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2016.05.16  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

漫画家を目指して

──後編ではこれまでの人生の歩みを聞かせてください。子ども時代になりたかったものは?

ちえ-近影1

小学生の頃から漫画家になりたいとずっと思っていました。当時から当事者意識が欠けているというか、身の回りで起こる出来事は全部ネタだと思っていて、何事も距離を置いて「これ漫画にしたらおもしろいかな」といつも考えているような子どもでした。

母に漫画家になりたいと話すと「手塚治虫は医者になれるほど勉強したんだから、漫画家になりたければもっと勉強しなきゃ」と言われました。それ以来、ずっと哲学や宗教関係の本を読み、高校卒業後は大学の哲学科の通信コースに入りました。


──学生時代から漫画を描いていたのですか?

作画風景

作画風景

はい。20歳くらいの時に某女性漫画雑誌の漫画賞に応募して、期待新人賞をいただきました。初めて本格的に描いた漫画だったのでとてもうれしかったですね。当時好きだった漫画家は手塚治虫や白土三平など昭和の漫画を作った人たちでした。日本を代表する漫画原作者の小池一夫先生原作の「子連れ狼」も大好きでした。

それで、大好きな作家の元でプロの漫画家を目指したいと思い、小池一夫先生の「小池一夫塾」に一期生として入り、1年間、名古屋から毎週東京に通いました。小池塾では絵のクオリティよりも締め切りまでに決められた枚数の漫画を描くということを徹底的に叩きこまれました。それができない人はどんどん脱落して、最初に60名いた塾生も最後は10名ちょっとしか残りませんでした。私は絶対に漫画家になると思っていたので毎回きちんと課題をこなし、修了しましたが、小池塾が終わった後は漫画を描くのが嫌になったんです。


──それはなぜですか?

ちえ-近影2

小池先生の教えは、まず売れる漫画を決められた期限までに描けるようになることが最優先で、自分が描きたいものはそれができるようになってから描けというものでした。その教えは今なら確かにおっしゃる通りだと思えるのですが、当時は若かったのでとにかく売れることを考えて漫画を描くのが嫌になり、自分が本当に描きたいと思うものを好きなように描きたいという欲求が抑えきれなくなったんです。それで小池塾を修了した後、名古屋にある芸術系の大学に入り直しました。


──やはり専攻したのは絵ですか?

いえ、白黒の2次元の漫画の世界から逃げたかったので、極彩色の映像や立体作品の制作、3次元のパフォーマンスなどに没頭しました。プロはギャラに見合ったものを締め切りまでに創らなければなりませんが、学生は好きなものを好きなように創ればいいのですごく楽しかったですね。

芸大時代のパフォーマンス(左)、鍛金作品(中)、針金アート(右)

ちえ

歌う漫画家 ちえ[本名:宮本千愛(みやもと ちあい)]
愛知県生まれ。流し

大学時代から昭和歌謡のバンドを組んで歌い始める。集英社「YOU」で初めて描いた漫画が期待新人賞を受賞。プロの漫画家を目指し、小池一夫塾に1期生として入塾。漫画制作の技術を学ぶ。修了後、名古屋造形芸術大学短大に入学。24歳の時漫画家デビュー。地元名古屋の情報誌で連載しつつ、広告漫画などを描いていたが、漫画家としてのステップアップを求め、2010年上京。漫画を使った結婚式ムービーや企業紹介ムービーを作る会社で営業を1年経験した後、同業他社へ営業兼登録漫画家イラストレーターとして移籍。ちょうどその頃、ガロ系漫画家・東陽片岡氏に出会い、四谷荒木町で国内の最高齢流しの新太郎氏を紹介される。2012年7月、東陽氏の勧めで新太郎氏に弟子入りし、「しんちゃんちえちゃん」を結成。新太郎氏のマネージャー兼歌う漫画家ちえとして新太郎師匠と一緒に荒木町を流し歩き、演歌歌謡曲を歌ったり、お客の似顔絵を描いたりしている。その他にも「歌」「漫画」「イラスト」「切り紙」など多方面でアーティストとして活動中。ちえさんが作成したLINEスタンプ「流し新ちゃん&ちえちゃん」「流し新ちゃん&ちえちゃんその2」好評発売中。


流し紹介ムービー

  • 『荒木町の新太郎』

  • 『荒木町の夜』

  • 流し以外のバンド活動記録
    youtubeチャンネル

初出日:2016.05.16 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの