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2016.12.15  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

営業部での仕事

──営業部では具体的にどのような仕事をしていたのですか?

関昌邦-近影4

事故や事件などが起きている現地の映像を得たいとか、どこから映像を送るかわからないという場合など、地上の光ケーブルや無線での伝送が難しいところでは、人工衛星が有効です。ほしい映像や解析データなどをリアルタイムに得るためには、民間の人工衛星の通信回線を利用しているのです。

その自社保有の通信衛星の通信回線の使用権を中央省庁やその外郭団体などに売り込んでいく仕事をしていました。当時、営業部の中でも官公庁や自治体をターゲットとする部門は、将来計画も含め安定的に大きな収益が見込める部門でした。電気通信事業法に抵触するので今となっても大まかにしか言えませんが、防衛庁(当時)や警察庁の情報網、自治省(当時)は防災のネットワーク、つまり大災害で地上回線が壊滅した時のバックアップ用として通信衛星の回線を利用していました。電源さえ確保できれば音声、画像、映像などのデータが送れます。


──営業の仕事はどうでしたか?

一般的には、配属されたばかりの新人には、既存顧客対応を通して営業の役割の基本を学び、慣れてきたら新規開拓営業にも行く、というのがセオリーだったのではないかと思うんですが、なぜか私だけ新規開拓営業から始めさせられました。他にそんな人はいなかったし、上司は鬼のように厳しかったものですからかなりつらかったですね。

地上の光ケーブルだけでは業務上の問題がありそうな省庁に飛び込み営業しに行くのですが、いきなり行ったってまともに話なんて聞いてもらえないわけですよ。僕の方も専門知識がそれほどないので、行く先々で5秒と話がもたない。資料をもってきましたと挨拶しても相手は「そこに置いといて」と言うだけで目も合わせてくれません。でも毎日通ううちに、徐々にお茶を出してくれるようになったり、少しですが話を聞いてくれるようになり、最終的には契約までこぎつけました。官公庁は数カ年の予算計画に基づいて国民の血税を使うので、予算化から実行までに数年かかる。成約までにかかる時間と準備が膨大ですから、それだけに契約に至ったときのうれしさ、達成感たるや言葉では言い表せませんでしたよ。

被災離島で危機一髪、南米でのロケット打ち上げ

──当時の仕事で特に印象に残っているものは?

関昌邦-近影5

ある島で大規模な噴火が起こった時、その状況を東京で監視するために、自社の通信衛星を使って現地の映像をリアルタイムで某省庁に送ることになりました。それが私が営業部に配属になって初めて取った契約だったんです。

そのためには、現地住民が避難しているさなかに島に渡って、通信衛星にアクセスできる通信機器(地球局)を設置しなければなりません。その設置作業ができるのはエンジニアなのですが、現地には大規模噴火による有毒ガスが大量発生している。通常の商談では、地球局の設置現場はエンジニアに任せ、営業が足を運ぶことはあまりないんです。でもこの案件は命の危険が伴うし、僕が取ってきた仕事でエンジニアだけを危険な現場に送るわけにはいかない。営業マンなんか現地では何の役にも立たないけど、荷物持ちくらいならできる。そんな思いで自衛隊のサポートで、エンジニアと一緒に噴火中の島に渡ったんです。

現場作業に立ち会ってしばらくすると、息が苦しくなって激しく咳き込むこともありました。おかしいなと思って見上げると、山頂付近からガスっぽいものがこちらの方に降りてくるのが見えました。風向きによって濃いガスがフワッとこっちに来た時に呼吸すると咳き込んだりしたんだと思います。そうこうしている間に、自衛隊員のガス警報器のアラームがけたたましく鳴り響きました。自衛隊員から「あと3分以内に機器設置が完了できない場合は、そのままの状態で退避します」と言われ、大急ぎで設置し、無事帰ることができたんです。この時のことはいまだに忘れられませんね(笑)。

宇宙通信時代の関さん。顧客だった防衛庁(当時)主催の海上自衛隊の観艦式にて

宇宙通信時代の関さん。顧客だった防衛庁(当時)主催の海上自衛隊の観艦式にて

また、2000年2月に自社衛星の打ち上げに立ち会う機会に恵まれたのも大きな思い出ですね。民間ロケットは、当時はまだ日本は参入以前で、それこそNASDAで実験最終段階でした。社運をかけたSUPERBIRD B2号機を打ち上げるのは、赤道直下の南米仏領ギアナのクールーという街。自社のエンジニア、経営陣も現地で打上げをサポートする中、私の役割は打上げ予定の通信衛星を利用するユーザーのアテンドでした。打上げ当日、フランス語でのカウントダウン、轟音とともにロケットがリフトオフする瞬間、そして闇の彼方に消えるロケットの炎。このシーンは忘れられません。その後の文字通りの打ち上げ祝賀パーティーも。打ち上げ成功時にはハバナ産の葉巻を吸うのが習わしとのことで、みんなと一緒にくわえながら祝杯をあげました(笑)。ちなみにその時打ち上げた通信衛星は、辛うじてまだ寿命があるのか、運用中だと聞いています。


2000年、ギアナで自社製のロケット打ち上げに立ち会った

他にも忘れられない仕事はたくさんありますが、営業になって4年くらい経った頃、大きな転機が訪れました。

一度あきらめた夢が叶う

関昌邦-近影6

1990年代中頃、NASDAが巨額の税金を投入した国産ロケットの打ち上げに立て続けに失敗したことで、世間から厳しいバッシングを受け、対策を講じる必要に迫られていました。そもそもNASDAなどの国が運営する研究機関は数10年〜100年単位の未来に役に立つ技術を研究・開発することが目的です。こういう事業は、民間企業には不可能な先行投資なので国家の役割として絶対に必要なのですが、あまりにも先の未来のための研究だと巨額の税金を投じる意義が国民には理解されにくい。しかも失敗すれば激しい批判が集中します。かといって、国民にも成果が見えやすい、例えば5年後、10年後に役に立つレベルの研究開発だと、民間の通信衛星事業者に対する民業圧迫になる恐れもある。だからすぐに役立つ、近すぎる未来の研究はできません。

だからNASDAはその中間を取って、国民が理解できなくもない先の未来で、かつ民間企業ではリスクが大きすぎて開発できないくらい先の未来の研究する部隊を新設する。そのために、民間の通信衛星会社でビジネス経験のある人材を集めよう、ということになりました。それでNASDAに飛び込み営業から始まって契約にも漕ぎつけ、しょっちゅうNASDAに出入りしていた私にもお声がけいただき、会社から出向契約という形でエンジニアとしてNASDAで働けることになったんです。当時、文系大卒でエンジニアとして配属される前例がなかったようで、引っ張ってくれた上司は内部交渉で苦労したと言ってました(笑)。


──すごい巡り合わせですね。NASDAに入れた時の気持ちは?

NASDAに入るのは小学生の頃からの夢で、一度はあきらめて文系に行って、なのになぜかかなったわけですから、名刺を手にした時、またIDカードを首から下げた時はもうジーンと来ました。本当になんという巡りあわせかと(笑)。


──確かにそうですよね。最初に入った会社、営業部への異動など、どれか1つでも欠けていたら実現しなかったでしょうからね。でも関さんが置かれた場所でその都度一所懸命努力したり、自分から行動した結果だと思います。NASDAでは具体的にはどういう仕事をしていたのですか?

当時研究開発していた未来型の通信衛星、それを有効活用するためのアプリケーションの開発です。民間の事業用の通信衛星では実現できないような最新の通信機能をどのような暮らしの分野で利活用できるか、実験を通して探っていくという仕事でした。

関 昌邦(せきまさくに)

関 昌邦(せきまさくに)
1967年福島県出身。株式会社関美工堂代表取締役

子どもの頃に観たテレビ番組などの影響で宇宙関係の仕事を志す。会津の高校卒業後、明治学院大学法学部に進学。1992年、衛星通信・放送事業を行う宇宙通信株式会社(現スカパーJSAT株式会社)に就職。DirecTV(現スカイパーフェクTV)の立ち上げなどに従事。2000年、宇宙開発事業団/NASDA(現宇宙航空研究開発機構/JAXA)に出向。将来の通信衛星をどのように社会に利活用できるかを目的としたアプリケーション開発に従事。2003年、会津にUターンし、父親の経営する株式会社関美工堂に入社。2007年、代表取締役社長に就任。BITOWA、NODATE、urushiolなど新しい会津漆器のブランドを立ち上げ、会津塗りの新境地を開拓。その他、自社製品を含めた会津の選りすぐりの伝統工芸品や、世界各地から取り寄せたデザイン性にすぐれるグッズを扱うライフスタイルショップ「美工堂」などの運営を通して、会津の地場産業の素晴らしさを国内外に発信している。

初出日:2016.12.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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