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2014.08.04  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

全盲でありながらクラス担任に

──新井先生は今年(2014年)4月、全盲でありながら普通中学校のクラス担任に23年ぶりに返り咲いたわけですが、そのときの気持ちはいかがでしたか?

6年前にこの長瀞中学校に国語教師として着任して以来、また担任をしたいと思っていたので、それはうれしかったですよ。両目がまったく見えないので着任当初は授業をするだけで精一杯でしたが、徐々にまたクラス担任をやりたいという欲が出てきたんです。確かに担任はたいへんなことも多いですが、喜びもまた大きいですからね。


──現在はどのような毎日を過ごしているのですか?

自宅は学校から4駅離れた場所にあるのですが、盲導犬と一緒に毎日電車に乗って通勤しています。平日は朝から夕方まで授業、その後、文化部の顧問として部活動を行っています。文化部はパソコンの使い方を勉強したり、テーマを決めて調べ学習を実施したりする部で、私が顧問になってからは点字を教え始め、絵本に点字を打って特別支援学校塙保己一学園に届けるという活動もしています。また、学校農園で野菜を栽培したりもしています。要するに何でも屋ですね。部員は現在18人ほどです。

授業の後、部活動をやって、学校を出るのがだいたい19時から20時くらいですかね。自宅でもパソコンで授業用の文書を作ったり点字で教科書を読む練習をしたり、録音した音声を聞くなど、いろいろ作業をしています。自宅で仕事をするのは昔からやっていたのでそんなに苦ではありません。基本的に好きな仕事ですからね。

新井先生が勤務する長瀞中学校の掲示板

ある日突然右目の視界が奪われる

──新井先生の教師としての歩みを教えてください。

中央大学を卒業して、1984年、23歳のときに東秩父中学校の国語教師になったのがスタートですね。その翌年、秩父第一中学校に異動して、同校の音楽教師と知り合って結婚しました。その翌年の1987年、横瀬中学校に異動して、初めて3年生のクラス担任となり、部活動でもサッカー部の顧問として子どもたちとグランドを駆けまわっていました。さらにこの年に長女も誕生して、まさに教師として、ひとりの人間として怖いものなしの絶頂期でした。そんなとき、突然右目が網膜剥離になってしまったのです。


──そのときの状況は?

飛蚊症というのですが、ある日突然、目の前に虫がたくさん飛ぶのが見えたんです。おかしいな、なんだろうなと思っていたら、翌日には右目の視界の上から3分の2ほどが暗幕が降りたような感じで真っ暗になってしまった。つまり下の部分の3分の1しか見えていない状態ですね。


──網膜剥離って日常生活で突然なってしまうものなのですか?

スポーツや事故などで頭部や目に大きな衝撃を受けて網膜剥離を発症する人が多いのですが、私はそういうこともありませんでした。ただ、元々強度の近視だったのでコンタクトレンズで矯正していましたが、車の運転や運動を含め、日常生活には何の支障もありませんでした。でも医師によると、強度の近視というのは眼球のレンズと網膜との距離が遠くなり、網膜が引っ張られて張り裂けそうになっている状態。たとえていうなら体のサイズよりもかなり小さいピチピチのシャツを着ている状態で、いつ破けてもおかしくなかった、起こるべくして起こってしまったということでした。それから治療のため入院と手術を繰り返しましたが、結局右目は失明してしまいました。

新井淑則(あらい よしのり)
1961年埼玉県生まれ。埼玉県長瀞町立長瀞中学校教師

大学卒業後、東秩父中学校に新任の国語教師として赴任。翌年、秩父第一中学に異動し音楽教師だった妻と知り合って結婚。初のクラス担任やサッカー部の顧問を務め、長女も生まれた絶頂期の28歳の時に突然、右目が網膜剥離を発症。手術と入院を繰り返すも右目を失明し、32歳のとき特別支援学校に異動。34歳のとき左目も失明し、3年間休職を余儀なくされる。一時は自殺を考えるほど絶望したが、リハビリを通して同じ境遇の人たちと出会ったことなどで前向きに。視覚障害をもつ高校教師との出会いを機に、教職への復帰を決意し、36歳のとき特別支援学校に復職。その後、普通学校への復帰を訴え続け、支援者のサポートもあり46歳で長瀞中学校に赴任。盲導犬を連れて教壇に立つ。2014年4月、52歳でクラス担任に復帰。全盲で中学校の担任を持つ教師は全国でも初。著書に『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』(マガジンハウス)』がある。

初出日:2014.08.04 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの