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2016.06.13  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

戦地に取り残された兵士のために

──終戦後はどういう任務に就いたのですか?

池田武邦-近影01

まだ南方の戦地に残された陸軍の兵士がたくさんいたから、彼らを船で日本に連れて帰る復員局の復員官に任命されました。船がほぼ全滅してたから、残ってた「酒匂」(さかわ)という矢矧の姉妹艦で、戦争が終わる直前に完成した軽巡洋艦を復員船にして、分隊長として南方の島に行ったんだ。

その時の航海は忘れられないね。戦争中はちょっとでも海に出れば敵の潜水艦や航空機がいつ襲ってくるかわからないから一瞬も気が休まらず、常に神経がピリピリしてた。でも戦争が終わったらそれがないわけだ。攻撃がない航海、こんな楽なものはないですよ(笑)。針路さえ決めればそのまんまただ進んでいけばいいんだから安心して航海ができる。平和な航海ってなんていいんだろうって思った。その時の航海が非常に印象に残ってるね。

東京大学に入学

酒匂で兵隊さんをたくさん乗せて横須賀に入港して、事務所で次の航海の計画を立てていたとき、突然、父親が現れた。職場まで来るなんて何の用だろうと思ったら、「大学に行きなさい」と東京帝国大学の入学願書を差し出してきたんだ。マッカーサーが、元軍人でも全学生の一割の範囲なら大学に入れてもいいという許可が出たらしいんだな。それを親父は新聞で知って職場まで来たんだよ。僕はそんなことは知らなかったから大学に行くなんてことは夢にも思っていなかった。それに、外地に大勢取り残されている兵隊さんたちを完全に内地に輸送するまでは復員官をやろうと決めていたから「大学に行く気なんてありません」と断った。でも親父は「お前はもう十分国のために尽くした。大学へ進む道もあるんだから、とにかく受けるだけ受けてみろ」と強く言うもんだから、断りきれずに受験することにしたんだ。でも受験日まであと1ヶ月しかなかったから今から勉強しても受かりっこないと思ったね(笑)。


──どんな学科を選んだのですか?

池田武邦-近影02

建築学科だよ。建物が全部壊されて焼け野原になった日本の風景を見た時ね、国を守るという使命をもって海軍に入ったのにそれが果たせなかった、軍人として負けた責任をすごく感じていた。だからせめて日本の復興に貢献できる職業に就こうと建築学科を選んだわけ。もうお国のためとかさ、そういうことしか考えてなかった。自分がどうなりたいとかは全く考えてなかった。純情だったな、あの頃は(笑)。

建築学科を選んだ理由はもう1つある。幼少期から成人するまで住んでいた藤沢の家が、早稲田大学の建築科を出た僕のいとこが設計した家だった。その家は地味な造りだったんだけど、自然の特性をうまく利用していて夏は涼しく、冬は暖かい快適な家だったから大好きだったんだ。だから海軍士官以外、知っている職業は建築家だけだったから建築科を選んだというのはあるね。

さらに言えば、沖縄海上特攻で矢矧が沈んで海を漂流していた時、その藤沢の実家の風景が脳裏に浮かんだんだよ。夏、障子を開けると川辺から涼しい風が吹き込んでくるんだけど、その風を感じながらただ畳の上で大の字に寝転ぶのがなんとも気持ちよくてね。その感覚が蘇ってきて、もう一度実家のあの畳の上に寝転びたいと思った。そういうことももしかしたら建築の道へ進む1つのきっかけになっているのかもしれないね。

それからは受験まで1ヶ月しかなかったけど、やるからには全力を尽くそうと昔の兵学校の教科書を引っ張りだして猛勉強したよ。兄たちも手伝ってくれてね。そしたら運良く勉強したところが試験に出て受かっちゃったんだ。よもや受かるとは思っていなかったなあ。当時は勉強どころじゃなくて受験する人も少なかったから戦後のドサクサで受かったようなもんだね。翌年以降だとまず受からなかったと思う。そういう幸運もあって1946年4月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ入学したってわけだ。

東京大学建築学科の学友と(最前列左端が池田さん)

──東大に合格していなかったら建築家にはならなかったわけなので、その後の人生は大きく変わっていたでしょうね。

まったく変わってただろうね。落ちてたら船乗りになってずっと海の上にいたでしょう。やっぱり僕は海が好きだから。戦後、海上自衛隊に入った戦友もいたしね。


──大学での建築の勉強はどうでした?

楽しかったよ。僕は元々絵を描くことなどクリエイティブなことが好きだったから。あの頃は学生も食うや食わずだからほとんど教室に集まってなかった。でも僕は勉強が楽しくていろんな教授の講義を受けてたな。

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.13 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの