3歳から絵を描き始める
──アランさんは日本で30年にもわたって日本画家として活動しているとのことですが、なぜアメリカから日本に移住しようと思ったのか、そもそもなぜ画家を目指したのか、まずはこれまでの人生の歩みから聞かせて下さい。
僕は1962年、アメリカ、ワシントンDCで生まれました。生家はホワイトハウスから車で20分くらいのところにあり、家の裏には広くて豊かな原生林が広がっていました。両親は裏庭に僕専用の花壇を作ってくれたので、好きな花や植物を植えて育てていました。そういう環境だったので、幼い頃から植物が大好きで、もっとも美しい存在だと感じ、3歳くらいからいつも裏庭で植物の絵を楽しみながら描いていたんです。母が当時の作品をたくさん取っておいてくれていまして、我ながらこんな早い時期から植物の絵を描いていたことに驚きます。僕が今でも花鳥画を描いているのはその頃の気持ちと全く変わってないからなんです。画家としては何よりも一番美しい物が描きたいですからね。
──なぜ植物にそんなに惹かれたのでしょうか?
逆に、なぜ植物がこの世の中で何よりも美しいと思わないのかが不思議です(笑)。
──画家になりたいと思ったのはいつ頃ですか?
8歳の頃ですね。小学校の先生に「人生を決めるには今(8歳)のタイミングがちょうどいい」と言われて、僕はもうすでに絵も大好きだし、たくさん描いていたので画家になろうと決めたんです。それで本格的に絵の描き方を学ぼうと、9歳から油絵の教室に通うようになりました。
──8歳で将来のキャリア、職業を決めるというのは早い気もするのですが、アメリカってそういう教育なんですか?
いえ、アメリカでもあまり一般的ではないと思いますよ。画家を目指す最初のきっかけを与えてくれたしすごくいい人だったので、その先生のことは今でもよく覚えていますね。
14歳で初めて注文制作を受ける
──中学、高校時代もずっと絵を描いていたのですか?
もちろんです。14歳の時、ある劇団から舞台の背景画を描いてほしいと頼まれました。全然知らない劇団だったのですが、どこからか僕が絵を描くのがうまいという評判を聞きつけて声を掛けてきたらしいです(笑)。現在、僕の仕事の中で、注文制作が8割を占めているんですが、この時が初めての注文制作でした。劇団では背景画の他にも俳優の肖像画とかポスターとか、たくさん頼まれて描きました。劇団側が絵の具などの画材を全部与えてくれて、好きな絵が描けて、その上お金までもらえるので至福でしたね。14歳という早い時期から、依頼者がどういう絵を描いてほしいのか、希望していることをすべて聞いて引き出すだけではなく、わからないところがあれば積極的に聞いて確認したり、下図を見せて提案しながら徐々に要望に沿った絵に仕上げていくということを学び、その結果お客様に喜んでもらえることのうれしさを覚えたことが、すごくいい経験になりました。また、締め切りに間に合わせることの大切さを学べたこともよかったですね。
中学卒業後は、芸術教育に重きを置いている公立高校に進学しました。放課後はスミソニアン美術館でポスター制作や膨大な数の作品管理のボランティアも始めたのですが、授業の最後の1コマに出席していたら間に合わないんですね。そこで、メリーランド州の絵画コンクールで賞を取ったことをきっかけに、校長先生に「芸術は人類共通の言語だから外国語の時間を美術の時間にしてくれませんか」と交渉したところ、「美術館での経験も大事なことだ」と特例でスミソニアン美術館でのボランティアを最後の1コマ分として認めてくれて単位をもらえたんです。スミソニアン美術館でのボランティアでは、シルクスクリーン印刷の技術や美術史・作品・作家に関する幅広い知識が得られ、後に非常に役に立ちました。
さらに、もっと絵の技法を学びたかったので、放課後や土日はコーコラン美術館付属美術学校や絵の師匠のアトリエにも通っていました。
──では高校時代はものすごく忙しかったんですね。
そうですね。でも、僕にとってアートは勉強でもあるし、仕事でもあるし、遊びでもあるし、息抜きでもあったので、全然苦ではありませんでしたよ(笑)。
──高校時代もずっと油絵で自然画を描いていたのですか?
そうなんですが、高校の頃、油絵に対する不満がピークに達したんです。油絵の具はネトネトしているので、植物の枝や葉っぱのディティールがイメージ通りにうまく美しく描けないことがよくわかって、すごくフラストレーションを感じていました。絵を描きながら、常に絵の具と戦っているような気分だったんですよ。筆も毛が固くてヘラのようだったので描きにくさを感じていました。
アルバイトで舞台の背景などを描いている時はペンキを使っていたのですが、すごく液体的で描きやすかったので、学校の授業で描く絵もペンキで描きたかったのですが、ペンキは2、3年で色あせするので使えませんでした。
絵の具を自作
──水彩画でもダメなんですか?
水彩画は植物系の染料なので、月日が経つとペンキと同じように色が全部あせるんですよ。せっかく絵を描くなら長い年月が経っても色あせしないものにしたかったので、ストレスを感じつつも、油絵の具を使うしかなかったんです。
でも、同じ油絵でも中世ヨーロッパ時代の作品の方がディティールが全然きれいなんですよ。それができたのはなぜだろうといろいろ調べたら、まずはキャンバスが違うことがわかりました。現在、私たちが使っているキャンバスって凹凸が目立ちますが、昔は麻を使っていて平でした。その上に兎膠(にかわ)を塗って紙やすりで研ぐというのを繰り返して、凹凸をどんどん落としてつるつるの表面にしていたんです。これがまず1つの解決法になるなと思いました。
次に、油絵の具のネトネトをもっとサラサラにする方法を調べてみました。キャンバスに兎膠を塗るのなら、顔料に兎膠を混ぜて絵の具を作ったらどうかと思ってやってみたら、すごくサラサラした液体的な絵の具になったんです。これほど使い勝手がいい絵の具はなかったので、自分でもこれはすごい発明だと(笑)。早速その絵の具で描いてみたんですが、うまくいくときもあればいかないときもありました。その理由はよくわからなかったのですが、ただ、より植物をイメージ通りに表現できる絵の具に近づいているなという手応えは感じていました。
アメリカでトップの美術大学に挑戦
──高校生の頃から植物を思い通りに描くために自分で絵の具を作っていたとは驚きですね。大学はやはり美大へ?
はい。もちろん高校生の頃も画家になりたいと本気で思っていたので美大へ進学するつもりでした。しかし、弁護士だった父は「絵を描くことは趣味ならいいけど職業にするのはダメだ」と大反対。画家は自立して生活するのが難しい職業だし、結婚や子どもをもちたいならなおさら無理があると。確かに父の言うことももっともなのですが、それでも、一生一人になっても構わないから画家になりたいと思っていました。というより、将来、絵を描かない自分が想像できなかったんですね。一番やりたいことは絵を描くことなのだから、他の仕事に就いても不幸になるだけだろうと。絵を描かないで幸せでいられるというのは考えられませんでした。
そういう自分の気持ちを父にぶつけましたが、父も簡単には引き下がらず、相当やりあいました。このせいで父との関係はかなり険悪になったのですが、見かねた祖母が父に「お前も若い頃は夢を抱いていたことを忘れたのかい? 子どもの夢を応援してやりなさい」と僕の味方になって父を説得しようとしてくれました。父も自分の母の言葉には逆らえず、「アメリカでトップの美術大学に入学して、美術家としてちゃんとした教育を受けるならば許す。もし入学できなければ画家の道はあきらめろ」と条件付きで一応チャレンジすることだけは認めてくれたんです。僕はかなり厳しいチャレンジだけど頑張って絶対に合格してやるぞと気持ちを燃え上がらせました。
この時、父は、僕がこの条件をクリアするのは絶対に不可能だと思っていたからこそ、こう言ったのだと、後になって聞かされました(笑)。今こうして画家として生きていられるのは、いろんな幸運がたくさん重なったからなんですが、この時の祖母の説得と父の誤算があったこと、それを受けて頑張ったことが大きいと思います。
──だたでさえ忙しい毎日の中で、受験勉強の時間はどうやって取ったのですか?
平日は学校が終わって遅くまで絵の教室に通うか美術館でのボランティア、土日は劇場のアルバイトなどで忙しかったので、他の科目の成績はあまりよくありませんでした(笑)。だから教室や劇場や美術館に行くバスや地下鉄の中で勉強するなど、時間を効率的に使っていました。
アラン・ウエスト(Allan West)
1962年アメリカ、ワシントンDC生まれ。日本画家/「繪処アラン・ウエスト」代表
3歳から絵を描き始め、8歳で画家を目指す。9歳から絵画教室に通い始め油絵を学ぶ。14歳で初めて絵の注文制作を受け、舞台背景などを描く。高校時代は絵画で大きな賞をいくつも受賞。「National Collection of Fine Arts」(現スミソニアン・アメリカ美術館/Smithsonian American Art Museum)で週2回、ボランティアとして学芸員のサポートを経験。大学は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に入学。1年で休学し、理想の画材や技法を求めて日本へ。岩絵具や膠などの日本画の画材と出会い、日本に移住して画家として活動することを決意。1987年、カーネギーメロン大学学部卒業後、日本へ。1989年、東京藝術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室。日本画の技法や画材の取り扱い方を学ぶ。同時期に日本人女性と結婚。1999年、谷中に自動車整備工場を改築して、アトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。以降、掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物などに作品を描き、数々の展覧会に出品、受賞多数。仕事の8割が注文制作で、クライアントも企業、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など多岐にわたる。その他、講演、ワークショップ、ライブペインティングなども精力的にこなしている。また「繪処アラン・ウエスト」で能楽などのイベントも開催している。
初出日:2016.11.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの