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2017.05.15  取材・文/山下久猛 撮影/那須川薫(スタジオ・フォトワゴン)
取材協力/一般財団法人C.W.ニコルアファンの森財団(一部写真提供)、
宮城県東松島市、児童養護施設支援の会

「うまのひづめ展望デッキ」と「サウンドシェルター」

その後も復興の森づくりは多くの地域住民や県外から参加したボランティアの手で着々と進められていった。2013年から古谷教授と研究室の学生たちを中心に、復興の森の高台に「うまのひづめ展望デッキ」の設置が計画された。「うまのひづめ展望デッキ」は被災したエリアを見下ろせる馬の蹄をイメージした展望デッキで、「森の学校」の一部として子どもたちや地域の人々が故郷を思い、未来を展望できる場所になるようにとの思いを込められている。2014年9月22日、学生たちを中心に施工がスタート。学生たちは2週間ほど仮設住宅に泊まり込み、制作に打ち込んだ。森の生態系に負荷をかけず、製作物がやがて朽ちた時には森に還るよう、金属を1本も使わずに製作するという森の教室づくりのコンセプトが生かされている。

「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ
「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ

「うまのひづめ展望デッキ」制作中の一コマ

しかし、予定通り行かないこともたくさんあった。現場に入ってまずは図面に基づき位置出しを開始したが、事前に幾度か現場実測をしていたにもかかわらず、図面どおりに位置が出せず四苦八苦。試行錯誤を余儀なくされた。また、「うまのひづめ展望デッキ」を設置する場所は山の斜面。傾斜の角度も違えば凸凹もある。そんな場所に水平を出すのはとても大変な作業だった。さらに図面通りに正確に杭を打つ作業が困難を極めた。ここでも図面通りにはうまくいかず、参加した古谷研究室の学生も「杭が一番大変でつらかったですね。杭をプロットしてこの位置だと決めたのに、実際に大びきで見るとけっこうずれてたり、杭を打ち直したり、杭を打ってさらに水平に切り出すのがすごく大変でした」と語っている。そして、デッキ部分のR形状をひづめ型にきれいにそろえることも難しい作業だった。神吉さん他協力者たちと、学生たちは粘り強く調整を重ね、困難な作業を1つひとつ克服していった。最終仕上げを地元住民や協賛企業社員で実施し、2014年10月、ついに「うまのひづめ展望デッキ」が完成した。

作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)
作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)

作業を行った古谷研究室の学生たちとC.W.ニコルアファンの森財団の大澤渉氏(写真左端)、神吉さん夫妻(左から3、4番目)

うまのひづめ展望デッキの竣工式が終わるとすぐに、学生たちは現地でヤブ刈りを行い、森と対話する場所「サウンドシェルター」設置場所の候補を選定。幾度か現場実測を実施し、材料の手配を済ませ、関東・東北豪雨の影響が残る2015年9月13日に現地で施工がスタート。基準となる杭位置を慎重に決め、基準杭を元に杭打ち作業を進めた。次に、杭のレベルを合わせ大びきを木ダボで杭に固定し、大びきにデッキ材を並べた。難しい作業である扇状の位置出しは古谷教授から指導を受けて行った。デッキ材の固定は下面から木ダボを打ち込むが、地面に背をつけての作業になるため、女子学生も全身泥だらけになりながら作業に打ち込んだ。火を囲んで語り合う場のファイヤープレイスには野蒜石を使用。耐火煉瓦が敷かれた。今回も最終仕上げは地元住民や支援企業の社員たちの手によって行われ、2015年11月6日、東松島市市長(当時)の阿部氏ほか関係者など多数が参加して竣工式が執り行われた。

このように、古谷研究室の学生たちはプロジェクトの企画を具現化した成果をもたらしたのだ。(※うまのひづめ展望デッキとサウンドシェルターの制作の模様は動画で視聴できる。こちらこちらを参照)。この際も、神吉夫妻は道具の用意から資材の運搬、施工まで協力している。

生まれ変わった森

森を整備したことでカタクリの花畑が出現

森を整備したことでカタクリの花畑が出現

2012年からの継続的な整備によって、荒れ果てた森は命あふれる豊かな森へと生まれ変わっていった。2013年には眠っていたカタクリの花が顔を出し、2016年3月には一面カタクリの花が咲き乱れるまでになったのだ。これには東松島市復興政策部の高橋部長(当時)も舌を巻いた。「最初に復興の森にニコルさんが来た時、"この森は手入れをしたら花が咲き乱れるよ"と言ったんです。私も地元(野蒜)の人間なのですが、そんな光景は見たことがなかったので半信半疑でした。でも本当にそうなってびっくりしました。山のヤブを刈って光と風が入るようにしたら今まで眠ってたカタクリの芽が吹き出て、花畑のようになったんです。まさに山が生き返ったかのようでした」

復興の森の整備に初期段階から関わっている神吉夫妻も特別な思いを抱いていた。「5年前、この山は数10センチ先が見えないような荒れ果てた山でした。そんな中に入って"本当にこんなところに子どもが来るの?"と思いながらヤブを刈ったり道を作ることは精神的にきつかったですね。先が見えない中での作業ほどつらいものはないですから。とにかく己を奮い立たせながら必死に作業していました。それはみんな同じだと思います。でもツリーハウスができた頃でしょうか。復興の森で森開きをやった時、子どもたちが大勢来てくれたんですよ。その光景を見たとき、報われましたよね。その後、この森で学校の授業が行われるようになって、実際に子どもたちが大勢来るようになったのを見た時はものすごくうれしかったです。頑張ってよかったなと思いましたね。この森を最初に整備する頃から関わってきたことは私としても大きな誇りです」(神吉雄吾氏)

ヤブが生い茂り、荒れ果てていた頃の復興の森

「私自身もそうですが、子どもたちも一緒に整備したことで、森がどんどんよくなっていくという変化を見ているんですね。子どもたちも最初は遊んでいただけだったけど、徐々にちゃんと手入れするようになりました。大人より学ぶスピードが早かったですね。その結果、広場やツリーハウスなどもでき、あの荒れ果てた山からここまで豊かで美しい山に生まれ変わりました。手入れをすればこれだけ居心地のいい森になるというのをまさに身をもって知ったわけです。だから子どもたちもこの復興の森を自分たちの土地として愛着をもっている。これは素晴らしいことだと思います」(神吉恵子氏)

現在は森全体と森の中に造った施設の維持管理を担当している神吉夫妻

現在は森全体と森の中に造った施設の維持管理を担当している神吉夫妻

サウンドシェルターで遊ぶ子どもたちを眺めるニコル氏

サウンドシェルターで遊ぶ子どもたちを眺めるニコル氏

インタビュー第3回はこちら

初出日:2017.05.15 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの