原点は不登校時代にあった
──なぜ人工知能全盛のこの時代に、あえてOriHimeのような、ロボットを介して生身の人と人がコミュニケーションをするというアナログな手法を取ったのですか?
それを説明するためには、私の幼少期からの人生の歩みの話をしなければなりません。先程少し触れましたが、私は小学校5年生から中学2年生までの3年半、そもそも学校というシステムが合わなかったことや、病気がちだったこと、コミュニケーションを取るのが下手だったこと、それによるいじめなどが原因で学校に行けず、自宅に引きこもっていました。一日の大半を誰とも会わず、主に絵を描いたり、祖母が教えてくれた折り紙をひたすら折ったり、オンラインゲームに没頭したり、とにかく一人で打ち込めることに熱中していました。でも一人きりの状態が長く続くと、何かをする気力も体力もなくなり、ずっと一人で布団の上でただ天井を眺め続けるだけの日々が続くようになりました。今でも時計の音を聞くとその時の情景が目に浮かびます。一週間ほぼ誰とも何も話さなかったことで、日本語を聞き取ることも喋ることもできない、身体をうまく動かせない、うまく笑う事もできなくなってしまいました。
そんな私を見て両親も悲しんでいました。もちろん何とかして学校に行けるようにといろいろと手を尽くしてくれましたが、それが逆に申し訳なくて。家族に迷惑をかけるだけの自分に嫌気が差し、自信もなくなり、無気力になり、記憶力も低下。さらに精神的に追い込まれ、耐えられずに叫び出すこともありました。どこにも居場所がなく、自分を肯定できない悪夢の状態でした。生きていくのがつらかった。本当に救いがない状況に苦しんでいました。
母の行動で脱出
──そんな地獄のような状況から脱出できたきっかけは?
中学1年生の時に母親が「ロボットコンテストに申し込んだから出てみれば?」と言ってくれたことです。このコンテストは市販の虫型ロボットを組み立ててプログラミングをして走らせ、ゴールまでのタイムを競う「虫型ロボット競技大会」というものでした。子どもの頃からロボコン番組を見ることやものづくりが好きだったので参加することにしたんです。そしたらまさかの優勝。翌年には大阪で開かれた「虫型ロボット競技大会チャンピオンフェスタ」全国大会でも準優勝しました。この時、準優勝のうれしさよりも優勝できなかったことの悔しさの方が大きかった。こんなことは初めてでした。
その時、会場で一輪車を漕いでいるロボットを見かけて、こんなすごいロボットもあるんだと感動しました。そのロボットの作者は「奈良のエジソン」と呼ばれた久保田憲司先生で、地元奈良県の工業高校の先生でした。私もこれを超えるようなロボットを作ってみたいと思い、久保田先生がいる高校に入学して弟子入りしようと考えました。そのためには勉強をしなければなりません。それ以来、学校に通って猛勉強を始めたのです。
子どもの頃から自分でゲームを作ったり、興味のあることを覚えるのは好きで得意だったのですが、強制される学校の勉強は嫌で嫌でしょうがなかった。しかも対人コミュニケーションがものすごく苦手だったので、学校に通うのも勉強するのも苦痛でした。でも久保田先生のいる工業高校に入学するという目標があったので頑張れたのです。
結果は合格。高校では久保田先生に弟子入りして、3年生の先輩たちの卒業研究グループに混じって、新電動車椅子の開発に関わりました。その新電動車椅子は高1の秋に完成して、高2の時により進化させた新型車椅子を制作。2004年、JSEC(ジャパンサイエンス&エンジニアリングチャレンジ)にその車椅子で出場するために、プレゼンの猛特訓をしました。元引きこもりで人前で喋るのが大の苦手だったのでかなり大変でした。でもその甲斐あって、特別賞と最優秀賞である文部科学大臣賞の2冠を達成できました。
運命を変えた出来事
その後、アメリカで開催される世界大会に出場したのですが、そこでその後の私の人生の方向性を決定づける出来事が起こりました。世界大会の本番前に、出場する各国の参加者が集まるパーティーが開催されたのですが、そこである生徒と話をしていた時、彼が「快適な車椅子を作る研究は俺の人生そのもの。俺は車椅子の研究をするために生まれてきて、死ぬ瞬間まで研究をするだろう」と言ったんです。その言葉を聞いた時、大きな衝撃を受けました。まだ10代の高校生なのにそこまで自分の人生を決めているのかと。同時に、自分はどうかと問いかけてみました。その答えは「これを一生の仕事とするのは違う」でした。確かに快適な車椅子の研究開発は楽しいし、やりがいもあります。でも「これを死ぬまでやるのは嫌だな」とはっきり思ったんです。同時に「じゃあ自分が本当にやりたいのは何なのだろう? 何のために生きているのだろう」という疑問が湧いてきました。
