WAVE+

2016.06.13  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

日本設計事務所を設立

池田武邦-近影04

──その後池田さんはご自身の会社を設立しますが、その経緯は?

山下(寿郎設計事務所)にいた時は大規模プロジェクトのコンペをけっこう取ったから、えらく重用されてね。41歳のときには取締役に就任したりして、段々会社の中心的人材になっていった。でも山下社長が引退してから雲行きがあやしくなってきたんだ。その後、社長に就任した社長の娘婿とことあるごとに衝突していたらある日「池田くん、会社から出て行ってくれ」と言われた。クビになっちゃったんだ。

そしたら当時200人いた社員中、107人が「池田が辞めるなら僕も辞めるよ」と辞表を提出。その中には当時の副社長や専務もいたんだよ。その副社長に「新しく設計会社を作って社長になってください」とお願いして1967年にできた会社が日本設計事務所(後の日本設計)。僕も創立メンバーの1人なんだけど、今では日本国内だけではなく、世界的な設計会社にまで成長している。だから僕を追い出した当時の社長には感謝してるんだ。僕の恩人だよ(笑)。


──なぜ日本設計事務所という社名に?

ズームアイコン

日本設計事務所を設立した頃の池田さん

ちょうど会社を追い出される前の正月にね、書き初めで「日本」って書いたんだ。そしたらすぐクビになったから「日本設計」にしたというわけ(笑)。そもそも個人の名前を会社名にするようなことは絶対にしたくなかった。人間の細胞は毎日入れ替わり、数ヶ月から半年で全部新しい細胞になるといわれているけれど、その人の心、精神は変わらないでしょ? それと同じようにいろんな人が入れ替わり立ち替わりで働く人は変わっても、会社の理念はずっと変わらない。企業ってそういうもんじゃないかと思っていたからね。

日本初の超高層ビルを設計

──池田さんは日本初の超高層ビルである霞が関ビルを設計した方としても有名ですが、どのように設計したのですか?

池田武邦-近影05

霞が関ビルは山下にいた時代から設計チーフとして関わっていたんだけど、会社を追い出されて日本設計を設立してからもクライアントの三井不動産から、「実質的に設計をやっていたのは池田さんたちだから日本設計の名前で引き続き担当してくれ」と頼まれたんだ。

超高層ビルの設計はやっぱりね、これまで誰もやったことのないことをやろうってんだから、楽しくて仕方がなかったね。新しいことだし、これ以上クリエイティブなことはなかったからね。


──でもこれまで誰もチャレンジしたことのないプロジェクトだからこそかなり困難だったのでは?

いやあ、さっきも言ったけど、失敗したって殺されるわけじゃないからさ(笑)。戦場のつらさと今の仕事のつらさなんて次元が違うんだよ。ただね、やっぱりこれまでになかったものを作るんだから、全く新しい発想が求められたのは確かだね。


──例えばどのような発想ですか?

まず大勢の優秀な人材がその能力を最大限に発揮できるような環境を作った。その時、海軍時代の経験が生きたんだ。僕が乗っていた矢矧はすごくいい船で、艦長は普段はでんとかまえて、細かい仕事は僕たち若い士官に任せて自由にやらせてくれた。そのかわり、いざというときは艦長が全責任を負ってくれる。そういうスタイルだったから、若者が失敗を恐れずどんどん意見を出して、それが採用されてたんだよ。そのやり方をそのまま霞が関ビルを設計する時に実践したわけ。

それから、今までの設計事務所はトップに先生がいて、その下に弟子がいるという徒弟制度だったから、弟子は先生の発言には絶対服従が鉄則だった。だけど霞が関ビルのような日本初の超高層ビルは1人の先生のアイディアで全部設計するのは到底不可能。だから全く新しい方法でやったんだよ。


──具体的には?

部下の話に常に耳を傾けていた池田さん(写真左)

部下の話に常に耳を傾けていた池田さん(写真左)

まずは、議論の場に建築以外のいろんな分野の専門家を集めて、建築家では出せない知恵を自由に出してもらったんだ。その時、意見を否定しないというルールを作った。いいものを創ろうと思ったら、どんなにつまらない意見でも絶対に否定しちゃいかん。その意見の裏には必ず理由があるわけだ。その理由を聞き出して、可能性のあるものは全部採用するというやり方を取った。だから、新人もベテランもみんな対等の立場にして、誰が言ったかではなく、どういう意見かを重視した。そのために、座席を決めちゃうと序列ができるから、床の上にみんなで車座になってさ、あぐらをかいてディスカッションする。そういう環境を作ったわけ。設計のプロセスそのものがこれまでとは全然違ったんだな。

それ実はね、アメリカの戦術なんだよ。例えば日本海軍の神風特攻隊の攻撃に対してアメリカ海軍の船をどう守るかを議論する時、軍人じゃなくて、物理学者や音楽家などおよそ海軍の専門家とは思えないような人たちをたくさん集めた。そしてグループにわけて自由に意見を出させ、まったくの素人の意見なのに否定をせずに、いいと思う意見をどんどん採用した。その中で実戦で採用されたのが船の周りに弾幕を張るというアイディア。それで日本の特攻機が随分やられちゃった。そういうことを戦後、いろんな文献を読んだ中で知ってこれは使えるなと。この手法を「グループダイナミクス」というんだけど、それを超高層ビルを設計する時に採用したわけ。

そうして造り上げたのが霞が関ビル(1969年竣工)であり、京王プラザホテル(1971年竣工)であり、新宿三井ビル(1974年竣工)なんだよ。それ以降、超高層ビルが全国の都市部に林立していった。だけど、僕の造る超高層ビルはあくまでも手段であって目的ではないんだ。

超高層化の真の目的

池田さんが設計した新宿三井ビルの足元には豊かな緑が広がっている

池田さんが設計した新宿三井ビルの足元には豊かな緑が広がっている

──どういうことですか?

東京は土地が狭いから横に広い建物をたくさん建てたら緑が失われてしまう。だからたくさんの人が居住したり働いたりするスペースを確保するには上へ上へと伸ばすしかない。その空いたスペースに緑を植えてきたんだ。言い換えれば超高層化することで僕らは大地の上に緑を獲得できた。つまり、超高層ビルの真の目的は東京の真ん中に緑をたくさん作ることなんだ。それは僕が設計した超高層ビルの足元を見ればよくわかる。新宿三井ビルの足元には木々がたくさん生い茂っているでしょ? 京王プラザホテルから続くあの周辺一帯を豊かな緑にして、今も都民の憩いの場になっている。みなさんも超高層ビルに行くときはぜひ足元を見てほしいね。

本当は東京都庁も含めてもっと広大な緑を作りたかったんだけど、設計コンペで丹下(健三)さんに取られちゃってね。もし僕のプランが採用されていたら、京王プラザホテルと新宿三井ビル、そして東京都庁を結んだ区画は世界に冠たる緑豊かな超高層街区の町になっているはずだよ。本当に残念なことだよね。

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.13 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの