WAVE+

2014.12.15  取材・文/山下久猛 撮影/山田泰三

勉強よりも体で覚えることが大事

──94歳とは思えないほどエネルギッシュですね。元気の元は?

食の杜にて

元気の元は楽しむことです。どぶろく作りも楽しいですよ。酒造りといえば今から20年ほど前、アル添酒じゃなくて本物の酒を作ろうと3人の仲間と3年かけて純米酒を作りました。NHKのディレクターと島根大学の北川学長と斐伊川の流域経済活性化のために、斐伊川の上流で米を作って、中流の伏流水で酒を作って、下流に住む町の人々に飲ませるというひとつの物語をこしらえたんです。これが本格的な純米酒の発祥じゃないかなあ。それが今に続いとる。今はイベントになっていて運動性はなくなりましたけどね。最初の1年はどぶろくを作ったのですが、米も無化学肥料、無農薬の田んぼで作った。除草剤をまいたら酒にしたときの香りがなくなるんですよ。そういうことはやってみんとわからんわけです。

そういうことは親父に叩きこまれました。親父が変わり者で、「学校で習ったことや本で読んだことは生きる上で何の役にも立たん。役に立つのは体で覚えたことだけだ」というのが口癖で、とにかく実践の人でした。だから勉強なんかしなくていいと、私は小学校しか行かせてもらえなかったですが、それでよかったと思っています。変に知識がないから人がやったことのないことに何の迷いもなく取り組めるし、実践することで覚えたことがどんどん頭の中に入ってくる。バカでよかったです(笑)。


──今の世の中の人に伝えたいことがあればお願いします。

昔から日本に伝わる祝い事などの行事には意味があります。春の彼岸には土地の神様にこれから農作業をさせてくださいと挨拶する。秋の彼岸はこれから山に入らせてくださいという挨拶する。その時は必ずあずきが出る。春の彼岸はぼたもち、秋の彼岸はおはぎ。同じぼたもちでも春と秋では違う。昔の日本人はそれだけ自然に対する謙虚な気持ちを行事として現していた。我々はそういう日本人の子孫だということを多くの人に知ってもらいたいですね。

いい顔で死にたい

──佐藤さんが生きる上で大切にしていることは何でしょう。

人間常に目標がないといけません。目標がなくなったときにその人の人生は終わる。この世におる以上は死ぬまで人として仕事をしていないといけないと思いますね。


──佐藤さんの今の目標は何ですか?

そのときにおもしろいと思えることがあればそれでいいですよ。変化が止まったときは、進歩が終わったとき。進歩が終わったということは、死を意味すると思っています。

もうこの歳になったらいかに死ぬか。どういう顔で死ぬかということしか考えていません。自身の人生というのは死んだ顔に現れると思っています。その人の死に顔を見て、ああ、この人は納得した人生だったんだな、この人は苦渋の人生だったんだなというのはわかる。私の仲間だった大坂君が牧場で事故死したとき、その死に顔は笑みをたたえていました。本当に納得した人生だったんでしょうね。

私も残りの人生をやりたいことをやるだけです。そうすればいい顔で死ねると思いますから。

佐藤忠吉(さとう ちゅうきち)
1920年島根県生まれ。木次乳業創業者。現在は相談役。

小学校卒業後、家業の農業に従事。1941年から6年間、中国本土で軍隊生活を送る。1955年から仲間と牛乳処理販売を始め1969年に木次乳業(有)社長に就任。1950年代から有機農業に取り組み、1972年木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。1978日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。1989年、自社牧場として「日登牧場」を開設。日本で初めてブラウンスイス種を農林水産省から乳牛として認めてもらい、中山間地を牛の力で開発するモデル牧場となる。1993年、かつての日本にたくさんあった、小さな集落での相互扶助的な生活、教育も福祉も遊びすら含めて生活・生産のすべてを共有していた「地域自給に基づいた集落共同体」の復活を目指しゆるやかな共同体を発足。野菜を作る農園、国産大豆を原材料とする豆腐工房、ぶどう園とワインエ場などが集まる「食の杜」を拠点に、平飼いの鶏が産む有精卵、素材や水、加工法にこだわった醤油、酒、食用油、パンなどの生産者をネットワーク。生涯一「百姓」として、地域自給、村落共同体の再生に取り組んでいる。その実践は、農村の保健・医療・福祉の向上にも尽くしたとして、日本農村医学会の「日本農業新聞医学賞」を受賞。2012年雲南市誕生後、初の名誉市民となった。

初出日:2014.12.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの