WAVE+

2016.12.15  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

宇宙にあこがれを抱く

──ここからは、会津に戻って会社を継ぐことにした経緯含め、関さんのこれまでの人生の歩みについてお聞かせください。子どもの頃の夢は?

関昌邦-近影1

NASAのエンジニアになることでした。最初に宇宙に興味をもったのは、幼い頃に見たテレビ番組がきっかけでしょうか、知らない世界を見つけて開拓するということにあこがれを抱いていました。また、遊びでもすでに流行っているものに乗るのが当時から好きじゃなくて、人より半歩でも一歩でも先を行って新しいものを見つけ、クラス内に流行させたいと思うような子どもでした。それの延長なのか小学生の頃から、将来は、人類の最先端分野、宇宙飛行士とは言わないまでも、NASA(アメリカ連邦宇宙局)に勤められたらいいなぁ、とか日本の宇宙開発を担っているNASDA(宇宙開発事業団。現・宇宙航空研究開発機構・JAXA)のエンジニアになれたらなぁ、なんて夢を描いていました。

理科系科目が好きだった中学まではそんな夢を漠然と抱いていたのですが、高校に入ってから理数系の教師と折り合いが悪くなり、反発もあって元々得意だった理数系の科目の成績がガタ落ちに。仕方なく文系に転じた時点でもうNASAはおろかNASDAも無理、となって、じゃあ国連みたいな世界を相手にした仕事、国際的な仕事、と徐々に妥協しながらなりたい職業に思いを馳せていました。じゃあどうするかと考えた結果、次男なので当時は実家の会社を継ぐことなど想定していなかったし、何もない田舎から都会へ出たいという気持ちが強かったのですが現役では東京の志望校に不合格。上京して1年間浪人生活を送り、翌年都内の私立大学の法学部に入りました。

ハイ・リスク、ハイ・リターンで就職先を選ぶ

──大学時代はどんな生活でしたか?

関昌邦-近影2

東京での生活は楽しく、さらに体育会系の基礎スキー部に入ったので、勉強そっちのけでシーズン中は合宿やインストラクターのアルバイト、オフシーズンは次のスキーシーズンの資金稼ぎのアルバイトに明け暮れていました。就職活動時期に入ると、何となく、海外で活躍できるような仕事に就きたいなと考えていましたが、そんな頃、僕の将来を決める1つのきっかけとなる出来事が起こりました。テレビでボクシングの試合をよく観戦していたのですが、ある時からマイク・タイソンの試合を民放で放映しなくなったんです。なぜだろうと思ったら、有料衛星放送のWOWOWの独占放送で、加入しないと観られない。そんな時代に突入した頃でした。WOWOWは当時、日本初の有料放送を行う民放衛星放送局として開局した会社で、まだまだこの先どうなるかわからない会社でしたが、だからこそ魅力的に映りました。それまでの日本ではテレビ視聴は無料が当たり前だったので、テレビを観るのにお金を払う人がどれだけいるか、未知数でした。だからもしかしたらそのまましぼんでしまうかもしれないけれど、ひょっとしたら大きく成長するかもしれない。そうなったとき、今から入り込んでおけば大きなリターンが得られるかもしれない。すでにある程度大きくなっている会社よりも、これからどうなるかわからない会社の方がおもしろそうだ。よし、成長する方に賭けよう! と次世代の通信・放送業界を手掛けているような会社を受けようと思ったんです。

いろいろ調べているうちに、電波新聞というマニアックな業界紙の存在を知り、電波新聞社に通って過去の紙面を閲覧していました。その過程で人工衛星を使った通信・放送ビジネスはWOWOWだけじゃない、人工衛星の運用会社やそこにCNNなどのコンテンツを供給する会社など、いろいろな会社があることが分かりました。でも、何せ人工衛星を使った通信・放送ビジネスは始まったばかりで、苦労して見つけた会社でも新卒募集などしていないケースも多く、さらに私は文系だったので全然お呼びじゃないという感じもありました。それでも当たって砕けろの精神でチャレンジしたのですが、文字通り「当たっては砕け」の連続。やっと面接に辿り着いても落とされる。狭き門なのは分かっていても面接して断られるのを数十回繰り返すと、自分が人間失格な気がしてきてかなり精神的につらかったですね。二流私大でしかも一浪一留。学生時代にはろくに勉強せず、夢だけ描く頭でっかちで半端もんな俺など、人材として社会から必要とされていないという気がして......。

そんな中でもめげずに、三菱グループの宇宙通信という会社に「どうしても御社に入りたいから面接だけでもしてくれませんか」と手紙を出したところ、基本的に文系は採用してないけど面接だけはしてくれる、というので喜び勇んで受けに行きました。でも大学時代はスキー活動ばかり。面接官とまともに話ができないわけですよ。このままでは落ちると思ったので、帰宅後すぐ、緊張して言いたいことをちゃんと伝えられなかったことや、この会社で働きたい理由など思いの丈を手紙に書いて、速達で送りました。

そうしたら人事から連絡が来て、もう一回だけチャンスをいただけることになりました。2次面接では1次面接よりは思っていることを伝えられたのですが、正直手応えは全く感じられなかったですね。面接後30分以上は控室で待機させられたので、待たされるってことはもしかして? と微かな期待をかけましたが、人事の方がようやく現れて一言、「今日はお疲れ様でした。結果は後日」。がっかり肩を落として帰りました。その翌朝、人事から電話がかかってきて「うーん、君については賛否両論いろいろ意見が分かれてね、でも新しい風を入れてみようってことになって、採用することに決定した」と。そりゃあすごくうれしくて飛び上がりましたよ。本当によく採ってくれたなと思いますね。

念願の企業へ就職

──入社後はどのような仕事を?

関昌邦-近影3

企画部に配属され、電気通信事業法や放送法を学び、監督官庁の郵政省(現・総務省)への許認可申請、法整備の陳情、新事業の企画立案などの仕事に従事しました。そのうちデジタル多チャンネル放送を日本で実現するような流れが生まれ、そうやって立ち上げたのが後に「スカイパーフェクTV」、「スカパー!」になる「ディレクTV」です。毎日忙しかったのですが、仕事は刺激的でとてもやりがいがありました。でも企画部で7年働いた後、志願して営業へ異動しました。

──なぜですか?

企画部は郵政省との折衝窓口。衛星通信や衛星放送事業は国の許認可事業だったので、法的に何が許されるか、特に営業部門やシステム開発部門がお客様に新しい通信衛星の利用方法を提案するような時、それが法的に可能か否か、相談されることが多かったんです。いわば会社のブレーン側というような立場だったのですが、そんなポジションに何年もいると、いつのまにか自分が偉そうになっているような気がして、このままの社会経験じゃマズいなと危機感をもつようになったんですね。それで、商売の基本は何かを売ってお客様を得ることであり、営業こそが資本主義社会で生き抜くための一番大切な仕事だと感じていたので、商売の基本を一から学びたいと、実際に異動になる数年前から異動願いを出し続けていたんです。

関 昌邦(せきまさくに)

関 昌邦(せきまさくに)
1967年福島県出身。株式会社関美工堂代表取締役

子どもの頃に観たテレビ番組などの影響で宇宙関係の仕事を志す。会津の高校卒業後、明治学院大学法学部に進学。1992年、衛星通信・放送事業を行う宇宙通信株式会社(現スカパーJSAT株式会社)に就職。DirecTV(現スカイパーフェクTV)の立ち上げなどに従事。2000年、宇宙開発事業団/NASDA(現宇宙航空研究開発機構/JAXA)に出向。将来の通信衛星をどのように社会に利活用できるかを目的としたアプリケーション開発に従事。2003年、会津にUターンし、父親の経営する株式会社関美工堂に入社。2007年、代表取締役社長に就任。BITOWA、NODATE、urushiolなど新しい会津漆器のブランドを立ち上げ、会津塗りの新境地を開拓。その他、自社製品を含めた会津の選りすぐりの伝統工芸品や、世界各地から取り寄せたデザイン性にすぐれるグッズを扱うライフスタイルショップ「美工堂」などの運営を通して、会津の地場産業の素晴らしさを国内外に発信している。

初出日:2016.12.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの