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2014.03.17  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

国内大手の印刷会社から築地の世界へ

──河野さんは元々水産業界の人間ではなく、印刷会社という全くの異業種から築地の世界に入ったとのことですが、現在の仕事・活動をするに至ったこれまでの経緯を教えてください。

僕は大阪生まれの大阪育ちで、就職を機に上京しました。就職先は大日本印刷という総合印刷会社だったのですが、最初から印刷業界に強い関心があったわけではありません。大学も理工学部建築学科ですし。ふとしたきっかけで興味を持ち調べていくうちに印刷だけではなく多岐にわたる事業を手がけていたのでおもしろそうだなと思ったのが志望動機です。

23歳で入社して35歳で退職するまでの12年間、営業、企画、開発などあらかたの仕事を経験しました。毎年仕事の内容が違うのでおもしろかったですね。仕事をゼロから作るということも何度も経験し、手がけた仕事で億単位の売り上げを上げていたのでやりがいもむっちゃありました。


──それなのになぜ魚の世界に?

ちょうど35歳になった日、僕の妻の父親、つまり僕の義父から電話がかかってきました。おめでとうのメッセージとは思えないし何だろうと思って話を聞くと、「竜太朗、築地で魚屋をやらないか」と。突然の話でびっくりしましたが、義父の経営する会社の秘書の実家が尾辰商店で、跡継ぎがいないから廃業すると家族会議で決まった。でも潰すのはもったいないから、跡継ぎにならないかという話だったんです。


──そのときはどんな気持ちだったのですか? 印刷会社での仕事はおもしろかったから辞めるのは嫌じゃなかったのですか?

確かに仕事はおもしろかったし、やりがいも感じていました。最初は「なんで俺なん?」とも思いましたが、そもそも僕は小学校6年生の卒業文集に「将来は大企業の社長になる」と書いていて、印刷会社に入社後も毎年人事に提出する書類に1年目から「40歳までに役員」と書いていたくらい、経営者になるのが人生の夢やったんですね。それに尾辰商店は明治元年創業の老舗の鮮魚仲卸店だし、築地場内で商売する権利ってなかなか取得できないようなので、確かに潰すのはもったいないと思いました。

でもすぐに引き受けたわけじゃなくて、築地のことも魚屋のことも全く知らなかったので、1ヶ月間、毎週土曜日に築地に見学に行きました。働いている人の中でも自分は若い方だったのでこの世界でも勝てるんちゃうかなと感じました。また、築地もメディアに頻繁に取り上げられてるほどおもしろい場所ですし、しばらく修行させてもらって将来的に尾辰商店の社長になったら、めっちゃおもろくなるかも。そう思って、よっしゃ、一人で築地に飛び込んだろと2004年に大日本印刷を退職して尾辰商店に入ったというわけです。

生活スタイルが真逆に

──印刷の世界と魚市場の世界は全く違うと思うのですが、違和感はなかったのですか?

もう最初からすんなり馴染めました。築地の人たちってめちゃめちゃやさしいんですよ。僕も毎日関西弁でしゃべってるからツッコミも多いし(笑)。築地のみなさんがとても仲良くしてくれました。

活気あふれる築地市場

──しかし市場の仕事は朝が早いですよね。生活スタイルが激変するのはつらくなかったのですか?

確かに最初のうちは夜中の1時頃に起きて2時に出勤してましたから、朝が早いのはしんどかった。サラリーマン時代とは生活が真逆で、その時間はまだ飲んでる日も少なくなかったですからね(笑)。

でもそれ以外は何の問題もなかったです。印刷会社に勤めているときは常に10から15くらいのプロジェクトが同時並行的に走っていて仕事の切れ目がなく、ひとつ納品しても別の会議が山ほど待っているという生活でひと息つけるということがなかった。それが築地の仕事は昼頃に魚を冷蔵庫にしまったら終わりでそれ以降の10時間ほどは自由な時間。慣れさえすればつらいどころかむっちゃ楽しかった。昼間に英会話を習いに行ったりジムに通ったり、当時はまだ子どもが幼かったので保育園に迎えに行ってその帰りに買い物して家で夕飯作って嫁はんの帰りを待って、一緒に夕飯食べて何にもなければ20時くらいには寝るみたいな。そんな生活だったのでなんていい仕事なんだろうと(笑)。

まずは魚の名前を覚えるところから

──修行に入って、具体的にはどんな仕事から始めたのですか?

さまざまな鮮魚が並ぶ尾辰商店

魚屋は魚の名前を知らなければ話にならないので、まずはそこから始めました。2時に築地の店に出社して当時の尾辰商店の社長にくっついて社長が買っている魚をひたすらメモしながら覚えました。鯵や鯖ひとつとっても何種類もあるので、最初はたいへんでしたね。社長はほとんど何も教えてくれないので自分で覚えるしかなかった。

河野竜太朗(こうの りょうたろう)
1969年大阪府生まれ。築地仲卸尾辰商店五代目当主/リフィッシュ事務局長

近畿大学理工学部建築学科卒業後、国内大手の総合印刷会社、大日本印刷株式会社へ入社。営業、開発、企画などを経験後、2004年、35歳のとき築地で鮮魚の仲卸を営む尾辰商店に転職。2006年法人化し株式会社尾辰商店代表取締役社長に就任。経営の多角化に乗り出し、千葉そごう、横浜そごうに鮮魚と惣菜の販売店「つきすそ」を開店。2013年11月には銀座に魚料理店「銀座 尾辰」を開業。経営者として辣腕をふるう一方で、水産庁の上田氏が代表を務める有志の団体「リフィッシュ」の事務局長や日本全国の仲買人をネットワークしている「鮮魚の達人」の東京担当を務めるほか、リフィッシュ食堂の運営(現在は一時休業中)など、「魚食で世界制覇」という野望を胸に魚食文化の発展と啓蒙活動に取り組んでいる。「キズナのチカラ」「夢の食卓」「ソロモン流」などテレビ出演多数。

初出日:2014.03.17 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの