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2015.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/林賢一郎

多岐にわたる活動

Share金沢にて

Share金沢にて

──まずは雄谷さんが現在取り組んでいる活動について簡単に教えてください。

大きくわけて「社会福祉法人 佛子園(ぶっしえん)」の理事長と、「公益社団法人 青年海外協力協会」理事長、「日蓮宗 普香山 蓮昌寺」の住職という3つの職務があります。佛子園は「高齢」「障害」「児童」の領域でさまざまな社会福祉事業を行っています。例えば地域のコミュニティの拠点となっている「三草二木 西圓寺」、広い敷地内にさまざまな人が働き、生活できる1つの町「Share金沢」の運営のほか、白山市にある佛子園本部周辺での地域住民の皆さんが共存する町づくりや、輪島市の活性化、町おこしも手がけています。それらすべてに共通する理念は、老若男女、障害のあるなしに関わらずいろんな人が楽しく生き生きと暮らせる町を作るということです。


──なぜそのような多岐にわたる社会福祉活動に取り組むようになったのですか?

その原点は私が生まれた家にあります。私の祖父は日蓮宗 行善寺の住職で、宗教誌の販売をしながら孤児を引き取って育てていました。1960年に、知的障害児の入所施設である社会福祉法人仏子園を開設。私も生まれてから小学校中学年までは施設の中で障害児たちと一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、寝ていました。自分の家族よりも彼らと過ごす時間の方が圧倒的に多いという環境で育ったんです。両親は24時間365日、施設の仕事をしていましたから。

開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた 開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた

開設当時の仏子園。行善寺のお堂を仕切って子どもたちの生活支援をしていた

1部屋に10人くらいで寝起きしていたので、集団生活のいいところも悪いところも見てきました。落ち着きのない子に夜中の2時くらいによく頭を踏まれていたのであまりよく寝られませんでしたね(笑)。そういう環境だったので、集団行動に関しては物怖じしなくなりましたが、一方で疑問も感じていました。

例えば私は毎朝施設から小学校に通っていたわけですが、当時、彼らは学校に行かなくてもよかった。正確に言うと、彼らは障害をもっていることで就学免除という名のもとに授業を受けさせてもらえなかったわけです。障害者がまともに教育を受けられるようになったのは1979年、特別支援学校、いわゆる養護学校の制度ができてからです。それ以降も、養護学校がない地域では障害者は教育の場から排除されてきました。そういう時代が長かったんですよ。

でも小学生だった当時の私はそんなこととは露知らず、どうしてこの子たちは学校に行かなくていいんだろう、うらやましいなあと思っていました。そういう子ども時代を通して、どうして障害児たちは理解不能な行動を取るんだろうとか、たくさんの疑問があったので、その謎を解き明かしたいと金沢大学教育学部に入学して、障害者の心理について勉強しました。卒業したら特別支援学校の先生になる人が多いのですが、当時かわいがっていただいた教授に、「雄谷はどう転んでも先生になるタイプじゃないよな」とよく言われていて、自分でもそう思っていました(笑)。

実家の社会福祉法人は、いずれ継ぐつもりでしたが、まだまだやりたいことは山のようにありましたので、卒業してすぐに継ぐつもりはありませんでした。私は特別支援学校の教員免許を取っていたので、特別支援学級のカリキュラムをゼロから作って学級を立ち上げ、教師として1年半ほど勤務しました。

青年海外協力隊員としてドミニカへ

雄谷良成-近影2

その後、障害者教育のスペシャリストを育てたいと思い、青年海外協力隊に応募しました。当時、応募資格として「障害者施設での経験が5年以上」とされていたのですが、22年と書いて提出しました。するとやはり面接の時に面接官から「君が特別支援学校で勤務したのは1年半ですよね? 22年って何ですか?」と聞かれたので、「生まれてこのかた、朝から晩まで障害者と一緒に生活してきたので22年間と書きました。そこら辺の先生よりも障害者のことはよくわかってるつもりです」と生意気にも答えたら、採用されました(笑)。それから協力隊員としてのトレーニングやスペイン語の研修を受け、さらにメキシコでも訓練を受けた後、障害者教育の指導者を育てる教員として中米のカリブ海に浮かぶ島国、ドミニカ共和国に赴任しました。


──現地では具体的にどのような活動をしていたのですか?

教育うんぬん以前に、やらなければならないことが山のようにありました。私が赴任した学校には椅子も机も黒板などもないばかりか、電気や水など基本的なインフラも整備されていなかったんです。それで、まず学校の敷地を使って生徒や障害者と一緒に鶏小屋を作って鶏を育て、畑を耕してその鶏糞で野菜を作ったり、山で木を伐ってきて椅子などの家具を作りました。その鶏肉や野菜や家具を売ったお金で、電気や水を引いたり黒板を購入したんです。そうやって、受講者に指導らしい指導ができる環境が整うまでに1年半ほどかかりました。


──赴任して一番最初にしたのが養鶏ってすごいですね。

ドミニカには養鶏隊員として来たはずじゃないのに、なぜ私は一所懸命養鶏をしているのかなと思いながらやっていました。そのとき勉強したおかげで、今でも養鶏ができる自信はありますよ(笑)。

雄谷良成(おおや りょうせい)

雄谷良成(おおや りょうせい)
1961年金沢市生まれ。

社会福祉法人 佛子園理事長、公益社団法人 青年海外協力協会 理事長、全国生涯活躍のまち推進協議会 会長、日蓮宗普香山蓮昌寺 住職
幼少期は祖父が住職を務めていた日蓮宗行善寺の障害者施設で、障害をもつ子どもたちと寝食を共にする。金沢大学教育学部で障害者の心理を研究。卒業後は白山市で特別支援学級を立ち上げ、教員として勤務。その後、青年海外協力隊員としてドミニカ共和国へ派遣。障害者教育の指導者育成や農村部の病院の設立に携わる。帰国後、北國新聞社に入社。メセナや地域おこしを担当。6年間勤務した後、実家の社会福祉法人佛子園に戻り、「星が岡牧場」「日本海倶楽部」などの社会福祉施設や、「三草二木 西圓寺」「Share金沢」などさまざまな人が共生できるコミュニティ拠点を作るほか、社会福祉法人としては初めてとなるJR美川駅の指定管理も手掛けている。現在は輪島市と提携して町づくりに「輪島KABULET」取り組んでいる。

初出日:2015.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの