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2015.01.05  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

日本在住25年の理由

──まずはイギリス出身のダイアンさんがなぜ日本に住むようになったのか、その経緯を教えてください。

そもそもの原点からお話すると、私は幼稚園の頃からほんまに外国語を喋ってみたいとか外国に行きたいと思っていたんです。子どもの頃は好奇心がいっぱいでしょう? 父や母によくいろいろな物語の本を読んでもらったり、いろんな国の民族衣装を着ている人形を買ってもらっていたことも影響しているのかも。それで自然と外国への興味が広がり、知らない世界に住んでみたいという気持ちが強くなっていったんだと思います。


──お父さんとお母さんもインターナショナルな方なのですか?

父は伝統的なイギリス人タイプで、アドベンチャーには全く興味がない、落ち着いたマイペースな性格。飛行機にも乗れません(笑)。そもそもイギリスは日本と同じ小さい島国だから外国に行くのはたいへんなことなのです。反対にお母さんは若い頃にヨーロッパを一人で旅行してました。当時ではすごく珍しいことです。アドベンチャー好き。性格もいつも趣味や家事などいろんなことをしてて忙しそうにしてる。だから私はお母さん似ですね(笑)。

世界放浪の旅へ

──日本に来るまではどんな生活を?

小さいころから何かを作るのが好きだったので、アーティストになりたかったんです。ファッションか建物か絵かいろいろ悩んだのですが、グラフィックは幅広くいろいろなものを作ることができるので、リバプールでグラフィックデザインの勉強をしました。学校卒業後もリバプールで少しデザインの仕事をしていましたが、やっぱりデザインの本場はロンドンなので、しばらくしてロンドンのデザイン事務所に移って、グラフィックデザイナーとして雑誌やカレンダー、名刺、ポスターなどのデザインを手がけていました。

大人になっても世界中を旅したいという夢はもっていました。長期で行きたいと思ったら貯金せなあかんから、夜はレストランでウエイトレスの仕事もしていました。そしてある程度お金が貯まった1988年、世界放浪の旅へ出かけました。

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タンザニアのザンジバルにて

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ブラジルのリオのカーニバルにて

──期間やルート、訪れる国など予定は立てていたのですか?

いいえ。どこを回るとか、いつまでとか何の予定も立てず、両親にも「ちょっと行ってきます」とだけ言って、リュックサックひとつで出かけました。いわゆるバックパッカーですね。お母さんは「すぐに帰ってくるでしょう」と言ったけど、お父さんは「ダイアンだから帰ってこないだろう」と言ってました(笑)。私は何も不安はなかったです。

資金が尽きたらオーストラリアやニュージーランドなど訪れた国のあちこちでアルバイトをして、貯まったらまた次の国へ出かけました。

1990年、来日

──日本に来たのはどういった経緯で? それまでは日本に対する興味とか立ち寄る予定はなかったんですか?

全然なかったです。取りあえずオーストラリアまで行ってみて、先のことはそれから考えようと思ってました。

ニュージーランドのスキー場でアルバイトをしていたときにアメリカン人のバックパッカーと友だちになりました。彼女は以前、1年間日本の大阪に住んでたことがあって、「日本は絶対楽しいからぜひ行ってほしい」と言われたんです。でもちょうどその頃、日本はバブル期だったので、バッグパッカーにとっては日本は物価が高い国として有名でした。他のバックパッカーは「日本に行ったらお金がなくなるからやめた方がいい」と言う人もいましたが、彼女は「日本は治安がいいし、日本人はやさしくて親切だから、もしお金がなくなってお腹が空いていても誰かがご飯を食べさせてくれるから大丈夫。行ってください」と強く勧めました。それなら大丈夫かなと思い、1990年、バンコクに行った後、日本に来たんです。


──日本に来てからはどうしたのですか?

私に日本を勧めてくれた友だちが大阪に住んでいたので、取りあえず大阪に行きました。それからヒッチハイクで北海道から四国、九州など日本中を全部回り、大阪に戻って住み始めました。


──なぜ大阪に?

大阪に友だちができたのが大きいですね。最初の何カ月かはアメリカ人の姉妹と3人で大阪のマンションに住んでいました。あと、私は小さい頃から伝統的な物、古い物、アンティークが好きで、大阪なら古い寺院や仏像がたくさんある京都や奈良にもすぐ行けるから大阪がええかなと。

ダイアン吉日(だいあん きちじつ)
イギリス・リバプール生まれ。英国人落語家/バルーンアーティスト。

ロンドンでグラフィックデザイナーとして働いた後、子どものころからの夢だった世界放浪の旅に出る。1990年、旅の途中で友人に勧められ日本へ。たちまち華道・茶道・着物などの日本文化に魅了される。後に華道、茶道の師範取得。1996年、英語落語の先駆者、故・桂枝雀氏の落語会で「お茶子」をする機会を得て落語との運命の出会いを果たす。その巧みな話芸とイマジネーションの世界に感銘を受け落語を学び始め、1998年初舞台を踏む。以来、古典から創作までさまざまな工夫をこらして英語・日本語の両方で国内外で落語を公演。「わかりやすい落語」と幅広い年代に愛されている。また、ツイスト・バルーンを扱うバルーンアーティストとしても活動中。今までに40ヵ国以上を旅した経験談や、日本に来たときの驚き、文化の違いなどユーモアあふれるトークを交えての講演会も積極的に開催。その他、落語、バルーンアート、着物・ゆかたの着付け教室、ラフターヨガ、風呂敷活用術、生け花教室、即興劇などさまざまなワークショップの講師としても活躍中。現在はどこのプロダクションにも所属せず、フリーで活動を行っている。2011年に発生した東日本大震災では被災地で落語やバルーンアートなどのボランティア活動で多くの被災者を励ました。また、これまでの日本と海外の文化の懸け橋となる国際的な活動が高く評価され、2013年6月に公益財団法人世界平和研究所において第9回中曽根康弘賞 奨励賞を受賞。テレビ、新聞、雑誌などメディア出演多数。

初出日:2015.01.05 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの