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2014.12.01  取材・文/山下久猛 撮影/山田泰三

日本人は無理して牛乳を飲む必要はない

──日本人は牛乳を飲まなくていいとはどういうことですか?

日本人は遊牧民族ではなく定住民族だからです。定住民族として長い時間を生活する過程で腸管が長くなったりして体の構造が牛乳に合わないようになっているんです。日本人の中には牛乳を飲んだらお腹を壊してしまう人もたくさんいるでしょう。

人の赤ちゃんにとって一番いいのは言うまでもなく母乳です。母乳は殺菌処理なんかしないで生でそのまま飲みますよね。でも中には母乳が出ないお母さんもいるし、戦後急速にグローバル化が進んで食文化が多様化していく中で一般的に牛乳を飲む機会が増えました。たまたま酪農を始めた以上は、まっとうなものを出しましょうというのが私の基本的な方針です。そこをわきまえていないと、まがい物を人に強要することになります。それだけはしたくない。だから作る際も、まず自分自身や自分の子どもが食べ、飲むものならどう作るべきかを考えます。

だからパスチャライズ牛乳を作った当時も今も「パスチャライズ牛乳は大量生産できません」「日本で一番うすくて美味しくない感じの牛乳です」とうたっているし、製品のパックにも「赤ちゃんには母乳を」「お母さん方へ お母さん 赤ちゃんにはあなたの母乳を差し上げてください。母乳こそ赤ちゃんの最高の食べ物です。」と、刷り込み、牛乳を運ぶ車にも書いているのです。


──普通はそれだけ苦労して作った牛乳ならできるだけたくさん売ろうとしますよね。

だから乳牛で会社を大きくしようなんて思ってないんです。もしそれが普通だと思うなら、あなたの考え方が間違っとるんです(笑)。

山で牛を育てる

──その牛乳を作る牛も日本では珍しい山地酪農で育てているということですが、山地酪農とはどのようなものなのですか?

日登牧場の山の中に牛たちが放牧されている

1989年、有機農業を一緒にやっていた農家仲間と一緒に山の中に日登牧場を開設しました。元々は、戦後、良質な土や草のある耕地の大部分は道路になったり工場が建てられたりとどんどん少なくなっていってしまったので、牛を育てる場所が山しかなかった。それにそもそもは牛も野山にいた生き物なので、山で育てることにしたんです。

始める際は北欧の酪農思想からも大きな影響を受けました。彼らは食文化の伝統をものすごく大事にしています。7、80頭の牛を山で飼いながら、林業や農業もやるという複合経営で、牛から絞った牛乳は生にこだわっていました。

日登牧場の牛舎にいるブラウンスイス牛

牛を牛舎でつなぎ飼いにする場合、主なエサはトウモロコシなどの穀類です。そのエサはほとんどがアメリカなどからの輸入に頼っており、国際相場でトウモロコシ価格が上がればエサ代も跳ね上がります。以前もトウモロコシ価格の急騰で窮地に立たされた畜産農家がたくさんいたでしょう。そうなったときでも輸入飼料に頼らない、自給できる酪農を目指して、牛を山に放牧し草を中心に食べさせる山地酪農を始めたわけです。

佐藤忠吉(さとう ちゅうきち)
1920年島根県生まれ。木次乳業創業者。現在は相談役。

小学校卒業後、家業の農業に従事。1941年から6年間、中国本土で軍隊生活を送る。1955年から仲間と牛乳処理販売を始め1969年に木次乳業(有)社長に就任。1950年代から有機農業に取り組み、1972年木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。1978日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。1989年、自社牧場として「日登牧場」を開設。日本で初めてブラウンスイス種を農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場となる。1993年、かつての日本にたくさんあった、小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた「地域自給に基づいた集落共同体」の復活を目指しゆるやかな共同体を発足。野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。生涯一「百姓」として、地域自給、村落共同体の再生に取り組んでいる。その実践は、農村の保健・医療・福祉の向上にも尽くしたとして、日本農村医学会の「日本農業新聞医学賞」を受賞。2012年雲南市誕生後、初の名誉市民となった。

初出日:2014.12.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの