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2014.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/山田泰三

日本で初めてブラウンスイス牛を導入

ブラウンスイス牛

そのため、山地酪農に適した牛を探しました。世界には牛を野山に放牧している国がたくさんあるので、ヨーロッパを中心に世界のあちこちを訪ね歩いてみた結果、山にいたのはブラウンスイスという種類の牛でした。ブラウンスイス牛はヨーロッパで育成された品種で、足が長く乳の位置が高いから地面にすれないし、斜面の登り降りが得意なので山地酪農に適しているんです。それに牛乳の栄養のバランスがものすごくよくて、チーズを作ると歩留まりもとてもいいので、ブラウンスイス牛を飼いたかったのですが、当時日本でブラウンスイス牛を飼っている畜産農家はいませんでした。当時は農水省の規制が厳しく、乳牛としてはホルスタインしか認めていなかったのです。そこで農水省に輸入飼料に頼らない山地酪農を行いたいからブラウンスイス牛を輸入したいと話したところ、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場として認めてもらい、15頭導入しました。

牛舎は山の中腹の平地にあり、その上が急勾配の山地になっていて、朝、搾乳を終えて牛舎を出た牛は山に登って草を食み、夕刻になるとまた自分で牛舎に帰ってきます。牛一頭一頭の世話がおろそかになるので、規模を大きくするつもりはありません。目が行き届く規模がちょうどいいのです。また、あまり過保護には育てません。ある程度のひもじさ、寒さ、難儀を与えることで心身ともに健康な牛が育つのです。

また、日登牧場は障害者とお年寄りの共同就業の場にしています。一緒に牧場を作った大坂くんはクリスチャンだから、牧場を作るとき、「人は生まれてきたからには存在する意味が必ずあるから障害者と年寄りの働く場として牧場を作ろう」と言ったからです。大坂君は仕事中の事故で亡くなりましたが、牧場の入り口には「闇夜に当てどのない旅人がはるか向こうに見える灯火のような牧場にしたい」という彼の言葉が刻まれた石碑を建てました。大坂君がいなかったら今の日登牧場はありません。

たいへんなことも楽しみに変わる

──有機農法から始まり、パスチャライズ牛乳やブラウンスイス牛の導入など、日本で初めて取り組んで成功させたことがこれだけ多いってすごいですね。

日本初だからどうこうという意識は全然ありません。今ここで私は何をすべきか。それだけを考え、出した答えが有機農法でありパスチャライズ牛乳。それだけのことです。


──でも誰もやったことのないことに挑戦するのはたいへんなこともたくさんあると思うのですが、途中でやめようと思ったことはないのですか?

誰もやったことのないことをやろうと思ったら、最低10年はかかると思わなければいけません。10年するとやっと入り口が見えてくる。初めからそういう覚悟で臨みます。こらえ性がなければできないでしょうな。ただ、本当に必要なことだと思えれば、たいへんなことも楽しみに変わるもんです。


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佐藤忠吉(さとう ちゅうきち)
1920年島根県生まれ。木次乳業創業者。現在は相談役。

小学校卒業後、家業の農業に従事。1941年から6年間、中国本土で軍隊生活を送る。1955年から仲間と牛乳処理販売を始め1969年に木次乳業(有)社長に就任。1950年代から有機農業に取り組み、1972年木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。1978日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。1989年、自社牧場として「日登牧場」を開設。日本で初めてブラウンスイス種を農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場となる。1993年、かつての日本にたくさんあった、小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた「地域自給に基づいた集落共同体」の復活を目指しゆるやかな共同体を発足。野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。生涯一「百姓」として、地域自給、村落共同体の再生に取り組んでいる。その実践は、農村の保健・医療・福祉の向上にも尽くしたとして、日本農村医学会の「日本農業新聞医学賞」を受賞。2012年雲南市誕生後、初の名誉市民となった。

初出日:2014.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの