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2014.08.04  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

青天の霹靂

このときはまさに青天の霹靂というか、信じられないという気持ちでしたね。網膜剥離になる前は病名すら知らなかったので、かなりショックでした。そのせいでクラス担任からもサッカー部の顧問からも外されてしまいました。当時は教師という仕事に大きなやりがいと喜びを感じていたので、もう二度とクラス担任として子どもたちと感動を共有できないのか、もう二度とサッカー部の部員たちと自由にグラウンドを駆けまわることができないのかと思うととても悲しかったです。

さらに発症から4年後には埼玉県立秩父養護学校(現特別支援学校)に異動となりました。私は当時片目で車も運転できたし、授業だって十分やれると思ったのですが、手術と入院を繰り返すたびに学校を休まざるをえなかったので学校側から異動を余儀なくされたのです。不本意でしたが、やむを得ずという感じでしたね。

埼玉県立秩父養護学校に異動して3年目に左目も網膜剥離を発症してしまいました。片目だったこともありさらに負荷がかかったんでしょうね。入院して半年間のうちに6回手術をしたのですが視力は戻らず、とうとう両目が完全に失明してしまい真っ暗闇の世界となってしまいました。

死ぬことしか考えられなかった

──このときの気持ちは私たちには想像もつきませんがかなりショックだったでしょうね。

まさに奈落の底ですよね。生きていてもしょうがないと思い、当時入院していた病院の7階の部屋から飛び降りようと何度思ったことか......。退院して家に戻ってきても毎日ふとんから起き上がることすらできずにただただ泣いて暮らしていました。仕事のことはもちろん、家族や子どもたちのこともまったく考えられませんでした。自分のことしか考えられなかった。頭にあったのは死ぬことばかりです。でも目が見えなければ死に場所さえ自分で選べない。そこまで自力では行けないわけですから、すべてのことに絶望していました。


──まさに想像を絶する絶望ですね......そこからどう立ち直ったのですか?

最初のきっかけは、半年間、泣き続け、悩み続け、疲れたというのが正直なところですかね。もうこれ以上落ちるところはないという底の底まで落ちたらもう這い上がるしかないですからね。そんなとき、妻が引き会わせてくれた視覚障害者の鍼灸師の勧めで、所沢にある国立身体障害者リハビリテーションセンターでリハビリを受けるようになりました。当時は早く仕事に就くために、などというレベルではなく、子どもも3人もいるし、せめて身の回りのことだけでも自分でできるようにならなきゃなというくらいの思いでした。

でもこれが結果的にすごくよかった。それまで家に引きこもっていたときは、こんな不幸な人間は自分だけだと思っていたのですが、リハビリセンターには私と同じような境遇の、ある日突然障害を負って見えなくなってしまった人がたくさんいて、彼らと出会って話すことでつらいのは自分だけじゃないんだ、私も彼らみたいに頑張ろうと、前向きな気持ちが芽生えてきました。これが立ち直りへのひとつの大きな転機となりました。

新井淑則(あらい よしのり)
1961年埼玉県生まれ。埼玉県長瀞町立長瀞中学校教師

大学卒業後、東秩父中学校に新任の国語教師として赴任。翌年、秩父第一中学に異動し音楽教師だった妻と知り合って結婚。初のクラス担任やサッカー部の顧問を務め、長女も生まれた絶頂期の28歳の時に突然、右目が網膜剥離を発症。手術と入院を繰り返すも右目を失明し、32歳のとき特別支援学校に異動。34歳のとき左目も失明し、3年間休職を余儀なくされる。一時は自殺を考えるほど絶望したが、リハビリを通して同じ境遇の人たちと出会ったことなどで前向きに。視覚障害をもつ高校教師との出会いを機に、教職への復帰を決意し、36歳のとき特別支援学校に復職。その後、普通学校への復帰を訴え続け、支援者のサポートもあり46歳で長瀞中学校に赴任。盲導犬を連れて教壇に立つ。2014年4月、52歳でクラス担任に復帰。全盲で中学校の担任を持つ教師は全国でも初。著書に『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』(マガジンハウス)』がある。

初出日:2014.08.04 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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