WAVE+

2014.06.10  取材・文/山下久猛 撮影/早坂(スタジオ・フォトワゴン)

震災後、災害援助チームに参加

──川島先生といえば、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市立本吉病院で地域住民のために奮闘している姿がこれまで何度もテレビや新聞などで紹介されたことでご存知の方も多いと思います。当時の状況を改めて聞かせてください。

当時僕は山形県庄内町の徳洲会系の病院に所属していて、研修のため別の病院に通っていたときに震災が発生しました。徳洲会グループは阪神大震災以降、TMATという災害援助チームを立ち上げ、災害発生時に各地でさまざま活動を行っていたので、研修を中止し、ボランティアの医者としてTMATに参加することにしました。


──なぜTMATに参加しようと思ったのですか?

主な理由は2つあります。1つは医者として被災地のために何かしたいという気持ち。もう1つはテレビで報道されている被災地を自分の目で見てみたいという好奇心に近い気持ちでした。

僕がTMAT本部から気仙沼の本吉病院に派遣されたのは震災発生後1ヶ月くらいの時期でした。本吉地区は、山は激しく削られ、道路は大きく剥ぎ取られ、散乱する瓦礫の中を自衛隊の隊員たちが遺体を捜索していました。その壮絶な光景に大きな衝撃を受け、被災地を自分の目で見てみたいと思っていた気持ちはぶっ飛び、そんなことを思った自分を恥じました。

被災した本吉病院で奮闘

──被災直後の本吉病院はどのような状況だったのですか?

1階部分は天井付近まで押し寄せた津波でめちゃめちゃになっており、院内は当然ながら暖房も入らず、検査機器も使えず、薬もなく、水すら出ませんでした。ですので震災発生から10日目に入院患者全員を岩手県内の病院に移送したのですが、その直後、連日泊まり込みで診療に当たっていた院長が辞職して病院を去りました。ちょうど同じ日にもう一人の常勤医師も不在となったことで、一時は地域で唯一の医療機関(歯科医院を除く)だった病院の存続そのものが危機に瀕していたところ、全国からボランティアが集まり、なんとか存続させていたのでした。

診察は2階で行っていましたが、そんな悲惨な状況の中、大勢の患者さんたちは寒さに凍えながら文句ひとつ言わずに順番を待っていました。その姿にとても感動したのを覚えています。その後、看護師や住民総出で1階を1ヶ月かけて掃除して診療できるようにしたんです。地域に大事にされている病院なんだなと思いましたね。

大地震による大津波に襲われた本吉病院

水が引いた後の本吉病院

津波により壊滅状態となった1階部分。病院のスタッフや住民総出で1ヶ月かけて復旧した

僕が通うようになってからも病院ではジャージや災害援助隊のジャケットを着た医療スタッフが文字通り不眠不休で働いていました。この窮状を目の当たりにして、なんとかせなあかんと思い、勤めていた庄内の病院の上司に頼み込み、病院に通常勤務しつつ、週に1日、金曜日に、庄内から本吉病院に通うことにしたんです。

川島実(かわしま みのる)
1974年京都府生まれ。医師。

京都大学医学部在学中にプロボクサーとしてデビュー。翌年、薬剤師の女性と結婚し、長女をもうける。3年目にはウェルター級の西日本新人王とMVPに輝くと同時に医師国家試験に合格。29歳までプロボクサーとして活躍し、引退後[通算戦歴:15戦9勝(5KO)5敗1分]、自給自足の生活に憧れ、和歌山県の農村に移住。その後京都府、沖縄県、山形県で医師として経験を積む。山形県庄内町の病院で勤務中の2011年3月、東日本大震災が発生。災害医療チームのボランティア医療スタッフに志願し、山形から毎週末、片道4~5時間かけて宮城県気仙沼市立本吉病院へ通う。気仙沼市からの強い要請で2011年10月、本吉病院の院長に就任。妻と4人の子どもたちを山形に残し、単身赴任開始。2014年3月、本吉病院を退職。現在はフリーランスの医師として週に1回程度本吉病院に勤務。これまでの活動が注目を集め、「情熱大陸」などのテレビ番組出演や新聞・雑誌などのメディア掲載多数。

初出日:2014.06.10 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの