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2016.06.22  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

長崎オランダ村

──長崎オランダ村は、どういう経緯で手がけられたのですか?

池田武邦-近影01

長崎とは海軍時代から深い縁があるんだよ。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻でアメリカにボロボロにやられても生きて帰ってきた母港が佐世保港だった。その時、近くにあった美しい大村湾が気に入って、いつか平和な時代が来たらこんなところに住みたいと思っていたんだ。戦後はすっかり忘れていたんだけどある縁でそのことを思い出して、大村湾に行ってみた。するとやっぱりすばらしいと感じて、当時地元の役所に勤めていた神近義邦さんという方(後のオランダ村とハウステンボスの社長)を通じて大村湾の入江を囲んでいる小さな岬の先端の土地を購入。プレハブの小屋を建てて、毎年休暇のたびに通っていたんだ。

その神近さんの友人が経営する「松の井」というレストランへよく食事に行ってたんだけど、その店主から店の改修をお願いしたいという依頼を受けたことが長崎オランダ村のそもそもの始まりなんだ。改修するにあたって考えたことは大村湾の自然に調和した店にすること。店は国道に面していてみんな車に乗って来る。だから陸側を表玄関として重視して、裏にあった海はゴミ捨て場になっていた。でも僕から見たら入江の海の方が自然環境としてはるかにすばらしくて価値があった。特に松の井は大村湾の入江の一番奥の最高のロケーションだったから、海の方をメインの表玄関にして、船で海からアプローチしようと提案したんだ。従来の都市計画とはまったく逆の発想だね。こうして松の井を改修してオープンしたのが長崎オランダ村の出発点なんだよ。

完成したオランダ村を視察する池田さん(写真中央)

完成したオランダ村を視察する池田さん(写真中央)

ここから「17世紀のオランダを再現する」という発想のもと、どんどん施設が増えていってテーマパークになっていくんだけど、この発想は神近さんのものだった。鎖国時代、長崎とオランダは密接な関係にあったから、長崎といえばオランダということだったんだろうね。それから僕も実際にオランダに視察に行ったり、専門家に聞いたりして本格的にオランダの建築や国造りを勉強した。するといろんなことがわかった。例えば、オランダの国土は元々低湿地帯で、海面より低い位置に国を作っている。だから台風や高潮に備えて堤防を作って守ろうとしたんだけど、嵐が来るたびに堤防が決壊して町が何度も水害にあっている。それでもオランダは自然を人為的に排除するのではなく、共存するという思想で自然を非常に大事にして国造りを行ってきた。だから今でもオランダはあんまり近代化は進んでいないんだけど、非常に豊かな生態系が残されているんだよ。

それでオランダ村を造るときにね、こういうオランダの思想で造るべきだと提言したの。オランダの大使にもこういう話をしたらとても喜んでくれてね。でも環境を重視するとそれだけ経営を圧迫してしまう。経営のことももっと考えるべきだという神近さんとさんざん衝突してね。でも、最終的には環境の大切さをわかってくれたんだ。

本物の軍艦を造る

1983年のオランダ村の竣工式の時には当時のオランダ国務大臣のヴァン・エッケルさんが出席してくれた。その上、大帆船時代の世界最大の軍艦である「プリンス・ウィレム」号のモデルを寄贈してくれたんだ。さらに神近さんはそのモデルを見て本物を造ってオランダ村に設置しようと言い出した。船の知識をもってるのは僕だけだったから僕が「プリンス・ウィレム」号建造の発注者になって、オランダで全部造ってスエズ運河を通ってシンガポール経由で日本のオランダ村まで輸送したんだよ。その時ちょうど出張でシンガポールにいたから「プリンス・ウィレム」号に乗って日本まで帰ってきたんだ。

こういういろんなことを考えてチャレンジしたことで、オランダ村は来場者の車で付近が大渋滞するほど大成功したんだ。

1985年、オランダで建造した「プリンス・ウィレム」号をオランダ村へ輸送した頃の写真

1985年、オランダで建造した「プリンス・ウィレム」号をオランダ村へ輸送した頃の写真

ハウステンボス

──その後、池田さんは1988年、64歳の時にハウステンボスの建設に着工するわけですが、この時にすでにハウステンボスの構想があったのですか?

ハウステンボス建設中に撮影(右から2人目が池田さん)

ハウステンボス建設中に撮影(右から2人目が池田さん)

いや、それはまったく考えてなかった。そもそもは長崎県が景気対策で大村湾の入り口の一角を埋め立てて工業団地を作ったんだけど、工場が全然誘致できなくて広大な土地が放置、ゴミ捨て場になってた。当時の長崎県知事が長崎オランダ村の大成功を見て、その土地を何とか活用してくれと神近さんに泣きついたのがそもそもの始まりなんだよ。

それで調査してみるとゴミ捨て場になってたから自然環境がズタズタに破壊されていて生態系も瀕死の状態だった。しかも大村湾の一番大事な入り口だからね。大村湾ってね、すごくいいところなんだよ。世界的にも珍しい閉鎖海域でまるで大きい湖みたいな感じなんだ。スナメリというクジラも10万年前から生息している。だからハウステンボスを造る前に、このすばらしい大村湾の自然環境と生態系を蘇らせなきゃと思って土壌の改良から始めて、40万本の木を植えたんだ。

そしてハウステンボスはただのオランダのテーマパークではなく、ここに環境にやさしい21世紀の理想的な循環型都市を造ろうとして取り組んだんだ。

町づくりとして取り組む

──そのために例えばどんなことを工夫したのですか?

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ハウステンボスを訪れたジャック・ニクラウスと

当時の最先端の技術を駆使していろいろやりましたよ。例えば場内に下水浄化施設を作って、場内で使われた水をきれいにしてトイレの水として使ったり、自家発電装置も作って、場内の各施設を動かすエネルギーを自前で生み出せるようにした。大勢の人が来るからゴミも大量に出る。その量1日5トン。そのゴミ処理施設も作って、生ごみはコンポストに運んで馬糞と混ぜて場内の森や花畑の堆肥として使ったりした。

あと大きかったのは、コンクリート護岸だったのを全部取り壊して自然石の護岸に変えたことだな。自然護岸は隙間があって、陸と海の栄養が交換できるから微生物がいっぱい発生してそれが小魚のエサになる。だから豊かな生態系が作られる。陸と海の境目は生態系で一番大事でデリケートなところなんだな。それを隙間のないコンクリートで固めちゃうと水辺の境の微生物が生きられないから生態系が作られないんだよ。だから全部自然護岸に変えたわけ。あとは船で大浦湾のゴミの収集もやったな。

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月3日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.22 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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