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2016.06.13  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

最大の転機

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日本設計事務所時代の池田さん

僕らは自分たちで作った最高のビルの中で働くべきだと、1974年に完成した新宿三井ビルの50階に日本設計のオフィスを移転したんだけど、このことが僕に建築家人生の中で最大の転機をもたらしたんだ。

新宿三井ビルのような当時最先端の科学技術の粋を投入して造られた超高層ビルは自然をシャットアウトして、エアコンなどの技術で1年365日暑からず寒からずな快適で理想的な室内環境を人工的に実現する。バラモン教の理想郷のようにね。実際、僕もそれに何の疑問も感じずに快適に働いていた。

でも冬のある日、朝出勤する時は雨も雪も降ってなかったんだけど、夜仕事を終えてビルから外に出たら大雪が降っていて地面に雪が積もっていた。50階ともなると、窓の外は真っ白で何にも見えないからよもや外が大雪になってるとはわからなかった。エアコンをかけているから寒さも感じないしね。

ビルの外に出たらすごく寒くてびっくりして、思わず雪が舞い降りてくる天を仰いだ。その時、とても気持ちがよかったんだよ。ブルブル身震いするような寒さなのに、自然の中に溶け込んでいくような、安らいだような不思議な気持ちになった。その時、思わず「ああ人間は自然の一部なんだな」とつぶやいたんだ。この時感じたことは今でもはっきりと覚えてるよ。

池田武邦-近影06

そのときはっとした。あれ? どういうことだと。今まで一所懸命、室内の温度や湿度を自動的に快適な数値に調整できる仕組みを作ることに相当神経を使っていて、その結果、人間にとって一番快適な室内環境を作ることができたと思っていた。それなのに、ビルの中から吹雪いている外に出た瞬間、気持ちいいと感じたのはなぜなのだろうと。いろいろ考えたり調べたりした結果、人間は1年中快適な人工環境の中に長時間いることで、本来生物として備わっている体温調節機能が弱まって、意識しないうちにストレスがかかって精神がおかしくなるということがわかったんだ。やっぱり人間は自然の一部なんだよ。それで、それまで人間にとっていいと思って躍起になってやってきた快適な人工環境を作ることが間違いであることにやっと気づいたんだ。


──確かに真夏にエアコンの効いた部屋にずっといると体調がおかしくなりますもんね。

そうでしょう? もちろん、病人や老人、体の不自由な人は快適な人工環境の中で保護しなきゃいけないけど、日本のような春夏秋冬のある国に住んでいる若くて健康な人はできるだけ自然に近い環境の中で、体で四季を感じた方がいいんだよね。

同時にもう1つ感じたことがあった。高度成長期には超高層ビルや工場がどんどん建ち、車も爆発的に増え、高速道路ができ、人々の暮らしは確かに豊かになった。でも一方ではどんどん自然が破壊され、大気や河川、海が汚染され、公害病が蔓延した。それまで近代技術文明が進歩すればするほど人間にとって理想的な都市が作れると思っていたけど、人間の都合のいいように自然環境を変えていくことは逆に人間を不幸にするんじゃないかということも強烈に感じたんだ。

次々と超高層ビルを設計していた頃の池田さん(写真中央)

今まで日本の復興のためにとにかく近代化をしなきゃいけないと思って最先端をひた走り、超高層ビルを次々と設計して超高層ビルの第一人者なんて言われるようになったもんから得意になって、さらにその方向に突っ走っていった。40代、50代の一番の働き盛りのときは僕には何でもできるぞという勢いがあった。でもそういうことに気づいて、これまでとんでもないことをしてきたんじゃないかという不安が頭をよぎった。あの雪の日の体験以来、自分がこれまで正しいと信じてやってきたことに疑問をもったわけだ。

同時に、それまで仕事一辺倒でほとんど家庭は顧みなかったんだけど、父親としての生き方も見直して、週末には家族を誘って僕のヨットで海に出かけるようになったんだ。ヨットの名前はもちろん「矢矧」。湘南の海をはじめ、長い休みの時には伊豆七島や九州などいろんなところへ出掛けたなあ。

池田さんは40歳の時に2人の仲間とヨットを共同で購入。以降2艘のヨットを乗継ぎ、「矢矧」と命名。趣味で乗るほか、数々のヨットレースにも出場、入賞している

でもね、かといってすぐに建築の方向を転換することはできなかった。本当に近代技術文明を追求することに問題があると確信をもって言えるまではね、時間がかかりましたよ。それはとても重い決断だった。だって今まで日本の復興のためにこれが正しいんだと信じ込んでやってきたこと、しかも成功してきたつもりだったから、それを根底から覆されるのは、敗戦の時に感じたショックと同じレベルの衝撃だったからね。

池田武邦-近影07

それにね、数百名の社員とその家族を入れたら数千人の身内の生活を守る責任が経営者としての僕にはあった。そのためには超高層ビルのような大規模な案件を手がけなければいけなかった。その葛藤の中で編み出したのが、建物の中にいる人たちが四季の自然の空気を感じられるような技術。その代表が1988年に完成した新日鉱ビルで、世間からは高い評価を得たんだけど、超高層ビルそのものに疑問をもっていたからとても理想の建築とは思えなかったね。

それでも少しずつ、本来の日本家屋、子どもの頃に住んでいた藤沢の家のように、冬は日当たりよくて暖かく、夏は風通しがよくて涼しい、その土地の気候風土にマッチした、より環境に配慮した建築を目指すようになった。本格的にそれに取り組んだのが長崎オランダ村なんだよ。


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池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者

2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月3日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。趣味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

初出日:2016.06.13 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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