WAVE+

2016.06.13  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

設計事務所に就職

──卒業後の進路は?

池田武邦-近影03

大学3年生の夏休みに某大手ゼネコンの建設現場に実習に行ったんだけど、非常に軍隊に似てるなと感じた。建設現場でゼネコンの若い社員が中年の職人をあごで使っているのが、海軍で士官が兵隊さんを使うのと同じような感じだったんだ。要するに職人の使い方がヘタなんだよ。職人が気分を害するような指示の仕方を大学出の若手がやってたわけ。こっちは元海軍だからさ、そういう兵隊さんの使い方はよくわかってるから僕の方が絶対にうまくできるなと思った。それでゼネコンへの興味が一気になくなったんだ。


──どうしてですか? 普通はうまくできると思ったら、その会社に入って簡単に上を目指せると思うのでは?

いや、命を懸けて国のために尽くした海軍で働けなくなったんだから、次は同じ国のためでも、自分の全く知らない新しい分野で仕事がしたいと思ったんだ。だから簡単にうまくできるなと先が読めちゃう会社には興味をもてなかったわけ。

とは言っても建築界のことは全然知らないから、同級生に相談したら「山下寿郎設計事務所なら知ってるから紹介できるよ」というので彼の紹介で挨拶に行ったんだ。もちろんその設計事務所がどんな会社かも全然知らなかったんだけど、その日に「明日からいらっしゃい」と言われて入社することになった。当時は就職なんてそんなもんだったんだよ。それで1949年から山下寿郎設計事務所で働き始めたってわけだ。


──未知の世界で実際に働いてみてどうでしたか?

設計の仕事は楽しかったよ。クリエイティブだったからね。それにいろんな案を出すと社長がどんどん採用してくれる自由な雰囲気の会社だったしね。ずいぶんたくさんのコンペでプレゼンしたけど富山市庁舎や、福島県庁舎、岩手県庁舎、NHK放送センター、日本興業銀行本店などを勝ち取った。だいたいコンペの半分は取れてたから5割打者だったんだ。

山下寿郎設計事務所35周年パーティーにて(前から3列目左から2人目が池田さん)

──すごい勝率ですね。そのために努力したり工夫したことは?

入社5年目の昭和28(1952)年、29歳で中条久子さんと結婚

入社5年目の昭和28(1952)年、29歳で中条久子さんと結婚

特別努力したなんてことはないなあ。しいて言うなら、会社の仕事が終わると東大の建築学の教授の研究室にしょっちゅう通って勉強してた。建築が好きだったんだな。その時研究してたのはモジュラーコーディネーション。例えば机の高さを決めるときに何センチにすればいいかなんてなかなか決められなかったんだけど、人間の体を基準にすれば簡単にできると思って、各部材の寸法を日本人の標準寸法に合うようにモジュールで区切る方法を編み出したんだ。それを教授が学士論文にしてみればどうかと言うから論文を書いて提出したら博士号が取れたんだ。それがその後日本の建築界では一般的になって、今もみんな設計するときに使ってるんだよ。


──池田さんが日本の建築の標準を作ったわけですね。

その当時はまだ戦後間もない時代だったからね、そういう発想が全くなかった。僕は元海軍で建築のことを全然知らないから、建築界の在来の因習にとらわれず、全く新しい発想で考えることができたんだ。


──昼間もものすごく忙しかったと思うんですが、その後、夜も勉強してたなんてすごいですね。

その頃はエネルギーがあり余ってたからね(笑)。だって海軍時代は徹夜で何日も戦闘していたわけだから、それに比べりゃ楽なもんだよ。それに普通にしてれば殺されないでしょ?(笑)。油断したって殺されないもん。戦争中はね、ちょっと油断したらバンて殺されちゃう。やっぱり殺されないってことはね、大きいですよ(笑)。平和ってのはありがたいと思ったね。

ちなみに戦後、戦争映画を観たんだけど全く違うんだよね。確かに画面は似てるんだけど映画館では弾は飛んで来ないでしょ。安全だもんね。それと匂いね。血や煙硝の匂いがしない。実戦と映画ではこういう差があるのかと思った。当然だけどね(笑)。


──では仕事でつらいと感じたことはないのですか?

建築って巨額のお金が動くから設計の受注が取れると取れないのとじゃ大違い。会社の経営にも大きく影響を及ぼすからから、コンペのチーフは責任重大なわけだ。毎回チーフとしてコンペに臨んでいたんだけど、いっとき顔面神経麻痺になっちゃったからね。自分では無自覚だったけど深層心理では重いプレッシャーを感じてたんだろうね。

やっぱり平和に慣れちゃうとね、平和の悩みが出てくるの(笑)。そんなときには部屋に貼ってた、沖縄海上特攻で火だるまにされる矢矧の写真をよく見てた。眺めてるとどんなにつらくても殺されるわけじゃないからどうってことないなと思えてくる。そして気持ちが軽くなって闘志が湧いてくる。こういうところは戦争を体験してるかしてないかで随分違うだろうね。

池田さんが部屋に飾っていた、米軍の猛攻にさらされる矢矧の写真

池田さんが部屋に飾っていた、米軍の猛攻にさらされる矢矧の写真

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.13 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの