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2016.01.12  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

高1で中退

川崎直美-近影1

──今回は川崎さんがこれまでどのような道のりを経て、現在のライフスタイルに至ったのか、人生の歩みを聞かせて下さい。

私は兵庫県川西市で生まれたんだけど、4歳の時に神戸に引っ越して、小学校から中学に行くときに母に言われるがまま、中高、大学、大学院もある、いわゆる私立のお嬢様学校に入学しました。中学生になってデザイン関係の仕事がしたいと明確に思うようになって、どうせやるなら一流を目指したい、そのためにまず京都芸術大学に入りたいと思ったんだけど、今通っている学校じゃ絶対受からないから高校から公立へ行きたいと思ったの。でも親と先生に言ったらびっくり仰天、そんなことは絶対許さないと大反対されました。私もあきらめられないから、親と先生と何度も話し合った結果、その学校の高等部には京都芸術大学出身の美術の先生がいるから、その先生に教えてもらって芸大を受ければいいと説得されて。その時はしょうがなくそれでもいいかなと思ってそのままその学校の高等部に上がりました。

放課後にその先生に絵を教えてもらったりもしたんだけど、段々親と先生にだまされたんだという思いが強くなってきて、2学期からは学校に行かなくなってそのまま退学したの。


──かなり意思の強い子どもだったんですね。

そもそも体質的に反体制派なんでしょうね(笑)。学校も嫌いだったし、組織や団体に強い違和感をもってたんだよね。あくまでも個人主義。中高時代は映画が大好きで学校をサボって映画ばっかり観てました(笑)。あと当時はアメリカのヒッピー文化全盛期でもろにその影響を受けました。自由でいいなあと(笑)。

運命を変えた大阪万博

──退学後はどうしたのですか?

川崎直美-近影2

喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしたり、ディスコでゴーゴーガールをやったり、今でいうフリーターのような生活をしてました。当時はものすごい学歴重視の時代で、高校にも大学にも行かずに社会的に成功するためにはどうすればいいんだろうと考えていたけど、なかなかいいアイディアは見つからず、そんなアルバイト生活を2年くらいしていたある日、インド人の知人に誘われて、大阪万博でギフトショップの売り子のアルバイトをやることにしたの。

大阪万博の会場にはいわゆるヒッピートラベラーたちがいっぱい来ていたんですよ。当時は海外旅行に行けるなんて、すごいお金持ちだけだと思っていたけど、彼らはバックパックとビーサンで世界中を旅してたから、なぁ〜んだ、こんなふうにすれば、誰でも簡単に行けるんじゃんとわかった。私も世界中を回って日本にはない美術系の知識や技術を身につけて帰ってくれば、高校中退でも一流になれるかもと海外に出たいと思ったのね。もちろんそれ以外に、とにかく違う世界が見たかった。万博でいろんな国の人に出会って、日本にいるだけだと全く知らない世界があって、そういう違う文化や常識、全然違う生活環境を体験したかったんだよね。

大阪万博で働いている内に、スカンジナビアン・パビリオンでコンパニオンをしていた26歳のスウェーデン人の女性と知り合って友だちになりました。彼女は私の人生の中ですごく大きな転機を与えてくれた人なんだよね。大阪万博が終わった後、彼女はまっすぐスウェーデンに帰るのがもったいないから日本からスウェーデンまで旅をしながら帰るつもりだと言ってたから、これは絶好の機会だと思って、私も一緒に行きたいんだけどいい? って聞くとOKよと。それで、私も5年くらいかけて世界を一周しようと思ったのね。

当時日本から持ち出せる金額の上限が1000ドル(1ドルが360円の時代)だったんだけど、私は800ドルしか持っていなかったからもう少し働いてあと200ドル貯めようと思ったの。だから彼女には先に日本を出発してもらって、1971年4月25日の正午にネパールの首都のカトマンズのモンキーテンプルで会おうと約束したわけ。そして3月25日、私も突き動かされるように日本を出発したんだよね。でも、香港まで船で渡ったとき、彼女が私の実家に送った手紙が転送されてきたの。その手紙には彼女の夫が病気で入院しているからまっすぐスウェーデンに帰ることにしたと書かれてあったのね。

世界一周のはずが...

川崎直美-近影3

カトマンズまで何とか行けば彼女と2人だから安心してヨーロッパまで行けると思っていたのに、香港で1人ぼっちになっちゃった、どうしようと思ったんだけど、逆に考えれば決められた時間に特定の場所に行かなくてよくなったのだからもう自由なわけだよね。好きなときに好きな場所に行けると。だから行く予定はなかったけどフィリピンに行った後、彼女に素晴らしいところだから絶対行きなよと言われていたバリに行ったの。そうしたら人生観が変わるほどの衝撃を受けちゃった。

そもそも日本を出てユーラシア大陸に渡って陸路でヨーロッパに着く頃にはお金がなくなるだろうから、旅をしながら働いてお金を貯めて、その後アメリカに渡ってというふうにだいたい5年くらいかけて世界一周しようと思ってたのね。さっきも話した通り、その間に美術系の技術や知識を身につけたり、何かやりたいことに出会えるかもしれないと思っていたんだけど、5年どころか5ヶ月も経たない内にバリにハマって、もうどこにも行かなくていいってなっちゃって(笑)。


──バリのどういうところにそんなに惹かれたのですか?

やっぱり人と文化だろうね。何ともいえない純粋でのんびりした感じがよかった。もちろん海もきれいだし、今よりも豊かな自然が残ってたしね。それと、バリ特有のヒンズー教の習慣かな。毎日何回も行われる小さな儀式から年に数回の大がかりな祭まで、ふんだんに花を使ったお供え物やココナッツの葉っぱなどで作るお飾り、インセンスの香り、きらびやかな衣装、ガムランとバリダンスなどで彩られていました。こういうのが大好きなんです。ガムランを聴くと魂が喜んじゃう感じ。DNAの奥深くに組み込まれているモノが響き出す感じ。

今でこそバリは世界屈指のリゾート地で日本からも移住している人が多いけど、当時は全然観光地じゃなくて、電気もガスも水道も何もない時代。だから朝起きたらまず水浴びをして、井戸で水を汲んで洗濯をする。これがけっこうな重労働。だからなるべく少ない水できれいに洗える工夫をする。こうやって水も労働して手に入れるということを、身をもって知りました。そしてこういうことこそが本来の人間としての暮らしなんだなと。スイッチ一つで火や電気がついたりすることの方がおかしいんだとすごく感じたの。100年前にタイムスリップしたみたい。不便でたいへんなんだけど、それが逆に感性を豊かにするんだよね。

川崎直美(かわさき なおみ)

川崎直美(かわさき なおみ)
1951年神戸市生まれ。レパスマニス店主/地域活動家

神戸に暮らしていた10代は、ヒッピー文化の影響を受け自由な生き方にあこがれる。16歳で高校中退後、アルバイト生活。大阪万博のアルバイトで知り合ったスウェーデン人の女性に触発されて20歳のとき世界一周の旅へ。途中で立ち寄ったバリにハマり、バリを拠点に生活スタート。23歳のときタイで出会ったアメリカ人男性と恋に落ち、24歳で娘を出産。生活拠点をハワイに移し、バリとハワイを行き来する暮らし。28歳のときパートナーと離別、日本に帰国。様々なアルバイトを経験後、東京で外国人タレントのマネジメント事務所で働くようになる。計2社で約4年勤務した後に自ら外国人タレントのマネジメント事務所を起業。バブル景気に乗り、大成功を収めるも、12年経営した後に廃業。1994年単身、アメリカに渡り古い中古車を購入し、中西部のネイティブアメリカンの土地をめぐる。半年間で1万6000キロを走破。帰国後は逗子に移住。渋谷に自然生活雑貨店「キラ・テラ」を開店。2年後、大手自然食材企業に吸収、社員となり、横浜の店で勤務。12年勤めた後、退社。地域活動にのめり込む。2011年に葉山に移住、自然生活雑貨店「レパスマニス」開店。現在はレパスマニス店主を務めるかたわら、葉山町をみんなが暮らしやすくする町にするために様々な活動に尽力中。

初出日:2016.01.12 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの