「三方よし」を大事に
──企業理念、経営者としてのポリシーを教えてください。
創業時から一貫している、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」の概念を特に最近、意識しています。経営者の使命としては、会社を上手に経営して利益を出すというのが大前提としてあるのですが、結局自社だけが儲かっても長続きしないですよね。ですので、取り引き先含め、みんなが幸せになる商売をすることで、地域の中で愛され、必要とされ、存在自体が喜ばれるような会社でありたい。規模拡大よりも、この地域の人たちにお金が循環するというか、ハッピーだと思ってもらえるような経済状態を作りたい。多くの人から関美工堂のおかげでこんな楽しい仕事、おもしろい仕事、難しい仕事ができているとか、人生が楽しくなると言われるような、地域の中でかけがえのない企業を目指したいと思っています。
──地域に愛される会社とは具体的にはどういう会社ですか?
そこにあるのが当たり前で、なくなったら困るという空気のような会社ですね。それは経済的な面だけではなくて、文化的活動など、その地域の将来のために貢献できる会社、ここでビジネスをする意義を地域の人々に認めてもらい、精神的にも必要とされるような会社でありたいと思っています。
会社の経済的規模の拡大には全く興味はないです。とはいえ、お客様のニーズにしっかり応えられるだけの商品を作らねばならないと思っています。ノダテマグは1つひとつが職人の手仕事で、大量生産ができないので品薄になりがちなんです。この点は会社としての課題で、もっと努力しなければと思っています。木地の生産量がネックですが、それが克服できればより多くのお客様の需要に応えられるし、それだけの量の塗の仕事を地域の職人たちに回すことができますからね。
──なぜそれほどまでに地域にこだわるのでしょう。
従来の資本主義に限界を感じているからでしょうか。戦後の日本は幸せになるために、経済成長を錦の御旗にして突っ走ってきました。経済が成長すればその先に幸せがある、と信じて。ですが、その先に幸せな暮らしがあったのかというとなかった。金銭的に裕福な立場を得たからと言って幸福感には実はつながらない。そういうことに今、多くの人が気づき始めていると思うんです。イギリスでは、成長とは何か、経済とは異なる物差しで人類の成長を評価する研究が始まっているようです。今の日本社会で日々幸福感を感じて暮らしている人はどれだけいるでしょうか。じゃあ幸せはどこから生まれてくるのかといえば、その1つは心地よいコミュニティの形成だと思うんです。
そのことに、14年前に、17年間暮らした東京から会津へ戻ってきて徐々に気付くことになったんです。東京時代は、子どものころからの夢だった宇宙関係の仕事に携わることができ、仕事の内容もとても充実していたのですが、当時とは違った物差しが備わった今の視点で幸福度を考えれば、この会津で木や漆に関わる仕事をし、地域を意識しながら暮らす方が幸せなんだろうと感じるようになりました。会津で働き、暮らすことに楽しさを感じているんです。
──では東京の仕事を辞めて実家を継いだことを後悔したことは?
勤めていた会社はその後、競合他社と合併してオンリーワンの盤石な経営基盤になりましたし、同僚の様子を見ると充実した社会人生活を歩んでいるようです。あのまま残っていたら組織の中でどんな役割を担っているんでしょうね。会社を辞めて実家に戻ることは、親からの依頼ではなく、私が自分の意志で決めたことです。経営状況が落ち込み、改革が必要な状況であることは、戻る前から感じていましたし、楽でないことは百も承知で飛び込んだ世界ですので、後悔をしたことはありません。
会津愛
──会津の好きな点は?
まず山や湖、おいしい空気など豊かな自然に恵まれている、地球を近く感じられるという点がひとつ。また、この土地の地形を活かして暮らしてきた先人たちの知恵や文化、民俗学的な視点でも魅力にあふれていて楽しい。会津は縄文時代からずっと、人が安心安全を求めて辿り着き定住地として選んできた場所としての経緯がありそうで、東日本の重要な地域としての歴史を刻んできました。知れば知るほど興味深い地域です。
会津の風土を表す言葉に「会津の三泣き」という言葉があります。1.会津に来て最初の内は地元コミュニティに入れなくて泣き、2.慣れてくると会津の人情に触れて泣き、3.会津から出ていくときに離れがたくて泣く、というものです。確かに会津に来る人はみんな独特の空気があると言うんですよね。そういう風土と固有の癖というか精神性みたいなものがどこから生まれているのか、とにかく会津はおもしろいと感じます。
ハーバード大学の教授陣が何代にも渡って行った75年間の調査で、人はお金だけでは幸福感は得られないという結果が出ています。貧乏か金持ちかは関係なく、最も幸福度が高かったのは、家族や友人、地域の人々などと良好な人間関係が築けている人でした。会津はそういう幸福感を感じられる地域の一つだと思いますね。
会津に帰ってきて10数年、ぼんやり感じていたことが、特に震災以降に意識が徐々に明確化してきたかもしれません。東京で暮らしていた時は地域の人たちとの繋がりどころか、隣に誰が住んでいるかすらあまり意識していなかったし、たまたま同じマンションの住人と会っても軽い挨拶程度の関係でしかありませんでした。住んでる地域に貢献することはほとんど考えてなく、いかに会社で働くことを通して社会に貢献するか、そして少しでもいいサラリーを得て、家族にハッピーな暮らしを提供できるか、気の合う趣味の合う友だちとプライベートを充実させられるかという生き方であったことにだんだん気付いてきました。
それはある意味楽だったんですが、会津に帰ったら、地域の人間関係がとても濃いんですよね。時には面倒だと感じることもありますが、それがとても大事なんだということがわかった。その集落で自分がどのような役割を担えるのかが人間が生きていく上での原点ですからね。若い頃はあれほどこんな田舎から出たいと思って東京に出て、17年間、充実した学生生活~社会人生活で東京人に交ざっていたつもりでしたが、今は出張で東京に行ってもできるだけ早く会津に帰りたいと思ってしまっている自分がいたりします(笑)。
東日本大震災でスイッチが入れ替わった
──帰ってきてからすぐ会津愛に目覚めたのですか?
マクドナルドもない街から飛び出したくて東京に出た私が、会津に帰ってきて最初の数年はスターバックスもない田舎にやはり不満を感じていました。でも今はスタバがない街が誇らしいです(笑)。
もっと地元のために働きたいと思ったのは、やはり東日本大震災がきっかけですね。福島原発の事故で、福島原発で作られていた電力がすべて東京に送られていたことを知り、愕然としました。いかに自分が無知であったか。その後の政府や東電の対応の顛末。いまだ解決の道すら見えてきていませんが、一連の流れで、東京と地方の意識のギャップを痛感しましたね。中央政府と地方行政とのギャップというより、中央経済と地方経済のギャップ。そこに横たわる都市部で集団化した群集の無責任感というか。これまでの地方の存在は、モンスター都市・東京のための植民地のようなものだったのかもしれません。だから、地方はもっと東京の消費に頼らなくてもいいように、自立した生き方を模索しないといけないな、と感じています。展示会の多くは東京で開催されていて、全国から人が集まりますが、これからは地方から東京を詣でるのではなく、東京の人たちをもっと会津に来させるようにできたら最高なんですけどね。(以下、後編に続く)
関 昌邦(せきまさくに)
1967年福島県出身。株式会社関美工堂代表取締役
子どもの頃に観たテレビ番組などの影響で宇宙関係の仕事を志す。会津の高校卒業後、明治学院大学法学部に進学。1992年、衛星通信・放送事業を行う宇宙通信株式会社(現スカパーJSAT株式会社)に就職。DirecTV(現スカイパーフェクTV)の立ち上げなどに従事。2000年、宇宙開発事業団/NASDA(現宇宙航空研究開発機構/JAXA)に出向。将来の通信衛星をどのように社会に利活用できるかを目的としたアプリケーション開発に従事。2003年、会津にUターンし、父親の経営する株式会社関美工堂に入社。2007年、代表取締役社長に就任。BITOWA、NODATE、urushiolなど新しい会津漆器のブランドを立ち上げ、会津塗りの新境地を開拓。その他、自社製品を含めた会津の選りすぐりの伝統工芸品や、世界各地から取り寄せたデザイン性にすぐれるグッズを扱うライフスタイルショップ「美工堂」などの運営を通して、会津の地場産業の素晴らしさを国内外に発信している。
初出日:2016.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの