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2016.06.22  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

仕事論

戦後、戦没者追悼など長年の平和への功績が認められ、海上自衛隊から感謝状を授与された

戦後、戦没者追悼など長年の平和への功績が認められ、海上自衛隊から感謝状を授与された

──池田さんにとって働くということはどういうことでしょう。

仕事として何かをするということは人間だけにできること。そこが他の動物と違う点。そういう意味でね、とても重要でおろそかにしちゃいけないことの1つだと思う。


──戦争中は国を守るために、戦争が終わってからも国の復興のために働いてきたわけですが、働くことに対する思いは?

祖国のために働くというのは一貫してるね。


──自分のためにと思ったことは?

池田武邦-近影07

それは1度もなかったなあ。確かに働いたら結果的に自分のためにもなるんだけど、それはあくまでも結果であって目的ではない。何のために働くかで、最初に「自分のため」が来るのは嫌だな、僕は。まずは「国や人のため」がある。働くことが自分のためだけだったら僕はちょっとさびしいなあ。まあ僕の場合は時代のせいもあるけど、そもそも自分のためという発想がなかったからなあ。

61歳でヨットレースで優勝

──現役でバリバリ働いていた頃、家族との時間は取っていたのですか?

いや、現役のときは仕事一辺倒だった。ただ、海と船が大好きだから、会社に入ってからヨットを買って、5月やお盆、年末年始の休暇には家族をヨットに乗せて伊豆七島や九州まで出掛けてました。ヨットの名前はやっぱり「矢矧」。ヨットレースにも出場して、1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースで優勝したんだよ。矢矧には3代続けて、80歳を過ぎても乗ってたんだけど、最後は長崎ハウステンボスに寄付しました。行けばいつでも乗れるようになっていたんだ。今でもたまに海には行きますよ。もう眺めるだけだけどね。やっぱり海を見ると非常に心が安らぐんだ。海は僕の原点だからね。

最後の船となった矢矧Ⅳ。右は池田さん自身が描いた矢矧。絵の腕もプロ級である

61歳の時、チームキャプテンを務めた小笠原ヨットレースで優勝

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矢矧Ⅳ建造中(コクピット部分)

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矢矧Ⅳの竣工式

とにかく後顧の憂いなく世のため人のために全力で働けたのは妻や子どもたち、家族のおかげだよ。それは痛感してる。だから今、妻があまり健康ではないので、妻のために尽くさなきゃと一所懸命恩返してるつもりだよ。

邦久庵

──池田さんは2001年から10年間、長崎県の大村湾にご自宅を建設されて実際に住んでいたそうですね。

池田武邦-近影08

長崎県の大村湾に土地を買ってプレハブの小屋を建てたことは前にも話したけど、本格的に住むためにちゃんとした家を建てようと思ったんだ。若い時に散々近代建築をやってみてわかったんだけど、日本の場合、近代建築よりも江戸時代の建築の方が優れているんだよ。エアコンなんかなくたって、快適に暮らせる。だから大村湾に建てた家は茅葺屋根で、釘も1本も使っていない昔ながらの日本の伝統工法を使ったんだ。この家は自分の名前と妻の名前から1字ずつ取って「邦久庵」って名付けた。

木材は地元で採れたものを使用して地元の大工さんに建ててもらった。やっぱり家を建てる際はその土地の気候風土で育った木を使うのが一番いいんだよ。この家は地産地消と伝統工法の伝承を目的として建てたんだ。囲炉裏のある居間と台所と畳の寝室だけの質素な造りで、もちろんエアコンなんてなかったけどこの家で暮らした10年間はとても楽しかったなあ。自然と調和した暮らしでね。大村湾に面した広いデッキからは毎日海が眺められるし、朝日と夕日を毎日拝んでいると、太陽が出たり沈んだりする位置が微妙に変わっていくのがわかるんだ。こんなことは都会のコンクリートで覆われた家に住んでてもわからないよね。

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2001年、大村湾の岬の先端に建てられた邦久庵。現在は損傷がひどくなっているという

邦久庵のデッキ。目の前に広がる大村湾を眺めながら過ごすひと時は格別

邦久庵の囲炉裏(写真左)と和室(写真右)

──今後の人生をどういうふうに過ごしたいですか?

池田武邦-近影09

今後も何も、僕に残されている時間はあともう少ししかないから、1日1日大事にしようと思ってますよ(笑)。もうとても大それたことはできないから、とにかく人に迷惑をかけないように残りの人生を生きていきたいよね。今は与えられた命を無駄にしないように健康には気をつけてます。毎日東京の郊外にある自宅の近くを散歩してるんだ。ちょっと歩くと小川が流れててね、水が湧き出てて、大きな鯉が泳いでいる。歩くといろんな風景が見られて楽しいよ(笑)。


池田さんのご子息からのメッセージ

父・武邦は邦久庵を終の棲家として建てました。しかし残念ながら風光明媚なあの場所は車がなければ買物はもちろん、外出すらままならない不便な場所です。不便だからこそよいのだと父は言っていましたが、車の運転ができなくなった老人二人が生活できる場所ではなかったのです。それで7年前、 父が85歳の時に「邦久庵でこれ以上2人だけで生活するのは無理だから」と説得して東京に戻ってもらいました。

その後の邦久庵は、地元の方にお願いして時折害虫駆除のために囲炉裏へ火入れしていただく時以外は、まったくの空き家状態となっていました。問題なのは、空き家状態であったこの7年間で邦久庵の傷みがひどくなってきていることです。調べてみるとシロアリ被害が梁にまで広範囲に広がっている上に、室内には獣が歩いた形跡までもがあったとの報告を受けています。また、先日、邦久庵の上空にドローンを飛ばして撮影した映像も届いたのですが、人の気配がしなくなった茅葺屋根は鳥が巣作りのために持って行ってしまうのか想像以上にボロボロになっていました。

さらに先日、邦久庵のベランダ脇に保管してあった手こぎボートが盗難に遭ってしまったのですが、とても一人で運び出せる代物ではありません。複数人による犯行と思われます。警察に盗難届けは出したのですがいまだに見つかっていません。犯人が誰だかわかりませんが空き家状態で不審火など出されたら大変です。

「邦久庵は釘を1本も使わずすべて自然に還る素材で造られてあるので、そのまま朽ち果てても問題ない」と父は言っていましたが、このままでは今、社会問題にもなっている廃屋となってしまいます。

父は92歳という年齢からも、残念ながら彼自身の力でこの問題を処理できず、代わりにこれまで私が補修などいろいろ手を尽くしてはきたのですが、一介の大学講師である私には財政的にも時間的にもこれ以上の維持管理は難しい状況です。かといって邦久庵は取り壊すにも相当な費用のかかる建物なのです。私は今、進む事も退くことも難しい状況に陥っています。

これを読んでくださっている方の中で、どなたかよいお知恵をご教授くださる方がいらっしゃればこちらまでご連絡いただければ幸いです。よろしくお願い致します。

池田邦太郎


2024年4月 追記
上記の記事と息子さんからのメッセージを読まれた、日本設計のご出身で現在は東京大学大学院の永野真義助教が手を挙げてくださり、紆余曲折ある中で邦久庵倶楽部を立ち上げられました。こちらを追記した2024年4月現在も、保全活動ほかで活発に活動されています。
詳しくはこちら


インタビュー前編はこちら
インタビュー中編はこちら

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月6日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.22 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの