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2016.11.01  取材・文/山下久猛 撮影/守谷美峰

聴講生として入学

──なぜ聴講生を勧められたのでしょう?

先生からは、アランがどういう絵を描くのかを見たかったからだと言われました。日本人の受験生の場合は、学部時代の教授に連絡をすればその人がどういう絵を描くのかがわかります。でも僕の場合は出身大学がアメリカで、カーネギーメロン大学の先生に連絡が取れないので、受験のため提出した作品が本当に本人が描いたものなのか証明のしようがありません。そこで、聴講生なら実際に目の前でどういうふうに作業をするのかがわかるからと聴講生を勧められたんです。その時はもちろんうれしかったですよ。僕は絵の技術が学べればどういう形でもよかったのでもちろんありがたく受け入れました。むしろ聴講生の方が授業料が安いからよかったです(笑)。聴講生として1年間絵を描いた翌年、また受験して今度は合格。正式に研究生になりました。

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婚約した時の写真

このタイミングで教会で知り合ってお付き合いしていた日本人女性と結婚しました。最初はやっぱり彼女のお父さんには反対されましたよ。それも当然ですよね。こんな20代の素性もよくわからない絵描き志望の外国人が娘を幸せにできるのかとすべてのお父さんは不安に思うでしょう。もし僕に娘がいて、僕のような男を連れてきたら同じように思います(笑)。それで、彼女のお父さんに娘さんと結婚させてくださいとお願いしに行ったら、「東京藝術大学の大学院に合格したら結婚を許す」と言われたんです。日本人でも入学が困難な藝大の大学院に入れるほどの腕前の持ち主なら、将来なんとか妻子を養っていけるのではないかと考えたからです。今でもチャレンジを与えてくれた義父とは大の仲良しですよ。(笑)

加山研究室での学び

──加山先生から教わったことで印象に残っていることは?

描く対象を単なる物体としてではなく、1つの魂が宿った生き物として見ることを学びました。これは後の僕の画風にも大きな影響を及ぼした学びでした。うまくいえないのですが、加山先生がおっしゃる言葉は、1つのことでも100の意味があるといった感じだったので、いまだに先生から教わったことをよく思い出します。発言がいちいちものすごく深かったので常に得られることがある。そういうところが素晴らしかったですね。


──技術的な面ではいかがですか?

例えば、西洋画の場合は市販されている絵の具をチューブから出して塗ればいいだけなのですが、日本画の場合は絵の具作りから始まるんですね。毎日炭火を熾して膠を熱して溶かして、岩絵具と混ぜて絵の具を作ります。その膠は急激に熱すると接着力が弱くなるので、徐々に温めることが大事なんです。また、膠は季節、天気、気温、湿度によって状態が左右されるので、生き物を扱う時と同じように、それらに応じて微妙に扱い方を変えなければならないんですね。これらのことが学べたのが大きかったですね。今でも僕の仕事は毎日炭熾しから始まります。たぶんガスでも問題ないのですが、日本画本来の伝統的なやり方でやりたいんです。

アラン・ウエスト-近影8

このように日本画の絵の具づくりは手間暇がかかるのですが、そうやって作った絵の具は1日しかもたないので、1日で使い切れる量を過不足なく作らなければなりません。画材の目分量や適切な温度などの感覚が身につくまでがけっこうたいへんでしたね。

アメリカで西洋画の精神で描いていた頃は、どんな条件下でも機械的に膠を温めていたのですが、描いた後、色が剥がれたり亀裂が入っていました。先程話したうまくいかないときがあるというのはこういうことだったのですが、藝大で膠の扱い方を学んでからはうまくいかないということがなくなりました。

矢立てとの出会い

また、矢立てとの出会いも非常に有意義でした。矢立てとは携帯用の細い筆と墨のセットで、いつでもどこでも筆で文字や絵が描ける筆記用具です。ある日、古道具屋で明治時代の一般の人が描いた絵葉書を見つけた時、線の細いところや太いところが入り混じり、流れるような生き生きとしたタッチで、なんて素晴らしい絵なんだろうと感激しました。当時は鉛筆もペンもない時代。明治時代の人は筆が自身の一部になっているので、筆でごく自然に美しい絵や文字が描けていたわけです。それを見て、僕も被写体を見て描いてる時、筆が紙面に軽く触れているだけなのか、それとももっと強く押しつけているのか、その感覚を養いたい、筆を使っているということすらも意識しないで自然に体の一部として筆を使えるようになりたいと思ったんですよ。それでその時以来26年間、矢立てを肌身離さずもっていて、デッサンはもちろん、はがき、手紙、メモ帳、予定表、注文書など日常生活における書き物も鉛筆やボールペンと鉛筆を一切使わずに、すべて矢立てで書いているんです。その甲斐あって今では筆を僕の体の一部のように自由自在に操れるようになりました。

これが矢立て。朝、墨壺に墨を入れることからアランさんの一日が始まる。毎日使っているので、筆は4~5週間ほどで毛が摩耗して使えなくなるので買い直す。明治期の日本人の多くは矢立てを持っていた

これが矢立て。朝、墨壺に墨を入れることからアランさんの一日が始まる。毎日使っているので、筆は4~5週間ほどで毛が摩耗して使えなくなるので買い直す。明治期の日本人の多くは矢立てを持っていた

──加山研究室に在籍した2年間では日本画をたくさん描いたのですか?

もちろんです。ただ、我ながらバカだったなと思うのが、たくさん描いたのですが、たくさん売ったんですよ(笑)。先生から卒業する前に作品を全部提出するように言われたんですが、もう売れちゃってて全く残ってなかった。非常に困りましたね(笑)。


──どのようにしてそんなにたくさん売ったのですか?

個展を開いたり、あとは口コミとか紹介ですね。直接こういう絵を描いてほしいと依頼される注文制作もかなりやっていました。


──では藝大時代は絵の売り上げだけで生活できていたんですか?

そうですね。あの頃はバブルの最後の頃でしたので、なんとかやっていける時代でした。妻も教員をしてましたから、生活に困るということはなかったです。

藝大生時代。本郷にあったアトリエにて

藝大生時代。本郷にあったアトリエにて

──藝大時代、加山先生から言われた言葉で特に強く印象に残っていることは?

ある日、加山先生から教官室に呼ばれたんですね。何かやらかしちゃったのかな、とおっかなびっくり行ってみると、「アランはなぜ私の教室の入室試験に受かったのか考えたことありますか?」と聞かれました。「そればっかりはわかりません」と答えると、「アランに日本画界の刺激になってほしいから合格させたんですよ」と言ってくれたんです。僕に期待しているよというメッセージを忘れられないような形でいただいたなと、すごくうれしかったのを覚えてますね。研究室は大学院なので手取り足取り教えてくれるわけではないですが、筆使いなどの身につけたかった日本画の技術・技法はもとより、画材の扱い方や絵描きとしての魂など、貴重な教えをたくさんいただいたので、加山先生の研究室に入れいただいて本当によかったと思っています。

最初から自信はあった

──卒業後、日本画の画家としてやっていける自信はありましたか?

ありましたね。当時、ほとんどの絵描きは画廊に依存していました。画廊と契約するとわずかばかりの生活費がもらえ、あとは売れた絵の代金で生計を立てていくというのが常識だったんです。でも1つの画廊と契約したら他の画廊には絵を置けないし、画廊からもらえる生活費もほんのわずか。絵が売れてもたくさん手数料を取られます。だからこれってどう考えても奴隷制的だし、これでは絵描きとして生きていけないんじゃないかと思ったんですね。だから僕は画廊と契約はしないと決めたんです。


──では絵描きとして生活していくために具体的にどうしたのですか?

アラン・ウエスト-近影9

絵描きってクリエイティビティが必要な職業ですよね。それを最大限に生かそうと思ったんです。具体的には、前にもお話した通り、僕は14歳の頃からずっと絵の注文制作をやってきて、藝大時代もたくさん描いてたくさん売っていたので、この注文制作こそ僕の得意分野だし、その豊富な実績が大きな武器になると思っていました。そこで、建築家やインテリアデザイナーにこれまで描いた作品や絵を部屋に設置した写真を見せつつ「僕はお客様のニーズと希望に合わせて絵を描けます」と積極的にアピールしたんです。つまり、建築家やインテリアデザイナーに、彼らの会社に来るお客様に対して僕の絵を勧めてくれるように営業して回ったんです。

もう1つ、注文制作には大きなメリットがあります。日本画は画材代にものすごくお金がかかるんですね。岩絵具や金箔、銀箔、膠などはものすごく高い。それをたくさん使って売れるあてもないのに描き続けるというのは経済的にかなり厳しい。でも注文制作なら画材費はお客様に負担していただけるので、その心配がありません。だから描く前に注文を増やすことに注力したわけです。

とはいえ、さすがに最初からたくさん注文が舞い込むということはなく、家賃や画材費など、いつもどうやって収支のバランスを取ればいいかということに頭を悩ませていました。ですから日本画以外にも版画を刷ったりといろいろしてました。その時、高校時代にスミソニアン美術館のボランティアでシルクスクリーンの技術を学んだことが生きたんです。人生、何でも経験しておくべきですね(笑)。


インタビュー後編はこちら

アラン・ウエスト(Allan West)

アラン・ウエスト(Allan West)
1962年アメリカ、ワシントンDC生まれ。日本画家/「繪処アラン・ウエスト」代表

3歳から絵を描き始め、8歳で画家を目指す。9歳から絵画教室に通い始め油絵を学ぶ。14歳で初めて絵の注文制作を受け、舞台背景などを描く。高校時代は絵画で大きな賞をいくつも受賞。「National Collection of Fine Arts」(現スミソニアン・アメリカ美術館/Smithsonian American Art Museum)で週2回、ボランティアとして学芸員のサポートを経験。大学は競争率50倍という高いハードルをクリアし、カーネギーメロン大学芸術学部絵画科に入学。1年で休学し、理想の画材や技法を求めて日本へ。岩絵具や膠などの日本画の画材と出会い、日本に移住して画家として活動することを決意。1987年、カーネギーメロン大学学部卒業後、日本へ。1989年、東京藝術大学日本画科 加山又造研究室に研究生として入室。日本画の技法や画材の取り扱い方を学ぶ。同時期に日本人女性と結婚。1999年、谷中に自動車整備工場を改築して、アトリエ兼ギャラリー「繪処アラン・ウエスト」を構える。以降、掛け軸、版画、衝立、屏風、襖絵、パネル画、酒瓶のラベル、扇子、着物などに作品を描き、数々の展覧会に出品、受賞多数。仕事の8割が注文制作で、クライアントも企業、ホテル、イベントホール、レストラン、神社、自治体、個人など多岐にわたる。その他、講演、ワークショップ、ライブペインティングなども精力的にこなしている。また「繪処アラン・ウエスト」で能楽などのイベントも開催している。

初出日:2016.11.01 ※会社名、肩書等はすべて初出時のもの

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