世界大会の本番では3位を獲得。この快挙に仲間たちや先生は涙を流して喜んだのですが、私はその疑問を抱えていたので、それほどは喜べませんでした。
帰国したら地元ではスーパー高校生としてもてはやされましたが、心はモヤモヤした気持ちを抱えたままでした。そんなある日、ある高齢者の方から手紙をいただきました。それには「家の中で使える車椅子を作ってほしい」と書かれていました。それを読んだ時、すごくショックでした。そんなことは想像もしていなかったからです。これまで車椅子の研究において、実際にユーザーに会って話を聞いたことがなかったのです。自分は何もわかっていなかったと思いました。
世界大会に参加するまでは、ものづくりは楽しかったし、卒業後は町工場に就職して職人として腕を磨きながら空き時間で車やバイクを作りたいとか、いつかは師匠みたいに学生にものづくりを教えたいと思っていました。しかし、高齢者が高校生に頼るしかないような世の中なら、自分にもできることがあるんじゃないかと思うようになりました。と同時に、こんな自分でも人から頼られることってあるんだなとうれしかった。
この手紙をきっかけに、さまざまな高齢者を訪ね歩き、車椅子を使う上で困っていることや要望を直接聞きました。その中で、引きこもっていた時の私が感じていたのと同じような孤独感を多くの方が抱えていることを実感したんです。なぜ人は車椅子に乗ってまで外に行くのかというと、人に会いに、社会に参加するためなんですよね。逆に言えば家から出られない人はその参加方法が限られて、他人に頼るしかなくなる。でも他人の手を借りるばかりで、自分は何も返すことができず、人に迷惑をかけてしまっているという無力感でますます孤独になっていく。引きこもり時代の私が感じていたことと全く同じでした。こういった問題を解消する方が、車椅子をいかにハイテク化するかよりもやるべきことだなと思いました。
その時、体調をよく崩していたし、視力がどんどん低下していて、このまま低下が止まらなければ20代で失明するだろうと医者に言われていました。そうなるとできることが一気に減ってしまう。私に残された時間はあと13年しかない。13年で何をしようと考えた時、「孤独を解消して私のような子どもが生まれてこない世の中を作ろう」「孤独を解消することに残りの人生をすべて使おう」、そして「あの時の高校生みたいに、孤独を解消するために生まれてきたと言えるようになろう」と誓ったのです。人生をかけてやりたいこと、まさに天命を初めて感じた瞬間でした。それで2005年、高校3年生の時、「人生30年計画」を立てて、人生プランを書いたんです。でも全部外れましたけどね(笑)。
吉藤健太朗(よしふじ・けんたろう)
1987年奈良県生まれ。ロボットコミュニケーター/株式会社オリィ研究所代表取締役所長
小学5年生から中学2年生までの3年半、学校に行けなくなり自宅に引きこもる。奈良県立王寺工業高等学校で電動車椅子の新機構の開発を行い、国内の科学技術フェアJSECに出場し、文部科学大臣賞を受賞。その後世界最大の科学大会Intel ISEFにてGrand Award 3rdを受賞。高校卒業後、詫間電波工業高等専門学校に編入し人工知能の研究を行うも10ヵ月で中退。その後、早稲田大学創造理工学部に入学。2009年から孤独の解消を目的とした分身ロボットの研究開発に専念。2011年、分身ロボットOriHime完成。2012年、株式会社オリィ研究所を設立。青年版国民栄誉賞「人間力大賞」、スタンフォード大学E-bootCamp日本代表、ほかAERA「日本を突破する100人」、米国フォーブス誌「30Under 30 2016 ASIA」などに選ばれ、各界から注目を集めている。2018年、デジタルハリウッド大学大学院の特任教授に就任。本業以外でも19歳のとき奈良文化折紙会を設立。折り紙を通じて地域のつながりを生み出し、奈良から折り紙文化を発信。著作『「孤独」は消せる。』(サンマーク出版)にはその半生やOriHime制作秘話、孤独の解消に懸ける思いなどが詳しく書かれてある。
初出日:2018.02.07 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの