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2016.09.15  取材・文/山下久猛 撮影/大平晋也

宗教科の教員免許取得、教師に

中村吉基-近影3

この翌年の1999年、31歳の時には上京以来通っていた上智大学の夜間講座で宗教科の教員免許をようやく取得できました。取得に7年間もかかってしまったわけですが、上京して最初に就職した農業系の新聞社は夜遅くまで仕事をせざるをえず、ほとんど授業に行けなかったんです。その後転職したキリスト教系の出版社はカトリック系の出版社だったので、早退が認められたり、授業料を支援していただいたりして授業に通えるようになり、たいへん助かりました。

そのあと1999年の春に出版社を退職して、千葉県のキリスト教系高校で非常勤講師として勤務し、1年間だけですが聖書の授業を担当することができました。同時に、非常勤だったので、授業のない日はプロテスタント系の出版社で編集補助の仕事をし始めました。

神学校に入学

───牧師の資格の方は?

千葉の高校での非常勤講師の仕事が終わった2000年、32歳の時に東京・目白にある日本聖書神学校に入学しました。社会人向けの夜間の授業だったので、授業は毎日18時から22時まで。昼間は引き続きプロテスタント系の出版社で編集の仕事をしていました。


───神学校に通っている頃は、ご自身のセクシュアリティについてオープンにしていたのですか?

自分がゲイであることは一部の親友を除き、隠していました。というのは、当時牧師になろうとしていたある人が同性愛者であることをカミングアウトしたのですが、これは教団にとってはセンセーショナルな事件で、教団内に激震が走ったんです。当時、同性愛者の牧師を受容する雰囲気はありませんでしたから。その時、私の周囲の先生や友人たちは、「黙って闘うことも闘いなのだ」「事態が落ち着くまで絶対に隠しておけ」と助言してくれたこともあり、公言しなかったのです。それと、将来はLGBTの人でも受け入れる教会を立ち上げたいということも、事前に知られたら認められないだろうと思ったので絶対に言いませんでした。

また、周りには、神学校を卒業したら一般の教会で安定した牧師人生を歩んだ方がいいと言う人もいました。もちろん私には確固たる目標があったので、そういう言葉は全く心に響きませんでした。

決意を新たにしたカナダ研修

──神学校時代に印象に残っている出来事はありますか?

神学校に入って3年目の夏にカナダの教会に実習に赴きました。カナダは世界で最も同性愛者のための法整備が進んでいる国で、カナダ合同教会では、LGBTの人も正式なメンバーとして迎えるという宣言をしていて、実際にたくさんのLGBTの牧師も活躍しているんですね。

そのカナダでの実習でいろいろな人から話を聞いた時に、1つとても印象に残っている話があります。LGBTの人は、子どもの頃は日曜学校などで教会に頻繁に通うけど、10代になり性のことを考えるナイーブな年代になると、教会の中でLGBT拒否のメッセージを受けることで自然と教会に来なくなる。でも、カナダ合同教会はLGBTを正式なメンバーとして受け入れるという宣言をしたことで教会に戻ってくる人が増えて、さらに教団の本部で働いている人たちなども、自身のセクシュアリティをカミングアウトし始めるようになった。それを目の当たりにしたカナダ人の牧師が「今までの教会はどこか欠けていた。でも、LGBTの人たちが教会に戻ってきてくれたことで、欠けていた部分が補われて、より理想的な形になってきたんだ」と喜んでいました。その時に、日本にもそういう教会を作らなければいけないと改めて強く決意したんです。

母の死

中村吉基-近影4

ちょうどこの頃、もう1つ、私の人生に大きな影響を及ぼした出来事があります。それは母の死です。私は一人っ子で小さい頃から病弱だったので、親より先には死ねないと思っていました(父親は私が16歳の時に51歳で他界)。ですので、2002年4月に母ががんで亡くなり、天涯孤独になった時には、大きな悲しみや喪失感はありました。しかしそれと同時に、自分が親より長く生きられたということで少し安堵したところもありました。親不孝しなくてよかったなと。

そして、一人きりになったことで、進むべき道、つまりゲイの牧師としてLGBTの人にも寄り添える教会をつくるという道が最終的に定まったわけです。私は両親に自分のセクシュアリティをカミングアウトしていなかったので、もし親が生きていたら自分のセクシュアリティを公表して、新宿コミュティー教会のような教会を立ち上げて活動することはできなかったかもしれません。


──ご両親にカミングアウトしなかったのはなぜですか?

もしカミングアウトしたら大きなショックを受けるかもしれませんでしたし、そのことで他人から後ろ指をさされかねないと危惧していたからです。

新宿コミュニティー教会設立

──その後、教会はどのようにして設立したのですか?

2004年3月に神学校を卒業して牧師の資格を取得して、その翌月に日本キリスト教団新宿コミュティー教会を設立しました。御存知の通り、新宿二丁目はLGBTが集まる日本有数の街なので、教会の本拠地はここ以外には考えられませんでした。「新宿コミュティー教会」という名称も、この地域の持つ課題と一緒に寄り添う教会になりたいという思いからつけました。

どういう形の教会にするか、例えば新宿二丁目付近に広めの家を借りて住居兼教会として使用しようかなど、いろいろ考えたのですが、とてもそんな資金はなかったので、取りあえず最初はマンションの一室を借りて始めることにしました。新宿二丁目近くにある広さ20平米、家賃月8万円のワンルームで、敷金礼金などの初期費用や教会として必要な備品など全部で150万円ほどを貯金から捻出しました。立ち上げ当初のメンバーは私の他には、私のパートナーただ1人。2人でスタートしたのですが、最初の礼拝には十数名の方々が出席してくれました。

実は設立当初はLGBTだけではなくて、ホームレスの方々も支援したいという思いで衣服や食物を配布していました。その活動を通じて、ホームレスの人たちが野宿している新宿二丁目近辺の公園に10代のゲイやレズビアンが集まっていることがわかったんです。話を聞くと、親にセクシュアリティのことが知られて家にいられなくなり、この近辺で野宿をしながら売春をしているという子も中にはいました。このような現状を目の当たりにして、ティーンズのLGBTへの支援も行うようになったんです。

僧侶の研修会で講演を行う中村さん

僧侶の研修会で講演を行う中村さん

最初のマンションでは3年ほど活動したのですが、徐々に他の教会から籍を移してくださる信徒の方々が増えてきて手狭になったので、新宿御苑前にある40平米くらいのマンションに引っ越しました。広さが2倍になった分、家賃も2倍になったのですが、使用するのは主に日曜日の礼拝だけでしたので、3年後には引き払いました。それ以来、常設の教会は持たず、日曜の礼拝だけ新宿二丁目近くにあるホテルの会議室を借りて行うという現在のスタイルになったんです。

減速して生きる40代に

──牧師になってからも編集者の仕事はずっと続けていたのですか?

はい。牧師としての活動ではほとんど収入が得られないどころか赤字でしたからね。当時は出版社の雑誌編集部の主任になっていて、ある時は4人のスタッフで月刊誌を2誌、季刊誌を1誌編集していました。かなりの激務で、週日フルタイム+残業して働いていました。

2009年頃、40代になって身近に健康を害する人、病気から生命の終わりを迎えた人などがいて、改めて自分自身の働き方を見つめ直しました。これまで神学校に通っていた期間を含めると結局10年間は朝から晩まで休みなしで働いていたことになるんですよね。実際、40代に入った頃から、血圧がすごく高くなっていました。そうでなくても両親を病気で亡くしているので健康な家系ではないし、私自身も小学校2年の時にウイルス性の髄膜炎にかかったり、30歳の時に肺炎にかかったりして生死の境をさまよっているので丈夫な体ではありません。そんな中、せっかく頑張って念願の牧師になったのだから、短命で終わってしまったら元も子もない。だからこれからは自分の体も大事にして健康面にもっと気を配らなければと考え方を変えたのです。

中村吉基(なかむら よしき)

中村吉基(なかむら よしき)
1968年石川県生まれ。日本キリスト教団新宿コミュニティー教会牧師

幼い頃から教会に通い、高校1年生の時に洗礼を受ける。大阪芸術大学卒業後、郷里の金沢に戻り、高校教師に。上京後は農業系の新聞社で整理記者、キリスト教系の出版社で編集者として勤務。同時にキリスト教系の中学や高校で聖書を教える宗教科の教員免許を取得するために上智大学で聴講し、教員免許を取得。1995年、観光で訪れたニューヨークでエイズ患者が教会から排除されている事実を知り、エイズ患者やLGBTに開かれた教会を設立することを決意。2000年、牧師になるために神学校に入学、2004年、神学校を卒業し、牧師になると同時に日本キリスト教団新宿コミュニティー教会を設立。現在は週日の3日を通信社の編集者として勤務し、日曜は牧師として礼拝を行うほか、結婚式の執行、相談者のカウンセリング、教育機関での講演・講義などの活動を行っている。

初出日:2016.09.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの