや経験豊富な人は誰もいなくて、圧倒的なリーダーもいません。みんなそれぞれ個人の気持ちだけで参加しているんです。


──お話をうかがっていると、お店よりも地域活動系の仕事の方が多いようですね。

そうなのよ。毎日お金にならない地域活動関連の仕事をずっとやっているの(笑)。


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